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2008.10.10
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カテゴリ: 思想・理論

 先月のことだが、福岡の小戸公園で男子小学生が殺されるという事件があった。現場はここから自転車で30分ほどで行けるところで、最近はあまり行っていないが、子どもが小さかった頃には何度か遊びに連れて行ったことがある。

 公園といってもなにがあるわけでもない。ただ、海岸の一角の空き地に松などの樹木が茂り、その先端からは小さな砂嘴が海の中に突き出ていて、晴れた日には、目の前に広々とした海とそこに浮かぶ島々が眺められるという、景色のいい場所ではある。

 この事件では、結局、育児に悩み、子供の将来を悲観したという母親が逮捕されたわけだが、福岡地検によって請求された母親の精神鑑定が簡裁により認められ、今後約2ヶ月間の鑑定留置が決まったそうだ (参照) 。そこで、専門医による事件当時の精神状態についての鑑定が行われるということだが、そのような精神鑑定が万能のものではないことは今さら言うまでもないことだろう。

 たとえば、4ヶ月ほど前に死刑が執行された宮崎勤の事件の場合、地検による精神鑑定では 「精神分裂病 (当時の呼称で、現在では統合失調症に改称) の可能性は否定できないが、現時点では人格障害の範囲に留まる」 とされたが、その後の公判では、さらに多くの精神科医や心理学者により鑑定が行われ、その結果は 「人格障害」 から 「統合失調症」、「解離性同一性障害」 までまさにばらばらだった (参照)

 とはいえ、このような結果は、精神というものが肉体のような目に見える実体ではないということを考えれば、なにも不思議なことではない。精神や人格の障害については、専門家によりいろいろな分類がされているが、それは典型的な症例をもとにカテゴライズしたものにすぎず、個別の具体的な例における診断は現実にはきわめて困難なものなのだろう。

「謎はすべて解けた」 というのは、自称・名探偵の孫である金田一少年だか、奇妙な薬のせいで体が小さくなった江戸川コナンだかの決め台詞であるが、すべての謎が解けるのは、安手の推理ドラマや推理小説のような、登場人物が限られ、舞台も限定され、おまけに人物そのものがただの操り人形にすぎない虚構の 「閉じた世界」 の中でのみありうることであって、現実にはそうはいかない。

 犯人がなかなか捕まらないような複雑な事件はもちろんのこと、犯人がその場で逮捕されたような、事実そのものとしては単純明快な事件ですら、その原因や動機などとなると、実際にはそう単純なものではない。本当の動機というものは、犯人本人にすら分からないということもありえないことではあるまい。

 刑事裁判での検事による論告などでは、 「被告人は○○に対する嫉妬に駆られて」 とか 「日頃の鬱憤を晴らすために犯行に及び」 といった表現がよく使われるが、このような表現は、たいていの場合、現実の事件を了解可能ないくつかの 「図式」 の中に押し込めるものにすぎない。そのような定型的な表現は、不可解な現実というものを適当に切り取って理解した気にさせ、それにより問題に終止符をうつことを目的としており、その結果、現実の不可解な部分は、むしろ隠蔽されることにもなるだろう。

 「陰謀論」 でもなんでもよいが、なんらかの 「説明図式」 によって、 「すべての謎は解けた」 とか 「すべてが理解できた」 などと思ったとき、しばしば人はただある 「思い込み」 にはまり込んでいるだけなのである。現実というものは、出題者によって、あらかじめ答がでるように設定されている数学や物理の問題のようには必ずしもできていない。 「謎が解けた!」 と思って、頭の中に電球が灯ったりピンポーンと音が鳴ったときこそ、実は本当は気をつけなければならない。

 オウムの麻原に傾倒し、結果として様々な犯罪に手を染めた者らもまた、教団という小さな世界の中でも、さらに狭い富士の麓のサティアンなどという 「閉じた世界」 の中で彼の説教を聞き続け、わけの分からぬ修行をしているうちに、 「すべての謎は解けた!」 という錯覚による落とし穴にはまったのだろう。

