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人を信じること



 僕は人を無邪気に信じるので時に手痛い目にあうことがある。三年前にウィーンに行ったのだが、その前日のことだったからよく覚えている。長く会ってなかったから人からの連絡だったので、なつかしさもあって、時間があったら会いませんか、という誘いに応じることにした。

 最初、「なんか久しぶりですねえ、その後どうですか」となごやかに談笑していたのだが、その人は突然、切り出した。「ところで、私、今度こんな仕事を始めたんだけど」とカタログを持ち出してきたのである。この商品をまず買って、次にそれを他の人にも勧めてその人が買えば、その何割かが手に入る…というような説明を始めたのである。えっ、それってねずみ講ではないか、と僕にはすぐにわかったから、もちろん誘いには乗らなかったのだが…「あ、ちょっと待って。携帯が入った…はい、はい、えっ、偶然。近くにいるよ。よかったからきません? (僕にその人のことを僕に紹介し、同席してもいいかという。僕は、別にかまわなかったので、いいですよ、というと)じゃ、待ってますから」と電話を切り、ほんの数分で僕の知らない人が同席することになった。

 おわかりだと思うが、この道の先輩が一緒になって僕に説得にかかり始めたわけである。僕はほんとうに後からきたその人が偶然電話をかけてきて会うことになったのだと信じてしまった。僕がよく知っている知人の名前を出し、懇意にしているというのでなおさらそうだった。

 幸い(相手にとっては不幸なことに)僕はお金を持ってないので、数十万もするようなものを買えるわけはないので断わったら、もう手のひらを返すように態度が冷たくなった。もうこれ以上話したところで時間の無駄だというわけであろう。早々に話を打ち切って僕たちは別れ、その後二度と会うことはなかった。

 一度こんなことがあると人を不信の目で見ている自分に気がつき、愕然とした。僕の昔習った先生の一人はその点、僕と違って人間ができている、と思った。こんな話をその先生に習ったという人から聞いたことがある。

 その先生は哲学の先生で、ラテン語を教えていた。ある年、学生が例年にくらべて優秀であることに気づいた。どんな問題も間違うことがなかった。実はわけがあって、例年講義で使っている教科書にその年から練習問題の解答集がついたのである。ところが先生だけは知らなかった。先生は毎時間「私は諸君のような優秀な学生に教えることができて光栄である」といった。

 学生にしてみれば解答集を見て答えているのだからまちがわなくて当たり前である。それなのに先生が微塵も学生を疑わなかったので居心地が悪い思いをした。普通はこのような場合教師は学生が何か不正をしているのではないか、と疑うのではないか。

 学生を少しも疑うことのない教師を見て、学生たちは相談して、夏休み明けの最初の講義の日に「実は私たちの教科書には今年から解答集がついています。それを見て答えていました」と打ち明けた。

2.信頼

2-1.課題の分離

 対人関係がよいものであるあるためには、「信頼」しないといけない。ここでいう信頼には二つの面がある。一つは、相手には課題を自分で解決する能力がある、と信じることである。この「課題」という言葉は、次のような意味である。

 あることの結末が最終的に誰にふりかかるか、あるいは、あることの最終的な責任を誰が引き受けなければならないかを考えた時、そのあることが誰の「課題」であるかがわかる。

 簡単な例でいうと、勉強する、しないは誰の課題かといえば、子どもの課題であって親の課題ではない。勉強しないことの責任は子ども自身が引き受けなければならないからである。

 対人関係のトラブルは人の課題にいわば土足で踏みこむ時に起こる。自分で考えがあって他の人とは違う人生を歩んでいる人に、必ずしも悪意ではないにしても、例えば、「結婚しないの?」とか「子どもはまだ?」というような言い方をすると、そんなふうにいわれた人は自分の課題に踏み込まれたと感じる。

