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私は半世紀以上にわたって聖書を学んできましたが、結局のところ、人は●両親を敬い、大事にし●妻(夫)を愛し、家族を大事にし●友人も兄弟のように思い、助け、励まし合い●隣人との交流を大切にし●弱っている人には優しく●日々与えられている糧には感謝をこれだけをしっかりと受け止めて守っていけばいいのでしょう。小難しい教義など必要ありません。昔から親に教えられたことの中にもう全てのことが含まれています。あとは自分の人生は、自分で選択し決断して生きていくだけです。生き方、人生に「これが正解」などというのは無いのかもしれません。大事なのは人の言う言葉に振り回されないことです。あなたはあなたなのですから。宮沢賢治の「雨にも負けず」風にも負けず雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫なからだをもち慾はなく決して怒らずいつも静かに笑っている一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べあらゆることを自分を勘定に入れずによく見聞きし分かりそして忘れず野原の松の林の陰の小さな萱ぶきの小屋にいて東に病気の子供あれば行って看病してやり西に疲れた母あれば行ってその稲の束を負い南に死にそうな人あれば行ってこわがらなくてもいいといい北に喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろといい日照りの時は涙を流し寒さの夏はおろおろ歩きみんなにでくのぼーと呼ばれ褒められもせず苦にもされずそういうものにわたしはなりたいこの詩を読むとイエス・キリストを連想させます。皆さんの人生が祝福されますように。長い間読んでいただき、ありがとうございました。 完
2019年07月12日
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腰、両膝の激しい痛みに加えて腹痛も。腰を悪くすると排尿、排便に障害が起きると言われていたが、どうもそのようだ。食欲がないのであまり食べないのに体重は減らない。むしろ増しているときもある。多分、腸内に便がたまっているからだろう。だから腹痛が起こり、体重も減らないのかもしれない。これらの身体的苦痛の上に、今、隣家の解体工事が行われている。朝の9時から午後5時まで重機を使っての工事はかなりの騒音だ。うるさくて昼寝もできず、何も集中できない。おまけに夜になると、これまた隣の家の話し声が深夜まで聴こえて、イライラさせられている。ここまで悪条件が揃ったら、まさに拷問の日々。正気がいつ狂気になるか分からない。
2019年07月11日
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「いつでも聴く耳をもちなさい」 「意思の決定は自分で」 「全ての営みには、定まった時がある」 ……………………………………………………………………………… 彼女が元気になって良かった!! 今回のこと(トラブル)でかなり落ち込んでしまったようだ。 自称彼女のお兄さんと言う人の勘違いで、私はとばっちりを受けてしまった。 しかし、彼女の私に対する「ごめんさい」ということばが悲痛で心に響いた。 彼女は想像を絶する辛い体験を乗り越えてきたので、人の痛みもわかるのだろう。 その証拠に、私が一時FBを閉鎖したときは、とても心配してくれた。 ただ、思うことは、自分の意思の決定を「人を頼るな。」ということ。 相談するのはいいけど、それは参考。 人の意見に流されたり、委ねてはいけない。 私はかつて、組織の代表として、人々のお世話をしていた時期があった。 目的は簡単に言えば「人はいかに生きるべきか?」と言ったほうが分かりやすいかも。 だが同じ目的で集まっても、いつしか分派が起こるのは常。 そこへ新人が入ると警戒や敬遠をされる。 いつもその光景を見てきた。 そのときは必ずその人をフォローしてきた。 真夜中に呼び出されて朝まで話し合うこともあった。 私はいつもひとりひとりの体調や状況の把握につとめ、毎日のように声をかけたり、訪問していた。 実は、こうした輪に入れないような人からの方が学ぶことは多い。本音を語るからだ。 私自身も辛い経験をしてきたし、今も継続中。 だが、現実に目をそむけて慰め合うグループには入らない。 お互いの辛い過去を話し合って、認め合い、慰め合うグループで和気あいあいで素晴らしい集いに見えるが、これには弊害もある。これは過去の体験から学んだことで、 自分にも人にも甘くなるからだ。そして冗談を言い、いつも笑っていたいのだ。 こういう人たちの特徴は厳しいアドバイスは受け容れない。何故なら耳が痛いし、心地よくないからだ。でも心では逃げている自分を自覚しているのも確か。 また概してユーモアも理解せず、マイナス思考に捉えてしまう傾向がある。それは言葉のなかに「自分が責められている」「自分のことだと感じる」つまり不愉快と感じる「ワード」を見つけて拒否反応を起こすからだ。 これも長い間その様子を見てきた。 しかし、それは自己防衛本能によるもので決して非難はできない。 