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『美味しんぼ』の鼻血の件、産経新聞の記事を読んだ。 「『因果関係がない』という証明を出せ」などと言われたら、幼児性に呆れるだけではなかろうか?それは、いわゆる無実の証明を求めるという意味の「悪魔の証明」で、知的レベルとしては、子ども同士の口喧嘩での「混ぜっ返し」に等しい。「お前のかあちゃんデベソ」「お前のかーちゃんこそデーベソ」。「お前のかあちゃんデベソ」と言われたら、おうちに帰ってかあちゃんのおへその形状を確認し、出来れば写真に撮って、出べそではない旨を立証するのが、科学のはずである。 低放射線によって鼻血症状が起きるという仮説を立て、それがいかに精緻なものであっても、圧倒的多数に症状が現れない現実があれば、否定されるしかない。「お前のかあちゃんデベソ」と言っても、そのかあちゃんが、昔グラビアモデルか何かで、デベソでないことが、かなりの人間の周知の事実であれば、言われた側が立証する必要はあるまい?その仮説は、現実の前に一瞬で吹き飛んでおり、そもそも論外でしかない。 それでも、もし、その仮説を維持したいのなら、なぜ圧倒的多数に症状が現れないのか、科学的に立証しなければならず、また、ごく一部の人間にのみ、放射線の影響が現れるのであれば、その理由を科学的に説明しなければならない。つまり、グラビアモデル当時の写真や映像には、加工の疑義があると、その疑惑部分を説明しなくては始まらないのである。 ごく一部の人間に鼻血が生じ、その鼻血が放射能のせいだと勝手に思い込み、似非科学なのか科学的知識の乱用なのか、それらしく見える理屈付けをして満足して、「違うと言うなら、違うと証明して見せろ!」などと言ったら、駄々っ子がむずかっているだけになる。挙証責任は、『因果関係がある』とする側のもので、無いとする側は「だってほとんどの人が症状出てないじゃん!」とか、「『鼻血ブー』がその地域ではやってる統計調査でもしてから言えよな~?」とか、まともに相手をしたいとは思えない難癖の段階でしかないことを、理解すべきであろう。 この場合、鼻血症状の頻度や分布、その統計調査の結果と、放射線量の多寡の分布に、因果関係が認められて、初めて科学的な仮説に成り得るかと思う。何ら客観的裏付けもなく、鼻血症状が増えている、などと主観的なだけの印象を言われても、遺憾ながら、説得力はゼロに等しいのである。 さて、せっかく、この津田教授に限らず、非科学的な個人の思い込みに寛大な、教授様の肩書きを持つ人もいるのだから、そういった方々の協力も仰ぎつつ、(どんどんオカルトになるだけのような気もするが)科学的な批判に耐えるような低放射線鼻血現象のエビデンスを、しっかり調査するのこそが、このご立派なご長寿マンガの掲載誌の発行元で、長らく小学生の学年別総合雑誌を手がけ、日本の子どもに科学的知識を啓蒙してきた、あの、その名も小学館、のやるべき仕事だと、私は思う。 つまり、小学生向けの出版物を扱う企業理念を想起し、日本全国の小学生の諸君に協力してもらって、ご家庭内鼻血調査を大々的に実施すれば良いのである。良い子のおぼっちゃんもおじょうちゃんもみんな嬉々として、おとーさんおかーさんじーちゃんばーちゃん、さらに近所のおっちゃんおばちゃんその他もろもろに、手当たり次第に聞き取り調査してくれるだろう。今からなら、夏休みの自由研究にも、十分すぎるほどの余裕があるではないか?わけのわからぬ遁辞で終わらせず、ご検討頂きたいものである。 もちろん、学級新聞に載せるようなそれが、科学的な統計調査と言えるかは微妙なところだが、少なくとも、食いもんのことばかり考えている年寄り個人の取材を元にした独善マンガを垂れ流すよりは、よほど拝読に値する内容となるはずである。がんばれ、小学館!!
2014年05月17日
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マンガ『美味しんぼ』の内容が話題になっている(朝日新聞記事)。私が受けた印象は、自分にとっての「美味いもん」ばかり食べ、自分が汚染地と思っている場所を、戦々恐々たる思いでうろつくと、鼻血が出たり疲労感を覚えるものらしい、というに過ぎない。新陳代謝の弱まった高齢になっても、若い頃同然の栄養を摂取し、一方で精神的な緊張があれば、むしろ健康体であればあるだけ、それは当たり前で、まして、旅先で温泉に浸かってのんびりすれば、だいたいのぼせて、そんな風になるのものだと思ったのである。 そういった客観的な考察を欠いて、不安感を満たすだけの確証バイアスを、無理無茶の限りを尽くしてかき集め、何が何でも放射能と結びつけたくなったとしても、他人の迷惑を考えれば、自制し、関与しないようにするのが、大人の分別だと思う。そのような自制が効かず、およそ200万もの人々が住んでいる県名をあげ、そこに住んでいるどころか行っただけで体調不良になるなどと吹聴するなど、もはや幼児性精神疾患と見なすしかあるまい。 だいたい、200万人が鼻血で苦しめば、ちり紙屋さんは大喜び、ネピアもエリエールも万々歳、会社の株も上がるはずではないか。ところが、そのような客観的事実は欠片もない。 自然地理の諸条件を無視して、なぜか人為的に定めた県境を超えない縄張り意識を持つ、世にも不思議な放射能汚染を妄想し、お化けに怖がる幼児同然に自分の限定的知識とありふれた空想力の中だけで悶々と悩み、個人的に思い込んだに過ぎないトンチンカンな結論に、確証を与えてくれるようなトンデモ似非科学を無批判に受け入れて妄想を肥大させ、自分の妄想を否定する論理だった科学的な話は、すべて陰謀のように思えてしまう、このような精神状態は、正常とは言えないだろう。もし、この作者と同様の『危機感』を持つ人々が、現在、みんなで「鼻血ブー」にお困りなら、それは集団ヒステリー症状と見なす方が、よほど客観的かつ科学的であり、その場合薬価の心配をせず、「気の病」という昔ながらの真理を、けんけん服膺されれば済むだけだと思える。 そもそも、このマンガは、国柄も土地柄も生い立ちも異なれば、個人個人の生まれ持った味覚すら、どの程度の幅があるのかしれたものではない事実に、あえて目をつぶって、究極だの至高だの、誰もが納得してしまう料理やメニューがある、という稚気にあふれたテーマを追い求めたものだったはずだが、その結末はどうなったのであろうか?まったく関心のない私は、今回の件で、何といまだ続いていたことを知り、人間の惰性の偉大さに驚かされた。しかし、惰性で読んでいるような人が、惰性で洗脳されて、なんの根拠もない地域差別をして、世の中から奇異な目で見られては、自業自得ながら、気の毒だと思う。 原発事故の影響で、冷静な判断力を失ってしまった老人と言えば、昨今、首相経験者のご老体両名が、原発廃止を求めてご活動になっているのが、思い出されるところだ。 もちろん、高齢化社会であり、老人も元気に社会でご活躍していただきたいが、隠居が未来を切り拓こうと力むのは、少々醜悪でありお門違いのように思える人も多いはずだ。 功績のあった人ほど、過去において、現在を作られた立場なので、現在に問題があるなら、そのようにした自分たちの過去を、まず自省しなければなるまい。その経験を踏まえた自省は、今現在の現役世代が、未来に向けて何ごとかを選択する際の参考になるはずなので、大いに尊重すべきだろう。しかし、自分たちが現役であった頃の判断を棚に上げ、過去現在を無視して、先頭に立って未来を拓くような言動を繰り返す干からびた姿など、自省のない厚かましさだけで歳を重ねた不覚悟の輩を、絵に描いたものに過ぎないのかもしれない。 晩節を汚すのは、得てして、自省の欠如に起因するものと、現役世代も、今のうちに自戒したい。その意味で、あの無反省の権化の如き姿は、良い反面教師となっているとも言えようか。
2014年05月13日
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今月1日の、産経新聞の山上直子さんという方のコラムを、数日前に気づいて読んで、かなり腹を立てていました(関西の産経記者さんたちには、最近立て続けに神経を逆なでしていただいて、暑さしのぎに有難いことと感謝しています)。しかし、地元保存会など運営者されている方たちのご苦労は理解できますし、何も考えず楽しむ人も多い大文字焼きというお盆の風物詩としてのセレモニー(儀式)なので、余計な悪口を文字化するのは控えるつもりでした。 ところが、昨日、京都の大文字焼きについての記事の末尾に、「送り火をめぐっては平成23年、東日本大震災で被災した岩手県陸前高田市の「被災薪」が燃やされず、放射性物質が検出された表皮などがなおも市施設で保管されている」とあり、なぜそのような保管をしているのかわかりませんでしたが、不思議と癇に触ってしまい、話を蒸し返して嫌味を載せておくことに、翻意しました。 山上氏は、「京都の人にとっては宗教行事の送り火」と、当然のことのようにお書きになっていらっしゃいますが、そのような寝言は、到底、認められませんね。2011年に、宗教行事として焚くのではなく、観光行事として焼いている本質が露骨に示されたので、現在、各地の花火大会と変わらない大文字焼きという、「京都の人」を含むほとんどの日本人にとって、宗教性のないセレモニー以外の何ものでもありません。そこに宗教性を主張するなど、お笑い種と言えるでしょう。むしろ、あのような不毛で後味の悪すぎる騒動を経験しながら、なお宗教行事としての送り火なのだと、被災地を含む日本人である他人に説ける「京都の人」の神経が、私には理解不能と言わねばなりません。 この京都の大文字焼きは、以前、京都の町衆のための宗教行事の側面を持つ送り火だったに相違ないでしょう。特にその運営に携わらなくとも、毎年周囲の山々に映し出されるその火を仰ぎ見て、京都盆地に住む人たちが、自分たちの祖先を送ってくれているものだと、誤解したのも無理からぬところです。そして、市外から何万人と押し寄せる観光客が、、「京都」が客寄せに行ってくれている綺麗な見世物として、軽々しく「大文字焼き」と呼ぶのに、違和感なり嫌悪感を持ち、自分たちのお盆の宗教行事の側面を、主張したくもなったはずです。しかし、2011年の夏、日本人すべての鎮魂の思いを拒絶したのが、他ならぬ五山の送り火でした。もしあの折に、被災地の流木を焚き上げていれば、それを宗教行事として誇りとしていた「京都の人」たちと同じように、日本人すべてが、その火文字を情緒的宗教性を具現化したものとして、認めたはずです。 ところが、「京都」は自ら、日本人の鎮魂の思いを踏みにじり、「京都の人」たちの鎮魂の思いが日本全体のものに昇華する機会を逸したばかりか、それが保存会のローカルな地域行事を、京都市が観光目的のイルミネーションとして利用しているだけの姿を、見せつけました(この件については当ブログでも散々書きました)。あの折は、『絆』などという言葉が流行っていましたが、「京都の人」も含む多くの真っ当な日本人が、被災地に対して寄せる真心を、悪気はなくとも、結果的に、深く傷つけたのです。津波で倒れた流木を焚いて送り火として、多くの日本人が鎮魂の思いを共有しようとした際に、放射性物質云々などと無知な言いがかりを付け、所詮はローカルな宗教行事だから・・・と、保存会など直接的関係者は、自分たちの殻の中に逃げ込み、地方行政側はとにもかくにも火文字の実施を優先させました。そのようなものが、見る者すべてが亡くなった人に供える送り火として見るべきものだ、などとどのツラ下げて主張できましょうか? 実際に活動する地域の人にとっては宗教行事、見ているだけの者には花火のような観光行事であるところの、セレモニー、それだけです。宗教性を持たないセレモニーとして行われる花火や大文字焼きに、自分の宗教的思いを付託するのは、個人の自由ですが、他人にもそのように思えと強制はできないはずです。つまり、山上氏のような主張を許すような、大文字焼きを送り火として捉える宗教的な情緒の普遍化は、2011年夏に、「京都」自らの手により、真夏の陽炎のごとく儚く消えてしまったのです。それは、おそらく、取り返しはつきませんし、取り返すような行動を、寡聞にして知りません。何しろ、焚くべき薪は、未だ保管中、これが「京都」の現実なのです。 死者を送る送り火?それは保存会などとして実際の運営に当たる一部地域の人々が、自分の身内に対してのみ語り伝えるべきお話でしょう?結果、たまたまその火文字を見ているだけの者の鎮魂の思いを体現する目的など、ほとんど皆無だったのですから、それは、他人が自分たちのためだけに焚いている送り火を、見ているだけの者が、勝手に自分たちの送り火のように思い込んでいたに過ぎなかっただけのことです。それに気づかされてしまえば、心ある「京都の人」は、今まで自分が持っていた情緒の喪失に戸惑い、真心を裏切られた気持ちにもなり、あれ以来、火文字に背を向けてしまうことになっているはずです。 つまり、日本人にとっての古都、千年の都に住する、日本人の情緒を最も体現するはずの「京都の人」であれば、元々それを虚飾の火文字、たんなる綺麗なイルミネーションとしてしか見ていない他地域の人の言動を聞いても、自分もその一人に過ぎなくなってしまったと、心を痛めるだけだろうと思います。普遍の送り火としての価値あるものとして、誇れなくなってしまい、ごく一部の人たちを除けば、大文字焼きでしかないからです。 今にしてなお、他地域の人に、あれは大文字焼きでなく、宗教行事として送り火を焚いている、などとシレっと言えるだけの厚かましさは、おそらく「京都の人」であればこそ、少数派でしょう。たった2年前のことでも、あっさり忘れられる痴呆同然の何とも羨ましい人限定のはずで、そのような人が京都の心を代表するとは、私は信じません。 一体、たった2年前の出来事を、京都生まれで大阪在住という山上氏は、どのように見聞きしていたのでしょうか?ジャーナリストでありながら、それが、どういった精神的後遺症を、日本人の多くに残してしまったか、考慮しないで済む程度の軽い話だったか、お考えになったこともないのでしょうか?どのように寝とぼければ、「大文字焼き、違いますぅ。送り火でっせ」などと、聞いたふうな口が叩けるのでしょうか?まったく、理解不能です。 しかしながら、この際、大文字焼きでも良いではありませんか?もちろん、それを地域の伝統として継承するのは大変であり、それをやり遂げているのは、とても立派なことです。そして、それが京都市の観光資源になるなら、これほど結構なことはないでしょう。 ただし、それを見るだけの者にとって、それはすでに送り火ではなく、セレモニーとしての大文字焼きとしか、説明のしようのないものになっているのです。ただ見ているだけという意味では、何も考えていない他地域からの観光客と、ほとんどの「京都の人」は同じですから、日本の他地域の人々に対して、宗教行事としての送り火だ、などと主張できるものではないと、自覚なされるべきだと、私は思います。せいぜい実行している保存会の人たちの地域限定の宗教行事としての送り火ではあっても、所詮部外者には、全国にいくつかある大文字焼きの一つに過ぎなかったのです。 他地域の大文字焼きにせよ、花火にせよ、それを送り火として見ようと見世物として見ようと、個人の勝手としか言いようがありません。それをしたり顔で「送り火として見ろ!」などと言われたら、場違いな世迷言にしか聞こえないでしょう?京都のそれも、何ら特別な存在ではなかったのです。 残念なのか必然なのか判断できませんが、「京都の人」たちが毎年目にし、培ってきた情緒的宗教性を帯びた送り火は、2011年にその情緒が剥がれ落ち、今や、大文字焼きに過ぎないのです。もちろん、個々の心の問題ですから、以前と同じように、自分の体験と重ねあわせ、それを送り火として見るのは自由です。しかしながら、それを他人にそのようなものだと説明すれば、滑稽なだけとなってしまいます。「ウチらん行事どすから、一見さんはお断りどす」などと、よそ者ばかりの観光客にドスドス言えますか?、薪は保管中で、数万人の観光客を呼び込み続け、挙句が送り火として見ろ、笑止千万ではありませんか?2011年を境にしたこの相違を、特にジャーナリストは理解して、不愉快を再燃させる脳天気な記事を掲載するのは、控えるべきではなかったかと、私は強く思います。 保管している薪、遅ればせにでも、大文字焼きで燃やしてみれば、送り火として輝くかもしれませんね。しかし、おそらく難しいでしょう。・・・いろいろ、無知な頑迷に振り回され、ご苦労なことですね。
2013年08月16日
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「出崎敦史のスポーツ言いたい放題」という産経新聞系のコーナーに、真夏の甲子園での野球大会を擁護する記事が載っていたので一読し、その現状認識を欠いた的外れで陳腐な内容に、呆れるよりも、その大人としての無自覚さ加減に、むしろ慄然とした。 熱中症の危険が繰り返される中、連日の猛暑に襲われる関西地方の炎天下で、野球の熱闘を演じさせるのは、大変に危険なものとなっているとの指摘に対し、「青い空、白い雲。照りつける夏の日差し。日本の夏は甲子園が似合う」などと、見当違いも甚だしいだろう。似合うか否かではない。死人が出ないような配慮を示せと、一般人から指摘されているのだ! つい先日、炎天下の京都で、アメリカンフットボールの試合を行った高校生が、熱中症で亡くなった(12日記事)。アメフトは、フルフェイスのヘルメットと体の要所要所にプロテクターを付けて行う特殊なスポーツなので、当然ながら暑さに弱い。そもそも、陸上の短距離走の如き瞬発力と、コンタクトに耐える体力を必要とし、さらに緻密な作戦の立案とそれを状況に応じて実現させる頭脳が試されるスポーツなので、炎天下に実力を出し得るスポーツでは有り得ない。涼しい季節であっても、息を整え作戦を確認するため、通常はワンプレーごとに許される時間いっぱいに小休止の状態を持つのが普通で、また、味方が攻めている時は守備の選手が休み、守備の時は攻撃陣が休めることができるようになっている。 つまり、普通の環境であっても、休み休みでなければ身が持たない過激なスポーツと言えるが、亡くなった生徒は、攻守ともに出場し、炎天下の中を大活躍していたらしい。本人としては、レギュラーとして攻守に活躍することに誇りと責任を感じ、出崎氏のお言葉を借りるなら、「暑くて苦しくて辞めたい、と思ったことが何度もあった。でも、そこに大事な試合がある以上、逃げるわけにはいかなかった」に相違ない。確かに、高校レベルなら、攻守で活躍する選手も多いので、通常ならこうした不幸な事故も起きず、また起きたとしても、かなりの偶然と言えたかもしれない。しかし、季節は近年稀なる猛暑の真夏であり、場所は炎天下のグランウンドである。そのような中で、フルプロテクターでアメフトの試合をさせる感覚が理解しがたいほどで、まして、攻守ともに起用し続けてしまう大人の監督なり指導者とは、いったいどういった保健知識の持ち主なのか、まことに不思議と言わねばなるまい。問題は、一所懸命な生徒たちではなく、それをしっかりとサポートすべき大人たちの危機認識の欠如にあることを、スポーツ関係者は自覚すべきだろう。 近年の体罰問題の引き金となった、高校バスケットボール部の生徒が自殺した際、チームを強くするには体罰が必要だなどと考える愚か者が多く露見した。なるほど、県大会レベルなら確かにそうかもしれない。言われたことを素直に実行し規律正しく頑張っていれば、集団スポーツなどそれなりに強くなるだろう。しかし、指導者に盲従し、自分の考えを持たず考えようともしないような者が、一流のアスリートに成長出来るであろうか?プロになったり世界でメダル争いをするほど才能のある者なら、前人未到の領域を目指し、他人から教わる域を超えていかねばならないだろう。そのような気魄は、体罰を恐れて唯々諾々と従うだけの者に可能であろうか?所詮、高校のスポーツの体罰指導など、県大会レベルの学生時代の思い出作りに効果があるだけのことで、その代償として、自由な思考の成長を妨げ、柔軟な人間性の成長を阻害し、いわゆる『スポーツ馬鹿』を作り出すばかりか、アスリートとしての向上の可能性すら摘み取るだけであろう。それについては、世界レベルの選手に対し、体罰指導を行っていた日本柔道界の凋落を見れば、既に実証済みのように思える。 さて、出崎敦史なるスポーツ記者氏曰く、「高校のクラブ活動の大会を見物人が「暑いからもっと涼しいときにやれ」といっても、誰も相手にしないのではないか」。これは異な事を承るものである。では、ご自分が保護者であったら、自分の子供が生命の危険のある活動を強いられているのを見ながら、それを止めようともされないのであろうか?保護者でなくとも、社会に責任を持つ大人であれば、誰しも、他人であれ子供の健全な成長を願い、スポーツ記者の飯の種としてのサイドストーリーを含め、前時代のノスタルジーに浸るばかりで現状認識を欠く不見識に思える大人たちによる危険な見世物にならないように、子供たちへの配慮を強く求めるのは、当たり前ではなかろうか?そもそも、そのような指摘を部外者たちから受ける前に、自分たちで危険性を取り除く努力を続けるのが、スポーツ指導を行ったり大会運営を行う大人たちの見識であり、そこに常識や危機意識が欠けているようなら、厳しく社会に警鐘を発するのこそ、マスコミの役割であり、スポーツ記者としての存在意義だと思えるのだが、如何? 私は、このような危機感の欠如した記事を読むと、相撲界や柔道界で頻頻として起きた、表面上だけの伝統踏襲による、体罰その他の問題は、当事者である相撲協会や全柔連のみならず、それを取材する立場の者たちの、馴れ合い体質、危機感の欠如にあるのではないかと疑いたくなるのだが、的はずれであってもらいたいものだ。 出崎氏は、真夏の炎天下でのスポーツの危険性に対する、ごく真っ当な常識的指摘を、「「暑い夏」と「甲子園」は欠かせぬ"舞台装置"」との固定観念の故か、高校野球そのものへの否定として捉えてしまっているようでもある。しかし、なぜ、それが欠かせぬ舞台装置なのだろうか?90何回も続いているから?しかし、現状は、蔦も絡まぬ甲子園であり、昔とは違う「舞台装置」ではないのか? そもそも、高校サッカーは真冬に東京国立競技場、ラグビーは大阪花園ラグビー場、バレーボールは東京代々木体育館を、それぞれの舞台装置として全国大会を行っているが、そこに感動はないのだろうか?高校生たちは、それぞれの夢舞台にむけ、日々の部活動に励んでいるではないか。野球が夏向きのスポーツであるとして、例えば阪神の炎暑を避け、北海道は旭川のスタルヒン球場(花咲スポーツ公園硬式野球場)に場所だけ移したとして、感動が得られなくなるはずがあるまい。 高校野球大会は、暑さに対する我慢大会ではない。日頃鍛えた野球の実力を発揮する場としてなら、よほど涼しい地域を選ぶべきだと、野球を愛する者であれば、考えない方がよほど不思議である。なぜ、甲子園にこだわるのか?取材に便利だから?利権が固定化されているから?昔からそこでやってたから?それらのどこに、高校球児のことを考えた視点があるのであろうか? 甲子園で行うのが伝統になっているが、伝統など同じ場所で続けていれば、必然的に出来上がってくるもので、甲子園である必要など、大人の退会運営上の思惑以外はどこにもない。未来ある高校球児たちのことを考えるなら、大人が、しっかりと現状の危険性を認識し、より適切な舞台装置を用意すべきであろう。 何ら危機意識もなく、『高校野球といえば夏の甲子園』などと、年寄りのノスタルジーを固守するばかりで、それを舞台装置を与えられているに過ぎない未成年の意志のように主張するのは、いい加減な大人の責任逃避に過ぎず、より危険な大会運営を続けるのを良しとするなど、恥を知るべきだと思う。 何時どこで開催しても、高校球児が必死に白球を追う姿は感動を呼ぶであろうし、どこであれ開催地が継続すれば、彼らの憧れの地になる。大人はノスタルジーや己の目先の利益に囚われず、より安全で、より彼らが実力を発揮できる舞台装置を用意すべきであり、真夏のスポーツ活動には、十分な注意喚起が必要で、教育の観点から早急なる検討が求められよう。 「青い空、白い雲。照りつける夏の日差し。日本の夏は甲子園が似合う」などと、ビール片手に出てくるような、悠長なノスタルジーを楽しんでいられるほど猶予はないと、文科省、高野連、その他高校野球関係者は、お心得あるべきだろう。
2013年08月15日
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商売上の都合で、長らくヤマト運輸のクロネコメール便を利用しています。このサービスは、大きさがA4サイズ以下で厚みが2センチ未満と薄いものなら、均一の料金で発送できるので、商品の送付に利用している事業者も多いです。 しかしながら、ヤマト運輸にとってはリスクが多く利潤は少ないようで、サービス開始の当初より配達が遅くなったり(翌日→翌々日)、大きさ制限が厳しくなったり(B4サイズの廃止)、サービス内容は低下する一方です。個人的には、ヤマトさんはメール便を止められた方が良いのではないかと思っているのですが、お客様の要望もあるので、サービスが存続する以上利用するしかない立場にあります。 このサービスでは、発送の際に出荷票を集荷担当者に渡さねばならず、そこには品名を書いて信書を含まない旨の確認として署名しなければなりません。署名は、もともと必要なかったのですが、信書の送付に利用した人がいて問題となったため、2011年にコチラのお知らせとともに(ネット上に告知しているだけで、利用者の私に特に通知はなかった)、変更となりました。 私の場合、この署名欄には苗字しか書かなかったのですが、昨日、集荷に来たドライバー氏から、名前も書くように言われました。普通なら、その程度のことは従うだけでしょうが、メール便についてのこの間の経緯を苦々しく思っているので、それほど厳密にしたければ、客側の面倒を増やすような要求をするよりも、捺印するだけで済むように氏名を印字した出荷票を作成してくるように言いました。確かに「署名」とは、厳密には氏名を書くことになりますが、これはヤマト運輸に対する単なる確認ですから、身元が明らかなら尚の事、本来サインで良いはずです。それを、営業所の責任者なのか誰なのか知りませんが、気にする人がいるようなので、「お客様ご自身で署名または記名捺印」と前掲の案内にある以上、捺印だけで済ませるようにしていただきたいと、要求したわけです。 このような小理屈は、それ以前に家人がフルネームでの署名を求められた聞いて、下調べしていたので言えることです。調べておかなければ、言われる通りに従うしかないはずです。今後、運送会社側の担当者が誤解して、また、何を言い出すか知れたものではありませんから、改めて出荷票の信書について小さく書かれた文章を読みました。すると、それは奇妙なものでした。▼信書はお取り扱いできません。信書の送達は、郵便の場合および信書便法に基づく信書便事業者による場合を除いて、禁じられています。上記に違反して信書の送達を委託した場合、その運送事業者および信書の送達を委託した荷送人は、郵便法第4条違反となり、罰則が適用される可能性があります。【主な信書の例】請求書、納品書、手紙、はがき これでは、送付する商品の納品書なり請求書も、同封していないと宣誓していたことになりかねません。しかし、信書であっても、送付する商品についての納品書は、法律上同封を認められており、そういった認識の下で、通常は(小さな注意書きなど読まずに)商品の発送に利用されているはずです。実際、郵便法第4条第3項では、「運送営業者、その代表者又はその代理人その他の従業者は、その運送方法により他人のために信書の送達をしてはならない。ただし、貨物に添付する無封の添え状又は送り状は、この限りでない」とされています。問題は「送り状や添え状」とは何を指すかになりそうですが、この点について総務省は、「信書に該当する文書に関する指針」Q&A集にご親切にも例示されていて、「貨物の授受又は代金に関する簡単な通信文」の例として、「納品書」「請求書」が図示されています。 つまり、貨物の説明文としての納品書は、信書であっても同封が認められ、一方、貨物とは無関係な納品書の類は認められないのです。信書であるかないかではなく、貨物と関係しているか否かが問題、となりますが、この出荷票の文言だけでは、そのようなことがわからず、貨物に関する納品書や請求書も同封できないと誤解されてしまうように思われます。そこで、まったく気はすすみませんでしたが、黙ってブログであげつらうのも何なので、数時間前にフリーダイヤルでヤマト運輸のオペレーター氏に、貨物に関するものは問題ない旨、付記されたらいかがですか、と意見具申をしておきました。 このような小さな文字の注意書きは、普通は気にせず、郵便法など、一般人の関知するところではありませんが、生真面目な人が一所懸命文字面を追って、誤解をしてしまうようなことがないように、気をつけて頂きたいと思います。
2013年07月25日
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【送料無料】風評破壊天使ラブキュリ [ 大和田秀樹(漫画家) ] 薦めている人の文章を見かけ、ネットのブックオフでの買い物のついでに取り寄せて読んでみました。 『風評破壊天使ラブキュリ』(大和田秀樹)。内容以前に、個人的には苦手な部類の絵柄なのですが、内容の、原発事故に派生したデマに対する見解には、大いに共感しました。いろいろ危険性ばかりの情報に振り回されてしまっている人は、ちょっと読んでみてはいかがでしょうか。おそらく、自分が信じている人たちを茶化され腹が立つでしょうが、せっかくなので、今一度情報を整理してゆっくり考えてみるきっかけにされては、と思います。 宇宙から流れ着いた「デマの実」に取り憑かれ、放射線被害についてのデマを流し、人々に迷惑をかける者たちの、嘘を指摘し撃破する内容ですが、ストーリー性は、ほぼありません。デマに対して、腹を立てている人たちの気持ちを代弁して、明快に叩きのめしてくれるのみです。 デマ怪人たちは、デフォルメされ実名を挙げていませんが、俳優の山本氏、火山学者の早川氏、イギリス人のバズビー氏、中部大学の武田氏、女優の松田氏、ジャーナリストの上杉氏、音楽家の坂本氏がモデルとなっているのは、その内容から分かります。それだけ、これらの各氏が悪い意味で著名となっていて、かなりの数の人々、まず間違いなく彼らの無根拠な妄想を支持する人より大多数の常識人たちから、その発言や行動を白眼視され、揶揄し撃破すべきデマゴーグと、共通認識されてしまっているのです。 少し冷静に情報を集め、少し冷静に真偽を確かめ、少し冷静に判断することができれば、誰でも同じような結論に達するはずだと思います。・・・惑わされたのは、宇宙からの『デマの実』のせいにして、彼らにも平常に戻っていただきたいものです(上杉さんや武田さんは放射線以外でも捏造やらデマと指摘されることが多いようなので、『真正』なのかもしれませんが・・・)。 なお、監修されている東大医学部の中川恵一氏についても、まったく存じ上げなかったのですが、検索したところ、「プルトニウムは飛ばない」と発言した御用学者とレッテルを貼られておりました。 何と奇抜なことを言う先生だと思いましたが、どのような発言だったか確認したところ、日本テレビにその動画が残されていました(2011年3月29日のニュース)。当時はみな浮き足立っており、学者さんもテレビ慣れしていませんから、今から見れば確かに舌足らずな印象を受けます。しかし、発言内容はご覧になればわかるように、「(プルトニウムは)ヨウ素のように飛散することがありません」です。ヨウ素よりも重いのでヨウ素のように広範囲には飛散しにくいと、比較の問題を言っているに過ぎないのです。この発言で、「ヨウ素のように」を抜かして、プルトニウムが飛散しないとデマを広げたと、鬼の首を取ったかのように吹聴するのは、明らかな誤解で、情報操作に類すると言わねばなりません。 プルトニウムが重いので飛散しにくいのは事実のようで、実際に、原発事故に由来して検出されているのは、事故原発から北東の地域のみです。そして、それもごく微量です。放射性物質の中では耳慣れた名前なので、針小棒大に危険を煽り立てたがる人(=デマゴーグ)も多いようですが、量的な問題として、危険性がないので、科学的には問題とされないだけのことでしょう。 このように、東大だ!御用学者だ!ウソつきだ!といった、思い込みで曇ってしまった目で見ずに、情報を自分で精査して、デマゴギーに惑わされることのないようにしたいものです。
