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第24話 『最終話』 <全24話>────────────────────────────────────しばらくすると、大きな白いテントが巨大な映画のスクリーンになり、きらびやかなドレスやタキシードに身を包んだ招待客たちは、砂浜一面に用意された椅子やブランケットに腰を下ろした。テントのなかを照らしていた明かりが落とされ、映写機のスイッチが入れられる。そして、二巻あるフィルムのうちの一巻めの上映が始まった。上映が終わるころには、『ワン・ハート』は数々の放送局や、独立配給会社や、アメリカの大手ケーブルテレビ局に買われていた。プレミアショーに参加した人たちのあいだには、この映画はアカデミー賞の候補作品になるだとか、翌年のサンダンス映画祭で上映されるのではないかといったうわさが、飛び交っていた。その夜は大成功だった。しかし、何事もそうであるように、結局はパーティーも終わるときがきた。招待客たちはいなくなり、テントはたたまれて、エストレリャはホテルへ帰った。そこで旅行用の服に着がえると、荷物をまとめて、宿泊料を支払った。ニース空港に着いた彼女は搭乗手続きをすませ、セキュリティチェックを通りぬけた。そして、搭乗ゲートで待っているとき、見覚えのある黒みがかった頭に目がとまった。頭の持ち主は新聞をのぞき込んでいる。エストレリャは口をあんぐりと開けた。カルロがなぜ空港にいるのだろう?「ここで何をしているの?」彼に向かって尋ねたとき、もうすぐ搭乗が始まるというアナウンスが流れた。カルロは新聞から目を上げて、驚いたふりをした。「どうしたんだ、エストレリャ?きみこそ、ここで何をしている?」「まだわたしの質問に答えていないわ。あなたはここで何をしているの?どこへ行くつもり?」彼が立ちあがった。「飛行機に乗るんだ。そして、インドへ行く」「そんなはずないわ。インドへはわたしが行くのよ」カルロは口笛を吹いた。「運命だな」「いいえ、運命じゃない。ただの間違いだわ」「間違いじゃない」彼は搭乗券を差しだした。そこに印字された座席番号は、エストレリャの席の隣だった。「ここにチケットがある。席も取ってある。ぼくはインドへ行く」「でも、なぜ?」「きみが行くからさ。そばにいたいんだ。きみに目を光らせている人間が必要だろう」彼がこんなことを言うのは、わたしを信用していないからではない。心配してくれているのだ。愛してくれているのだ。前にも愛の告白は聞いていたが、このとき初めて、エストレリャはカルロの愛を体と心のすべてで感じた。これからは彼がいっしょにいて支えてくれる。長い年月、たったひとりでがんばってきたあとだけに、彼女は天にものぼる思いだった。それでも、カルロが自分といっしょにインドへ行くという事実に対する驚きは大きかった。彼が何を手放し、何を犠牲にしようとしているのかをわかっていたからだ。「でも、銀行は?家族の方たちはどうするの?」「気にしなくていい。ぼくがこうするのは、きみのためでもあるけれど、自分のためでもあるんだ。ぼくにあの子たちを救うことができるなら、救ってやりたい」エストレリャの目に涙があふれた。「これから行くところに、高級ホテルはないのよ」カルロは手を伸ばして彼女を抱き寄せ、腰に両腕をまわした。「わかっているよ、カーラ。ぼくは寝袋や、蚊帳や、水筒の必要な生活でもだいじょうぶだ」「それじゃあ、向こうに虫がいることは知っているのね」「ああ。虫はたくさんいるだろうな」カルロは少し唇をゆがめて笑った。「だけど、これからの一年をきみと過ごせるなら、ばったの大群にだって耐えてみせるさ」エストレリャの笑みがためらいがちになった。「一年だけ?」「それは、きみが結婚してくれるかどうかによるな」「結婚するわ!」エストレリャは両腕をカルロの首に巻きつけ、背伸びして彼の唇にキスした。「カルロ・ガベリーニ、わたしがしたいことを教えてあげる。あなたと結婚して、あなたを愛して、死ぬまであなたと過ごしたい」カルロが顔をほころばせて、エストレリャの唇を唇でそっとたどった。「今のを書類にしてもらえるかい?」エストレリャは声をあげて笑った。何年かぶりで心が軽くなっていた。「必要ないわ。そんな書類を使う日はこないもの。わたしたちがいっしょになるのは、運命だったんだから」 <ご愛読ありがとうございました>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年10月30日
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第23話 『カルロヘの感謝の想い』 <全24話>────────────────────────────────────その夜遅く、ホテルの部屋のドアの下に、封筒が二通差し入れられた。エストレリャはそれをベッドへ持っていった。ひとつめの封筒は濃いクリーム色で、なかからやはりクリーム色をした、厚手の招待状が出てきた。 インテグロ投資銀行主催、 映画『ワン・ハート』のプレミアショーに、 貴殿をご招待申しあげます。 明晩七時、〈リヴィエラ・ホテル〉まで ぜひお越しください。 カルロが約束してくれた特別上映会だ。エストレリャは震える手で、ふたつめの封筒を開けた。そこには、ニューデリーまでのファーストクラスの航空券が入っていた。片道だけの航空券が。それを見て、目に新たな涙があふれた。翌日の夜、エストレリャはまるで闘いの準備をするように細心の注意を払い、上映会のためにドレスを着て、髪を整えて、化粧をした。ある意味で、それは闘いの準備だった。今夜遅く、カルロのもとを去る前に、もう一度だけ彼と顔を合わせる心がまえをしているのだから。エストレリャはバスルームの鏡に映る青白い顔を見つめた。今夜は地獄の苦しみを味わうことになるだろう。カルロといっしょにいながら、本当の意味でその時間を共有できないことは、想像できるかぎりもっとも残酷な罰だ。ドレスのストラップに手を伸ばして、位置を直す。ドレスの生地は肌色のサテンで、きらきら光る透明なスパンコールをあしらった小さなすみれの花々が、その上を覆っていた。とてつもなく高価で、ハリウッドで好まれる挑発的なデザインだった。今夜もう一度だけ、魅惑的なモデルの役を演じなければならない。カメラマンや記者たちの前で輝いてみせて、『ワン・ハート』が間違いなく最大限の注目を集めるようにしなければならない。カルロが運転手つきのリムジンをよこしてくれたので、エストレリャはそれに乗って〈リヴィエラ・ホテル〉へ向かった。途中、輝くスポットライトが、夜空に何本もの白い光の筋をつけているのが見えた。リムジンが砂浜で止まって初めて、そのスポットライトがプレミアショーのためにつけられたもので、その光のもとにたくさんの人々が引き寄せられているのがわかった。エストレリャは畏敬の念に打たれた。これはみんな、カルロが考えてくれたことだ。赤いカーペットの上を進むうちに、いくつものフラッシュが目の前で閃いた。大きな会場で開かれるプレミアショーに負けないほど、おおぜいの記者たちが集まっていた。たった三日で、カルロはどうやってこれほどの準備をすべて整えたのだろう?わたしのために、上映会場や観客や記者たち、赤いカーペットまでそろえてくれたのだ。エストレリャはもう少しで落ち着きを失いそうになった。カルロのしてくれたことすべてがとてもありがたくて、その援助に対する感謝で胸がいっぱいだった。今までカルロのような男性に出会ったことはない。そして、これからも出会うことがあるとは思えない。砂の上に張られた白いテントのパビリオンに入ると、そのなかでカルロが待っていた。上映会は盛装で参加することになっていたので、今夜もまたタキシードを着ている。その姿を見たとき、エストレリャの胸は高鳴った。カルロはとても大きく堂々としている。わたしの夢を守るために、力を尽くしてくれたのだ。「とってもすてきよ」エストレリャはカルロのタキシードの袖に手を置いて、頬にキスしようと伸びあがった。そのとき、彼がこちらに顔を向けたので、キスは唇で受けとめられた。「愛している」エストレリャの目が熱くなった。胸の痛みはまるで引き潮のようだ。そのうずきに引っぱられ、のみ込まれそうになっているのに、屈することは許されない。インドの少女たちのことが頭に浮かんだとたん、自分にはやらなければならない仕事があるのを思いだした。「わたしも愛しているわ」エストレリャはそうささやいてカルロから離れ、各国からやってきた映画バイヤーの輪のなかへ入っていった。 <10/30公開 最終話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年10月29日
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第22話 『プロポーズの行方』 <全24話>────────────────────────────────────「ぼくと結婚してくれ」カルロがせがむように繰り返した。今まで、エストレリャが聞いたどんな言葉よりも甘い言葉だった。わたしの目標や夢、情熱の対象を知りながら、それでも求めてくれるなんて。彼の思いは驚くべきものだった。彼女は目頭が熱くなり、胸がいっぱいになった。「できないわ」向かい合ったエストレリャの腕を、カルロはしっかりつかんだ。「なぜ、できない?」「ひどい奥さんになるもの」「そんなことはない!」エストレリャは立ちあがって、カルロの唇にそっとキスした。「あるのよ。とくに、ガベリーニの男性にとっては。ガベリーニ家はお金持ちで権力のある、とても有名な家柄でしょう。アルゼンチンのガルバン家みたいなものよ。わたしはそういう家がいやなの。もう二度と、そういう家では暮らせないの」「いとしい人、そんなことを言わないでくれ」「もう、やめて」目が燃えるように熱く、エストレリャは涙をこらえるのが精いっぱいだった。「お願い、言い争うのはやめましょう。ますます話がこじれるだけよ。わたしたちはそれぞれ人生において、異なる目標を掲げているわ、カルロ。お互いに目指す方向が違うのよ」二人を乗せた車は、カンヌへ向かって走った。帰りの車中は、耐えられないほど緊張した空気に包まれていた。〈カールトン・ホテル〉の前で車を止めると、カルロはエストレリャのほうを見て、険しい顔で言った。「どうしてぼくたちがうまくいかないと思うのかわからない」「こんな関係が長続きするはずはないもの」エストレリャの目は砂が入ったようにごろごろしていた。「あと一週間もしないうちに、カンヌの町は元どおりになる。ポスターははがされ、赤いカーペットは巻かれて、人々はいなくなる。わたしたちも同じよ。今はこの町の魔法にかかっているけど、これは現実の世界じゃないわ。少なくとも、わたしにとっては違う。わたしの生きる世界はタミール・ナドゥなの」カルロの顔が青くなり、目のなかに恐怖が浮かんだ。「子どもたちを救うために、きみがインドへ行く必要はないんだ」ぶっきらぼうな口調だった。「ここでだって、基金を募ることはできる。危険に身をさらさなくたって、孤児たちのことを世の中に知ってもらえるはずだ」エストレリャはカルロがアリーのことを言っているのだとわかった。「向こうへ行かなければ、子どもたちにお金が届くかどうかわからないわ。あの子たちがちゃんと世話をしてもらえるかどうか確かめなければならないの。万事うまくいってほしいと、願うだけではだめなのよ。絶対にうまくいくようにしなければならないの」カルロの口元がこわばり、銀色の目が冷たくなった。「ぼくたちがうまくいくかどうか、試すチャンスもくれないんだな」エストレリャの目から涙がひと粒こぼれた。彼女はあわててそれをぬぐった。「無理なのよ、カルロ。でも、あなたのことは本当に愛している。これからもずっと愛しつづけるわ」「これで、さよならなのかい?」さよならという言葉が、エストレリャは大嫌いだった。その言葉がこんなふうに使われることも。カルロの言い方だと、二人の別れが簡単なことのように聞こえる。簡単ではないのに。まるで地獄にいるような気分だ。それでも、少女たちを見捨てることはできない。約束したのだから。「さよならするわけじゃないわ」胸がいっぱいになって声がかすれた。「オ・ルヴォワールはどう?また会う日まで」「いやだね。そんな言葉は気に入らない。ぼくは言わないよ」「それなら、言わなくていいわ」エストレリャはカルロの唇に唇を押しつけて目を閉じ、自分に言い聞かせた。こんなふうに愛されたときの気持ちを覚えておこう。彼の強さや温かさ、とてつもない心の広さを覚えておこう。涙をこらえて顔をそらし、カルロの耳にささやく。「あなたのことは忘れないわ。あなたがわたしやタミール・ナドゥの子どもたちのためにしてくれたことは忘れない」カルロが答えられずにいるうちに、エストレリャは車から抜けだし、涙をこらえてホテルに駆け込んだ。 <10/29公開 第23話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年10月28日
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第21話 『無上の幸せ』 <全24話>────────────────────────────────────二人のあいだには、何か激しいものが息づいていた。知性や言葉では明らかにできないものが。カルロが頭をさげてキスをした。唇と舌を駆使したその本物のキスをされたとき、自分は今まで愛を交わしたことなどなかったのだとエストレリャは気づいた。セックスで喜びを得たことはあるが、それは愛ではなかった。この無上の幸せに、少しでも近づくものではなかった。そう、こんなふうにだれかに近づくことは、無上の幸せだ。それは、とてもいい気分だった。自分にとってたいせつなものや人生の意義を見いだし、愛によって力を得たように感じるのは、すばらしい気分だった。カルロがエストレリャの腿のあいだで体の位置をずらし、なめらかなひと突きで、なかへ入ってきた。彼女はなすすべもなく彼を締めつけた。息が喉に詰まり、熱が出たように肌がほてる。ほんのわずかな刺激にも、体が敏感に反応した。二人の愛の行為は、ゆっくりとしていて濃密だった。それは強制や競争、勝つことや手に入れることとは無縁だった。ただ触れ合い、感じるためのものだった。二人きりで。緊張がよみがえって快楽が募ってくると、感覚は鋭く強くなった。エストレリャはカルロの肩に腕をまわし、温かく汗ばんだ肌に顔を埋めて、彼にすべてを捧げた。体だけでなく、心も。だれかに対してこんな気持ちになるとは、思ったこともなかった。それでも、これが愛なのだという確信はある。生まれてからずっと、ばらばらのかけらのような気持ちで過ごしてきた。でも今やっと、カルロがわたしという人間を、完璧にまとめあげてくれたのだ。翌朝早く、エストレリャはカルロの愛撫で目覚め、二人はふたたび愛し合った。互いに燃え尽きたあと、エストレリャはベッドに頬杖をついて、カルロを見おろした。「どんな暮らしをしているか話してくれないのね」急に深刻な気持ちになって言う。「家族のことも、昔の恋人のことも」「うちは大家族なんだ。弟が三人。みんなイタリアで働いている。それに、親戚がおおぜい」カルロは肩をすくめた。「そして、きみに会うまで、だれかを愛したことはなかった。付き合った女性はいるけど、そこに愛はなかった」おかしなことに、エストレリャの脈拍は二倍の速さになった。「わたしも同じ気持ちよ」カルロは手を伸ばして、エストレリャの頬を包んだ。彼女の顔の形や、緑がかったはしばみ色の知性的な目が好きだった。ぼくが女性に求めるすべてを、エストレリャは持っている。いや、それ以上のものを。「今、いちばんの願いはなんだい?」「タミール・ナドゥにいるすばらしい女の子たちを、力のかぎり救うこと」自分に関係したことでないのにがっかりしながら、カルロは首を伸ばして、エストレリャの唇にキスしてささやいた。「その次は?」「『ワン・ハート』を世界じゅうに広めること。孤児たちのことを、みんなに知ってもらいたいの」カルロはまたキスした。「その願いはかなうよ」昼前に、二人はドライブに出かけた。人でこみ合うにぎやかなカンヌをあとにして、高い山々へ続く道を進んでいくと、コート・ダジュール一帯のすばらしい景色が望める。カルロは丘の上にあるムージャンという古い村に入って、車を止めた。二人は野生の花が咲き乱れる草地を横切り、崩れかけた石の壁に向かって歩いていった。壁に座ると、エストレリャがカルロに寄りかかった。「きれいなところね。とても平和だわ」カルロは彼女を見おろした。黒みがかった長い髪が片方の肩にかかっているようすを眺めながら、胸が熱く締めつけられるのを感じた。こんな気持ちになったのは初めてだ。これからも、ほかのだれかに、同じ気持ちを抱くことはないだろう。エストレリャの顔を自分のほうに向かせて、視線を合わせる。ああ、ぼくは彼女を愛している。彼女なしの人生など、考えられない。カルロはエストレリャの顔を両手で包み、キスをした。「ぼくと結婚してくれ」 <10/28公開 第22話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年10月27日
