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突然ですが、下記の場所にブログを移転しました。ご迷惑をおかけします。 新しいブログでお待ちしています。 京都だより http://kishimi.cocolog-nifty.com/
2008年08月30日
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今日は受診。血液の凝固度を測るための採血をする。そのため予約時間より早く行ったが、今日はあまり待つことなく早い時間に番が回ってきた。経過は順調で、気にかかっていた冠動脈造影検査のための入院についてたずねたが、なお一年は必要ないという答えが返ってきてありがたかった。 鷺草を初めて見た。名前通りで鷺が飛んでいるように見える。
2008年08月29日
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息子からよる電話。電話を切る前に、あの本を読んだという。あの本というのは、新刊の『アドラーに学ぶ―生きる勇気とは何か』のことである。「死んだ弟の話なんか、聞いたことがない。それにおばあさんの話も」。僕には生まれてすぐ亡くなった弟がいる。弟のことも祖母のことも息子に話したことはなかった。当然のことながら、息子が知らない話は多い。 今日は昼間仕事にならなかった。
2008年08月28日
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今日は疲れてしまった。夕方から仕事再開。朝、いつもの池にいくと、蓮の葉がたくさん折られていた。都会でチューリップの花が切られたら、ニュースになるだろうに。折られた茎に花火がさしこまれていたのも何日か前に見たことがある。 夜、歩いている時に思った。元気になってくるにつれて、欲が深まってきている、と。何時間でも仕事を続けられる(原稿を書き続けられる)強靱が体力がほしいと思ってしまう。今週は金曜日に病院に行くことになっている。今回は採血をする。 蓮の中をのぞいてみた。蓮の奥に盛夏に咲いていた蓮の花が見えた気がした。知っている人は少ないだろうが、子どもの頃、テレビドラマに出てきたタイムトンネルのことを思い出した。
2008年08月27日
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今朝ははっきりしない天気だったので傘を持って出かけた。傘があると写真を撮るのには不便なのだが、急に雨に降られ、カメラを濡らすわけにはいかない。コスモスを撮るには風が強く、向日葵はもうほとんどが頭を垂れていた。ずいぶん長くピントを合わせては、シャッターを切らないということを繰り返していた時、目の前にこの鳥が現れた。モズではないかと思ったが、違うかもしれない。セッカならスズメだし…鳥の名前をまったく知らない。望遠レンズもないので諦めていたが、思いがけず、こんなふうに撮れて嬉しく、一日心が晴れやかになった。向日葵の種をねらって鳥が集まるのなら、しばらく通おうかと思った。蝶や蜻蛉と違って、近づいて撮ることができないので、難しいと思った。 アドラーの翻訳の続き。「誰かが植木鉢をちょっとした振動でも通行人の頭に落ちるような窓際に置くことと、それを通行人に投げつけるというのでは同じではない。しかし、不注意な人による行動様式には、しばしば犯罪者と同じ敵意が根底にありうるということを見誤ってはいけない」とアドラーが書いているので驚いて、どういうことなのだろう、とあれこれ考えながら訳していると、なかなか進まなかった。とてもゴールまでたどり着けないと今回も思っていたが、ゴールが少し見えてきた。マラソンのように、強い精神力がいる。もちろん、精神主義で訳せるはずもないわけだが。
2008年08月26日
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今日は涼しかったので、仕事が進んだ。朝、早く目が覚めてしまい、夜が明けるまで原稿を書いたり、翻訳をしたりして過ごしてから出かける。 もう長く毎日アドラーの講義を受けている気がしている。翻訳者がこんなことをいってはいけないのかもしれないが、すぐにはアドラーの意図がわからないことはあって、考え込んでしまう。同じ時代に生きて、質問ができたらよかったのに、といつも思う。 セセリチョウは時速60キロで飛ぶといわれている。目にも止まらぬ速さで飛び回り、時折、こうして花に止まったところを撮った。シャッター速度はかなり速いのになお脚が少しぶれている。花の名前は調べてみたがわからなかった。
2008年08月25日
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息子が帰ってしまって家の中が静かになってしまった。夕食後、デザートの果物の皿が4つ並んでいて驚く。もう息子は帰って、いないのに。「時間の流れが違うのだ」と息子はいっていた。東京の方が速いということである。こちらでゆっくりできたのならいいのだが。 新しく本を出版すると、売れ行きがどうしても気になる。amazonにいつまでたってもきちんと登録されないので(ページがあるのだが、名前とリンクされない)何度もアクセスしてしまう。 写真は家の近くの川で撮った。子どもの頃、何も見えなくなるまで釣りをした。今はアユモドキを保護するためにここで釣りをすることは禁じられているようだが、アユモドキが釣りのために減ったとは考えられない。
2008年08月24日