 「考える」 ということは、そのような罠に落ち込むことなく、たえず小さな違和感にこだわり続けることである。「懐疑」 による相対化とは、そのような思考を進めていくために必要な方法なのであって、ただの無知や愚かさ、怠惰な判断停止や居直りなどを正当化し弁明するための言訳なのではない。






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Last updated  2008.10.11 03:58:44
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Re:方法としての「懐疑」(10/10)  
alex99  さん



「科学的根拠のない事をどうして生徒に話したのか?」と言う問いに多くが「道徳教育として」と回答したという
これはウソで、本当は彼女たちが「記憶と意志のある水」とやらを盲信したということでしょう
ひどい話ですね

血液型と性格なんて、今の日本では国民的常識になっている
テレビでとくとくと血液型を語る芸能人たちを見るほど不愉快な事はありません

(2008.10.11 08:17:34)

Re:方法としての「懐疑」(10/10)  
tak-shonai  さん
世の中、「まあ、一応、そういうことにしておいて ……」 が、「要するに、そういうことのようだから ……」 になり、「結局、そういうこと!」 で完結するので、積み残しの部分が底流でゴタゴタしているんでしょうね。 (2008.10.11 08:56:17)

こんにちは♪  
アキラ さん
ご無沙汰をしております。
TBありがとうございました。

>「すべての謎は解けた」 とか 「すべてが理解できた」 などと思ったとき、しばしば人はただある 「思い込み」 にはまり込んでいるだけなのである。現実というものは、出題者によって、あらかじめ答がでるように設定されている数学や物理の問題のようには必ずしもできていない。
<
>「考える」 ということは、そのような罠に落ち込むことなく、たえず小さな違和感にこだわり続けることである。
<
仰るとおりだと思います。
「“分からない”ということだけは分かる」を大事にして、単純化することなく、考えて続けていきたいと思っています。 (2008.10.11 11:48:57)

Re[1]:方法としての「懐疑」(10/10)  
かつ7416  さん
alex99さん
テレビは見ていませんが、その話は、いろいろなところで問題になっていたようです。なんでも女性校長会という組織で江本勝を呼んで講演会をやったそうですね。
http://ameblo.jp/fireflysquid/entry-10139358661.html

しかし「無学文盲」の人らというのならともかく、かりにも校長という地位にある人たちですからね。呆れてしまいます。

子供の頃の福沢諭吉に、祠の中の石ころをこっそり取り替えて、大人たちがありがたがっているのを見て腹の中で笑ったという話がありますが、どうしてこうも安手の「ありがたそうなお話」などに、簡単にとびつく人らが後を絶たないのでしょう。

科学がどうのとかいう以前に、まず健全な懐疑精神を持て、ということではないかと思います。そもそも、それを育てるのが教育者の使命のはずなのですが。
(2008.10.11 11:54:00)

Re[1]:方法としての「懐疑」(10/10)  
かつ7416  さん
tak-shonaiさん
人間と人間、阿吽の呼吸ですべてがうまくいくなら、それが理想なのかもしれませんが、そうはいきません。やはり、言葉に表して相手に伝える努力をすることも必要でしょう。

「知に働けば角が立つ、情に掉させば流される」と言いますが、知で語るべきときに情を持ち出したり、議論の場に感情を持ち込んだりする人がいると、なんだかなと思います。そのへんの使い分けは、なかなか難しいですね。
(2008.10.11 12:40:34)

Re:こんにちは♪(10/10)  
かつ7416  さん
アキラさん
ラカンさんはあまり知りませんが、ジジェクはちょこちょこ読んでます。もっとも、映画の話のような面白いところだけのつまみ食いですが。

抽象的な理論というものは一種の一般論なので、なんにでも応用が利きますが、そうであるだけに、ときにそれだけで分かった気になってしまう危険があります。一般論から具体的な論におりてくるには、その事例に即した緻密な論証が必要なのですが、これが実は一番面倒で難しかったりします。

しかも、そういう危険は、切れ味がよく説得力もあって、「なるほど」とうならせる理論ほどとくに高いものなのですね。
(2008.10.11 13:02:43)