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第20話 『熱い情熱』 <全24話>────────────────────────────────────赤いシルクのドレスについた小さなホックがはずされ、真紅の生地が引きおろされた。黒いレースのブラジャーがあらわになる。そのままドレスはヒップを滑りおり、足元に落ちた。カルロの口が両手のあとをたどった。なめらかな肩から、胸のふくらみ、腰の曲線へと。エストレリャはあまりに多くを感じ、あまりに強い欲望を覚えていた。だからこそ、カルロに身をまかせて自制心を解き放ち、この一瞬を楽しむのは、ぞくぞくするほどの快感だった。そして、カルロはこの一瞬を最高のものにするすべを知っていた。耳たぶの下に触れた唇が、胸へ伝いおりる。肌の上で舌が小さな円をいくつも描き、炎を燃えたたせた。唇で胸の先端をとらえられて、エストレリャははっと息をのんだ。熱い口が押しつけられると同時に、責め苦と喜びが同時に襲いかかってきた。彼とこうしているのは、官能的で刺激的だ。求めていたものが、すべて現実になった。全身がだんだんとほてり、エストレリャの想像をかきたてた。そして、彼女はもっとほしくなった。カルロが頭を上げた。暗がりで輝く目が、じっと彼女を見つめた。息遣いは荒く、銀色の目は青みを帯びている。彼はわたしがほしいのだ。わたしが与えられるすべてがほしいのだ。エストレリャは身を乗りだして、カルロの胸に自分の胸をこすりつけた。それから、シャツのボタンをひとつずつゆっくりとはずした。カルロはそのようすを見守っていた。好奇心に満ちた鋭い視線を感じながら、エストレリャはシャツを彼の肩から滑り落とした。うっすらと焼けた胸と筋肉質の平らな腹部があらわになった。固い腹部に両手を置き、筋肉を舌でそっとなぞる。肌はとても温かく、いい香りがして、サテンのようになめらかだった。これほどすばらしくセクシーな男性が、今夜はわたしだけのものになるのだ。エストレリャが目を上げると、視線と視線が絡み合った。何も言わずに彼のベルトを引きぬき、黒いパンツのファスナーを下ろす。言葉を使い果たしたかのように、二人とも黙っていた。沈黙が興奮と情熱を高める。エストレリャはあまりに彼を意識していたため、まるで鼓動が聞こえ、息遣いまで伝わってくるような気がした。カルロと視線を合わせたままで、下着の上からそっと彼をてのひらに包む。そこは、すでに硬く張りつめていた。彼女は白い生地の下に手を滑り込ませ、全体をなでた。カルロの喉の奥からうめき声がもれた。もう一度なでると、今度は緊張した腹部が収縮し、贅肉のない腰が揺れ動くのがわかった。エストレリャは生まれて初めて、手と口で男性を愛したくなった。彼を感じて、味わいたい。彼を完全に自分のものにしたい。しかし、そうはさせてもらえなかった。ひざまずこうとしたとき、彼女はカルロの手で立たされて、ベッドへ運ばれた。 <10/27公開 第21話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年10月26日
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第19話 『魅惑的なカルロ』 <全24話>────────────────────────────────────一瞬のうちにわきあがった感情に圧倒されそうになって、エストレリャは打ち明けた。「ずっとあなたを待っていたような気がするわ」カルロは彼女に覆いかぶさったが、両肘をつき、胸と胸が軽く触れ合うところで上半身の体重を支えた。「ぼくもだ」あらわになったエストレリャの鎖骨と首筋にキスの雨を降らす。首筋にそっとキスされて、エストレリャは体を震わせた。肌に当たる唇の感触はとても甘美だった。唇で唇をたどられると、彼女はため息をついてカルロに両手を伸ばした。黒い髪に深く指を差し入れて、後頭部をてのひらで包み込む。そして、彼の口元でささやいた。「ここで始めないほうがいいわ。やめられなくなるもの」「帰ったほうがいいかもしれないな」「そうね。わたしのホテルへ行きましょう」〈カールトン・ホテル〉へ戻る途中、パレ・デ・フェスティバル・エ・デ・コングレの前を通りかかった。赤いカーペットを敷いた二十二の石段で知られる、映画祭のメインホールだ。多くの著名な映画監督や俳優たちがそろってこの石段を上り、やはり多くのカメラマンたちがこぞってこの石段にレンズを向けるのだ。カルロはエストレリャの腰に腕をまわして、少し歩をゆるめた。これほど楽しい夜を過ごしたのは、本当に久しぶりだ。エストレリャといっしょにいると気分がいい。いつもより感覚もさえているし、気持ちもくつろいでいる。「ほら、これがカンヌでいちばん有名な階段だ」ハイヒールを二本の指でぶらさげたエストレリャが言った。「人がいないと、感じが違うわね」「きみもあの石段を上りたい?」エストレリャは首を振った。「わたしは名声には興味がないから。実際、仕事を変えようと思っているの。人々のために何かができればと考えているわ」その言葉に、カルロは驚いた。「モデルをやめるのかい?」「〈リリーフ・ナウ〉で仕事をしないかと誘われているの。受けようと思っているわ」エストレリャはほつれた髪を耳にかけた。カルロは彼女を見つめた。髪をかきあげる手、月明かりを映してきらめく目。いくら眺めても飽きることはないだろう。「給料をもらえる仕事なのかい?」「いいえ。でも、貯金が少し残っているから、一、二年は食べていけるわ」「スポットライトはもう浴びなくていいというわけだね?」カルロはそう尋ねながら、ミラノの大きな屋敷で静かに暮らし、週末にはコモ湖の別荘で過ごすエストレリャとの生活を思い描いた。「ええ、もういいわ」二人は〈カールトン・ホテル〉に着き、正面の石段を上った。なかまで送ってくれたカルロを、エストレリャはエレベーターに引き入れた。「どこか行かなければならないところはある?」そう尋ねたとき、扉が閉まった。二人の視線が絡み合う。「今夜はない」エストレリャはカルロの目に溺れてしまいそうだった。カルロに溺れてしまいそうだった。「それなら、いっしょにいて」カルロはいっしょにいてくれた。何カ月もだれとも付き合っていなかったので、ゆっくりと服を脱がされるあいだ、エストレリャは息を詰めていた。 <10/26公開 第20話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年10月23日
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第18話 『キスの魔力』 <全24話>────────────────────────────────────エストレリャは赤いハイヒールのストラップをはずして裸足になり、カルロと並んでひんやりした砂の上を歩いた。四百メートルほど黙って歩くうちに、エストレリャは自分がカルロと過ごす時間を楽しんでいることに気づいた。今夜、彼はわたしをすばらしい気分にさせてくれた。人生だけでなく、わたし自身についても。カルロは力強く、しっかりした、本物の男性に思える。赤いドレスの裾をさらに高く持ちあげて、エストレリャは波打ちぎわに歩を進めた。冷たい水が足にまつわりつき、肌をくすぐる。ここで見る空はとても大きく果てしない。彼女は振り返って、白亜の建物がひしめく、まばゆいカンヌの町並みに目をやった。そして、その町を背景にして広がる人けのない砂浜をぐるっと示した。「まるで映画みたい。授賞式の前に、この砂浜で映画を見せればいいのに。ここの美しさには、どの劇場だってかなわないわ」小さな声で笑って、カルロを見つめる。「ごめんなさい。ひとりでしゃべりすぎているわね」「あやまることはない。楽しいよ。きみの思いつきや考えを聞くのは楽しい。きみのすべてを知りたいんだ」「でも、言わなくてもいいことまで言うかもしれないわ。間違ったことだって言うかもしれないし」カルロは近づいてきて、すぐ隣で足を止めた。「自分の意見を持てないなら、思考があっても意味がないだろう?そして口にしてはいけないなら、自分の意見を持つことにも意味はないよ」エストレリャはこみあげる感情を押し隠して、かすかに口元をほころばせた。「気をつけて。わたしはいろいろな意見を持っているわよ」「そいつはいいね」カルロは波打ちぎわから離れて、砂の上に腰を下ろした。「ここへ来て、アルゼンチンの話をしてくれないか。ぼくは行ったことがないんだ」エストレリャは隣に座った。彼が上着を脱いでむきだしの肩にかけてくれたので、シルクで裏打ちした温かな生地にくるまった。「ここにいると、マル・イ・シエラスを思いだすわ。訳すと、“海沿いの丘陵地帯”ぐらいの意味かしら」「ロマンチックな感じがするね」「そうでしょうね。アルゼンチン人がよく遊びに行きたがる場所なの。このコート・ダジュールみたいに。マル・イ・シエラスには、きれいなビーチやリゾートがあって、大きなナイトクラブやカジノもある。ここと同じように、お金持ちでおしゃれな人たちが集まるのよ」言葉はそこでとぎれた。カルロが身を乗りだして、エストレリャの頭のうしろをてのひらで支え、キスで口をふさいだのだ。彼の唇を感じたとたん、熱い炎が揺らめき、エストレリャははっと息をのんだ。カルロの肌は温かくいい香りがして、体はたくましかった。これこそが自分に必要なものだったのだと、彼女の本能が告げていた。エストレリャは両手でカルロの顔を包み、肌の感触や髪の手ざわりを楽しんだ。彼が唇でエストレリャの唇を開いた。舌で探られ、唇を強く押しつけられると、彼女の腹部はぎゅっと締めつけられた。キスの魔力は、テクニックというよりも情熱から生まれていた。二人のあいだの情熱は、手で触れられそうなほど激しかった。やがて、エストレリャは砂の上に横たえられた。黒いジャケット越しに、体がやわらかな砂の粒に沈み込む。カルロが頭を上げ、真剣な表情でじっと彼女を見おろした。「ぼくがどんなにきみにキスをしたいと思っていたか、わからないだろうね」「それなら、もう一度してみたほうがいいかもしれないわ」エストレリャはささやいた。 <10/23公開 第19話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年10月22日
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第17話 『心地よい安堵』 <全24話>────────────────────────────────────「みんなアリーの功績よ。ビジョンを持って、たいへんな役目をこなしたの。そんな彼女の作品をちゃんと観てもらいたかった。そして、そのとおりになった。あなたにお礼を言うわ」カルロは観客のいなくなった会場にすばやく視線をめぐらせた。「もっと大きな場所ならよかったんだけどな。もっとたくさんの人に見てもらうべきだ」「いつかはね」カルロの目がエストレリャの顔を探った。「きみは本当にあの子たちのことを心にかけているんだな」「当たり前でしょう。あんなにかわいい子どもたちなのに、あそこにいたら未来はないのよ。あの子たちにはもっと価値があるわ。家庭や教育や栄養を与えられる価値が。そして、何より、愛を与えられる価値が」「養子を斡旋したらどうかな?」「それも目標のひとつよ。でも、インド国籍の子どもを養子にするのは簡単ではないの。いろいろと複雑な手続きがあって、それをやっと切りぬけても、すべての子どもたちが養子になれるわけではないのよ。そうしたら、残された子どもたちはどうなると思う?だから、養子になれない子どもたちを助けるための資金をつくって、孤児院に教師を送ったり、本や備品を買ったり、薬や食べ物や服を買ったりしようとしているの。やらなければいけないことは山ほどあるのよ」カルロの表情がやさしくなった。「きみもそういうことがしたいんだね?」「ええ」カルロは手を伸ばして、エストレリャの顔にかかった黒髪をひと房、うしろへなでつけた。「だけど、きみに世界を救うことはできない」顔に当たる彼の手の感触は心地よかったが、その言葉に心がうずいた。「なぜ?」ありがたいことに、カルロは笑わなかった。ただ、思いやりに満ちた表情で、ゆっくりと首を一度振った。「そんなことを答えさせないでくれ。今日は長い一日だっただろう?夕食をごちそうさせてくれないか?」エストレリャは口を開いて断ろうとしたが、できなかった。まだカルロといっしょにいたい。今夜、彼がここに来てくれて、とてもうれしかった。彼の理解と協力に、必要以上の喜びを感じてしまっている。そんな状態で、別れを告げられるはずがない。頭を上げて、カルロの顔を見つめる。その顔はとても精悍で、とても落ち着いていた。見つめていると、なぜか胸がときめいた。わたしには、味方になってくれる人が必要だった。扉を開けて、事を起こしてくれる人が。カルロはそのすべてをしてくれた。カルロはそこにいて、わたしを支えてくれたのだ。彼のしてくれたことはすばらしかった。カルロのそばにいて、不安を感じないのは初めてだ。肩肘を張らずに、ただいっしょにいたいと思うのも。心配も、疑いも、抵抗する気持ちも、すべて消えうせた。もしかしたら、彼と夕食をとるのはいい考えかもしれない。「ええ、すてきね。ありがとう」二人は混雑したクロワゼット大通りから二ブロックほど離れ、どっしりと居並ぶホテルの裏に隠れた、静かなレストランで食事をした。食事のあとは、できるだけ人ごみを避けて〈カールトン・ホテル〉へ戻るため、ビーチへ向かった。月明かりが海面を照らし、黒っぽい砂に波が白く泡だっていた。 <10/22公開 第18話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年10月21日
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第16話 『絶賛の拍手』 <全24話>────────────────────────────────────上映会場は暗かった。映画が終わっても、完全な静けさに包まれていた。エストレリャは両手で椅子の肘を握り締めて、胸を刺すような失望の痛みをこらえた。観客に気に入ってもらえなかったのだ。感動を覚えてもらえなかったのだ。自分と同じようには、子どもたちのことを見てもらえなかったのだ。明かりがついても、赤い椅子が並んだ観客席は静まり返っていた。そして突然、だれかが拍手した。次の瞬間、おおぜいの人たちが拍手していた。エストレリャは鳥肌が立つのを感じた。拍手の音はだんだん大きく、速くなった。頭のなかでごうごうと鈍い音がとどろく。どう考えていいのかも、どう感じていいのかもわからない。気に入ってもらえたのだろうか?だれかが彼女の肘に手を触れ、耳元で言った。「立って。みんな、きみを見たいんだ。きみをたたえたいんだよ」エストレリャはゆっくりと立ちあがった。照明がさらに明るくなった。そんなものはないのに、スポットライトを浴びて立っている気がした。場内から観客が去ったあとも、彼女の耳のなかではまだ拍手喝采が鳴り響いていた。今、思うことはふたつだけだ。カルロがいっしょに上映会に参加してくれていたらよかったということ――ホテルに電話して伝言を残しておいたが、返事はなかった。そして、アリーがここにいて、すべてを見ていてくれたらよかったということ。アリーは大喜びしただろう。彼女こそ、みんなの賞賛を受けるにふさわしい人だった。「すばらしい仕事をしたね」エストレリャはくるりと振り返った。すぐうしろの列に、カルロが立っていた。盛装しており、とくに連れはいないようだ。彼女のなかに驚きとうれしさがわきあがった。赤いシルクのショールをむきだしの肩に巻きつけて言う。「来てくれたのね」「これは見逃せないよ」エストレリャの喜びはさらにふくれあがった。ほろ苦い気持ちで胸がいっぱいになる。カルロ・ガベリーニは敵だと思っていたのに、もうそんなふうには感じられない。「ホテルのフロントに伝言を残したのに、あなたから連絡がなかったから……」声がとぎれて、顔が赤くなった。まるで、女子学生のような話し方だ。「ミラノで商談があったんだ。飛行機で飛んで、一日向こうにいて、夕方戻ったばかりだ」「でも、映画は観てくれた?」「ぜんぶ観たよ」「正直に言って。どう思った?」「とても力強くて、とてもまっすぐな映画だ」頬がほてるのがわかったが、エストレリャには抑えようがなかった。ずっと長いあいだ、今夜を待っていたのだ。 <10/21公開 第17話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年10月20日