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しばらく帰省していた息子がもうすぐ帰る。今回は、ゆっくりできたようでよかった。ドイツ語の辞書や他の本などを持って帰るようにいう。 『アドラーに学ぶ―生きる勇気とは何か』が刊行された。息子が夕方読み始めた。僕は、どんな感想をいわれるかと思うと針のむしろにすわっているような思いだった。「アドラーは、人間の悩みはすべて対人関係の悩みであるという。本書においては、対人関係のみならず、生の直下にあって生きる勇気を失わせかねない老い、病気、死にいかに対処するかを考察する」(本のカバー裏コピーから) 向日葵の写真を最近たくさん載せたが、蓮も元気に咲いている。 蓮の葉に雨がかかった時の様子を動画におさめた。目にもとまらぬ速さで既にある雨滴までジャンプする様子がわかるかもしれない。リンクはこちら。
2008年08月23日
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昨日の夜は、ソフトボールの観戦。娘が高校には行ってからしばらくソフトボール部に入っていて、休みの日も練習や試合に出かけていたことを思い出してしまった。結局、一度もユニフォーム姿を見ることはなかったのだが(ちょうど僕が病気で倒れた年だった)。心臓移植をした西山選手。バイパス手術で心臓を止めるだけでも、不安だったことを思う。 朝、気温が低く、長い時間歩いた。写真も撮ったが、考え事をしてばかり。机に向かっている時よりも、考えが浮かぶ。 写真は、昨日の夕方に撮った。今、向日葵園になっている隣がもうすぐコスモス園になるが、既に咲き始めている。
2008年08月22日
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2008年8月21日木曜日 今日は一日クーラーを使わないで過ごすことができた。夏の暑さはつらいが、秋風が吹き始めると、それはそれで寂しい気がする。 To Do リストが少しも減らない。フル稼働で働いている。もっとも病気前ほどの(コンピュータでいえば)メモリーの容量がない。一度に手がける(起動する、か)仕事を制限する必要がある。 夕方になると、出かけたくなって仕方ない。向日葵は早くも多くが頭を垂れている。この写真は昨日の夕方に撮ったもので、下を向いた大きな向日葵の萼(に見えるところ)に雨水が溜まっていた。そこからしたたり落ちる雨水を撮りたかったがうまくいかなかった。その代わり、そこに写っている向日葵を撮ってみた。
2008年08月21日
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3時頃強い雨が降る。危うく、洗濯物をぬらすところだった。ちょうど歩いているときに雨に降られたと娘が服を濡らして帰ってきた。雨上がりに写真を撮りに行くのは楽しい。踏切を渡るとき、ふと異界に入ったような気になる。
2008年08月20日
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午前中、息子と話し込む。楽しい時はすぐに経ってしまう。 昼から人に会う用事があって、時間まで喫茶店で仕事をしていた。僕の他に数人客がいたが、ほどなく皆帰り、バイトの人も帰ってしまった。閉店の時間にしては早いがひょっとして、と少し不安になりかけた時に、マスターが分厚い本を手に客席にすわって、一心不乱に読み出されるので驚く。僕の今の生活では、朝目が覚めたら、すぐに本を読み、訳し、原稿を書き、夜寝るまで本から離れることのない生活であり、その中で気をつけないと本を読む喜びを忘れてしまいそうになる。空いた時間に本を読むこの人の姿に心を動かされた。 夕日がきれいだったので回り道をして向日葵園に立ち寄ってから帰った。
2008年08月19日
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まだ暑いが秋の気配がする。コスモスが向日葵に混じって咲いていた。
2008年08月18日
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朝、久しぶりに涼しく感じられ、クーラーを消し窓を開けて仕事。その後、向日葵の写真を撮りに行く。もちろん、暑いけれども、昨日までの暑さとは違う。向日葵の横にコスモスが咲いていた。 福井重数さんの写真展に行く。長年にわたって撮られた野鳥の写真には強く心を動かされた。写真展は明日まで(ガレリアかめおか、17時まで)、必見。福井さんのホームページ、from-kameokaでも写真を見ることができる。うんと遠くから望遠レンズで撮ってられるのかと思ってたずねたら、10メートルくらいの距離で撮られると聞き、驚く。 「それ以上離れると、鳥の息づかいが感じられなくなります」 そう語る福井さんの笑顔がミユビシギの表情と重なった。
2008年08月17日
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息子が帰ってきて、かつていつもそうであったように過ごし始めると、家の中のいろいろなことが変わってくる。昨夜は息子は遅くまで起きていて、娘もめずらしく遅くまで友人と電話で話していた。そんな気配を感じながら横になったら、本を手にする間もなく眠ってしまったようだ。 今日も早く起きて写真を撮りに行くつもりだったが、疲れてしまったのか、8時ぐらいまで寝てしまった。 何日か前せっかく早く起きたのに空はどんよりと曇っていて、今にも雨が降り出しそうだったが出かけたところ、近くの池まで行って少し写真を撮り始めたところで中断を余儀なくされた。その時、蓮の葉に注意が向いた。最初は見てないが、いくつかの雨滴が葉の上にあって、雨が葉にかかると、雨は小さな球になって、既にある雨滴に飛んで行くのだ。転がっていくというのではなく、まさに飛んで行く。そうしていくつかある雨滴は大きくなっていった。その様子を飽くことなく眺めていたが、後で思えば、動画で記録することもできたわけである。 この写真はアメンボ。コメントをくれた人には水面を歩くイエスに喩えた人もあった。