2013年06月08日
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このように見ていくと、手塚ファンでもアニメファンでも、どちらにもさほど興味がない者であってすら、日本でテレビを見るなり漫画を読んで育った我々には、放射能に対する間違った先入観、放射線は形態変容を引き起こし、人間なら奇形が生まれる、を持ってしまっている可能性があると、疑った方が無難だと思われます。放射能と書いていないにもかかわらず、それだと無意識に置き換えてしまうのです。 もし、そのような先入観としての「手塚治虫」を認識していないと、幼児的小児的に無批判なままに染み込んでしまったそれに、今現在の判断が左右されることにもなりかねません。さらに、その無知を自覚せず、他人に対して無責任で無恥であれば、我田引水の確証バイアスに陥り、かえって自分の思い込みを裏付ける証拠ばかりを選択的に集めて悦に入るようにもなってしまうのではないでしょうか?そうした事例は、何度も現地に行っても、ついにはチェルノブイリ事故との相違も理解できなかったらしい池谷氏にとどまらず、ネット上にも散見されるところかと思います。 なお、先の原発事故では、それまで原発のことも放射能のことも考えたことがなかった人に限って、突然に深刻顔で見当はずれや行き過ぎたことを言い始め、矛盾を指摘されれば、推進派だとか原子力ムラだとか、幼児の単純な二元論を振り回し、挙句は、故人についてまで、原発推進派か反対派かレッテルをはりたがるような人も見受けられました。手塚治虫さんにしても、推進派だ、否、反対派だと、論議もされていたようです。 しかし、過去の人は過去の人の知見とその時代性においてものを言っていただけで、現在の我々が考える際の参考にはなっても、それを前面に押し立てて将来を語れるようなものでは無いはずです(良いことも悪いことも、死人に口無し、です。故人の口を借りて発言する必要などありません)。手塚治虫さんが一部の作品で示された放射能についての影響は現実には有り得ず、間違った認識「手塚治虫」を拡散させてしまいましたが、それは故人の責任ではなく、むしろ今現在を生きていながら、過去に縛られるばかりの自分を理解せず、誤った認識で世を騒がせる人たち自身の知性・理性の問題のはずです。 案外なところで、人は思想的影響を受け、思い込みを起こしてしまうもののようです。子供の頃の漫画やアニメは、影響力が大きく、根深いところで自分の考えを縛ることにも成り得るわけです。軽薄な意見に惑わされて、自分や他人に恥じるようなことにならぬように、自分の先入観には、十分に注意したいところです。
2013年05月29日
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大津波に伴う原発事故の際、安易にチェルノブイリ事故と比較して、同等とかそれ以上とか、吹聴して不安をあおり立てて回った似非(エセ)専門家やジャーナリストの類がいました。未曾有の事態に動揺し、それを信じて心の平安を失った人も多かったのではないでしょうか。しかし、事実は、「原子放射線の影響に関する国連科学委員会」(UNSCEAR)の報告案に基づく記事によれば(読売新聞5/28)、日本人の甲状腺最大被曝線量はチェルノブイリ原発事故の「60分の1以下」、放射性物質の大気への放出量も、チェルノブイリ原発事故の25~33%未満に過ぎず、両者には比較対象にならないほどの開きがあったのです。 しかし、このような真っ当な専門家の科学的な評価を待たずとも、事故の性質や規模、そして事故時の政府の対応を、客観的に見比べる能力があれば、ちょっとした人為的ミスに基づくチェルノブイリのそれが桁外れに重大で、それに比べてしまえば、日本の未曾有の津波による事故の方は、案外なくらいに過小なものに見えたはずなのです。つまり、当時何やら言い募っていた人たちは、非科学的であるか、チェルノブイリ事故をろくに知らなかったか、たんに目立ちたかっただけで騒いでいたことは、今や明々白々と言えるでしょう。 一般人に過ぎない私などは(原発にはもとから懐疑的です。必要のない広告宣伝費を使い威張っていた独占企業の電力会社など大嫌いでした。当然、馴れ合いベッタリの「原子力ムラ」など有害廃棄物として苦々しく思っていました。一方で、何でもかんでも反対するだけで「安全神話」答弁を引き出すことに終始した反原発運動家たちも、55年体制の与党と野党のもたれ合いと同様に見ていませんでした。あの人たちは、事故の可能性を踏まえて有効な対策を建設的に考えることを阻み、「安全神話」を生み出した共犯でしょう?)、つまらない扇動に乗ってしまい「市民活動家」になった元一般人の姿をテレビで観ると、気の毒なことだと思っていました。許せないのは、電力会社と親密だった原発推進派の専門家たちが、意気消沈しているのを良いことに、暴論を繰り返し、生活に追われる一般人を扇動し続けた人たちです。彼らは、冷静を取り戻した良識のある日本の一般人の大多数、サイレントマジョリティによって、今後さらに、沈黙の制裁(「まとも」には扱われない)を受けることになるはずです。哀れな者と言えましょう。 事故後2年を経過した2013年になって、ようやく客観性を持って、事故なり原発について考えられる雰囲気になり始め、重大な事故によるショックと、周囲の非難で沈黙を余儀なくされていた推進派の人たちも、意見を述べてくれるようになりました(【例】評論家の木元さんの産経新聞正論)。いわゆる「原子力ムラ」の研究者や技術者、そして推進派の言論人であれ、原発のことを我々一般人よりも以前から考え、知識も多く有しているわけですから、電力インフラ独占企業のあぶく銭の中毒症状が治まれば、安全性の向上や知識の普及について、もっとも建設的な意見を述べることが出来る存在のはずです。反省すべきは反省しつつも、レッテルに負けずに世の中の発展のため主張してもらいたいものです。 一方、専門性などかけらも生活上必要としない文系の私は(専門でない者は黙っていろ、と言えるのは、専門家同士の科学的な話し合いをしている時の専門家だけです。当時、高校の社会科レベルの知識も持たずに、たんに恐怖感を募らせていた人たちの中には、自分が専門用語を理解出来ない一般人の一人であることを失念し、専門家による結論を闇雲に求め【※そんなもの存在するなら研究する必要がない】、それでいて本当に専門性のある学者には「原子力ムラ」のレッテルを貼って排除し、結果、似非専門家を盲信することになりました。一般人は、生活の中に活かせるように、慎重に専門の知識を拾ってこなければならず、それが不可能なら、自分と同じ一般人の解釈を参考にするしかありません。専門家による専門的な議論は、その専門学会内で研究者同士で続けられるべきもので、それは生活レベルで必要な結論を求めて行われるものではありません)、なぜ、あくまでも平均的に見れば、理知的な国民性を有すると思われる日本において、非科学的な妄想を受け入れる人が多く出てしまったのか、そこに関心を持っています。そして思いついたのは、それが無知ゆえではなく、若い頃に漫画やアニメから得た知識を、大人になっても疑いなく持ち続けていたから、という推定でした。 例えば、埼玉県川口市と東京の池袋に所在する小鳥のセンター病院院長にして生態系協会会長の池谷泰文氏は、昨年の7月、一昨年の原子力発電所の事故によって放出された放射性物質の影響で、「奇形発生率がどーんと上がることになっておりましてですね、たいへんなことになる訳でございまして」と、まるで非科学的で非常識な発言をし、社会的信用を低下させてしまいましたが(福島民報の記事)、この話を聞いた私が連想したのは、「手塚治虫」なのです。 具体的には、1977年『月刊少年マガジン』に掲載された『聖なる広場の物語』という作品を思い浮かべていました。それは、「聖なる砂」を浴びた鳥が、巨大化し牙が生えたり脚が増えたりと、どんどん凶暴な姿に変身していくというお話で、「聖なる砂」は放射性廃棄物で、放射性物質により奇形に変身したのだ、とうろ覚えしていたのです。そこで念のため、この話が収録されている『手塚治虫短篇集1 夜よさよなら』『手塚治虫アンソロジー鳥傑作集』を確認したのですが、愕然としたのです。なぜなら、「聖なる砂」の正体は、放射性物質ではなく、特殊化学兵器の廃棄物だったのです。 なぜ私は、何度も読んでいたストーリーにも関わらず、思い違いをし続けていたのでしょうか?もっとも、私だけなら、いつものことなので不思議はありませんが、ネットを検索すると、同じような思い違いが散見されました(【例】草野真一氏の記事)。これはどうしたことでしょう?もちろん、私を含めて、思い違いをしている読者側の問題ではありますが、その前提は、幼い頃から漫画やアニメなどを通じて刷り込まれた『呪縛』であり、その一端はやはり「手塚治虫」だと指摘しなければなりません。 1950年代に誕生した巨大怪獣ゴジラは、その誕生に原子力爆弾の影響となっていますが、「手塚治虫」としては、1960年代に早くもアニメ化され、再三再四にわたって再放送された『ジャングル大帝』に、放射線を浴びて巨大化した植物や昆虫が登場しています(第23話大怪虫)。もちろん、生き物が生きながら巨大化するなど、非科学的で有り得ません。植物では、1960年代の文学作品、井伏鱒二の『黒い雨』の原資料となった重松静馬氏の当時の日記に、広島の爆心地において「石垣を見ると、かたばみや烏の豌豆などの新芽が徒長して、支えられず、だらりと下にさがっている」とありますが、これが事実としても、比較的に高い放射線を一時的に被曝したことで、成長の初期段階の個体の遺伝子が大きく損なわれた可能性を示唆しているに過ぎず、「カタバミや烏の豌豆」などの、地下に栄養を蓄える植物は、成長の初期段階に放射線で異常をきたしても、その蓄えた栄養が存在する限りは成長出来たのだろう、と類推されるに過ぎません。 すでに形をなして生きているものが、肉体変容(メタモルフォーゼ)を起こすのは、ファンタジーであって現実では有り得ません。「へ~んしん!」など、子どもの空想でしかないのです。従って、『ゴジラ』や『ジャングル大帝』なら、大人になれば現実離れして滑稽だと気づくはずですが(動いている心臓がその形態で動きながら大きくなれる訳がないでしょう?)、「漫画の神様」は、放射線の悪影響について、より現実と混同しやすい危険な誤解を描いてしまっています。私が知るところでは、1971年に雑誌『COM』に掲載された、火の鳥の羽衣編・望郷編がそれです。そこでは、核戦争で被爆した女性がタイムマシーンで10世紀の日本にやって来て、漁師と結ばれ子供を産みますが、その子が放射能の影響で奇形児どころかミュータント(突然変異体)、頭の触覚で周りを知覚し、テレパシーを使って動物と会話出来るとされていたのです(雑誌廃刊もあって未完で終わり、現在残る羽衣編・望郷編とは別物。内容については、コチラのページで紹介されています。なお、望郷編の角川版はいい加減に過ぎる改悪がされているので、注意が必要です)。 もちろん、「漫画の神様」は、自分の国に原子爆弾の被爆者が多く存在し、角の生えたミュータントは一人も生まれていない現実はわきまえていたはずで、重大な放射線被曝の問題は、その個体の死を招く点にあることくらい、元々承知していたと思われます。なぜなら、『火の鳥』の羽衣編の前の作品である復活編では、放射線に被曝してしまった少年は、急性障害で重篤になってしまっているのです。つまり、近未来戦争での兵器による影響で変異が起きるという着想に現実性を持たせるため、(あまり深くは考えず)核戦争による放射能の影響としてしまったのではないかと思いますが、「漫画の神様」の影響力は絶大なため、後進の作品にも影響を与えずには済まず、我々は知らぬ間に、『放射能→変異』といった、この誤った認識を刷り込まれてしまったように思います。 結果、例えば、宮崎駿さんの1980年代のアニメ『風の谷のナウシカ』では、地球上での大戦争の後、巨大な虫(王蟲)が出現していますが、これも何となく放射能によって変異したものだと思い込んでしまいます。実際、先の震災での大事故と、このアニメ作品を結びつけている人の文章を多く見かけました。しかし、『風の谷のナウシカ』には、放射能や放射線や放射性物質、核爆弾の類の言葉すら、出てこないようです(1度アニメを見ただけなので、わざわざ原作の漫画を全部読んで確認しました。感想ですか?まず海を浄化しなければ始まらないだろうに、おかしいではないかと・・・。風の谷という集落【小国家】は海風に守られているとしながら、その海が有害物質が最終的に流れ込んで生き物が住めない状態としているのですから、根本的に矛盾しているではありませんか)。「大地の富をうばいとり大気をけがし生命体をも意のままに造り変える巨大産業文明」は「有毒物質をまき散らして崩壊」し、生態系が破壊されてしまったとされているだけで、「有毒物質」が具体的に何であるかはわからないのです。人間の作り出した怪しげな猛毒と、漠然と描いているにすぎず、それを放射性物質と受け取っているのは、観る側に勝手な先入観があるからに相違ないでしょう。
2013年05月29日
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昔から、会話のはじめに「すみません」が必須となってしまう『シ-マセン』(運送会社の配達員の話し方から、さっき考えたあだ名)を見かけたが、最近では「なので」を繰り返す『ナノデー』(郵便会社の職員の話し方から、昨日考えたあだ名)も見かけるようになった。 私は文法というものが、国語も漢文も英語でも、大嫌いだったが、あえて文法的に(辞書で調べながら)指摘するなら、「ので」は接続助詞なので、文頭に付けるのは本来的な用い方ではない。だからと言って、誤りとまでは言えない。「だから」にしても、本来は文頭にくる言葉ではないが、普通に用いられるようになっている。なので、「それ故に」とか「従って」といった順接の接続詞の代わりに、助動詞+接続助詞の言葉が用いられても、年寄りには聞き慣れないだけの日本語の変化と、見なして良いかと思っている(少々耳障りだが我慢する)。 しかし、けれども、さりながら、『ナノデー』は、ほとんどすべての接続詞を「なので」で済ましてしまう。また、および、しかも、なおかつ、どのような意味合いでそれ以前の言葉とつなげるのかなどまったく無関係に、話のはじめは必ず「なのでぇ~」なのだ。これは、もはや文法的な接続ではなく、「あ~」「う~」といった、会話の際の間に生じるなうめき声に等しく、まったく無意味で聞き苦しいどころか、「あ~」「う~」以上に、何を言いたいのか内容をわからなくしてしまう危険性をはらんでいる。その点、無意味ながら、謙譲を示しているようにも聞こえる「シーマセン」の方がまだマシかもしれない。 会話での接続詞は、自分が前に話した内容を、自分の頭の中で整理して、次の言葉につなげる働きがある。故に、「なのでぇ」を何でもかんでも使用してしまうと、会話が混乱して要点が相手に伝わらず、自分の頭の中まで混乱させてしまう可能性があるのだ。今話した内容を自分の頭の中で確認し、続いてそれを肯定したり補強する内容を話すのか、否定するのか、接続詞の選び方で自分の話す内容を規定しなければならないが、それを省いてしまうため、自分の発言が自分でも整理できないので、会話を終了せず、だらだらと「なのでぇ」と接続した長話が続くことになる。つまり、のんべんだらりと、「なのでぇ」などと長々しゃべくっていると、自分の頭の中が腐ってしまうと言えよう。 なので、なのでの安易な使用は避けるべく、気を付けたいものなのである。
2013年04月03日
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広島県の安佐動物公園内「ぴーちくパーク」で飼育されていた、ジュウシマツとキンカチョウ(読売の記事では「カエデチョウ科」、記者にとってキンカチョウはなじみが薄かったのだろう)合わせて50羽ほどが、食中毒で死んでしまった。「エルシニア・シュードツベルクローシス菌」という、縮めて欲しい名前の病原菌に集団感染してしまったのだが、これは通常、病名としてはエルシニア症と呼ばれ、人畜共通感染症として知られており、特に珍しいものではない。ただ、それが、小鳥に大量死をもたらすという認識は、私には無い。聞いたこともない。つまり、この記事を読んで、何となく鳥インフルエンザ騒動などを連想して「人間には感染しないのかしら」と世間並みの漠然とした不安は感じず、「人間から感染したのかしら」「何で死んでしまったのかしら」と悩むことになった。 エル何ちゃら菌について、神戸市の説明を参考にすると、野生動物に広く分布していて、ネズミやウサギが保菌していることが多く、人間にも感染し胃腸炎その他の症状を引き起こすが、一度罹患すれば終生免疫を持つため、成人への感染は稀、といったものだとわかる。ようするに、ほとんどの大人は、成長の過程でこの菌に少量感染する機会があったため、ほとんど自覚症状のないまま、免疫を獲得しているわけだ。 その特別珍しくもなければ、人間にとっての危険性も知れているものが、なぜ小鳥に大量死をもたらしたのか。その点について、記事では「舎内のウズラやハトなどに異常はなく、同園は餌や水を介した感染ではなく、菌を持った野ネズミなどが入り込んだ可能性がある」とするのみだ。おそらく、感染ルートとして、保菌したネズミなりリスなりの野生動物が禽舎に入り、それらのフンが飲水の中に入った、といった推測が報道関係にあったのだろうが、私ならその説明に納得はしない。同園に飼育する保菌した哺乳類のフンが、飼育員の靴に付着するなどして、禽舎の飲水に混入した可能性の方が、よほど大きいと思うからだ。どういった構造か知らないが、野ネズミが入り込めるなら、ジュウシマツが飛び去ってしまうのは、幼児でもわかる理屈のはずで、それに気づけば、動物園側の説明に頷くばかりでなく、飼育員の持ち込みの可能性を感じ取って取材するはずである。 この記事だけを読むと、ウズラやハトには毒性はなかったが、カエデチョウ科の小鳥には致命的な強毒性を示したことになりそうだ。しかし、エルシニア症が格別小鳥に危険な存在となるとは、寡聞にして聞かない。もしかしたら、危険性を見逃してきたのかもしれないが、培養において37℃以上では非活性となる特性を持つ細菌が、体温が40℃に達する小鳥に、格別の被害をもたらすとすれば、やはり不思議ではなかろうか。 今回の話は、集団感染による集団死には相違ないが、その期間は12日間にわたっており、その12日間は具体的にはどういった経過で、動物園側はどういった処置をとっていたのか、知りたいところだ。もし、病鳥に気づかず、気づいても何の対処もせず、死んだ小鳥を漫然と拾っていただけなら、取り立ててニュースにするような出来事か怪しくなってしまう。なぜなら、不衛生な飲水により細菌性胃腸炎を引き起こし、「冷え込みが原因」と思えるくらいの環境で放置すれば、小鳥の場合、生き残れる方が奇跡になるからである。飲水に混入したのも問題だが、エル何ちゃら菌は低温の方が活性化する特性を持つので、水の入れ替えを怠ったり、水たまりが放置されていたり、そういったものにエル何ちゃらが入り、寒天に晒していれば、増殖し、高濃度な分だけ急性症状を引き起こす危険性は高まるはずである。それでも、暖かい場所に移して保温し(病鳥は体温を低下させるのでエル何ちゃらのようなものは増殖しやすくなる)、抗生剤を投与するという、特に病原が特定されずとも普通に行う治療を実施していれば、かなりの小鳥は救われたのではなかろうか? 「ぴーちくパーク」に文鳥がいないらしいので、難癖を付けるわけではないが、エルシニア症の小鳥への強毒性が証明されない限り、私としては、今回の件を普通に飼育が不適切だっただけとしか思えず、「哺乳類、特に齧歯類も飼育する場合は、要注意」といった注意喚起も為しがたいところである。鳥インフルエンザなどで、よく分かりもしないで不安をあおってくれたマスコミだが、動物園の認識や対応も、少々考えものだと思ってしまう。
2013年02月05日
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今日の産経新聞で、立命館大学の加地先生が、海江田万里氏が民主党代表に選ばれた際の漢詩を、「決まり文句ただ並べただけ」の「下手な詩」で、「下手の横好き」にせよ漢文の語句の意味を理解しない「メチャクチャ」な「和臭のある作品」に過ぎず、「無教養をさらす」と、散々に酷評されている。教養をひけらかしたつもりが、底浅さを露呈するのはよくあることなので、恥をかかないように他山の石として自戒したいものだ。 知ったか振りの浅知恵で恥をかくのは、身に覚えも多い世の常ながら、昨今の大阪市立の体育の高校での問題について考えていると、以前目にした、やはり浅知恵としか思えない童謡をめぐる評価を思い出した。それは、うろ覚えだが、「だれが生徒か先生か」「みんなで元気に遊んでる」民主的で自由な雰囲気の『めだかの学校』に対して、『雀の学校』の先生は、「チイチイパッパ、チイパッパ」「ムチを振り振り、チイパッパ」と、ムチ(鞭)による体罰で生徒を従わせており、何と軍国教育的なことか!といった内容であった。 無論、これは誤解、むしろ曲解だ。今でも生徒に教えることを「教鞭をとる」などと表現するように、昔の教師は手にすることが多かったが、それは体罰の小道具としてではない。ムチが体罰にしようされるいった発想は、昔の映画でインディジョーンズが武器にしていた長~いものや、サドの女王様がピシ~リピシ~リとマゾ男に振るうようなムチしか連想できないムチ、否、無知でなければ成り立ち得ないように思う。もちろん。教鞭とは華奢なもので、教科書や黒板をパンパン叩いて音を出したり、板書の重要箇所を指し示したりするのを目的としている。体罰などに使用したら、教鞭の方が壊れてしまうはずである。そもそも「ご指導ご鞭撻をよろしくお願いします」と恩師などに挨拶する時、「鞭撻」、ムチでピシ~リピシ~リされようと願っている人は、たぶん、いない(いたら変態)。この「鞭撻」は慣用句に過ぎないが、意味を考えるにしても、教鞭でパンパンと音を立てるように、注意喚起をしてくれたり、人生の行くべき方向を指し示してくれたり、そういった恩師の「鞭使い」を期待していると考えるのが、真っ当なところであろう。 歴史的背景として、昭和25年作詞の『めだかの学校』が、戦後デモクラシーの所産であるとすれば、大正10年の『雀の学校』も大正デモクラシーの時代のごく平和な学校風景を歌っているに過ぎない。「生徒のスズメは輪になって、お口をそろえてチイパッパ」「まだまだいけないチイパッパ、もいちど一緒にチイパッパ」、の歌詞だけでも、実に平和的な小鳥たちの戯れしか思い浮かばず(あの曲調は軍国主義とは無縁だろうに・・・)、また、それを比喩とした、汗水たらして、傍から見れば多少ユーモラスに、あっちこっちと動き回って、教鞭を指揮棒のように忙しく振って、コーラスの指導をしてる人間の学校の先生の姿しか連想しようがないではないか。 この鞭に対する無知によって生じる「ムチを振り振り、チイパッパ」を、ムチによる体罰教育を象徴すると見なす的はずれな解釈、それが体罰を否定する立場からの誤解なら可愛げもあるかもしれない。しかし、体罰を肯定的に捉えるものと曲解する人もいないとは限らない。「教師の指導には体罰が必要だ。愛のムチと言うではないか。『雀の学校』の先生も鞭をふりふり奮闘しているし・・・」。と言うわけである そもそも、生活指導上に行う体罰は、頬っぺたかお尻に平手打ちと古より決まっていて、それ以外はたんなる暴力なのだが、それも理解していない人が多いのは不思議だ。第一、生活指導上に行われる体罰とは、すなわち教師による親権の代理処分以外ではない。それは、甘やかすとつけあがり将来的に他人様へ迷惑をかけるようになりそうで言っても聞かないような場合に限り、その子の将来を思って(その子に被害を受ける人が出ないことを願って)行われるもののはずだ。いったい、部活動に自由意思で参加し、上達したいと指導されることを望む者に対し、体罰など不必要に決まっている。言って聞かないからの体罰で、言ったら聞くのに体罰するなど、指導する側が口も聞けないバカであるのを示すに過ぎない。「2軍に落とすぞ!」で震え上がってくれるような従順な子供に、何で暴力の必要があるものか。自分のストレス発散に過ぎない暴力、軍隊の新兵イジメの如き目下のものに対する卑劣なパワーハラスメントを、指導という名の元に正当化するなど、愚劣極まりないとしか言いようがない。 私は当初、責められるべきは、その顧問教師個人であり、さらにそれを管理できなかった学校であり、その学校を監督できなかった教育委員会であり、つまり『オトナ社会』が悪いので、その犠牲者とも言える立場の在校生徒たちへの影響は、極力止めるべきだと思っていた。従って、大阪市長の橋下氏の発言には首肯出来なかったが、この間報道される内容を見聞きしていて、考えが変わった。まず、事件が露見した当初の、学校など加害者と言って良い『オトナ社会』の反応が奇っ怪であった。顧問教師の暴行を苦に、部活動のキャプテンだった生徒が自殺してしまっているにもかかわらず、その顧問教師や学校側は「教師の指導には体罰が必要だ。愛のムチと言うではないか」といった認識を平然と示し、さらに保護者の集まりでも同様の意見が父母から出ていたと言うのである。教師なり指導する立場の者が、鞭をふりふりチイパッパ苦労するのは、その子の人格を認め、原則的に体罰をせず、褒めたりすかしたりしなければならないからなのに、この脳みそも筋肉らしい連中は、自分の生徒や子供を、ぶん殴ってひっぱたいて体に覚えさせねばならない牛馬のような存在と見なしているのではないか?それでも、生徒たちは苦悩しているに相違ないと思っていたら、他の部活の在校生徒が、いったいどこのオトナに使嗾されたのか、理解不能な記者会見を行った(行わされた?)。甚だ遺憾なことに、その内容に、自分たちを牛馬として扱う如き体罰を否定する決意は無く、むしろ指導と称する暴力を肯定し、亡くなった生徒への労りよりも自分たちへの悪影響を嘆くばかりに聞こえた。私は愕然とした。周囲の歪なオトナたち、その腐れ外道どもの暴力でしつけられ、それに従順するばかり、これでは、たんなる「スポーツ馬鹿」になってしまうとの危機感がなさすぎるではないか。 指導ではなく理不尽な暴力を受けたとして、自分たちと同じ立場の生徒が死んでいるのである。これは憤死であって、それを抗議の死と見なさなければ、亡くなった者はうかばれないだろう。つらい思いをした仲間の気持ちを正面からとらえず、仲間の死に無力であった我が身を自省せず、現状を肯定し被害を訴えても、第三者は同情してくれるわけがあるまい。社会はさほど甘くないし、そもそも共に闘う仲間を大切にし仲間を労わる気持ちを涵養することこそが、集団スポーツ競技の教育的意味合いのはずなのに、一体何を教え教わってきたのか、と、残念に思うより腹立たしく思えたのである。 高校なんぞたった3年だ。その3年が、たった十数年しか生きていない連中の主観においては、重要に相違なく、体育会系なら部活動のために生きていると錯覚するくらいに特別でも不思議はないだろう。しかし、人生は彼のように自殺でもしない限り、今現在、特別な部活動を終了した後も、長く長く続く。それは、オトナならみんな知っている事実だ。プロの運動選手となるわけでもなければ、部活の3年で得るべきものは、記録としての大会の成績よりも、努力した記憶とそれによって培われるはずの精神でなけばならない。それは確かに立て前の綺麗事で、文系の私に言わせれば「ウザイ」面が強いものの、それなりに真実でもある。そういった教育としてのスポーツの大前提すら見失った部活動に、気づかず、牛や馬のごとく無考えに励んでいた生徒たちには気の毒だが、この際、じっくり自分を見つめ直すことこそが、将来につながるものではあるまいか。 かくして、在校生徒には同情していたが、同情しては為にならないと思うに至ったのである。 すでに体育の施設が充実した名門高校は存在しない。栄光は過去のもので、過去の栄光すら泥を塗られてしまった。塗ったのは、自殺した彼ではない。泥にまみれているのに気づかずに気づかなかっただけのことだ。気づいて排除すべきは、周囲のオトナたちだが、泥まみれに気づかずにいた在校生徒も、しっかり考えねばならない。他人事ではないのである。当然、過去を求めて新たに入学しようとするのは無いものねだりであり、自分のいる間だけでも同じであって欲しいと願っても、もはや無理でなのである。 もちろん、かなりの程度スポーツに特化した公立の高校教育があっても良いし、そこに在学して部活動に励んだことは恥ずべきことではなく、その自分自身を大いに誇りとすべきだ。今回の問題のほとんど全ては、専門的教育の現場を理解せずその内容をチェックもせず、野放しにしていたばかりか、たびたびあった警告を黙殺した大阪市の公共教育に携わるオトナたちの責任に相違なく、在校生たちには何の罪もない。彼らは、基本的には、たった3年の間、たまたまそこにいたに過ぎない。しかしそれは部外者の客観的な話。母校に誇りを持ち、3年の学校生活を悔いなく送っているのであれば、母校の問題点と仲間との連帯感を持たねばならない。そうでなければ、その学校にいる自分のアイデンティティを失うだけで、そこにいる意味がない。 もし、個々の主観として、自分と同じ学校の仲間の死を真剣に受け止めるより、自分の部活動への影響を先に考えてしまっていたとすれば、人としてスポーツ選手として同校の生徒として、それが正しい在り方なのか、その自分自身を深く考えるべきだろう。それをしっかり考えることこそが、目先のスポーツ大会に記録を残すより、高校卒業後の人生の糧になるはずである。若い諸君には、阿呆で無責任なオトナに振り回されて災難に相違ないが、一部顧問の無知に基づく『無知の鞭』よりも、この逆境こそが、正しく自分を鍛える機会(鞭撻)になったと思えるように、頑張っていただきたい。 末尾ながら、この際、橋下市長にも期待したい(国政より市政難題多しのようですね)。
2013年01月27日
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この選挙戦で某議員が「羅針盤をキル」と連呼する姿をテレビで見かけていたたまれない気分になった。昔ピースボートやらいう船旅に関与された人だったはずだが、船に必須の羅針盤がどういったものか知らないのだろうか?羅針盤とは、平たく言えば方位磁石で、進むべき方角進路を見るなり測るなりするものであり、着るものでも切るものでも斬るものでも有り得ない。 おそらく、国の進むべき方向を変えるとの意味で、「舵を切る」と言いたかったのだろうが・・・、「羅針盤斬っちまったら、そりゃ漂流するわぁ!選挙直前に羅針盤のねえ難破船から、無節操なネズ公めらが逃げ散りやぁったが、沈む船を見限るなぁ港にいる時だーね。海に出ちまってから逃げりゃあ、海の藻屑に決まってらぁー!」なのである(もっとも助け舟『維新』で逃げおおせたネズミ殿もいるようだが・・・)。羅針盤を失った難破船に残った者は、選挙の嵐で木っ端微塵。救難ボートで一部が生き残れただけ・・・、それこそ当然の帰結だろう。野田氏は選挙期間中、他党の非難や自民党時代への回帰を否定していたが、失われた20年どころか難破漂流(そんなコマーシャルを、昔、あの民主党3バカトリオがやってましたな)の3年余を現出した党の者が訴えても、しらけてしまって逆効果であった。ブレーキとアクセルの区別もつかない無謀な無免許運転を続けた反省にたって、政権担当能力が向上し、二大政党の一翼は今後も民主党が担うしかないと訴えるくらいしか仕方がなかったはずである。 今後、民主党、崩壊せずに立ち直ってくれるだろうか?あの連中ではダメだと思うなぁ。マスコミが好きな政界再編とやらで、百家争鳴状態となるのか?野党の維新とか民主とかの内部分裂などはあるだろうが、与党が安定過半数になっている以上、それもないだろう。当面は、万年与党と、実現可能性のない非現実的な政策を無責任にがなるだけの無駄食い弱小政党いくつか、といった構図が続くのか?ともあれ、新政権に頑張って頂きたい。 そう言えば、卒原発のアレは、卒小沢の圧倒的民意を受けて、彼氏の政治的延命の何の役にも立たなかったようだ。子分が雲散霧消して、本当の一兵卒になって、身軽でよろしいですな。
2012年12月16日
