曹操閣下の食卓

☆五大条件と試問




 これから講義をはじめるにあたり、皆さんに直接、申し上げたい事があります。
 この戦略学講義は、人を選びます。
 皆さんは自分の胸に呼びかけて、この講義の受講に自分が向いているか、それとも向いていないかを判断してください。

 第一に、おうかがいします。
 それは京セラの創業者・稲盛和夫先生の言葉でもあるのですが、
 「動機は善なりや。私心なかりしか」ということです。

 情報戦略という問題の性質上、われわれは事の善悪をはっきりと区別しつつも、ただ善いことばかりでなく、悪の手口も語らねばなりません。悪に学び、その強さや弱さも詳細に分析しなければならないのです。
 その上で世の中の不合理や社会悪にも厳しい批判精神を持たねばならないと思います。
 人間の本性は善か、悪かという論争は、洋の東西を問わず、古代哲学から引き継がれてきました。現在では、経営学にX理論、Y理論というものがあり、これらは実際に経営組織の制度にも採用されています。
 私は、これをプラグマチックに考えます。そこで「あなたは善人か」と問いただしたいのです。
 あなたは世の中の改善を求めていますか。よりよい社会を求めていますか。そのために無私と奉仕の精神で働くことができますか。
 こうした高い志がない人は、おそらく社会悪に取り込まれ、自分の欲の奴隷になって、道を誤る結果になると、私は断言します。「策士、策に溺れる」というか、そんな思い違いで行き倒れた人々を、私はたくさん見てきたのです。
 不幸にも生命を落とした人もいるし、警察に逮捕されたり、家庭が崩壊したり、悪い仲間にそそのかされたり、だまされたり、犯罪の道に落ちて破滅していった不幸な人々の姿を思うとき、皆さんにそのような運命が待ち構えることがないように、あなた自身の心の底にあるものをまず問い直したいのです。

 第二に、頭の中に世界地図がいつでも描けるようにしてください。
 それはどういうことかというと、世界地図の白地図を、自分でサラサラと描くことができるように、何度も訓練することです。
 そして、カスピ海とか、コーカサス山脈とか、重要な地形や各国の首都はなるべく暗記をするようにしてください。
 そうすると、「グルジアはどこだったか」という話になると、「カスピ海の西岸で、コーカサス山脈の北、バクー油田のあるアゼルバイジャンの北隣だ」という地理関係が浮かんでくるようになります。
 これはなかなか難しいことですが、ぜひともやってください。
 世界観とか歴史観というものは、このように全世界の地理関係が頭に入っていないと、何もピンとこないものなのです。
 例えば、アフガニスタンという内陸国は、南と東をパキスタンに接し、西をイランに、北を旧ソ連のタジキスタンとウズベキスタン、トゥルクメニスタンに囲まれ、その中に10キロほど、中国とも国境を接しています。この地域を<ワッハン回廊>というのですが、私はこの渓谷を視察に行きました。その経緯の話は今は極秘なので申し上げられませんが、世界地図が頭に入っていないと、こんなことも意識の外になってしまいますね。
 こんないびつな国境が設定されたのはなぜか。
 19世紀に当時のロシア帝国と大英帝国の植民地だったインド・パキスタンが直接にぶつからないように、細長い中立の緩衝地域をつくった。その名残りですが、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻では、ソ連軍は真っ先にこの辺境を確保し、中国との国境をおさえ、わざわざ一個師団の駐屯地を建設しました。
 どうしてでしょうか。
 こうした事情、経緯、情勢にピンとくるものがあれば、情報戦略学の講義内容はビンビンと伝わることでしょう。日ごろの物の見方、考え方に大切なものがあるのです。
 講義の中では、地図を使うことはあまりありません。
 したがって、「フランスの中央山地」といったときには、オーベルニュ地方はどっちか、マルセイユはどっちか、すぐに頭に思い浮かぶようにしてほしいのです。
 ぜひとも、このことを自学自修して身に付けてから、私の講義に臨んでください。