 このようなトラブルを回避するために、今起こっている問題は一体誰の課題なのかをはっきりさせなければならない。

 そのようにして、あることが自分の課題ではなくて相手の課題であることが明らかになれば、相手には課題を自分で解決する能力がある、と信じ、原則としては介入してはいけない。そこで、親は当然のように子どもに「勉強しなさい」というが、そのようにいってはいけないし、いえないのである。朝子どもが起きないと親は子どもを起こしてしまうが、朝起きは子どもの課題なので親は起こすことはできない。それにもかかわらず、起こしてしまうのは、子どもたちは私が起こさなければ一人で起きられない、と考えているからである。子どもたちは自分のことが信頼されてない、と思うだろう。
 信頼するとは、子どもに限らず、相手は自分の課題を解決する能力がある、と信じることである。

『ジュラシック・パーク』の著者、また『ER』の原作者として有名なマイクル・クライトンは、ハーバード大学の医学部に進学し医学博士の学位を取るが、医師になることを断念する。そのあたりの経緯については自伝小説『トラヴェルズ―旅、心の軌跡』(ハヤカワ文庫)に詳しい。

 在学中どころか九歳の時からクライトンは作家としての一歩を踏み出している。医学部在学中、父親は学費を払わなかった。そこで原稿料で学校に行くことを決意したことが、作家マイクル・クライトン誕生の決定打になっているのだが、それ以前もジャーナリストであり編集者である父親はクライトンに様々な刺激を与えている。

 十四歳で「ニューヨーク・タイムズ」に旅行記を書いて寄稿し原稿料をもらっている。アリゾナ州にあるサンセット・クレーター・ナショナル・モニュメントを見に行った時、その場所のおもしろさを大半の観光客が知らないのではないか、といったところ、そのことを書けばいいではないか、と「ニューヨーク・タイムズ」に寄稿することを両親が勧めたのである。

「《ニューヨーク・タイムズ》だって? でもぼくはまだ子どもだよ」
「そんなこと誰にもいう必要はないわ」
クライトンは父の顔を見た。
「レンジャー(管理人)事務所でありったけの資料をもらって、職員にインタビューするんだ」
と父はいった。

 そこで、家族の者を暑い日ざしの中で待たせておいて、何を質問しようか考え、職員にインタビューをした。

「まだ十三歳の息子にそれができると両親は考えているらしく、そのことにわたしは勇気づけられた」
とクライトンはいっている。

2-2.相手の言動にはよい意図があると信じること

2-2-1.カレーライス事件

 信頼するということのもう一つの意味は、相手の言動には必ず「よい意図」がある、と信じるということである。

 若い頃母を亡くし、しばらく父と二人で暮らしていたことがあった。いつか外食にも飽き、それまで一度も料理を自分で作ったことがなかった私は料理の本を見ながら料理作りに挑戦し始めた。ある日、カレー粉をいためてルーを作ることを思い立った。フライパンから離れず三時間かけてカレーを作った。やがて帰宅した父は、私が自信を持って作ったカレーを口にしていった。「もう作るなよ」と。私は、もうこんなまずい料理を作るなよという意味だと理解した。こんなことをいう父のためにはもう料理を作るまいとさえ思った。

 ところが、父の言葉は私が理解したような意味ではないということに十年くらい経ったある日気がついた。お前は学生で勉強しないといけないのだから、こんなに時間をかけて料理を「もう作るなよ」という意味だと父の言葉を理解し直したのである。それ以来明らかに私の父の見方は変わったように思う。関係そのものも変わった。

 相手の言動についてはこのように表面的なところにとらわれることなく、よい意図を見ていくよう努めたい。他の人が自分の言動のよい意図を的確にこちらにわかるように示してくれるという保証はないからである。他方、自分の言動については決して誤解されないようにしないといけない。時に長く言葉を尽くして話すことが必要になってくる。

 父をめぐるこのエピソードを妹が私から聞いて父に伝えた。ところが父はまったく覚えていなかった。嫌な思いをした人、傷つけられたと思った人はその出来事をずっと覚えているのに、いった方は忘れているのである。