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第15話 『とけた誤解』 <全24話>────────────────────────────────────エストレリャは呪縛を解こうとするかのように片手を上げた。こんなことを考えたのは、暑さのせいだ。いつまでも弱まらない日差しのせいでもあるし、疲れているせいでもある。カルロのせいでも、運命のせいでもない。彼といっしょにいることを、こんなにうれしがっていてはいけないのだ。彼はどうしようもない男だ。彼のせいでわたしは窮地に陥った。つながりを持つなどとんでもない。意思のうえでも、気持ちのうえでも、そのほかのどんな部分においても。エストレリャは椅子を引いて立ちあがった。「もう遅いわ。行かないと。まだたくさんやることがあるの」カルロも立ちあがった。「ほかに手伝えることはないかい?もっと何かあるはずだ」確かにあるだろう。彼ほどの資産家なら、上映会場を押さえることも、観客を集めることもできるに違いない。しかし、それを頼むわけにはいかない。危険だし、間違っている。「役に立ちたいなら、〈リリーフ・ナウ〉という団体を支援してあげて。アリーが携わっていたNPOなの。寄付したら、きっと喜ばれるわ」いっしょに表へ出ると、カルロはエストレリャをタクシーの後部座席に押し込んだ。しかし、すぐには車を出させようとせず、座席に身を乗りだして、銀色の目でじっと彼女を見据えた。「ぼくには障害のある妹がいたんだ。二年ほど前に亡くなったけど、生きていたらきみのことを好きになったと思うよ、エストレリャ。きみがやっていることもすばらしいと感じたと思う」少しためらって付け加える。「ぼくもきみがやっていることをすばらしいと思っている」エストレリャは首を振った。なんと言えばいいかわからなかった。またもや、気持ちをかき乱されていた。相容れない感情があまりにたくさんありすぎた。カルロは静かな声で続けた。「妹のギャビーはルーマニアからもらわれてきた。母はずっと女の子をほしがっていてね。ギャビーは母のたいせつな娘だったんだ」エストレリャの顔をじっと見おろしながら、カルロは恋に落ちたことに気づいた。それも、激しい恋に。彼は手を伸ばして、エストレリャの頬に触れた。「うしろだてが必要なときはいつでも力になるよ、エストレリャ」エストレリャの目に涙が浮かんだ。「わたしは今でも『ワン・ハート』を上映したいの。もしかして、どこかに電話をかけるか何かして、裏から手をまわしてもらうことはできる?」カルロは上体を起こして言った。「手伝えることがないか考えてみよう」 <10/20公開 第16話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年10月19日
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第14話 『運命のめぐり合わせ?!』 <全24話>────────────────────────────────────「アンドレが薬物中毒だったとは知らなかった」カルロの声が沈黙を破った。エストレリャは静かに答えた。「たいへんな中毒よ。でも、あなたには必死で隠していたわ」「金はみんな薬に消えたのか?」エストレリャは身じろぎした。アンドレの話をするのはいやだ。彼のことは、考えるのさえいやなのだ。アンドレは平気で他人を傷つける。彼と付き合った事実は、今までの人生でも最悪の汚点だ。「それに、ギャンブルにもね。すっかり、悪い人たちの仲間になっていたわ。でも、くわしいことは知らないの。わたしにはそういうことを話さなかったから」カルロはため息をつき、黒っぽい髪に手を突っ込んで、くしゃくしゃにかき乱した。「まったく。完全に誤解していたよ。二と二を足して、七だと思っていたんだ。悪かった」エストレリャは目を上げてカルロを見た。胸がどきっとする。あまりにばかばかしい気がした。彼に夢中になるなんて、そんなことを自分に許せるはずがない。それでも、彼にはどこか引きつけられるところがある。「アンドレを信じていたのは、あなただけじゃないわ」しばらくして、エストレリャは揺れる気持ちを無視しようとしながら言った。心の片隅で、彼女は願っていた。もしかしたら、わたしと真剣に向き合ってくれる人が現れる日がくるかもしれない。いつの日か、自分にふさわしい男性と本物の愛を見つけられるかもしれないと。彼女は深い息をついた。「みんなそうだった。アンドレはなろうと思えば魅力的になれたから。どうやって人を操ればいいか、知っていたのよ。言うまでもなく、わたしも操られたわ」「きみがそんなふうに傷つけられたなんて、気の毒だったと思う」エストレリャは肩をすくめた。「ああいう目に遭わなかったら、しばらくヨーロッパから逃げだしたいとは考えなかったはずよ。そうしたら、映画のナレーターを引き受けることもなかったわ。言ってみれば、アンドレの裏切りのおかげで、自分の使命を見つけられたのよ」カルロの強い視線がエストレリャの視線と絡み合った。「運命だな」「違うわ」「運命だ」カルロは繰り返した。二人は黙りこくった。長い沈黙が、その場の空気を緊張させる。運命。エストレリャは浅く息を吸った。鼓動が速くなっていた。突然、カルロの言うとおりかもしれないと思えてきたのだ。もしかしたら、運命がわたしとカルロをめぐり合わせたのかもしれない。もしかしたら、二人の前にもっとすばらしいことが待ちかまえているのかもしれない。ともに生きていく宿命が。いいえ、そんなことはない。絶対にない。 <10/19公開 第15話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年10月16日
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第13話 『ほぐれた気持ち』 <全24話>────────────────────────────────────カルロ・ガベリーニの意見など重要ではない。彼はいやな男だ。彼のせいで、カンヌへの旅が完全な悪夢に変わってしまったのだ。カルロがまた口を開いた。「そのちらしを半分くれないか?配るのを手伝うよ。そうすれば、一日じゅう歩きつづけなくてすむだろう」これは、彼なりにあやまっているつもりなのだろうか?もしそうだとしても、謝罪を受け入れるべきかどうかよくわからない。「こういうことは得意なんだ」カルロはまじめな口調で付け加えた。「証券取引所で働いていたことがあってね。ビルじゅうを走りまわって書類を届けていた。配達は迅速確実だ」エストレリャは思わず口元をゆるめた。申し出を断りたくても、断れなかった。彼女はひどくカルロの助けを必要としていたし、それはインドで彼女を待つ子どもたちも同じだった。「これから、クロワゼット大通りに取りかかるの」「わかった。ぼくは右側の歩道を受け持つ。きみは左側を頼むよ。通りの向こう端で会おう」カルロの銀色の目から放たれた視線がエストレリャの視線とぶつかり、少しのあいだ絡み合った。彼女は全身にぞくぞくする震えが走るのを感じた。二時間近く経って、エストレリャはクロワゼット大通りの受け持ち区域で作業を終えた。彼女に気づくファンがだんだんと増えてきたせいで、ちらしを渡すのと同じくらい、サインをしたり写真のためのポーズをとったりするのに時間がかかった。またべつの写真撮影が始まったとき、カルロが人垣を分けてやってきて、エストレリャを救出してくれた。「冷たい飲み物はどうだい?今度はいいだろう?」エストレリャは感謝をこめてうなずいた。喉がからからだった。まぶしい日差しと騒がしい雑踏のせいで、頭もずきずきした。「ええ、ありがとう」カルロは眉をひそめ、手の甲をエストレリャの額に軽く押しつけた。「だいじょうぶかい、いとしい人?」カルロの手は冷たく引き締まっていて、とても心地よかった。エストレリャはやっとのことで小さな笑みを浮かべた。「喉が渇いているだけよ」カルロはうなずいたが、用心深い表情は変わらなかった。「日陰へ行こう」そう言って、エストレリャの腰にかばうように手を置き、こみ合った歩道を離れて、ひときわ目立つ〈マルティネス・ホテル〉の石段へ向かった。カルロの指が背中に押しつけられたとき、エストレリャは震えをこらえた。彼の手の感触や、人ごみのなかでも自信に満ちてくつろいで見える態度が、とても好ましく思える。二人はホテルのロビーを抜けて、テラスのついたレストランに入ると、窓ぎわの席に座った。開け放たれた背の高い窓々から、午後のそよかぜが吹いてくる。カルロがアフタヌーン・ティーを二人分注文した。ぱりっとした白いリネンがかかった小さなテーブルに向かい合って座っているうちに、エストレリャの気持ちは少しずつほぐれはじめた。太陽は輝き、混雑したビーチに、きちんと並んだストライプのパラソルや、ブロンズ色に焼けたたくさんの体が見える。 <10/16公開 第14話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年10月15日
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第12話 『嬉しいカルロの賛辞』 <全24話>────────────────────────────────────「みんなを守るつもりだったんだ」なんて虚しい言葉だろう。なんて説得力のない言い訳だろう。「きみはアンドレに金があるときだけいっしょにいて、あいつが事故を起こして何もかも失うと姿をくらました」エストレリャは首を振った。傷つき、あきれたように唇を震わせる。「事実に関心はないでしょうけど、わたしはアンドレを利用してなどいないわ。あの人がわたしを利用したのよ。わたしの銀行預金をぜんぶ引きだしただけでなく、こっそりほかの女性たちと関係を持っていた。あの発作を起こしたときも、ひとりじゃなかったわ。わたしの親友と裸でベッドに入って、おかしな白い粉を吸っていたのよ」カルロはハンマーで殴られたような気がした。「なんと言えばいいのか、言葉もないよ」「それはそうでしょう。残酷なことを言うほうが簡単だもの」エストレリャが、もうまとわりつかないでほしいと言うと、カルロはそのとおりにした。ひとりになったところで、彼女は二、三時間ほど自分を哀れんで過ごした。それから、きっぱりと気持ちを切りかえた。この映画を埋もれたままにしておくつもりはない。上映できないなら、ほかの方法で配給会社の関心を引くのだ。カンヌじゅうに『ワン・ハート』のあらすじを配ろう。ちらしを千枚つくって、いろいろな場所に置いてもらおう。いい計画に思えた。しかしそれは、実際に千枚のちらしを配りはじめるまでのことだった。翌朝遅く、エストレリャはクロワゼット大通りのはずれに立っていた。通りにはアメリカ館やイギリス館といった名前の巨大テントが並んでいる。それぞれのテントは、飲み物を飲んだり、おしゃべりをしたり、取り引きをしたりする人々でにぎわっている。朝からのちらし配りで足や腕が痛むけれど、今はそれを忘れなければならない。痛みなどどうでもいい。だいじなのは少女たちの未来と、アリーの夢だ。それらが託されたこの映画だ。まめのできたかかとや、力の入らなくなった腕ではない。エストレリャが少女たちのことを思いだして勇気を奮い起こし、イタリア館の前を通りすぎたとき、テントのなかから声がかかった。「どんな調子だい?」エストレリャの体がこわばった。また、彼だ!カンヌには何千もの人がいるのに、なぜカルロ・ガベリーニとばかり顔を合わせなければならないのだろう?分厚いちらしの束をしっかりとつかみ、彼女はカルロを眺めた。彼はテントのなかをぶらぶら歩いて、道路ぎわへやってくる。今日の彼は、またいちだんとすてきに見える。さりげなく襟元のボタンをはずした白いワイシャツ。イタリア製の高級生地を使ったライトグレーのパンツ。上品な革のベルトと靴。そしてもちろん、目をみはるほど美しい顔。「うまくいっているわ」エストレリャは答えた。もう少しで倒れそうだったが、そんなことを知られたくなかった。「なかへ入って、ちょっと休まないか?冷たい飲み物でもどうだい?」「だめよ。配らなければならないちらしが、まだ何百枚もあるの」「一枚もらえるかな?」エストレリャは黙って手渡し、ちらしを見つめるカルロに向かって言った。「作品の概要よ」彼は内容に目を通してから、顔を上げて感心したようにうなずいた。「よくできている。作品の特色、人物紹介、脚本、あらすじ、連絡先。すべてそろっている。がんばったな。これほど行き届いて完璧な作品概要を、ここで見たのは初めてだよ」気持ちのこもったまなざしのせいか、賞賛の言葉のせいか、どちらかはわからなかったが、エストレリャはうれしさで顔を赤らめた。好意的な言葉を聞くのは、とても快かった。しかし、カルロの賛辞に大喜びしている自分に気づいたとたん、そのばかさかげんをののしらずにはいられなくなった。 <10/15公開 第13話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年10月14日
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第11話 『激しい怒り』 <全24話>────────────────────────────────────〈マジェスティック・ホテル〉でのレセプション。ゆうべ出席したパーティーのあとで、映画の上映を取り消されたというの?みんなの前で、カルロに信用を傷つけられたあとで?絶望的だ。それに、もうくたくただ。長いあいだこの作品のために闘ってきたのに、何ひとつうまくいかない。エストレリャは言葉をなくして、がっくりと肩を落とし、映画祭の事務局をあとにした。日差しの下に出て、太陽のまぶしさに目をしばたたく。カルロ・ガベリーニが、歩道ぎわに止めた車のかたわらに立って、待っているのが見えた。彼女のなかで、何かがぷつんと切れた。自制心も忍耐も冷静さも、すっかり失われていた。抑えようのない怒りをぶつけたくて、カルロにつかつかと歩み寄り、大声をあげた。「やってくれたわね。あなたのせいよ。あなたに笑い物にされたあと、上映は中止になったのよ」「ちょっと待った。落ち着いてくれ」カルロが両手を上げた。「落ち着けですって?よくもそんなことが言えるわね!映画を配給してもらうためにここへ来たのに、あなたが何もかもめちゃめちゃにしたのよ。わたしの評判まで地に落としてね。よく平気でいられるわね、ガベリーニ。どうして、こんなふうに人を踏みつけにできるの?」「踏みつけになんかしていない」「したわ」エストレリャの心臓は激しく打ち、両手は震えた。カルロがよけいなまねさえしなければ、こんなことにはならなかったのだ。「知っているでしょう。劇場はみんな、何カ月も前から予約されているのよ。去年の映画祭が終わってすぐ、予約されたところだってあるわ。こんなぎりぎりになって、べつの場所を見つけるのは無理よ」カルロは額にしわを寄せた。「悪かった」エストレリャの目に涙があふれたが、彼の前で泣くくらいなら、地獄の炎で焼かれるほうがましだった。「悪かったなんて、思っていないくせに。計画どおりになったんでしょう。ちゃんとした映画製作者としてのわたしの信用をだいなしにして」バインダーを胸に抱き締める。「でもね、カルロ、あなたが傷つけたのはわたしじゃない。おおぜいの幼い少女たちなのよ」彼女はバインダーを開いて、白黒写真を貼ったページを指さした。「この赤ちゃんたちはみんな、生まれると同時に死ぬことになっているの。なぜだかわかる?女の子だからよ。インド南部のタミール・ナドゥ州には、生まれると同時に女の子を殺してしまう村がいまだにあるの。女の子が生まれると、家族に呪いがかかると信じられているから」頭を上げて、カルロを見る。悲しみと怒りで目がちかちかした。「『ワン・ハート』は、こういう望まれない赤ちゃんたちを救おうとしている、タミール・ナドゥの孤児院の話なの。貧しくても変化を起こそうとしている、インド南部の人たちについての映画なの」バインダーから写真を貼ったページを破りとって、カルロに突きつける。「観てもらわなければいけない映画だったのよ。観てもらえるはずだった。あなたがわたしをほうっておいてくれさえしたら」カルロは写真を貼ったページにじっと目を落とした。六枚の写真にうつった女の子たちはみんなとても幼く、一歳から三歳までの幼児がほとんどだった。みんな美しい茶色の目を持ち、暗い表情をしている。「ぼくが上映を中止にしたわけじゃない」静かな声で言う。「そんなことをしようなんて思いもしないよ」「でも、わたしに恥をかかせたわ」カルロは、最後に自分がこれほど卑劣で意地の悪いけちな人間になった気がしたのはいつか、思いだせなかった。エストレリャの言うとおりだ。ぼくは彼女に恥をかかせた。彼女が新しい標的をだまして、利用するつもりだと思ったのだ。ジョイがぼくをだましたように。エストレリャにだまされたと、アンドレが言っていたように。しかし、アンドレはうそをついていたのだ。エストレリャはジョイとは違う。無神経で自分のことしか考えない人間ではない。「どうして邪魔したの?」エストレリャがかすれた声で尋ねた。カルロは罪悪感にさいなまれて、ごくりと唾をのみ込んだ。 <10/14公開 第12話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年10月14日
