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人との距離~二・五人称の視点



 しかしそれでは治療できないので、積極的に医師と患者(あるいはカウンセラーとクライエント)が対面して話をする流派もある。問題は時に関係が近くなりすぎることがあるということである。映画の中でも言葉が使われていた転移、あるいは逆転移が起こり得る。河合隼雄の本を読むと、クライエントがカウンセラーに「好きです」と告白することがあるというようなことが書いてあって驚いた。あるいは相談にきた人と同じ症状がカウンセラーに出たりするというのだ。これはあまりに近づきすぎだと思う

 他方、距離が遠すぎるのも問題である。パッチ・アダムズは医師と患者を対等の関係と見ている。アダムズが、患者に名前を呼んで話しかける場面があった。回診の際、カルテを見ながら、教授が症状についての説明しても、患者は気難しい顔をしていた。しかもこの先悪くなるだろうという話ばかりなので不安な表情でもあった。アダムズが、この患者の名前はと問うた時、症状については詳細に説明できるというのに、誰もすぐにはその問いに答えることができなかった。パッチは患者に名前をたずねた。Hi, Jane! その名を呼んで挨拶するだけで患者の態度が変わった。それくらいには近づいていなければ治療もカウンセリングもできない。

 近づきすぎて関係がうまくいってないカップルがあるとすれば、だからといって0(ゼロ)にするのではなく、一度少し距離を置いてみることを僕は提案することがある。「これからどうするの?」というような話は必須ではあるが、時に話がこの種のことについてのテーマになると一方、乃至、両方が感情的になるのである。そんな時は、深入りしないほうがいいようである。一度少し距離を置いて(だから別れるということではない)二人の間にあった熱を冷ますのは悪くない、と僕は思っている。

 柳田邦男のいう「二・五人称の視点」という考えはおもしろい。

「二人称は、肉親や恋人同志のように「あなた」と呼び合える関係のこと。専門家が被害者や病人や弱者に対し、その家族の身になって心を寄り添わせるなら、何をなすべきかについて見えてくるものがあるはずだ。しかし、完全に二人称の立場になってしまったのでは、冷静で客観的・合理的な判断をできなくなるおそれがある。そこで二人称の立場に寄り添いつつも、専門家としての客観的な視点も失わないように努める。それが、潤いのある「二・五人称の視点」なのだ」(『言葉の力、生きる力』新潮社、p.214)

 僕は「寄り添う」という言い方はしないだろうが、たしかにあまり近すぎるとかえって見失うこともあるだろうし、かといって、人ではなく「病気」を見るというのも間違っている。母が入院していた時、「意識があることはあるみたいね」という看護婦の言い方も、「(挿管で)歯が二、三本折れたけど退院したら、治してやって」という言い方も抵抗があった。看護婦は母の人格を認めているようには思えなかった。一命を取り留めたのだから歯の一本や二本なんていうことないだろう、と母があたかも物質であるような扱いをされているように思えた。歯が折れるということは大変なことだと思うが意識がないのだから苦痛などあるはずはないということなのか、と無神経な言い方にあきれてしまった。

 母が入院していた時ある看護婦は、「昨日夢を見ました。ベッドにすわってられる夢です」と話しかけてこられた。ただの仕事だったら夢を見たりすることはないだろうと思った。

 柳田が、家族や友人が見舞いに持ってくる花の名前を言い当てる看護婦の話を書いている。柳田は友人の見舞いに行った時の経験を書いているのだが、後にその友人が亡くなってから用事があって病院を訪れたところ、その看護婦に会った。

「あなたは花が好きなんですね」
そう言うと、彼女は恥ずかしそうにして、「図鑑を見たりして、一生懸命に覚えてるんです」
「どうして?」
「患者さんはお見舞いの花を見て、心を慰めているでしょう。自分も花に愛情を持って話題にすれば、患者さんの辛い心に少しでも寄り添えるのではないかなって思うんです」
(p.138)

 母が入院していた時、三人称としてしか見られない看護婦ばかりだったら僕が入院していたといっても過言ではないほどの長い病院での生活は苦痛でしかなかったと思うが、ベッドサイドで何もできないまますわり母の緩慢な死を看取ることしかできなかった僕にとって、母に関心を持って接した看護婦たちのことをなつかしく感謝の念と共に思い出す。



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