こんにちわ♪

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プレジデント




タンザニアという国の正式名称は。

『タンガニーカ・ザンジバル連合共和国』というのは、以前『ザンジバル』の項でお話したんだけれど。


ふたつの国から成り立っているだけあって。


大統領も実は二人いるのだ。


大統領

上が、タンザニアの今の大統領、ベンジャミン・ムカパ。ムカパ大統領は、とっても人相悪いんだけれども非常に良い人柄という事で評判はこの上なく良いみたい。
そして、左から。ザンジバルの大統領、タンザニアの副大統領、そして首相です。


なんとも複雑なんだけれども、なぜこういった風になっているのか?


実はザンジバルは、独立したがっているのですよ。


ザンジバルはアラブ圏。


前々から、アラブのなんかの連盟に入りたがっているんだけれども。


大陸側が承知していない。


なぜならば、奴隷貿易時代の苦い思い出が、大陸側には染み付いているからだ。


今でこそ、奴隷貿易再開みたいな事はないんだけれども、人間の感情というのはそんなに簡単なもんじゃない。


正直、大陸側はザンジバルサイトから見ると、お荷物なのだ。


ザンジバルはアラブとつながれば裕福になれるからね。

大陸側も、ザンジバルが金づるだということを心得ているので、手放したくはないのだ。


だからザンジバルの独立を許さない。


でもそんな事やってたら、内紛がおきそうなので。


考えた結果。


ザンジバルに大統領を置いて。


大陸側とはちょっと異なった自治権を与えましょうという事になったのだ。


そんなわけで、タンザニアには他の国には一人くらいしか普通いないえらい人が複数いちゃったりする(笑)


実は、俺はムカパ大統領にお会いした事があるんですよっ。


あったといってもたぶん向こうは覚えていないけれどね・・・。


首相にも会っているのだ、しかも日本で。


とはいっても、向こうは覚えていないだろう・・・。




そして、タンザニア人ならば知らなくちゃいけないこの人。


タンザニアに関わった人間ならば、だれもが知っているビッグ・ネームだ。


ニュエレレ

初代大統領、ジュリアス・ニュエレレ。


『Baba wa Taifa:建国の父』と呼ばれ、『Mwalimu:先生』のニックネームを持つこの人物は。


決してタンザニアだけではなく。


アフリカでは、とても有名人なんだ。


ニュエレレと言えばウジャマア主義推進者として名高い。

ウジャマアとは、アフリカ社会主義と約されるけれども、ちゃんとした訳は非常に難しい。なぜならばほかの地域ではそのようなものが見当たらないからなのだ。

まぁ、アフリカ独自の社会主義だと思ってもらっていいかもしれない。

アフリカ独立の60年代、セネガルのサンゴール等もアフリカ的な独自の社会主義を提唱していた。

この時代の精神的自立は高く、ニュエレレがタンガニーカ独立の翌年に発表した論文には「アフリカは社会主義も民主主義も欧米に教わる必要はなく、それらは既にアフリカの伝統の中にある」と言っており、国家の根本に平等を、その基盤を農業に置いた。

当時の農業開発は、農村開発とも言える。各地にモデル村を作り、意外に思われるかもしれないが、改良品種や農薬、化学肥料、農業機械を導入した近代的農法の普及を試みていたのだ。

しかし、外交上の問題により、西ドイツの援助が中止され、更に南ローデシア(現ジンバブウェ)の独立をめぐり英国との国交が断絶した事から、資金が調達できず、やむなく自己財源による農村開発へ方向を転換した。

1967年、アリューシャ宣言で社会主義を表明し、これ以降ウジャマア村が建設された。

具体的には、それまで散村であった物を集村し、共同農場の開発、そこでの共同作業を行おうとしたのだが、初期の頃は自発的意思を尊重した為に進まず、71年より強制的に集村がなされ始め、1973年のオイルショックを機に全国展開された。

ちょうど昔の旧ソ連がやっていたような『集約農場』的なものなのかもしれない。

結局ウジャマアはアリューシャ宣言から10年後、ニュエレレが自己反省する事により、失敗に終わったのだが、その時ニュエレレは次のように言っている。

「私は当てにならない預言者だ。56年にタンガニーカが独立するまで何年かかるかと問われ、10年か12年と返答した。が5年しかかからなかった。67年にアリューシャ宣言の支援モデルの青年から、タンザニアが社会主義国になるまでに何年かかるかと聞かれ、30年と答えた。ところが私は再び過ちを犯してしまった。この頃ではもっとかかる事を確信しているのだ。」


ウジャマアが、或いはタンザニアそのものが経済的に行き詰まった原因の1つに、外交とオイルショックがある。


1977年のケニア、ウガンダととの東アフリカ共同体の崩壊が招いた国境閉鎖は、割高な工業製品の輸入をもたらした。翌78年には、悪名高いアミン大統領率いるウガンダと戦争、79年のオイルショック、79~80年の旱魃等、様々な試練がタンザニアを襲った。この間、輸出品がなく、輸入依存の体質が、いつしか国内産業を疲弊させ、経済はどんどん弱体化していった。


しかしニュエレレの外交政策は、経済と関連付けないで考えた場合、その骨太さにより彼の国際的な知名度を引き上げたと言えるかも知れない。

その際たるのが、南アやローデシア(現ジンバブウェ)を巡る英国との関係にあると思う。

話は少し戻るが、61年に既に論文の中で、「もし南アが(英連邦の)加盟国として居座るのならば、タンガニーカは独立しても英連邦には加わらない」として、カナダやインドの南ア政策に大きな影響を与えたばかりか、後に独立する事になる多くの当時の英植民地英連邦加盟国にも影響を与えた。

65年には英本国との外交関係を絶つ一方、英連邦には加盟国として残り、連邦の活動にも密接に関わる事で、大きな信頼感を示した。

つまり、英連邦を、英国をその盟主に見立てていたその時代に区切りをつけ、英国は英連邦の一国に過ぎない事を指摘した初めての指導者として、その後長く指導的立場にとどまった。

英国にしても、この事で大国として振舞う必要がなくなった事で、国力の増強をなしえた要因の一つとなったのだ。

そんなニュエレレにも、IMFによる援助を拒否した事で経済が益々悪化、82年には泣く泣くIMFの示した平価切下げを呑んだ結果、物資の価格が急上昇し、ついには国民の不満から辞任要求やクーデター未遂が引き起こされた。

しかし、それでも国民の尊敬はやまず、大統領引退後長く努めた党の顧問格を退いた後も、Baba wa Taifaとして長く国民に愛された。

1999年10月14日に、白血病で亡くなられた。

人によっては、独裁政治を行っていたとか批判も多いが、俺個人としては良くあれだけのむちゃくちゃな国を統治できた、偉い人だと思う。

独裁者はその死後大抵悪評が高くなるが、ニュエレレに関してはいまだに国民の尊敬を集めてやまない。


つまり決して国民から嫌われていないのだ。

ニュエレレ亡き後、大統領就任4年目のベンジャミン・ムカパは未だ経済的には苦渋しつづける中、清廉な人柄で国民の支持を集めている。


まだ国として歴史の浅いタンザニア。


独立国として歴史の古い日本国民から見ると。


なかなか国としてまとまってないところが多いなぁと思われがちなんだけれども。


国造りというのは結構大変なんですよ。











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