2008年08月16日
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新刊(21日刊行)『アドラーに学ぶ―生きる勇気とは何か』(アルテ)の見本刷が届く。心筋梗塞で倒れてからの二年の間に考えたことを集約した本といえる。老い、病気、死の問題を正面から扱った。10月からの近大姫路大学看護学部での講義(生命倫理)の教科書でもある。 帰省中の息子に本を渡すと(その前に前回帰省以後に出版した訳書も渡した)どうしてこんなことができるのだと驚く。ずっと家にいるから、仕事するしかないではないか、と答える。 写真は、昨日の続き。Flickrでは、そして子どもたちが大きくなると、という題をつける。時代が新しくなったので、セピアではなくカラーにした。
2008年08月15日
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帰省中の息子も一緒に墓参り。歩いても15分くらいで行けるところにお寺がある。昨日、お経を上げにこられた住職の息子さんに挨拶する。小さい頃から知っているので、成長に驚く。 昨日、逆光に照らされた向日葵を撮るために夕方出かけた。写真のこの家族を見ていると、小さな時のことを思い出した。何かと口実を作って一緒に出かけるのを避けていた気もするが、小さな頃はそんなことはなかったかもしれない。
2008年08月14日
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朝、息子が帰ってきた。しばらく滞在する予定。何気ない話をしているのに、ふいに議論が始まる。 お盆なのに休みなく仕事。常は昼間ダイニングを占拠して仕事をするのだが、しばらく自分の部屋にこもらなければならない。 夜中に何度か目が覚めたので、流星が見えないかと外に出たが、薄い雲が空一面に広がっていた。流星群といっても、降るように見えるわけではなく、また花火のような華々しさもないが、これまでの経験では、流れ星を見てしまったという思いがじわじわと胸の中で広がっていく。 早朝に田んぼの畦道を歩く。既に暑い日になる予感はあるものの、稲についている滴を見ると、心が澄む思いがする。
2008年08月13日
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今日も朝早く起きて向日葵を見に行く。ヒメアカタテハが向日葵に停まった写真を撮ることができて、今日は一日気分がよかった。考えることがたくさんあって原稿はあまり進まなかったのだが。 新しい書き下ろしは21日に発売決定。『アドラーに学ぶ―生きる勇気とは何か』(アルテ)。乞うご期待。
2008年08月12日
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今日は体調がよくて、力がみなぎっている気がした。遅くまで原稿を書いていたのだが。 駅の近くに向日葵が咲いている。何日前電車から見た時は、まだあまり咲いているように見えなかった。それでも、一輪でも二輪でも咲いていたら写真を撮れるだろうと思って、蓮を見てから、向日葵畑まで足をのばしたら、思いがけずたくさん咲いていた。 小田実の本に書いてあった話を思い出した。リンドバーグの時代、アメリカから大西洋を越えて飛んできた飛行機が畑のど真ん中に不時着した。飛行家はやってきた人をつかまえて、ここはどこだ、とたずねた。フランスとかベルギーという答えを予期していたが、その農民は空から降ってきた飛行家に動じることなくいった。「ここはジャンの畑だ」
2008年08月11日
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小田実の『世直しの倫理と論理』(岩波新書)を読み始める。冒頭、「気楽に読んで下さい」と書いてあった。病院のベッドで寝そべりながら、気楽に書いたから。「しかめつらしく、まるで世の中の苦悩を一身に背負い込んだようなこわい顔で読まないで下さい」「そのまえに、おなかのなかに何かを入れておいたほうがよい。私の考えでは、空き腹で本を読むと、衛生にわるい」 どうも、僕はいつも「こわい」顔で原稿を書いているようだ。それでは、おなかをふくらせて、横になって読もう。 でも、今日は原稿を快調に書いているので、寝てしまうと惜しい。 朝、近くの植物園へ。今はあまり花は咲いていないが、夏水仙、桧扇(昨日載せた)などきれいな花もある。暑くて、植物園の中にある水道(井戸水?)の栓をひねって顔を洗う。 『アドラー心理学入門』の中で井戸水のことを書いたが、この頃、顔を洗う時、しばらく水を出したら冷たくなるような気がすることがある。水道水だからそんなことはないのだが。冷たい井戸水が懐かしい。
2008年08月10日
