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和太鼓樹神/KIJIN
パパ
下村宏は、昭和2年10月5日、父・哲夫、母・そよの次男として、神奈川県川崎市にある東京電燈株式会社川崎変電所の社宅で生まれた。僕は弟の尚と双生児で、出産の時お産婆さんよりなんの予告も無かったので両親は大変慌て、連絡やら準備に大童であった。そのため父は足を釘で踏み抜き大変痛い思いをしたことを後日聞いたことがある。
其の当時の我が家の家族構成は、両親と2歳年上の洋一兄さんの五人家族であった。親だけで、乳飲み子2人と手のかかる2歳の兄を育てるのは物理的に無理と考え、僕は半年程、母の実家の沼津にある知り合いで母乳の出る方に預けられたそうである。このことは僕が中学生になった時に初めて知らされ、其の方の所に母と一諸に挨拶に行った覚えがある。
川崎には5歳までしか住んでいなかったので、はっきりした記憶はないが、4歳頃父が勤めの帰り道で亀を捕まえてきて一晩盥に入れて飼い、翌日理由は知らないが亀にお酒をやり池に放してあげたこと、またクリスマスの日に、父が玩具やらケーキを沢山買ってきてくれて、兄弟で奪い合って好みのものを取り合ったことを覚えている。父は当時としては珍しくコダックというカメラを持っていて、よく写真を撮ってくれた。3人兄弟の裸の姿や、父方の祖父と一緒に廊下に並んで日向ぼっこをしている写真があるが、祖母と一緒に写っているのが無い。祖母は写真嫌いだったのかもしれない。
変電所の社宅のすぐ後ろに高架の南部鉄道が通っていて、隣家の同年代の子と棒切れを持って戦争ごっこの真似事をしたり、高架の芝生の斜面を利用して転げ回ったりして、泥だらけ傷だらけで遊んだ覚えがある。
ここで両親の生い立ちについて、父母から聞いている範囲のことを書いておく。
父は東京生まれで、兄弟4人。「兄、弟、妹」だったが、妹「八重」さんは幼いときに死別し、弟「傭三」さんは明治大学在学中に病気になり、静岡県の興津に転地療養中に亡くなったそうである。兄の秀寿さんは、陸軍幼年学、士官学校在学中に恋愛問題で学校を退き、民間人になりキリスト教に帰依しクリスチャンとなった。その後、同じ教会の信者で2人の子供のいる方と結婚し東京で商売を始めたところ、あまりに繁盛したため神様に申し訳無いとて店を閉め、転職したそうである。子供は2人とも九州帝大医学部を卒業し、姉の雅子さんは医者と結婚し産婦人科医を開業し広島に暮らしていた。弟の幸雄さんは広島大学の教授となり、後に医学部長になった。私達が鬼怒川に居た昭和28年頃、学会の帰りに訪ねてきてくれたことがある。
母は静岡県駿東郡静浦村馬込(現在の沼津市静浦馬込)で7人兄弟の末子として生まれた。幼い時父を亡くし、母親と長男の覚次郎兄さんに育てられたようなものだとよく言っていた。家業は漁業で、大きな船で駿河湾を主な漁場として働いていたそうである。生家は古かったが大変広く、子供の僕達にとっては社宅の狭い家しか知らなかったので、家の中で「鬼ごっこ」や「かくれんぼ」が出来て大変楽しかった。
祖母は其の頃多分70歳位だったと思うが、体の大きな人で、僕等が夢中で遊んでいると、いきなり近寄ってきて腕を掴む。何事かと思ったら、「お小使いだよ。何か美味しいものでも買っておいで」と言って手にお金を握らせてくれた。又、家の前庭で大勢でリヤカーに乗って遊んでいて過ってガラス戸を壊してしまったことがあったが、祖母は怒りもせず、怪我が無くて良かったと一言云っただけだった。その後古い家は取り壊し、海岸通りに建て替えた。後年何度か其の家にも遊びにいったことがある。其の頃は小学生だったので、従兄弟達と海水浴や砂遊び、又叔父の舟で釣りに出たり、近くの西郷島で珍しい貝や小魚をとって夏休みの宿題の資料にしたものである。
母の兄姉達の大半は地元で結婚して暮らしたが、松次郎、朝吉の二人の叔父さんは東京に出て夫々自営業を営んだ。松次郎叔父さんは、荏原区中延で乾物商を営み、奥さんと、僕等と同年代の男の子二人の四人暮らしで住んでいた。朝吉叔父さんは、中野区の省電中野駅東口で職人6人程使って「OK」 という名の理髪店を営み、奥さんと子供4人の六人で暮らしていたが、両家とも戦争が激しくなり昭和19年に其の地に住めなくなり、強制疎開で故郷の沼津に引越していった。
二人の叔父さんの開店場所には、東京に詳しかった父が大分骨を折ったようだったが、その後妹玲子の縁故学童疎開や、父達の鬼怒川への引越の時には大変お世話になり、又戦後父の葬儀には沼津から来ていただき、若かった僕らの面倒みてくれて大変心強かった。