確かに  
アキラ さん
>一般論から具体的な論におりてくるには、その事例に即した緻密な論証が必要なのですが、これが実は一番面倒で難しかったりします。
<
仰るとおりだと思います。
南郷力丸さんが僕の記事のコメント欄で、「帰り道を明確にするのが優先」と仰っていたのも、指し示すところは同じようなことだと感じました。
南郷力丸さんのは、具体的な事例→一般論(メタ思考)の場合の帰り道ですが。

一般論を踏まえながら個別の事例にあたるのは大事なことだとは思いますが、一般論をそのまま個別の事例に当てはめてしまうのは、仰るとおり とても危険だと思います。
僕はあのような論を見聞きすると、なるほど 面白いなぁと思ったり、自省の材料にしたりしますが、さすがに個別の論にそのまま引っ張っていく蛮勇はありません。(^_^;)
具体例を見ながら「似たような話だよなぁ」と感じることは、もちろんありますが・・・。 (2008.10.12 09:07:59)

Re:確かに(10/10)  
かつ7416  さん
アキラさん
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/51497972.html
>目の前の現実の問題について、メタに考えるのは必要でしょうけど、
>そのメタにメタを重ねちゃうと、最強言説に辿り着いて戻って来れない。
>行っちゃったままになる。
>なので、帰ってこれる次元までしか、メタには考えない。

これですね。いつものように難解な南郷節ですが、「帰り道を明確にするのが優先」、言い換えるとメタな議論からの帰り道を確保しておくことを忘れないって意味なのでしょうね。

そういえば、童歌でも「行きはよいよい、帰りは怖い」などと言いますね。 (2008.10.12 17:26:22)

神の如き  
まろ0301  さん
○名探偵 みんな集めて 「さて」と言い
と言う川柳があります。神の如く快刀乱麻を断つ・・という心地よさは所詮ミステリーの世界だけなのかもしれません。
 「わかりやすい事」「分かり安すぎる事」には常に警戒が必要だと思います。
  (2008.10.13 20:51:05)

Re:神の如き(10/10)  
かつ7416  さん
まろ0301さん
>○名探偵 みんな集めて 「さて」と言い

この川柳は初耳ですが、現実の捜査では、いうまでもなくそのような名探偵の推理のみによって事件が解決するということは、まずないでしょうね。

論理的な推理や合理的な想像力なども、もちろん必要であり、そのような能力も、ときには大発見に導くような大きな力を発揮するものでもあります。しかし、同時にそれが本当に正しいのかは、つねに検証する必要があります。

それを忘れると、ただの「思い込み」になってしまうのだと思います。 (2008.10.14 05:02:35)

「懐疑」への懐疑はメタメタ?  
愚樵 さん
>「帰り道を明確にするのが優先」

なるほどと思うのですが...、となると、「懐疑」への懐疑はメタメタであって、帰ってこれなくなる“最強言説”ということになりますかね?

>「考える」 ということは、そのような罠に落ち込むことなく、たえず小さな違和感にこだわり続けることである。

かつさんは、「懐疑」への懐疑が“最強言説”であり無視されてしかるべきだ、という言説に違和感はありませんか?
(2008.10.15 05:08:38)

Re:「懐疑」への懐疑はメタメタ?(10/10)  
かつ7416  さん
愚樵さん
今、あまり時間が取れないのですが、懐疑に懐疑をを重ねるということは、具体的な問題に関して言えば、別に問題はないし、普通のことだと思います。

世の中には、「常識を疑え」という名の下に、かえって馬鹿げた迷論に落ち込み、はまり込んでいる人も多いようで、なにかを疑ったあげくにただ別の独断論に陥ったのでは意味がありません。

愚樵さんの質問はそういうことではなく、「懐疑」という方法自体を疑うということなのでしょうか。だとすると、それは「信じる」という態度のことでしょうか。

なお、南郷さんの言う「最強言説」というのは、現実との接点を失って、それ自体で完結し、反証も反論も不可能であり、したがって万能であると同時に実際には意味のない言説のことではないのかと思います。 (2008.10.15 21:10:50)

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