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今日はヴァイツゼッカーの研究会。まだ病み上がりで(ヘルペスを病気といっていいのかわからないが、まだ抗ウィルス薬を服薬している)、疲れやすく、集中力を維持するのが難しい。ただ暑かっただけかもしれないのだが(ただ、というにはあまりに暑かった)。 来週、息子が帰ってくる。二週間ほどいられるようで、その間、勉強するために、本だけ先に宅急便で届いた。 写真は桧扇。去年初めて見た。今年も見られて嬉しい。
2008年08月09日
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明日までに読まないといけない本があって読もうとしているのだが、テレビがオリンピックの開会式を伝えていて、見てしまう。四年前のアテネの時は、まだ元気だ他、などとあれこれ思い出す。東京オリンピックの時には、授業時間に学校の体育館に据えられたテレビで競技を見た。あれからいろいろなことがあった。僕も家族も世界も。よくなったのだろうか。 今日も蓮の葉にのっている雨滴の写真。
2008年08月08日
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試験の採点の締切が8日なので今日中に成績を返送しなければならなかった。ぎりぎりまで迷っていたが、無事遅れてよかった。 今夜は家の近くの河川敷で花火大会。微熱があってどうしようか迷っていたが、歩けばすぐだからと思って出かけた。もっとも常は見ることがない多くの人出があって、倍くらいの時間がかかった。日が落ちたのに猛暑。疲れた。娘は高校3年生だったが、僕が3年生の時、花火を見ないで勉強していたことを思い出した。見たとしても一時間くらいですむというのに。花火の振動で家が揺れ、勉強には少しも集中できなかった。 写真は朝撮ったもの。よければ大きくして見てほしい(クリック→大きくして見る。日が照り始めて、雨滴が蒸発しようとする瞬間なのか。よくわからない。水滴同士が繋がろうとしているようにも見える。
2008年08月07日
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どうしようかと迷ったが、受診した。若い先生は懐疑的だったが、前回も最初はこんなふうだったといい、強くこれは(単純)ヘルペスだと主張したら、バルトレックス(抗ヘルペス剤)を処方してもらえた。これは恐ろしく高い薬だが、仕方ない。もう症状が出ているので手遅れかもしれないが、早く飲み始めたので、前回や、去年の手術後のようなことにはならないだろう(前回は、様子を見ようということになって、その間に症状が悪化した)。アトピーと相まってひどいことになって、外出するのも億劫になったほどである。「ぴりぴりしますか」「しません。痛みはないのです。でも、いつも気になります」「違和感があるのですね」(厳密にいうと、僕が感じているのは、「違和感」ではない。症状がない時に、調和感があるわけではなく、皮膚に意識が向かないというだけである。今は、ただ「存在感」がある)。自分の感覚を信じようと思った。 それにしても、強いストレスがかかるほど仕事をしたとは思えないのに、困ったものだ。
2008年08月06日
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またヘルペスになったかもしれない。一度、なると何度も発症するらしい。どんな時になるのですか、と過日受診した時、たずねたら、紫外線に当たった時、ストレスがかかった時ということだった。外に出ないわけにもいかないし、ストレスがかからない仕事などありえない。ストレスが3つ同時にかかったら、心筋梗塞になるといわれたこともあった。 蜻蛉とにらめっこした。母親しかかわいいと思えない顔というコメントを書いた人もあったが(あんまりだ)、接写すると、思ってもいなかった細部が見られ驚く。レンズが複眼にくっつくのではないかと思うくらい近づいた。
2008年08月05日
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今日も暑くてまだ一歩も外に出ていない。父と電話で長く話す。昨日読み始めた『パイドン』の刺激が強く、書きあぐねていた原稿が先に進みそうな予感。長いのも短いのもあるが、いくつかの原稿のファイルを常に開いていて、並行して書き進めている。本を何冊か同時に読むよりは難しい。 ファインダーをのぞいてあれこれ迷っていてはいけない、ぱっと撮るべきだと書いている写真家がいて、それもたしかにそうかとも思ったが、例えば、花の写真を撮る時には、じっくりと観察する必要がある、と昨日、蓮の絵を描いている男性を見ていて思った。蜻蛉や蝶であれば、とにもかくにも撮影できたらよしということもあるのだが。
2008年08月04日
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日曜は読書会。プラトンの『パイドン』を読み始めた。この会では日本語訳で読んでいるが、初めてギリシア語で読み通したのは、1980年の2月1日であることが、最後のページにある書き込みでわかった。そんなに前のことでもないのに記憶がいくらかあやしくなってきている。この年の4月に大学院に入った。そして秋に母が脳梗塞で倒れ得、翌年の1月に亡くなった。 会に備えて、何日も前からあれこれと本を読み、準備をする。学生の頃とは違った読み方をしていることに気づく。そうでなければこの間何をして生きてきたのかということになる。 朝、蓮を見に行く。一人の若い男性が蓮の前に立つと、鞄からカメラではなく、スケッチ帳を取り出して、写生を始めた。 池の中の魚は、この季節、蓮が咲くということを、どんなふうに受け止めているのだろう、と思った。