僕が5歳の時、父の転勤で東京府東京市江戸川区東船堀町1109番地の東京電燈小松川変電所の社宅に転居した。東京へ転居して間もなく妹の玲子が生まれ我が家は6人家族になり賑やかになった。この時お産の手伝いに母の実家の縁でお春さんという小母さんが三ヶ月程手伝いにきてくれた。この小母さんは、野草や蝗採りが上手で、手製の布袋を作って我々兄弟を引き連れて遊びにつれていってくれた。
小松川変電所の社宅は7棟13戸で、同じ位の年の子供が大勢いた。周囲は田や畑に囲まれ、小川があり、池があって僕らが遊ぶには事欠かなかった。変電所の所長は宮原さんという方で、夫婦と女学生のお姉さんと、僕より一つ上の男の子と、幼い女の子の五人家族だった。その次が僕の父で、当時の社宅にお住まいの方のことは今でもはっきり覚えている。
社宅の並びの順にいうと、中沢さん:奥さんと幼い女の子の三人小口さん:奥さんと僕より1歳下の男の子の三人。小父さんは鰻採りが巧く毎日池に釣り竿を仕掛け、大きな鰻をとっていた。敏雄という子はお父さんの定年退職にともない平井町の方面に引越したが、間もなく病気で亡くなったと聞いている。
遠藤さん:夫婦と僕と同じ年と、二つ年下の女の子の4人。奥さんの父親は絵描きさんで、家にも何枚か色紙を描いてもらったのがあった。
今井さん:夫婦と妹の玲子と同じ年の女の子の3人。奥さんは子供達を集めて、百人一首やトランプ等をするのが好きで良く遊んだ。
岩峰さん:夫婦と女学生のお姉さんと、僕より1歳下の女の子、3歳下の男の子の5人。小父さんにロビンソン・クルーソーの漂流記の本をもらったのを覚えている。
佐藤さん:夫婦と、幼い男の子、お祖母さん、小父さんの弟、妹の6人。高等小学校生の弟さんは雲の上の存在で、魚釣りや縁日には保護者感覚で良く面倒をみてくれた。
関口さん:若い方で夫婦2人。
安斉さん:夫婦と小学生の女の子と、小さな男の子と女の子の5人。日蓮宗の信者で、夕方になると太鼓をたたいてお祈りしていた。
鈴木さん:夫婦と男の子1人の3人。鈴木さんは釣りの好きなひとで、よく近くの池や海で大きな魚を釣ってきて自慢していた。
近藤さん:夫婦とご主人の弟、妹と僕より1歳下の女の子の5人。ご主人は体の大きなかたで、相撲取りのような感じの人だった。弟の健次さんは二十歳の徴兵検査で甲種合格とかで兵隊にとられた。妹の都さんは母と気が合ったようで、よく家の家族と一諸に、会社の運動会や浅草のお祭り等にいった。
酒井さん:夫婦と小学校高学年の男の子2人の4人。
この中で小口さん・鈴木さん・酒井さんが転勤され、其の後に、並木さん・手代木さん・米良さん・野中さんと言う方がこられた。
小学校に入る前後の時代は、僕ら兄弟と、一郎さん、義昭君、敏夫君が遊び仲間で、暇さえあればベイゴマ、めんこ、カクレンボ、魚釣り、昆虫採りで毎日暗くなるまであそんでいた。近くに生い茂っていた葦のなかで周りから容易に見えない秘密の場所に基地と称した空き地を造り、仲間以外の人には絶対に教えないと決めていたが、或る時この葦で兄が顔に切り傷をつけたのを親に見つかり、危ないと云うことで取り壊されてしまった。
小学校は家から2km程離れた松江尋常高等小学校。1クラス45人位で1学年5クラス、全校生1600人の大きな学校だった。僕は1年3組、弟の尚は1年1組に入学した。
2年上に洋一兄さんがいたので学校生活にもすぐ馴れ、友達も多く出来楽しい毎日だった。僕も尚も運動競技は苦手で、運動会は早く済んでしまわないかと思う程好きでなかった。
4年生のとき、あまりに生徒の人数が多いため近くに大杉小学校が設立され、全校生の3割くらいの生徒が転校していった。其の時クラス替えがあったが、やはり僕は3組、尚は1組のままだった。2人共学業成績はクラスの上のほうで、6年生までずっと一組だった尚は卒業生総代で答辞をよんだ。
僕は小学校低学年の頃は体が弱く病気勝ちで、毎年冬になると1週間程寝込んで学校を休むことが多かった。心配した両親が、夏になると、三浦半島の海水浴や、奥多摩の御嶽山、沼津の海に連れていって身体を鍛えるようにしてくれた。お蔭で、その後は大きな病気一つせず、今のような健康で丈夫な身体で暮らせる毎日に感謝している。
小学校への通学は今と違って集団登校ではなく、仲の良い者同志がグループを組んで勝手に登校していた。2Kmの道を、夏は花や昆虫を採り、秋、冬は蓮の実採りや、田圃に張った氷滑りを楽しみながら通った。
小学校の先生で印象に残っている方は3人いる。
大西先生:1,2年の担任で皆にやさしく、怒った顔をみたことがない。
佐藤先生:6年の担任で。中学に進む予定の生徒に、授業終了後や土曜日の午後に、別室で納得のいくまで勉強をみてくれた。
瓜生先生:6年生の図画の先生。僕等が絵の具で丁寧に描いていると、「絵は細かく丁寧に描かず、もっと大胆に描け」と言って画用紙に別の色をなすり付けていくので、皆が恐れて嫌っていた。