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本質的に、世襲政治家どころか世襲の職種、例えば歌舞伎役者のようなものは、(天皇家以外は)みんな大嫌いだが、世襲なら無条件に否定されるべきものとも思わない。その職種において、狭くとも、世襲で無くとも実力で出世できる余地があるなら構わないだろう。その一方で、世襲でも実力を伴っていれば、結構なことだと思う。 政治家についてなら、小選挙区制度である限りは、世襲を批判する必要はないと思っている。オヤジが誰であれ、対立候補より無能と有権者に見なされたら、「無党派層」と呼ばれる普通の人たちにそっぽを向かれて、議席を確保し続けることなど不可能になるだけだからだ。後援会なり各種団体なり、そんなものに属している者は、有権者の一部に過ぎないので、ちょっと風が吹いたらバッタバタ落ちるだろう(比例復活など無くせ)。それは、前回の総選挙における自民党の体たらくを見れば明らかではなかろうか。地盤・看板・鞄によって盤石には成り得ないのが、小選挙区制の良いところと言えよう。 今回、自民党の大物とされた政治家(あれらが大物・・・)が引退して、子供が出てくるので、民主党はそれを非難したいらしい。しかし、世襲の最悪なケース2例と、世襲でない口先男1匹が、トロイカなどと称して君臨し、それらを改められなかった無能集団が、今更何をかいわんやである。世襲にせよ世襲でないにせよ、ろくでなしはろくでなしであることを、満天下に晒し続けた3年余を、自覚する能力すらないのだろうか。それでも、沈みゆく船から逃げ出すネズミどもより、よほどマシな人間に見えてしまうのだから、困ったものである。 それにしても、この後に及んで離党など、何なのだろうかあの連中は。昔の政治家は好んだらしい中国の古典『菜根譚』に「権勢に依阿する者は万古に凄涼たり」とあるが、民主党の場合、主権者である国民に依阿、すり寄ってこびへつらって議席を得、与党として政治を左右する立場になったものの、無能で不見識なので、たちまち馬脚を表して、永遠に凄涼、つまり、恐ろしいまでの荒れ果て人気も何もない寒々しい状態になるだけと言うことになる。それは当然の帰結ではなかろうか。 個人的には無学なので、サイコンタンもアンポンタンも違いはよくわからないが、上の句の前は「道徳に棲守する者は、一時の寂寞たり」であることは知っている(みなもと太郎さんのマンガ『風雲児たち幕末編』で吉田松陰が言ってた)。中身の無い者こそ付和雷同(一定の主義・主張がなく、安易に他の説に賛成すること)に群れ集まり、一時の孤独をかこつ覚悟がない。付和雷同の結果生じた政党は、やがて雲散霧消、蜘蛛の子を散らすことになることくらい、何しろ現在進行型でそうなっている政党が目の前にあるのだから、たやすく理解できるはずだが、平均寿命を超えた大年寄りからして、同工異曲にそれをまた始めようとするのだから、何をかいわんやである。 自民党に不満があり、社会党に期待したが(「山は動いた」by土井たか子)、時代遅れの役立たずなのが露呈して、急激に減退、自民党の仲間割れを経て、それに変わり得る新党の出現に期待したが、社会党のポンコツと田中派の成れの果てどもの受け皿になってしまい、そのツケをこの3年で払わされた。次は、民主党や自民党からこぼれたポンコツを拾い集めた、維新とやらの成長に期待しなければならないのであろうか。 このような迂路迂路(ウロウロ)したプロセスを、小選挙区制で総選挙繰り返しつつ経ていかなければ、政権交代可能な責任ある政党は育たないのだろう。忍耐は、まだまだ必要になりそうだ。
2012年11月20日
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朝晩はご飯でないと嫌な人間のくせに、たまに「チーズフランス」などと呼ばれる類のパン(フランスパンの中もしくは上にチーズがあるもの)が食べたくなるだけの理由で、引っ越し先周辺のパン屋を経巡ってしまった・・・。理想は「チーズフランス」類があり、そこそこ美味しく、あまり混まない、街中の小さな店なのだが、それを求めていたら、スーパーなどに付属するところを除いても、↓のような店々に行って買ってきて食べているではないか!改めて整理したら、自分でも驚いてしまった。 せっかくなので、たまたま食べたパンでの印象を、主観的に評価してみる。 まず一番は『パン・ピジョン』だ。パンそのものも十分うまいが、それ以上にクリームやあんこ(私はあまり食べないのだが、親類一同のため、あんパンを定期的に買いに行かされることになってしまった・・・)の甘味がくどくなくて美味いのだ。やたらと具が大きいのは、評価が分かれそうだが、「チーズフランス」もあり、それも十分に「そこそこ」なので(やはりチーズはデカいわけで・・・)、言うことなし。だが、すでにその品質に見合った評価を受けていて、かなりな人気店になっている点がネックとなる。私の行く中途半端な時間帯には、あまり混んでいないが、その代わりパンの種類も少なくなってしまうのだ。 具ではなく、パンそのものなら、『かじパン』をより評価する。開店から2年半ほどの小さなお店だが、妥協の無いパンの味がして、フランスパンもクロワッサンも美味い。「チーズフランス」的なものに使用されているチーズも美味い。パンだけを買いに行く時は(おそらく数ヶ月に一度・・・)、ここだと確信したのだが、まだ今ひとつ認知されていないのか、正当な評価を受けていない感じなので、そのうち人気が出てくると、行きづらくなるかもしれない(つまり、私基準の「そこそこ」よりも美味いのである)。 味は「そこそこ」で焼く量もそこそこなので、中途半端な時間にも、それなりに豊富なパンが残っている可能性が高いお店、それこそ私の好むパン屋さんで、その意味では『パンの樹』が一番好きだ。何しろ、私は食物を並んで買うのを嫌い、並ぶくらいなら食わないのである。確かに、時間帯によっては行列の出来る人気店『パン・ピジョン』や、チェーン展開している『ディジィ』のように、洋菓子ファンをも引き寄せる甘味の罠は期待できない、ちょっとチープな純然たる街のパン屋さんかもしれない(ちくわパンとか素敵でしょ?)。しかし、駅前のあまり繁華でない商店街に、何とな~く立地しているところが素晴らしいではないか。何しろ、ビールのつまみとして最強というべき鶏手羽先焼きを売っている『鳥政』が近いので、個人的には、合わせ技1本は確実なのだ。この際、蕨ピアロード商店街に栄えあれ!!と叫んでおこう。 なお、断っておくが、私の判断基準に「接客態度」の文字はない。よほど無茶苦茶で横柄ならその場で張り倒すかもしれないが、店員の愛想が良いとか悪いとか、気にしないというより気に止めておらず、そもそも、ほぼ記憶にない。パン屋にはパンを買いに行くだけなので、レジの店員さんが、珍しく若くて可愛い女の子であったとしても、無関係なのだ(絶世の美女が包装しても、まずい物はまずい。親切な店員さんに好感が持てても、パンの味は変わらない)。パン屋さんを接客の好悪で判断するなら、八百屋や魚屋ではないので、野暮ったい売り子さんがニコニコしているだけの方が宜しいと考えるのだが、どんなものだろう? 繰り返しとなるが、星マークは、フランスパン類の硬いパンの方が好きで、菓子パンや惣菜パンには冷淡、チェーン店には厳しい私が、主観的にランク付けしたものなので、他人の参考になるものではない。好き嫌いは人それぞれなので、こういったものは、自分の舌で確かめるのみなのである。所詮味覚は主観の世界なので、自分以外の舌は腐っていると思っても、別に間違いとは言えまい(集団で浮くだけ)。もちろん、舌など肥えていても、金がかかるだけで、偉くも何ともない。グルメぶって能書きを垂れる奴は、アホウなのである。 その点、最近はやりのB級グルメなどかわいらしいものだが(並んで食う奴を笑っているにせよ)、B級の分際で、能書きをタラタラやられたら、さらに興ざめだ。うまいと思う人が多ければ勝ち、それだけのことだろう。 閑話休題。↓一覧参照で終了。☆☆ ロティール 埼玉県川口市柳崎1丁目20-41 パンも作っている洋菓子屋さん=パンは評価対象にならない。☆☆ サンメリー東浦和店 埼玉県さいたま市緑区大字大間木1705-1 外のベンチでお茶するのなら良いかも・・・。☆☆ ボヤージュ 埼玉県川口市幸町2丁目17-1 我が家からは遠いので・・・。☆☆ パンの樹横浜館 埼玉県川口市前川4丁目4-5 フランスパン系が手薄か。 ☆☆ オルブロードミカド住所 埼玉県川口市坂下町2丁目2-20 やわらかいパンが好きな人にはお薦め。☆☆ オガワベーカリー 埼玉県川口市芝下2丁目25-28 庶民的でサンドイッチが豊富で面白い。☆☆ 風見鶏 埼玉県さいたま市南区大字大谷口5338-6 期待しすぎたかも。☆☆☆ ホッペホッペ 埼玉県川口市西新井宿103-4 フランスパンはないが、小ぶりのパンはみな美味い。☆☆☆ サンジェリーナ鳩ヶ谷桜町店 埼玉県川口市桜町3丁目7-3 普通の街のパン屋さん。☆☆☆ デイジイ/東川口店 埼玉県川口市東川口2丁目5-1 何となく味がくどい気がする。☆☆☆☆ パン・ピジョン埼玉県川口市里1245-1 和洋ともに甘味を極めている。☆☆☆☆ パンの樹 埼玉県蕨市中央3丁目12-18 庶民的で種類豊富。☆☆☆☆ かじパン 埼玉県川口市芝下1丁目15-3 お店は小さくともパンはしっかり。
2012年10月24日
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横浜市の不動産価格は高すぎる。 南北西は「山脈」で、中央部にしても丘ばかりで、平坦地といったら運河状の川っぺりくらいのもの、これが横浜市の地勢である。従って、安い家など崖にセマセマコセコセと建てられており、それは良いとしても、坂ばかりで生活に不便な場所が多いのは否めない。「港ヨコハマ」と言えば、イメージは良いのかもしれないが、生まれも育ちも横浜で、伊勢佐木町の通りで三輪車に乗っていて、社会科大好きで横浜市立の公立小中学校でしっかり副読本をちゃんと読んだ人間ながら、冷静に評価するなら、褒められたものではない。 もちろん、海からの風で暑さも寒さも抑制的であり、港の辺りは晴れた日に散歩すると気持ち良いけれど、散歩などしない圧倒的多数の市民には無意味とも言えよう。ようするに、仕事の関係で離れられない人をのぞけば、何となく住んでいる人が多いだけかと思える。東洋一を誇ったゴミ焼却施設は、前市長の中田氏の個人的趣味なり思いつきのパフォーマンスのおかげで、ゴミの分別がやかましい地域になったし、市営バスは(人件費の高コストを放置し、老齢無料パスを残しつつ)、便数が減ったり廃線したりで利便性が低下した。古く暗く狭い市庁舎に収まらない市行政は、周辺の民間オフィスを借りて分散して存在するという非能率を続けており、口先改革派の前市長は、何やら市職員とは仲良し関係を続けつつ、一般住民の利便性を犠牲にしてくれたように思える。挙句が、長年にわたって税金から積み立てたお金を、具にもつかず市民からそっぽを向かれたイベントで費消し、その責も負わずにトンズラしやがった。あの方は、中央政界の野党で口先のパフォーマンスをしていればお似合いだが、行政を担うのは今後ともおやめになるべきだろうと私は思う。 話が横にそれた。個人の問題であった。ともあれ、どこかに出かけて家に帰る際に、いちいち標高50メートル超の登山をするのは、よほど剣呑で、その家もボロボロの貸家なので、好き勝手に修築出来ず、大きな地震には耐えられないどころか、近々に全面リフォームしないと雨漏りその他も生じかねない状態であった。リフォームするくらいなら、引っ越したほうがよほど効率が良い。普通の賃貸は、むしろ高くつくし、鳥が多いと苦情があるかもしれない。 そこで、特にこだわりなく、生まれ故郷の横浜から出ていくことにしたものの、あまり高飛びは出来ない。一人ならそれも良いのだが、親、年寄りが生きている。これらを連れて、僻地で生活するのは無理だ。また、商売上の諸般の事情もあり、将来的に、文鳥の一時預りや「文(分)譲」を行う場合、飼育人口過疎地域ではどうしようもない。また、文鳥たちを診てもらえる獣医さんが近いほうが安心出来る。文鳥が20羽超もいるので、一戸建てでないと厳しい。そして、当然、安くないと買えない。 いろいろと勘案して、川口市北方かさいたま市北方に目星をつけた。首都圏の都市部であり、東京都心からの距離なら横浜より近いくらいだが、不動産価格は30パーセント以上安いように思えたのだ。 個人的には、新築よりむしろ安い中古で良いのだが、中古購入で、自営業者がローンを組むのは難しそうだったので、1年後、遅くとも2年後の脱横浜を考え、自己資金を貯めることに専念することにした。これが今年の3、4月のことだ。 ところが、6月になって、不動産さんが熱心に薦める新築物件があり、横浜あたりの不動産価格では考えられない安さと好条件だったので、現地に見学に行くことにした。見学したところ、価格が安くなる理由もはっきりし(高速道路が近いなど)、それは当方の感覚ではあまり気にならないことだったので(閑静な住宅地より騒音があったほうが気楽)、つまりは、大変気に入った。この際、熱心な不動産屋さんに乗せられてしまうことにし、アレヨアレヨという間に、ことが進んだのであった。 本当は、引越しは8月の末くらいにするつもりだったが、登記の必要性から19日には転出届を出したので、急がねばならなくなった(年寄りは通院しているので、健康保険証が宙に浮いた状態が長期間にわたると面倒になる)。おかげで、連日大忙しとなり、横浜と埼玉の間を往復し、荷造りには十分に手が回らないという、忸怩たるものとなった。 そのため、整理の出来ない者たちの無駄な梱包でダンボール数が膨らみ、梱包すら不十分なため当日も予定以上に時間を要することになった。そのため、荷解きの際にひどく腹を立てることになったが、まあ、それでも何とか引っ越せたので良しとしよう。【経過】6/4 【埼玉】現地見学→住宅ローン仮審査申し込み ※電車遅延6/6 仮審査通過6/7 【埼玉】手付金支払い、住宅ローン本審査申し込み6/8 区役所(住民票・印鑑)、税務署(納税証明書)→送付6/16 本審査通過6/19 転出届6/21・22 引越しの見積もり(25日に引越し)6/23 火災保険見積もり、表札の発注6/26 【埼玉】市役所で転入届、ローン契約6/27 電話・ケーブル会社に転居の連絡6/29 ガス会社に転居の連絡7/2 電気・水道に転居の連絡7/3 引越し後の廃品処分の申し込み7/5 【埼玉】決済 ※刃物男出現のため電車遅延7/7 【埼玉】荷受、浄化槽手続き、運送会社ドライバーに直接見積依頼(2週間ほど前に電話で依頼済み)7/8 【埼玉】荷受、照明設置、ケーブル会社の説明を受け申し込み、叔母たち見学7/9 ケータイ購入、住宅エコポイント申請7/10 郵便局に転居届7/12 【埼玉】荷受、内装工事の打ち合わせ、網戸設置7/13 【埼玉】エアコン設置工事、本棚の組立7/18 郵便局振替口座の住所変更7/19 【埼玉】荷受、朝顔のプランター設置、ガス開栓、生協宅配加入、税務署に転入届けなど7/20 【埼玉】内装工事開始、カーテンレールの設置など作業7/21 【埼玉】内装工事開始、カーテンレールの設置など作業7/23 【埼玉】金魚の引越し、ガスコンロ交換7/25 引越し、NTT回線工事7/26 ケーブル工事7/27 【横浜】ケーブル撤去工事、不用粗大ゴミ搬出、後片付け・掃除
2012年08月05日
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今現在、原発稼働再開に反対している、関西電力管内の電力消費者は、昨年来の自分たちの考え方の変遷を、じっくり思い起こされるべきではなかろうか。もちろん、私を含め無責任な一般ピープルが、その時その時で感じたことに一貫性などなくて当然であり、覚えていないかもしれない。だが、地域のトップに立つ政治家なら、そうはいかないだろう。そこで、とりあえず、橋下大阪市長さんの原発や電力に関するご発言の変遷を、ノートにでも抜き出して、それが政治家として一貫性や先見性があるものか確認し、他山の石にするのも一興かもしれない。 なお、誤解されるといけないので断っておくが、私は橋下さんを独裁的だとか「ハシズム」などと、ほとんど感情的に非難する人たちに、より不快を感じている。市長選の際は、独裁だの何だのと既成政党が、右も左も全部、何と共産党までもが反橋下で結集し、死にものぐるいの組織戦を展開していたようだが、それこそ大政翼賛であり、全体主義であり、ファシズムというべきであって、自由民主主義を否定した地方の既得権保護の亡者どものあがきとして、気色が悪くなったものである。つまり、地方自治体の改革では、橋下さんにずいぶんと期待しているのだが(横浜のあの前市長を盟友としたらダメかとは思う)、電力の需給問題については、国政レベルの政治的資質を疑問視せざるをえない。 繰り返しとなるが、定期検査を終えた原子力発電所を再稼働させない、などと言うのは、本来、理屈がない。危険性があるので止めるのであれば、昨年の大天災による原発事故の際に全停止せねばならず、東京電力管内がそうであったように、公共交通がストップし(そういうことにはならないと前夜の会見で東電は説明していた。見通しの甘いデタラメで、翌朝の体たらくに大いに唖然とした。原発の事故を起こしたことよりも、あのいい加減極まる対応で、私は東京電力など信用できないことを悟った)、全国的に「輪番停電」「計画停電」が実施されるべきであった。しかし、現実は、事故の重大な進行に気を取られ、他の健全に稼働中の原発を止めることに、ほとんどの人間は気付かなかったのではなかろうか。 しかし、幼児的な放射能恐怖症で極度の対人不振に陥りつつも、スタンドプレーだけは希求し続けたと思われる当時に首相(国難に身を挺して当たる英雄的リーダーと、自分では思っていたはずで、政治記者の質がよほど悪いらしい毎日新聞だけは、その行動を賛美していたようだ。しかし、有り体にいえば、浮き足立って専門外のことに口を出し、やたらと怒鳴って情報伝達を硬直化させ、混乱に混乱を重ねさせただけであることが、最近の調査で明らかになってきている。・・・もっとも、調査などしなくとも、冷静に当時の面付きや言動を見聞きしていれば、トチ狂っていることくらいわかったはずだと思う。ああした場合、近くにいる奴が、二、三発ぶん殴ればしゃんとしたかもしれないが、周囲はお育ちの良いエリートばかりで、「愛のムチ」的暴力を期待しうるのは、彼のがらの悪い女房【ファーストレディー!】くらいで、その婆さんが夫以上に不見識でトチ狂っていたようだから【酩酊してインタビューに答えるような、嗜みがあればやっちゃ場のババアでも避けるようなことを、平然となされる実に庶民的な方であった】、どうしようもなかったのかもしれない)が、静岡県の浜岡原子力発電所を無理やり停止させた昨年の5月上旬には、他の原発の危険性に気づいたはずである。ところが、自分の管内に電力を供給してくれている原発の停止を、浜岡同様の処置を求めず、その電力で大した節電をせずとも夏を乗り切り、むしろ、電力の供給不安がないと位置づけ、大阪に首都機能を引き受けるようなことを主張していたのではなかったか。もし、論理的整合性を意識した上で、その主張を行うのであれば、原発維持(推進ではない)は必須のはずである。 私は、キッキ首相が、自分のオツムがまっ先に危機に陥っていたアレが、浜岡を停止させた時、他の原発求めるように主張した、全体から見ればごく一部の反原発運動の人たちの意見を、実にもっともだと思った。もちろん同意はしないが、今でも、その主張を貫いている人たちには、敬意を表する。ところが、より多くの国民も為政者も、事故の前から予定されていた定期検査に入るまで、原子力発電所の稼働を当然のことのように黙過してきたのである。その人々、事故後ですら原子力発電の恩恵を被り続け人たちが、予定の手順で再開することに対して、何を反対できるのであろうか?福島に対する東京同様の電力消費地の分際であれば、何を意見がましいことを口にすることさえ、厚顔無恥と言えよう。 昨年夏、暑さの中を節電で喘いでいた首都圏では、日本人的ないじらしさで、ずいぶんと節電に励んだものだった。関西電力も、6月10日、「夏の電力供給不足による停電を回避するために、同社管内のすべての利用者に対し、7月1日から9月22日の間、平日9時から20時の時間帯に、昨夏比で15%程度の節電への協力を呼びかけ」たのだが(記事)、さて、ご記憶になっているだろうか?15%は原発停止中の東京電力や東北電力並みの厳しい数値で、原子力発電所がいくつも稼働し続けていた関西電力管内で、そこまで必要性があるのか疑問だが、、『情緒的』には、同じ苦しみを味わっても良かったかもしれない。しかし、この時、大阪府知事であった橋下氏は、即座にそこまでの節電は必要ないと決めつけたのである(ニュース映像)そして、過度な節電要請は、原発を止めると電力不足が生じるとの、電力会社側の脅迫と考えられていたようだ。確かに、情緒的な自粛よりも、余剰があるなら普通に使用し、電力不足を懸念する東日本の企業を受け入れるなど、関西圏の景気を良くした方が、被災地の助けになるという考えは、それはそれで正論のはずで、私も個人的にはその意見に賛成だ。しかし、この場合、橋下氏は稼働中の原発の継続を支持し、それを前提として、節電は必要ない、との意見と見なされて不思議はないだろう。原発に反対なら、ただちに稼働中の原発も停止し、より以上の節電を、昨夏に実施すべきだったのである(立地自治体ですら無いので、言ってもまるで影響力がないことを見越した上で、無責任ながら、少なくとも口先ではそう言えば良かった)。 昨夏の節電、結果どうなったか、電力研究所の報告論文「事業所アンケート調査に基づく2011年夏の節電実態」を見ると、ピーク電力削減率では東北や東京電力管内が15%以上、東京電力は18%にまで達している。それに比較すると他地域はいずれも低調だが、それでも、関西電力管内は8~11%削減され、かなり危険な時もあったようだが、需要超過で大停電が発生するような事態とはならなかった。 つまり、15%削減しなくても何とかなったので、関電は過大な要請をしたことになる。そして、それが橋下氏には成功体験になってしまったかもしれない。しかし、それは口をとんがらせた無責任な書生っぽの発想で、責任のある為政者ならば、15%削減は難しく、ギリギリで乗り越えられたものとして、今後の対策を万全にする努力をこそ必要と認識すべきだったのではあるまいか。ところが、その後どうなったかと言えば、昨年は稼働していた関西電力管内の原子力発電所が次々と定期検査などで停止し、現在発電量ゼロ。赤ん坊が考えても昨夏より危険な電力供給不足状態となってしまった。昨夏は「福井県の美浜・高浜・大飯原子力発電所の一部が定期点検中」だったが、今年は『全部』なのである。 この後に及んで、「夏だけ稼働させたら・・・」などと注文を付ける無知なご都合主義というのは、一体どのような面の皮で出来たものだろうか。発電が停っていようと原子力発電所には放射性物質が大量に残っていて、それは何ヶ月にわたって冷やし続けなければ溶解し始めるような物騒なものなのである。今年も夏だけ、来年も、再来年も、とその調子のご都合主義を重ねるなら、危険性に関して、稼働し続けるのと大差ないことくらい、理解できないものだろうか? 原発の危険性を絶対的なものとし、今の段階で全廃するのであれば、夏に電力が逼迫し、場合によっては大停電が起きて、さまざまな死者を出すことになろうと、不安定で不足がちの電力供給、もしくは輸入化石燃料に頼る限り高騰する以外にない電力料金のため、国内生産がままならない工場や事業所が、大量に海外に出て行くことは、覚悟しなければならない。ご家庭で、いくら節電に頑張ったところで、職場がなくなれば、節電どころか、節電する家を失うこともありえる。そうした事態に陥る可能性を、少し想像力をめぐらして考えねばならない。 「電力会社の儲けを考えている」人など、電力会社の中でさえごく一部かと思う。まして、「経済のことを優先させる」のは当たり前だろう。経済とは、無機質な物体とか一部の大企業が独占するものではなく、庶民の生活そのものなのである。『経国済民』(国を治め民衆を救うこと)などと四文字熟語を持ち出さずとも、大企業には、数多の下請け会社が存在し、関連会社や取引先は五万とあり、その会社員や従業員たちの給料からの支出で経済は回っている。そこらの定食屋のおばちゃんも、昼休みにAランチを食べに来る人々がいなくなれば、商売など成り立ちようがない。電力会社だの大企業の社員には、何を勘違いしたのか、高慢なものも多いようだが、それは個々人の資質であって(尊敬される人は、過去遺物に過ぎない学歴など忘れ、給料の額より中身の充実を目指しているはず)、大企業を庶民の敵対概念に位置づけることなど無理というものだ。 「国論を二分する問題で、早急な結論は・・・」などと主張する人がいるようだが、日本は自由民主主義を標榜する国家なので、たいてい国論は二分されるし、細かく見れば、三分も四分も・・・人の数だけ意見なければおかしい。皆同じ意見で、ほぼ国論は一致する状態の方が、よほど危険であろう。それでも、願望としてなら、現在の科学技術では完全に制御しかねる原子力発電には頼らず、他のより安全なエネルギーに代替させていきたいのが、国民の大多数が共有するところではなかろうか。経済的な影響など考えず即時撤廃するのか、徐々に切り替えていくのか、急進か漸進か、違いはそれだけとも言えよう。もちろん、原子力の平和利用を技術を継承発展させることを望む人がいるのも当たり前であり、それも見識だが、制御不能を見せつけられては、技術革新を起こさない限り、多くの賛同は得られまい。 急激な変革を、多くの人は夢想するものだが、ある程度安定した社会において、実際に望むのは漸進改革だと私は思う。原子力は大規模災害を引き起こしかねない存在だが、日本の原子力発電は、昨年の地球的規模の大地震が引き起こした千年に一度ともいわれる大津波をかぶるまで、40年余に渡って「安全神話」にあぐらをかけるくらいに、大事故とは無縁だったのも事実だ(特異な大天災の結果ではなく、どこでも起きることだと強調したい人のみが、津波ではなく自身の揺れの結果による事故と想像で主張する)。安全対策の不十分を黙過し続けた「原子力村」、過剰な電気料金を得ながら、十分な安全対策よりも、不必要な広告宣伝や学界などに資金を注ぎ込み、マスコミや学術団体に影響力を誇示した電力会社など、弁護の余地もないが、もはや彼らは昔の夢を追えない立場である。テレビをつけてご覧なさい。広告宣伝費が入らなくなった途端、電力会社を徹底的に避難しているマスコミを。金の切れ目が縁の切れ目、それだけの連中なのである。 暑い季節ではあるが、そろそろ冷静に考えたいものである。
2012年06月17日
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都知事の石原閣下と作家の田中さんが、芥川賞をめぐって話題になっている。年齢の差こそあれ、古より大概は「小心」である文士たちのじゃれ合いに過ぎず、放っておけば良いことだが、あえてどちらが恥ずかしいかと言えば、イシハラさんだろう。 どういったものであれ、賞を授与する側は、受賞者を称えるのが礼儀以前の常識であり、ケチをつけるなら授与しなければ良い。授与を決めた選考者に名を連ねておきながら、選考した結果をけなすなど、まるで理屈に合わず、むしろ自己否定でしかない。「何を選考したんだあんたは?」、と言われるだけなのである。つまり、都知事としての記者会見中、「自分の人生を反映したリアリティーがない。馬鹿みたいな作品ばっかりだよ、今度は」などと、選考員会の会合でのみ許される内容を公言されているのは(朝日新聞)、ご自分の立場をわきまえない愚かな所業以外の何ものでもない。 この際、発言を全面撤回して謝罪するような日本的な潔さを、礼儀をわきまえない現在の日本人に示してもらいたいところだが、往古の美徳を賛美する年寄りほど、実践が伴わないのが、古今東西を通じた真理であり、元々が、徳なく打たれ弱いエリートボンチの威張りん坊と評される人物に、それを期待しても酷であろう。せいぜい「もう辞める。全然刺激にならないから」と、子供じみた捨て台詞を交えつつも、お辞めになることを良しとすべきかと思える。 なお、タナカさん曰く「いまあの人おじいちゃん新党を作ろうとしてるんでしょ」とは(記者との応答内容)、衆議院の解散気配に反応した黄昏だか立ち枯れだかの面々と、時代遅れの郵政亀あたりの行動であろうか。文学オタクの酔っ払いの戯言に便乗するのも癪だが、確かにああいった日本的な潔さの欠片も持たない年寄り連中を見ると、今の日本人にダメな点があるなら、原因はこの人らの影響ではないかと思えてしまう。戦後、尊敬に値するお仕事をされた立派な方々は、既に亡いか、分を心得た控えめな発言をされるので目立たないだけに相違ない。ご老人たちの、ほんの一握りの不覚仁のこととは言えども、老残とは見苦しい限りだ。
2012年01月19日
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「天下国家のために」、日々ご活動になっているとオザワ氏は、中選挙区時代は10ヶ月前に被災された岩手県沿岸地域も含む選挙民の支持で、議員バッジを付ける身分になったらしい。以来営々と40有余年にわたる議員生活で、数多の不動産を有し、4億もの金銭を手元に置かれるに至った、とご本人が言われている(現金で4億超!1万円札に聖徳太子がどれほど混ざっていたのか、気になる)。 「天下国家のために」私財をなげうち政治活動に励む政治家を、「井戸塀政治家」と呼んだと仄聞するが、今の政治屋は、どういったわけか歳費や印税をちょこまかと貯め込み、不動産を買う際にヒョイと出したわけだ。たいしたものではないか。さすが大物は違う。この話を聞いて、憂国の大政治家とみなせる人間は、冷静な判断能力を持たない信者か、直接的な受益者以外には考えられないのではなかろうか。 否、そうしたごく一部の変わった人たちの期待に応えるためにも、今こそ、傷つき苦しむ郷土のために(生まれも育ちも東京の人間には、たんなる踏み台としての「地元」に過ぎないので、選挙区外になれば隣接地域でも「アウトオブ眼中!」なのか・・・)、手元にある潤沢な資金を生かすに相違ない。例えば、議員を辞職して、高田松原の復興に尽力すれば、私利私欲ではなく天下国家のための吝嗇であったことを、天下万民は知るはずで、政治屋との悪評は払拭され、百年後にも顕彰されることだろう。・・・なされよ。 さて、数日前に、横浜の市民団体が、被災地のガレキ処理を横浜市なり神奈川県なりが受け入れるのに反対したとのニュースがあり、全国的に我が住む町の名を貶めてくれた。『Hamaosen対策協議会』という名称だそうだが、失礼ながら、放射能汚染よりこうした存在の方が、よほど有害だと私には思えてしまう。市民、県民の諸賢はどのようにお考えだろうか?何でも、子供を抱いた女性(横浜市在住)が廊下中に響き渡る声で「がれきを受け入れたら私たちの家族は神奈川県から出て行きますからね」と叫んだそうだが(記事)、正直に言えば、さっさとどこなと出ていってもらいたいと、生まれも育ちも横浜の人間としては、申し上げたいところだ。 何を心配しているのか?もし、産業廃棄物による重金属やアスベストによる健康被害を心配しているのなら、あの無分別状態では心配しても当然だと思える。何しろ一切合財津波でさらわれたのだ。問題性の多い物質が濃厚に蓄積されている箇所が無いとは言えない。しかし、彼らは放射能だけを心配しており、曰く「1キロあたり100ベクレル以下」でも「安全か疑念が残る」から嫌なのだそうだ。しかし、東北地方で津波被害を受けた岩手県の中部以北より、神奈川県は距離的に事故原発に近く、後述するように当時の気象条件により、距離的には近い北側よりも、放射性物質が多く降り注いでしまっているはずである。つまり、より安全地域のガレキに付着した放射性物質を怖がるなら、さっさと箱根の山を越えて遁走する以外にない。「1キロあたり100ベクレル」程度の場所なら、ピンスポットとしてなら神奈川なり横浜のそこら中にあるはずなので、そうしたの地域に住みながら、放射能汚染という意味ではよほど安全と考えるしかない地域のガレキを忌避するなど、まるでおかしな話と言わねばならない。無知蒙昧な妄想で金切り声を上げるなど、哀れであり滑稽であり、迷惑千万で目障りなだけだと、横浜市民の一人としては思うのである。 言うまでもなく、「東北」を放射能と結びつけるなど、まるで科学的ではない。東北地方はとてもとてもとても広く、事故が起きたのは、関東地方に隣接する東北地方の南部なのが事実なので、関東人が「東北」を危険視するなど、お笑い種でしかない。奇妙ではた迷惑な妄想を膨らませる暇があるなら、お子様への教育の意味でも、まずは地図くらい眺めていただきたいものである。確かに、横浜市中心部は事故原発から、250キロも離れているが、岩手県でも宮古市辺りになればより離れている。現在の空間放射線量で見ても、事故原発の北方100キロ余の宮城県仙台市のそれは、毎時0.05マイクロシ-ベルトという微量で、神奈川県でも南部の海沿いに所在する茅ヶ崎市とほぼ同じである。そのようなものは、事故前と変わらない数値で無意味だというなら、放射性セシウムの土壌汚染の観点を含め、より詳しくは、文部科学省の放射線量等分布マップを参照されると良い。差別できる相違などどこにもないのがわかるはずである。 すでに繰り返し指摘されているので、放射線汚染に過敏な人なら、耳にタコが出来ているはずだが、念のため書いておく。事故発生時、水素爆発で巻き上げられてしまった放射性物質は北に流れ、宮城県以北で降っていた雨に遮られることで、県境付近に降下して飯館村などを比較的に高レベルに汚染し、一部が奥羽山脈と阿武隈山地の間、いわゆる中通りを南下して関東地方に入り込み、やはり一部雨が降っていた千葉県と東京都の境付近に、周囲より若干高い汚染を残すことになったと、その汚染状況からも推察されている。距離と汚染度は比例するわけではなく、津波の被害を顕著に受けた宮城県や岩手県沿岸部、つまり大量に発生したガレキの処理に困っている地域の放射能汚染の程度は、関東地方並みかそれ以下なのは、明白な事実なのである。高田松原の被災松の時と同様で、心配する理由が分からず、その程度で心配する者が、いまだにそこに住んでいることは、理解不能と言わねばならない。 さて、事故原発から250キロ、放射能の汚染レベルなら、おそらく宮城県仙台市とさほど変わらないはずの、神奈川県横浜市に住む私は、もちろん何とか言う市民団体のような「安全か疑念が残る」場合は排除する、といったメンタリティの持ち合わせはない。持ち合わせがあれば、とっくの昔に黙って横浜から退去している。 まるで気にせず生活しているわけだが、最近の変化と言えば、コシヒカリを食べる機会が増えたことが挙げられよう。普通は食べない。なぜなら、モチモチ感が強いコシヒカリより比較的にパサパサしたご飯が好きで、そちらの方が総じて安いからだ。お米を研ぐのが面倒なので無洗米。従って、生協の宅配では、コシヒカリ以外の比較的安い無洗米を選んで買うことになる。産地は選ばない。ところが、最近コシヒカリが安かったので(5キロ2000円未満)、茨城県、続いて福島県会津産のお米を注文して食べることになった。 いつもより、10パーセントは安いように思えるが、それがなぜかと考えた時、放射能汚染への根拠のない心配以外の理由が思いつかない。生協が、神経質なくらいに調べて、放射性物質が未検出であっても、買い控える人がかなりいるということで、そう思い当たれば、コシヒカリを普段食べなくとも、是非とも食べねばなるまい。値崩れが過ぎれば、生産者の生活は破綻するのである。そう思いつつも、九州のお米を選ぶなどという真似は出来ないし、その必要性は欠片も感じられない。 心配は当然だとしても、心配して検査をした結果未検出とされるものを忌避する、その根拠はどこにあるのだろうか?少しでも危険性があるものを遠ざける?自分は良いが子供が心配?だから、検査をするし、未検出とされているのではないか。何のために検査をしていると思っているのだろうか。 科学的な心配なら科学的に解消されねばならず、思い込みの心配なら気の済む程度の地域に遁走しなければ解消されようもない。被災地域やより汚染度の高い地域のことを思うなら、無根拠なレッテルを貼らずにその産品を受け入れるのが当たり前で、そうでなければ絆だの同胞だのとは、口が裂けても言えまい。排除ではなく、許容を前提にした考えが重要であり、そういった、おそらく人間としてあるべき姿を、子供に示せるのは親であり大人であろう。心したいものである。