3.信頼と信用の違い

 相互に信頼していることがよい関係であるために必要なことだが、まず私が先に相手を信頼するのである。

 ここで「信頼」という言葉を使ったが、「信用」と区別して使っている。「信用」は、銀行が担保がないとお金を貸さないように、条件をつけて信じる、あるいは信じる根拠があるから信じることである。信用は根本的には不信の上になりたっているので、一度でも裏切られるとそこですべては終わりである。あなたのことを信じていたのに、といって憤慨する人はそもそも最初から相手を信じていなかった、といっていい。

 それに対して、「信頼」は、信じる根拠がない時ですらあえて信じることをいう。生徒が突然いい成績を取り始めたら普通は何か不正があったのではないか、と疑うだろう。しかし、そこをあえて信じることを信頼というが、先に引いたラテン語の先生はそんなことすら考えてはいなかっただろう。

 私の息子がある時、「千円ちょうだい」といったことがあった。「いいよ」と答えると驚いて「本当にいいの?」とたずねた。「うん」「でも、何に使うかって聞かないの?」「それを聞かれたら困ることだってあるでしょ?」「たしかにそうだ」

 別の時、やはり「千円ちょうだい」といいにきた。その時は私はまだ寝ていたので、背広のポケットの中に財布があるからそこから持っていってくれたらいい、と答えた。ところがしばらくして戻ってきた。「財布の中見たんだけど、千円札が一枚しか入ってなかったんだけど」

 あなたはそんなことをいうけれども、いつもこれまでちゃんとやったことがないではないか、というようなことはいってはいけない。そんな言葉はもう聞き飽きたといってはいけない。たしかにこれまでの実績から判断すると信用できないかもしれないが、その時点において、「する」と相手がいっているのであれば、その言葉を信頼したい。頭から信じないというのでは対人関係をよくすることはむずかしいだろう。たとえ裏切っても裏切っても信じてくれる人がいたら、そのような人を裏切り続けることはできない。

4.こちらの<つもり>と相手の<つもり>

 信頼について書いていてふと思い出したエピソードがあった。この話は 「子どもと生きる」 に書いたことがある。引用すると、

 四年生のある日、いつもは夜更かしする息子が、僕が仕事から帰ってくるのを待たずに寝てしまうという日が何日か続きました。帰りが遅くても必ずといっていいほど、起きて待ってくれていたのにである。

 ちょうどその頃、コンピュータのCD-ROMドライブが不調で、使えなくなりました。そのことを話すと、心配してくれました。ところが、これは故障ではなく、バッテリーの残量との関係で起こることであり、ACアダプターをつなぐと、無事、使えるようになりました。

 そのことがわかった時、突然、息子はコンピュータの上にすわったことを白状しました。すわったことがばれるのではないか、と恐れていたところ(だから、このアクシデントがあってから、僕が帰る前に早く寝なければならなかったわけです)、CD-ROMがおかしいと聞いて、不安が頂点に達し、その後、故障ではなかったことが判明したとき、安堵すると同時に黙っていたことを白状したのでしょう。

 息子が白状したとき、僕は叱ったりはしませんでしたが、この出来事を今になって回想して思うことは、彼が僕のことを恐れている、という事実です。最終的には、彼は確かに白状したわけですが、なぜ最初からいえなかったのでしょう。

(引用終わり)

 こちらが信頼しているつもりでも、そういう「つもり」は必ずしも相手には通用しない。僕のことを息子が恐れているとは思っていなかったので、息子の告白に僕は動揺した。

 さて、話を進めると…

 人は一人では生きていけない。自分にできることは自分でしなければならないが、できないことは人に援助を求めなければならない場面がある。

5.援助について

 アドラーは援助について次のようにいっている。

「私たちがしなければならないのは、もしも本当に援助するのであれば、人に勇気と自信を与え、自分の誤りをよく理解してもらうことである」(『個人心理学講義』)。

 自分で解決しなければならないことは自分の責任で解決しなければならないのである。

 援助する側からすれば、求められないのに援助してはいけないと思う。「何かできることありませんか」とか「できることがあったらいってね」といい、相手が援助を求めてきたことについては、それができることであれば援助したい。しかし、援助を求めてもいないのに、人の課題に手出し口出しすると後に問題が起こることがある。