小松川に住んで6,7年は両親共健康で、父はカメラの他バイオリンとマンドリンが上手く、子供達に良く弾いてくれた。終戦後僕も手解きを受け暇に飽かせて練習したことがあった。その他謡曲、撞球、囲碁等運動以外は多芸だった。母はもっぱら聞き役になっていたが、何処で教わったのか、パン造りやアイスクリーム・デコレーションをこしらえて、近所の子供達を集めてご馳走してくれた。又当時東京といっても郊外だったので、繁華街には縁が遠く子供だけでは行かれなかったため、夏休みや祝祭日には銀座、新宿、浅草等に連れて行ってくれた。中でも、浅草観音様の東京踊りを隣のお姉さんと一諸に見物に行き仲見世やデパートで食事をしたことや、当時新宿淀橋にいた祖父母の所に行き、一日近所を遊びまわり疲れ果て帰りの省線電車で居眠りし、尚がお土産の菓子を窓の隙間に落とし拾うのに大騒ぎだった事が忘れられない。
僕の父方の祖父母は「熊次郎」「のぶ」と言い、祖父は大阪府出身の慶応4年生まれである。当時の砲兵工廠に勤めていた官吏だったそうで、日露戦争時のロシアからの戦利品の大砲を茨城県の香取神宮に据付、その功績により国より勲六等瑞宝章と相州伊勢大穣源綱広の銘がある一尺四寸の日本刀を頂いた。終戦後据付けた大砲は徹去され、日本刀も戦後進駐軍に届けるのが面倒と、父が会社の修理工場で半分に切ってしまった。この刀を切るとき工場の方が、鍛冶道具では歯が立たず、グラインダーで漸く切ったと話してくれた。祖父は、僕の知っている限りでは、鼻下に髭を蓄えた威厳のある人だった。祖母は生粋の江戸っ子で日本橋生まれ。家は商家で、父兄は「森田洋服店」と「カニヤ製菓」という製菓会社を営んでいたそうだ。また、琴・三味線等を嗜んだ人でもあった。
祖父母は退職後年金生活で、都内を数箇所転居した後、僕が十三歳頃小学校の近くに引越してきた。其の頃祖父は80歳に近く視力が衰えていたので、好きな読書や新聞を読むのも大儀だったようで、僕ら兄弟が学校が終ってから交代で家に寄り、一時間程新聞を読んであげた。時々僕等には理解出来ない記事や判らない文字を適当に読んでしまうと、聞いていないようでしっかりと聞いていて、「その読み方は間違っている。其の文章はおかしい」と指摘され大いに反省もしたが、一方難しい地名等を覚える勉強になった。
昭和15年に小学校を卒業し、父の勧めで府立墨田工業学校に入学した。この時の身体検査で軽度難聴と診断され、とても入学するのは無理だろうと僕も両親も諦めていたが、幸い合格通知がきて皆で大喜びした。学校は当時の江東区深川にあり、小名木川沿いの鉄筋コンクリート造りの四階建ての校舎だった。機械、電気、建築の3クラス、1クラス40名で一学年120名、全校生600人の学校である。
中学生になって、授業毎に教室や先生が変り最初は戸惑ったが、すぐに馴れ友達も出来学校生活を大いに楽しんだ。ただ授業以外では先生より上級生の方が怖かった。下級生に校風を厳しく教えるとの名目で、校門入り口に守衛さんがいるにもかかわらず、週番と称し登下校時に2人で立ち、敬礼の仕方が悪いとか、カバンの位置が下過ぎるとか文句をつけた。とくに体の大きな者や、生意気に見えるものは目の仇にされ、暴力を振るわれたような事もあった。その他にも、朝礼とか運動会の時は、先輩風を吹かし下級生を虐めるのを先輩の特権であるかのように振舞う最上級生が何人かいて嫌だったが、他の学校の友達に聞いてみると大体同じようなことだったので当時の中学校の風習のようだった。
学級担任の先生は、材料力学の吉原鉄男先生といったが、2年生の時先生達の研修で茨城県の日立製作所に行った際、会社内での事故で一命をおとした。其の後任の先生は陸軍中尉の若い方で石井彦次と云い、やはり力学の先生で5年の卒業まで担任でいた。此の先生は支那事変の発端であるノモンハン事件の時、軍人として此の事件に関ったそうで、除隊後此の戦記を発刊し我々も買わされた。
先生はまた、人の心理を掴み皆を纏めるのが上手く、戦争が激しくなり学校の地下に防空濠を造った際、全校生を体育授業時に交互に動員して一週間で完成させた。3年生の時、当時は全て配給制で成長期の我々は常に空腹感をもっていたが、先生の号令で皆で食材少しずつを持ち寄り、学校で芋煮会をしようと言うことになった。中には家で農業をしていて色々な野菜を山ほど持ってきたり、家業が食堂であったり、鮮魚、食肉店の人もいて多少融通がきいたようで、当時としては大層豪華な食事会が出来た思い出がある。