2012年01月11日
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NHKの朝の連ドラは見ないことにしている。しかし、寝坊したり、文鳥の世話に手間取ると、8時となっていて、家の年寄りが楽しみにしているそれが始まってしまう。従って、断片的には知っている。 で、現在のそれは『カーネーション』という題で、仄聞するにファッションデザイナーの「コシノ三姉妹」のご母堂のお話だそうだ。舞台はだんじりで有名な大阪府は泉南の岸和田で、荒っぽいがテンポの良い関西弁の明るい雰囲気のドラマだ。 その個人的にはどうでもよい連ドラに対しての記事を、最近立て続けに目にした。注目している人は、細かなことまで気になるらしく、1つは主人公の服装に関してのもの(産経新聞掲載の加持先生のコラム)、今1つは主題歌に関してのもの(ポストセブンの記事)であった。そして、今朝、見る羽目になったので、2つの記事を紹介しておく。 さて、「洋服を広めようとする主人公自身は」「自らが洋服姿であるべきなのに」「ミシンで洋服を仕立てる作業中、和服のそれも襷掛(たすきが)け姿でガンバッテいる」のはおかしいとのご指摘だが、これはどうだろう?当時は女性の普段着は和服で、洋服はせいぜいおしゃれ着の位置づけのはずだ。従って、手内職を行うのに洋服を着ていたら、そのほうが奇異なのではなかろうか。 『和装洋裁』、さて、何か違和感があるだろうか?それでは、現在和服の縫製をされている方々は、和服を身に付けて作業しているだろうか?もしくはしなければならないであろうか? もしかしたら、「針子さん」や「縫い子さん」(縫製を仕事とする女性のこと)の作業着としてはともかく、お店で洋服を売るのであれば、自らも洋服を身に付けるのが当たり前と思われるかもしれない。しかし、それは現代的な感覚だろう。当時の感覚では、「売り子さん」も和服にかっぽう着姿が普通であったはずで、もし洋服を着てお客さんに応対するとなれば、今で言えば「高級ブティック」といった印象を与え、庶民が近づきにくくなってしまうはずである。つまり、時代考証的には、むしろ、あれで正しい、と言わねばならない。 なお、加持先生の話は、喫緊のTPP交渉に及び、それを関税自主権の放棄と見なされている。しかし、これも首肯しかねる。言わずもがなのことながら、関税自主権の問題は、相手に自主権があって、こちらにはないという不平等性にあり、どちらも関税を撤廃することを前提とする、善し悪しは別にして制度的には平等には相違ない貿易自由化とは、全く性質を異にする話である。たとえ自由化したところで、国家主権を放棄するわけではないので、嫌なら、いつでも国家の権利として関税自主権を行使し、関税障壁を高くして鎖国化するのも勝手である。不平等条約の下で、片務的な不利を被った歴史を同一視など出来るはずがない。 「TPPでバラ色の未来!」といった主張も眉唾ながら、反対意見があまりにもチープ(日本語として「安易」としたほうが良いかもしれないが、音感として「チープ」がふさわしい)なのは、嘆かわしいところだ。産経新聞はTPP推進を論調とするので、反対論はわざわざ底浅いものを掲載しているのではないかと邪推したくなる。 釈迦に説法ながら、『温故知新』は、たんに似た現象を歴史から引っ張り出し、現代の感覚で手前勝手な付会をするものではなく、その時代状況に照らして正確に捉えた上で、現代の事象の比較対照することで新たな展望を開く、ことだ理解している。過去の出来事を参考にする際は、今現在の状況と似たうわべを強調するのではなく、むしろ細かく異なる面に注目しなければ、未来につながる教訓など得られないだろう。 主題歌の方は、椎名林檎さんのそれが、ドラマにそぐわず違和感を感じるという意見に対し、それを根拠のない意見とし、「主題歌もレトロ風の不思議な曲調」で「大正~昭和の時代、大阪・岸和田の商店街」という「ドラマ空間」にマッチしている、とする見解となっている。 しかし、一度でも件のドラマを見れば「そぐわない」と感じない方が変だ。「バイオリンなどのストリングス、ハープの優雅な音をバックに、たゆたうような、ゆったりとしたワルツ調」の歌に前後するドラマが、泉南のだんじりパワー炸裂のアップテンポな会話に埋めつくされているのである。これがピッタリと合うと感じられたら、よほど変わった感覚だろう。 確かに、大正昭和の戦間期(第1次と第2次の世界大戦の間の時期)は、自由な雰囲気と退廃的な雰囲気を持つ独特な時代で、その時代性は、椎名さんの歌に合っているようにも思える。しかし、岸和田に限ったことではないが、いつの時代も庶民は、あくまでもアップテンポに騒々しく日々を送っているのが真実だろう。・・・つまり、歴史的観点から見た時代の雰囲気を醸し出す曲と、いつに変わらぬ(歴史も時代性もヘチマもない)庶民の生活感とのミスマッチこそが、それが制作側の狙いなのかは関知するところでないが、『ある』のである。従って、『ない』、違和感を感じない、と主張されても、首肯することなど出来ないのである。 その明確に存在する違和感を良しとするか、悪しとするかは、それぞれの感覚次第なので、これは人によって異なって当然だ。「不思議な主題歌が、より一層ファンタジー感覚を際立たせ、物語世界を膨らます効果を発揮してもいる」という受け取り方もあれば、あんなもの毎朝見ている人は、そこまでいろいろ考えないだろうから、アップテンポなドラマにワルツは合わないと感じるだけであって当然なのである。これが、特に難しく考えないとわからない話だろうか?つまらぬことを、時間をかけて小難しく考えるから楽しいとも言えようか・・・。 案外、さまざまに考えさせられるドラマのようだ。
2011年11月30日
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先ほどたまたま見た大相撲九州場所が、日照りの水たまり状態なので笑ってしまいました。さらに観客が減り、干し上がるのも時間の問題でしょう。 以前にも書いた記憶がありますが、ジリ貧で消滅するのを避けたければ、「御贔屓筋」に関わらず、次のような対策くらいは試みてはどうでしょう。1、取り組みの時間を1時間以上ずらす(平日の夕方に誰が見られるのか?)。2、観客動員の少ない地方場所を入れ替える(九州がダメでも東北・北海道・北陸・四国いろいろある)。3、大相撲協会が全国の小学校なり中学校などに土俵をつくり、地元出身力士を派遣する(「ご当地力士」と称したければ、地元に帰ってボランティアしたら?)。4、大関は10勝しない限り、カド番状態を継続する(いつも八勝七敗「嫌な大関」など、土俵の緊張感を低下させる癌である)。5、解説のプロを育成する(横にいる素人のアナウンサーに尋ねるなど、解説ではなく観客である、解説者としてプロ意識を欠いた給料ドロ以外の何者でもない)。6、通ぶったアナウンサーはいらない(アナウンサーは実況するのが仕事。的のづれた能書きなど片腹痛いだけで耳障り)。7、集団手拍子や時間いっぱいになっても騒ぐ客はいらない(品位などどうでも良いが、そういうのをしないのが伝統のはずである)。 能無し盆暗と言われないように、頑張って欲しいものです。・・・まあ、無理でしょうけど。
2011年11月21日
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岩手県陸前高田市の被災松を原材料とした念珠が届きました。 8月23日読売新聞・・・と言ったら、プロスポーツに対する知見など欠片もなく、競技としてのルールも知らない大相撲やプロ野球に容喙し衰退せしめた老害と見なされ、プロスポーツに関心のある心ある人にはたいてい忌み嫌われているあの爺さんが、飼い犬に手を噛まれたとして、昨今くだらぬ騒動をまき散らしている新聞社だ。この新聞、購読者数やら発行数やらは日本一らしいが、「ナベツネ嫌いだから」、ヤクザまがいの勧誘員を追い払うのを常套にする人も多いくらいなので、あの方が常識的な年齢で勇退していれば、今頃は二位以下により大差をつけていたかもしれない。老害とイエスマンの腰巾着が経営していても、一位で有り続けるのだから、大したものと褒め称えるべきであろうか。なお、ナベツネ氏の素人の思いつきによる専横は今に始まったことではなく、その褌担ぎなり提灯持ちを続けていたのがキヨタケ氏だと、内部事情を知らない私などは認識している。従って、今回の件は、ナベツネ氏に言われたとおりにして失敗し、その責任をとらされそうになっていることに、キヨタケ氏が反発しているだけのように映ってしまう。そのようなことは、勝手に社内抗争するか、辞表を叩きつけて社外に出てから告発するのが筋ではなかろうか。双方とも常識はずれであり、これが「ザ・ヨミウリ」な姿なのだろうと、呆れ返ってしまう。 (閑話休題)、その読売新聞の記事を読み、早速念珠を購入しようと応募して、2ヶ月半以上が過ぎ去りました。購入希望者が多く、制作が間に合わなかたということでした。それほどに、多くの人は理解しているわけですが、ネット上では、高田の被災松を生かした製品に対して、ボランティア団体がそれを売ることで利益を求めているような中傷が散見されもしました。念珠3,150円(Amazon)、これが高いでしょうか? おそらくネットカフェで一日過ごすことも出来ない金額で、むしろ、日本国内で作っているのに安すぎるくらいに感じているのですが・・・。縁起物であり、破壊され尽くした松原の再生への寄付にもなるのであれば、もっと高くて不思議はないと、商人でもある私の経済感覚は判断しています。言うまでもなく、主要な原材料は流木でタダだとしても、その他の材料費、加工費、輸送費、事務費は必要になります。人件費の安い海外で大量生産しない限り、原材料費以外の部分が大きくなるので、100円ショップのようにはいかないことくらいは、日本で経済活動をしている一般人なら、普通理解出来るのではないかと思います。 当然のことながら、軽く高級感はありませんが、どこぞの国で採掘された何とか石を数珠玉にした高級な念珠よりも、一般人にはよほど使いやすそうです。有難く、大切にしたいと思います。
2011年11月14日
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東京都が、全体から見ればささやですが、東北の被災地のガレキを受け入れ処理にあたったのは、実に賢明ですが、当たり前のことだと思われます。高レベル廃棄物でもないものを、拒絶する理由など全くないからです。 地方行政府は、「ホウシャノウガー」などと、理屈なしの情緒的反応に惑わされてはいけません(本人は偏った情報を仕入れて論理的だと思い込んでいるので、小賢しく始末に悪い)。行政は、最大多数の最大幸福のための公益に資するための存在で、つまりは、慎み深くあまり意見を表明しない大多数の一般市民(サイレントマジョリティー)のために存在しなければなりません。公益のためには、大声を張り上げる一部の狂人とは、面倒でもしっかりと対峙しなければならず、それを怠ることは許されません。地方の首長や地方公務員は、無能な事なかれ主義に堕している評されないように、被災地の苦しみをしっかりと我が事として受け止め、論理に基づく毅然とした対応をとっていただきたいところです。 その点、東京都知事の石原閣下は、昨今耄碌したかと勝手に心配していましたが(「最近の若い者は・・・」として、昔を美化するのは、古今東西共通の年寄りの繰り言。それを認識出来ず公で発言するのは、インテリジェンスを後退させた老化現象の所産と考える)、この点に関しては、実に立派な対応をされています(毎日新聞・夕刊フジ)。「(放射線量などを)測って、なんでもないものを持ってくるんだから『黙れ』と言えばいい」、まったくそのとおりでしょう。これが、低放射性廃棄物なら、地域住民にそれなりに理解を求める必要がありますが、そうでなければ「黙れ!」で良いはずです。拒否する理由がないのですから、粛々と行うのみでしょう。 自分だけは身奇麗でいたい、自分だけは安全でいたい、それは、仲間を踏みつけにし、不浄のレッテルを貼り、差別し疎外し見捨てることに通じる発想ではないでしょうか。排除の論理ではなく、可能な限りは受け入れることこそが、思いやりであり、絆というものだと、改めて思うところです。
2011年11月06日
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東京は世田谷に住む、と言っても、まあ、世田谷でも成城以外で、まあ、おそらく最近住み着いたような、人たちのごく一部の中にいる、何と10数万円もする高価なガイガーカウンターを玩具にされている(大人の玩具としては手頃な価格かと・・・)方々のおかげで、同区に秘められた放射性物質の数々が発見されようとしています(産経新聞)。 この、「ガイガァー」の皆さんの目的は、原発事故による放射性物質の状態を探ることにあるはずですが、あにはからんや、放射性物質の管理がルーズだった頃の名残りが、住宅地のそこかしこに存在し、そのような中でご自分たちを含めた大勢の市民が生活を続け、ましてや、そのルーズな時代に生きていた世代が、めでたくも長寿を重ねていらっしゃるという摩訶不思議な事実を、我々に教えてくれる結果になるとは、これは何とも皮肉な話です。 それにしても、「セタガヤ」と言えば、「グルグルグルグルグルコサミン、セタガヤ育ちのグルコサミン」という健康食品のCMを思い出します。あの界隈に少し土地感のある私は、聞くたびに「スギナミじゃダメかぁ~?」とテレビに向かって言うのですが、祖師谷をはじめとして生活感あふれる地域が多い事実を知らない人たちには、「セタガヤ」は高級な良いイメージを与えたのでしょう。 ところが、今や、床下に放射性物質、駐車場だかの地下にも得体のしれない放射性物質が存在する危険な場所と認識されるようになってしまったのではないでしょうか。おそらく、どこを探しても(杉並でも練馬でも横浜でもどこでも)、そういった人知れず放置された放射性物質は存在するはずですが、世田谷の「ガイガァー」の皆さんの活躍は目覚しいためか、自分の住む地域のブランドイメージを変える結果になってしまったようです。 ・・・それでも、放射性物質を発見できたので良しとするべきかもしれません。・・・『遺物』の存在がどこも同じようなものと見るなら、騒ぎにならないようにしても良かったかもしれず、これは悩ましいところです。
2011年10月29日
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先日、「不肖・宮嶋」さんのコラムが面白かったと書きましたが、産経新聞のWebにも掲載されるようになっていたので、紹介いたします(宮嶋茂樹 風評被害拡大させる「プロ市民」)。【宮嶋さんのコラム一部抜粋】 緊急時避難準備区域解除になる前にも、南相馬に戻った市民も少なからずいる。そこが生まれ育った故郷だから、そこに家や仕事があり、家族が隣人が友人がいるからである。たとえガレキに埋もれてても、たとえ原発の近くでもである。 そこに住むなというのか、なぜ同じ日本人として福島の苦しみを共有しようとしない、なぜ東北の悲しみが理解できない、プロ市民は。おのれは安全地帯にいて危機感を煽(あお)るだけ煽る。汚染されとる、アブナイとヒステリー起こし、風評被害拡大させとんのはどいつや! 相変わらず関西弁混じりの不思議な文章ではありますが、まったく同感です。 宮嶋さんは、放射能汚染についての風評被害を「何でも反対、反核、反戦、平和をお題目とする「プロ市民」のしわざや。プロ市民はすぐ子供をダシにするのが特徴や」として、「おんどれらのエゴで同じ日本人が風評被害に苦しめられとんのやで」とされています。 私はガイガーカウンターを持ってうろついている人たちが、何らかの思想や特定の政治目的を持ち、一面で営利的ですらある活動を、一般市民を装って展開するという意味での「プロ市民」と呼んで良いものか躊躇しますが、その行動は、より汚染に苦しむ地域への配慮を欠いたエゴだと、強く感じて、他人事ながら恥ずかしく思っているのです。 そして、今日の毎日新聞(高放射線量:葛飾で「5.47」マイクロシーベルト 区に調査、除染要請 /東京)。 個人的には、「放射性物質がたまりやすいとされる雨どいの下で、簡易測定器を用い」て測って騒ぎ立てるなど、わざわざ道端の犬の糞に鼻をこすりつけて臭いと言うのと、大した違いはないと思えてしまうのですが、それはともかく、「葛飾青空の会」と「東京公害患者と家族の会葛飾支部」の見識高い皆様には、せっかく高汚染のピンスポットを見つけられたのですから、「区は汚染の実態把握を進め、積極的に除染を行うべきだ」などと、行政に丸投げするのではなく、さらに一歩進んで、除染活動も行なっていただけると、一般的な理解や支持も広がるのではないかと、その行動力に期待してやまないところです。無知蒙昧な一般市民のために、先頭に立ってプロ的な除染活動をする真の市民集団、これぞプロ市民ではないでしょうか?単なるクレーマーに終わらないご活動でのご活躍を心よりお祈りいたします。
2011年10月19日
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あの保坂さんが首長でいらっしゃる世田谷区で、「ガイガー」(ガイガーカウンターを持ってさまよう暇な一般市民もしくは「プロ市民」の皆様のこと)のクレームがあったようで、それを受けた地方行政側が理知的な対応を出来ず、また、マスコミ各位が訳も分からず騒いでいたようです。 水溜まり吹き溜まり掃き溜まり、下草が生え枯葉の積もる場所、そういったところには、セシウムが蓄積されピンポイントでは放射線量が高くなることくらい、いい加減に理解してもらいたいものですが、せっかくなので、どのように報道されたのか拝読しましょう。読売新聞「東京・世田谷で高い放射線量、雨で運ばれ蓄積か」 東京都世田谷区は12日、同区弦巻地区の住宅街の歩道で毎時2・71マイクロ・シーベルトの放射線量を検出したと発表した。 計画的避難区域に指定されている福島県飯舘村で12日に計測された2・05マイクロ・シーベルトより高く、区では、東京電力福島第一原発事故で放出された放射性物質が雨水で運ばれ蓄積された可能性があるとしている。 同区によると、今月6日に民家の木製の柵に隣接する歩道上の9か所で毎時0・09~2・71マイクロ・シーベルトを計測した。水で洗浄したが数値は下がらなかったという。 区内の定点観測地点での放射線量は毎時0・05~0・08マイクロ・シーベルト。区は「なるべく近寄らないでほしい」と呼びかけている。朝日新聞「東京・世田谷で高線量 2.7マイクロシーベルト」 東京都世田谷区弦巻5丁目の区道を区が調べたところ、歩道の1地点で毎時2.707マイクロシーベルトの放射線量が測定された。保坂展人区長が12日、定例の記者会見で明らかにした。 現場付近は東京電力福島第一原発から直線距離で約230キロ離れている。今回の数値は、計画的避難区域の福島県飯舘村役場のモニタリングポストで12日に測定された毎時2.115マイクロシーベルトより高い。ただ、毎日8時間を外で、残りを木造家屋で過ごしたと仮定して計算すると、年間被曝(ひばく)量は14.2ミリシーベルトとなり、国が避難を促す目安としている20ミリシーベルトよりは低い。 現場の区道は地元の区立松丘小学校の通学路に使われている。区は「通行するだけでは身体に大きな支障が出る状況ではない」としているが、当面、一部に立ち入らないよう指導を始めた。今後、砂場がある区内の公園258カ所についても緊急に計測するとしている。 毎日新聞「空間放射線量:世田谷の区道で2.7マイクロシーベルト」 東京都世田谷区は12日、同区弦巻5の区道で、国際放射線防護委員会の基準などを基に区が独自に算出した安全の目安とする空間放射線量(毎時0.23~0.25マイクロシーベルト)の約11倍にあたる最大毎時2.70マイクロシーベルト(6日現在)を測定したと発表した。区は「通行するだけでは身体に影響はない」としているが、住民の不安に配慮し、周辺を立ち入り禁止にする緊急措置を取った。 ◇区の安全目安の11倍 区環境保全課によると、区民が3日、区道の歩道部分を簡易測定器で測定し「放射線量が高いようだ」と報告。区が圧力洗浄した後、6日に9カ所を測定したところ、0.08~2.70マイクロシーベルトを検出した。地上5センチ、50センチ、1メートルの3段階で5回測定し、その平均値を出した。 区道は住宅街にあり、区立松丘小の通学路に指定されている。歩道部分は車道より低くなっていることから、同課は「雨水が集まり、放射線量が高くなった可能性がある」としている。今回の結果を受け、区は子供の安全確保のために今月下旬~11月、区内にある258カ所の公園の砂場で空間放射線量を測定することを決めた。 区道で測定された2.70マイクロシーベルトは、1日のうち屋外で8時間、屋内で16時間過ごした条件で計算すると、1日の被ばく量は38マイクロシーベルト。年間で14ミリシーベルトとなり、国が避難の基準としている年間20ミリシーベルトは下回る。 労働安全衛生法の電離放射線障害防止規則では、外部放射線と空気中の放射性物質による実効線量の合計が3カ月間で1.3ミリシーベルトを超えるおそれのある区域は、放射線管理区域に指定するよう定めている。1時間当たりに換算すると毎時2.60マイクロシーベルトで、通常、原子力施設などではこの値が管理区域に設定する基準となっている。 NHK「世田谷 放射線量下がらず対応検討」 東京・世田谷区の区道で、1時間当たり最大で2.7マイクロシーベルトという高い放射線量が検出されました。世田谷区は、道路の表面を除染しても放射線量が下がらないため、専門家に相談して対応を決めることにしています。 世田谷区によりますと、高い放射線量が検出されたのは、世田谷区弦巻の区道の長さ10メートル、幅1メートルの歩道部分です。区が今月4日に測定したところ、1時間当たり最大でおよそ2.8マイクロシーベルトと周辺に比べて特に高い放射線量が検出されたということです。このため世田谷区は、高圧の洗浄器を使って道路の表面を洗浄しましたが、1時間当たり最大で2.707マイクロシーベルトと放射線量はあまり下がらなかったということです。これは年間の放射線量に換算すると14.2ミリシーベルトで、国が避難の目安としている20ミリシーベルトを下回っていますが、計画的避難区域に指定されている福島県の飯舘村役場の12日の測定値よりもやや高くなっています。この区道は、ふだんは小学校の通学路になっていて、近くに幼稚園もあることから、区はこの場所をコーンで囲って立ち入らないよう呼びかけています。放射線量は、通常、汚染されている路面に近いほど数値が高く、路面から離れて高い場所で測ると低くなります。ところが今回の場合、路面付近よりも50センチから1メートル離れた場所の方が高い数値が検出されたところもあるということです。さらに道路の表面を除染しても放射線量が下がらないことから、世田谷区はどのように除染していくべきか、専門家に相談して今後の対応を決めることにしています。 まず、飯館村の空間線量と安易に比較すること自体が不見識です。飯館のそれは、おそらく地上1メートルほどで測定しているはずで、「地上5センチ、50センチ、1メートル」の平均値ではないからです。また、数メートル離れたら線量がくんと落ちるようにピンポイントの話ではなく、その周辺域一帯が同程度の線量だから問題なのであり、「ガイガー」が側溝の枯葉の上に測定器を乗せて、数値が高くなって「喜んでいる」のとは、まるで異なる生活上切実な話です。ずっと安全な地域での暇人のお遊びと一緒にするのは、不謹慎というものでしょう。 読売の報道は曖昧すぎて扇動的になる恐れがあります。「東京でも線量が高いなんて、!怖くて子供を外に出せないわ!」といった反応を招きそうに思われます。朝日はまだましですが、測定方法も現場の様子もわからず、いい加減な記事になってしまっている印象です。毎日は一見詳しいですが「区の安全目安の11倍」などと煽るような見出しを付け、なおかつ自分たちでどういった意味合いがあるのか考えている様子が見えません。その点より詳しいNHKも同様ですが、こういったニュースは解説せずに垂れ流されても困ると思います。 こんなもの「専門家」に尋ねなくとも、常識のレベルで一目瞭然でしょう。現場を見れば、問題は舗道ではなく、それに面したボロボロの木製の塀であり、そこからはみ出す手入れのされない下草の類と、多少とも知識があれば気づかないはずがないです(気づかないのは今まで何も学んでいない証拠)。舗道が発生源ではないので、そこを高圧洗浄機で「除染」しても無意味で、ボロボロの木材は樹皮がセシウムを溜め込みやすいのと同様の状態であるため、それに近ければ、地表面より高い位置の放射線量が上がるのも、当たり前と言えるはずです。 問題は、こういった場所が私有地のため、勝手に「除染」が出来ず、線量の測定すら難しい点にあるかと思います。この程度の汚染を解消したい首長さんなら、記者会見などで不安感を煽るよりも、法的にある程度強制的に除染ができるような仕組みを作るか、少なくとも自分の行政管轄地域の住民に対し、放射性物質がたまりやすい場所の清掃を求め、それに対する地域の活動を支援していくべきだと、私は思います。当然、見識のあるマスコミなら、情報を伝えるばかりではなく、その持つ意味、問題があるならその改善策の提示くらいして欲しいものです。特に、情報が錯綜し、不安でさらに不安な情報ばかりを呼び込んでしまう人が多い現在、情報を受け手まかせにしないように、報道の際に配慮することが求められていると思います。 最後に、「3大紙」ではないので(毎日はずいぶん前から「大」ではないと思うが)省いた産経新聞の、「不肖ミヤジマ」のコラムが面白かったので紹介しようと思いましたが、まだ電子版になっていないようなので、それについては、そのうちに(覚えていたら)、ご紹介したいと思います。
2011年10月13日
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原爆と原発は違います。 原爆が許されるべきでないのは、それが大量破壊兵器で、一般市民を無差別に殺害するからであって、放射能を使用しているからではないはずです。ところが、これまで平和活動などと称して原爆の禁止を主張していた人たちが、原爆を投下された広島を「ヒロシマ」として世界に知られたのと同様に、今回桁外れの自然災害によって起きてしまった原発事故の発生地を「フクシマ」などと表記したがるのは、一体どういったわけなのでしょうか? 今年の8月ころ、「フクシマ」という表記が多く用いられるのを目にした私は、風評被害の温床以外には成り得ず、そうした象徴的な用い方は50年後にでも行えば良いと考え始めました。そして、ベルギーでサッカーの川島選手が、相手チームのサポーターに「フクシマ」と連呼されて激怒したように、差別的な使用に対して、毅然と対応するべきだと思い、厳に「フクシマ」という表現を封印しました。 本日、産経新聞の記事(「フクシマ」という境界 絆は「壁」を超えられるか)を目にしました。 他人事とはせず(「子供が心配」といった口上を含む)、ひとりひとりが自分のこととはせずに、真剣に考えなければならないと思います。 産品に含まれる実際の放射線量の計測値という科学的なデータを無視し、また同じ県内でも汚染の程度は全く違う客観的な事実を無視し、産地差別などをする者は、科学者では有り得ません。そういう者は、悪質なアジテーターでありデマゴーゴスに過ぎません。 某火山学者など、自分で汚染マップを作成し、汚染の程度が県内でも大きく違うことを提示しながら、「〇〇県」のものを食べず、そこに行くべきでもないなどと主張していましたが、このような者は専門外であっても科学者とは言えず、単に錯乱した戯け者としか評価できません。 客観的なデータに基づき研究する者であるなら、恥を知っていただきたいものです。
2011年10月10日