今はそういう「時」で必要なことには違いない。 だがいつまでもそこに留まることは決して良くない。 「心地よさ」から得るものは、ほっと安堵でき、慰めではあるものの、生きるために戦う意欲を養う場ではない。 何故なら、人が強くなるには、心地よい場所から厳しい現実と向き合って戦わなければならない「時」があるからだ。 つまり、新しい自分になっての旅立ちということだろうか。 この「時」を見逃してはならない。 この世において、全ての営みには定まった「時」があるのだ。 勿論疲れたら休めばいい。人はいつまでも走り続けることも戦うこともできないから。 人が生きるということは、今の自分の状況を的確に自己判断して「時」に応じて「何」を「どうする」かを決断する勇気だと思う。 ……………………………………………………………………………… ・天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。 ・ 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。 ・植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。 ・殺すのに時があり、いやすのに時がある。 ・くずすのに時があり、建てるのに時がある。 ・泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。 ・嘆くのに時があり、踊るのに時がある。 ・ 石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。 ・抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。 ・捜すのに時があり、失うのに時がある。 ・保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。 ・ 引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。 ・黙っているのに時があり、話をするのに時がある。 ・ 愛するのに時があり、憎むのに時がある。 ・戦うのに時があり、和睦するのに時がある。
2019年03月25日
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2019年02月19日
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2018年12月17日
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あらゆる環境に恵まれて、国内はおろか海外にまで華々しく活躍する人がいます。以前の私なら羨ましくなりますが、今は違います。環境や才能に恵まれた人はどんどん活躍すればいいのです。大変素晴らしいことです。一方、身体が不自由とか経済的に恵まれない人は、自分のできる範囲内で活躍すればいいのです。これもまた素晴らしいことです。どちらが人として優れているか、劣るかなどは決められるものではないからです。花を見てみましょう。タンポポがバラを見て羨ましがるでしょうか?またバラがタンポポを見てバカにするでしょうか?彼らは種の違い(個性)を持って生まれてきました。だから、ありのままの自分を咲かせているだけなのです。人も同じです。それぞれが違った個性を持っています。私が病気で自由に動きまわれないのも私の個性なのです。ありのままの自分で、自分の花を咲かせたいと思います。
2018年12月05日
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痛みに襲われている時は、この痛みさえ無くなれば何も要らないと思う。 しかしきっと痛みが治まったら、今度はこれさえ良くなれば何も要らない。とまた言うに違いない。 人は落ちれば落ちるほど、ささやか希望でおさまるが、上に上がれば、また欲求も増してくる。 謙虚や感謝の心が芽生えるのは逆境のときだとしたら、人としては今の痛みを抱えて生きるほうがいいのだろうが、私は弱い者だからやはり辛い。 パウロやヨブのようにはなれない。
2018年09月29日
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「助けて!!」と叫ぶ声が聴こえる。 誰からだろうと耳を澄ます。 するとそれは自分の内なる声だった。 いつもいつも自分を見張っていよう。 人は限度を超えるとSOSを発信する。 それを見逃すと心身を蝕むことになる。 …………………………………………………………… 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。 いのちの泉はこれからわく。 箴言4章23節
2018年09月24日
