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関東の穀倉地帯の礎は近世の河川工事によるところが大きいようだ。 太古から河川が大地を削り、土砂を堆積させて海岸線が沖に拡がり、内海は消えていき、下流域では河川の氾濫・洪水が発生しやすくなるまでになったらしい。 江戸時代には広域に亘る河川工事により治水と土地の改良に取り組み、遂には現在の礎ができたわけか。後世への恩恵は計り知れない。13万年前2万年前6千年前千年前近代堰の普請は、江戸時代の重要な事業であったわけで、図をみると小貝川の改修も事業のひとつであったようだ。間宮林蔵は、その小貝川の河畔の百姓の子で、壊れた堰の改修の普請をみていて土嚢の積み上げに難儀している様子から知っていた竹材の使用を話したことで、普請役の武士の目に留まり、江戸に連れていかれて地理測量探査の世界に入ったと読んだ。 林蔵の生家は記念館の一角に残され、登用されるきっかけとなった小貝川の岡堰も近代的な形に姿を変えて機能している。 五年前の写真。右手に林蔵の像があった。
Jan 19, 2023
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砂湯から見上げたダムの堤頂からの景色は、壮観だった。眼下の釣り堀の先に砂湯が小さく見えた。思いきってこの位置にダムをよく決めたものだ。 1955年竣工以来、半世紀以上、水力発電と旭川の洪水調整を続けている。再生可能な資源活用の真骨頂にあると思う。short
Jul 29, 2022
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ダム便覧によると重力式コンクリートダムで1992年着工、2004年竣工と。 戦後まもなく計画されるも、住民の理解と協力の獲得に年月を要したらしい。公益に尽くすことになった多くの住民の苦悩があったようだ。 21世紀にできあがった多目的ダムは、設計、工法、資材とも工夫を凝らしたもののようだ。下から眺めると、威容さはなく、簡潔な機能表現を感じる姿だった。 設計には長い年月を費やし、威圧感のないダム空間のトータルデザインを実現したダムだそうだ。機能的には、重力式コンクリートダムとして、国内初のラビリンス型自由越流頂を備え、工事もゼロエミッションで完成させたそうだ。 見飽きることのないきれいなダムだ。2022.4 車中ランチ、Comfort break
Mar 25, 2021
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新成羽川ダムとの間で揚水発電をしているそうだ。放流していた。無骨なコンクリートの真ん中に純白の布を垂らしたかのようで、目を見張った。 1968年竣工の電力供給目的のダムで水島の工業用電力を造り出しているらしい。 上流の新成羽川ダムの備中湖は奥深く、県境を越えていた。橋から清水を見下ろすと魚影が揺らいでいた。
Nov 18, 2020
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「堤頂部ほぼ全面に渡って、自由越流式の非常用洪水吐があり、堤体下部に放流水を減勢工に導く堤趾導流壁を備える。堤趾導流方式を採用した最初のダムのようであり、以後この方式が自由越流式のダムでよく用いられるようになったという。」とダム便覧にあり、階段状のスロープと壁のことらしい。 1981年竣工の洪水調節、河川環境保全、上水用水目的と。常用洪水吐が、半円形で水面に穴が開いているようで、珍しい。24吋別窓表示 元々加茂郷と言う地域でそこに流れる川で加茂川と言うらしい。川沿いに山城跡(山崎城跡324、坂元城跡325)があり、上流域(菅野城跡163 岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)にもある。上流域は平安時代は荘園だったそうで、古い社が残っていた。平坦な地域で、500万年前の隆起した時代の平原が浸食を免れて平面が残った地形、準平原面が残っているらしい。 大山道が通っていたそうで、大山詣や牛馬市に庶民が往来したらしい。関東にも丹沢の大山詣があったが、こちらは伯耆大山に詣でるもので山陽から山陰まで吉備高原、中国山地を横切る道のようだ。古い県道には多数の道標が残っているらしい。鳴滝湖、青少年の自然体験フィールドとして整備されていた。24吋別窓表示
Nov 13, 2020