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第10話 『必死の抗議』 <全24話>────────────────────────────────────運転手つきのリムジンの後部座席に腰かけると、エストレリャの手はぶるぶる震えだした。「中止になったことを、どうしてあなたが知っているの?」「いろいろききたいことがあって、問い合わせたんだ」「なぜ?」「きみの作品に興味があった」「本当に作品があるとは思っていなかったからでしょう?」「だって、きみはモデルじゃないか、エストレリャ」「あなたなんて、地獄に落ちればいいのよ!」エストレリャは身を乗りだして、後部座席と運転席を仕切っているガラスを叩いた。「止めてちょうだい。降りたいの」カルロがエストレリャの腕に手を置いた。「ばかを言うな。もう少しで着く」エストレリャはカルロの手を払いのけた。「かまわないわ。わたしという人間を勝手に判断しないで。あなたに面倒を増やされなくても、わたしの人生はもう充分にたいへんなのよ」運転手が歩道ぎわに車を止めた。エストレリャはバッグとバインダーを急いで手に取った。バインダーには映画の脚本や人物紹介、テーマを始めとして、作品に関する資料がまとめられている。カルロが小声で毒づいた。「きみの役に立とうとしているんだよ、エストレリャ」「役に立つですって?」エストレリャはドアのハンドルをつかんで言い返した。よくもぬけぬけとそんなことが言えたものだ。「ゆうべ、〈マジェスティック・ホテル〉で役に立ってくれたみたいに?だったら、やめて。あなたが役に立つと思っていることは、わたしの映画をつぶすことだから」彼女は車の後部座席からさっと降りて、国際映画祭の事務局へ走った。しかし、息を切らして助けを求めても、そっけない態度であしらわれただけだった。「もうその劇場は使えませんよ」事務局の受付にいた女性は、登録用紙の束をぱらぱらとめくりながら答えた。エストレリャはカウンターに分厚いバインダーを置いた。「でも、どうして?なぜなの?」「上映室の予約が重なっていたんです。どちらかを取り消さなければならなくて、それがあなたの映画だったというわけです」「でも、あの場所は何カ月も前から予約してあったのよ」エストレリャはバッグのなかをかきまわして書類を取りだした。「確認書だってあるわ」「それはただの紙切れです。だれもが同じ紙を持っていますし、映画を持っているんです。ここはカンヌなんですから」エストレリャは確認書を握り締めた。胸に氷の破片がつかえたような気がした。「何か方法があるはずよ」「この件はもうわたしの手を離れていますから、わたしにできることはありません」そんな話を受け入れられるわけがない。「わたしのドキュメンタリーを取り消すっていうのは、いつ決まったの?」女性はフランス語で何かつぶやいてから、コンピューターのところへ歩いていって、ファイルを開いた。エストレリャを見あげて言う。「きのうの夜遅くです。〈マジェスティック・ホテル〉でのレセプションのあと、会合がありました」 <10/13公開 第11話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年10月09日
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第9話 『映画が上映ですって!?』 <全24話>────────────────────────────────────カルロもアンドレに似て思いやりがなかったが、キスはすばらしかった。その触れ方やキスの仕方に、心の底から温かな気持ちにさせてくれる何かがあった。たった一度のキスで、どうして頭からもやもやしたものが取り除かれたのだろう?なぜ可能性や未知の人生を信じる気持ちになったのだろう?いいえ。たった一度のキスで、そんなふうになるはずがない。ただの錯覚だ。単なる気の迷いだ。疲れたせいで、どうかしているに違いない。そろそろ眠らなければ。明日は『ワン・ハート』が上映される。カンヌに来て以来、いちばんたいせつな日だ。ここにすべてがかかっている。映画を上映することによって、言葉では表せないものが色彩や映像で伝わり、インドの窮状を訴えられるはずだ。村の孤児院や、家族に捨てられたおおぜいの幼い少女たちや、成長して売春婦として売られる少女たちの運命を、人々にわかってもらえるだろう。エストレリャは部屋の明かりを消した。朝になれば、友人のアリーが骨折ってきた仕事がやっと日の目を見るのだ。電話が鳴る音で、エストレリャは目覚めた。「悪いニュースを知らせるのはいやだが、下へ下りてきたほうがいい」このハスキーな声の持ち主は、ひとりしか知らない。エストレリャは、カルロ・ガベリーニの声を聞きわけてしまったことにいらだちながら答えた。「興味ないわ」「あるはずだ」エストレリャはベッドの上で体を起こした。「わたしには、こんなことをしている暇はないのよ」「あると思うよ」カルロの声がやさしくなった。「エストレリャ、下りてきたほうがいい。だいじな話なんだ」その口調のどこかに、背筋を震わせるものがあった。ひどく心配しているような響きだったのだ。しかし、カルロは友人でもないし、味方でもない。それなのに、なぜわたしのことを心配しなければならないの?「なんなの?おどかさないでちょうだい」「すまない」一瞬ためらったあと、カルロはまた話しはじめた。「きみの映画が上映中止になった」上映が中止になった?エストレリャは頭から冷たい水を浴びせられたような気がした。上映が中止になるはずがない。大手の配給会社に興味を持ってもらういちばんのチャンスなのに。「そんなはずないわ。広告も出したし、ちらしも配ったのよ」「どうも、劇場で何かの手違いがあった――」カルロが最後まで言い終わらないうちに、エストレリャは電話を切って、ベッドから飛び起き、服を着た。エレベーターのなかで、黒みがかった長い髪をポニーテールに結っていると、その最中にドアが開いた。電話を切って三分もしないうちに、彼女はロビーに到着し、待っていたカルロに合流した。「どうしたっていうの?」色褪せたジーンズにグリーンの紗のブラウスの裾をたくし込みながら尋ねる。カルロが言った。「表に車を待たせてある。いっしょに映画祭の事務局へ行こう」 <10/09公開 第10話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年10月08日
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第8話 『悔しい思い』 <全24話>────────────────────────────────────「それじゃあ、映画は本当にあるのか?」「ああ。『ワン・ハート』っていう映画だ」レミはまたふうっと煙を吐きだした。「おまえが知らないとは驚きだな。みんな寄ってたかって、あの映画に金を出してもらうのはたいへんだろうって話してるが、実物を観たやつはいない。まあ観なくても、想像はつくよ。彼女はモデルだ。脳外科医じゃない。頭の程度は知れているってことさ」カルロはブランデーに口もつけずにホテルを出た。エストレリャの映画は正真正銘の本物なのか?孤児を撮ったドキュメンタリーだって?それなのに、彼女がもっとも必要としていた人々の前で、ぼくは恥をかかせたのか?もし、そうなら、このぼくは救いようのないろくでなしだ。熱いシャワーを浴びたあと、エストレリャはホテルの白いバスローブにくるまって、部屋からバルコニーへ出るドアを開けた。どしゃ降りはこぬか雨に変わり、さわやかで芳しい夜の香りがよりいっそう強く感じられる。それでも、今夜起こったいろいろなことを忘れるのはむずかしい。問題ばかりの一夜だった。急いで服を着て、飛行機に飛び乗り、自分が本当に必要とされているインドへ戻りたい。ここでは、必要とされていないばかりか、望まれてさえいない気がする。カルロ・ガベリーニのせいで、現実をはっきり思い知らされた。わたしはこのカンヌで、顔がきれいなだけで能のない、ありふれたモデルのひとりとみなされている。六年前、ブエノス・アイレスをあとにしたのは、気ままで自分のことしか考えない母親と、母親の裕福な家族たちが享受していた、やはり気ままで自分たちのことしか考えない生活から逃げだすためだった。幼いころからずっと、エストレリャはもっと多くを求めていた。物質的な意味ではなく、もっと多くの感情や、もっと多くの情熱や、もっと多くの行動を起こすことを。モデルの仕事はもっとおもしろい人生を送るためのチケットに思えた。しかし、その仕事を六年続けてみると、制限がさらに増えただけだということに気づいた。男たちはきれいな女というイメージを愛して、彼女に口を開かせたがらなかった。だから、エストレリャは話すのをやめた。そしてそう長くは経たないうちに、自分のことを、心は冷たく孤独でも顔では笑っているバービー人形みたいに感じるようになっていた。彼女は小さくため息をついてバルコニーのドアを閉め、そこに背中をあずけた。もう何カ月も、デートをしていない。アンドレと別れてから、だれとも付き合う気になれなかったのだ。しかし、今夜のカルロのキスで、心のなかの何かがかき乱されていた。 <10/08公開 第9話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年10月07日
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第7話 『エストレリャの余韻』 <全24話>────────────────────────────────────カルロが顔を上げて、エストレリャの赤くほてった頬を親指でなでた。「また明日、カーラ(いとしい人)」“いとしい人”と呼ばれて、エストレリャははっと身をこわばらせた。「明日?わたしのことを追いまわすつもり?」カルロがかすかに口元をゆるめた。「きみは追いまわしたくなるようなすてきな腰をしている」「あなたはやっぱりいやな人ね、ミスター・ガベリーニ」「けっこう。きみにいい人だなどと思われたくはない」視線と視線がぶつかり、絡み合った。カルロの目のなかに、言葉とは裏腹の気持ちがふっと浮かぶのが見えた。そして彼は、背を向けて歩き去った。カルロが車に戻ろうとホテルのロビーを横切っていると、バーから声がかかった。「カルロ、いっしょに一杯やろう!」大学時代からの友人、レミだった。卒業後はキャスティング・エージェントになり、パリにオフィスをかまえて大成功をおさめている。「さっきのは、エストレリャ・ガルバンじゃないのか?」レミはそう尋ねて、バーテンダーに手ぶりでブランデーを二杯注文した。カルロは薄暗いバーのスツールに腰かけた。「そうだ」答えながら思う。エストレリャ・ガルバンには、どこかぼくの心を強くとらえるところがある。彼女のことが好きだ。好きになるべきではないのに、好きになっている。「モデルと付き合うのは、やめたんじゃなかったのか?」レミが尋ねた。「やめたよ」「じゃあ、付き合ってるわけじゃないんだな?」「ああ」カルロはエストレリャの情熱的なはしばみ色の目や、やわらかな唇や、自分の体にしっくりとなじんだ体のことを、懸命に忘れようとした。「どうしてそんなことをきく?」「ぜひとも彼女をベッドに連れ込みたくてね」カルロはかっとした。そして、胸がぎゅっと締めつけられた。ばかばかしい。だいいち、エストレリャがレミに興味を持つとは思えない。レミはたばこのパックを軽く叩いて、飛びだした一本をカルロに勧めた。「ところで、ジョイはどうしているんだ?」カルロはたばこを断った。何年も前、カルロが付き合っていたアメリカ人モデルのジョイに、レミはずっと夢中だった。彼女は出世のために利用できる人間はだれでも利用した。カルロの妹、ギャビーまでも。カルロと手を切ったとき、ジョイはギャビーとも手を切った。妹は打ちひしがれた。どうして“親友”にひどい目に遭わされたのか、理解できなかったのだ。「さあね」レミはライターの蓋をかちっと開いて、たばこに火をつけた。「エストレリャは映画の後援者をつかまえようとしているらしい。だが気の毒なことに、彼女には自主製作映画をどうやって配給すればいいのかが、まったくわかっていない」「プロデューサーをしているわけじゃないんだろう?」「そんなに大がかりな映画じゃないんだ。ドキュメンタリーでね」レミはたばこの煙をふうっと吐きだして言った。「インドの孤児を撮ったものだよ。最初、あのモデル嬢はナレーターだけやるって話だったんだ。だが撮影が終わってすぐ、アイルランド人の若い女性監督が殺されてしまった。それで、彼女があとを引き継いだってわけさ」カルロははらわたが岩のように硬くなるのを感じた。〈マジェスティック・ホテル〉のレセプション会場にいた自分の姿が思いだされる。自分の口から出たいくつもの嘲りの言葉も。 <10/07公開 第8話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年10月06日