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以前、8月28日に毎日新聞に掲載された、精神科医の斎藤環さんのコラムを紹介しましたが、同コラムの内容について、立命館大学教授の加地伸行先生が、9月30日の産経新聞において批判されていたので、遅ればせながら紹介し、備忘のため私見を述べたいと思います。[加地先生のコラムからの引用] 大震災の報道後、期せずして日本全国の人々から、まごころをこめた素直な善意が膨大な義援金となったのである。その心は今もなお生きている。その〈素直な善意の義援金〉を足蹴(あしげ)にして、「後腐れのない善意の義援金」とするとき、義援金を続ける方々は、どう思うであろうか。心ないことばである。 この震災の惨禍に対し、被災した人たちに対して貢献したことはと言えば、まさに義援(義捐)金のみと言って良い私ですが、毎日新聞に掲載された斎藤さんのコラムに対し、加地先生のように心無い言葉と怒りは覚えませんでした。それどころか、、当然至極でごもっともと喝采し、現在もその考えを寸毫も変わりません。 加地先生のご卓見には([例]野田政権についてのコラム)、常々感服しているところですが、この件についてはご意見に賛同しかねるのです。なぜなら、漢文に精通した大家である加地先生は、『後腐れ』という言葉を「縁切れ」の意味とされますが、漢文の素養などない無教養な現代日本人である私にとっての『後腐れ』の意味は、「物事がすんだあとでもすっきりと解決せず、問題があとを引くこと」と辞書(大辞泉)」にあるものでしかないからです。つまり、おそらくは教養の面で同類の一般現代日本人であろう斎藤さんのコラムに共感することができたのは、被災地との関わりを腐れ縁として、後にその縁を残さないように、パッパと済まして知らぬ顔を決め込むといった負のニュアンスを感じたからではなく、関わることで被災地にかえって迷惑を及ぼすような腐れ縁とはならずに、気持ちを示す手段として義援金は適している、といったニュアンスとして捉えてのことであり、そちらの解釈が普通だと思えるので、批判には当たらないと思うのです。 実際、斎藤さんのコラムの前提となる、立命館大学の所在する京都で起きてしまった大文字焼きの件にせよ、その後、日進というところの打ち上げ花火の件にせよ(「検査する」?花火玉を?数年寝かして出来上がる爆発物だとの認識もないのだろうか・・・)、善意の『縁』『絆」のためとして自ら手を差し伸べながら、些細な理由(基本的には『漠然とした不安』のみ)で相手の手を払いのけ、かえって被災地を傷つけてしまいました。まさに、腐っているのは、手を差しのべる側の覚悟の欠如と見なされてしまう事態で、もし、金銭だけなら覚悟のほどは計られずに済み、相手を傷つけることもなかったはずだったのは、間違いの無いところだと思います。 「まごころをこめた素直な善意が膨大な義援金となった」のはそのとおりですが、金は所詮金だけのこととも言えます。例えば1991年に起きた湾岸戦争の際、日本はクウェートの独立を回復するアメリカなどの多国籍軍の戦費として、約130億ドル、当時の換算では1兆7000億円以上の巨額な金銭を提供しました。ところが、独立を回復したクウェート政府から感謝されている国に入らなかったため、、戦闘員を贈らず金だけで済ませたからだと、国内で問題視されたことがありました。そもそも、実際に日本が戦費を提供したのはほとんどアメリカに対してだったので、クウェート政府から直接感謝される形態になっていなかっただけだと今の私なら分別しますが、当時政府自民党の幹事長であった今話題の小沢一郎氏を含めたナイーブな日本人の多くは、お金だけでは感謝されず、仲間としても認めてもらえない、と感じ取ってしまい、その後大きなトラウマとなりました。 税金が血税と呼ばれるように、国の予算は国民が日々に汗水たらして働いた結果であり、それがゆえに貴重で、それを提供されながら感謝されないとしたら、それは感謝しない方がおかしいと考えても不思議はありません。しかしながら、当時の国家予算、一般会計だけでも40兆円を超えていた日本という経済大国にとっても、拠出した金額はその5パーセントに近いので、決して少ない額とは言えなかったと思います。しかし、一般会計以上の特別会計が存在する我が国では、国家の運営に支障をきたすほどの拠出規模ではなかったことも確かです。結果、身銭を削って助けたという実感を当時の日本人は持てず、後ろめたい気持ちになったものと、私は思います。 『金額の問題ではなく気持ちの問題』とは、巷間よく用いられる言い回しですが、下世話の現実に即して割り切れば、収入額に見合っているかそれ以上に出しているかでしょう。例えば、年収1億円の人間が地区のお祭りのために10万円寄付しても、「お付き合い」として大して感謝はされないかもしれませんが、年収100万円の人が5万円寄付すれば、実際の額面は10万円の半分ですが、「金額の問題ではなく気持ちの問題」となるはずです。1億円の年収の人にとっての10万円は、収入の0.1パーセントに過ぎないのに対し、100万円の人にとっての1万円は、収入の5パーセントに達するので、まさに身銭を切って「気持ち」を示していると見なされるわけです。 湾岸戦争の際、5パーセントも出していながら後ろめたく感じてしまった日本人は、今回の義援金でも感覚は大して変わらないように思います。またイヤラシイ話になってしまいますが、「まごころをこめた素直な善意」と自分自身で納得できるか否かは(この場合寄付の多寡は相手にはわからないので、あくまでも寄付する側の問題)、それぞれの経済状態に応じて、身銭を切っている感覚が持てる額になっているかどうか以外にはないと思われます。例えば、年収400万円の人なら、その0.1パーセントは4千円、1パーセントは4万円、5パーセントは20万円です。 個人的には、1パーセント程度しか「素直な善意の義援金」として拠出できませんでしたが、それでは身銭を切っているほどの感覚はなく、ボランティア活動をされていたり、より多くの身銭を切っていると思われる人たちに対して、後ろめたい気持ちを持ち続けています。やはり、普通の庶民に出来ることは、義援金を送る程度、それも自分の生活に支障の無い程度に過ぎないものと思うのですが、どうでしょうか?その程度の貢献と自覚しているので、それで多大に感謝されても当惑するでしょうし、「後腐れのない善意の義援金」の位置づけが、私としてはむしろ座り良いのです。 大義でも義務でも義理でもなく、些細な個人が金銭で示す『義』とは、それで良いのではないかと思います。よりむしろ、その日常での行いにおいて、被災地を差別するような『不義』により、義を棄捐することのないように、戒めたいものです。
2011年10月07日
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福島県須賀川市の伝統行事「松明あかし」に使用する地元産のカヤから、84Bq/kgという超微量のセシウムが検出されたため、他地域からのカヤを求めることにしたそうです(河北新報)。 何をしているのでしょう・・・。わざわざ風評被害を広めたいのでしょうか・・・。京都の二の舞。困ったものです(被災県ですので批判はこの程度で自粛)。 私を驚かせたのは、むしろ須賀川市のカヤが、セシウムを84Bq/kgしか含んでいなかった点です。中通り地方の当市は、県内でもセシウム汚染が心配される地域ですから、食品基準よりはるかに下、飲料水の基準200Bq/kg(リットル)以下、日本でも子供が飲んでも良いとされる100Bqにも満たない数値は、むしろ驚きに値すると思えたのです。 お米は500Bq以上にしないため5000Bq以上のセシウムに土壌汚染された水田では作付けしないようにしましたから、イネ科の実には最大で土壌の10パーセント入り込む可能性があるものと理解しています。そして、一時の乾燥稲ワラ騒動から、イネ科の植物の乾燥した茎などに吸着しやすい性質があることも学習しましたから、何となくカヤのような植物も、セシウムを吸収するのだろうと思っていたわけです。この認識は、現実と異なっているようです。 専門家に、だいたいそのくらいが「普通」と言われたらそれまでですが、門外漢は、須賀川市内でもカヤの生育場所の汚染は低かったのか、それともイネ科は生育時にセシウムを取り込みにくいのか・・・。その手の分野の研究者なら、研究課題がたくさんあるな、と少し不謹慎ながら、考えたところです。 【追記】 茅(カヤ)と呼ばれる植物は、茅葺き屋根に使われるように、水をはじく性質を持っていて、水を吸収しやすい稲ワラとは異なるようです。つまり、刈り取った後に屋外に放置しても、ワラのようにセシウムを吸収することはないと考えられるかもしれません。 須賀川市の土壌のセシウム濃度は、福島県農林水産部の行なった4月の測定で(PDF)、同市矢沢で2203Bq/kgとなっており、白米にした段階で220Bq/kg未満なら想定内ということになるかと思います。実際はそれほど吸収されないと思われ(早場米の検査状況からの推測)、また実よりも茎部分の濃度は薄いように思われるので、84Bq/kgは、妥当な数値なのかもしれません。 なお、お米に対する風評被害は深刻になると予想され(毎日新聞)、最悪の事態を想定したような500Bq/kgというゆるい基準は不信感の温床ともなっているようなので、より厳しくして(例えば100Bqにして100~500は政府買い上げにする)、しっかり国民に説明の上理解を求めた方が良いかもしれません。
2011年09月03日
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ドイツの国営放送(ZDF)が、今回の原発事故に関して日本政府などの情報隠匿を批判する内容の番組を、先月末(8月26日)に放映したそうです。一部で話題になっていたので、私も拝見しました(修正前のバージョンで見たのですが、ジャーナリストの上杉氏が修正してくださっているので、そちらをご紹介します【上杉氏のブログ】。オリジナルには、番組冒頭などに衝撃的な原発建屋の爆発シーンがあり、その映像の著作権が福島のテレビ局にあったことから、ZDFの無断使用が問題となっていたようです)。ドイツ語はまるでわからないので、字幕を通して内容を把握したつもりになっただけですが、報道番組として見る限り、私には感心出来ない内容でした。 番組では、原発から80km以上離れた「本宮」の農家が登場しています。この「本宮」が福島県本宮市でしたら、事故原発から80kmは離れていません。市の中心部まで60km未満、最も遠い西端でも65km程度ではないかと思います。直線距離ではなく自動車での移動距離でしょうか・・・。この程度の間違いはご愛嬌として、次に環境保護団体グリーンピースが、事故原発から55kmまでの海で魚を捕獲したところ、半分が食用の基準値500ベクレルを上回っていたと、紹介されている部分に驚かされました。数値に驚いたのではありません。放送内容からは、55kmとはどういった地点かわからず、調査時期もわからず、放射性物質の内容もわからず、捕った魚の種類もわからず、検査機関もわからない、わからないことづくめなので驚いたのです。 この時点で、個人的には、対岸の火事以外の何物でもないドイツのテレビ局が、我が国のNHKの『クローズアップ現代』くらいの感覚で作った番組なのだろう、と推測し、取るに足らないと判断しましたが、せっかくなので、さらに検証してみましょう(簡単に信じて「政府は情報を秘匿している!」とか「外国のほうが正しい情報を提供してくれる!」などと不特定多数に向かって主張する以前に、情報は自分の頭でで検証しないといけません)。 グリーンピースのサイトで確認すれば、その調査に用いた魚が、7月22~24日にかけて、福島県いわき市の小名浜港の沿岸で「漁港の堤防などで趣味で釣りをされている方々や漁業関係者から提供」されたものだとわかります(詳細PDF)。サンプルは8つだけです。そのうちの4つ(確かに半分ですが・・・)、アイナメとクロメバルから500Bq/kg以上の放射性セシウムが検出されています。具体的には、625Bq/kgアイナメ、671Bq/kgアイナメ、749Bq/kgアイナメ、1053Bq/kgクロメバルです。 たった1地点の、それも湾内の沿岸魚のみのシンプルな調査結果であっても、無意味とは思いませんが、それほど大した意味をもたせるのにも無理があるとも思います。「釣り好きの人は、少し注意しましょう」程度を注意喚起する根拠にする程度のものだと思うのです。何しろ、最高でも、流通できる基準(500Bq/kg)の2倍程度に過ぎません。この基準というのは、それを含むものを毎日食べ続けたら問題になる(かもしれない)量に過ぎず、当然急性の症状など起こす量ではないので(例の「食べてもただちに健康に影響はない」というやつです)、釣り好きが週末に釣って食べたところで、他は基準値以下のものを食べている限り、特に問題にはならないはずです。 そもそも、アイナメやクロメバルといった魚は、都会のスーパーではあまり見ないものと思われます。これらは沿岸の浅い海の底に棲息する魚です。従って、おそらく4月頃、海に高濃度放射能汚染水が流れ出て沿岸部を南下し、福島から北茨城沿岸の海面近くに漂っているコウナゴ類に放射性物質が多く検出され問題になった際(4/15産経)、その汚染された海流が湾内に入り込みセシウムが沈殿した結果(地上の吹き溜まりにセシウムが高濃度のピンポイントになっているのと同じ)、湾内の浅い海底に住むアイナメやクロメバルが最も影響を受け、セシウムなどが体内に残ってしまっているのではないか、といった推定も可能でしょう。 つまり、4月頃に、かわいそうなアイナメ君やクロメバルちゃんは、馬鹿な人間たちのせいで「被曝」し、放射性物質を体内に取り込んでしまったため、『身』から高濃度に検出されるのでしょう。一方の『内蔵』からは『身』の半分以下になっているのを見れば、新たに体内に取り込む量が少なくなっているとの推定も可能かもしれません。もちろん、湾内の海底の汚染には大した変化はなく、体内濃縮しているだけとも考えられますが、今回のグリーンピースによる海藻の調査でも、5月の第1回に比して7月の第2回の放射性物質含有量が格段に減っていることを援用すれば、やはり海底の汚染も浄化されつつあると見なしたほうが自然ではないかと思われます。 従って、この調査結果は、悲観する材料にはならないかもしれません。むしろ、着実に汚染度が下がっていることを示しているとも見なせますし、汚染度が高そうな浅い海底に住む普通は食べられない魚でこの程度なら、普通にスーパーに並んでいて、ずっと沖合で捕れるサンマやイワシやサバは、日本政府が調査し公表している魚介類の検出結果通りに、よりずっと汚染されておらず安全なのだろう、と推測する根拠にもなりそうです。実際、おそらく外洋を回遊し河川を遡上するために湾内に紛れ込んでいたところを釣られてしまい、グリーンピースの貴重な検体となったサクラマスに含まれていた放射性セシウムは、沿岸の浅い海底に定住しているアイナメなどよりずっと汚染度の低い、『身』で172Bq/kgとなっているのです。外海の魚の汚染度は、推して知るべしでしょう(この団体の主張する捕れた場所の表記はかなり難しいでしょう。沿岸から離れた場所を〇〇県沖とは表現できないです)。 再び「本宮」の農家の件に戻ります。その農家が作った野菜の放射性物質濃度の検査を求めたところ拒否されたので、「市民放射能測定所」に依頼したところ、「汚染の無い作物はない。特にセシウム137がひど」かったとし、「こんな汚染数値の場所は本当は絶対避難するべきです」と、ずいぶん重大なことを言い切るのですが、具体的にどういった検出結果だったのか『公表』してくれません。そして、なぜか「原発から60キロ離れた伊達市のシイタケからは、1キロ当たり7000ベクレルの汚染が測定された」として、また、いろいろ寄り道した後に、今度は「自費で独立の研究所に検査をしてもらったら3万5千Bq/kgのセシウム137が検出された。基準値の7倍だ。米作りは諦めた」との「本宮」の農家のコメントが現れます。 なぜ、伊達市のシイタケが突如登場するのか、その論証の流れは理解不能です。7000ベクレルとはどのように調べた結果なのか、番組だけ見ても皆目見当がつきません。同市などのシイタケは、4月に基準値を超えて露地物が出荷停止となり、7月にはハウス栽培でも出荷停止となりましたが、伊達市のセシウムの数値はともに千数百といったところです(各種新聞記事をお調べください。誰も隠していませんよ?)。誠に遺憾ながら、どのような検体を使用しているのか不明な私的団体の検査よりも、公的機関の測定結果を信頼するのが普通の感覚だろうと思います。例えば、出荷できないのでそのまま野ざらしにしていた原木に生えているシイタケを今測定すれば、7000でもそれ以上にでもなって不思議はないように思いますが、出荷される心配のないものを測定しても、高い数値が出たと危機感を煽る以外の意味はないのではないかと思います。 次に「本宮」の水田で測定されたという3万5千Bq/kgですが、これは確かに少々高い数値です。先ごろの政府調査の結果(朝日新聞・詳細は文科省PDF資料)と比較すると・・・、と、これは1平方メートル辺りの数値ではありませんか!また換算ですか・・・。1平方メートルの地面を5センチ削って測定したとされているので、1リットル1キロとすれば、50kgなので50倍して、175万Bq/m2となるかと思います。本宮市は6~60万Bq/m2の地域ですから、周囲と比較してだいたい3倍以上の数値と言えそうです。これは、その農地に特殊な事情があるのか、サンプルの取り方に問題があるのか、何らかの数値の誤解(単位の間違いなど)か、政府がすべての観測ポイントの検査結果を捏造しているか、製作者サイドの作為か、などなど、いろいろ理由が考えられそうですが、とりあえず、既にしっかりとした調査結果がある以上、ひとつだけの証言を素直に事実として認めることは出来ません。 そもそも、この農家の水田は2回行政側の検査を受けたようで、「最初の検査は合格したが、二度目の結果は公表されない」ので、民間で調べたところ3万5千Bq/kgとなったとし、あたかも検査に作為があるような印象を与えていますが、私はそれを事実とした上で、異なる経緯を推測します。1回目は作付出来るかどうかの検査なので合否判定が伝えられ、2回目は文部科学省の土壌汚染地図作成のためのサンプリングとすれば、結果がまとまるまで個別には「公表」しないのが当然だと思うのです。何のための調査なのか、当事者にしっかり説明されていなかった可能性を疑わせますが、ここから隠蔽的なものを感じ取るのは疑心暗鬼ではないでしょうか。第一、隠して得することなど何もないです。隠蔽して作付けし、結果食用基準以上のセシウムを含むお米が収穫され、検査で分かってしまえば(検査は民間機関でも行われる可能性があります)、その人の収穫したお米だけではなく、その地域、さらには県単位、より広域の不買につながってしまいますから、むしろ作付け基準値以上の場所では、絶対に作付けさせないように当局は行動するのが必然なのです。 魯鈍な政府の発表を鵜呑みにせず、上杉さんのように果敢に取材するのは、とても有意義なことですが、情報が錯綜する中で、情報の受け手である我々庶民は、そうした政府への懐疑についても検討の対象とできるくらいのゆとりを持ちたいところかと思います。 【付記9/3】 私は日本政府にはその場をごまかそうとすることはあっても、隠匿するだけの能力はないと思っています。情報を完全に掌握し秘匿出来るほどの、少数精鋭の組織があったら、むしろ頼もしいくらいでしょう。 『政府の汚染隠蔽』といったひとつの結論を持ってしまうと、一見それを裏付けような証拠ばかりを求めてしまいがちです。しかし、それは、社会心理学で確証バイアスと呼ぶ現象で、賢い人ほど陥りやすい誤りです。隠蔽もひとつの可能性として疑うべきですが、その証拠ばかり探すと全体的に見た場合のバランスを欠くことになります。 疑心暗鬼の確証バイアスに囚われ、身も心もくたびれないように、気を付けたいものだと思います。
2011年09月02日
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ようやくアレの内閣が総辞職しました。後継は、例の小沢さんが、彼らしい戦術ミスをしてくれたおかげで(決選投票を避けるため過半数を目指し、敵ではなかった中間派の鹿野氏の反感を買った)、最も総選挙を先延ばしに出来るという、民主党議員たちの思惑を反映した御仁となりました(三党合意を白紙にしたら野党が反発して国会が止まり、解散に追い込まれそうなので、いじめられると泣いてしまう海江田氏はペケ、外国人からの献金などで野党から攻撃される材料が多く、地位を捨てること潔すぎる上に頑固な前原氏は、すぐにキレて解散しかねないのでペケ)。 「地位が人を作る」とも言うので、地味なドジョウと自己評価されている野田総理大臣閣下が、案外宰相として立派な仕事をする可能性もあるはずです(すみません。前2代がひどすぎたので、頑張ってもこの程度しか言えません)。柄に合わないパフォーマンスを求めず、地道にコツコツ実直に課題をこなされるように、祈っております。 さて、ドジョウと言えば、土壌です。文部科学省が、事故原発100キロメートル圏内の放射性セシウムを調査した結果を公表したとのことです(朝日新聞・読売新聞)。 この調査は土壌表面5センチを削って行われ、単位は平方メートルなので、チェルノブイリのケースと比較しやすいと思います。従って読売新聞は「34地点がチェルノブイリ移住基準超」などと書いていますが、近いところではそれも当然でしょう。吹き溜まったり、降雨の集まりやすいポイントで「1平方メートルあたり約3千万ベクレル」などという状況にもなってしまうものと思います。 やはり、20キロ圏内と北西方面は、誠に残念この上ないですが、長期間にわたって通常の生活は不可能と見るのが合理的な判断になってしまいそうです。やはり、現時点では、チェルノブイリの基準(おそらく↓)の移住権利が生じるような数値のポイントを含む(作付の際の調査を見ると18万5000未満が多いはずですが、ポイントごとの詳細がわからない)、朝日の載せる地図の6~60万、青色で表現されている地域の除染が喫緊の課題になるかと思われます。現在人が住んでいない地域より、人が住んでいる地域の汚染を低減させるのを優先させねばなりません。汚染濃度の高い地域、既に避難し無人の地域の住民に対しては、後で打ち砕かれるような期待を抱かせるよりも、率直に説明し、その後の生活が他の地域で成り立つように、きめ細かに対応して欲しいものです。 18万5000~55万5000Bq/m2 移住権利区域 55万5000~148万0000Bq/m2 移住必要区域 148万0000~370万0000Bq/m2 居住禁止区域 「国民の生活が第一」としながら、原発事故が発生した際に、最も被害が懸念された地域のことをほとんど考えず、「キッキ!キッキ!」などと空騒ぎするばかりで十分な避難指示も出さず、一ヶ月以上も放置した棄民行為、今でもハラワタが煮えくり返りますが、それは過去のことであり(歴史がアレの愚劣行為を永久に記録するでしょう)、今は、それでも半減期の短いヨウ素131などの放射性物質による身体への影響が、軽微にとどまったらしいことを喜び、今後もしっかりした医療体制で、汚染の割合が強い地域に居住していた人々の不安が軽減するように、行政には今後さらに努めて欲しいものです。 放射能漏えいもほぼ収束し、放射性ヨウ素などの影響がとっくに去りました。今頃、ガイガーカウンター片手に首都圏近郊で放射能の心配などしても、あまり意味がありません。現在進行形の問題は、より汚染度が強く、それでも避難するほどではない地域から、その危険性をいかに減らすかにあります。沿岸部の事故原発から生じた放射性プルームが、比較的低い阿武隈高地を超えて県の中通りに達したものの、高い山々の連なる奥羽山脈を多くは越えることができず、薄まりつつも山脈伝いに南下していった様子が明瞭な汚染地図を見ていながら、なお奥羽山脈の西側をも、「同じ県だから」程度の認識で差別するなど、よほどおかしな話です。せっかく、早川さんの地図で見られる汚染の濃淡が、実際のセシウム測定でも証明されているのですから、それを冷静客観的科学的に正確に把握し、しっかりと今回の放射能汚染と向き合っていきたいものだと思います。
2011年08月30日
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毎日新聞で、斎藤環という方のコラムを見かけましたので、ご紹介しておきます。http://mainichi.jp/select/opinion/jidainokaze/news/20110828ddm002070083000c.html 理屈のない「ケガレ」として差別するのではなく、科学的な冷静さを持って放射能汚染を把握するようにすべきだという趣旨だと思われ、同感です。「覚悟と根気なしに「こころ」にかかわるべきではない。後腐れのない善意を発揮したい人たち向けには、「義援金」という方法がある」、まったくもってそのとおりです! ちょっとした勘違いとしては、「送り火をおこなう僧侶たち」と、京都五山の送り火を宗教行事とされている点でしょうか。京都五山の送り火は、特定のお寺の宗教行事ではなく、基本的には地域社会の伝統行事で、それだけに下世話な表現で言えば、『根性がたりなかった』ものと思われます。本来的には地域ごとの見栄の張合いに、見ている側が何となく持っている日本人的な情緒の上での信仰心が加わり、伝統行事として根付いてきたものではありますが、今回の事件で情緒的な奥行きを持たせてきた何となくの宗教性がはげ落ちてしまい、見る人によっては、たんなるイルミネーションにしか見えなくなってしまったことは、返す返すも残念なことでした。 なお、仏教の修行者である坊主は、「捨身」が表看板なので、「ケガレ」ていたら一緒にまみれねばならない因果な商売です。俗に「ケガレ」を扱う仏教に対し、「ハレ」を扱う神道と言われており(葬式はお寺、結婚式は神社、といった使い分けです)、「ケガレ」を忌み嫌い避けるのは神道的な発想と言えるでしょう。 21世紀に生きる先進国日本の国民としては、客観的科学的冷静に考え、迷信で「エンガチョ」をせず、許容できる「ケガレ」なら、少しは共有する覚悟(「こころ」であり、おそらくは『絆』)が必要だと思います。 【補足】 京都の名誉のために、「こころ」ある記事も紹介しておきます。清水寺の仏像を、陸前高田の松で制作するそうです。功徳のある大日如来様になることでしょう。http://www.asahi.com/national/update/0827/TKY201108270482.html
2011年08月28日
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今日の産経新聞は秀逸だったので、ご紹介します。http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110826/plc11082620530037-n1.htm たんに安くて夕刊がないからとは言え、我が愛読紙は、たいしたものです。阿比留さんは、おそらくアレのようなぬらりひょんを、ありとあらゆる面で許せなかったのでしょうが、まったく同感です。 それにしても残念ですね。産経。これで同グループの脳みそがとろけたテレビにモノが言えれば、硬派な新聞と素直に称えられるのですが(大昔の「サンケイ」時代から、ところどころで読み応えのある保守系新聞なのです。ソ連のクレムリンの権力構造の解説など実に秀逸でした。ちなみに、私は、「誤報の毎日、虚報の読売、捏造の朝日、あえて加えるなら、おっちょこちょいの産経」と昔から事実に即して評していますが、どの新聞も誤報虚報捏造を時折しでかす点では大差ないです。「新聞を疑え」[よりによって朝日に言われたくないよ!]当たり前のことです)。まったく、組織内の力学とは難しいものです。 よく「敵の敵は味方」を誤解して、いつでも味方を探す人がいるものですが、たいてい後で間違いに気づきます。当面の敵がAなので、その敵Bを利用するのが有効なのは、国盗り合戦の時くらいです。切ったはった生きるか死ぬかではなく、論理的な主張をする際に、敵の敵なら味方になるなどと思っていたら、自分の論理性が破壊されることになります。 ご覧ください。自民党政権時代に、さんざん与党をこき下ろしていた人たちを。今現在、同様の、さらにそれより悪質で無能な無様な姿を露呈する現在の政権に対し、同じような攻撃ができず、論理的な一貫性を欠いてしまった人の多いこと。敵の敵だからと、擦り寄っていた結果だと私には思えます。自民党が敵だろうと、民主党が味方とは限らない、ジャーナリストの多くは、それくらい一歩引いてモノを見て欲しいところです。
2011年08月27日
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事故によって放出されたと推定される放射性物質の総量は、一説に、チェルノブイリは広島型原爆の400倍(ウィキペディア。私の昔からのうろ覚えでは500倍なのですが、根拠を探すのが面倒なのでこちらを採用)、今回の事故は20倍で(東京大学アイソトープ総合センター長の児玉先生の国会証言「ウラン換算では20個分のものが漏出」[関連インタビュー記事])、その差は20倍です。 実際の空間放射線量については、チェルノブイリの場合、その周辺10km以内では毎時数百ミリレントゲン(mR/h)が記録されたようです(京大の研究論文)。しかし、現在の放射線測定の際に用いられるシーベルトとは単位が異なるので、単純に比較できません(私のような素人や軽率専門家モドキは比較しなければ良いのだと思うのですが・・・)。それでも、素人にだけ許される大雑把さで考えるなら、1レントゲンを0.1シーベルトと見なせると思います(おそらく桁が違うことはないといった程度の正確さ・・・)。100ミリレントゲンは0.1レントゲンですから、0.01シーベルト、これをマイクロシーベルトに直すとなると100万倍、100万倍?そう、ものすごい桁違いなわけですが、ともあれ当てはめると、100ミリレントゲンは1万マイクロシーベルトが、大雑把な目安になるかと思います。今回の事故発生当初、原子力発電所構内の空間線量は数百マイクロシーベルトに達しましたが(一部で1000を超える。東電の関連ページのモニタリングポスト参照)、チェルノブイリは数キロ離れた居住地域を10倍以上の放射線が襲ったと考えられそうです。実際、セシウム137の汚染度合いを見ても、7723Bq/kgが「ホットスポット」で検出された日本に対し、79000Bq/kg以上で移住が義務化されるチェルノブイリでは、汚染に10倍以上の開きがあったと想定されると思います。 汚染規模についても、同様の推定が可能かと思います。チェルノブイリの場合、1~5Ci/km2=37~185kBq/m2=1850~9250Bq/kgを「放射能管理強化ゾーン」としていますが(ウィキペディアにある汚染地図の1~15は1~5の間違いと思われる)、その面積は3万3160km2とされており(京大の論文)、一方の日本で1850ベクレルを超えるのは、検出ポイントで見れば飯館村と二本松市の一部のみですから、便利な早川さんの汚染地図なら空間線量が一時的に毎時4マイクロシーベルトを超えた地域程度と考えられます。また大雑把に見て、その地域は福島県全体の五分の一程度で、面積では2800平方キロメートル程度と考えられ、やはり10倍以上の開きがあると見なせるかと思います。 つまり、今回の原発事故は、細かな研究は専門家の先生が今後なされるでしょうか、素人の大雑把な感覚では、あらゆる面でチェルノブイリの十分の一以下です。十分の一以下でも十分すぎるほど重大な事故ですが、チェルノブイリと比べてしまえば、「大したことはない」と言われかねないことになってしまいます。 安易な比較をして、今回の事故を矮小化するようなことのないように気をつけ、逆に安易に同じ程度と見なした誤解をして、非常に大きな不安を、日本国内での比較としては、より汚染の大きい地域の人たちに与えないように、気を付けたいものです。
2011年08月26日
