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私に与えられた棘

私に与えられた棘

 高校を卒業してまもなく街で中学校の校長先生に会った。先生は、一度遊びにいらっしゃいと僕に声をかけた。今思えば外交辞令で本心からの言葉ではないようにも思うのだが、その時の僕はうれしくてその後ほどなくして先生の家を訪ねた。
 部屋に入るとすぐに中学校を卒業してからのことについてたずねられたので京都市内の学校に通っていること、進学校で勉強が厳しいことなど夢中で話をした。そのうち、お酒と煙草が出された。驚く僕に先生は高校を卒業したのだから、という。あ、でも僕は未成年なのに、と思うまもなく酒が注がれ煙草に火が…
 僕は自分がもはや子どもではないと背伸びをするようなところはあったが、残念ながらこのような経験をすることで大人になったと思うほどシンプルには人間ができてなかった。しかし思えば、この時煙草を吸ったことがきっかけになってしばら煙草を吸うことを習慣にするようになった。ほどなく心臓に痛みを感じるようになり、まだ死ぬわけにはいかないと思った僕は煙草を吸わなくなったのだが。煙草を吸うことがかっこいいことだというようなイメージをテレビなどのコマーシャルが放送するので大人になったことの証として煙草を吸い始める若い人は多いのかもしれない。もしも煙草を吸うことがひどく恥ずかしいことで見つかったらもう生きてはいけないと思うほどはずかしいことだと思われるようになったら誰も吸わなくなるかもしれない。
 お酒の方はウィスキーだった。僕はお酒が飲めないのですぐに赤くなったはずである。
 何を話したかは今となってはほとんど覚えてないのだが、先生の言葉で一つ覚えている言葉がある。僕が小柄なのを見て先生はいった。
「君は商売人には向いてない。君とは違ってもっと身体が大きくがっしりしていなければこの仕事はできない。なんといっても押しが強くなければなければね。でも君はだめだ」
 しかしそれに代わって君にはこんなことができるというふうにいってもらったらこの日僕は先生に会えてよかったと思って気持ちよく先生の家を後にできたのかもしれないが、そんな話にはならなかった。僕は前から父のように会社に勤めることはできないと思っていたから図星を指されてどぎまぎしてしまった。
 この時の話が一つのきっかけになって僕は僕が生きる一つの形がわかったように思う。人生の負け組だと宣告されたような気がした。前からわかっていたのにあらためてはっきりといわれて驚きもしたが、やはりという気もした。
 幼い頃から劣等感があった。自分が劣っているという感じは主観的なものだから、他の人が聞いてもなんだそんなことかといわれるようなことである。実際、友人に相談したら「しょうもない」といわれた。それは大変だ、といわれなくてよかったと今は思うが僕の気持ちをわかってもらえないようにその時感じた。
 中島義道は芥川龍之介の『鼻』を引いて、「(内供は)垂れ下がった鼻が自分に不幸をもたらすとしても、その鼻をもつことしか自分自身でありえないことを自覚したのである」という。この私しか私ではないというのはよくわかる。ただし中島が「内供は、自分の「かたち」を変えて幸福になる(ふりをする)よりも、不幸であって自分自身であることのほうを選んだのである」ということには必ずしも賛成できない。自分自身であることは不幸ではなく、皮相の幸福ではなく、あるいは他の人から幸福と思われることではなく、本当の意味での幸福であると考えるからである。
 ホーソンの『痣』(The Birthmark)という短編がある。学生の頃英文学の演習か何かで読んでから一度も読んでないので間違っているかもしれないが、主人公の科学者が妻の頬にある痣を手術をして取り除こうとするのであるが、「人間の不完全さの唯一の印」である痣が彼女の頬から消えるのと同時に彼女の命そのものも失われるというような話だった。
 痣といい、昨日書いた鼻といい身体的な特徴を書くのはためらわれるが、身体的特徴に限ることはない。自分が短所だと思っているような性格特徴でもいいわけである。それがなければ自分はどれほど幸せだろうと思うようなことである。19世紀のアメリカの小説家であるホーソンの英語はその頃の(きっと今もだと思うが)僕にむずかしかったが、この短編は再読の機会はなかったがずっと印象に残っている。自分の完全さを損なうと思えることがなくなれば人は自分自身でなくなるわけである。
 その後、アドラーの著作を読み、何が与えられているかではなく与えられているものをどう使うかが重要であるという言葉を読み深く納得した。たしかにそのとおりなので癖があってもこの私という道具を他のものに置き換えることはできないということはよくわかった。
 中島義道は、人はすべて傲慢にならないように一つの棘が与えられているという。パウロが、私の身に一つの棘が与えられた、といっているように(「コリント人への手紙」II12:7)。中島はそれは当人がもっとも醜悪と感じる部分であり、自分から切り離したい、それさえなければ幸福が実現するのにと思うまさにその部分である、という(『不幸論』p.202)。それがその人固有の「かたち」を作り、その人の不幸を磨きあげることである。
 中島は続いてキルケゴールを引き、人生の目標は幸福になることではなく、自分自身を選ぶことである、という。自分自身を選ぶことが、自分自身の不幸のかたちを選ぶことにはならないと僕は考えるのだが、自分自身を選ぶことは勇気が必要であるというキルケゴールの言葉を引きながら次のように自分自身についていっていることにはうなずける。
「自分自身とは何か、それがどこかにころがっているわけではない。「そのままのあなたでいいの」という甘いささやきが表すような安易なものでもない。それは、各人が生涯をかけて見いだすものだ。しかも、それはあなたの過去の体験のうちからしか、とりわけあなたが「現におこなったこと」のうちからしか姿を現わさない。とくに、思い出すだけでも脂汗が出るようなこと、こころの歴史から消してしまいたいようなこと、それらを正面から見すえるのでないかぎり、現出しない。(パウロの棘のように)あなたを突き刺すあなた固有の真実を覆い隠すのでないかぎり、見えてこない」(p.204)
 中島がいうようにこういうことを見ないように、考えないようにすることで幸福が成立するのであれば、僕が考えている幸福もそのような安直な幸福でない。しかし、
「だから、あなたは自分自身を手に入れようとするなら、幸福を追求してはならない。あなた固有の不幸を生きつづけなけければならないのである」(ibid.)
という結論には僕は到達しないだろう。不幸に見えるようで実は本当の幸福をこそ人は追求するべきである、と僕ならいいたい。



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