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第6話 『運命なんて』 <全24話>────────────────────────────────────エストレリャは頭を上げた。一瞬、視線と視線が絡み合った。「ありがとう」カルロの胃がぎゅっと締めつけられた。エストレリャの目は美しく、感情と知性と熱意に満ちている。写真のなかの彼女は見たことがあった。ミラノのファッションショーでも、舞台を歩く彼女を何度も見た。その表情はいつも硬く、うつろで、からっぽだった。だから、彼女の人間性も同じに違いないと決めてかかっていた。だがカルロはだんだんと気づきはじめていた。彼女は想像していたより、ずっと興味深い女性なのかもしれない。アンドレが言っていたような、冷たくおもしろみのないモデルというわけではなく。カルロは〈カールトン・ホテル〉のボーイに駐車を頼み、タキシードのジャケットを脱いでエストレリャのむきだしの肩を包むと、そばに付き添ってこみ合った優美なロビーに入った。エストレリャはまだ神経を高ぶらせていた。しかし、濡れた長い髪を頭に張りつかせ、ジャケットをはおった姿にさえ、いくつもの顔を振り向かせる力があった。二人でロビーを進んでいくあいだに、カルロは人々の視線を感じ、ささやきを聞いた。エストレリャもきっと同じだろうと思ったが、彼女は何も言わず、胸を張り、頭を高く上げて、世の中になんの心配もないような態度で歩いていた。エレベーターホールに着くと、エストレリャはタキシードのジャケットを肩からはずし、カルロに返した。顔には用心深い表情が浮かんでいる。「よくわからないわ。今夜、あなたはわたしにさんざんひどいことを言ったのに、そのあとで助けてくれた。なぜなの?」いい質問だ。カルロは胸のなかでつぶやいてから、肩をすくめて答えた。「そうなる運命だったんだよ」エストレリャの口元がこわばった。「わたしは運命なんて信じないわ」エレベーターの金色の扉が音もなく開いた。カルロがドアを押さえようとして前へ出ると、エストレリャに体が近づき、彼女の香水がふわりと漂った。ほのかな花の香りが、彼女にぴったり合っているように感じられた。「信じたほうがいいかもしれない」カルロはエストレリャの耳元でささやき、頭をさげて、彼女にキスした。カルロのキスは、エストレリャがこんなふうにキスされたいと、いつも願っていたとおりのキスだった。キスは完全に理想どおりなのに、相手は完全に理想とは違っている。しかし、相手のことを考えずに、感覚と感情だけに身をゆだねていると、キスはとてもすばらしかった。そう、ぞくぞくするほど刺激的だった。カルロの両手が頭のうしろから背中へと滑りおり、腰のあたりで止まる。ゆっくりと背筋をたどられて、エストレリャの全身の神経は喜びで震えた。カルロの触れ方は、男性は女性にこう触れるべきだという手本のような触れ方だった。手はしっかりと相手の体を支え、唇は強くも弱くもなく押しつけられているのに、抑えることも抵抗することもできない反応を引きだす。これは生まれて初めての本物のキスだ。エストレリャはくらくらする頭でそう思った。しびれるようなキス。人を永遠に変えてしまうキス。 <10/06公開 第7話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年10月05日
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第5話 『理想的なキス・・』 <全24話>────────────────────────────────────一瞬、頭のなかでとどろく憤怒の叫びしか聞こえなくなったが、エストレリャはやっとのことで怒りをこらえた。インド旅行で出会った、親をなくしたおおぜいの少女たちのことを忘れてはならない。未来も希望もない、百人もの少女たち。しかし、あのドキュメンタリー映画がすべてを変えてくれるだろう。彼女たちにチャンスを与えてくれるだろう。カルロの視線がエストレリャの目をとらえた。「いくら必要なんだ?」エストレリャは顎を突きだした。「いくら持っているの?」突然、カルロが笑い声をあげた。「わかったよ。その映画について話してくれないか。主役は、きみか?」「いいえ」ふいに、彼女は思った。こんなくだらない会話を、これ以上一瞬たりとも続けていられない。わたしが自己弁護をしなければならない理由はないし、もちろん、彼の侮辱をがまんしなければならない理由もない。自尊心を失わずに、お金を手に入れて、映画『ワン・ハート』の後援者を見つける方法はきっとある。エストレリャはカルロの視線を受けとめ、どうにか小さな笑みらしきものを浮かべて言った。「失礼するわ、ミスター・ガベリーニ」〈マジェスティック・ホテル〉を出ると、驚いたことに、外はどしゃ降りだった。エストレリャは激しく打ちつける雨を見つめた。カンヌの町の明るい光がぼんやりとにじんでいる。彼女は雨のなかを歩きだしたが、二ブロックほど行ったところで、タクシーを待てばよかったと思った。ずぶ濡れで寒いのに、まだ何ブロックも歩かなくてはならない。通りを渡ろうとしたとき、視界の隅でさっと動くものがあった。うなじの毛が逆立ち、第六感が振り返れと警告を発する。そのとおりにすると、自分がもう、ひとりきりではなくなっているのがわかった。すぐうしろに、男が二人いる。何かほしいものがあるのは明白だ。ほかに歩いている人がいないかと、エストレリャは左右に視線を走らせたが、雨で街灯の明かりはぼやけ、通りは暗くてよく見えなかった。ホテルまでひとりで歩いて帰ろうと思ったのは、とんでもない間違いだったのだ。そのとき、黒っぽいベンツが歩道のわきに止まった。薄い色のついた窓が開き、カルロ・ガベリーニがだれも座っていない助手席越しに身を乗りだした。「だいじょうぶか?」エストレリャは身を震わせて、濡れたショールを胸に引き寄せた。「会えてうれしいわ、カルロ」彼は銀色の目を細めて、車のドアを開けた。「乗って」エストレリャが助手席に座るとすぐ、カルロはアクセルを踏み込んで、歩道から離れた。「〈カールトン〉に泊まっているんだろう?」〈カールトン・ホテル〉は、アメリカの有名な映画監督やプロデューサーたちがそろって滞在しているホテルだ。「ええ、ありがとう」手がぶるぶる震えていたので、エストレリャは何度か失敗してからやっとシートベルトを締めることができた。カルロが前を向いたまま、視線をちらりと横に投げた。「警察に通報しないといけないな」「それで、なんて言うの?通りの角で、男が二人近づいてきたって?」「けがをしていたかもしれないんだぞ」「わかっているわ」 <10/05公開 第6話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年10月02日
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第4話 『取り引きですって!?』 <全24話>────────────────────────────────────エストレリャはむきだしの腕をさすって、粟立った肌を元に戻そうとした。うまくいかないことばかりだ。しかも今度は、イタリア人のベンチャー投資家カルロ・ガベリーニに、カンヌでも評判の高いパーティーに出席した人々の前で侮辱された。「アンドレの銀行口座に手をつけたことはないわ」「それなら、金はどこへ消えた?」エストレリャはいらいらして肩をすくめた。「たぶん、麻薬を手に入れるのに使ってしまったんでしょう。それで発作を起こしたんだもの」「だからあいつを捨てたのか?」「お互い合意のうえで別れたのよ」どうしてわたしは、わざわざこんな会話に付き合っているのだろう?「アンドレの言っていることと違うな」エストレリャはこみあげるむかつきをこらえた。本当に吐きそうだった。「ミスター・ガベリーニ、そんなにわたしのことが気に入らないなら、どうして苦労してまで今夜のパーティーに招待してくれたの?」「好奇心を満たすためさ」広い肩がすくめられた。「それに、阻止するためだ。このカンヌで、きみがだれかにつけ込むことが、絶対にないようにしたかった。きみは汚いうそをついて、人をだますからな」「わたしは人をだましたりしないわ」エストレリャはカルロ・ガベリーニの顔から目を離せずに言った。彼はそのくらい力強い骨格を持ち、まるで建築物にたとえられそうな、目鼻立ちのくっきりした顔をしている。「ここへ来たのは映画祭のためよ」「映画祭?」「映画を一本、持ってきているの」カルロは低く口笛を吹いた。「映画ね。最初はモデルで、次は女優か。きみにそんなにたくさん隠れた才能があるとは知らなかった」この人と話していると、ひどく不快な気分になる。エストレリャはまじめに仕事に打ち込んできたし、そうしたという自信もあった。「今夜ここに来ている人たちの半分はそうでしょうけど、わたしも作品を売り込んでいるの」カルロの視線はエストレリャに据えられ、またひと口シャンパンを飲むあいだも揺らがなかった。「きみが金脈を探しているのはわかっていたよ」金づる。金持ちの中年男。少し前に浴びせられた嘲りの言葉が耳のなかでこだましたが、エストレリャは嫌悪を抑えつけた。ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。わたしには、今夜ここにいる人たちの助けが必要なのだ。「わたしは映画の買い手を探しているの。もし見つけられなければ、ひとりで世の中に広めなければならない。でもこの業界におけるほかの活動と同じで、そうするにもお金がかかるのよ」「それなら話は簡単じゃないか。きみは金を必要としている。ぼくは金を持っている。喜んで力になるよ」エストレリャは体をぶるっと震わせた。ビーズのイブニングドレスが肌をこする。カルロ・ガベリーニからはなんの敬意も感じられない。彼の目に映るわたしは、金銭で自由になる女でしかないのだ。そして彼は今、お金を差しだそうとしている。「何が目的なの、ミスター・ガベリーニ?」「簡単な話だ」カルロの唇が弧を描く。目が細められて、彼は笑顔になった。「きみさ」しばらくのあいだ、エストレリャはただ彼を見つめた。激しく沸きたつ感情を表現する言葉が見つけられない。「わたし?」カルロが頭を縦に振った。パーティー会場の天井に並んだ豪華なクリスタルのシャンデリアの光を受けて、黒い髪が輝いた。「きみがアンドレとしたのと、同じ取り引きがしたい」 <10/02公開 第5話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年10月01日
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第3話 『激しくぶつかり合う感情』 <全24話>────────────────────────────────────エストレリャは顔をしかめた。「美人だと、節操がない女ということになるの?」ひどくショックを受けた口ぶりだ。傷ついた声の調子が、カトリック校の女子生徒を思い起こさせる。この演技力には舌を巻かざるを得ない。予想していたより、かなり上手の役者だ。それとも、ジョイのおかげでぼくの人を見る目が鋭くなっただけだろうか。「そんなことは言っていない。きみはすばらしいよ。お姫さまみたいだ」「当ててみましょうか。あなた、お姫さまに恨みを持っているんでしょう」「わがままなお姫さまにね」カルロは答えて、グラスを傾けた。シャンパンの泡が浮かびあがる。「だけどきみは、自分はどちらでもないと言うんだろう?」「わたしのことならわかっていると言わんばかりね」「ああ、充分わかっているさ」エストレリャは吐き気を覚えた。ときどき、この仕事がいやになる。自分の顔形が見ず知らずの他人に覚えられていることが。でもわたしは、十八歳のときにみずからの人生を選んだのだ。ヨーロッパでモデルになるのは、アルゼンチンから抜けだすためのチケットだった。そして、ブエノス・アイレスをあとにしてから、一度も過去を振り返ったことはない。「わかっていないわ」エストレリャは冷たく言った。亡くなった父親のティノ・ガルバンは、一日のうちにいくつもの土地を売り買いするような、アルゼンチンでも屈指の資産家であり、伯爵の爵位を持つ貴族だった。だから、傲慢で権力を振りかざす男については、よく知っている。「それなら、教えてくれよ」男が言った。「ぜひ聞きたいね」無遠慮にじろじろ見られて、エストレリャはここから逃げだして隠れたくなった。この男はただ外見の品定めをしているのではない。きらびやかなイブニングドレスの下の体がどんなふうか、頭に思い描いているのだ。とはいえ、この体がどんなふうか彼がすでに知っているのは間違いない。去年、肌をあらわにした下着の広告が、イタリア全土の半分に出まわったのだ。「あなたはいやな人ね」「それはない。さんざん苦労して、今夜のレセプションの招待状を手配してやったのに」エストレリャはまだ固まっていないセメントに足を踏み入れたような気分になった。「あなたが招待状を送ってくれたの?」男はエストレリャにじっと目を据えたまま、グラスからシャンパンを飲んだ。「ああ」「あなた、何者なの?」彼は口元をゆるめた。「名刺をあげただろう」そうだった。名刺は彼女の汗ばんだ手のなかで握りつぶされ、くしゃくしゃに丸まっていた。象牙色をした厚手のカードについたしわを伸ばして、ちらっと目をやる。そこには、名前と電話番号だけが印刷されていた。その名前を読む。カルロ・ガベリーニ。彼女は頭がくらくらした。そんなはずがない。まさか、そんな……。「どうかしたかい、ミス・ガルバン?」エストレリャは目を上げて、男を見た。口がからからに乾いていた。この人がカルロ・ガベリーニであるはずがない。カルロ・ガベリーニはアンドレの主力スポンサーである投資銀行の社長だ。アンドレのレーシングカーに資金を出し、この一年のあいだに、彼の口座に数百万ドルもの大金をあっさり注ぎ込んだ。カルロは首をかしげ、情け深いとも受けとれる笑みを浮かべた。「アンドレの銀行口座の金を全額引きだしたとき、きみはまだ彼の愛人だったのか?それとも、金を奪ったのは彼が発作を起こしたあとか?」 <10/01公開 第4話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年09月30日
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第2話 『激しくぶつかり合う感情』 <全24話>────────────────────────────────────彼女はどこへ行っても、パパラッチにつきまとわれていたからだ。とくに今年の初め、イタリア人レーサーのアンドレ・モッシーモとデートしていたあいだは。「“最近まで”という部分を強調したいわけね」エストレリャはほほえんで答えたが、目は怒りに燃えていた。「そのとおり。アンドレがあの悲惨な事故に遭ったあと、きみはあいつを捨てただろう?」このひと言が、各国からやってきた投資家たちの一団に威力を発揮したらしかった。経営幹部たちは、二人、三人と、去っていった。エストレリャは強いパニックに襲われた。彼らを失ってしまう。映画を売り込むチャンスを失ってしまう。みんなの前でこの男にこんなふうに恥をかかされては、まじめな題材の映画を持ってきているとは、だれも考えてくれないだろう。「完璧だ」二人きりで取り残されると、イタリア男が言った。「これで、きみとぼくだけになった」目がひりひりする。エストレリャは両手を握り締めて、男に押しつけられた名刺をくしゃくしゃに丸めた。世界じゅうに広めなければならないたいせつなドキュメンタリー映画があるのに、この男に笑い物にされたおかげで、後援者を見つけられなくなってしまった。「よくもこんなことをしてくれたわね」成功の機会を失ったショックに打ちのめされて、息が詰まった。今夜にたくさんの望みをかけていたのに。今夜を心から待ち望んでいたのに。男が黒いタキシードのパンツのポケットに両手を突っ込んだ。「何をしたって?」しかし、カルロにはわかっていた。自分が何をしたかも、何をしようとしているかも。エストレリャに招待状を手配してやったのは彼だった。ミラノでもトップの人気を誇るモデルの彼女が、上流階級の者だけに許されたパーティーの招待状を入手するために動いていると聞いて、好奇心を覚えたのだ。以前、エストレリャがその美しさを武器として利用するところを、実際に見たことがある。だから、彼女がどれほどずる賢くふるまえるかはわかっているつもりだ。アルゼンチン出身のこのモデルが、今度は何をもくろんでいるのか知りたい。なぜ、カンヌに来たのか?何を手に入れたがっているのか?もっと正確に言えば、だれを食い物にしようとしているのか?「あんなふうに侮辱して」エストレリャが刺すような視線を放った。目は涙で潤んでいる。みごとなものだ。そう認めないわけにはいかなかった。涙は本物に見える。彼女がアンドレに味わわせた苦悩を知らなければ、緑がかったはしばみ色の目に光る涙にだまされていたかもしれない。しかし、以前ぼくが付き合っていたジョイと同じで、エストレリャは人を操ることにかけては天下一品だ。こういう女はいつも何かを手に入れたがり、いつもだれかを新たな餌食にしたがるのだ。「まあ、機嫌を直せよ」カルロは制服を着たウエイターを呼び、銀のトレイからシャンパンのグラスをふたつ取りあげた。「そんなに悲観することはない。夜はこれからだ。映画祭は始まったばかりだよ」「あと一週間で終わってしまうわ」彼が差しだしたシャンパンを断って、エストレリャが言った。「丸七日ある。きみのルックスなら、次の金づるを見つけるのは簡単だろう」「金づるですって?」エストレリャの声が張りあげられ、顔が蒼白になった。カルロは肩をすくめて、シャンパンを飲んだ。「金持ちの中年男と言ってもいい」「それがわたしの目当てだと思っているの?」「きみは美人だからな」 <9/30公開 第3話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年09月29日