 小さな子どもが忘れ物をしないように毎日点検する。点検している限り当然忘れ物をすることはない。ところが、ある日、親が点検を怠る。そんな日に限って忘れ物をする。学校から帰ってきた子どもはいう。「今日はお母さんが忘れ物の点検してくれなかったから忘れ物をした」こんな時「課題」という言葉を学んでなくても、忘れ物をしないようにするのは、あなたの課題でしょうというような言い方をしているはずである。

 息子はやがて長じてこんなことをいった。

「僕には僕の生き方がある。親に〔自分の生き方について〕何をいわれないといけないというのか。僕の人生を〔親に〕決めてほしくない。ごちゃごちゃと〔生き方について〕いわれたくない」

 小学生の時息子がある日、隣にすわって時々頑張れといってほしい、といった。頑張れという言い方は多くの場合、プレッシャーになり、そういわれることが勇気をくじくことになる。親は子どもがいい成績を取った時に「次も頑張るのよ」というような言葉をいう。もしも子どもが次回も必ずいい成績を取れるという自信のある子どもであればいいが、たまたま今回いい成績を取ったという子どもは、もしもいい成績を取れなかったら、親は何もいわないで不機嫌になるか、あるいは、叱るということを知っているので、とにもかくにも結果がよければいいと考えてカンニングをするかもしれないし、さもなくば試験を受けないということもありうる。まだ達成できていないことにこんなふうに注目すると勇気づけることにはならないわけである。

 ところが息子はこういった。「僕はお父さんが横にすわって時々『頑張れ』っていってくれたらやる気がでる」。この息子の依頼はむずかしいものではなかったので、どれくらいの頻度で声をかけたらいいかという相談をした上で、息子の隣で仕事をしながら時々「頑張れ」といった。

 こちらが協力を申し出をすることもできないことはない。例えば、最近のあなたの様子を見ているとあまり勉強しているようには見えないのでそのことについて一度話し合いをしたいというふうに申し出ることは可能である。このように本来自分の課題でないことについて協力して課題の解決に向けて尽力する時、このことを「共同の課題にする」という言い方をする。共同の課題にできるということを知ると、何でも共同の課題になると思いこむ人は多いが、先のような場合だと「嫌だね」という言葉が返ってくれば、そこで終わりである。申し出ても断わられたなら引き下がるしかない。「事態はあなたが思っているほど楽観できる状況だとは思わない。でもまたいつでも困ったことがあったら相談してね」というふうに。

 しかし、子どもが勉強していないことが気になる、子どもに勉強してほしいと思うのは親の課題である。子どもを援助する、あるいは子どもに協力するという美名のもとに容易に子どもを支配することになる。「あなたのために」という時、愛情という名に隠された支配かもしれない。あなたのことが心配だというのは、この心配から解放されたいということであったり、そういってあなたを自分の思うままに操りたいと願うことかもしれない。しかし、総じていえば、そんなふうに自分の課題を相手に解決させることはできない。

 また、このように「あなたのために」と考えて相手の課題に干渉すれば、そのことは相手に代わって責任を引き受けることになる。その結果、相手をいよいよ無責任にしてしまう。先に忘れ物について見たとおりである。

 課題を分離することは最終的な目標ではない。むしろ、協力して生きていくということが最終的な目標である。人はすべてのことを自力で達成するわけにはいかないからである。しかし先に見たように人の課題まで担おうとしている現実がある。そこで最初に課題を分離する必要があるわけである。

 人を援助することは、課題の分離が前提である。さもなければ、ただのサービス、あるいは、甘やかしにしかすぎない。



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