ヘイフリックの限界part2

ヘイフリックの限界part2

2017.02.28
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自分のことや、自分の国の文化も碌に解らないのに、他国の文化を理解することができるのだろうか。自分ことさえ理解してもらうのに同じ日本人でも難儀している。簡単に文化を語ることは容易ではない。春だって、桜だって、多様な表現があり、その時々で違うし、また日本人でも人によっても全く違うものになる。言語の違いは、日常会話とは訳が違うだろう。それは文化の違いでもあるからだ。文化の違いだけを理解するだけで異文化コミュニケーションではない。それをすすめていったら、寧ろ自分も相手も、お互いに文化の壁を作ってしまうことになるのではないだろうか



 ・言語はまさに、他国と自国を隔てるために発達したものであり、他国の言語を排するために創り上げられたものでもあったのだろう。言語集団がひとつの集落を造り上げ、そしてフレームワークを形成していったのだろう。日本人でさえ、多様性がある。色んな人間がいる。それは生き残るために必要だからだろう。それこそ日本の文化に一つの帽子が被せられれば、とうの昔に滅亡していただろう。それは、外からも内からも時代の流れに適応することができなかったに違いない。異文化とは、何なのだろうか。そんなに簡単に、文化が同じと言えるのだろうか。外国語で自国の文化をどこまで説明できるのだろうか。外国語を学ぶには、相手の文化を理解するだけでは足りないのであり、自国の文化を相手に理解させねば、国際人とは言えないのだろう。それが、できているだろうか。そして、自国の文化をそんなに簡単に説明できるとも思えない。



 ・へ2・・・また大学でいくつかの「異文化コミュニケーション」の講座がある。数年間海外で学んだ人たちが、持論を展開されるのを聴かされることになる。それでも最近は外国人講師も増えたし、しかも日本語が上手くなっている人が多くなってきている。少なくとも日本人と同じくらいの日本語の歴史や文化を知りながら、日本人と議論できなければ学んだことにはならない、と彼らは考えているのではないだろうか。日本人が、そういう考えでどれだけ外国で学んでいるのだろうか。数年間でできることとは思えないが。 然し、否応なく異文化交流は加速していくのだろう。民族間の自然淘汰もある。  夜のウオーキングをしていると自転車に乗って出逢う人たちがアジア系の若者たちが目立って多くなった。 どうやら福岡も都会並になってきたようだ。





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最終更新日  2017.02.28 20:11:04
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