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第1話 『刺激を覚える出逢い』 <全24話>────────────────────────────────────「何をしてほしいですって?」隠しきれない驚きに、エストレリャ・ガルバンの声はかすれた。今夜は、カンヌ国際映画祭の目玉である見本市のために祝賀レセプションが開かれていて、この会場に有力者たちが顔をそろえている。「きみとなら楽しくやれると思ってね」頬がかっと熱くなった。周囲に投資家たちが集まっているのもかまわず、彼女は無礼なイタリア人のまなざしを受けとめた。「声をかける相手をお間違えじゃないかしら」男は片眉を上げた。他人の存在などまったく気にしていないようすだ。今夜のレセプションは一般人の立ち入りを禁止した非公開のもので、財力やしかるべきコネを持つ者にだけ入場が許されている。このカンヌの見本市で、金が動き、映画が買われ、海外上映権が売られるのだ。この見本市こそが、エストレリャがカンヌにやってきた理由だった。「きみは、モデルのエストレリャ・ガルバンだろう?」エストレリャは首を絞められたような気がした。まともに息もできない。「申し訳ないけれど、今、取り引きをまとめようとしているところなんです」男の冷たく輝く銀色の目が細められた。「それはぼくも同じだ」投資家たちの一団から、きまりの悪そうな笑いと低いつぶやきがもれた。おもしろがっている人もいれば、気まずそうな人もいる。エストレリャは顔じゅう真っ赤になった。イタリア男が神経を逆なでする笑みを浮かべて、先を続けた。「ぼくたちならお互いに楽しくやれると思うね。電話を待っているよ」エストレリャは身を硬くしたが、手のなかに名刺を押しつけられてしまった。すぐに光沢のあるカードを返そうとする。「こんなもの、いりません」「どうして?きみは楽しいことが好きそうだ。ぼくだって同じさ」この男はなぜこんなことをするのだろう?何が目的なの?今夜のパーティーに招待されるために百本もの糸を引いたのに、釣りあげたのはこんなチャンスだけなのだろうか?持参した映画に興味を持ってもらおうと、投資家たちに働きかけた結果がこれ?二週間に及ぶ映画祭はもう半分終わったというのに、これまでのところ、彼女の企画を後援しようという人物はひとりも見つかっていなかった。エストレリャにとって、今はこの映画がすべてだった。子どもたちの将来がこの腕にかかっているのだ。エストレリャは完璧な笑みを崩さないようにして、きっぱり言った。「信任票をくださって、どうも。でも、わたしはイタリアの男性にはあまり興味がないの」その言葉は、まるで張りつめたバイオリンの弦をはじいたかのような影響をもたらした。男とのあいだに緊張が走り、空気が震動した。これほど強い刺激を体に覚えるのは、もう何年もなかったことだ。「本当に?」男がからかうような口調できいた。「ええ」エストレリャには男のすべてが感じられる気がした。彼の呼吸も、彼が頭のなかで考えをめぐらしていることも。強烈な感覚に揺さぶられ、彼女は心の内で震えた。「それでも、最近まできみが付き合っていたのはイタリア人だ」頬がますますほてった。エストレリャの異性関係について、この男が知っていても意外ではなかった。 <9/29公開 第2話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年09月28日
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第25話 『最終話』 <全25話>────────────────────────────────────グウェンの中で、絶望が激しい痛みとなって現れた。涙が頬をつたった。だがそのとき、頭の中で声がした。レイフにそっくりな声で、彼女に言った。「あきらめちゃいけない」レイフの声だと思ったが、実際に声に出して言ったのはグウェンだった。こんなことではだめだ。甘えている場合ではない。ここに立っているのはわたしで、今はわたしがなんとかしなければいけないのだ。どんな状況に陥っても、自分で勝手に絶望に屈したりしてはならない。炎は燃えているし、黒く濃い煙が上がっている。パイロットには見えるはずだ。きっと引き返してくる。すると、ちょうどそのとき、グウェンが自分に言い聞かせていたとおりのことが起こった。飛行機のエンジン音がまた聞こえ、大きくなってくる――戻ってきた。戻ってきたのだ!それに、広い海の向こうには船が見えた。小さな船。救助船だ。スピードを上げてまっすぐこちらに向かってくる。後ろに白い航跡を残しながら。頭上では飛行機が機首を下げ、また上げると、旋回して戻ってきた。船は砂浜へと疾走してくる。奇跡が起こったのだ。わたしたちは救助される。助かるのだ。レイフのもとへ駆け寄ると、彼は意識を失っていた。グウェンは彼の頭を膝に乗せて、ささやいた。「ああレイフ。もう大丈夫よ。約束するわ。あなたはよくなる。助けが来たのよ……」六カ月後。毛並みのいい灰色の猫を足元に従えて、グウェンは子どもたちの様子を見てまわった。まずケニヨンの部屋のドアをそっと開けて、爪先立ちでベッドのところへ行き、上がけを引き上げると、起こさないようにそっと体のまわりに押しこんだ。それからマッティの部屋へ行き、同じことを繰り返すと、グウェンは大きなあくびをして、一人ほほ笑んだ。廊下に戻ると、猫がドアのところで待っていた。グウェンはあとをついてくる猫と一緒に階段を下り、家の一階にある夫のオフィスに向かった。レイフはコンピューターの前に座って、今取りかかっている新しいプロジェクトの画面に見入っていた。グウェンは一人ほほ笑み、静かに下がって部屋を出ようとした。だが、レイフには聞こえていたらしい。彼は椅子の上で振り向き、片手を差し出した。グウェンは彼のもとへ行った。レイフはグウェンの丸くなったおなかに手のひらを当てた。「アイランド・ベビーのご機嫌はどうだ?」「ええ、アイランド・ベビーは元気よ」グウェンは身をかがめて彼にキスをし、唇の奥の甘さを味わった。彼への深い愛をかみしめながら。これが至上の愛なのね。この愛は生涯続く。何があっても壊れはしない。 <ご愛読ありがとうございました>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年08月27日
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第24話 『失敗!? 』 <全25話>────────────────────────────────────レイフがたきつけ用の木を置いていた場所には乾いた木切れがたくさんあり、いつでも点火して火種として薪のところへ運べるようになっていた。グウェンは何本かをつかみ、赤い炭火の中に突っこんだ。歌うような調子で自分に言い聞かせながら。落ち着いて、ゆっくりと、間違えないように、しっかりやるのよ。木切れの束に火がついた。空では飛行機が大きくなりつつあるように見える。エンジン音も深く大きくなっているようだ。グウェンは時間を惜しみながら、もうしばらく木切れの束を炭火の中に入れておき、薪のところへ運ぶ間に消えることがないよう、しっかりと燃えつかせた。そして、消えませんようにと祈りながら、ようやくそれらを火から取り出すと、走り出した。頭上では、飛行機のエンジン音が大きくなっていた。グウェンは火のついた木切れの束を手に、砂浜を走った。あまり効果的な風よけとは言えなかったが、片手を前にかざして。炎はもたなかった――だが、先のほうはまだ燃えて、赤く熱していた。グウェンは薪にたどり着き、木切れの束を根元に押しこんだ。ちょうどそのとき、飛行機は真上にいた。パイロットにはわたしが見えたに違いない。木と葉の山も。砂に石で書いたSOSの文字も。飛び上がって叫んでも意味がないとはわかっていたが、なぜかそうせずにはいられなかった。グウェンは叫び、腕を振り、金切り声をあげた。「ここよ!助けて!ここにいるわ!」ホイッスルまで取り出して口に当て、力の限り吹いた。飛行機はグウェンのほうに降下してくるように見えた。それからまた機首を上に向けた――そして椰子の木立の上を飛んでいって、視界から消えた。「だめよ!」グウェンは絶叫した。「だめ、戻ってきて!すぐに戻ってきなさい!」不意に、たきつけ用の木切れの先に残っていた火が燃えついた。ごうっと音をたてて火がまわり、薪が命を持ったかのように熱く燃え上がった。グウェンはその場に立ちつくして、炎がめらめらと高く上がるのを見つめた。煙が晴れた青い空に立ちのぼるのを見つめながら、飛行機が向きを変えて戻ってこないか、耳をすませた。だが、待っても無駄だった。エンジン音は小さくなって消えた。失敗したのだ。わたしがもたもたしていたせいだ。グウェンはレイフをちらりと見た。今は砂の上で身じろぎもしない。毒にやられて、あそこになすすべもなく横たわっているのが、わたしであればいいのに。二人でつくった薪のそばで今こうして立っているのが、彼であればいいのに。無傷で元気で、次にすべきことをちゃんと心得ている彼が、ここにいてくれたら。 <8/27公開 第最終話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年08月27日
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第23話 『飛行機だ・・!』 <全25話>────────────────────────────────────レイフにできることはわずかしかなかった。じっと静かにして――そして蛇の毒に対する体の反応を待つことだけ。彼は頻繁に止血帯をほどき、また縛り直した。そして、一時間くらいたっただろうとグウェンに言うと、それを完全に取り去った。止血帯はもう用ずみになったのだ。グウェンはときおり立ち上がって、キャンプファイヤーの火を調整したり、水を運んだりしたが、ほとんどは彼のそばにいた。少し話をしては一緒に黙り、波を見つめた。波は岸に寄せては返し、引き潮のあとの濡れた白い砂が、南国の太陽の下できらきらと光って見えた。だいぶ前から具合が悪かったはずのレイフが、さらにつらいそぶりを見せ始めた。かみ傷の痛みに加えて、ひどい吐き気に襲われているらしい。熱も出ていた。グウェンは用ずみになった即席の止血帯を冷水で湿らせると、汗ばんだ彼の顔をぬぐってやった。そのころにはレイフはつらさに耐えかねて、砂の上に横たわり、うめいたり寝返りを打ったりしていた。最初グウェンは、毒のまわりを遅らせなければと彼が言っていたのを思い出して、じっとさせようとした。だが、彼をじっとさせておくのはとても無理だった。それにどのみち、今ごろは毒が全身にまわっている。動きまわっても、今以上に悪くはならないだろう。レイフが吐いた。グウェンは彼の頭を支えて顔を何度かぬぐってやり、水を少し飲ませた。そのあとまた吐いたので、頭を支えていなければならなかった。それから彼の体をなんとか引きずって、きれいな砂のところへ移動させた。グウェンにできるのはそれだけだった。彼を支え、水をひび割れた唇の間に少しずつ垂らし、哀れな胃が中身を吐き出したときには、きれいにしてやる。そして自分に言い聞かせ続けた。彼はこの事態を切り抜ける。きっとよくなる。蛇にかまれて死ぬ人は何人もいない。レイフはそう言っていた。約束もしてくれた。大丈夫だって約束してくれたわ……。レイフはグウェンの膝に頭を乗せて横たわり、うめき声をもらしている。そして丸い太陽が空のほぼ中央まで昇ったとき、グウェンはその音を聞いた。果てしない海の向こうのどこかで飛行機のエンジンが鳴っている音を。来た!グウェンの目がそれをとらえた。飛行機だ――海上の遠くに小さくしか見えないが、こちらにやってくる。エンジンの音はかすかだが、徐々に大きくなっている。グウェンはレイフの頭を、救命胴衣の上にできるだけそっと移した。そしてすばやく立ち上がると、キャンプの場所に走っていった。 <8/26公開 第24話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年08月25日
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第22話 『愛の確認』 <全25話>────────────────────────────────────背後の茂みのどこかからシチューが現れた。にゃあおと鳴いて挨拶すると、二人が座っている場所から一メートルほど離れた木陰に寝そべった。数分間は二人とも口を開かなかった。彼らを取り巻く音がそれまでより大きくなった。頭上を旋回するかもめの鳴き声や、波が岸に打ち寄せるときの“ざあ”とか“ばしゃっ”という音。それらに混じって低く聞こえるのは、いつ果てるともない海風のそよぐ音だった。「ここは本当にきれいだね、グウェン」レイフがとても静かな声で言った。グウェンは彼のほうを見て、笑顔をつくった。「でも、この旅はわたしの計画のようにはいかなかったわ」「だけど……刺激的な旅にはなったじゃないか」「そうね。刺激的だわ。スリルにつぐスリルで。でも、もう刺激は充分という気分よ。家に帰りたいわ。子どもたちに会いたい。自分のベッドで眠りたい……」「ぼくと一緒に、だろう?」レイフは黒い眉の片方を上げてみせた。「いつもそう思っているわ。わかっているくせに。わたしはいつもあなたと一緒よ」するとレイフはほほ笑んだ。やさしい、そして少し悲しげな笑みだった。「グウェン……」グウェンは彼の腕に触れた。「何?」「今回のことでぼくは学んだよ。嵐の夜にきみがうつぶせで海に浮かんでいるのを見たとき……」レイフは首を横に振った。「きみは自分を責め続けるけど、本当に責めを負うべきなのはきみじゃない。ぼくがきみをあんな目に遭わせたんだ」「でも、わたしさえ――」「しいっ。聞いて。ぼくが言いたいのは、きみに悪いことをしてしまったと思っているということだ。あの夜も、それまでの夜もずっと。だから、もしこの事態を切り抜けられたら――」グウェンは彼の乾燥してひび割れた唇に手を当てた。「もし切り抜けられたら、じゃないわ。切り抜けたら、よ」レイフはうなずき、グウェンの指をとらえてキスをした。「この事態を切り抜けたら、仕事を切り上げると言ったときにはちゃんと切り上げるようにするよ。ぼくたち二人だけの時間と家族のための時間をつくる。アンドリューズ・アンド・マクミラン建築設計事務所が割りこむのを許さない時間をね」それから彼はグウェンの目の奥をじっと見つめた。「愛しているよ、グウェン。ぼくの命よりも」「ああ、レイフ。わかっているわ。わたしもあなたを愛しているわ」 <8/25公開 第23話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年08月24日
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第21話 『生きる約束』 <全25話>────────────────────────────────────グウェンは彼を見つめ、思っていたことを口にした。「本当に落ち着いているのね……」「蛇にかまれて死ぬ人はそう大勢いるわけじゃないよ、グウェン」レイフは言った。「ひとかみされただけだから、さほど毒は入っていないだろう。致命的な臓器のそばではないし、動脈をやられたわけでもない。それに、ぼくは子どもではない。子どもは体が小さいから、蛇にかまれて死ぬ確率が大人よりも高いんだ。考えられることとしては、痛んで吐き気がし、熱が出るだろうな。でも、乗りきれるさ」「それは……約束なの?」「もちろんさ」それは彼の本心なのだろうか。わたしを安心させようとして、乗りきる自信のある口ぶりをしているだけなのでは?かといって、その自信がないようでは困る。だから本心は尋ねないでおこう。できるだけ体を動かさないほうがいいのだとレイフは言った。とにかく今は、毒のまわりを遅らせることがいちばん大切なのだと。つまり静かにしていること、そしてじっとしていることだ。二人がいる場所は、砂浜を上がりきったところの椰子の木陰で、グウェンはレイフをできるだけ楽な姿勢にさせてやった。そして救命胴衣を二つとも取ってくると、それにレイフをもたれさせた。彼は、砂浜が下り坂になっているのがちょうどいいと言った。足を海のほうに向けて、心臓より低くなるようにしている。「水を飲む?」グウェンは尋ねた。「喉が渇いたでしょう?」レイフはうなずいた。グウェンは急いでココナッツの殻をいくつか取りに行き、それに水をくんできた。彼は水を二杯飲み、それから止血帯をゆるめて、また縛り直した。毒のまわりを遅らせたいけれど、血を完全に止めてしまうのはよくないからと説明しながら。レイフは自分の隣の砂をたたいてみせた。グウェンはそこに腰を下ろした。傷はさらに腫れて、気味の悪い紫色になってきている。グウェンは傷を見ないようにした。レイフは言った。「キャンプファイヤーの番を忘れるなよ。燃やし続けておくんだ。合図用の薪に点火するときに、その火が必要になるからね」合図用の薪は五メートルほど先で、今いる場所とキャンプを設営した小さな半洞窟との間にあった。準備は万端で、頭上の飛行機の音か、青い波に浮かぶ船の姿を待つばかりになっている。「ココナッツの殻を取りに行ったときに確認したわ」グウェンは言った。「火は弱かったけど、炭火はたくさんあった。少ししたら、もっと木を足すわ」「それでいい」 <8/24公開 第22話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年08月21日