 第三も、第二と同様に重要です。頭の中で歴史のセンスを鍛え上げてください。
 昔、高校受験で「殷・周・秦・漢・三国・晋・南北朝・隋・唐・五代十国・宋・元・明・清・中華・中共」と中国の歴史を暗記したことがありませんか。それらをしっかりと思い出してください。
 日本史でも、うっかりすると飛鳥・白鳳・奈良・平安・鎌倉・室町・安土桃山・江戸という前後の順序を忘れちゃっている場合があります。プランタジネット朝とチューダー朝の前後は思い出せますか。
 日露戦争は明治か大正か、第一次世界大戦は大正か明治か。これを取り違えていると説明がややこしくなります。
 簡単なことほど忘れがちです。
 私自身もよく間違うので恥をかきますが、間違うことは問題ではありません。いつも恥をかきながら学ぶことが大切なのです。
 学ぶは一時の恥。
 私は山川出版社の《世界史小事典》と《日本史小事典》を中学時代から愛用して、だいたい25年近くなるわけで、もう大半は丸暗記していますが、地名や事件の原語のアルファベットや年号・年代はいつも確認できるように座右に置いています。
 私も年をとると、忘れるのが当たり前になりますからね。

 歴史上の人物についても、記憶を新たにしてください。
 モンテスキューは貴族か、平民出身か。
 アダム・スミスは平民か、貴族か。
 二人は何歳違いか。
 実際に会ったことはあるのか。
 そうした立体的な知識を鍛えなおすこと、これが歴史の教養というものです。豊かに積み重ねた教養は人生にとって決して無意味ではありません。

 ジョン・ロウというイギリスの財政官が大失敗して、イタリアに亡命したとき、当地に遊学中の若き日のモンテスキューが会いに行く。そんな話に心をときめかしたいものです。
 大正時代の白樺派の作家、有島武郎がイギリス滞在中に無政府主義者のクロポトキンに手紙を出して会いに行ったり、徳富蘆花がパレスチナ旅行の帰りに文豪トルストイの居宅ヤスヤナ・ポリャナに押しかけ訪問する。日本人だって具体的に世界の歴史とかかわっているんだぞという立体感を持って欲しいものです。

 第四に、経済学の基礎知識を再確認してください。
 消費刺激策とか、サプライサイド経済学とか、合理的期待形成といった「術語」は、しっかりと理解しておいてください。
 もちろん、ケインズ政策の是非についての論争や、シュムペーターのイノベーション理論など、それぞれの主要学説や最近の論争について、だいたい理解があれば大丈夫です。
 よくわからなかったり、忘れたという人は、『現代用語の基礎知識』とか、『知恵蔵』・『imidas』などの現代用語辞典で勉強できます。最新版を買わなくてもいいのです。
 2年ぐらい古い版を古本屋で探して安く買っても、ちゃんと役に立ちます。
 こうした基本的な知識ベースは図書館で借りるよりも、手元に置いて、すべて丸暗記する覚悟で読み込んでください。
 単語を丸暗記しないと、語学もできないものです。
 政治経済の議論を聞いたり、政策の主張をしたりするときに、経済学の基礎単語の丸暗記は大切な前提です。
 経済は常に私益の戦場なので、戦略や戦術の議論がわかりやすく説明できますが、さて経済の基礎用語がわからないと、私が講義して伝えようと思うことも理解がチグハグになってしまうでしょう。
 一応は大丈夫と思う人も、講義を受けるときは知識ベースを必ず座右に置いてください。

 最後に、実に平凡なことですが、常識、を再確認してください。
 社会学者のダニエル・ベルが、「アメリカで優れた社会的洞察力を発揮した第一級の人々は、みな大学を卒業しながら、人生の一時期に非常に貧困な体験や低いレベルの職業経験がある」と断言しています。
 アメリカのハドソン研究所を創立したハーマン・カーンという未来学者は、それを聞いて「私自身もトラックの運転手とか、スーパーマーケットの店員、靴磨き、職工などの経験があり、船で働いたこともある」と告白し、「こうした経験が常識を身につけるのに非常に役に立った」と言うのです。

