

観自在菩薩
行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空
度一切苦厄
舎利子
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と並べて行って、どのように解釈するかと、調べ始めたところだが、宗派がいくつもあり、恐らく信者の数だけ解釈があるに違いない。5,6世紀に三蔵法師が翻訳したものが日本に流れ、それをまた 日本人たちが、そこに何が書かれているが読み解こうとした。
観・自・在・菩・薩 これも観自在と菩薩に分かれる。然しこれは特定の個人のことではなく、観音様という存在のことだろう。
行・深・般若・波羅・蜜多・時も分解できるが、行深と般若波羅蜜多と時の三つが一つのフレーズである。
これは、「観音様が、深遠な智慧を完成すために深く物事を考え実践されていた時」という解釈ができる。
「照見・五蘊・皆空」、「度・一切・苦厄」とつづくが、この解釈が難しい。人の心身の五つの要素が何れも本質的なものではないと見極めて、すべての苦しみを取り除かれたのであると解説書にあるが。これは一般向けらしい。プロはどう読むのだろうか。仏教にも大乗と小乗がある。菩薩(ぼさつ)が、(ぼさ)と詠んだりする。密教というのもあるくらいだから、容易に真実を明かさない。日本には、そうした閉塞した考えが根底にあって、真理を明かさない風潮がある。平民を蔑む風潮が消えないのは、云わばそういう言語からも来ているのだろう。知りたくもない学問もある。