聖書は、信仰の出発点でいきなり最終回答を与えてしまって、回答に至る道筋を各人で自発的に「発見」させる物凄い発想だ。イスラム教は、異なる宗教の間のややこしい問題を、実にシンプルに権力と支配の関係に還元する。異教徒が支配下に入れば、異教徒のままで、待遇には確り差をつけて服従させる。その待遇に不平を言わない限りかまわない。
教義をめぐって、異教徒はイスラム教に反する主張をしなければいい。ただし「なにがイスラム教に反するか」の判断基準と判定の権限はイスラム教徒の側にある。勿論軍事的な優位を確保してという前提がある。
まさに同じことを、戦後の日本人はアメリカの占領政策で体感している。中国も、キリスト教国も同じ戦略をとっているだろう。これは、点と点の距離でもある。遠いか近いか、それは、物理的には距離として可能だが民族間では難しい。
ドイツの教会の門柱に刻まれた建築の基準になったという二つの点の空間に魅入ってしまった。権力と支配は、あらゆる社会に見られる構造である。それが彩るものは文化の質ではないだろうか。息苦しくなると、ひとは、他人との距離を知ろうとして来たのだろう。
あの光源氏でさえ、いつか女たちから襟裳との真夏のあつ苦しいだけの残り香でしかなくなるのだろう。点から点のまでの距離は、人間が創り上げた空間でもあるだろう。
アメリカ人は、日本人に民主国家になり世界から尊敬される国民になってほしいと、平和憲法を押し付けたのではない。そのほうが自国に有利だと思ったからに過ぎない。日本の権力者たちはアメリカの権力を利用し、アメリカも日本を手懐けようとしたに過ぎない。パートナシップが聴いてあきれる。