僕が中学生になった時、尚は都立化学工業学校に入学した。学校は僕の学校と同じ深川区で約4km程離れていたが、通学の方向が同じだったので同級生によく間違われて困ったことが度々あった。変電所社宅からの通学は、都電の停留所まで約4kmあり、入学時は重い剣道具をもって行くのは可也きつかったが、幸い洋一兄さんが途中まで一緒だった ので大助かりした。
昭和16年12月8日は大東亜戦争の始まった日だ。2年2学期の期末試験最中だったが、朝6時のラジオ放送で、「大本営陸・海軍部発表。帝国陸・海軍は西太平洋に於いて、米英と戦闘状態に入れり」と発表があり、其の後矢継ぎ早に「真珠湾攻撃、英国戦艦2隻の撃沈」の報道があり、何がなんだか判からず矢鱈に興奮し学校行くと、皆も同じ気持ち で試験どころではなかった。
中学2年の時、父が日本発送電株式会社の本社に転勤になり、変電所の社宅を引き払い、祖父母と同じ家に同居することになった。1戸建だが間数が少なく、大人4人、子供4人で窮屈な生活だった。其の頃母は関節リューマチに罹り、手足の関節がはれ、天候が悪く湿気の多い日は痛痒くて苦しそうだった。父も医者だ薬だお灸だと色々試したが効果がなく、皆で手伝うようにしたが、仕事や学校で十分な事は出来なかった。
其の頃から食料事情が一段と悪くなり、配給物では足りなくなって、闇物資を買はなくては生きて行くことが覚束なくなった。世間中が目の色を変えて農家や漁師のところへ行って、金銭や物々交換で食料を調達した時代だ。吾家ではもっぱら僕と尚が買出しの役目で、千葉県の農家を訪ねて一日歩きまわり、いやな思いや苦しい思いをして食料を手にいれた。家に帰る途中駅や道路で取り締まりに出くわし、やっとのことで逃げ通し家に帰ったこともあった。此の頃一人の裁判官が職務柄闇物資を一切買わず、配給物資だけで生活していて栄養失調になり死亡したとの新聞記事があり、暗い世の中になっていった。
昭和18年に洋一兄さんは中学校を卒業し、父と進学相談の上、東京高等商船学校に入学した。学校は東京築地にあったので3カ月に一度位に帰ってきたが、其の都度逞しくなり、海軍士官のような服装が良く似合っていた。戦争は益々激しくなり泥沼化して、適齢期の男性は大部分兵隊にとられ、軍需工場の人手が足りなくなって、吾々中学上級生と若い女性に国から勤労動員の命令が出た。僕等の学校は校内に実習工場があったので、4年生の後半はそこでお茶を濁していたが、5年生になると佃島にある石川島造船に行き船を造ることになった。そのため5年生になってからは時々学校に集合して先生と懇談をするくらいで、勉強らしきことは殆どしなかった。それでも、その後4年生にも動員命令が来たということを聞き、吾々は4年間でも学校生活を楽しむことが出来たことは幸せだったと思う。
石川島造船所では國學院大學2年生の方達と同じ職場だった。僕等は実習で多少機械の扱いに馴れていたので、知ったかぶりをして教えてやったが、皆さん良い人で、休憩時間になると故郷の九州や東北地方の珍しい風習とか食べ物の話をしたり、高等学校時代の生活、惚気話等をしてくれて、あまり年の違わない吾々を弟のように良く面倒をみてくれた。又工場には韓国(当時は朝鮮)の若い人達が大勢連れてこられ働いていたが、大変煙草が好きで配給だけでは足りず、当時僕等にも家族用と称して特配された食料や煙草のような嗜好品中の煙草と、彼等の食券を交換してお互いに満足感を味わった。
昭和20年3月10日に東京下町が殆ど焼け野原となるB29による空襲があった。数十万の人が焼出され,ぼろぼろの服装で煤だらけの顔をして、おそらく知人を頼って千葉方面に向って小松川橋をゾロゾロ渡って行くのが見えた。幸い我が家は近くに焼夷弾が落ちたが無事だった。翌日未だ煙が立ち込め、焼け焦げた臭いと熱気の残る焼け野原を、徒歩で3時間かけて学校・工場へと急いだ。途中一面の焼け野原の中に、立像のままで手に消火ホースの筒先を持つ消防士と思われる赤く焼け爛れた人や、防火用水槽と思われるコンクリート製の箱の中から、子供を背負った人が片足を箱の縁に掛け必死に逃げようとしている姿があった。そこ辺り一帯に焼死体が転がっていて普段ではとても正視にたえない状況だが、人間は不思議と強い者で、悲惨な事態に馴れてしまうとそれを乗り越えなければならないとの気持ちになるようだ。其の証拠には、若い女学生がすぐ脇の高架鉄道の斜面に4,5人腰をおろし笑い乍らお弁当を頬張っているのを見て、俺だけではないと納得した。其の日は学校へ行ったが誰一人居らず、工場の方も休業状態であったのでそのまま家に帰った。
3月末が卒業予定だったが、この様な訳で卒業式も出来ず、ガリ版刷りの卒業証明書をもらい、各人ばらばらに学校を去っていった。後日複興した学校で改めて卒業式が行われ、フジテレビで放映された。