2008年08月03日
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最近、たまたま書店で見かけて『最後の授業』(ランダムハウス講談社)という本を読んだが、著者のランディ・パウシュ氏が先週亡くなったというニュースを聞き、驚く。インターネット上で見られるはずだが、講義のDVDがついていて、時間ができたら見るつもりだったのに忙しくて封も切ってなかった。本を読んだのでもはや知らない人ではなかった。当然、人を知る程度は様々だが、何らかの形で別れることがあれば、人は小さく死ぬのだ。 毎朝、憑かれたように蓮の写真を撮りに出かけている。
2008年08月02日
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今日は長い時間仕事をしていたからか、夜、外を歩いていたら、よく見えなくて驚いた。 読書会に備えてプラトンの『パイドン』の最初のところを読んでいた。魂は不死だと熱く語るソクラテスの言葉を読んでいたら、2004年の2月に亡くなった藤澤令夫先生のことがしきりに思い出された。今の僕はたとえ魂が不死ではないほうに賭けている。 朝、蓮を見に行くと、この写真のように蜜蜂が忙しそうに飛び回っている。この写真は小さくてわかりにくいが、オレンジ色の花粉袋が重そうに見える。
2008年08月01日
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シラバスを作り、大学に送る。受け取ったという連絡はないが、きっとそういうものなのだろう。まだずいぶん先のことだと思っていたが、あと二ヶ月で講義が始まる。 その後、心理学の採点の続き。今日は10人の答案を読む。8日が成績提出の締切なので昨日は(7月だから?)まだ余裕があると思っていたが、8月になった今日は、突然、もうあまり日がないことに思い当たる。再試験が必要にならないことを願うばかりである。 すぐ近くに蓮が咲いていたので接写してみた。いつもと違うカメラを使ったからなのか、この時の光の差し方によるのか(おそらく後者)白い蓮なのにピンクといっていいくらいである。以前、撮ったのとは雰囲気が違う。実際には当然前の花とは違うのだが、同じ花でも違う時に見たらもはや同じではない。人についても同じことがいえるだろう…
2008年07月31日
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ぎりぎりにならないとできないことがあって今日締切に間に合わせることができるように頑張った。大学に提出する文書(シラバス)はWordで作成することになっている。書式はすべて決まっていてそのまま印刷するようだが、常はこのプログラムを使っていないのでとまどうこと頻り。 蓮の葉に花びらが一枚落ちていた。雨滴の横で生き延びようとしているように見えたが、水の方こそ、この花びらから生命力をもらっているのかもしれないと思った。 花が開く時の衣擦れのような音のことは前に書いたが、雨上がりの朝は、葉にこんなふうに雨水がたまっていて、それが何かの拍子に池の中に落ちる時の音が好きだ。一度、その瞬間をカメラでとらえたいと思うのだが。
2008年07月30日
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久しぶりに少し涼しく感じられる朝だった。雨なので部屋の中に洗濯物を干したが、昼から外に出した。一つ用事があって出かける。またすぐに暑い日が戻ると思って思い切って出かけたが、出かける頃には日が差し始めていて、用事を終えて帰って時には熱が出て、心拍数も多く、油断してしまったと後悔することになった。 仕事にムラがあって、よくない。ことにはじめからゴールが見えている翻訳の仕事が辛い。後何ページあるか数えてみたり、一日何ページずつ訳したら何日で完成するというようなことばかり一日中何度もしている気がする。アドラーの著作をずっと訳しているが、昨日書いた「叩き読み」をするから時間がかかるというのは、本当である。
2008年07月29日
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昼過ぎ、急に雨が降り出し、急いで洗濯物を取り込んだ後からひどく疲れてしまって、昏々と眠ってしまった。眠ることで英気を養うというのもどうかと思うが、しばらくまた頑張れそうだ。 10月から始める生命倫理の講義についてなおいくらか迷いがあったが、さきにしょうかいしたむのたけじが、自著の『戦争絶滅や、人間へ』は学習テキストとして役に立つのではないか、といっていることが参考になった。むのは「叩き読み」という言葉を使う。 「あなたの生活のマナイタに本書、すなわちむのたけじを載せて、包丁の背で存分に叩いてもらいたい。こういう叩き読みで読めば、生きるという同士に値する生活力が鍛えられ、高められるのではないか。私はいくら強く叩かれても、痛くなんかない。いっそう嬉しくなるにきまっています」 すらすら読まずに、著者はAという判断をしたが、自分だったらBという判断をする。この判断の違いはどこからくるかなどなど、要所要所で立ち止まる読み方はいつも必要である。 目の前に蜻蛉が止まった。
2008年07月28日
