kaoritalyたる所以
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アカデミー賞、ゴールデン・グローブ賞でどちらも6部門・7ノミネートされて、ほぼ無名に近かった日本人女優、菊地凛子が助演女優賞にノミネートされた・・ということで話題の『バベル』を観てきました。何と感想を書いていいものやら、正直解りません。上映が始まってからと、今この映画を見た後、Yahoo!の映画レビューに書き込んでいるいくつかを読んでみましたが、ホント賛否両論なんですよね。★も5点満点中3点というところ。GG賞では最優秀作品賞を獲ったにしては、評判が良くない、と言わざるを得ないでしょうが、やはり映画の中で描かれている“日本”“聾者”に対しての表現が、日本人でない監督の描いた想像の世界を受け入れられない人が多い、ということでしょうね。解説とストーリーを簡単にYahoo!から抜粋で。解説: モロッコ、メキシコ、アメリカ、日本を舞台に、ブラッド・ピット、役所広司らが演じるキャラクターが、それぞれの国で、異なる事件から一つの真実に導かれていく衝撃のヒューマンドラマ。『アモーレス・ペロス』のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督が、言語、人種、国などを超え、完成度の高い物語を作り上げた。 ストーリー: モロッコを旅行中のアメリカ人夫婦のリチャード(ブラッド・ピット)とスーザン(ケイト・ブランシェット)が、突然何者かによって銃撃を受け、妻が負傷するという事件が起こる。同じころ、東京に住む聴覚に障害を持った女子高生のチエコ(菊地凛子)は、満たされない日々にいら立ちを感じながら、孤独な日々を過ごしていた…。 4つの国が舞台ですが、メインはモロッコでのブラピとケイト夫婦、日本の菊池凛子のストーリーだと思います。監督の話では確か、自分が日本人のエピソードを加えた、というようなインタビューを読んだ記憶があります。映画お為に書かれた脚本ってことなんでしょうね。日本人を、聴覚障害者として描いてみよう、と思ったのは何故なんでしょうか。ココからの感想はちょっとネタバレ気味になると思います。 問題(話題!?)のシーンはこれです。写真はもちろん、映されていませんが、このシーンで彼女は股を広げて見せるわけです。聾である彼女は、同年代の健常者である男の子から、自分が“怪物”のような目で見られてることに落胆し、だったらもっと凄いところを見せてやる、という感じでパンツを脱いで、股を開いて見せ付けます。性に対して興味を持つ、というか、今時の高校生だったらSEXなんて当たり前だろう、という前提で描かれてるのか、いきなり歯医者にキスして嫌がられたり、裸になって刑事に胸を掴ませてみたりと、コミュニケーションが上手く出来ない彼女はその辺が唐突過ぎるんです。女性が言い寄ってきたら男はまんざらでもない、とすり込まれているのか、裸を晒せば男は抱いてくれる、という感じに描いてるんですね。これは障害者の人から見たら、嫌悪感を示すんじゃないでしょうか?!いや、コミュニケーションが上手く出来ない、というのを“聾者”として描かれたことに、嫌悪感を抱くんじゃないでしょうか。もう一つ問題のシーン、映画を観て気分が悪くなった人がいるシーンは、光もさることながら、音量も凄いんです。だけど、彼女の目線の時は無音状態、無駄に長いとかいう声を聞きましたが、彼女がショックを受けるシーンでもあり、不必要とは思えませんでしたし、私にとっては特に不快ではなかったです。東京だったらいかにも、って感じの高層マンションに役所公司演じる父親を暮らし、友達同士でつるんで渋谷あたりのお店で遊び、クスリをやってクラブに行く・・、そんな女子高生を演じている彼女の演技は確かに鬼気迫るものがあり、手話もそれらしくこなしていました。モロッコで、生活の為に使おうとしたライフルが、アメリカ人旅行者に当たるとは思いもしなかった、そこの家族の描き方は、なんだか一番まともだったような気がします。親が子を叱り、兄弟を思い合うというところが。 そして私の好きなガルガル(ガエル・ガルシア・ベルナル)が登場するメキシコもまた、言葉の行き違いと言うか、ちょっとした誤解からトラブルに巻き込まれてしまうのは、ちょっと傷ましかったですね。ブラピ達の子供を日々面倒見ているのがメキシコ人のアメリア。その彼女の息子の結婚式の日に、代わりのシッターが見つからず、メキシコまで一緒に連れて行って結婚式に参加することに。そこにアメリア叔母さんを、ガルガルが迎えに来てくれるってわけだ。陽気で明るいガルガル、だけどどこかちょっと影があって、って役柄。出番が少なくって残念だ。アメリアが言ったのは「私たちは何も悪いことはしていない、ただ、ちょっと愚かなことをしただけです。」ってのが何だかもう、その全てを語ってるようでした。ほんのちょっとした愚行から、コミュニケーションが上手くいかずに、取り返しのつかないようなことになってしまう。それでも、子供は見つかり、スーザンは助かり、凛子は役所公司と、高層マンションの一角で抱きしめ合う・・という希望を残して映画は終わる。人との繋がりが希薄になってきている、と感じた監督がそれを伝えたくて撮った映画なんだろう。そして、人はどこかしらいろんなところで繋がってる、ということを伝えたい映画なのかな、と思うけど、そこに生きる人達が、本当は何を求めているのか・・。TOHOシネマズなんばで満席の中、観賞。143分を長いと感じませんでした。最後に、この映画、最初は日本人が会話するシーンには、日本語の字幕が付いていなかったらしい。それを知った人たちが運動を起こし、手話のシーンだけでなく、日本語で会話するシーンもちゃんと、字幕が入っていました。参考までに。 → http://kiirogumi.net/babel/pc.html映画を思い出しつつ書いてたら結局1時間半もかかってしまった・・^^;
May 6, 2007
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