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恐怖や不安とは心の内側から湧き上がるようだが、実は脳が反応することによって起こる。 私はパニック障害を持っているが、まさに脳が過去の恐怖体験を覚えており(PTSD)、恐怖として指令を送ってしまうのだ。 そこで考えられることは、脳が感じてしまうなら感じないようにすればいい。 つまり「怖くない」という概念にすり替える。脳をだますということだ。 繰り返し、怖いと感じる所に敢えて身を置くことで脳の反応を抑え、やがてなくすことができる。これを認知行動療法と言うらしい。 私もこの行動の繰り返しで苦手な物、所を克服してきた。 心のありようと脳の活動は繋がっているのだ。
2018年09月24日
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花は雨に打たれてもなお美しい。人も困難に出あってもそうありたい。
2018年09月15日
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ほぼ寝たきりの日々。 今日は少し歩けた。 今日は少し痛みが和らいだ。 今日は少し呼吸が楽だ。 電車に乗れた。 エレベーターに乗れた。 こんなことで喜ぶなんて、普通の人には理解できないだろうなあ。 心身が不自由になり、行動が制限されると、普通の人にとってはなんでもないことに喜びを感じる。 幸せや喜びとはほんのささいやことなのかもしれない。 私は毎日が辛い分、他の人よりも喜びは多くなっているのかも。 できないことを悲しむより、今日できたことを感謝しよう。
2017年10月30日
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裕福な家庭に生まれて、何不自由なく生きる人がいる。貧しさを呪う人もいれば、笑みを絶やさず感謝して生きる人もいる。健康に恵まれて過ごす人がいれば絶えず痛みに襲われて忍耐と失望を感じながらも懸命に生きる人もいる。これを不平等とか不条理と言えばそうかもしれない。だが私は思う。「人にはそれぞれ受ける分」というのがあるのだと。人はどのような環境に生まれようと、どのように生きるかが問われるのだ。私はどんなに痛みで疲弊し、失望し、孤独感にさいなまれてもその隙間の中に喜びや幸せを見つけて生きていこう。それが私の分なのだから。私にはひとりの親愛なる友がいる。この人も不条理とも思える災難に遭いながらも懸命に生きている。ただただ祈るばかりだ。 ……………………………………………………………………………………… 註:「分」の意味 その人の持っている身分や能力。身の程。「分をわきまえる」「分を守る」「分に安んずる」「分に過ぎる」 当然なすべきつとめ。本分。「己 (おのれ) の分を尽くす」 物事の状態・様子・程度。
2017年08月13日
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身体が不自由な高齢者の独り住まい。訪れる人たちもいない。待っているのは、孤独死、孤立死。こんな自分の未来の想像が確信へ。落ち込む日々が続く。でも誰かが言っていた。「過去を後悔し、未来に怯えるより、今日を生きよう。」確かに、そのように覚悟ができたら、生き方は変わるだろう。現実を受け容れなければ生きることはできない。非業な最期と言われてもいのちを全うできればいい。生まれてきた責任を無事に果たしたいと思うから。すべては繰り返えされる。…………………………………………………………………一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。「これを見よ。これは新しい。」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。伝道者の書1:1~10
2017年06月23日
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ことばにすることで自分は悟りある者と思われたい。でも、ことばににすると何処かに自分の嘘があるように思えてならないのも事実。加えて、人は自分を小さな者と言いながらも、賢い者と思われたいのも真実。自分を見つめ、真の自分を認めることは勇気がいることだ。だから素直になろう。努力はしても無理をする必要はない。
2017年05月30日
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我ながら思う。ああでもない、こうでもないとことばを並べるのは虚しいことだ。それよりかは沈黙しているほうがはるかに賢明だ。愚か者でも、黙っていれば、知恵ある者と思われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りある者と思われる。箴言17章28節
2017年05月13日
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戒めのことばは心を刺し通す鋭い茨のようだ。 その痛みは時として耐え難い。 しかし、そのトゲによって膿を出せば、心地良いものになる。
2017年05月13日
