2003/03/11
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さようなら、ギャングたち/高橋源一郎
 何年振りかでふと読んだ。今読むとつまらぬものと思えるのだろう、三度四度読んだか忘れたが、覚えていたのは「感傷的な」文章、言葉、話。すなわち高橋源一郎という作家を高橋源一郎たらしめているもの全て。それを今回はどのように読んだか、それが「期待はずれ」なことに、これまで読んだ時と何も変わらず同じように読んだ。第一部で悲しくなり、第二部でどうでもよくなり、第三部では第一部ほどは悲しくならなかった。「同じ」だ。おそらく、第二部の途中で意味を追うことをやめたのも、「『キャラウェイ』もしくは『緑の小指』」ちゃんが死ぬことを悲しむのも、以前と同じ感じ方で感じた。おかしいな、それほど自分がこれまで律儀にいつまでも同じ自分のままであった覚えはないんだが、という訝りはすぐに「私は高橋源一郎のどの作品においても、これ以外の感じ方をしてこなかったではないか」という思いに掻き消された。「ゴーストバスターズ」であれ「優雅で感傷的な日本野球」であれ、「日本文学盛衰史」であれ。高橋源一郎は同じことを書き続けてきた。「今の時代、小説なんて書いてどうしようってんだい?」という問いを、小説を書きながら問い続けてきた。そんなみっともないことを何十年も続けてきた。そう私は感じ続けてきた。彼の作品はいいものも悪いものも、とてもとても酷いものも少なくなくあるが、私は好きだ。
「感傷的」というのは便利な表現で、そうである条件を満たせばたいていの人になんだか「感傷的な」気分を引き起こさせ、緻密に書き込んで膨大な量の文章を作らなくとも、人の感情を割と楽に動かせる。何も現実感を持たせなくてもいい。それはただの気分さ、と割り切ってもいい。


 遊園地でわたしは、とてもかなしいものを見た。黒いリボンをつけた「大観覧車」が自分自身をおりたたんでいるところだった。
 遊園地の経営者は、解体屋に依頼するのを惜しんで、「大観覧車」に自分で始末をつけるように命令したのだろう。
 わたしはブランコに腰かけて「大観覧車」が自殺するのをながめていた。
「大観覧車」は円型のフレームを動かして観覧席をひとつずつ外していった。ひとつ外すたびに血が流れ、「ああいたい」と「大観覧車」は苦痛の声をあげた。円型のフレームが観覧席を外しおわると、今度は中央のリングフレームを外し、その次にはコンクリートの支柱が苦労して中央のリングを切断した。
「大観覧車」は血まみれになって自分自身を解体していき、その度に遊園地中が震動するぐらいの叫び声をあげた。
 すぐ横の「メリー・ゴー・ラウンド」は目をつぶり、耳を両手でおさえてがたがた震えていた。

 コンクリートの台座は何によって最後の始末をつけるのだろう、とわたしは思った。
 もうどんな手段もないのに。
「くそくらえ」
「大観覧車」はそう捨てぜりふを残すと、コンクリートの台座だけになった自分自身に最後のとどめを刺した。
 それは人間には考えつかないようなやり方でだった。

第二部 詩の学校 Ⅰ「吸血鬼なんかこわくない」より


 自分を折り畳む大観覧車をたまたま見かけたのでそれをスケッチしたのではなく、「感傷的な」場面を書こうとしたら大観覧車に自分を畳ませることを思い付いただけのことだろう。遊園地の経営者が解体屋に頼むのを疎んだのは後付けの理由に過ぎない。
 意味なんか「何一つ」あるいは「たいして」ないのに、多くの人がまるで意味があるかのように、あるいは何かとんでもないことをやっているかのようにこの本を扱う。今では「なあんだ、こんなこと。インターネットでみんながやっているじゃないか。誰にも振り向かれないコンテンツの一つ『小説』として。これと似たような出来損ないがいろんなところに。大体これって小説なの?」と笑い飛ばされかねない。事実、大した作品ではないのだ。好きなところもあるにせよ、他人に向かって「これは最高だ!」と大声で叫ぶことは出来ない。
 ただ「感傷的な」気分に浸りたい時にはとても便利だ。
 私は全体的にはこの作品を少ししか好きではないかもしれない。でも第一部はとても好きだ。
 しかしどうも、何故今これを読もうと思ったのかがさっぱり分からない。


高橋源一郎「さようなら、ギャングたち」(講談社文芸文庫)
2003/03/11 23:46:55

谷川の水を求めて/森内俊雄
 様々な大人のおもちゃを使って随分と具体的な少年との肛門性交に至るまでのプロセスを書いている割には、少年の態度がちっとも現実的に見えない。この人の書く主人公の性に関する意識は、露骨で生々しく、時にはっきりと嫌悪感を覚える。今回はそれが10歳の少年に向いているから尚更だった。その背徳も神を背負えば顔が立つ。


 臼井は路加との愛欲による涜聖の行為も、その自覚によって神を招いているのだという思いがあった。それは牽強付会、自己弁護ではなかった。臼井が涜聖、背徳の意識を抱く限り、神は彼を離れ、見捨て給うことはないであろう。あるいは、こうも言える。神は十字架の上で、イエスを沈黙のうちに見捨てたように、臼井も彼自身の十字架の上でイエスを見捨てていた。


 花村萬月の確か「王国記」に、人を殺した少年が、自分は女に子供を孕ませたから差し引きゼロで罪は消えるとかそんなことを言っていたような。木場功一「キリコ」には、標的に対して感じる罪悪感を神に預けることで仕事に徹することの出来る殺し屋が出てくる。どの神も赦しもうさん臭い。それではまるで応用の利く使い勝手のいい、良心を捨てる為の道具に過ぎない。

 小説の登場人物になることがあったら、主人公面した陰気な中年とは目を合わさない方がいい。
森内俊雄「谷川の水を求めて」(河出書房新社 この本は現在お取り扱いできません)
2003/03/11 1:40:35





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Last updated  2003/03/11 11:46:55 PM
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