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キュリーじゃなくて、キュウリだよ、と気づかれなくて当然のオチを残して綺麗に終わろうと思っていたのですが、チラっと見ていた内容にイラっとしたので、批判というより、ほとんど非難しておきます。 まず、「東葛の0.4マイクロシーベルト毎時は、チェルノブイリでいえば第三区分(移住権利区域)です」とか、「福島市は2.0マイクロです。チェルノブイリでいえば、第二区分(移住必要地域)」などとするデタラメを書いて許されるのは、匿名の素人くらい、つまり、まるで無責任な存在だけと、冒頭に繰り返しておきたいところです。 このような、そこに住む人たちを、精神的には不安にさせ、経済的にはその生産活動を妨げ、また不動産価値を落とし、さらに他地域から差別を誘発しかねない論説は、厚顔無恥による風説の流布以外の何物でもなく、無知で軽率であったで済まされる問題ではないと私は思っています。 なぜ、毎時0.4マイクロシーベルトを一時的に観測した地域が、チェルノブイリの第3区分セシウム137が土中1kgあたり9250~27750ベクレル存在することを要件とするという「移住必要地域」になってしまうのでしょうか?火山学者ながら放射能については素人以外の何者でもない早川さんが、セシウム137を1平方メートルあたり480キロベクレルを毎時1マイクロシーベルトと換算して得られる数値をそのまま認めるとしても、半減期数日のヨウ素131や2年ほどのセシウム134などの影響が消えた後の状態なので、双方の比較はできません。そして、事故発生の当初、放射性セシウムよりも放射性ヨウ素の飛散が多いのは、これは常識だと思います。 知ったかぶって『常識』などと言い捨てると通じない可能性があるので、いかにも素人くさいと自分でも思う例証をしておきます。まず、ウィキペディアの「チェルノブイリ原発事故の影響」の項に挙げられる研究によれば、チェルノブイリ事故で放出された放射性物質の量は、セシウム137の89、セシウム134の48に対し、ヨウ素131は1300となっており、この3核種のみで考えれば、約90%が放射性ヨウ素となります。 この比率が、チェルノブイリに限らないことは、日本の場合は誰でも見ることができる、事故発生後間を置かない時期の検出結果から推測できます。例えば、東京都の水道水での検出結果から、3月23から26日までのそれぞれを足し合わせ(121・3.33・4.47)、比率に直せば、ヨウ素131が約94%、セシウム134が約2.6%、セシウム137が約3.5%となり、やはり、事故発生当初の放射性物質の影響力としては、放射性ヨウ素が圧倒的な比率であったことがわかります。 事故発生当初の空間放射線量シーベルトを大きくしているのは、セシウムよりもむしろ半減期8日のヨウ素131である以上、セシウム137のみのデータと比べることはできず、比べてしまえば、素人考えでも10倍程度の過大評価につながるくらいの疑問を持つことができたはずです。現実としても、福島市役所で3月18日に、毎時12.34マイクロシーベルトを観測した空間放射線量が、その後低下し続け、6月以降は1マイクロシーベルト程度で安定しています(県庁のデータ)。これは、当初存在した放射性ヨウ素の影響が消えていった結果と考えるのが妥当でしょう。 さて、毎時1マイクロシーベルトは危険ではないのか?と尋ねられたら、それは知りません。文系の私が知っているのは、そこに地域社会があり、人付き合いがあり、生業を持ち、あるいは土地や家などの不動産を持ち、その土地から離れがたい大勢の人たちが住んでいる、という事実のみです。しかしながら、せっかくなので参考までに少し考えてみましょう。 1マイクロシーベルト×24時間×365日=8760マイクロシーベルト。つまり、8.76ミリシーベルト。これは、「ソ連でも1年5ミリ以上は強制移住」などと、資料の引用に対しての軽率さでは定評のある学者さんが、いつもの習癖で言い切ってしまっているようなのを見たり聞いたりしてしまえば、ずいぶんと心配になってしまう数字です。しかし、一日中野外で生活する人は少なく、屋内では影響が低減されます。一方、水や食物や呼吸によって体内に取り込むことも考えねばなりません。それぞれ引いたり足したりして、積算放射線量を割り出さねばなりませんが、面倒すぎます・・・。興味のある人は、武田さんより詳しく放射線医学総合研究所のページなどを参考に、じっくり考えられることをお薦めして、文系の私はご遠慮したいのですが・・・。 まあ、それも無責任な気がするので、参考になるのかわかりませんが、東京の数値は放射性ヨウ素の占める値は大きいので、その影響が消えてからが大半となる福島の一年平均値に近くなるのではないかと、思い切り無茶な仮定をして計算してみます。まだヨウ素の影響が残る3月14日~4月11の東京の試算値を、そのまま365日に直せば、(水10+食物69+空気21)÷29×365=1259マイクロシーベルト。空間線量毎時1マイクロシーベルトは、計算式の東京のほぼ10倍の値で、通常時は東京並みとすれば、645-37.2=607.8、低減係数0.6を掛ければ、365マイクロシーベルトになります。従って合計は1624マイクロシーベルト=1.6ミリシーベルトになりました。 年間1ミリシーベルトを平常時の目標値とするなら、超えてしまいますが、大騒ぎするほどかは人それぞれと言えそうです。 なお、巷間流布する「ソ連でも1年5ミリ以上は強制移住」は、とても武田さんらしいお言葉ですが、それだけに十分な検討が必要です。出処は、おそらくソ連と言うよりも、正確にはウクライナのチェルノブイリ原発事故への対応にあるかと思います。どういったものか、ざっと調べたところでは、京都大学原子炉実験所の今中先生たちの報告書などが詳しいようです。興味のある方は、京大を褒め称えつつご参照ください。 1986年チェルノブイリ原発事故から、5年を経た1991年に施行された法律で、汚染濃度を4つに分け、それぞれへの対応を定めています。おそらく、ウィキペディアのチェルノブイリ汚染図の元資料にもなっていると思いますが、注目すべきは、年間被爆量5ミリシーベルトを「移住義務ゾーン」、1ミリシーベルトを「移住権利ゾーン」とする点でしょう。少しニュアンスが違いますが、まさに「1年5ミリ以上は強制移住」なのです! が、ちょっと待ってくださ~い!、それは実際の対処とは異なります。この法律は、セシウム137が1平方メートルあたり555キロベクレル以上の地域が年間被曝量5ミリシーベルト以上の地域、185~555キロベクレルの地域が1から5ミリシーベルトになると見なしているのです。つまり、185キロベクレルの地域で受ける年間被爆量が1ミリシーベルトとウクライナの基準から見立てたに過ぎず、現実としてはセシウムなどの土壌汚染の程度で判断しているのです。 1平方メートルあたり185キロベクレルとは、1キログラムあたりでは22日に記したように、×1000÷20で9250ベクレルと考えられます。日本では、セシウム137のみではなく、134も合わせて5000ベクレルに達した水田の作付けを禁止しましたが、誠に残念なことながら、汚染レベルが非常に高く計画的避難区域になってしまった飯館村の水田でさえ、137のみでは、前田地区4932ベクレル、長泥地区7723ベクレルであり、『ウクライナ基準』では「移住権利ゾーン」に達せず、従って年間放射線量1ミリシーベルト以下と見なされることになります。 「1年5ミリ以上は強制移住」などと、他人の話を無批判に受け入れてしまう素直な人たちは、この『ウクライナ基準』を受け入れてくれるのでしょうか?それなら、私はハッピーです。日本の移住が必要なほどの汚染地域など、ほとんど無くなってしまい、セシウムの濃度ですべてわかるのですから、細かな年間積算放射線量など計算することもありません。 良いのですか?この『ウクライナ基準』を何やら厳しいものと誤解して、「ソ連でも1年5ミリ以上は強制移住」などととするのは、あまりにデタラメではありませんか?正確には「ウクライナでは27750Bq/kgでようやく移住が義務化されている」になってしまうように思います。それで、本当に良いのですか? 今現在の汚染度合いについての評価や、積算放射線量の許容値をどの程度と見るか、それについては様々に意見があって当然です。しかしながら、現実のデータや法律などの中身を理解もせず、もしかしたら確認すらもせずに、日本とチェルノブイリを比較して、汚染を強調するなど、厳に慎むべきでしょう。 汚染度が比較的に高いのは事実なので風評被害には当たらないなどと陳腐な自己正当化を行い、事故原発の立地する県の産品を避けるように使嗾しながら、一方で、その県の子供のために除染を推奨する・・・誤った風説の流布により、デマゴーゴスの烙印を押されないように、ご注意いただきたいものです。
2011年08月25日
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前回右側の地図の説明が不足していましたので補足します。 右側のセシウム濃度の単位は「Ci」キュリーになっていますが、1キュリーは3.7×10の10乗ベクレルなので、前回掲げたような数値となります(ネット上に流布しているのは換算後の数値)。こういったものは、単位を揃えねば比較できませんが、それを省くと印象論になり、途方もない誤解を招くことになるので注意が必要です。文系の私には、とてつもなく面倒ですね。 チェルノブイリ事故による放射性降下物の放出量は、広島型原爆の400倍と国際原子力機関 (IAEA)は推定しているらしく、一方今回の日本のそれは20倍と推定されているようですから、単純に考えれば20分の1です。20分の1なので安心出来るという問題ではないですが、ケタ違いのチェルノブイリとの単純な比較はできないのも明らかでしょう。 この汚染度をチェルノブイリの20分の1とするのは、ずいぶん大雑把な考えと言えるかと思いますが、汚染度の大きい地域のセシウム137の濃度を比べると、日本が7723Bq/kg、チェルノブイリが上下の中間値で132000Bq/kg、と、むしろ不思議なくらいに、1対20に近い数値となっていて、符合しています。つまり、日本の汚染はチェルノブイリの20分の1程度と言っても、排出量の推定のみではなく、前回の図の比較からも、実態に近く、日本の場合、汚染範囲が狭いばかりではなく、「薄い」と見なせるものと思います。 育ちが悪いこともあって疑い深い私は、より深刻な汚染になっているのではないかと、事故発生の当初に漠然と想像し、被害を受ける可能性の大きい地域の人たちに対して無感覚に過ぎる政府に腹を立て、3月下旬あたりからイライラし続けでした。しかも、あまり「危険!危険!」とか、まして「逃げろ!逃げろ!」などと言える根拠もなければ、まして、政府がそれを行わないのに騒げば、不安感を与えるのみで、さらに差別感情を与えるだけだと思っていました。 その後、何やらマスコミが「また汚染が見つかった!」といった調子で報道する事実により、それがほとんどチェルノブイリと比較にならない桁違いに軽微な汚染であることを証明するものばかりだったので、徐々に安心できるようになりました。五ヶ月以上も経過した今になって「ガァイガァー」化している人とは真逆に、徐々に安心できるようになったのです。事前に、少しは考えておいて慌てずに済んだといった感じです。 チェルノブイリと比較するなら、その差は現実として歴然とするばかりですが、チェルノブイリの図が「Unnamed zone」とする地域、もしくはそれより汚染度の低い地域では、どのように対応するべきか、これこそが日本政府や日本に住む我々自身の課題となっていると思います。つまり、未知の話です。参考になる事例はほとんどありません。未知ゆえに、あまり楽観もできませんが、全く的外れな比較をしても仕方がないことも確かだと思います。誰にもわからないことに、誰かが明確に答えてくれると期待しても、くたびれるだけです。 ましてや、専門外で見当違いな結論した専門外で学者をしている人や(素人同然ではなく、完全無欠のたんなる素人)、それ自体「厳しくしとけばいいや」程度の軽い気持ちで作られたとしか思えない事故以前の規制値を(国際的なものは尚更。新型インフルエンザの時の対応を見ていれば、ああしたものがどういったものかわかる)、なぜかその点だけ学者バカそのものの頑迷さで曲げず、正義漢ぶって喜んでいるようなおしゃべりな関連学問の学者らしい人物もいるかと思いますが(言っていることがすべて間違っているわけではない。正しい面が大きいほど始末に悪い心得違いもある。学者なら意見は学会で、一般人ならほかの人の生活に配慮するのが当たり前。どっちつかずは無責任なだけ)、そうした情報に踊らされるのも自己責任の自由民主主義社会ですから、行動のある人ほど、冷静に、他人の迷惑を考え、特に事故原発周辺域の住民の生活を脅かすようなことにならないように、よくよく考えて行動したいところです。 私は、何も出来ないので、被災された皆様や、同じ日本人とは思えない心無い人たちの産地差別に苦しめられている皆様の邪魔だけはしないように心がけ、今日も美味しくその産地のキュウリでも頂きます(今は事故原発の立地県産が旬らしいので。日本は産地ごとに競合しないように収穫時期をずらしていることは、小中学校の社会科で習いましたよね?)。
2011年08月23日
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チェルノブイリブイリと安易に比較して、桁違いの恐怖心を抱いている人がいるようです。そこで、オープンソースでもあるようですので、早川さんたちの作成された図と、ウィキペディアのチェルノブイリ事故の項にある図を並べて考えてみたいと思います(図は最下段。機能上小さく表示しているので、興味のある方は図を「名前を付けて保存」してご覧ください)。 まず、繰り返しとなりますが、早川さんの方は空間の放射線測定値で、チェルノブイリの方は土中セシウム137濃度の値(らしい)点に注意が必要です。そこで、日本側の土中セシウム137測定値を抜き出し、空間線量の分布と祖語がないか確かめてみました。福島県 喜多方市84~119Bq/kg 緑色 会津若松市138Bq/kg 緑色 いわき市71~263Bq/kg 黄色 相馬市342Bq/kg 黄色 白河市419Bq/kg 黄色 南相馬市423~545Bq/kg 薄オレンジ色 郡山市485~1770Bq/kg 薄オレンジ色 福島市1431Bq/kg オレンジ色 伊達市672~1514Bq/kg オレンジ色 二本松市903~2068Bq/kg オレンジ色 飯舘村4932~7723Bq/kg 赤色栃木県 大田原市377Bq/kg 黄色 日光市525Bq/kg 緑色 那須塩原市927Bq/kg 薄オレンジ色茨城県(数字がセシウムの総量なので6割をセシウム137とした) 土浦61Bq/kg 緑色 つくば市92Bq/kg 緑色 水戸市94Bq/kg 無着色 常陸太田101Bq/kg 無着色 八千代町116Bq/kg 緑色 北茨城185Bq/kg 緑色 千葉県 館山市18.0Bq/kg 無着色 旭市36.5Bq/kg 無着色 千葉市50.1Bq/kg 無着色 成田市166Bq/kg 緑色 結果、一部を除いて、実際のセシウム137の土中濃度と、早川さんたちの作成された色分けに大きな齟齬は見られないと思えるので、この図が放射性物質の広がりを端的に示した図としても、評価可能であると判断しました。つまり、緑色は100~150、黄色が150~400、薄オレンジが400~1000、オレンジが1000~2000ベクレル(Bq/kg)に相当する、といった程度のごく大雑把な推定なら可能でしょう。目安として有効なわけです。 しかしながら、同じベクレルで何となく桁数も百桁千桁と似通っている右の1480~3700kBq/m2を居住禁止区域、555~148 kBq/m2を移住必要区域、185~555kBq/m2を移住権利区域(直訳とは異なるがそのまま使用)とする図と、見比べるには、さらなる注意が必要です。日本の場合は1kg当たりのセシウム137の濃度であるのに対し、チェルノブイリの場合は1平方メートル当たりのセシウム137の濃度となっているからです。 なぜ単位面積あたりで測定できるのか、専門外の私にはわかりませんが、専門家は「表面2cmの土を1m2にまいたとして、体積は20リットル。比重を1とすると、土壌20kgに相当」とされているようなので、水田には重い土が普通であることを考慮すると、比重は1~2の幅を持たせた方が良いと思いつつ、簡単なのでそのまま比重を1として、チェルノブイリの数値を1キロ当たりに換算すると、次のようになります(キロベクレルをベクレルにするので1000倍、それを20で割る)。79000~185000Bq/kg居住禁止区域、27750~79000Bq/kg移住必要区域、9250~27750Bq/kg移住権利区域 これで見る限りでは、飛び抜けた最高値を示す飯館村でさえ、この図のチェルノブイリ基準では、移動権利区域のレベルに届かないことになります。同じ地域でも測定ポイントにより偏差があるので、一概には言えず、そもそもチェルノブイリの方はいい加減なので、それに合わせるのもおかしいですが、とりあえずこの地図の比較からは(右の図を信用するとすれば)、チェルノブイリの汚染は桁違いだったのだろう、といった推測程度しか出来ないように思います。 根本的な問題は、チェルノブイリ事故の際のデータの欠如にあるので、一般人でさえ「ガィガァー」として活躍して情報を提供してくれる日本と、単純な比較は難しく、それだけに対応も模索状態になるかと思います。念には念を入れ、安全性がより高い方向で対処すべきですが、実態の見えない数値と比較して、過度な不安を持たないようにしたいところです。
2011年08月22日
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ガイガーは「害がぁ」に通じ、ガィガァーとガを強調して発音すると、ブロガーのように特定行動をする人を指す言葉になる・・・、なかなか意味深長ではありませんか。 しかし、「ガイガー突撃隊」もしくは「ガィガァー」と称すべき、趣味で買い込んだガイガーカウンターを片手に自主的に放射線を測定する人が増えれば、まず間違いなく社会の厄介者として白眼視され、一歩間違えれば迫害を受けることになると心配しています。その行動は、自分の幼稚な恐怖心を満たすために、他人の社会生活の邪魔をすることになるだけになっているからです。 「ガイガー突撃隊」もしくは「ガィガァー」の皆さんは、「真実を多くの人に知らせて、自分の身を守れるようにしてあげないと!」といった使命感を抱いているのかもしれませんが、それは錯覚か妄想です。そもそも、真実ですらありません。 こういった人たちが依拠していると思われる専門めかした情報は、先に指摘したように、空間放射線量と土中のセシウム濃度の区別もせずに、安易にチェルノブイリと比較しているといった、まったく軽率極まりないデタラメとも言えるものです。そもそも、核反応炉そのものが吹き飛んだチェルノブイリと、構造上の優位性と不幸中の幸いにより、核反応炉そのものはとりあえず原型をとどめている日本のケースとは、拡散する放射性物質の濃度に大きな違いが生じて当然であり、実際、セシウムの土中濃度が、チェルノブイリ汚染区域に比べうるほどの地域が些少に過ぎないことから、明らかなのです。 「でも、放射線量高いじゃない!」と言うのは、そもそも前提に齟齬があるからでしょう。おそらく、「チェルノブイリで居住禁止区域とされた地域のセシウム137の検出量は〇〇で、それは放射線量に換算すると××なので、それ以上の値が検出される地域は危険に決まってる!」といったところでしょうが、この論理は成り立ちません。放射線量はセシウム137のみが放出するわけではないからです。事故発生から5ヶ月も経過している今日では、既に放射性ヨウ素は消えているはずですが、セシウム134やストロンチウムなどなどの核種は存在すると思われ、特にセシウム134の影響は大きいはずです。 放射線を発する放射性物質の一部に過ぎないセシウム137の濃度だけで、放射線量を推測するのは無理がありますし、そもそも放射性セシウムの土中濃度調査は、国の基準を満たさねば作付けできないため、各地の水田で測定され公表されています(↓千葉県)。http://www.pref.chiba.lg.jp/annou/h23touhoku/suidendojo.html わざわざ炎天下に熱射病の危険を感じつつガイガーカウンターを持ってうろつかなくとも、汚染の程度はわかりますし、チェルノブイリとの比較も可能なのです。一体、何で、無駄な時間と労力を使う必要があるでしょうか?情報の隠蔽のみに邁進したチェルノブイリ事故当時のロシア政府(当時の国名はソビエト社会主義共和国連邦)と異なり、今の日本政府の問題は情報の隠匿ではなく、その整理処理能力の欠如にあります。せっかく情報は存在しているので、利用していただきたいものです。 事故の初期に拡散した放射性物質が、少しの間を置いて千葉の東葛地方周辺に比較的に多く降下してしまったとの推測がなされているため、周辺都市民は心配されることでしょうが、その程度は、検出されたセシウムの濃度を見れば、チェルノブイリで移住を必要とされる地域などとは、比較にならないほど軽微なことだけは明らかです。降下してしまった放射性物質にしても、アスファルトやコンクリートといった透過性の低いものが地表を覆う都市の特性のおかげで、大半は「とっくの昔に」雨と共に下水管に流れていったと考えられます。いわば、自然による除染です。結果、浄水施設の汚泥にかなりな濃度のセシウムが検出されることになりましたが、それは除染の結果として喜ぶべきニュースだったのです(この点をまるで理解していないマスコミが多いようだ)。 そのような、都市部の構造上の恩恵に浴さないピンポイント、吹き溜まりのような場所では、特に濡れ落ち葉の類はセシウムの吸着剤のような役割を持つようなので、セシウムが蓄積し比較的には高濃度となり、結果、比較的に高い放射線を発することになりますが、その範囲は極端に狭いので、道を行き来したりどころか、上を踏んで歩いて通っても、心配する合理的な理由はないはずです(温暖湿潤の日本の山林では、地表はすべからく落ち葉で覆われており、また土壌表層に根を張る植物の生育は驚くほど活発なので、チェルノブイリ周辺の自然環境と同一には考えられない)。 現在、原発問題担当大臣として細野さんが頑張っていらっしゃいますが、なんの役にも立たなかった節電担当大臣の二の舞にならないように、残り少ない任期かもしれませんが、頑張っていただきたいものです。 とりあえず期待するのはパフォーマンスではなく、情報を垂れ流すだけでなく、正しく解釈できるように国民を啓蒙していただきたいところです。具体的には、その場しのぎのバラバラで全体的な統一性のない放射性物質に対する基準値やら指示を、全て集めて整合性の取れるように見直し、見直した理由をしっかりと説明すること、特に廃棄物処理について明確にし、基準を緩めて普通に焼却できるようにした上で、比較的に高レベルの放射線を発する汚泥や焼却灰の処理を国が一括して行うこと、その処理施設は、事故発生地周辺に設ける以外にないので、県とは引き離し行政特区とした上で早急に開始すること、それに伴い誠に忍びないことではありますが、事故原発が立地する大熊町は「廃村」とし、住民の移住や荷物の持ち出しなどに万端の処置を行うこと・・・、その他もろもろ・・・。おそろしく仕事の多い大臣ポストですので、女遊びをしている暇はないでしょう。まさに政治家の本懐ではありませんか。今後「私を信じて」もらえるように、粉骨砕身頑張ってください。 さて、汚いものにうっかり触れてしまった子に対し「エンガチョ!」と言って、その子から触られないように逃げ、「エンガチョ!」しないでその子に触れられると『ケガレ』が移ってしまう、といった他愛ない児戯があります。汚いものから防御する意味で「バリアー!」と言ったりもしたものです。 実は結構古くからある風習で、民俗学的に興味深く、歴史学的にも網野善彦という人がその著『無縁・公界・楽』などで注目し、その方面でも話題になりもしました(なり過ぎだった)。『ケガレ』に触れた当人も、他の者に触れることで、『ケガレ』から自由になる、そして『ケガレ』とは無縁な、言わば悪縁を断ち切った(ちょん切った)状態になる・・・、「おお、そこは何者にも犯されない自由の地『アジール』!』といったわかる人にしかわからない解釈も成り立ちますが、より実際的には、『ケガレ』た者との縁をちょん切って、身の保全を図るだけのことで、穢れた汚い者と認定された子供を「エンガチョ!エンガチョ!」とはやし立て差別する、残酷なお遊びと言えます。 私は、自費で買い込んだガイガーカウンターで「ここの線量が高い!」と言っている人の報道を見るたびに、「ここ掘れワンワン!」でもあるまいに、と舌打ちしつつ「エンガチョ!エンガチョ!」と言って回っている子供を見る思いがしています。「エンガチョ!」と言われた途端に、あら不思議、ただの枯れ葉の山が放射性廃棄物に早変わりし、危険近づくな!になってしまうではありませんか。黙って、清掃しておけば、何の騒ぎにもならなかったのに、まさに魔法のコトバです。 何やら、達観した物言いになってしまい恐縮ですが、人間は弱いものなので、恐怖心に駆られると日頃の冷静さを失い、理知的であればあるほど、自分の持つ恐怖心を裏付ける情報を求め、結果、バランスの取れない偏頗な情報ばかりで、頭の中を恐怖心を増大させることになってしまいます。知りたい情報は恐怖心の裏付けなので、そればかりを無意識のうちに探してしまうのです。そして、その一種の妄想を裏付ける情報を得ると、その意味を考えずに喜んでしまう『確証バイアス』にはまることになります。また、周囲が無知で、何も知らないから平静でいられるのだと思い込んだりもするでしょう。 しかし、放射能の問題にしても、核実験にせよ、チェルノブイリにせよ、JCOバケツ臨界にせよ、その他もろもろの電力会社の下請け作業員の被曝事故にせよ、考えるべき時は過去に何度もあり、その際にそれなりに知識を集めていた状態で、今回の事故を体験することになった人も多くいるのが現実です。そして、何があろうとも足元だけをしっかり見て余計なことは考えないか考える暇がない強靭な庶民は、さらに多くいるのです。前者から見れば、今更気付いて騒ぎ回る人はおっちょこちょいなだけであり、後者から見れば、自分たちの暮らしをかき乱す邪魔者以外の何者でもありません。お節介な行動力を発揮する前に、今少し冷静になり、恐怖心を煽る情報ばかりでなく、安心感を得られる情報も求め、自分の頭でゆっくりと情報を咀嚼し、特に被災地などの人たちのことを我が事として考えて頂きたいところです。
2011年08月21日
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西日本に根深く蔓延している「自分たちは大丈夫」といった妄想が露呈すると、良識のある西日本の人たちは、ずいぶんと情けない気持ちになったでしょう。しかし、東日本にしても誇れたものではありません。放射能汚染に関心があり頭がシャープでも、逆のベクトルで行動力を発揮し、周囲に迷惑をかける人がずいぶんいるのです。放射性物質は無い、つまり、まったく汚染されていないと信じ込んでいるのが、西日本の一部なら、放射性物質だらけで危険とおびえている東日本の一部、といった感じです。 西日本の方は、他人事に考えて現状認識をしていないだけ、東日本の方は自分のことばかり考えて過剰反応しているだけ、だと私は思っていますが、実際、良識ある西日本の人たちには笑われるに違いないことに、ガイガーカウンターなどを持ち出し、公園やら他人の家の植え込みやらを片っ端から測定し、少々高い数値が検出されると、何が嬉しいのかまるで不明ながら、鬼の首でもとったように大騒ぎして地元行政府に訴えたりするのが流行りそうな気配なのです。その一例を、今日の読売新聞に見かけました。 「1キロ・グラム当たり1万2400ベクレルの放射性セシウム」が、どれほどのものか、後でも触れますが、少なくとも数十メートル離れたプールで遊ぶ人に影響を及ぼすことなど考えられません。そもそも、せいぜい数平方メートルのピンポイントで少々線量が高いことなど珍しいはずもありません。第一、本当に気になったり人のためと信じるなら、余計な手間を行政に押し付けるより、黙ってその放射線量の高い場所の落ち葉でも拾って袋に詰めて、仕方がないのでゴミ収集車に持っていってもらえば良いのに、と私は思います。そうした行動が多ければ、焼却灰に含まれる放射性物質濃度が高まり、当然放射線量も上がって、作業員に多少の注意が必要になりますが、『除染』とはそういうものなので、これはもうやむを得ないところです。 『除染』と書くと、何か特殊なことをするようですが、実際は水で流すか、表層のゴミを拾って捨てるだけなので(より大掛かりでも、せいぜい表土を削る)、公園の清掃も立派な 『除染』です。本当に公園で遊ぶ子供の身が心配なら、ガイガーカウンター片手にガーガー言って他人に押し付けるよりも、父母会でも老人会でも地域の力を結集して、清掃作業をするの方が、即効的です。世のため人のため、是非とも『除染』作業をしていただければと思っております。 吹き溜まりや掃き溜まりにゴミ溜まり、は当たり前にありますから、質量のある物質であるセシウムは、そうしたポイントに濃縮されてしまいます。何の不思議もありません。確かに、そのピンポイントで、何時間もじっとしていたり、何時間も比較的に濃度の高い土壌を弄ったりしていれば、もしかしたら健康に影響、つまり残留放射性物質の発する放射線により細胞が傷つくことも、絶対ないとは言えません。しかしながら、急性症状を起こすほどの濃度は、原発事故敷地内でも珍しいくらいなので、当然何キロ、何十キロ、何百キロ離れた場所ともなれば、その可能性は限りなくゼロに近いです(気にして精神的に過敏になる方が、おそらく健康に悪いです)。 東日本、特に原発事故発生地から200キロ程度離れた首都圏で、仕事でもないのにガイガーカウンターを持って頑張ってくれている人たちに欠けているのは、周囲と比較して数倍から十数倍程度のごく小さなポイントがあっても、それが普通の生活を送る人に影響する可能性は極めて低いといった科学的な常識と、より高濃度な地域でも生活しなければならない人たちに対する配慮ではないでしょうか。汚染度が比較的に高い地域で、しっかりした放射線量の監視や大々的な除染が行われるようになってから、自分たちの心配をしなければ、それは順序の異なる単なるエゴになってしまうでしょう。 知識過多で心配になる気持ちは分かりますが、残念ながら『コスモクリーナー』(アニメの戦艦ヤマトに登場する「放射能除去装置」。彼らはこれを譲ってもらうため、遥かイスカンダルへ旅立つ)は存在しないので、「セシウムあった!」と言ったところで、意味がありません。ある程度まとまった区域がホットポイントと見なされたら(何箇所か測って一定濃度以上になっている)、が見つかれば、行政的な処置を求めるべきですが、実に細々と散在するピンポイントは、普通の地域が行いうる『除染』という名の清掃活動で対処したいところです。 このように書くと、危険を認識せずに茶化しているだけのように思われるかもしれませんが、案外いろいろ知っている社会科マルチ人間の私は、心配するのも当然だとは思っています。例えば、群馬大学で火山をご研究になっている人が作った「放射能汚染地図」のようなものを見ると、一見わかりやすいので、色のついている地域に住んでいたりすれば、不安にもなるのも自然です。 しかし、学者は学者でも畑違いのそれはただの素人です。火山学者になぜ放射線の知識を求めるのか、専門外のことに時間を費やせるぐんま大学は良い職場だ(注文がない日の小売店主並みか?)、個人的にはその地図の内容以前にいろいろ感心させられてしまいます。それでも、確かに『除染』という名の清掃活動を行う際の重点ポイントを、わざわざ線量計で確認しなくとも大まかに示してくれると考えれば便利ですし、事故初期に放射性物質がどのように広がっていったかの大まかな推定として見るには、実に有用な地図だと思います。その点、専門学問の研究者でありながら、よく知らない専門外の学問にに手出しするとい、自然科学でも人文科学でもタブーなことを、なぜか平然となされるその蛮勇に感謝しなければなりません。しかしながら、日本の実に細かな空間放射線量測定(単位は「シーベルト」)と、チェルノブイリの土壌に含まれるセシウム137の濃度計測(単位は「ベクレル」)を安易に比較するなど、その情報処理には大きな問題があるようです(放射線量はさまざまの核種の発する放射線のとりあえず「総和」なので、残留セシウム137のみから推定などできないはず)。 チェルノブイリの場合、事故当時の周辺地では、一体どの程度の空間放射線量になっていたのかわかりません。放射線を発する核種はさまざまにありますから、ひとつの核種の土中濃度で空間放射線量を推定するなど不可能なのです。それを理解せず、もしチェルノブイリ周辺の土中に含まれるセシウム137の濃度と、半減期の短い放射性ヨウ素の影響を大きく含んでいる日本の空間放射線量の実測値を比較すれば、日本の汚染度を過大に評価することになってしまいます。重大な事実誤認をしないように、注意が必要です。 出典はよくわかりませんが、下のようなチェルノブイリのセシウム137の濃度を基準としてなされたという対応と、日本の現況を比較したいのであれば、空間線量ではなくセシウム137の「kBq/m2」(1平方メートルの表土に含まれるセシウム137の量)でなければならないでしょう。それが科学の初歩のはすです(数値がなければ推定するしかないですが、推定は最後の手段)。1480~3700 kBq/m2 居住禁止区域 555~1480 kBq/m2 移住必要区域 185~555 kBq/m2 移住権利区域 日本のセシウム測定では、土1kgに含まれる値となるので、換算という名の推定が必要となります。この点について、京都大学の今中氏は「表面2cmの土を1m2にまいたとして、体積は20リットル。比重を1とすると、土壌20kgに相当」として換算する方法を提示されていらっしゃるそうですが、日本で計測されている水田の泥土で、土の比重が水と同じ「1」というのはまず有り得ないので(容積1リットル=質量1キログラムの泥土は考えにくいという意味。水田の泥土と同質の『荒木田土』の重いことと言ったら!)、とりあえず「2」まで幅を持たせて考えるのが適当だと思います(容積1リットル=質量1から2キログラム)。 4月6日現在とする福島県農林水産部の測定結果では、最も値の大きな県北の一地点で約2.7kBq/kgなので(単位をキロに修正)、27~54kBq/m2と換算されるかと思います。この数値は高いでしょうか?少なくともチェルノブイリ周辺であっても、移住の権利が発生しない、それには遠く及ばないレベルであることは間違いありません。 個人的にはこのような事実を踏まえた上で、「放射能汚染地図」を見ると空間放射線量の値が瞬間的に高くなっていた(過去形)地域でも、土壌汚染は作付け可能なほど、土壌汚染は低レベルで済んでおり(日本で水稲の作付が許されるのは、セシウムの合計5000Bq/kg[5kBq/kg])、人的にも、子供の甲状腺被害も軽微だったので(毎日新聞参照。それでも、ご両親が心配しなくて良いというものではありませんが、少なくとも、他人から差別される理由などまるでない健康体)、不幸中の幸いで、私が当初頭の中で漠然と想像したような壊滅的な広域汚染にならなかった、と判断しているわけですが、論理的に何かおかしな点があるでしょうか? それで、川崎のプールを清掃する際に、事故発生前からジメジメとした状態で吹きだまっていた枯葉の類を、特に問題意識はないので、何の気もなく横の空き地にポイと捨てていたのを、「ガイガーカウンター突撃隊」に発見され(やはり茶化にされているようで腹が立つかもしれませんが、問題意識の高さと行動力は素晴らしいと思っています。ただ、どれほど自分では正義の行いと信じていても、他人には迷惑になってしまうことが得てしてあることに、少し考えを巡らしていただければ、聡明な方々にはご理解いただけるものと思います)、プールが使えなくなった1kg12400ベクレルという濃度ですが、1kg12.4キロベクレル、従って1平方メートルあたり124~248キロベクレルとなり、「おめでとうございます!移住権利、ギリギリ獲得でぇす!」と言いたいところですが(茶化しているのではなく、元々こういった言い回しが好きなのです)、少々お待ちください。川崎のそれは「放射性セシウム」であって、セシウム137に限られません。おそらくセシウム134との合計の数値ですから、ほかの事例から想像するに137の検出量はその半分程度、となると、「移住権利」も獲得できないレベルの汚染となります。 単位とか換算とか、いろいろややこしいものなので、慎重で有りたいものです(上記の換算、自分が間違っていない自信はありません。責任逃れではありますが、シロウトはそういったテキトーな存在なので、他人の人生に大きな影響をもたらすようなことを、軽率に公言しないように控えるのが常識で、私も怪しい「科学」で人を惑わせないように、自戒しないといけないと思っています)。