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「絶望」と「希望」それらは両極端でその間はかけ離れているように思えるが、困難の中にあるとき、その境目は極めて微妙と言える。何故なら少しのマイナス因子(出来事)が加わると、すぐに「絶望的」になるが、わずかでもプラス因子が加わると「希望的」な光が差す。今の私は上がったり下がったりのシーソーのようなもの。泣いたカラスがもう笑い、笑ったカラスがもう泣いている。人は弱く脆いものだが、したたかでもある。若い頃は怖いものを知らなかった。それは健康だったからだろう。しかし、身体が責められている今こそが、実は大事なときなのかもしれない。
2017年05月07日
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最近は泣くことが多くなった。それは絶望からだろうか。そうとも言える。しかしその反面、わずかでも希望を見出すことができることへの感謝からかも。いずれにしても今の私は「喜怒哀楽の総動員」混沌としていて感情は定まることはない。そんな不安定な中にいても、元(平常心)に戻ろうとする力が働いていることに気がついている。極めてはっきりしていることはひとつ。それは信仰が「試されている」と言うことだ。信仰とは目に見えないものを信じて待つ。分かっていたとは言え、信仰を持ち続けることとは容易ではないことを改めて知った。
2017年04月30日
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「人生の海の嵐に」聖歌472番人生の海の嵐に もまれ来しこの身も 不思議なる神の手により 命拾いしぬいと静けき港に着き われは今安ろう 救い主イエスの手にある 身はいとも安し悲しみと罪の中より 救われしこの身に 誘いの声も魂 揺すぶること得じいと静けき港に着き われは今安ろう 救い主イエスの手にある 身はいとも安しすさまじき罪の嵐の もてあそぶまにまに 死を待つは誰ぞただちに 逃げ込め港にいと静けき港に着き われは今安ろう 救い主イエスの手にある 身はいとも安し
2017年04月29日
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使徒パウロは神からひとつのトゲ(病気)を与えられていました。それはかなり痛みをともなうものでした。そこでパウロは神に願います「主よ。私からこのトゲを取り除いてください」しかし、神はパウロの願いを聞き入れませんでした。それはパウロが高慢になることのないようにとの神の計画だったからです。つまり、痛みを知る者として「謙虚」でいられるためなのです。パウロは生涯この痛みを抱えながら伝道活動をし、イエスの12弟子以上の功績と多くの書簡を残しました。パウロと比べるなどおこがましいことですが、私に与えられているトゲにも意味があるのだとしたらやはりそれは「謙虚」でいなさいということでしょう。でも、できればトゲは取り除いて欲しいです。何故なら、私は実に弱い者で「謙虚」より「卑屈」に陥りやすいからです。関連記事https://plaza.rakuten.co.jp/kibonoyogisha/diary/201505050001/
2017年04月09日
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私も痛みで心身ともに疲れ切っていますが、友人もまたひどい痛みに襲われ続けているようです。その辛さは私の比ではないでしょう。お互いに会ったことはありませんが、毎日のように励まし合っています。「ことばをかけてもらえる」それだけで元気がもらえるのです。痛みを分かち合うとはこういうことなのですね。友人の痛みが速やかに癒されますように。
2017年04月08日
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座る。立つ。歩く。こんな当たり前のことが普通にできなくなった時、当たり前で普通なことが奇跡だと気づいた。まだ、息をして外の空気を吸えることを感謝。
2017年04月07日
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今、あなたは自分自身にジレンマを抱いていませんか。あれこれ考えた結果、動きたいのに、動くのが面倒と思うとじっとしていることを選んでしまう。でも動かなければ益々動けなくなる。思うことは前でも、することは後ろ。つまり「気持ち」と「行動」とは相反するものとなる。「10の考え(心配)より、ひとつの行動」時にはそういうことも大事なのかもしれません。私自身もよくあることです。
2017年04月06日
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知人の奥さんが亡くなりました。彼の憔悴と落胆は誰の目にも明らかです。彼は私に言いました。「これから独りでどうやって生きていいかわからない。毎日をどのように過ごしていいかわからない。○○さん、どうしたらいいか教えてくれませんか。気が狂いそうです。」私にできることは何だろうか。今はただ話を聴いてあげることが一番だろう。それから色々提案していこうと思っています。今の彼にとっては、泣いて嘆く時なのですから。天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。伝道者の書 3章4節
