2002/10/10
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 自分が大江作品に求めていることは何なのか。自分が何故大江健三郎という作家を他の作家と区別して受け止めているのか。自分にとって重要な作家は誰なのか。など。
 ノーベル賞を貰ったから世間に名前が売れ、たまたま興味を持ったというだけ、たまたま読んでみただけ、たまたま読み終えただけというならば、その作家のほとんどの作品を読もうとは思わない。たまたま面白かったというだけでも、長年自分の中にその興味が持続することもない。惰性で読んでいるわけではないが、個々の作品をそれほど分けて考えているわけではない。
 読んでる最中、読み終えた直後または読後しばらくの間、その文体でしか物が考えられなくなったり、文章を書く場合しつこいくらいに伝染したり、そのような力は今回あまり感じられなかった。私の感受性が衰えたのもあるが、前作「取り替え子」と同様に文章に取り込まれてしまうような感覚はなかった。と言っても、以前「取り替え子」を読んだ直後に書いた感想(ここの日記にはない)は、大江の多用する──なんとかかんとか──(──・・・・・・──)の下手な使い方により、文章の繋がりがよく分からないというかさっぱり分からない酷い代物を残していた。青臭いというより子供の持つ嫌な強引さの無邪気な部分を感じ少し恥ずかしくなった。過去の駄文にしろ残しておけば反省材料にはなる。あるいは反省材料にしかならない。
 いつの頃からか大江作品を一つの塊として捉えるようになり、大きな一つの枠の延長にまたこの「憂い顔の童子」もあると感じた。実際初期の作品以外は作者自身がモデルとなった男を主人公とし、知的障害者の息子がおり、「森」あるいは「森のようなもの」また「森の伝説」が絡んでくる物語がほとんどだ。大雑把に言ってるのであまり正確ではないが、私は飽きもせずそれらに触れてきて、良くも悪くも自分の中にそれらは棲みついた。 そのせいか、たとえば大江作品で好きなものに順位をつけよと言われても(言われたことはないが)、判断を下し難い。好きなものもある。好きでないものもある。読んでいないものをのぞけば、それらは一つの塊にしか見えず、上下の区別をつけることは自分の中では無意味になる。人に勧めるとなると「万延元年のフットボール」「みずから我が涙をぬぐいたまう日」「キルプの軍団」などを挙げるのたたやすいけれど・・・・・・。
 つまり「取り替え子」同様に充分楽しめたが、それを他の人にはどう具体的に説明するか、自分の中に映る「憂い顔の童子」と他人に見せる「憂い顔の童子」の間の差が何かを伝える自信がない。明確な言葉を持ち、その上re-readingを実践して(その人には習慣的なものであろうが)よりよく読むことを楽しんでる人もいるというのになあ!
 やっぱりうつってるな。しかし無理に捻りだしてない分、正直だ。


 引き返し、まだ水着が濡れていないのを幸い、そのままズボンとシャツをつけて帰る江の電の駅前で、生きた小型のタコを一匹買った。海水ともどもビニール袋に入れてくれたタコを膝に乗せて坐っていたが、小田急に乗り換えてすぐ、袋の結び目から、焦げた針金に似ている足の先端が出て来た。爪を立ててつねってみたが、めげる様子もない。そのうちスルスルと全身を露わしたタコは、いったん膝の上に位置を定めてから、跳び降りて電車の板の床を歩いて行く。注視されるなか、ありふれた出来事のようにゆっくり立ち上がった古義人がビニール袋をかぶせると、タコはまだ残っていた水のなかに落着いた。
 ──手慣れたものですねえ、と車掌から声をかけられたし、

 ──海の傍だと気持がいいらしいので、時間があれば、運動もさせます。


 作中は長江古義人と記される、海外の有名な賞を取ったり、その道の筋から小規模とはいえ肉体的に痛く重いテロを受けたことのある主人公の作家を研究する、ローズさんというアメリカ人が


 ──・・・・・・古義人さんの小説の構想では、ローズさんのことはどう語られているんですか? と、ずっと黙っていた動くんが質ねかけた。
 ──どうして、小説に私が出て来なければならないの?


と言ったところで、既に小説は半ばを過ぎるところまで書かれており、小説の中で長江がこれから書こうとしている(今書かれている小説)について語り始めるところから、森/Tの枠を越えた、あるいはより内向きとなった話が展開する。ちょっと分かりにくいが自分でもこの書き方よくは分かっていない。
「静かな生活」で長女に作家の父を外から見た姿で批判させたのにも似ているか。
 長江が書きたがっている「童子」の話を書くための前段階としての小説として「憂い顔の童子」はあるようにも見える。が、憂い顔でもはしゃいだ笑顔でも、また年寄りでも子供でも童子性を持った時その人は童子になる、または童子のようになる。前半長江がしつこくドタバタを繰り返し、最後には機動隊を模した若者に振り回され意識不明の重体に陥るが、それらはどれも、身体が子供であったならそれほどの怪我は伴わない種類のものではなかったか。伝説としての童子物語を希求するあまり、子供時代、自分とは別れて森に向かっていってしまったもう一人の自分、コギーと今の自分を同一化したいがそれは叶わず肉体に傷を作り、そうして初めて自分とは別の物語として童子のことを書き始める・・・・・・。
 そんなあまり私の好きではない読み方は置いといて。
 ショウペンハウエルや長江古義人に言われるまでもなく、私も「読み直し」の重要さを感じ取る為に、あまり次々と読みたい本というのもなくなってきた最近、そろそろドストエフスキーあたりの再読を始めようと思っていた。
 本を読み終えるだけではなく、気に入ったところには付箋を貼り後で書き写し、感想を、誰かに頼まれたような宣伝文や紹介としてではなく、自分の中にその本がどう生きたか、その時の自分にとってはどれほど重要であったかを重視して感想を書くようになる以前に読んだ品群より、読み方を変えてからの作品群の方が私には印象が強い。また、印象が強いゆえに過大評価している部分もあるかもしれない。ドストエフスキーの主要作品は昔に読んだ。それでも漠然と何か大きなものとして自分の中に残ってはいるが、今回「憂い顔の童子」を読んでいる最中、いつのまにか大江健三郎という名は自分の中にドストエフスキーと同等に強くこびりついてることに気付いた。好き嫌い良い悪いだけの単純な問題ではない。
 三人。一人では寂しく、二人では中途半端、四人では多い。三人の作家を自分の中の重要な位置にあるものとして挙げる、読み直しの対象作家としてとらえるとすると、あと一人枠が空く。古井由吉、深沢七郎、スティーヴ・エリクソン、ガルシア=マルケス、藤枝静男・・・・・・古井が今のところ一つ抜けているか。野坂昭如や高橋源一郎はダメなものは酷くダメだからなあ。急いで決めることもない。

大江健三郎「憂い顔の童子」(講談社)





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Last updated  2002/10/10 03:24:15 PM
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