昭和18年に、祖父母は広島在住の秀寿叔父さんから、「東京は住みにくいだろうから安全な広島へ転居したら」との話があり、疎開を奨励していたこともあって、広島市地御前に引越していった。祖父熊次郎は昭和19年12月、80歳でこの世を去り、祖母ノブは広島に原爆が落とされた日に広島市に居たそうだが、幸い難を逃れ数年後生涯をとじた。
洋一兄さんは、卒業が繰り上がり、昭和20年4月に海軍兵曹長の肩書きで、神戸市の武庫汽船株式会社に二等航海士として就職した。尚は葛飾区にある江戸川化学工業株式会社に就職し、妹の玲子は学童疎開での集団疎開を断り、縁故疎開で沼津の母の実家に行った。
僕は卒業時にはすでに千葉県千葉市蘇我にある、日立航空機製作所に就職が決定していたので、友人4人と親元を離れ会社の独身寮に入居した。間もなく両親も東京を去り、栃木県塩谷郡藤原町鬼怒川の日本発送電株式会社鬼怒川電力所に転勤し、妹の玲子を呼び戻し3人で社宅住まいをした。
日立航空機製作所には原動機部と機体部が有り、僕は原動機部の第3生産課に配属になった。豊田課長以下8人の課で、天風と云う航空機のエンジンの部品の製造、管理の仕事だった。しかし入社して間もなく米国の艦上戦闘機の空襲で工場の一部が破壊され、怪我人も出たため工場を海岸から山の方に移転することになり、その後は連日引越に追われ仕事等やる時間は無く毎日を過ごしていった。7月末に引越が終ったころは、日本は負け戦が続き、本土決戦になるとの声が高まり、何時兵隊にとられるかも知れないので奉公袋の準備をしておけ等と云われ面食らっていた。寮生活は軍需工場と云うことで、配給物資があったせいか食事の方は一般市民生活より多少良かったようであったが、入寮後一ヶ月位たつた頃黄疸になってしまった。2,3日寝込だが、寮母さんが蜆が病気に良いといって何処からか調達し食べさせてくれ、間もなく回復して感謝の気持ちで一杯だった。後に休日に尚の所へ行った時、話の中で黄疸の話題になった。その時、同じような時期に尚も黄疸に罹った聞いて、双子の兄弟の宿命のようなものを感じた。
8月6日に広島9日に長崎に、米軍により新型爆弾(後に原子爆弾と言われた)が投下されたとの発表があった。いよいよ本土決戦かと思われた8月15日、正午に重大発表があるから広場に集合するように伝達があった。急いで行ってみると大勢の人が集まっていて、ラジオが音量を一杯に上げ何か放送していた。やがて正午になると天皇陛下の放 送が始まった。最初はなんのことか良く判らなかったが、やがて連合軍に負け全面降伏し戦争は終ったと理解した。しかし、中にはこれから本土決戦だとも言う人もいてテンヤワンヤの大騒ぎだった。
戦争に負けたことが国民にはっきりと知らされ、旬日を経ずして会社の方針が決まり、大半の人が退職することとなった。我々新入社員は五十円の退職金を支給され辞めていった。9月初め、僕も荷物を纏め会社を去り、2,3日尚のところへ寄り、焼け跡に出来た闇市をぶらつき両親の居る鬼怒川へ帰った。
昭和20年9月、両親の居る日本発送電株式会社の社宅に帰った。社宅は総数50戸程で大変古く、其の中の1棟5戸の長屋の一つが我が家だった。玄関も窓も硝子戸ではなく障子戸で、経年のため建付けが悪く、吹雪の時は隙間から家の中へ雪が入り込むようなしまつ。いくら暖房しても寒さが身に沁みるほどだった。当時は食料、燃料等全て配給制だが、量が少ないので、生活するには不足分を自分で調達しなければ生きてゆけなかった時代であった。両親共丈夫でなかった我が家では、どうしても自分がやる以外に致し方がなかったのと、戦後の混乱で世の中が乱れていて就職先の目当ても無かったので、暫くは両親の手助けをして家にいようと決めた。
社宅の周辺の社有地を各人が適当に分割して開墾し畑を耕していたが、我々疎開者(6所帯ほどいた)は社宅から離れた場所とか山の急斜面のような処で、人一倍苦労の多い土地だった。加えて僕には何の知識も無く、見よう見真似で夢中で開墾し野菜を作った。最初はろくな物が育たなかったり、虫に食べられたりして止めようかと思ったが、翌年には満足出来る物も多少採れて、収穫の喜びを味わえるようになった。
一番苦労したのは、家の排泄物を肥料にするため一斗缶に汲み天秤棒で肩に担ぎ、急な山道を登って施肥をする事だった。また若い時分だったので、同じくらいの年の者が大勢遊んでいる昼日中に格好悪い姿を見せるのが嫌で、早朝か暗くなる頃仕事をした。又、主食の調達は月に2回位の割合で、矢板方面、県南方面に買出しに行った。腹立たしい思いや、悔しい思いをしてやっと米や麦・芋を手に入れかと思ったら、帰宅の途中に警察の取り締まりに会い、夢中で逃げ回りやっとの思いで家に帰ったこともあった。