2017年04月06日
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心配な友人がいる。心配してくれる友人がいる。それだけで、今日も一日生きていられる。神は必要な人をそばに置いてくださるからだ。
2017年04月05日
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痛みで日々出来ることが制限されていく中で思ったこと。はじめのうちは、「これが出来なくなった。あれも出来なくなった。」と引き算の考え方。これでは元気など出るはずもなく、落ち込んでいくばかり。そこで発想の転換をすることに。「いや、まだこれができる。あれもできる。」と…すると、驚くほど気が楽になったが…それでも痛みがなくなるわけでもなく、痛みに何度も現実に引き戻される。そのたびに思いなおす。この繰り返しです。それでも今日も一日を過ごすことができました。
2017年04月04日
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絶え間なく襲ってくる痛みに心は萎え、正気でいることも危ういと感じさせられています。正気と狂気はまさに紙一重とつくづく思います。さまざまな思い、誘惑に襲われ続けられて混乱するからです。それでもかろうじて正気でいられるのは、こうしてここで書く作業をしているからでしょう。書くことで自分の思いを分析、整理をしています。そして気が付くと聖書のことばで救われているのです。私の日々が困難との連続であるならば、勝利したときの恵みは測り知れなく大きなものとなるでしょう。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てをつけ、足には平和の福音の備えををはきなさい。これらのすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。エペソ6章11~17節
2017年04月04日
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相手を思いやっても、耳の痛いアドバイスはなかなか理解されない。悪意ととられると、またたくまに敵意になってしまう。
2017年04月04日
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今の私は穏やかで静かに暮らしたいと思う反面、感情と感覚が総動員しています。その思いは研ぎ澄まされた諸刃の剣のようで、誘惑を断ち切る刃と同時に自分も傷つけています。どんな思いも激しすぎると平安はなくなり、かえって心身を疲弊させるようですね。こういうときは何も考えないでのんびりするのが一番いいかもしれません。穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。箴言14章:29,30節
2017年04月02日
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今ではまともに歩くことも難しくなっています。毎日軽いストレッチと筋トレをしているものの、衰えは時間とともに間違いなく進んでいくでしょう。数年後には介護が必要になるかもしれないという不安をいつも感じています。同時に残されたいのちの日数のカウントダウンも始まっていると…。しかし、たとえベッドに寝たきり状態になったとしても、このブログは続けているでしょう。いのちの炎が燃え尽きるまでキーボードを叩くつもりです。天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。伝道者の書 3章1,2節
2017年04月01日
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同じことを繰り返して言う者は、親しい友を離れさせる。 箴言17章9節お酒に酔うと同じことを何度も何度も言う人がいますね。聞いているる方は「またか」と思い、嫌気がさすものです。これと同じで、自己顕示欲の強い人は自信家ですから話をしていても自慢話や持論で自分が優位に立とうとするのです。そして、こういう人は決まって同じこと(自慢話)を繰り返し言う傾向があるようです。最も嫌われるタイプと言えるでしょう。みなさんもきっと思い当たる人がいると思います。しかし「人のふり見て、我がふり直せ」と言われるように私たちも気を付けたいものです。
2017年04月01日
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多くの富が与えられて贅沢な暮らしをしていれば傍目には豊かに見えるかもしれない。しかし、信頼できる友がいなければ、財産を持っていないに等しい。一方、貧しくても親しい友がひとりいて、共に泣き、笑い合うことができればそれは富にまさる宝物。信頼できる友がいるとはそういうこと。
2017年03月31日