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鶴見和子氏が、「人は必ず死ぬ。逃げることはできない。ならば受け止めよう」と語っていたという話を25日に引いたが、脳梗塞でリハビリ中の多田富雄氏が、鶴見氏の死について次のようなことを書いてられたことを思い合わせると、痛ましい思いがする。 診療報酬制度が改定され、リハビリ医療が発症から180日に制限された。鶴見氏は、脳出血で左半身麻痺になり、十年以上、リハビリを続けてきたが、それまで月に二回受けてきたリハビリをまず一回に制限され、その後は打ち切りになると宣言された。間もなく、ベッドから起き上がれなくなり、前からあった大腸癌が悪化し、亡くなられたというのである。「直接の原因は癌であっても、リハビリ制限が死を早めたことは間違いない」と多田氏は、鶴見氏の短歌と発言を引いている。 政人(まつりびと)いざ事問わん老人(おいびと)われ 生きぬく道のありやなしやと「これは費用を倹約することが目的ではなくて、老人は早く死ね、というのが主目標なのではないだろうか。(中略)この老人医療改訂は、老人に対する死刑宣告のようなものだと私は考えている」 10月からの生命倫理の講義に備えて勉強していると、医療資源という言葉をたびたび目にする。必要な人すべてに必要な治療をすることができないとすれば、誰を優先するかを考えなければならないという。恐ろしい話である。 リハビリという言葉は、母が脳梗塞で入院して初めて聞いたかもしれない。後に僕が心筋梗塞で入院した時、心臓リハビリという言葉があることを知った。絶対安静の状態から少しずつ身体を動かし、歩けるようになると、ある日は廊下を50メートル、次の日は100メートルというふうに徐々に距離を伸ばしていくわけである。心筋の一部が壊死しているので、自分の判断で長く歩いたりしてはいけない。脳梗塞のリハビリとはまた違うともいえるが、リハビリの効果がないと判断されたら打ち切られるということがどういうことかは、この時の経験で想像がつく。 6月21日の日記の中で、メタボ検診のことについて書いた。通知は受け取ったもののまだ行っていない。同封されていたパンフレットに次のように書かれていることをその際紹介した。「特定検診・特定保健指導Q&A」Q 私は腹囲が100cmほどで、「メタボ」ですが、保健指導を受けることができますか?A 特定保健指導は、腹囲・肥満度のほかに、血液検査を加味して対象者を選びます。 しかし、特定保健指導を実施するには多額の費用がかかるため、医療保険者の判断で優先順位をもうけてよいとされています。よりリスクが高い人や、指導の効果が出やすい人など一定の基準を設けて、優先すべき人に特定保健指導の利用券をお送りします。(引用終わり) ここにもはっきりと「優先順位」という言葉が使われている。よりリスクが高い人には指導するが、「指導効果が出やすい人」でなければ、保健指導をしないという意味ではないか。インターネットを調べていたら、医師や保健師、管理栄養士などから食事や運動など生活習慣の改善を促す指導が行われ、5年後に成果を判定し結果がなければ、財政的なペナルティ(罰金)を医療保険者に課すということが書いてあった。その一方で、上述のリハビリはさっさと半年で打ち切られてしまう。 殺伐とした世の中である。比喩ではなく。
2008年07月27日
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人は誰でも死ぬのだから、「ならば受け止めよう」というのは間違ってないが、何の罪もない人が暴漢に刺されて殺されることや、誤爆(爆撃に誤爆も正爆もないだろうに)によって殺された人や家族はその死を受け止めることができるだろうか。 この問いについて論じた『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(H.S.クシュナー、岩波現代文庫)という本のことは前に書いたが、昨夜は同じ著者による"When all you've ever wanted isn't enough -- The search for a life means"(A Fireside Book)という本を読んでいた。 その後、むのたけじの『戦争絶滅へ、人間復活へ―九三歳・ジャーナリストの発言』(岩波新書)を読み始めたら、止められなくなって最後まで読んでしまった。これはインタビューをまとめたものである(聞き手、黒岩比佐子)。名前は当然知っていたのに、これまで一度も、むのの本を読んだことがなかった。 「私はこれまで生きてきて、九十三歳のいまが一番頭がいいと思っています」 「死ぬるとき、そこが人生のてっぺん」
2008年07月26日
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朝、4時に書斎の電話が鳴る。いつのころからかどこから電話がかかってきたのか確かめられずになっていてそのままにしているので誰からの電話かわからない。親しい人なら携帯の方にかけてくるだろうから、かけ間違いとは思ってみても、この季節でもまだ夜が明けていない時間の電話は不安にさせるに十分である。遠くからベルが鳴っていても、身体は動かなかった。結局、その後、眠れず、今日も早朝に蓮を見に行く。最高気温は36度とか37度という天気予報を見ても、あまり驚かなくなっている。昼間は外に出なかった。 『鶴見和子病床日誌』という本のことが朝日新聞の夕刊に紹介してあった。著者は妹の内山章子さん。 「人は必ず死ぬ。逃げることはできない。ならば受け止めよう―それが姉の思想だった」 鶴見俊輔との会話。 「『死ぬっておもしろいねえ。こんなの初めて』と姉がいい、兄は『そう、人生とは驚くべきものだ』ですって。2人で大笑いしてるの」