燃料は薪が主で、山に入って倒木材を担ぎ出し、家に帰って切・割りして賄ったが、幸い暖房は職業上2kw位自由に使えたので助かった。此の地方では冬に備え野菜を貯蔵する習慣で、我が家でも庭先に穴を掘り、大根、人参、牛蒡、葱等を埋け、又沢庵漬け・白菜漬けを大量に作った。
終戦後1年程過ぎ、世の中も少し落ち着き食料事情も安定してきたので、そろそろ自分の将来考えようと色々手をまわした。しかし、たまたま東京都内転入禁止の条例が出て、東京に帰ることが出来なくなってどうしようと思っていたところ、父から人手不足で会社で人を採用する話が出た。自分のためにも家のためにも一番良いと考え、新卒工業学校生数名と一緒に就職試験を受け、昭和22年4月より日本発送電株式会社鬼怒川電力所に勤務することになった。
思えば一年半の間、家族のためとはいえこれで良いのかとの思いで過ごしてきたが、二つの希望が同時に叶えられ家中で大喜びだった。丁度構内の桜も満開に近く、これほど美しい桜を見たのは初めてのような気がした。
僕の就職も決まり、父の負担が軽くなったせいか、健康状態が少しずつ悪くなり、昭和23年始め頃より昔患った肺結核になり会社を休むようになった。多くの医者にかかったが病状は思わしくなく、今ならばストレプトマイシンのような良い薬が容易に手に入るが、当時はそれも叶わず6月14日にこの世を去った。父の葬儀には沼津から松次郎叔父が来てくれて、色々面倒を見てくれ大変助かった。
その後暫くたって藤原町役場より兄洋一の戦死公報と遺骨が届けられた。同じ頃兄の勤務先だった武庫汽船から手紙が届いた。兄と同じ船に乗っていて先日帰国した同僚の方の話として、次のことが記されていた。
「下村洋一さんは私と同じ輸送船で、8月上旬朝鮮の羅南港に入港する際、船が機雷に触れ沈没し、其の時2等航海士としてブリッジにいたため重傷を負い、羅南陸軍病院に収容されたが、その後ソビエト連邦の参戦により羅津の病院に転送されたが、その後のことは、私も敵国に収容されてしまったので誠に申し訳ないが不明です」との手紙が同封されていた。両親も僕達兄弟も、或いはとの少しの希望を持っていたが、やはり大変なショックを受けた。20歳の若さで、人生の楽しみや喜びを十分に味わうことなく、同年代の若者が大勢この世を去ったとはいえ無念だったことと思う。
昭和26年、妹の玲子が高校を卒業し、建設省の川治ダム工事事務所に就職して社会人の一員となり、又母の病状も大分良くなり安定した生活を送れる様になった。10月になってそれまで色々噂があつた会社の店所合伴が実現し、日本発送電株式会社と関東配電株式会社が一緒になり東京電力株式会社と名称を変更し発足した。之に伴い日発鬼怒川電力所と、関配栃木支店が一つになり、28年10月より宇都宮の栃木支店を改修して新しくなった建物に移った。鬼怒川から宇都宮までは専用バスで通勤することになった。
新しい職場で、初対面の人達と、若さにものをいわせ我武者羅に仕事をしてきた。当時支店内の発電所の数は二十三箇所。2人1組み6人で分担し、改修・点検・補修の計画・実施を担当し、大変忙しい毎日だった。又当時は会社に自動車が少なく、発電所に行くのにも一般の交通機関を使わなければならなかったので、日帰り出張が無理な所が多く旅館に泊まることが多かった。暫くすると仕事にも馴れ、他課の人達との交流もでき、高度成長の波に乗り、サラリーマンとして最も善き時代を過ごしてきた。
昭和29年12月4日、縁あって今市市朝日町の麹製造販売業金子倉一郎四女、正子さんと結婚式を挙げ夫婦となった。新婚旅行は、湯河原・下田蓮台寺方面で、人生第二の出発をした。翌30年11月24日に長女敦子が誕生し我が家は一遍に賑やかになった。昭和33年2月12日に次女牧子が生まれ、我が家は五人家族の大所帯になった。子供達は幸い大きな病気にはかからず元気に育ってくれた。
此の頃から、会社は宇都宮市宿郷町の社有地に社宅を建て、鬼怒川からの通勤者を抽選で入居させたが、籤運が悪く入居することが出来ずに相変わらず通勤バスで通っていた。其のうち社宅が入居者に払い下げられたので、自分で借家を見つけなくてはならなくなったが、幸いと云おうか同じ発変電課の戸門さんと云う方が変電所に転勤になって家族で引越することになり、其の家を借りることが出来た。
昭和35年にそこに引越し宇都宮の住人になった。近所の10所帯の方は皆顔馴染みの間柄だった。幼い子供が少なかったので二人の子供は皆さんに可愛がられ、おそらく生涯忘れることのできない土地だろうと思う。