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人は感情が昂ると言動まで左右されてしまいがちです。怒りのおもむくままでは、思ってもみなかったことばを口に出してしまうこともあります。そして自らの「ことば」に触発されて、さらに興奮状態になってしまいます。こんな状態で出す結論がいいわけはありませんね。また怒りは強いストレスとなり心にも体にも良くありません。腹が立ったら、お茶でも飲んで一服しましょう。落ち着いたら、色んなことが見えてくるでしょう。そうすれば的確な判断ができると思います。怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。箴言14章29,30節
2017年03月31日
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最近、持病の脊柱管狭窄症が悪化して歩くことも立つことも辛い状態に…しかしそれでも「希望」について語っていきたい。何故なら「希望」を口にする者は困難に出会い「絶望」の誘惑に襲われる。語る者は試されるというのが定めだから。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。へブル12章5~7節ノゲシのつぼみ
2017年03月30日
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信じて生きようとする者は必ずスランプに陥るものです。今の私がまさに高い壁の前で立ちすくみ天を仰ぎため息をつき、地に顔を落とし頭を抱えています。原因は何んでしょうか?それは何年にもわたって肉体を責められていることかもしれません。それでも、はじめのうちは心の内に熱いものが流れている自分を自覚していて、積極的にリハビリに励むなどして、多少なりとも効果をあげてきました。しかし根本的な治癒には至らず、やがて体は悲鳴をあげはじめ、応えられない祈りに心は萎えていったのです。おまけに不眠の状態がもう一年近く続いています。 これが私に与えられた試練であることは分かっています。そして乗り越えたときには大いなる喜びがあることも。 何故ならそれらのことはこれまでの体験で「証」されているからです。でも人は目の前の苦痛に脆く、常に「失望」という「誘惑」に悩まされるようです。この誘惑との闘いは生きている限り何度でも訪れるでしょう。 どうしていいか分からないときは昔の自分に戻ろう。辛かったら大いに泣こう、そして叫ぼう。幼子のように理屈に振り回されることなく、ただ信じて待とう。
2016年05月06日
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これ以上みなさんが不安と恐怖に襲われませんように。安らかな夜と穏やかな昼をお与えください。傷んだ心と体をすみやかに癒してください。
2016年04月15日
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2016年03月07日
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2016年03月07日
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2016年02月27日
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写真撮影が趣味な私にとってこの時期は色で表現すると「グレー」という印象を受けます。 街中や公園に行っても色とりどりの花が観られないからでしょうか。でももうすぐ梅の花が観られるようになりますね。撮影が楽しみです。 昨日、カメラを持って近所を散歩して見つけたのが下の写真です。気を付けないと見逃してしまうような何でもないものですが、しゃがみこんでじっと見つめているうちに何故か感動。 誰にも気づかれないところで一生懸命「華」を咲かせているんですね。 自然の営みに不思議な摂理を感じました。 わずか3センチくらいの大きさです。
2016年02月10日
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人は肉体を責められると弱いものだ。希望も信念も消えることも…病気や長く続く辛い痛みで多くの人が苦しんでいるに違いない。だが失望からは何も生まれない。歳をとるごとに衰えていくもの、失うものは多いが歳を重ねるからこそ得るものもたくさんある。余命は引き算だが知識・知恵は足し算…誰もが等しく迎えるのが「死」どのような最期になるかは分からないが、「生かされている」意味を考えながら今を生きるしかないだろう。 たとえ自宅で孤独死し、長い間誰にも気づかれずに放置されたままになろうと、死の間際に「ありがとうございました」と言えればいい。………………………………………………………………………と、考えつつこのブログを更新しています。ここをクリックすればアニメが見られます。
2016年02月07日
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ここをクリックすればアニメが見られます