2011年08月19日
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成田山新勝寺の対応については、冷静になって考えると、一部マスコミの誤解による報道があり、実際は粛々と行われるのみ、のような気がしています(宗教的倫理観ではそれ以外ないため)。したがって、同寺で責任のある立場にあるお坊さんが出てきて、妙な発言でもしない限り、気にしないことにしました。 一方、京都の件については、腹立ち紛れに連日書いていたので、とりあえずの締めくくりをしておこうと思います。 なお、五山のイルミネーション保存会の人たちは、地域のただの世話役であり、ようするに近所の町内会のおっちゃんたちと基本は一緒でしょうから、無知で妙な判断をしても、あまり責めるべきではないと思っています。むしろ、自分たちの起こしたことで大変な事態となり、良かれと思った結果が相手を傷つけ、自分たちも傷つき、どうして良いのかわからなくなっているものと、同情すべきでしょう。 私がここで何を書いても、何の助けにもなりませんが、悪事は千里をかけるそうですし、何となく伝わっていく可能性もあるかもしれません。そもそも、私と同じような考え方の人は、それこそ五万と存在するのは明らかで、周囲にもいるはずのそういった人たちのアドバイスをしっかり受け止めて、イルミネーションを再び送り火として見られるように、ご努力いただければと思っています。 まず経緯を振り返ってみましょう。1、『被災地のために少しでも役に立ちたい』ので、大文字焼きの保存会が津波で倒れた松を送り火に用いることにする。2、放射性物質を不安視する意見を受け、放射性物質の検査を行う。3、不検出であったが、不安感が残るので中止する。4、「セシウムゼロ」、つまり検査してセシウムが検出された場合は用いないことを前提に、京都市が地元保存会と調整を行い、新たに薪を取り寄せる。5、取り寄せた薪の表皮部分から放射性セシウムが検出されたとして、薪の使用を断念する旨、記者会見で公表する。 これも再三再四の繰り返しとなり恐縮ですが、それぞれの対応についての感想は以下のようになります。1について 今回の天災が原発事故を伴っていなければ、誰も文句を言わなかったでしょう。2について 陸前高田市が事故発生地から180キロ、つまり京都を起点に見れば、紀伊半島の南方沖といった、生活実感からすれば[遥か彼方と言えるくらいに離れている事実]を理解していれば、いかに無知で事故後になって放射能過敏症になっていたとしても、感情的な反対はできないはずです。つまり、「事故発生地も東北の被災地の一部なので近いはず」といった、ごく一部の幼稚で愚かにすぎる思い込みでの反対意見に過ぎませんから、それに引きずられた検査の実行は、軽率にすぎる行動と言えます。 また、そもそも、現地で伐採し加工し、多くの人が寄せ書きまでしているものを検査するなど、それ自体が失礼以上に無礼です。その場のクレーム逃れのために、善意の人々の気持ちを踏みにじる非常識な検査を行なえるのは、それを決定した人に「被災地は汚染されている可能性があるから検査されて当然」といった、無知に基づく差別が内在していたとする以外に、理由が思い浮かびません。 3について 不検出でも中止をするのなら、検査を行う意味がありません。『被災地のために少しでも役に立ちたい』といった崇高な信念があれば、このような決定は有り得ません。始めから及び腰の無責任な姿勢であったと指弾せざるを得ない、非論理的で最悪な判断でした。4について 最悪な判断によって非難が殺到したため、市当局が間に入ったものと思われます。それは良かったのですが、市当局に「セシウムゼロ」を当たり前とする、致命的な認識不足があったのはどうしたことでしょうか。残念ながら放射性物質の拡散は濃淡を別にして有無に限れば全国規模であり、京都市でも、4月22日に地元紙が報じているように、放射性物質であるセシウム134が、京都市伏見区の調査ポイントで検出されています。半減期の長いセシウム137に至っては、核実験などの影響で、いまだに、日本どころか全世界の土壌で検出されており、当然京都市も例外ではありません。このような放射性物質の検査を行なっているのが、京都『府』であって京都『市』ではないとしても、地方行政を担う立場としてあまりにも、放射性物質について無知であったと言わざるを得ません。http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/201104220000705について 無知のため検出されるはずがないと思い込み、ごくわずか、食べても問題にならないどころか、現に市場に出回っている食品に問題なく含まれている程度の、極々微量の放射性セシウムの検出結果に驚き、自分たちが中止する根拠になり得ると勝手な錯覚をし、あたかもそれが特別なことのような印象を、全国各地の人々に与えてしまいました。これは、途方もない過失です。 京都側、保存会と市当局の放射性物質に対する無知により、問題にならないはずのものが問題視され、勝手に騒ぎを拡大させたのが、今回の一連の流れです。当事者たちは「セシウムが検出されたから仕方ない」などと、未だに思っているとしたら、それは問題の本質を理解していないことになります。そもそも疑うほうが、人間同士の付き合いの上でも、科学的な常識の上でも、『おかしい』のです。 京都で送り火として用いるとして被災地の人々の気持ちを書いてもらった木材は現地で迎え火として燃やし、京都の木材に写文したものを迎え火に用い、それの「消し炭をお持ちしました!」、などと言われて、「おととい来やがれ!」と蹴飛ばさないのは、もともと寡黙で辛抱強く、さらに今回の震災の甚大な被害で時間的にも精神的にも余裕の持ちようがない、被災地の人々だけではないでしょうか?何か罪滅しをしなければとの気持ちは理解できますが、結局燃やさず差別したままで、動き回られる方が鬱陶しいことになってしまいます。 この際、余計なことをせず、頬かむりを決め込み、来年以降もイルミネーションの存続に心胆を砕かれるのも、ひとつの見識です。ただ、この場合、観光客や低能の市民の一部は何も考えず喜ぶでしょうが、分別のある京都の人々の多くは、私同様もしくはそれ以上にわだかまりを持ち続けることになるのも明らかだと思います。「セシウム」などという逃げ口上(になると無知で信じていただけ)を抜きにすれば、差別し排除してしまっただけであり、その罪悪感があれば、先祖や亡くなった人々を、分け隔てなくあの世へのお送りするために灯すなどといった、宗教的な意識を背景とした情緒などかき消されてしまいます。そして残されるのは、観光イベントとしては重要に違いない、伝統的に続いている季節の風物詩としての光装飾です。 それでも、何とか汚名を返上し名誉の挽回を期すなら・・・。とりあえず、保存会の人たちは、放射性物質についての正しい知識を学んで、自分たちのこれまで持っていた無知を恥じ、その無知に基づいて行動していた中に差別意識がなかったか自省し、来年は東北産の薪を迎え火に用いる、くらいではないでしょうか。公の機関としてあってはならない無知に基づく軽率により、混乱を拡大させた市長をはじめとする市当局は、自分たちが引き起こしてしまった風評被害(被災地は180キロも離れていても、セシウム汚染を疑うべきとしてしまったこと)について、会見や声明で繰り返し繰り返し可能な限り払拭に努め、自らを含めた京都市民に正しい知識の啓蒙を行うこと、くらいではないかと思います。 日ごろ気づかないで過ごしていた、己の無知と差別感情に向き合うというのは、実に嫌なことには違いないです。しかし、これは抜きにした反省や出直しは有り得ないでしょう。この際、「ガンバロー、京都」です。他の地域も、同様の事態を招かないように、他山の石としたいところです。
2011年08月18日
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五山のイルミネーション関係者は、宗教家ではないので、思想的な肝の座り方は期待できませんが、成田山新勝寺は、間違いなく一大宗教で、しかも仏教です。仏教と言えば、「捨身飼虎」という説話、虎の親子に自分を食わせたという話ですが、そういったものがあるように、己を捨てても他に慈悲を施すことを説いているはずです。放射性セシウムごときでフラフラするなど有り得ないでしょう。 したがって、「放射性物質を心配する問い合わせが相次いだことから、たく前に松の木を検査する方針を決めました」とNHKのアナウンサーさんが読むのを聞いても↓、半信半疑です。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110816/k10014949951000.html うるさい人がいると、「ハイハイ、安全なようにしらべますよ」と適当に合わせてやっているだけで(それを記者が誤解する)、本当は何もしないで粛々と行うのだと、信じきっていたので、まさかと思いつつ、本当である可能性を思うと、やはり焦燥感にとらわれます。宗教の宗旨に及ぶような自滅行為はないと思うのですが・・・、この際、しっかりと打ち消してもらいたいものです(引っぱておいて、荒事歌舞伎の如き格好良さで大見得を切る気ではないかと邪推中・・・)。 邪推と言えば、京都のイルミネーションをめぐって、13日のNHKが前日の中止会見を報道していないようなので、不思議に思っていたところ、今日になって12日夕方付ののウェブニュースを見かけました↓。わざと報道していないのでは?との邪推は、確かに邪推に過ぎなかったようです。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110812/k10014878261000.html 動画では、随分と丁寧に「ぶらたもネーちゃん」が読んでいます。なぜ、気づかなかったのでしょう。訂正の上でお詫び・・・とりあえずは、気のせいということにしておきます。 なお、放鳥時間中はNHKのニュースとニュースバードくらいしか見ない私は、アナウンサーや天気予報の担当者をコードネームで呼んでいます。「ぶらたもネーちゃん」もその一人ですが、肝心な『ぶらタモリ』という番組は、先日の渋谷界隈についての再放送まで未見でした(番宣で存在を知っている。再放送もニュースバードが野球中継なので、見るしかなかったのだが、面白く興味深い番組であった。個人的には、谷中・根津・千駄木から上野方面をうろついている時に、東京というのは山そのものだとの印象を受けたのを思い出した)。 他のコードネームをついでに書いておくと、天気予報の「手長づち」とか「ハムスタ」、アナウンサーの「びっくり熊ちゃん」などです。誰のことなのかは、ご想像にお任せします。
2011年08月17日
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昨夜京都で行われた、イルミネーションの記事からです。http://sankei.jp.msn.com/life/news/110816/trd11081622030016-n1.htm 個人的に居たたまれないお気持ちは分かりますが、今回の京都側の行動は、陸前高田を不当に厄介もの扱いし、災厄そのものになったので、「厄除けなどの御利益があるとされる送り火の消し炭を持って陸前高田市を訪れ」ても、疫病神が来て詫びるような迷惑行為になるだけのように思います。応対に労力を割かせてしまうのは申し訳ないので、地元で身内の反省会を繰り返されたほうが良いでしょう。 今回の過失は重大に過ぎますが、その根本は、誤った認識に基づいて検査を行なったことにあり、より本質的には、検査を当然とするその心根にあります。差別する気持ちがなければ、検査などを行う発想すら出ないはずなのです。訳が分からぬまま傷つけた相手に許しを請うよりも、自分たちの心に巣食う無知な差別感情に気づき、まずは、それと真摯に向き合われた方が良いかと思います(セシウムが出たから仕方がなかった、ではない。それを疑ったのがすでに差別)。 3月11日の震災後、被災地への支援の手は、日本国内のみでなく外国からも差し伸べられ、被災された方々ばかりでなく、日本人のほとんどは、支えてくれる人たちに『絆』を感じ、支え支え合う『絆』の重要性が盛んに説かれるようになりました。 私は根本的に大都市の個人主義者なので、『絆』とかそういったものは苦手です。他人の世話にはならないように心がけますし、他人から見れば親切な行動を自分がとっても、恩に着て貰われては迷惑なくらいの感覚で生きています。しかしながら、『絆』というのは、互いの関係に誠意がなければ成り立ちようがないものだとは、承知しています。『絆』とは、辞書的には「人と人との離れがたい結びつき」のことです。そして誠意とは、「私利・私欲を離れて他人のために尽くす気持ち、まごころ」のことです。隣の家のことに関与するのもまっぴらなタイプの人間には、うっとうしいではありませんか? さて、被災地の薪に対して、セシウムの存在を疑い、それが検出されたら使用しない、などという態度のどのあたりに、『絆』を感じたらよろしいでしょうか?哀れな個人主義者に、ご説明いただきたいものです。 苦しんでいる相手のために身を捨ててでも援助しようとする覚悟があって初めて成り立つはずの『絆』、お互い同士が同質の存在として共鳴する真心、そのようなものを、一方を差別し排除する態度をとりながら求めるなど、そもそもおかしな話ではないでしょうか?相手が泥をかぶっているなら一緒に泥をかぶってこそ、初めて、相手はその人の真剣さ、自分に対する誠意を感じ取ることが出来、互いの『絆』を深め合うことが出来るはずです。口先で「絆」と言っても、同じ口で「セシウムあるからイヤ~!」では、相手との『絆』など成り立つわけがありません。鬱陶しいので「絆」「絆」と誠意のないうわべの言葉を連呼せず、黙ってハシタ金でも義捐金として寄付していたほうがはるかにマシかと思います。 送り火にせよ護摩壇での供養にせよ、その地の薪を使用して被災者の気持ちを少しでも和らげたいと思ったのなら、何がどうしようと使用すれば良いだけです。「野焼きの基準がないから」、燃やしても法的に問題ないだけです。そもそも、『絆』で被災地の人々を支えるのが本意なら、何がどうしようと使用するしかなく、法に規定されてもいない検査を自主的に行うなど訳がわかりません。何か不都合なものが検出されても、『絆』を守るためには燃やす以外ないのですから、検査するだけ労力と機材の無駄となり、自分の誠意を傷つけ失うだけです。そもそも検査して排除するような気持ちなら、被災地のことを想って『絆』を深めたいなどといった綺麗事を並べるべきではありません。一緒に泥をかぶる覚悟もない者が、親友づらして付きまとうなど、相手にとっては迷惑なだけです。 人体への影響が心配されるくらいのセシウムを含むとしても、それを燃やすべきなら、私はみんなと一緒にその灰を浴びたいですね。私の場合は、それで『絆』を得ようとか深めようとか人間同士の結びつきを感じて感動を共にしたいとかいったものではなく、他に浴びねばならない人がそこにいるのに、自分だけ避けるような卑怯未練な振る舞いなどしたら、まず間違いなくその後、少なくとも精神的に生きていけなくなるので、その場にいればそうするだけですが、とにかく、同じことをしなければ仲間とは認められないことくらいは、誰にでもわかる話です。苦楽を共にしてこその『絆』です。 また脱線になりますが、どこぞ未開の社会に学術調査に入った際、その地の人々と親しくなるには、まずはその地の人々が出してくれる「ごちそう」を余さずしっかり食べることです。自分の社会の価値観で、イモムシは嫌だの、ネズミは食えないだの、そういった態度を示す者を、それらを「ごちそう」とする相手が仲間として受け入れてくれるはずがありません。自分たちとは異質な異邦人、決して『絆』など結び得ない者と認識され、その社会の本質など理解できません。 苦楽の苦が大きいほど、それを一緒に乗り越えた仲間の『絆』は深まるはずなので、その点残念なことに、今回のケースは燃やしたところで人体への影響はゼロです。専門家は本当に全くありえないと科学的に証明できない限り、可能性をゼロとは言えませんが(科学的に可能性がゼロのことなどまず有り得ない)、当然私は放射線の専門家といった社会的立場を有さないので、ほとんど影響が考えられなければゼロとして生活します。その意味において、確実に健康への影響はゼロです。あんなものを燃やすのに、いちいちピーピー言っていたら、家の台所のグリルで魚を焦がすなど犯罪行為になってしまいますから、そのように考えるしかありません。何しろ、焦がしたそいつを食卓に持っていき、大根おろしを添えて醤油をぶっかけ食べて生活しているのです。そのような生活をしておきながら、屋外で燃やしてちょっとその灰を浴びたら「ホウシャノーがぁ!」などと、近所迷惑も考えず無駄吠えできるほど、多少残念なことに、まだ脳がゆるんではいないのです。 今回、薪の表皮部分から検出されたのは、1kg1130ベクレルだったそうで、それに対する検証をせずに「検出された」と報道するマスコミばかりでしたが(目先のことを機械的に伝えるばかりで、それがどういった意味を持ち、どういった影響を与えるかの考察をするゆとりがない。もしくはその感性も能力もない)、表皮以外は検出されていないので、薪全体の質量の十分の一が表皮だとすれば、その薪全体から検出されたのは1kg113ベクレル程度、と考えられます(表皮とそれ以外を分けたのは、何か検査の際に勘違いした結果と思われる)。113ベクレルという数値は、普通の食べ物に許されている基準値1kg500ベクレルどころか、それより厳しい飲料水や牛乳の200ベクレルよりも少ない超微量です。 国の定めた基準値をどう思うかはそれぞれですが(信用できないなら好きな外国にでも移住するしかありません)、とにかくその基準値以内なら問題とされずに市場に出回っているのは確かです(濃淡を気にする必要がないレベルとして定められているのが基準値ですから、勝手な妄想で産地差別をして、自己満足したところでほぼ無意味)。事故現場から200キロ程度離れた千葉など首都周辺でも、降り注いだ放射性セシウムが雨などで「除染」された結果、下水管を通って浄水場の汚泥に蓄積する、ごく当たり前の現象が起きているように、残念ながら、その程度の距離では屋外のものに多少のセシウムが蓄積されないほうがおかしい状態です。それは濃淡の差だけで、西日本であっても免れることはできません。それが現実です。従って、「セシウムゼロ」を求めるなど、現状を認識しない無理難題以外の何物でもありません。無理難題を相手に求めるなど、意識していない過失であっても、それは十分に軽率と言わねばならず、己らの無知を猛省する必要があるのです。 さて、原発事故現場からほとんど同距離にある地域(陸前高田市と成田市は事故発生地からともに180~190キロ程度の距離)の薪を、成田山新勝寺がどのように扱うのか、これまでの行為による『絆』の真贋が、問われています。
2011年08月17日
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今日は京都もよく晴れたようで、大の字などに見えるイルミネーションも、綺麗だったようですね(↓毎日新聞)。個人的には、永遠に見たくない、失われた風物になりましたが。http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110817k0000m040073000c.html 岩手県平泉での大文字焼きでは、被災地のガレキを燃やしたそうですね(↓読売新聞)。当然余計な検査はなしに。さぞや、美しく、見る人たちにお互いの絆の強さを感じさせてくれたことでしょう。私も、こちらの大文字は出来る限り近くで見たかったです。http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110816-OYT1T00878.htm?from=navlp 今度は成田山が揺れているらしく、100件そこらの無知な苦情に押されて、検査するとか検査で検出されたら中止するとか、本当に言っているようです(↓朝日新聞)。護摩臭いだけで学習能力もなければ腹もすわっていないボーズどもですね。これでは実施したところで、既に絆は断ち切れてしまった感があります。明日からは、京都同様に、検査をすることに対する講義があるかもしれませんね。ご苦労なことです。http://www.asahi.com/national/update/0816/TKY201108160397.html 成田山新勝寺のホームページでは↓、冒頭に陸前高田などの被災地で慰霊法要を行なった旨が書かれていますが、その際に現地と結ばれた絆を、まさか自分たちで断ち切ることになろうとは、実際に法要を執り行ったお坊さんたちは、今、忸怩たるものがあるのではないかと思います。「野壷にはまって、さあ大変!」な状態にならないように、組織内部で頑張っていただきたいところです。http://www.naritasan.or.jp/ さて、ついでに例え話をしてみましょう。 まず、突然に登場した野壺とは何か説明しましょう。これは農業の肥料に使用する糞尿を溜めておく穴ぼこのことで、別名肥溜め(こえだめ)と言います。表面が乾いていると、普通の地面と紛らわしく、よく間違って落ちてしまうことがあったようです。 さて、友達6人で歩いていたところ、不幸にしてB君だけその野ツボにはまってしまいました。胸まで浸かって自力では、はい上がれません。どうしますか?右隣で歩いていたA君はすかさず手を差し伸べ、自分も糞尿まみれになりながらB君を助けようとします。左隣にいたC君は自分にかかった糞尿の飛沫を気にして、一目散に帰ってしまいました。 そして、少し離れて歩いていたD、E、F君の反応もそれぞれ異なっていました。D君はなるべく離れた場所に飛び退いて様子をうかがい、E君はA君の手助けをしようと駆け寄り、F君は引き上げるのに使えそうな棒を探しに行きました。 あなたが、自分でもマネをしたいと思い、子供にこうあって欲しいと思うのは、A、C、D、E、F、どの子でしょうか? さらに別のシチュエーション。今度はI・J・Kの3人が同時に野壺にはまってしまいました。真ん中のJ君は胸まで、その左右にいたI君とK君は足まで、糞尿まみれになってしまいました。その時I君は、自分のことを気にせずJ君を支えようとしましたが、そのため自分も顔まで糞尿がかかってしまいました。その様子を見ていたK君は、手出しをしないで一目散に逃げ帰り、足についた糞尿を落としました。とさ。 人間として、どのように思われますか? 不治の伝染病の患者を世話した看護師が、その病が伝染し亡くなってしまいました。あなたはその人の行動を、自分の命を犠牲にした無分別と見なしますでしょうか?私は、こうした自己犠牲を称えないと、人間社会は成り立たないと思っています。困った人がいれば手を差しのべる、これが社会の維持には必要なことで、怠惰な自分にはそういった英雄的行動は出来なくとも、否、実行出来ないからこそ、実行した人を称えねばならないのではないでしょうか? まったく、「ガンバロウ」とか「絆」とか、原発事故のせいで、やたらと人のメッキがはげ落ちる今日このごろではありませんか。
2011年08月16日
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読売新聞が妙な内容の記事を載せていました。http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110816-OYT1T00377.htm?from=main4&from=hochi この記事を事実と仮定しての感想としては、たった50件で「日よりおったか糞ボーズ!」です(書き終わって見直したら100件に増えていた!報知のヤラセかね?スポーツ紙なのでと聞き置くにとどめていた、読売の元になったと思われる記事↓)。http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_chiba2__20110816_3/story/20110816hochi039/ 「放射性物質の影響が心配される松を燃やすことは許されない」などと、千葉の成田あたりで言っている者がいるとしたら、それは頭の中身が正常でなくなっているかわいそうな人か、騒動を煽って喜んでいる頭が平和ボケしきっている人か、日本を混乱させたがる何らかの勢力の工作員か、くらいでしょう(2番目が一番多いでしょうね。おそらく)、いずれにせよ、物の数に入れる必要のない人たちです。そうしたマイノリティに従い誤った判断をすれば、京都市同様に良識のあるサイレントマジョリティの反発を買うことになることくらい、学習しているだろうと思います。 正常でないと言われて当然でしょう?千葉の成田市など、事故を起こした原発から190キロ程度しか離れていないのに、ほとんど同距離の陸前高田の薪を汚染物扱いするなど、天につばするのも同然の行動です。そもそも、千葉にいたっては、京都以上にそこらじゅうにセシウムなどたまっているに決まっており、実際そうした報告が毎日毎日やかましいまでに続いていたではありませんか?一体何を聞きながら暮らしているのでしょう?家の庭の植え込みの中の濃度を測ったら、目を回すことになるのではないかと思います。 「微量でも検出されれば燃やさない方針」などと、無意味な潔癖性は気味が悪いだけです。そういった寝言を言うのであれば、今後、成田山では、ボーズ共が境内の落ち葉を集めて焚き火をしてはいけないでしょうな!になってしまいます。 広報担当のハシタ坊主が寝言を言ってしまっただけだと、とりあえず受け止めていますが、万一取りやめるようなことをすれば、それは同じ東日本だけに、京都以上の非難を受けます。私に言わせれば、「友を食う」ような行為です。自分たちと同じですから、検査はしないのが最善で、検出されても平然と行うのが次善です。中止の選択肢は、有り得ません。中止したら?一山滅亡の危機に立ち至るくらいにお考えになったほうが良いでしょう。寺の執行部には、間違った判断のないようにお願い致します。 こうした問題は、風評被害などといった表現で済むものではなく、自分の立場を理解せず他人を貶める不当な差別であり、同じクラスメイトの一人を理由もなくいじめているような人権侵害行為に似ています。こうした行動を許しては、社会が崩壊します。何となくその場の雰囲気に流されて日よった態度を示せば、後悔に苦しむことになるでしょう。 他人事とは考えず、自分のこととして、一つ一つ真剣に考え、行動したいものです。
2011年08月16日
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昨日、京都では、京都産の割木と護摩木に被災地へのメッセージを書き込むイベントを行なっていたそうです(産経新聞)。http://sankei.jp.msn.com/life/news/110815/trd11081521290027-n1.htm 記事の中で、東北の方が書かれた俳句が紹介されていますから、私もひねってみますか・・・。 被災者の 気持ち灯さぬ 大文字 東北は 見えず輝く 大文字 薪とても 一見ことわる 大文字 マシなのがありますかね。文字を大きくした3番目が個人的には好きですが、少し辛辣に過ぎますでしょうか。 自らの無知に基づく問題の本質を理解せず、子供を使ったおざなりのイベントで誤魔化そうとすると、「その京都産の杉の割木と護摩木とやらに、セシウムが付着していなかったか、表皮削って調べた上で使用しているのでしょうね?」と言われてしまうだけになります。自分たちで呼び寄せておいて、一見さんとして排除した理屈では、京都の子供の健康のためにも、その使用している木材の検査が必要なはずです。それをしていないのなら、その理由は何ですか? ところで、九州は熊本県でさえ、荒茶から極々微量の放射性セシウムが検出されましたが、宇治茶が有名な京都の荒茶を、京都府は調べなかったのでしょうか?、三重県や隣の奈良県の荒茶では微量ながら検出され、遠く九州熊本県の荒茶からでさえ、極々微量ながら検出されているものを、生茶で「不検出」とだけ発表され、「宇治茶は不検出!」などと喧伝されているのを目にすると、やはり鼻白んでしまいます。もし、5、6月の時点で、荒茶から微量ながら検出したことを公表しておけば、「京都はセシウム0」などといった妄想が市内に蔓延せず、今回のような重要な守ってもらいたかった伝統行事のイメージの崩壊を防げたかもしれません。情報公開は、一時的に不利なようでも、やはり行なったほうが良いもののようです。 さて、次のような苦々しい体験談も目にしました(毎日新聞)。http://mainichi.jp/select/opinion/yuraku/news/20110815ddg041070012000c.html タクシーの運ちゃんに科学的な知識や哲学を求めても仕方がないですが、確かにあまりに庶民的な無神経さが剥き出しで、醜悪な話と言えます。それにしても、「福島県北の町を話題にしたところ」、それまで宮城県の話題では変化のなかった九州福岡県の運転手氏は、突然「形相を一変させ」「おたくさ。セシウムとか、いろいろ、付けてきたんじゃないの?」といった部分から、私は「フクシマ」の風評被害の大きさを再認識しました。 いかに県という区分は意味がなく、また福島県はその地理的特徴もあって、県内でも汚染の濃淡が極端なまでに異なる、と言ったところで、自分の頭で論理的に考える習慣のない人には理解はされないでしょう。無知な人の脳内で、原発事故と「フクシマ」が反射的に結びつき、福島県が差別されることになってしまっている現状には、深刻なものがあり、少しでも軽減する努力が喫緊の課題になっています。 もちろん、無知に基づく差別に対しては正しい知識の啓蒙が必要ですが、学ぶ習慣のない人に対しては、『福島第1』という名称を変更し、「フクシマ」と原発をワンセットで頭に刷り込まないようにする処置が有効かと思います。まずは、県という広域に対する条件反射としての差別が起きないようにするわけです。そもそも、県名のような広域の地名を冠した原子力発電所は、福島県と島根県以外にはありませんし、第1と第2などと紛らわしいです。それぞれ所在する町村の名称から大熊原発、楢葉原発とでも変えるべきでしょう。 「ヒロシマ」「ナガサキ」は、過去に起きた原爆投下の残虐性を思い起こさせ、その危険性を想起させる代名詞となっていますが、「フクシマ」は、現在、国内差別の代名詞となってしまっています。低放射線の影響など考えもしなかった時代と、今現在進行中の事態を安易に混同して、「フクシマ」名称による差別で、広域にわたる風評被害を招かないようにしたいところです。