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鎌倉時代、水路として瀬が開削された地らしい。今は水中に没したが、当時、この事績を刻んだ岩があるそうだ。舟で鉄を搬出していたらしい。 成羽川の水源は、道後山で、その山頂部は、たたら場の薪にされて木がないとの書き込みがあったが、どうなのだろうか。いつか辿ってみよう。六甲の緑は植林で明治開化時は薪にされて禿山だった写真が残っているので、案外そうなのかもしれない。 右岸の山の頂には城跡があり(紫城跡 資料はこちら)、向かいの左岸の奥の山頂にも城があったらしい。戦国時代も要衝であったらしい。ダム直下の成羽川右岸にある谷を上りきると平川氏館跡、金子山城跡があり、備後との国境となるらしい。平川氏は戦国期に城下町を創り上げたそうで、毛利とは昵懇であった記録が残っているらしい。 ダムは昭和40年代の瀬戸内の工業用水と電力を確保するために設えられたらしい。今も重要な水源らしい。湖の名は備中湖。没して立ち退いた多くの家の名が石に刻まれていた。歴史のある村落だったのではなかろうか。 竣工後、半世紀経つが、重力式アーチダムとしては、国内最大らしい。堤体に立つと鈍い響きが聞こえ、盛んに発電していた。 鎌倉時代からの産業史のある地に吉備高原の開析を足場に湾曲した堤が水をたたえ、その高さは100メールを超え、山中に鎧の様にそびえていた。104:軽尾城跡 110:袈裟尾城跡 111:紫城跡 109:北丸城跡吉備高原の高梁川と成羽川による開析がわかる。高瀬舟が通う川では、合流地域が要衝のようだ。にほんブログ村
Oct 12, 2020
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足守川の深奥にあるロックフィルダム。干ばつに苦しんだ村が、谷に池を設けてしのいでいた後に、より確かな洪水・灌漑対策として平成に入って竣工できたそうだ。 洪水吐の深く大きな流路をみると、人と生業を守り、田を潤す勇姿のようで頼もしく思えた。産業・社会を支える電源開発の巨大ダムとは趣が異なり、地域の生活を守る石堤であった。直下の村には田が広がり、下流には、武家屋敷の残る足守、さらにその先には、備中高松が続く。 備中高松では、秀吉が三キロ近い堤を設けて、足守川の梅雨時の増水を取り込み、高松城を水攻めしたのだが、このダムはその足守川の水を制し、流域の村々の田と生活を守っている。水を御する人間の永い営みが感じられた。24吋別窓表示このダムの近くに吉備高原街道が通っている谷が東側にあり、その谷の入り口に福谷チーズ工房(別窓表示)がある。工房では、地域の牧場の生乳と瀬戸内の自然塩を原材料にしたナチュラルチーズが作られている。足守川流域は豊かで穏やかな印象。
Sep 13, 2020
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戦中に建設され、戦後竣工できたダムだった。ここに着く前に通った沼沢湖から只見川に降りたあたりのトンネルは、地中深く潜り込み、底から再び這いあがるようなトンネルで、底からは、直角方向の暗闇の高くに明るい穴が見えた。縦横に開削したのだろう。揚水型の発電所工事のなごりの道なのかなとも思いつつ、脇を走る只見線のトンネル内は、これほどの勾配はあるはずはないなと思ったりした。 高熱隧道、闇を裂く道を思いだし、只見川の電源開発の歴史を思った。画像クリックで別窓表示。
Oct 20, 2018
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画像クリックで別窓表示。画の右奥に田子倉ダム。造営の迫力に息をのむ。ドンドンと鈍い音がし続け、遥か下の水面は、底から渦が湧き上がって見えた。電力は、こうして生まれ、基盤が創られてきたと、先人達をひとしおに思う。画像クリックで別窓表示上部に只見ダム
Oct 9, 2018
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奥只見湖、銀山湖とも言うらしい。国道352号線の湖を見下ろすところに、銀山供養塔があった。坑口跡も下にあるらしい。この一帯の銀の採掘は17世紀からあったらしい。 銀山平から奥只見シルバーラインでダムに行けるが、トンネルは18キロに及び、最終地は直角に曲がる出口で視界が開け、ダム域にでれた。暗く水が滴る長い直線の先のカーブ警告の大きな赤色点滅の中を幾度となく、30分ほど、道幅誘導の反射光を目安に走り続けていると、異次元に入り込むかのようだった。大型重機も通ったであろうダム建設資材搬入路の迫力に、吉村昭の高熱隧道を思いだした。半世紀以上も前の偉業に日本の飛躍的発展の起点を思う。パノラマ写真
Aug 19, 2018
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