2016年02月07日
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下水道のアスファルトのわずかの隙間から成長を続けています。はじめは2,3センチくらいだったのに今はゆうに60センチを超えています。根っこはどうなっているんでしょうね。植物の生命力は凄いです。かの進化論を唱えたダーウィンは言っています。「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ。」 人間も環境や状況の変化を恐れずに受け容れ わずかな希望でも持つ限り生きられるのかもしれませんね。
2016年02月01日
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これまでは激痛で真っすぐ立つことも歩くことも 出来なかったのですが、痛みに負けることなく続けてきたストレッチ 、筋トレのおかげで筋力が強化され自然治癒力も高まったことで、今ではほとんど痛みを感じることなく歩くことができるようになりました。 驚きと同時に喜んでいます。諦めることなく続けてきたことに体が応えてくれたのでしょう。私と同じように腰痛やひざの痛みで苦しんでいる方がおられましたら安静ばかりせず、痛みに負けないで運動をしてください。筋力のアップで痛みは改善されると思います。
2016年01月30日
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私たちは病気になると医師の処方されるままに薬を服用します。しかし、私は最近、薬だけに頼るべきではないことに気が付きました。私は18歳のときに腰の病気になってから50年間、色々な薬を飲んできましたが一向に良くなりませんでした。そこで一念発起。薬に頼ることはやめ、痛みに負けず敢えて運動をすることにしたのです。これは痛みとの闘いと同時に恐怖心との闘いです。はじめのうちは痛いだけで何の効果も見られませんでしたが、諦めることなく続けていくうちに筋力はアップし体力は確実に増加しました。これは、すなわち免疫力の増加と同時に「自然治癒力」を高めることになりました。その結果、つい最近までは、立ち上がることも困難で、屋内での移動も這ったり壁伝いでしたが、今では痛みを感じることなく立ち上がれ、移動も普通にできるようになりました。まだまだ完治したわけではありませんが、以前と比べれば雲泥の差です。また痛みがぶりかえす不安がないわけではありませんが、痛みや恐怖心に負けずこれからも運動を続けていこうと思っています。自分の体の自然治癒力(免疫力)を信じて高めるために…※すべての場合に適用すると言っているわけではありませんので誤解のないようにお願いします。
2016年01月24日
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毎日のストレッチ、筋トレであれだけ痛かった腰と関節の痛みが和らいできました。嬉しい限りです。努力がやっと報われ始めてきたようで、闇の中で希望の灯を見たという感じです。ですからこれからも続けていくつもりです。諦めたらそこで終わり、でも希望を持って続ける限り可能性(未来)は開かれているんですね。
2016年01月23日
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痛みと闘いながら毎日ストレッチと筋トレを続けています。まだ腰はかなりの痛みがありますが少しずつ軽減しているように思えます。しかしひざの関節痛はかなりよくなりました。ここをクリックすればGIFアニメが見られます。※腕立て伏せは一連のストレッチや筋トレメニューの一部であり、このほかに脊柱起立筋の強化や関節に良いストレッチなどを行っています。
2016年01月12日
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2016年01月03日
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江戸っ子の私はこれまでは何でもすぐに白黒はっきりさせる傾向がありました。簡単に言えば短気な性格で結論を早く出したがるということでしょうか。それでこの気質ゆえに対人関係でこれまで失敗したことは数しれません。私はある精神科の先生から次のように言われたことがあります。「○○さん、世の中、白、黒よりも灰色のほうが多いんですよ。」確かに日本人の美徳と言っていいかわかりませんが…私たちは物事をはっきりさせず、どちらだか分からない曖昧な立場をとることで、もめ事を避ける傾向があることは確かなようです。主義主張ははっきりさせる西洋から見れば、日本人は理解しにくいかもしれませんね。さて、あなたはどちらでしょうか?
2016年01月03日
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2016年01月01日
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