転居後妹の玲子は建設省を退職し花嫁修業をしていたが、縁あって宇都宮給電所に勤務している、鹿沼市鳥居跡の納豆製造販売業青柳さんの長男謙一さんと結婚し、新しい家庭を持った。子供達の成長は早く、敦子は峰幼稚園の2年保育クラスに入り、毎日関東バスで通うのが楽しく、また幼稚園での遊びや給食時の出来事等を嬉しそうに話し、家中を賑やかにした。2年後今泉小学校に入学し、同時に牧子がやはり峰幼稚園の2年保育クラスに入った。二人共近所の音楽の先生にピアノを習わせていたので、多少他の子供より樂器を扱うのが上手だったのか、音楽隊のリーダーをやらされた。牧子は責任感からかよくお腹が痛くなり、可哀想で休園させようかと思ったが、間もなく収まり楽しく通園した。
其の頃青柳家でも長男光広が生まれ、宿郷町の社有地にできた給電所の社宅に引越してこられた。我が家との距離は数十メートル。母や子供達は両家を年中行き来し、楽しく暮らした。
昭和38年春頃、同じ場所からバスで通勤していた宇都宮給電所長の堀川さんとたまたま乗り合わせた時、堀川さんが「私も近く定年なるので宇都宮に家を建てようと思っているが、丁度市で江曽島に造成した土地を分譲する話を聞いたので一緒にどうですか」との話しを聞いた。家に帰って家族と相談の結果、戸門さんに借りている家も何時明け渡すことになるかもしれないので、この際無理をしてでも家を建てることにした。
市役所に於いて分譲抽選会が行われた。会場に入りきれないほどの人が集まり、第一回の抽選では16番の区画を申し込み、十数人の希望者でくじ引きをしたが見事に外れてしまった。が、幸い誰も申し込みの無かった22番区画で、第一回で外れた人の内希望者二十数人で第2回のくじ引きをし、普段くじに弱い僕が見事に当たり権利を獲得。家に帰り妻と母に報告し幸運を喜びあった。家を建てるには色々条件があり、建物は38年度中に建てること、住宅公社から20年返済で60万円を借りること、建物の構造、建坪は決められた内から選ぶこと、建築業者は市で指定した業者で行うこと等があったが全てを了承し申し込みをした。
市役所への申し込みは妻と二人で出向き、18坪の規格を選び、希望の壁の色、襖の模様、ガス、水道、照明等の位置を指定し申し込みを完了した。子供の頃から社宅、借家住まいで自分の家を持つのは初めてだったので嬉しくてたまらず、家族中で毎日此の話題で大騒ぎだった。家の完成まで約8ヶ月程だった。丁度其の期間、仕事に必要なため、自動車の運転免許をとるようにと会社から言われた。そこで、社費で新居近くの陽南の自動車教習所へ土・日曜に通い、時間の許す限り建築現場に顔を出しては進行状況を家族に伝えたものだった。
昭和39年3月25日に家が完成、宇都宮市緑二丁目二十七の六の現在地に引越した。引越にあたっては、突然のことだったので、ご近所の方がびっくりしたり羨ましがったりして大変だったようだが、後日我が家に遊びに来られ、落ち着いた良い所と喜んで帰られた。
転居に伴う二人の子の転入学先は、小学校の学区の横川小学校であったが、通学路が淋しく遠いので、なんとか通学に安全な陽南小学校に行けるよう、妻達が同年代の子供を持つ方々と結足して横川支所に陳情し、変更が認められ陽南小学校に入学した。妻達は平成22年の今でも此の方々とグループを作って交際している。
引越してきた頃、此の辺りは未だ雑木林に囲まれた100戸位の集落で、交通機関は東武鉄道江曾島駅か関東バス江曾島出張所で、徒歩で1キロメートル強歩かなくてはならず、年配者や子供には不便だった。其の上航空自衛隊滑走路が近く飛行機の爆音に悩まされたが、数年後には航空隊は九州の方面に変り、バスも団地内まで来るようになり便利で静かな所になった。
引越当時は物珍しく、子供を連れて、近くの里山や大谷石材運搬軌道跡等を「探検」と称して歩き回り、大声で歌ったりして遊んだことが思い出される。子供達は又小学校の行き帰りに野いちごや草花・昆虫等を採り楽しかったと、今でも時々話題に出るほどだ。ご近所の方々は教育熱心でPTA活動が盛んだった。僕もその一員として運動会の仮装行列に参加したり、妻は授業参観や行事に積極的に参加した。そのせいではないだろうが、二人共学業成績は良く宇都宮大学付属中学校、宇都宮女子高校に入学した。
其の頃は母の病状も大分良くなり、多少手足が不自由だが市民生活には不便は無く、東京葛飾金町の社宅(勤務先江戸川化学工業株式会社-後に三菱ガス化学となる-)に結婚して住んでいた弟尚の所へ行ったり、彼岸ごとに雑司ガ谷の先祖のお墓に参ったりしていた。またその頃佐野市に居た青柳玲子の家に出かけたりして、母にとっては老齢期になって一番幸せな時代だったのではなかろうか。
二人の子も高校生になり、母も一人で留守居していても十分な体になったので、妻は家計の助けと専業主婦では世の中の風潮に乗り遅れるとの気持ちでパートの仕事につくようになり、近所の方々と同様に通勤するようになった。