 私の知人は別の大学図書館に勤務しているのですが、よくこんな笑い話をします。
 「A大学のB助教授はね、プリントにホッチキスをするとき、<△>じゃなくて<小>とやっちゃうのよ。プリントをひらいたら、ビリビリと破れちゃうじゃない。それでもわっからないんだから今日もやってたわね。常識ないわよね。先生だから誰も教えてくれないのよね。」
 これは痛い話で、私だって、もしかしたら同じようなことで他の人から笑われていることがあるのかもしれません。
 つまり「学者バカ」という現実です。
 そのときに大切なのは、黙って見ている人の視線に早く気がついて、
 「あっ、自分は間違ってるかもしれない」と素直に思って、
 「これでよろしいんでしょうか、どうでしょうか」と謙虚に頭を下げることです。
 いろいろな職業をはじめるとき、挨拶の仕方から、話し方まで、初心者ならば経験するような緊張した感覚で物事を自然に学んでいく。
 世の中の常識というものは、そのようにして身につくものです。
 気がつかないと、誰も教えてくれないから、常識はずれの行為をくりかえしても自分では全くわからない。
 子どもなんかに笑われても気がつかない。いわば「裸の王様」です。
 尊敬語とか謙譲語の区別、電話の応対、名刺の出し方、こんな簡単な常識さえ、社会の現場で他の人に迷惑をかけ、自分も恥をかきながら頭を下げ下げ、体で覚えていくことではありませんか。
 ところが「そんな社会経験がない」となると、日本語も正確に話せない、まともな会話が成立しない、常識が通用しないというわけです。失礼ながら、「公立学校教諭」という職業の人々にそういう人々が多いので、私なども最近、「失格教師罷免運動」を全国的に呼びかけて立ち上げているところです。
 常識、というと言い出せばキリがないのでしょうが、学術とか学識のレベルに至る以前に、わざわざ確認するまでもないことを問題にしなければならない。これも時代相というものでしょう。

 ダニエル・ベルの指摘は、同じ時期に活躍したヘンリー・キッシンジャーなどに対する共感と、学校秀才で鳴らしたマクナマラなどに対する批判を含んでいると思われます。
 これは最初の講義で話題にします。

 教育が過剰になると、かえって人間は社会的に無能になり、あまり役に立たなくなる「逆効果」があらわれるということです。
 過度の教育は個性や自主性、能動性などの才能を根絶してしまう可能性がある。
 そして学校は先生と生徒、先輩と後輩ぐらいしか人間関係がない。
 学生のままだったら、人間関係そのものを実際に理解する必要性もないかもしれない。
 友だちも少なくて、会話する人もなくて、引きこもってテレビを見て、ゲームをするだけの学生生活をしている人も意外に多いんじゃないか。

 下働きで仕事をするとなると、そうはいかない。
 年下の異性にも頭を下げて、
 「どうするんですか。どうやればいいんですか」と聞かないと最初から仕事にならない。
 今はアルバイトに親切で、何でも教えてくれるようなところが多いけれども、いやでも人間関係の複雑さを味わう。
 その甘い辛いをかみ分けると処世術とか、自分を抑えたり、逆にアピールしたりする方法やタイミングなどもわかってくるのだが、「人間関係はイヤだ」と背を向けて、言われたことしかやらないとか、指示されないと動かないという形で固まってしまう場合がある。
 これは非常に危ない。
 自分の心から社会を遠ざけてしまう。
 反社会的な心理とか、精神病に陥る公立学校教諭の最初の躓きはこんなものです。

 ナポレオン・ボナパルトという指導者がどうして偉大だったかというと、彼は下級の地方貴族の出身だったが、若いときに都会に一人で出てきて苦労して、庶民の生活の哀歓を右にも左にも見て、周囲にわずらわされながら、それでも我慢して勉強して身を立てようと努力をしていく。
 そうすると庶民生活のDNAとか潜在的な意識が彼の体に染み込んでいくのです。
 それが指導者として民衆に訴えるとき、何ともいえない力で人々の心を動かす原動力になっています。
 同じようなことが毛択東主席にもいえるし、古代ローマのジュリアス・シーザーにもいえます。
 内山鑑三が英文で世界に紹介し、ケネディ大統領も関心を持った米沢藩主・上杉鷹山侯もそうです。

 戦略理論を本格的に勉強して、それを何に使うかといえば、人の上にたって知恵を働かせて、組織の人間を動かしていくわけですから、こうした他の人々に対する感謝とか責任意識は絶対に不可欠です。
 それが体に染みて理解していない人が、戦略だの、作戦だのとやりはじめると、そんな指示にしたがって、何も知らされないまま、火の中や水の中に追い込まれて、傷つき倒れていく被害者たちがたくさん出てくることでしょう。
 それでも被害者の苦しみを全く身に覚えないような人を相手にして、心穏やかに理論だの学説などと言っていられるものでしょうか。
 私にはそんなことはできません。

 「完璧な資料をつかって手軽に学べる」ということを、このWEB大学院講義はインターネットを使って実現しているわけで、それは大変結構なことだけれども、私の講義は
 「自分で学び、自分で会得する」ということをモットーとしなければならないと決意しています。
 見えないものが見えてくる。聞こえない声、言わざる声が聴こえてくる。わからないけれどもわかる。そんなことを文章で書くと、「何だい、矛盾しているじゃないか」ということになりますが、パラドックスに真理があるという現実に目覚めないと、現象の実相や真実に近づくことはできないものです。

