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< 脳死 >

 1997年6月、臓器移植法が成立、臓器提供意志のある場合には脳死を
 認め同年10月から施行された。

 この移植法に先立ち、1992年1月23日、総理大臣の諮問機関である
 「臨時脳死及び臓器移植調査会」の答申が発表された。

 「近年の医学や生物学の考え方では、人を意識・感覚を備えたひとつの
  生体システムあるいは有機的統合をなす個体と捉え、この個体としての
  死をもって人の死と定義する。」

 具体的には、人の生は、身体の各臓器が精神的肉体的活動や体内環境の維持
 のために有機的統合性を保って機能している状態で、こうした統合性が
 失われた状態が死であるということになる。

 この統合性を保っているのが「脳」であるから、脳の死は人の死という論理。

 脳死の判定基準は1985年厚生省の脳死に関する研究班が設定した
 竹内基準なるものが適切であるとしている。

 ・深昏睡
 ・自発呼吸の消失
 ・瞳孔の固定
 ・脳幹反射の消失
 ・平坦脳波状態
 ・以上の条件の状態になり6時間経過する

 上記6つの条件を満たした場合、脳死となる。

 ここで、ある数字を出しておこう、脳死状態は心臓死状態を先行する。

 しかし、脳死を経て心臓死に至る人は、事故などの頭部損傷、脳血管障害病
 の人に限られ、全死亡者の0.4%から1%にすぎない。



< 脳死への疑問 >

 現実、脳幹反射消失により、脳死を判定された患者が生き返ったり
 脳死状態の産婦が出産し、その子供が無事に成長するパターンが存在する。

 脳死とは脳に焦点を絞った、ある意味デカルト的な生死観に基づいており
 これに対し、異論は学会、その他を問わず続出している。

 では移植の立場に立ってみよう、腎臓は心臓死の状態からでも移植可能
 心臓・肝臓・膵臓・肺臓は脳死状態で摘出しなければならず、臓器移植の
 必要性のある患者にとっては、脳死とは必要不可欠なものだと感じられる。

 しかし、臓器提供を求められる患者の家族や担当医からすれば
 心臓が動いている患者が死んだと認識できるのであろうか、やはり少しでも
 長く生かし続けたいと思うであろう、ここに心情の難しさがある。

 宗教がすべてではないが、神道界は脳死に否定的であり、立正佼成会は脳死は
 脳中心主義の生命観にすぎないと反対、大本教も心拍のあるうちは
 死ではないとしている、仏教界は臓器移植を菩薩行と讃える反面、
 他人の臓器までもらってまで生きようとする生への執着を嘆いている*?

  *仏教界は未確認

 臓器移植法に「臓器提供の意志のある場合に限り、脳死を死と認める」
 としたのは、様々な配慮があったことは間違いないだろう。



< 心臓死へのこだわり >

 正直、日本の民俗視点からすれば脳死は受け入れられないのかもしれない。
 「血をみる」「血気盛ん」「血がさわぐ」・・・血というものは科学的な側面を
 横にして、昔から生き血を飲んで活力を得たり、豊作を願って大地に血を
 そそいだりして血=生命の躍動と捉えてきた、そして、その血を送り出す
 心の臓は命の源(大元)という感覚が古代からあったのではないだろうか。

 血に基づいた人間関係、血統重視(天皇家に代表される)、本来世襲でない
 住職の系譜を血脈譜と呼んだり、起請の際の血判の慣習などなど
 血の継承や結合は、民間にも数多く残り根付いている。


 日本人は生の根源は、生物学的な血に加え主食の米を食することにより
 穀霊を通して身につく霊魂であると信じてきた。

 祭りや田植え・稲刈り、運動会など、霊魂の発動の必要な場合は
 ご飯を三角錐の形ににぎった「ムスビ」や餅を食べたのだ。

 「ムスブ」という語は霊力の発動を示す、柳田国男は「食物と心臓」において
 ムスビや餅の形は心臓になぞらえたものであるとしている。

 ここから連想すると、心臓から出る血というものは、握り飯内の私たちが
 食する米、その穀霊によってもたらされているということになる。

 だからこそ、穀霊をもっとも充満させ、活力をつけるために食する握り飯を
 心臓の形になぞらえ握ってきたのである。

 死の迫った人や死魔にとりつかれがちな産婦に生米を噛ませることにより
 心臓を活性化する試みもなされている、日本人は米にやどる穀霊を身につけ 
 血の源泉である心臓を活性化することにより生が成り立つと信じてきた。

 と、考えるならば、日本人が心臓を中核にした生命観を大切にしてきた結果
 動いている心臓を取り出し、他人に移植することにためらいがあると
 考えることは、ある意味、正直な反応と思えるのである。


 脳死と心臓死、当事者は意識を失っている状態だから、迷う迷わないという
 判断は無きに等しい、問題は自分の親族や愛する人が脳死状態を迎えた際に
 私たちがどのような感情を持ち、苦しみ悩み、「脳死」を受け入れられるのか
 臓器移植して欲しい側からすれば、脳死は歓迎すべきことだろうが
 臓器を求められる側は、そのように割り切った考えを持てるのだろうか?

 潔くかっこいいことは言える、自分の脳死状態は、意識がないのだから
 受け入れる受け入れないという判断から省いて、自分に関係する人々の
 「脳死」を、その場ですんなり受け入れ、はいどうぞと言えるかと聞かれれば
 私は、正直、自信が無い。


 次回は、「生と死のはざま・・・安楽死等」です。



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最終更新日  2006年02月04日 11時10分47秒
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