高校卒業後敦子は東京のデザイン専門学校に入学し、卒業後六本木にあるデザイン広告会社に入社し社会人となった。昭和53年3月17日に、敦子は宇都宮市下川俣出身で東京で建築デザインの仕事をしている古滝裕司君と知り合い、宇都宮で結婚式を挙げ東京で所帯をもち共稼ぎの生活に入った。
牧子は宇都宮大学を卒業し、栃木県の小学教諭になり宇都宮市立宮の原小学校に赴任し自宅から通勤をはじめた。敦子は昭和58年に裕司と共に宇都宮の両親の元に帰り、家を建て直し建築、グラフィックデザインの事務所を開き自営業となった。
二人の子も社会人になり、自宅も建築後大分たち、お仕着せの間取りで自分たちの好みに合わず、使い勝手も良くなかったこともあって、思い切って建て直すことになった。基本的設計を子供達と打ち合わせ、裕司の手で図面を作成し、2階建て40坪の現在の家を昭和55年に建てた。
昭和56年2月15日に牧子は宇都宮大学の先輩で安田生命保険会社宇都宮支社に勤め る益子町出身の鯉渕 司君と結婚し家を去り二人の生活を始めた。
昭和60年1月に僕は、27年間勤めた東京電力で定年を迎えることになった。昭和22年入社時の、こんなに桜の花が綺麗な見事なものだったのかとの思いで、敗戦後の苦しく情けない気持ちを払切った日を思い出した。退職の翌日から引続き関連会社の東京電設サービス株式会社に勤めることになり、東京新橋の本社で辞令をもらい宇都宮支社に配属された。新しい会社とはいえ仕事の内容は変わりなく、殆どが昔の先輩や仲間で、気兼ねなく楽しく仕事ができそうなので安心した思いがある。
定年の記念に妻と二人で、信州、山梨方面へマイカーで旅行に行き旅の面白さを知った。その後、東北6県を1日400キロメートルくらいの行程で走ったり、旅行社のツアーで北海道・四国・九州・沖縄を始め、日本全国を旅行して歩いた。
昭和63年5月28日、母そよが86歳でこの世を去った。中年で関節リューマチを患い、手足の関節が痛く不自由な体で中学生だった子供達の面倒を見、舅姑に仕え家庭を切り回しながら、一言も苦情を言わなかった当時の母の姿を思い浮かべると、子供の頃にもう少し親孝行をしてあげておけば良かったと思っている。幼い頃、母が仕事をしながら、故郷の静浦小学校の校歌や、開成中学校ボート部生徒の遭難の歌を口ずさんでいて、知らぬ間に僕も覚えてしまった。若くして夫と長男に先立たれたが、晩年は夫の退職金と、長男の遺族年金で経済的にも余裕が出来、子供や孫の所を回り歩き、何回も大きな病を患ったが持ち前の強い意思と頑健な体で持ち直し、最後は新築の家の自分の部屋で生涯を終えたことは幸せなことであったと思う。
子供達も別居し母も亡くなり一周忌も過ぎ、夫婦だけののんびりした生活に入った。幸い経済的にも余裕ができたので、それまで僕は中学時代の友人と、妻は趣味の会の人達と夫々別に海外旅行をしていたが、この辺で夫婦で旅行することに決め、旅行社に申し込みドイツのロマンチック街道1週間の旅に出た。此の旅行を手始めに夫婦で年4回位の割合で海外旅行に出掛けた。行った先の国は合計30カ国程で、最後に娘達と一緒にハワイに行った際、長い飛行機の旅は体力的に無理と感じ海外旅行を終了した。娘たちとはイタリア、ハワイ、韓国に行った。ツアーに入らず自分達の計画した予定で知らない土地を探索するのもまた別の楽しみがあった。
平成8年1月、第二の職場である電設サービスを退職し、毎日が日曜の年金生活に入った。退職後暫くは、好きな時に好きなことをしていられる生活も良かったが、次第に飽きて来た頃6月になり、栃木県シルバー大学の入学募集があった。申し込んだところ入学が許可され、9月2日から2年間通学することになった。学校は、入学後半年間は戸祭の県立美術館隣の建物だったが、平成9年4月より駒生の健康の森に新しく出来た県医療関係の施設の一部にシルバー大学中央校が併設され、そこに移った。生徒数は200人余りで、木曜コース、金曜コースに分かれ週1日の授業。午前は主に高齢者の介護・ボランテア活動を主とする講義と実施で、多くの先生方の話を聞いたり養護施設などを訪問した。午後は予め申し込んでいた各人でやりたい趣味を教えてくれる時間だ。僕は陶芸を申し込んでいたので、粘土を捏ねることや、ロクロまわし、紐造り、色付け等を教わった。その他クラブ活動で囲碁クラブに入り多くの友人を得て2年間を楽しく過ごした。卒業後も陶芸OB会を作り、今でも月2回の割合で教室に行き楽しんでいる。又囲碁も東電OBで作っているクラブに所属し、月2回の割りで楽しんでいる。
私達夫婦も結婚56年を過ぎ、幸せな老後を過ごしている。全ての身内に幸あれ。
平成22年12月22日現在 終わり
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