 私たちの《システム・ダイナミックス・グループ》では、「指数遅れ」という問題をいろいろなアプローチで研究しています。
 私の講義一つをとってみても、三年後には古くなって修正しなければならない部分が出てくるかもしれないのです。
 われわれが扱う数字やデータ比較は、全て過去のものです。
 最新のものといっても、現状を反映しているとは言い切れません。

 例えば長野県の県民所得総額という数字は1998年の長野オリンピックまで順調に続伸していました。
 他の都道府県がバブル崩壊後に同じように数字を下げているのに、長野だけはオリンピック関連の施設とか市内の交通を整備しているので、公共事業の建設事業が開催の直前まで休みなく急ピッチで行なわれていて、オリンピックが始まるまで県内総生産高はドンドンと上昇してきたわけです。
 ところがオリンピックが終わると、後半から一気に景気は下降して今では最盛期の二割、三割と落ちてきた。長野駅前のデパートも閉店した。
 それは当然です。
 しかし、長野新幹線が開通してから、在来線を第三セクターの「しなの鉄道」として分離独立するとき、「長野の県民所得が順調に伸び続けているから、このままいけば乗客数も増加して採算は取れる」という公式調査結果が出て、そうかそうか、よっしゃよっしゃということでやってみたら、オリンピック後はひっくりかえってしまった。
 今、長野県は年間2億円の赤字を県民の税金で補填して「しなの鉄道」を運営しつづけている。
 その赤字の半分は何と人件費なのです。
 人件費は固定費であり、最も予測が簡単な経費ですよ。
 ズブの素人でも、採算性は最初から皆無だったことがわかります。
 「おい何たることだ。県民をだましやがって。その採算性の調査報告とかを出したのは誰だ。専門家、学者の名前を出せ。責任を追及してやる。ごまかしやがって。」と言いたいじゃありませんか。
 採算を度外視した新幹線の計画、その一方で地域住民を欺いて、赤字の在来線をJRから分離して切り捨てるという陰謀、そのために加工してつくられた数字。政治的な取引など。
 われわれの税金で運営されている地方自治体といっても、実態はこんなものなのです。それはどういうことか。過去のデータは信用できないのか。
 そうした問題を追及することが、戦略学の議論になるのです。

 場合によっては、政府、権力、国家、あるいは全世界の現実とも、鋭く知的に対立して、とことんまで対決しなければ、われわれの学問の目的は達成できません。
 戦略は戦いであり、闘争です。私は皆さんに徹底的に怒ってほしい。みずから課題を探り当て、闘ってほしい。
 その勢いで、真相は何か、何がどう間違っているのか、どうしたら問題が解決するのかを自分の目で見極めてほしいと思います。

 江戸時代の儒学者、佐藤一斎が「憤の一字、これ進学の機関なり」と言っています。世の中のありさまが「これでいいのか」と心の底から憤激する。
 その憤怒は私憤、自分の小さな我欲の怒りではない。公憤、つまり社会の現状に対する怒りである。
 その次には自分の努力不足、つまりは自分自身の現状に対する激しい怒りもこみあげてくる。
 怠けてはいられない。
 じっとしてはいられない。
 そうした精神の覚醒が契機になって、本当に勉強しよう、問題解決のために、
 「自分も力のかぎり努力して知識を広めなくてはならん」と、学問に邁進する動力機関になるという。
 心の中も燃え上がってくるのです。

 これは本当に素晴らしい言葉です。
 この『言志四録』の一節を、あの西郷隆盛が手書きで大事に抜粋し、書き写していた、というのもうなずけます。

 われわれは将来を予測し、不確実性とイレギュラー・プロジェクションなどを検証し、勝算やリスクを見極め、方向性を選択しなければならない。
 選択肢も用意しなければならない。失敗したり、停滞したり、目標を見失ったりしたときにも、あわてず騒がず、すぐさま奥の手がいくつも出せるように、まさかのためにも準備しなくてはならない。
 ライバルの動きをつかみ、利用できるものを目利きによって選び、必要なときに一声で集め、可能な限り続々と投入し、死に筋・デッドラインを避けて、売れ筋・成算を追求しなければならないので、それがまさしく戦略理論なのです。

 したがって、自分自身の想像力と判断力が、さまざまな分野の教養で鍛え上げられて、はじめて議論のテーブルにつくことができるわけです。

そこで、私は皆さんに講義に入る前に、一つ面接試問をします。

 問題は、「自分の哲学について論じなさい」。以上です。




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