2008年07月25日
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暑い日が続く。よく眠れず、早朝、蓮の花を見に行く。他にもたくさんの人が見にきている人があって、挨拶をしたり、話をする。 学校から試験の答案が届く。力作答案を読むのを楽しみにしている。何度か読み直すのですぐに点数をつけられない。 答案を届けにきた人が「暑中見舞いのはがきいりませんか?」といわれたがすぐに意味がわからなかった。郵便を配った時に葉書を売ることになっているのだろう。即座に断る。 新聞代を取りにきた人があった。いつもと違う人だった。「すいません、お休みのところ…」。「休み」ではなかったのだが、僕が休んでいるように見えたのか、その人の思い込みが強いのか、考えてしまった。
2008年07月24日
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近刊の『アドラーを読む―生きる勇気とは何か』のカバー写真が届いた。本になればどんなふうになるか想像する。 10月から生命倫理の講義をすることは前に書いたが、シラバスを提出する締切が近づいている。何を講義するかはもちろん決められるのだが、学生には一度も会っていないので、いったい、どんなことにどの程度の関心があるのかわからないのである。生命倫理といってもテーマは広汎で僕が話したいことを話せばよさそうなものだが、なかなかそう簡単には割り切れない。100人もの学生に講義をするというのも何年ぶりだろう。 今夜は娘の友達が泊まりにきている。「ただいま」と挨拶してくれるのはうれしい。夕食の時、あれこれ話をしたが、緊張してしまう。 明日、心理学の答案が届くはず。
2008年07月23日
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なんとか午前中に仕事を仕上げることができた。締切に追われている気がする。仕事は大抵均一に入ってこず、集中することが多い。さしあたって、試験の採点と評価、10月から始める大学での講義のシラバスを作らないといけない。 以前住んでいた家の冷蔵庫が故障してしまったので、新しいものに買い換えた。週に一度、義父と義母が泊まりにくるのと、月に一度の読書会の時に必要なくらいなので、一人用の小さいのにした。後でちゃんと配達されたかという電話が電気店からあった時、テレビを買った時のトラブルを思い出した。テレビを買い換えた時、僕の住んでいるところにはデジタル放送の電波はまだ届いてないが、配達にきた人の4月になれば見られるようになるという話をそのまま受け取ってしまっていた。その後、忙しい日々が続き、時々、リモコンでデジタルというボタンを押しても写らなかったので遅れているのだろうか、と思っていたが、もう見ている友達がいると娘がいうので、始めてチャンネルの設定をする必要があることに思い当たった。マニュアルを見ればできるのだろうが、それなら購入時に説明するべきではないか、と思った。設定きてもらうことにしたが、100パーセント映るとは限らないという。どういうことかと尋ねたら、マンションなので大丈夫だと思うが、アンテナの調整などが必要な場合もあるという。一戸建ての家ならデジタル放送を視聴するためにはチューナーもしくは専用のテレビ以外に、アンテナも買わないといけないのか。別にデジタル放送でなくてもいいと思うのだが、無意味な出費を強いられるということか。ともあれ、不手際は必ず後でわかるだろうに、その場しのぎをすることが理解できない。 エルンスト・ハートの写真に池澤夏樹がエッセイを書いている本を読んだ(『きみが住む星』角川文庫)。写真はこんなふうに撮ってみたいと思うのが何枚かあったが、写真にあわせた池澤の書簡体の文章にはいささか無理があるように思った。
2008年07月22日
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暑い日。今朝も朝早く、蓮を見に行く。急ぎの仕事があったのと、考え事をしていたら、よく眠れなかった。朝焼けの空を久しぶりに見た。あちらこちらに水たまりがあった。夜の間に雨が降ったようだ。蓮の葉にたまった水が流れ出し、池の中に落ちる音が聞こえてきた。
2008年07月21日
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今日は早起きして、蓮の花を見に行った。早いといっても5時半くらいだったのだが。夜の間、固く閉じていた花が開き始めた。花は一気に咲くのではない。少しずつ時間をかけて花びらを広げていく。じっと目をこらして見ていると、たしかに変化を見て取ることができ、花びらが落ちるのも見ることができた。花が開く時、衣擦れのような音がする。 暑い日が続く。ずっとコンピュータに向かっているのに、少しも仕事ははかどらない。
2008年07月20日
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病院に行って検査結果はよかったのに、なかなか緊張が解けず、いつまでも眠れなかった。朝、出かけるのが遅くなってしまって、蓮が咲いている池までいって、何枚か写真を撮ったら、身体が熱くなった。今日は昨日よりもさらにたくさんの蓮が咲いていた。近くにあったので、今日はマクロで撮ってみた。
2008年07月19日