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第20話 『鎖蛇!?』 <全25話>────────────────────────────────────「蛇にかまれた」レイフは食いしばった歯の間からうめくように言い、痛みに顔をゆがめた。彼は砂の上にうずくまると、左足の土踏まずにできた、小さな穴を二つ開けたような傷を調べた。「ひどい痛みだ」彼は言い、グウェンのほうを見やった。「蛇を見たかい?」グウェンは目をぱちくりさせた。たった今起こったことを受け入れられなくて、にわかに頭の中が真っ白になっていたのだ。「グウェン。あれを見たかい?」グウェンはうなずいた。「わたし……ええ。ほんの一瞬だけど」「どんな蛇だった?」「わからない……あまり大きくなかったわ。黒っぽい灰色で……ほとんど黒に近かった」レイフは小さな傷をもう一度調べていた。傷のまわりの皮膚がもう腫れて黒ずんできている。打ち身ができたように。「鎖蛇の一種だな、おそらく」「鎖蛇?」グウェンはぼんやりとおうむ返しに言ったが、心は恐怖におののいていた。「それは……毒を持っているの?」レイフはグウェンをちらりと見た。「がらがら蛇は鎖蛇の一種だ。ほかにも仲間はいるけど。鎖蛇のかみ傷は痛みが強くて、ちょうどこういう穴を二つ開けたような傷が残る」「まあ」グウェンは言った。彼はなんて落ち着いているのかしら。わたしは今にも叫びそうなのに。だが、叫びはしなかった。「いったい……」喉がつまる。グウェンはつばをのみこんで喉を開いた。「どうすればいいの?」レイフは小さな赤いナイフをポケットから取り出すと、刃を出して、さっと四回切りつけ、二つの傷にそれぞれ小さな×印をつけた。「家ではこんなことをするんじゃないよ」彼はさりげなく忠告した。血があふれてくると、切りこみのまわりの肉を絞るようにして、さらに血を出やすくした。「何か止血帯になるものを……」そういって、痛みに顔をしかめた。「わたしのシャツは?」「いいね。脚に巻けるように細長く裂いてくれないか」グウェンはシャツを脱ぎ、歯で裂け目をつくると、そこからびりびりと裂いた。縫い目のところにくると、また歯を使って裂きながら、すそまわりを一周し、約十センチ幅の帯状のものをつくった。「これでどう?」「ばっちりだ」グウェンは裂いた布切れをレイフに渡してから、シャツの残りをかぶって着た。レイフはピンクの布切れを脚に巻いて、しっかりと縛った。「こうして毒のまわりを遅らせるんだ」彼は説明し、そして顔をゆがめてなんとか笑みをつくると、つけ加えた。「うまくいけば、だけどね」 <8/21公開 第21話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年08月20日
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第19話 『本物の愛の実感』 <全25話>────────────────────────────────────食事を終えると、二人は砂浜沿いに小川までぶらぶらと歩いた。手や口をすすいで、もう一度あのおいしくてすばらしい真水を飲んだ。それからキャンプに戻った。救命胴衣を枕に火のそばで横になり、星を眺め、早く家に帰ろうと二人で約束した。レイフにキスされたとき、顎ひげが頬に当たった。ざらざらしていようと、グウェンには気にならなかった。彼の唇の奥がやわらかく湿っているのが感じられ、それがとても心地よかった。探ってくる舌を唇を開いて受け入れ、服を脱がせてくれるように彼をしきりにけしかけ、彼も脱ぐようにせき立てた。ターコイズブルーのテディーはしわが寄り、塩の筋がついていた。レイフはそれをきれいだと言った。二人はそこで愛を交わした。火のそばの砂の上で。そしてレイフが中に入ってきたとき、グウェンは彼の黒い目を見上げながら、思考の乱れる頭で改めて思った。わたしはなんてばかだったのだろう。二人の愛を新たにしたいと望んでいたなんて。倦怠など知らない、出会ったばかりのころのように新鮮な愛が欲しいと思っていた。でも、間違っていた。わたしたちの愛はそんな生半可なものではない。この愛は強い。そして深い。本物の愛だ。わたしたちの愛は何があっても壊れない。わたしたち二人も耐え抜いてみせる。ここカリブ海の真ん中で、この砂の陸地で。わたしたちは生き抜いて家に帰り、子どもたちを腕に抱き、孫を甘やかす祖父母になり、年を重ねていくのだ。二人一緒に。グウェンは喜びに夫の名を叫んだ。レイフも彼女の名を叫び返した。二人は一つになり、恍惚の世界へ昇りつめていった。翌朝、グウェンが目覚めると、体がざらざらして気持ちが悪かった。体の隙間という隙間に砂が入っているのに違いない。それに、レイフがいなかった。しばらくして彼は、一匹の魚を持って帰ってきた。長い棒の先を削って間に合わせの槍をつくり、それで捕まえてきたのだ。足にはけがをしていた。レイフはたいしたことのないふりをしていたが、切り傷やすり傷だらけなのが見えるし、歩き方も慎重で、普段の彼の自信に満ちたなめらかな歩き方とはまるで違うのがわかる。二、三日すれば皮膚も硬くなってくるだろうから大丈夫だとレイフは言った。でも、そんなことはかまわない、まもなく救助される気がするからね、と。「今ごろは、船の人たちもぼくたちがいないことに気づいている。遅くとも昨日の昼ごろには気づいたはずだ。ぼくたちを探しているよ。それに今度はぼくたちも、煙たっぷりの大きな火をおこせるようにしてあるから、きっと見つけてもらえるさ」二人は魚の内臓を取り除くと、火を通して食べ、もちろんシチューにも分けてやった。グウェンは、気をつけないと太ってしまうわよと言って、猫をからかった。食事と焚き火の調整がすむと、レイフは淵へ行って体を少しきれいにしようと提案した。グウェンはためらった。彼の足の状態を考えると、どうしても必要でない限りは歩きまわるべきでないと思った。レイフは手を振ってみせた。「大丈夫だよ、そんなに遠くないし。それに、ひと泳ぎするのは気持ちがいい」グウェンが折れ、二人は出かけた。どうせ歩く距離は短いのだし、冷たい水はいろんな痛みを和らげてくれるだろう。だが、二人が淵へ行き着くことはなかった。木立の端まで行ったとき、レイフが鋭い叫び声をあげて、飛びのいた。グウェンが下を見ると、何か細くて黒いものが体をくねらせながら、踏み分け道沿いの茂みの中へするすると消えていくところだった。 <8/20公開 第20話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年08月19日
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第18話 『初めての夕食は!』 <全25話>────────────────────────────────────灰色の猫を、グウェンはシチューと呼ぶことにした。シオドア・テイラーの名作『ありがとうチモシー』に出てくるシチューという名の猫にちなんで。猫はほぼ一日中二人のそばにいて、キャンプ場所の張り出し岩の陰で寝そべっていた。合図用の焚き火の薪がついに火をつけるばかりになったときには、様子を見に出てきた。すべての作業を終えると、レイフは硬い木の棒を削って先をとがらせ、それでどうやってココナッツの殻を割るかをやって見せた。彼はいくつかのココナッツを割った。一つか二つは中に新鮮で甘いミルクが入っていて、二人で飲んだ。だが、果肉は硬くて味がなかった。レイフは、殻が入れ物に使えると言った。物をたくさんは運べないが、何もないよりはましだった。十個ばかりのココナッツを割ったあと、レイフはいくぶんぶっきらぼうと思える調子で言った。「ここで待っていて」グウェンは待った。レイフは木立の中に消えていった。むちゃな行動をしませんように。グウェンは疲れていたし、ココナッツミルクを飲んだとはいえ、まだ相当に空腹だった。だから、彼が何を思いついたにせよ、あとを追ってそれを手伝わせてほしいと頼む元気はなかった。レイフは長い間戻ってこなかった。少なくとも一時間、いや、もっとたっただろうか。グウェンはココナッツの殻から硬い果肉をこそぎ取り、焚き火の番をした。頬に当たる暖かさをうれしく思いながら火を見つめ、子どもたちのことを思った。絶対にまた会える――それもすぐに。そう自分に言い聞かせながら。ずいぶんたって、背後の岩のところからシチューが現れた。口に何かくわえている。近づいてくると、それはとても小さなこうもりの死骸だとわかった。猫はそれをグウェンの前に置いて下がり、彼女を見上げた。「ありがとう。でも、いいわ。おまえが食べて」グウェンは言った。心のどこかでは、こういう贈り物をあわてて断るべきではないと思いながら。でも、今はまだそこまで飢えてはいない。それに明日はきっと、硬いココナッツよりましな食べ物が見つかる。やせ猫が捕ってきた、さらにやせたこうもりを欲しがる必要はない。シチューは獲物をくわえると、身を翻した。少し遠くへ持っていってから、砂の上に寝そべって食事を楽しんだ。グウェンは揺れる焚き火の炎をのぞきこんで思った。レイフが行ってからどれくらいたつだろう。彼が無事に戻ってきてくれますように。すると、グウェンの祈りが呼び出したかのようにレイフが現れた。砂浜をこちらへ向かって歩いてくるのが見える。手に何か持っている。グウェンは立ち上がって彼を迎えた。焚き火の明かりが届く範囲まで来ると、彼が持っていたものは大きなとかげと、それよりさらに大きな蛇の死骸だとわかった。「もしかしてこれが……夕食なの?」レイフは顔をゆがめてほほ笑み、アーミーナイフを取り出して獲物の処理を始めた。二人は肉に火を通し、おなかいっぱい食べた。シチューに分けてやるぶんまであった。肉はすばらしく、あっさりしておいしかった。グウェンは、爬虫類をこれほどおいしく食べられるとはこれまで思ってもみなかった。レイフは、この島のだいたいの大きさを測ってきたと言った。島の左右の端と、向こうの端まで行ってきたのだ。東西が約三キロ、南北が約四キロと彼は見積もっていた。調べた限りでは、ここには二人のほかに誰もいないということだった。 <8/19公開 第19話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年08月18日
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第17話 『キャンプの設置』 <全25話>────────────────────────────────────グウェンが目をくるりとまわすと、彼はつけ加えた。「心配するな。あとでいくらでも楽しめるよ。ココナッツを割ってもいいし、砂浜を掘って甲殻類を探してみてもいい。それに、ともかくぼくの知る限りでは、バハマは往来が激しい。いつ飛行機が通りかかってもおかしくない――船もね。彼らはきっと、ぼくたちがあの豪華な客室におらず、専用デッキで日光浴もしていないことに気づいて、それから数時間以内にはなんらかの救助努力を始めているだろう」レイフは腕を伸ばすと、グウェンの濡れて重くなった髪を持ち上げて、温かい手をうなじに当てた。それから彼女を引き寄せた。グウェンが唇を寄せると、彼はやさしさにあふれた深いキスをした。それは彼女の心を隅々まで癒してくれた。肌が乾いて痛む体を、淵の澄んだ水が癒してくれたのと同じように。「ぼくたちは大丈夫だ、グウェン」彼女の開いた唇に向かってレイフはささやいた。「ああ、レイフ。そうよね」二人は砂浜に戻った。さほど遠くまで行っていなかったので、いくらも時間はかからなかった。レイフは、小川の端が砂浜にちょろちょろと流れ出ているのを見つけた。二人が流れ着いた場所を示す大きな海藻の山から三十メートルほど北の地点だった。二人は仕事にかかった。流木、枯れ枝、砂浜を縁取っている木の根に絡みついて乾燥した海藻など、燃えそうなものを片っ端から集めた。レイフは、流木など長時間燃えるものと、葉や緑の枝など煙をたくさん出すものの両方が必要だと言った。合図用の薪の山はそういうふうに準備しなければならない。火をつけたとき、松明のように燃え上がるようにするためにね、と。二人は燃料を集めながら探検した。そして洞窟の片側半分のような――岩に深く広い溝ができている――場所を見つけた。岸からは充分な高さがあり、高潮が来ても問題なさそうだ。ここをキャンプ場所にすることにした。レイフは、張り出した岩の陰になって風雨が当たらない場所にキャンプファイヤーの薪を積んだ。砂を鉢状に掘り、縁に岩で枠をつくって、その中に薪を置いた。それから日なたに出ると、もう一つ小さなたきつけ用の焚き火をつくり、鏡を使って太陽の熱を集め、たきつけに火をつけた。長い棒をうまく火種にして、岩の中に持って戻り、キャンプファイヤーに点火した。合図用の焚き火はキャンプから五、六メートル離して設置した。浜よりだいぶ高い位置で、海水のかかる心配がなく、火をつけるときが来たらキャンプからすぐに行ける場所だ。燃料集めと火の準備がすべて終わると、二人は石を集めた。レイフが前に提案したことを実行するために。浜の砂の上にSOSと書くのだ。石のSOSが完成するころには、太陽は島の向こう側に低くかかり、果てのない空を赤紫の火の渦に変えていた。 <8/18公開 第18話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年08月17日
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第16話 『オアシスの発見』 <全25話>────────────────────────────────────二人は口を閉じて耳をすませた。灰色の猫は彼らの間に座り、二人の顔をかわるがわる見た。「鳥ね」グウェンはささやいた。「鳥の声だわ。それに、藪の中でかさかさと小さな音がしている」レイフはその方向に頭を傾けた。「ここで待つんだ。すぐに戻る」彼は向きを変え、茂みに入っていった。グウェンは言われたとおりにした。悪いことは考えないでおこう。大蛇や恐ろしい虫が絡み合った木の根の間に潜んでいて、レイフの哀れな素足に醜い毒牙やおぞましいはさみを食いこませるチャンスを狙っているかもしれない、などということは。レイフが出発してから二分もたたないうちに、彼がグウェンの名を呼ぶのが聞こえた。「おいで!こっちだ!」グウェンは茂みに分け入り、大きく露出した灰色の岩の向こうにまわりこんだ。すると、レイフの姿が見えたと同時に、小さな澄んだ淵と、そこからあふれた水が小川になって流れているのが見えた。レイフは淵のそばにひざまずき、透明な水を両手いっぱいにすくい上げていた。そしてその水を飲むと、にっこりした。「真水だ」彼は目を輝かせて言った。「真水だよ、グウェン。おいで。飲んでごらん」二度言われるまでもなかった。グウェンは水際へと急ぎ、岸に身を投げ出して流れに直接口をつけ、冷えたすばらしい水を飲んだ。二人は水を存分に飲んだ。それから小さな淵の中で服を着たまま泳ぎ、泳ぎながら塩を洗い落とした。この淵に浮かんでいると、天国のようだとグウェンは思った。なめらかで澄んだすばらしい水が、乾燥して塩分でひりひりする肌をなでていく。グウェンは指で頭皮を隅々までこすって塩を洗い流し、塩分によるかゆみを和らげた。そして頭を水につけたまま、指でなんとか髪をとかした。服を脱いでしまいたかった。それが乾くのを待っている間、この小さな青い淵に裸で浮かんでいたかった。レイフも、それはすばらしい考えだと言った――あとでなら。今は、砂浜に戻って合図用の焚き火を準備し、簡単なキャンプを設営する必要がある。小さめの火もおこして、救助されるまで消さないよう番をしなければならない。この小川は、流れの向きから考えて、どこか岸の近くまで通じているだろうとレイフは言った。つまり、キャンプを張ろうと考えている場所にもっと近いところに、水源が見つかるかもしれないということだ。水を運べるような入れ物がない以上、真水の場所は近ければ近いほどいい。喉の渇きが満たされると、今度はひどく空腹なことにグウェンは気づいた。彼女はレイフにそう言った。すると彼は笑った。「食べ物のことはあとで考えよう。念のため言っておくけど、人の体は食べ物がなくても何週間も耐えられるんだよ」グウェンはぞっとしたふりをした。「そこまで待たなくても食べられることを願うわ」レイフがつぶやいた。「ぼくもだ」 <8/17公開 第17話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年08月11日
