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目標にフォーカスするということ



 アメリカとの政治的な交渉は当然あったのだが、ここでは鶴見がいう「途中で気を変える権利」について注目したい。

「たとえばアフガンに行って、どんどん殺したり、殺されたりやってるうちに考えるよ、そりゃ。そしたらどうなるか。「お前、途中で気を変えるなんてけしからん」というようなことをいう日本の、進歩的な正義感っていうのかな、サムライ的な正義感から少し自由になったほうがいい」(『鶴見俊輔対談集』p.372)

 はじめから全部見とおせというのは無理なのである。一度決めたからといって引き返すことはできないというのは危険この上ない。上のような特殊なケースだけでなく、日常の生活の中でも再決断を必要とするケースはいくらでも起こりうる。

 「転向」は鶴見のキーワードの一つである。

 目標に焦点を当て、目標を見定めていることが重要になってくる。自分が本当になしとげたいことは何なのか。このことがはっきりしていさえすれば、いつでも一つの道に固執することなく、必要があれば撤退して別の道に進むことができる。ただし、その際、それまでにあまりに多くの時間とエネルギー、あるいはお金を費やしていれば、撤退には勇気が要る。

 自分には向いていない、と判断して別の選択ができるということは、自分のより本来的な目標を達成することを容易にする選択ができるということである。

 自分のことをふりかえると、三十代の最初の頃まではこうでなければならない、とかなり目標に固執していた。しかしやがて医院に就職し、やがてまた退職したが、医院に勤める前は、子どもを保育園に送って帰ってからずっと夕方迎えに行くまで翻訳の仕事に取り組むという生活だった。医院の仕事は辞めたが目標に向かっての歩みはいささかも止まっていない。

 退職後一年ほど経ったある日、講演会の依頼が増えたこと、カウンセリングの予約が増えたという話を息子にしたことがある。

「頑張って働かないと君、大学に行けないからね」
というと、
「新聞の配達でもしようか」
と息子はいう。
「いやいやそれはいいんだ、頑張るから」
「でも、そんなふうに仕事が増えたらせっかく暇を作りたいと思って仕事を辞めたのに君だめじゃないか」
なるほど目標を見失ってしまったらこんなことになってしまう、と思った。

 他方、こうして目標にフォーカスすることで自分にとって本当に大切な目標から逸れて目先のことにとらわれるということがないようにしなければならない一方で、目標にフォーカスできているからこそ目先のことにじっくり集中して取り組むことができるともいえる。

 フォーカスすることに問題があるとすれば、近くのものが見えなくなったり、目標の実現のために、その実現に直接役立たないことのすべてを排除しようとすることがある。目標にフォーカスしているのだから、それはもう既定の事実としてしまえば、近くのものがよく見える。無駄なことをしても、まわり道をしてもいいわけである。ただ目的地に着けばいいというわけではない。ずっと眠っていてはつまらない。途中の景色を楽しみたいし、旅の途中のどこかで道草を食うのもすてきである。

 森有正はいっている。

「…しかしあわててはいけない。リールケの言ったように先に無限の時間があると考えて、落ち着いていなければいけない。それだけがよい質の仕事を生み出すからである」(森有正全集十三巻、筑摩書房)。

 八十歳の木彫りの彫刻家の話を聞いたことがある。その人は百年かかっても掘りきれないほどの樹木の材料をストックしているという。

 中世哲学の山田晶は京都大学で行なっているトマス・アクィナスの『神学大全』の演習についてこんなことをいっている。あまり進まないので、この調子でいくと全巻を読了するのに二百年はかかりそうである、と。

「つまり、私たちの代では終わらないということである。しかし私はそれでよいと思っている。何故そんなにあせるのか。学問の面白さは、崖しのない真理の大海のなかに身を投げ入れて、その一滴を味わうところにはじめて生じてくるのではないだろうか」



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