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今日は病院へ。心電図とCTも。肺癌の疑いも晴れ、心電図も変わりはない(元には戻らないけれど)。胸部の断層撮影写真を見せてもらう。画面を操作すると、梗塞した冠動脈をバルーンでふくらませ、その後に留置してあるステント(メッシュ状の筒)や、手術の時に切り開いた胸骨を止めてあるワイヤもきれいに写っていて少し感動。サイボーグにどんどんなっていく。 僕はこの病院に二度入ったので知っているのだが、待合室の一角はその日入院する人や家族が待ってられる。不安な気持ちで待っていたら、やがて病棟の看護師さんが迎えにこられ、部屋に案内してもらった。個室だったので、着替えなどを鞄から出したりして待っていたが、一人で待つ時間は心細かった。 検査結果は問題なく、安堵。またいつか検査入院をすることになるだろうが、まだしばらくは猶予してもらえたら、と思った。まだしばらく猶予を求めたい。 蓮が咲き出した。池の中の蓮を撮るのは僕のカメラでは難しい。近くに咲いている蓮はすぐに折られてしまう。
2008年07月18日
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暑いのと、考え事をしていたのでよく眠れなかった。梅雨が明けたということなので、容赦なく暑い日が続く。鬼百合が咲いているかもしれないと思って、去年撮ったところへ行くと、咲いていた。年々歳々花相似というが、場所が少し移っていたりする。ただ記憶の誤りかもしれないのだが。 明日は受診。CTと心電図。前回は咳がひどくて検査を受けることになったが、幸い、その後、咳は出なくなった。
2008年07月17日
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夜、遅くまで試験作り。出題者(僕のことだが)の意図が浮き彫りになるような問題にしたつもりだが(つまり、講義の中で問題になったあれとこれがここでは問題になっていることがわかるということ)、ところどころ講義を聴いた学生にはむずかしいかもしれない。ともあれ、知識を問う試験ではないこと、僕の考えとは違ってもそのことを理由に減点したりしないことは、講義中に学生に約束した。 スーパーのレジで順番を待っている時も本を読みたくなると講義中に話したらあきれられたが、最近、活字中毒の症状がひどい。何十冊も並行して本を読んでいる。よく思うのは、たとえ死んでからあの世があったとしても(ないほうに賭けているが)、本が読めなければ辛いだろう。
2008年07月16日
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今日は聖カタリナ高校での最終講義。評価しないといけないので試験をすることになっているが、講義中にも何度か話したように、どこまで今回の話が理解されたか、適切に教えられたかを知ることが試験の目的なので、学生側も点数がかんばしくないと残念だろうが、教師の方はそれよりも気持ちが沈んでしまう。健闘を祈っている。夜、近所を歩いていたら、問題を思いついた。来週も月曜の夜は、明日は講義だ、と思うのだろう。
2008年07月15日
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今日の最終講義の準備中。いつも最後の日はこれからどうやって生きていくのだろう、と思う。試験がなければいいのだが(たぶん、お互いに)そういうわけにはいかないので、考え中。
2008年07月14日
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久しぶりに息子から電話があった。お盆には帰ってくる。 『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(H.S.クシュナー、岩波現代文庫)読了。考えなければならないことは多々ある。この世の不幸については、こういうわけで起こったという理由がわかればあきらめられるかもしれないが、大抵の説明は納得できない。同じ著者の他の本も注文した。ゆっくり考えてみたい。 とにかく暑い。夜、歩いても少しも涼しくはなかった。 とてもできないと思いこんでいたことでも一度なしとげるともはや不可能なことではなくなる。
2008年07月13日
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今日はヴァイツゼッカーの研究会だった。94回目。僕は参加し始めて2年になる。病気にならなかったら、この会のことを知ることはなかっただろう。ふとしたきっかけで人生が大きく変わることがある。大きく変わるかどうかなどはその時には少しもわからないのだが。 『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(H.S.クシュナー、岩波現代文庫)を昨日から読んでいる。自分のことについては、こんなふうに思ったことはないが、何の罪もない人がたまたまその場に居合わせたことで、暴漢に刺されるというようなことがどうして起こるのか…この世に悪が存在することと神の善にして全能なることとは両立しないのではないかという問いに、クシュナーは、神は悪の原因ではなく、神は善だが、全能ではない、と考える。たまたま手にした本だが、大きな影響を受けそうだ。 この百合を去年も写真に撮った。去年とは少し違う場所に咲いているのを見つけた。去年はもっと大きかったような気もするが、一年前のことなのにあまり記憶ははっきりしない。
2008年07月12日
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