2011年08月16日
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岩手県陸前高田は、京都から見れば紀伊半島の突端からさらに沖合になってしまう180キロも、事故原発から離れているので、セシウムなどを心配する方がおかしい、と繰り返していると、より近いところはどうなのかとなってしまうと気になっていましたら、「福島支援シンポジウム」の記事を見かけましたので、紹介しておきます。http://sankei.jp.msn.com/science/news/110815/scn11081507010000-n1.htm それほど健康を気遣い、どれほど長生きして、どれほどの事がなせると自分で思っているのか知りませんが、何をどう言っても、自分の健康ばかりを気にしてしまう人はいるものです。しかし、一個人が何をどのように疑おうとも、基準値内の食品は普通に出回りますし、実はより近い場所より、より遠い場所の産品の方が、多くの放射性物質を含んでいないなどと、誰にも言えないのが現実です(気にしすぎて、とっくに消えている放射性ヨウ素の緩和目的の薬などを輸入して飲めば、かえって体を損ねること間違いなしです)。 産地にこだわる人が増えれば、産地偽装が必ず起きるでしょうし、目に見えぬ安全を求めて盲目な行動をするのは、結局、価格の上昇、選別された産地の困窮、偽装の横行を招きつつ、自己満足だけに終わる可能性が大きいようにも思われます。 現在、許容される放射性物質の基準値が設定され、それの範囲内のものだけが市場に出回るようになっています。より近ければ近いほど、検査は厳重になりますから、基準がしっかり守られ、安全性がより高いと判断することも可能なくらいです。 また、先にも触れましたが、県などという地域区分は、広域な災害では意味がありません。やたら「フクシマ、フクシマ」と強調されるので誤解が生じますが、福島県は阿武隈山地や奥羽山脈が南北に走り、県内を分断する形になっていますから、沿岸部の事故の影響は西には影響しにくいのが事実です。 ボンクラな政府ではありますが、すでに立ち入り禁止区域なども設定され、注意深く放射能の影響を測り、さらにそれを軽減して復元していこうとする努力がなされていますし、その他の地域の土壌汚染もチェックされ、また基準値を超えた場合は出荷停止とする処置がとられてもいます。同じ沿岸部であっても、自己発生時の風向きなどの気象条件により、汚染の濃淡は顕著に存在し、安易に一市町村全体を危険と見なすことは出来ない事実も分かってきています。 実に複雑で、一般人の我々が、どこそこの地域は危ないなどと、まして、県全体を差別するなど、とても出来るものではありません。わからない以上(専門的な報告を専門的に受けてもわからない)、専門機関にしっかりチェックしてもらい、今現在危険と思われる地域には復元の努力をし、少し心配な地域には厳重なチェックを行ってもらい、それ以上は気にしないのが、唯一現実的な対処のはずです。 日本全国みんな「セシウムさん」なのですから、「フクシマ」を特別視したり、ましてや風評で差別しないように、くれぐれも心がけたいところです。
2011年08月15日
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この2年ほど民放テレビをほとんど見ないので気づきませんでしたが、5チャンネルになった10チャンネルの朝のワイドショーのキャスターである赤江さん(タマちゃんですな)が、送り火問題について、ずいぶんな思い入れを示しているそうです。http://www.j-cast.com/tv/2011/08/15104434.html?p=1 「義を見てせざるは勇なきなり」などと申します。この場合の『義』は、被災地のためを思って事を荒立てないといった配慮ではありません。そのような配慮をして黙っていれば、事実ではない、言ってみれば『不義』を正しいこととして認めてしまうことになってしまいます。間違いを正すための努力を怠れば、それは『勇』無しとなります。現在、生活再建、地元の復興に日々心を砕かれている被災地の方たちご自身に、余計な『勇』など求めるべきではありませんから、余裕のある他の地域の者が、声を出していきたいところです。 何しろ「風評被害で成田山に迷惑をかけたくない」と、祈祷での使用を申し出た新勝寺に遠慮しているくらい、被災地の人は疲れきっています。 「なぁーに、気にするこたぁありませんや。成田山てーのは昔っから商売が上手でね。歌舞伎に成田屋何てえのがあるでしょ。ほら、ドラ息子が麻布だかどっかで与太もんにボコられちまったエビゾーの家ですよ。あの成田も成田山、持ちつ持たれつで人気が上がり、江戸の庶民に成田詣でを流行らせたってぇ、てえしたお寺なんすよ。商売はうんめえし、信者は十重二十重、下手打ってハシタ坊主の一人にも、『貴公のことは毎日祈祷しておる』てなこと言わちゃかなわねえ。牛頭馬頭(ごずめず)牛王御宝印、加持祈祷のありがたや、くわばらくわばらご勘弁。へっぽこの住民エゴ野郎なんざ、歯も立ちませんや!」 くらい言ってやりたいですね。あのお寺は、やると言ったら絶対やるでしょう。大宗教団体ですから、保存会やら地方公務員とは違うのです。 この際、割り箸程度に小さく刻んで売り出したら良いかもしれません。良識のある人が購入して、一斉に家の前で燃やせば良いでしょう。文句を言う奴はごく少数ですから、火に釣られて出て来て文句を言おうものなら、暗がりに連れ込んでボコボコにするなり、もっと平和的に地域で村八分にするなりしてやると良いです。論理性のない余計な不安を口にして社会を混乱させたがる不逞の輩をいぶり出すには、ちょうど良い機会となるかもしれません。 で、初詣は成田山・・・、遠いのですよね。横浜からは。それでも直線距離は70キロ程度なのですから、普通の距離感覚とはそういった感じなのでしょう。
2011年08月15日
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岩手県陸前高田市の松は、千葉県の成田山新勝寺で供養されることになり、それはそれで良かったのですが(毎日新聞記事↓)、このままでは、「みんな良かったと思えるよう、しこりがないように」なるはずがありません。http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110815k0000e040041000c.html 被災地の人たちの気持ちを騒がせるのは、不本意ではありますが、放射能汚染について一部の無知にはびこっていた迷信が、表立って「常識」顔をしているのに対し、秋の収穫時期が近づく現在、今後の産地差別を防ぐため、徹底的にその矛盾を明らかする機会にすべきだと思います。京都もどこも「みんなセシウムさん」だ、といった、ごくありふれた事実認識を、地方行政府の担当者を含む、まともな日本人すべてが共有してもらいたいところです。 誰にも悪意はなかったはずです。津波で倒れた松を京都五山の送り火に用いる、実に良い話です。最高の発案と言えます。実現に向けて努力された保存会その他の人々も、善意そのものであったはずです。 しかし、結果は惨憺たるものになってしまいました。今年の五山の送り火は、騒動の余韻を残す白々しいものになってしまい、それは今年に限った話ではなく、この問題の経緯を知る人の心に、半減期の長い放射性物質のごとき執拗さで、半永久的に残留することになってしまうはずです。個人的にも、あの送り火を見て、苦々しい気持ちにさせられようとは思ってもみませんでしたが、もはやそれが現実なのです。 他山の石とすべく、京都の主催者側の判断・行動の問題点を列挙しましょう(個人個人に無知を自覚し反省して欲しいですが、間違った「常識」がはびこっている以上、個人攻撃ができる問題ではないです。念のため)。1、事故現場から180キロも離れた陸前高田を汚染危険地域と思い込み、放射性セシウムが検出されたら使用しないつもりであった。2、検査した結果、検出されなかったにもかかわらず、一部の無知蒙昧な住民の意見に振り回され、被災民が寄せ書きまでしているものを使用しなかった。3、再度取り寄せたものに対して、再び作為的な検査を行なった。4、正常の範囲内でしかない極微量のセシウムが検出されたことを特別なことのように発表し、再び使用中止とした。 以前、距離感は自分の住んでいる地点に当てはめないと、実感として捉えられないといった話を書きました。その時は、200キロ以上も離れた東京に住み、外交官特権を持つ公務に在りながら、関西方面に遁走したどこぞの先進国大使館員のような者が散見されたからですが、それはともかく、京都から180キロと言ったらどの辺りか、この主催者たちにはお分かりでしょうか?ざっと言えば、西は岡山県倉敷市近辺、東は愛知県の浜名湖のさらに東、北は石川県金沢市近辺、南は紀伊半島南端潮岬のさらに沖合になります。60キロと離れていない若狭湾に「原発銀座」が所在するくらいに原子力発電に理解があったはずの京都市の住民が、原発から180キロの遥か彼方の倒木に対し、放射性物質の残留を疑うなど、まったく摩訶不思議、天魔の所業というも愚か、といった感じです。 事故が起きた原発は東北地方にあるようだから、東北のものはみな怪しい。こうした地理感覚のまるで欠如した大雑把で幼稚な発想は、それ自体が風評被害に結びつきます。平安時代の京雀のごとき幼稚な閉鎖性を丸出しにして、安易に他を排除する行動をとるなど、京都大学の内海博司名誉教授(ご専門は放射線生物学)が「京都の名誉をおとしめる」行為と論断されているように、現代の良識ある京都の人たちが、最も忌み嫌っていることのはずです。 180キロも離れているところのセシウムを気にする方が異常であり、まして人類が核爆弾を製造し使用して以来、セシウムを含まない土壌など、おそらく地球上に存在しない程度の知識があれば、無理難題で被災者を苦しめる悪意を感じさせる行為など出来ないはずです。 ところが呆れたことに、京都側の主催者の「常識」は、「セシウムが検出されたら使用しない」なのです。つまり、自覚している悪意はなかったに違いないですが、客観的には、1それ自体が、無知で他を差別した行為と指弾せざるを得ません。 どこの地域にも、他への遠慮もなく無知蒙昧なだけの主張をする住民エゴ丸出しの病的な人間はいるものです。しかし、その主張が無理なもの、特に良識のある多くの人々の利益に反するものであれば、断固として退けねばなりません。それが社会正義であり、社会を構成する大人の義務です。規律正しくおとなしくしている大多数の迷惑となるのを承知の上で、一握りのクレーマーの言いなりになるなど、最も恥じるべき事なかれ主義でしょう。 今回2のように中止をすれば、被災地に対して、同じ人に対して出来ることではないくらいの非礼となることは、明らかだったはずです。従って、安易に中止などしてはならず、断断断固として実施すべきでしたし、残留放射性物質の検査をして問題なければ、躊躇する理由すら欠片もなかったはずです。結果として、正しくても弱い者を苛み、誤っていても強い者にへつらう、人として恥ずべき態度をとった、責任者たちは、その事なかれな態度を猛省しなければならないでしょう。 このように非礼無礼を重ねながら、3、再び取り寄せたものを当然顔で検査するというのは、一体どういった感覚で出来るものでしょうか?本来そういった、礼節や配慮、日本的な心配りというものに、最も厳しくあってくれたはずの京都の伝統は、一体どうなってしまったのかと、驚かされます。 つまり、この期に及んでも、関係者たちは自分たちの行動の問題性の本質、無知を無知と理解せず、無知なままに他人を傷つける可能性に対する遠慮を欠く態度、にまるで気づいていなかったのです(もしくは、住民エゴ輩同様に、自分を清浄と思い込んだ上で漠然と放射能に怯えていたので、はじめから使用したくなかったか、です)。その場その場の感情で反省もし謝るだけではなく、しっかりと何が問題か検証し、自分たちの考えに齟齬はないか確認し、せめて検査をしてセシウムが検出された場合の対応がどうなるかくらいの想定をしてから、その余計なことをして欲しかったものです。そうしていれば、無礼破廉恥な行為は避けられたはずなのです。 4は3の結果ですが、あまりにもお粗末で、あまりにも客観性を欠きました。その内容たるや、京都市当局が放射能というものの問題性をまったく理解せず、その日その日の地方行政を担っていたことを、自分から告白して恥を満天下に晒してみせただけであり、なお始末の悪いことに笑い者になることにすら気づいていないのです。もはや、常識のある人は等しく呆れ返ったはずです。 なぜか全国版のNHKは当日報道しなかったように思える13日の京都市の会見は、 「ホウシャノー出ました!だから止めるの当たり前でしょ?」が本音だったと思われますが、再三指摘するように、それこそ当たり前ではなかったのです。例えば、食べる物の検査は、食べる部分をすべて取り出し、それ全体を測ります。食べて平気かどうか測るのに、可食部以外を測っても意味がないですし、パーツごとに分けてもあまり意味がありません。ところが京都市が行なった検査は、食べ物ではない薪に対して食品のように厳密な検査をするのさえおかしな話であるのに、さらにその表皮とそれ以外を分けて、それぞれ別々に砕き、放射性セシウムの有無や多寡を調べる、という理解不能のものでした。 結果、表皮部分を集めた方に1kg1130ベクレルの放射性セシウムが検出され、それを理由に市長まで出てきて中止を宣言したわけですが、燃やすのは表皮だけではありません。全体で燃やすのなら、薪が含む放射性物質の多寡は、輪切り状にするなど、実際に使用するのと同じ比率で全体を含むものを検査しなければ実態に沿わないことになります。つまり、被災松の薪に含まれていたセシウムは、発表した数値の十分の一以下程度と見るのが適当で、1kg100ベクレル程度など、食品が含んで良いとされる基準値以下で、普通にそこらじゅうに出回っている食品を調べて検出されても、「それがどうした!」と行政府なら言わねばならない問題のない「安全」な数値なのです。 わざわざ、表皮を分離して検査し、表皮以外は食品が含んで良いとされる基準の量も持たない「未検出」であったのなら、多少放射性物質に神経質な人でも、論理性を有する限り、表皮を削って使用すれば済むこと、との結論に達するはずです。ところが、京都市当局などの関係者たちは、「検出されたら使用しない」ことになっていたとか、「燃やして良い基準がない」などと、自分の頭でわずかばかりに思考する努力すら拒否したごとく、気色の悪い非論理的非科学的な発言に終始しました。国の基準がなければ自分の知識と常識に照らして少しはお考えになって欲しいものです。薪以上にセシウムを含む食品を、家庭内で調理して食うのは問題なくて、野焼きすると猛毒に変じるのか、です。いちいち、国の高級官僚にお尋ねしなければ判断できない内容でしょうか? セシウムは、京都のこの人々の妄想のように、東北地方に限られたものでも、東日本に限られたものでもなく、今回の事故による放射性物質の飛散は、九州にまで達しており、またそれ以前に、核爆弾の実験などにより、地球上にセシウムが降り注いでいない場所など、少なくともアメリカが原子力爆弾をアリゾナ砂漠で実験し、次いで広島・長崎で破裂させ無差別に大量の人命を奪った1945年以降、存在しないのが、間違いようもない真実です。そのような常識と言える認識があれば、そもそも「検出されたら使用しない」などとは、口が裂けても言えるはずがなかったのです。そして、他所の物をそのような屁理屈で排除するなら、ご自分たちが16日に使用する薪の特に表皮部分が、セシウムを完全に含んでいないことを早々に立証して頂き、含んでいたら、ご自分たちが勝手に決めた「検出されたら使用しない」というルールに則り、即時中止しなければならない立場に、自分たちを追い込んでしまいました(頬かむりして調べないでしょうね。おそらく)。京都の送り火は、今後LEDライトで行うのでしょうか?電灯で伝統とは、すいぶんなオチです。 本日15日は、日本がポツダム宣言を受諾し、敗戦となった日です。原爆と原発を一緒にしたがる風潮もありますし、この際、放射性物質などについても、自分の周囲にあるそれに気づいて(植え込みの落ち葉などをお掃除【これを『除染』と呼ぶ】しないと、見ず知らず人たちが線量計を持って現れて「ホットスポットで~す!」などと騒ぎ立てるかもしれませんよ)他所のそれを過度に疑うような不毛なマネをして、自分の無知を晒し、他人を傷つけることのないように、何か発言や行動を起こす前に、大変僭越ではありますが、それなりな知識を身につけて頂きたいと思う次第です。
2011年08月15日
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朝日新聞にあった玄侑宗久さんのコメントにも↓、誤りを許容することになる危険を感じるので、指摘を加えておきます。http://www.asahi.com/national/update/0813/TKY201108120716.html 1,放射能とどう向き合っていくか。日本人が抱える心の混乱が、京都の送り火というシンボリックな場面で出たと思う。2,京都市は「被災地を支援したい」との思いから薪を使うことを決めたと思う。でも、3,放射性物質を帯びているとわかって燃やすことはない。わずかだとしても飛散はする。苦しい思いはわかる。4,福島県民のなかでも、心の分裂がある。環境中の放射性物質はできる限り取り除きたい心情と、気にしすぎていたら暮らしていけないという心情と。5,私は、京都を責めないでおきたい。 1、全く同感です。 2、も概ね同じですが、私は育ちが悪いので、邪推をします。被災地の支援だけを真剣に思っているなら、安易に中止の判断ができるはずがなく、そこに絵づらとして綺麗な「ガンバロウ東北」の演出しようとの魂胆がなかったか、といった邪推です。そういった軽い態度、他の不幸を自分の利益に結びつけようとすると、得てして大やけどするものだと思っています。 3、これは、はっきりと間違いです。食品の中にも微量のセシウムが含まれるのは当たり前で、今回の数値はごく微量で特別なものではありませんでした。特別な物と見なしたのは、京都の関係者の無知によるもので、続いてコメントされている京都大学の先生のお言葉のとおり、全く風評被害を助長するだけのとんでもない話なのです。陸前高田の人たちには、自分たちが特別に汚染されているなどと誤解しないようにお願いしたいところです。 4、玄侑さんがお住まいの福島県の方々のご心労は筆舌に尽くし難く、同情するのも息苦しくなるくらいですが、とにかくその差別をより拡大させるような行動を、同じ日本人として、しょせんは同じ「セシウムさん」として、許容してはいけないと思います。より汚染地として遺憾ながら区別しなければならない地域を縮小させていき、産品の出荷停止となる地域やその期間だけに収まるように、そうでない人も、ほとんど皆、考えを改めていかなければならないと考えます。 5、私も京都全体を責めるのはおかしいと思います。ただ、京都市当局や保存会に存在してしまった、ありふれたセシウムをゼロでなければ済ませないとする非常識な常識は、影響力の有る無し、多い少ないに関わらず、情報を発信できる人は可能な範囲で是正する努力をしなければならないことだと考えています。従って、今後も気になる展開があれば、この話題を執拗に取り上げるつもりです。 ・・・やはり、何とも息苦しいお盆ですね。
2011年08月14日
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今回の『京都五山の送り火問題』は、すべて、保存会と京都市行政府の意思決定を行う立場の人に、「セシウムが」などと口にするのであれば、必ず認識していなければならないはずの科学的な知識、むしろ常識が、決定的に欠如していたことに、原因があるように思います。ただこれは、この人たちが特殊なのではなく、むしろ普通に過ぎた結果だとも思います(従って個人攻撃は無意味)。 己の住む地域にはセシウムが存在しないので、外部の汚染地から危険物を持ち込むな、といった感覚を常識として生活していたのでしょう。しかし、それは無知に基づく妄想でしかありません。実際は、彼らの住む地元の新聞が、4月22日に報じているように↓、京都市内からも、またさらに西方の地域からもセシウム134が検出されています。そして、この記事はしっかりと説明しています。同じセシウムでも半減期(消滅が始まるまでの期間)の長い137は、事故以前から継続的に存在しているので、その有無では今回の事故によるものかは分からないが、134は半減期が短く、通常は検出されていなかったので、今回の原発事故に起因することがわかる、と。http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20110422000070 1960年代を中心に、アメリカ・ロシア・中国その他が、実験として1000発以上の核爆弾を炸裂させた結果、巨大なキノコ雲の形を示しつつ対流圏はおろか成層圏にまで達した放射性セシウムなどの放射性物質は、世界の各地もれなく降り注ぎ、その土壌を汚染しました。その後、チェルノブイリ原発事故による増加分を含め、半減期の長い放射性物質の影響は、残り続けていました(詳しい科学的データなどに興味がある人には、農業環境技術研究所のHPのご参照をお薦めします)。現在でも、より放射性物質濃度の高い地域である中華人民共和国の内陸部から、黄砂と一緒に飛来してもいることも確認されています(微量なので問題としないのが普通です)。つまり、そもそも、放射性セシウムがゼロなどという地域は、今回の事故以前から存在せず、少なくとも1945年以後に生まれた人類は、「汚染地」で生まれ育っており、それでも人口は爆発的に増加し、平均寿命も着実に伸びているわけです。 当然ながら、放射性物質が大量に降り注いでしまった地域を、安全とは言えません。対流圏で拡散してから降下したのと、爆心地や事故現場の近隣に降下するのでは、濃度が異なり、当然高濃度ほど危険です。しかしながら、今回の事故の場合、地表付近での風でかなり拡散してしまったものの、不幸中の幸いで、比較的短時間のうちに症状を起こす放射性ヨウ素は、健康被害をもたらすほどの濃度では降下していないと考えられています(子供の放射性ヨウ素による甲状腺障害の有無についての調査結果のNHK記事↓)。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110813/k10014892751000.html それでも、避難指示が出されるくらいに高濃度の影響を受けてしまった地域の人たちの健康には、念のため十分に留意しなければならないでしょう。そして、比較的に低濃度の影響で済んだ地域の人たちは、すべて避難が必要がないほどの低濃度であることを前提に、違いは濃淡でしかなく、みな汚染地で放射性物質の基準値内で生活している以上、その基準値をはみ出してもいないものを自分の勝手な感覚で選別しないように心がけたいところです(自分の感覚での選別は、その産地の人々を踏みつけにすることになると、自覚して頂きたいです。そのような罪悪感を、特に自分の子供に植え付けるようなことは、私は御免です。基準値内であれば、ごくごくわずか、タバコを吸うか吸わないかよりはるかに低い程度の健康リスクの相違があるかないかくらいのものと考えられますから、そのようなわずかばかりの危険性よりも、人には人として大切なものがあり、それを子供たちが感じ取れるような社会で有りたいものだと思います。「健康!健康!」とエゴ剥き出し騒ぎ回るのが、健康にも子供の教育にも良いと思われますか?)、より高濃度の地域を探して喜んだりその住民を差別するような、不毛なことをしないように、厳に心がけたいところです(近くにいれば、そんな奴はぶん殴れ!)。 さて、NHKその他マスメディアの皆さんには、地方政府でさえも誤った知識で差別的行動を起こし、それをおかしいと自覚せずに記者会見までしてしまう現状を踏まえ、今回の件が他山の石となるように、扇動的な報道や個人攻撃的を控えつつ(誤った認識が漠然と蔓延しているのが問題で、個人の資質の問題ではないです。地方行政の担当者が有能でないことなど、珍しいことではありません)、正しい情報の普及に努めていただきたいと、切に希望しております。 現在の政府が、『民生』というものをまるで考慮しない事については、もはやウンザリするばかりで、それに期待できませんから、マスメディアの皆さんがより良い方向へ向けた情報を発信してくれることに、大いに期待しております(特にテレビですが、芸能人のくだらない楽屋話ばかりを垂れ流して済む社会状況ではないことに気づいて欲しいところです)。【追加】 NHKのニュースをまた確認しましたら、本日14日付の各地のニュースに散見されました。岩手では、薪が千葉県の成田山新勝寺の供養に用いられることになったとの話題と、京都では、他のマスコミが昨日報じたような経緯の詳報です↓。http://www.nhk.or.jp/lnews/kyoto/2014855563.html この記事で注目すべきは、やはり保存会の人に存在する、滑稽なまでに間違った認識でしょう。京都五山送り火連合会の会長氏は、「今回のまきでも放射性物質は検出されるはずがないと思っていて、それなら使いたいと思っていただけに、今は検査結果にただ驚いているとしか言えない」と仰っていますが、記事の後半に専門家の「今回のように樹皮からある程度高い値が出るのは当たり前」との指摘があるように(前にあった記事の京都大学の先生もそうですが、専門家の方々のコメントには、無知な行動に対する怒りを感じます)、検査結果に驚く無知の方に驚かされるのが、少しは知識のある人たちの見方なのです。 己の無知と非常識を恥じ、この際しっかりと学び、今後につなげて頂きたいところです。具体的に言うのであれば、「セシウムがゼロ」を求めたこと自体を撤回し、それに基づいて処置した不明を詫び、再三再四の恥の上塗りであっても、それでもまだあるはずの検査済みの薪を、自分たちで担いで運んで送り火として燃やすことです(とっくに潰れ果てたメンツにこだわっている時間はないですが・・・)。 まだ「燃やすと四散してビワコに~」などとわめく愚者がいたら、毅然として言っておやりなさい。食品衛生上問題とされない微量の物が燃やせないなら、「野菜炒めも焼き魚も焼肉もやめろ!」。それでも喚くような奴は、やはりぶん殴るくらいしかないでしょうね。
2011年08月14日
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私が怒っても仕方がないことではありますが、送り火の問題では腸が煮えくり返っています。 直線距離で180キロも離れた場所の産品に、いちいちセシウム検査を行い、食べて良い含有量よりも少ないものさえ、「汚染された」として排除するというのなら、京都は今後、同距離の北関東地域や、日本海側の新潟市をも含む、ほとんどオール東日本を汚染地として差別すると、宣言するに等しいことになるのに気づかないのでしょうか。 それほど過敏なら、京都市職員の目の前にある「ぶぶ漬け」なり「おばんざい」の中のセシウム含有量もいちいちに調べ・・・、ああ、国の基準値があればその範囲内で食べるのは良くて、野焼きには出来ないのでしたっけ?ああそうですか、それなら焼却場に搬入された生ゴミも検査し、ご国の基準値がないので燃やせませんと、各家庭に突き返されてはいかがです? といった具合に、その方面では才能のある方が多いとされる地域の平均値を軽く上回るであろうイヤミが(私は横浜では珍しくイヤミ大好き人間)、次々に思いつくのですが、そのようなイヤミより、具体的な認識を改めてもらったほうが良いと考え、補足しておきます。 基本的な問題は、東日本にもまだいるでしょうが、特に西日本の人たちに多く見られる、自分たちの周囲は放射性セシウム(以下「放射性」省く)がゼロなんだ、という妄想です。それがすべての判断を狂わせていると、私には思えます。 しかし、現実は違います。例えば、「セシウムさん」で番組がつぶれた東海テレビのある愛知県のお茶(荒茶)からも、管見の及ぶ限りの最大値で1kg360ベクレルのセシウムが検出されています。送り火の空騒ぎで絶賛恥さらし中の京都はわかりませんでしたが、隣の奈良県の荒茶からも、1kg7ベクレル未満と微量ながらセシウム検出されていますし、九州熊本県でさえも、1ベクレル未満ながら荒茶よりセシウム検出されています。残念というか、私に言わせれば当たり前なのですが、ゼロ、ではないのです。西は完全な清浄地、東は汚染地、などと言うのは、無知の空想の世界でしかないのです(沖縄は除いても良いかなぁ)。奈良県のケースについての記事http://www.asahi.com/kansai/sumai/news/OSK201106170022.html こうした現実を直視していれば、「放射性セシウムが検出されたら使わない」などと、ふざけきった言葉を、まじめな顔で語る地方公務員やら首長は、日本に存在しないはずだと思います。差別して他を安易排除する前に、自分も同質ではないか、一歩下がって考えるのが、思いやりというものでしょう。京都の首長も職員も、善意はあっても無知だっただけだと思うので(もしくは他人事と思い込んでいて深く考えない)、猛省し、今後しっかりして頂きたいところです。 【補足の蛇足~NHKは報道したのか?~】 京都の送り火問題について、NHKのニュース番組で取り上げられていないような気がするので、邪推しております。念のためNHKニュースのサイトで関連記事を検索したところ、8月11日に再度取り寄せる旨の報道後、12日の会見などの報道が見当たりません。 ・・・妙ですね。まさか、五山の送り火についてのドキュメント番組を作ったり(興味深く拝見しましたよ。おかげで保存会のみなさんのご苦労も、それなりに理解しているつもりです)、最近でも祇園祭の特別番組を作ったり、そういった報道とは無関係なところで密接な関係を持つ、京都市の行政や関連団体への配慮が働いているわけではないでしょうね? 万一そういった配慮があるのなら、それは国民の知る権利を奪い、根拠のない差別を野放しにし、結果、多大な被害を差別を受ける側ばかりか、誤解して差別した側にも与えることにもなる愚挙だと思います。誤解を生むのは情報の不足以外ではなく、それを補うのが報道機関の責務ではないでしょうか。 このような邪推を受けないように、また京都の大切な伝統行事を、誤った認識での軽挙妄動でこれ以上傷つけないように、隠蔽ではなく、公開して問題点の洗い出しの方向で、NHKさんにもご努力頂きたいと切に願うところです。
2011年08月13日
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