ヘイフリックの限界part2

ヘイフリックの限界part2

2007.01.25
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私は、それが史実かどうか、いつも曖昧になってしまうことが問題だと思う。名将に仕立て上げる必要を認めないだけだ。人間が局限でする行動が英雄にするかどうかでしかない。勿論大本営は英雄にしたいだろうが、部下たちは必ずしもそうは思わないだろう。その限界はある。


当時の日本人の考えは、世界には異質に見えたのではないだろうか。少なくとも現在の私たちの客観的な認識ではそうである。


昨夜、NHKの、「その時、歴史は動いた」で「島原の乱」を扱っていた。領主の過酷な圧制に対する一揆なのか、宗教弾圧なのか、これも史実が少ないために曖昧な論議がされている。冷酷な領主の過酷な収奪と、飢饉による明日への絶望が根底にあったのは事実だろう。そこに宣教師のキリスト教布教があり、体制破壊のエネルギーになったのではないか。それを恐れた幕府が、キリシタン弾圧という称したのではないか。即ち、根底には、住民全体を巻き込んだ
生死の選択の強迫という宗教の殉教と、圧制への絶望が重なり合っていたのだろう。


誰も、生か死かの逼迫した極限という状況に立ちたくはない。あとでどう評価されるかを考えるのは、英雄になりたいものだけだろう。追い込まれた人間の周辺には極限という限界はあるとしてもそれは、いつも大きな犠牲を強いることになる。


上記のNHK「島原の乱」にも問題意識のズレを感じた。宣教師は、単なる布教に来たのではなかっただろう。野心なしに危険を冒してまで遠い航海をしてくるはずはないのだ。


「限界」の意味とは、何だろうか? 常に私の脳から離れないテーマであり、問題の所在でもある。





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最終更新日  2007.01.25 06:24:53
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