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第15話 『飛行機の姿が・・』 <全25話>────────────────────────────────────もうかなり暑くなりかけていたので、グウェンはレインコートを腰に巻いた。二人とも救命胴衣を着直した。レイフはホイッスルを首にかけ、それぞれ鏡を持った。二人は木々の下を、砂浜と反対の方向に進んだ。踏み分け道とおぼしきものに沿って歩いたが、誰が、あるいは何がその道をつくったのか、グウェンには見当もつかなかった。それに喉の渇きがひどく、疲れきってもいたので、どうしてこの道に決めたのかをサバイバル知識豊富な夫に尋ねるエネルギーは残っていなかった。やせた灰色の猫があとをついてきた。ときどき先頭に出たり、速度を落としてしんがりを務めたり、踏み分け道の左右の茂みの間を縫うように移動したりしながら。道が分かれているように見える場所へ来るたび、レイフは石を集め、来た方向を示す簡単な矢印を地面につくった。初めの矢印をつくったとき、もとの場所に戻れるかはさほど心配ではない、と彼は説明した。太陽がそちらから昇ったから、方角はほぼ東だ。戻ることはできるし、あとで実際に戻って、合図用の焚き火を用意するつもりでいた。だが、燃えるものを集めるのには時間がかかるだろう。まずは水を見つけることが先だ。十分か十五分くらい歩いたところで、ぶうんという音が東のほうから聞こえてきた。飛行機だ。グウェンの胸は希望と喜びに躍った。二人は鏡を取り出し、見渡しのいい場所に立って、太陽の光をガラスに反射させ、きらきら輝く二つの四角形を作って合図を送った。だが、うまくいかなかった。飛行機の姿を目にもしないうちに、エンジン音は遠のいていった。音が小さくなって消えていくのを聞いていると、グウェンはみじめさで、ますます口が渇くのを覚えた。でも、そんなそぶりを見せてはいけない。グウェンは目を閉じると、すうっと息を吸いこんで、肩を落とさないようにした。レイフが首を横に振った。「どうしたの?」グウェンは尋ねた。「砂浜の近くでじっとしているべきだったかもしれないな。開けた場所にいれば、見つけてもらえる可能性が高くなる。それに、砂にSOSと書けるように、大きめの石を探すことだけでもしておけばよかった」そのとき、レイフの目が陰るのが見えた。先頭に立ち、取るべき行動とその順序の決定を引き受けた者の責任の重さが、そこには浮かんでいた。一つ選択を間違えれば、二人の命にかかわりかねないのだ。彼の気を軽くさせてあげなければ。「すぐに開けた場所へ出るわ」グウェンは言った。「水を見つけしだいね」レイフは顔をしかめた。「水についてはずいぶん確信があるみたいだな」「そうよ。信用して。わたしはちゃんと先を見通して行動する人間なのよ」二人はそろって笑い声をあげた。そのとき、レイフが片手を上げた。「何か聞こえる」 <8/11公開 第16話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年08月10日
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第14話 『いざ、探検へ』 <全25話>────────────────────────────────────「ホイッスルはどうなの?」「どうって?」「ホイッスルはなんの役に立つの?だって、もう水からは上がったわけだし」「ううん」レイフは言った。「そうだな、最低でもお互いに合図ができる。ほら」彼はホイッスルの一つをグウェンに差し出した。彼女はそれを受け取ると、ひもに頭を通し、縄のようになった重い髪を持ち上げて、ひもをうなじにかけた。それからホイッスルを口に持っていった。グウェンは吹く前にためらい、尋ねるような目でレイフを見た。彼は肩をすくめた。「吹かないほうがいいんじゃないかな。近くに危険が待ち構えている可能性もある。密輸業者とかね。あるいは、何か悪事をたくらんでいる人間とか」「前向きに考えましょう」グウェンは言った。「救助に駆けつけようとして合図を待っている、いい人たちだっているかもしれないわ」レイフはうなった。「確かにそうだ。吹いて」グウェンは吹いた。くっきりした音が空気を引き裂くように鳴り響いた。音がやむと、木立はそれまで以上に静けさに包まれたように思えた。レイフは言った。「さて、いい人たちは見当たらないな」「密輸業者もね」ちょうどそのとき、藪の中でかさかさと音がした。「おやおや」やせた灰色の生き物が現れ、グウェンのくるぶしに体をこすりつけ始めたのを見て、レイフは言った。「これは飼い猫だな」グウェンはかがんで、ホイッスルにつられてやってきた猫を抱き上げた。「おまえはどこの子?ここで何をしているの?」猫は喉をごろごろと鳴らし、なでてほしそうに頭をグウェンの手の下にやった。「なれているな」レイフが言った。グウェンは、猫のとがった小さな顎の下のやわらかい毛をかいてやった。「よかったじゃない。きっとこの陸地のどこかに人が住んでいるということよ。少なくとも水源はあるわ。違う?」レイフは猫をじっくりと見直した。「水源については賛成してもいいかな。でもこの猫は、船か何かで連れてこられて捨てられた可能性もある。ひどくやせているし」レイフの考えは正しいと認めざるを得なかった。哀れな猫は、あばら骨が浮き出ている。レイフは言った。「猫を下ろして。どこか役に立つような場所へ案内してくれるか見てみよう」グウェンは言われたとおりにした。猫はすとんと下りて、足元に座り、期待するように彼女を見た。「よろしくな、相棒」レイフは言った。そしてまたグウェンを見つめた。「ちょっとした探検に出る気は本当にあるのかい?」グウェンはうなずいた。きっぱりと。 <8/10公開 第15話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年08月07日
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第13話 『サバイバル生活の第1歩』 <全25話>────────────────────────────────────「ひどいわね」グウェンはささやいた。「おいで。日の当たらない場所に行くんだ」グウェンは小さくうめき、目を細めて、青く広い空を見た。「何時かしら?」「十時すぎというところかな」レイフはグウェンを立たせてやり、それから二人は年老いたカップルのようによろよろと歩いて砂浜を進み、背の高い椰子の木立の先まで行った。椰子の木と低木が充分な影をつくっている場所まで来ると、レイフはグウェンをもう一度座らせ、救命胴衣を脱がせてやってから自分も脱いだ。そして彼女に、日を避けてここで休むように言った。「あなたはどうするの?」「水を探してくる」グウェンは木の幹を支えにして、もう一度立ち上がった。「一緒に行くわ」レイフは首を横に振った。グウェンの救命胴衣の折り目やポケットを調べている。「きみは疲れきっている。座って休むんだ」「あなたは靴も履いていないのよ。藪の中を歩きまわるのは危険だわ」グウェンはまだテニスシューズを履いていた。当然ながら塩がこびりつき、濡れていたが。「気をつけるよ」レイフは彼女の胴衣を置き、自分のを取り上げた。「足をけがするのが目に見えているわ。何か生き物にかまれるかもしれないし」「しかたがないさ」レイフは胴衣のポケットをすべて探ってから、グウェンの胴衣の隣に置いた。「いいものを見つけた」彼は小さな鏡二つと、ひものついたホイッスル二つを見せた。「救命胴衣にはたいてい、ホイッスルと鏡が一つずつ入っている。救助者に合図を送るためのものだよ」サバイバルマニュアルを読み上げるかのようにレイフは言った。ひび割れた唇で少年のようにうれしそうにほほ笑んでいる彼を見て、グウェンは息子のことを思った。「この鏡は重宝するかもしれないぞ。救助者への合図に使えるだけじゃない。これ一つで簡単に火をおこすことができるんだ。棒切れをこすり合わせたって絶対にかなわないよ」グウェンは言った。「あなたを一人で行かせて、ここに残るのはいやよ」レイフは黒い眉を寄せた。「強情だな、グウェン。どうして言うことをきかないんだ」「一緒に働きましょう」「立っていられないほど疲れているくせに、えらく張りきっているんだな」「あなたと一緒に行きたいの」二人は長い間見つめ合った。グウェンは、今ほど彼を愛していると感じたことはないと思った。もちろん、向こうがどう思ってくれているかは知らないけれど。グウェンはやさしく言った。 <8/7公開 第14話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年08月06日
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第12話 『見知らぬ島へ』 <全25話>────────────────────────────────────「グウェン。グウェン、もう起きなくちゃ」レイフだ。レイフがわたしを揺すって、寝かせておいてくれないのだ。ぶつぶつと不満をもらし、彼の手を払って上がけの下にもぐり直そうとしたが、どうしたことか、上がけは近くにない。だが、レイフは彼女の肩を放さず、名前を呼び続けている。それに、ベッドもどこかおかしい。湿っぽいし、ざらざらだ。上がけはないし、太陽が照りつけ、むき出しのふくらはぎが熱く、そのうえべとべとする。腕をたたいてみた。ジャケットだ。水浸しで、つるつるしたジャケットを着ている。まつげはなぜか、のりを張ったようにくっついていたが、なんとか目を開けてみた。哀れな夫の心配そうな顔に焦点が合ってきた。疲れ果てた目と、くしゃくしゃで塩のこびりついた髪も見えた。うっすらとひげのある引きしまった頬の片側に、楕円形に砂が張りついている。体にまとわりついたポロシャツには、髪と同じく塩の筋がこびりついている。そのとき、はたと事態がのみこめた。自分たちがどこにいるのかも。カリブ海の真ん中の、名もない小さな陸地の一つだ。全身が痛み、肌は熱くてむずがゆく、左耳の上にはかすかにうずくような痛みがある。ぶつけたんだわ。アナベル・リー号のデッキで波にさらわれたときに、手すりか何かに。何かにぶつかって、気を失ったのだ。それでレイフは、あとを追って飛びこむしかなかった……。また自己嫌悪に陥っていることが顔に出たのに違いない。レイフが“やめるんだ”と忠告した。彼のほうが正しいのはわかっている。わたしのわがままのせいで、こんなところまで来てしまった。欲しかったのは、ちょっとしたロマンス。レイフの情熱をこちらに向けてほしかった。二人の愛が始まったばかりのころのように、口説いてほしかった。そう、それだけだったのよ。だいぶ前から、二人の愛を新たにしたいと思っていた。そうしたくてたまらないのに思いどおりにはならず、結婚生活の中心にブラックホールが存在するような気がしていた。そして昨夜は、望むものが得られないことにうんざりし、その怒りを吐き出したいがために、危険な嵐の中を船のデッキにふらふら出ていくという、ばかなことをしてしまったのだった。そのせいで、わたしたちはここにいる――見知らぬ島に打ち上げられ、とりあえずは助かった。夫の勇気と体力とサバイバル能力のおかげで。こんなことになるなんて。もうわがままなんて言っている場合ではない。喉がひどく苦しかった。渇いて、いがらっぽい。それにひりひり痛む。海水を大量に飲んで、咳で吐き出したせいだ。口の中は干からびて、硬いスポンジのようになっている。グウェンはなんとか唾液を絞り出し、それをのみこんでから、しわがれ声で言った。「わたしは大丈夫。本当よ……」レイフは笑顔を見せた。唇がひび割れている。グウェンは手を上げ、彼の唇に触れてから自分の唇に触れた――同じように乾いてひび割れている。<8/6公開 第13話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年08月05日
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第11話 『新しい力』 <全25話>────────────────────────────────────興奮し、安堵したおかげで、レイフには新しい力がわいてきた。グウェンも同じだった。二人は再び泳ぎ出し、遠くに小山のように見えている正真正銘の地面に向かって、腕で水をかいた。見た目よりは遠かった。いくらも行かないうちに、グウェンはまた疲れ果ててしまった。それほどひどくないとはいえ、レイフも疲れていた。だが今度は、潮の流れが二人の味方をした。ついに彼らは潮流に乗り、何度かは岸に寄せる波の下になったものの、最終的にはそれらをやりすごした。よろめく足で二人一緒に砂浜へ上がったときには、背後で太陽の光が世界をオレンジ色と紫色に変えていた。彼らは、鼻をつくにおいを放つ海藻が高く積み上がっているそばに倒れこんだ。そのままそこに寝そべって、ひと休みした。体力はほとんど残っていなかったし、ここがどこかもさっぱりわからなかった。それでも二人は、間の抜けたカップルみたいにほほ笑み合っていた。「正真正銘の地面ね」グウェンはささやいて、湿った砂をつかむと、青白い手のひらで握り、しわくちゃの指の間から落とした。「こういうものをもう一度見られるとは思わなかった……」立ち上がらなければいけないことはレイフにもわかっていた。昇ってくる太陽の熱を避けられる場所を見つけなくては。水も。ここには真水の水源があるだろうか?頭を上げて砂浜の端のほうを見渡すと、背の高い椰子の木立がぼんやりと見えた。島か、小島か、それとも岩礁か――この陸地はどれくらいの大きさだろう?人は住んでいるのか?いないのなら、合図用の大きな焚き火を用意しなければ。調べることだらけだ。仕事もたっぷりある。けれど、すっかり疲れきっている。二人とも。グウェンは疲労のせいで、大きな目の下にくまをこしらえていた。見る間に、彼女の濡れたまつげが下がっていく。一秒かそこらで、彼女は寝入ってしまった。頬を湿った砂に預け、髪は縄がもつれたようになっている。かたわらの海藻の山みたいに。眠ってはいけないと思いつつ、レイフもまた目を閉じた。グウェンは何かに肩を揺すられ、しぶしぶ目を覚ました。 <8/5公開 第12話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年08月04日
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第10話 『水平線の向こう』 <全25話>────────────────────────────────────ぼくたちは西へ流されているらしい。これはいいことなのか?わからない。そろそろ水平線上に島が現れてほしいものだ。船でもいい。沿岸警備隊とか。この海域には、麻薬の密輸船などを追う沿岸警備隊の船がうようよしているのではなかっただろうか?一、二度、何かがレイフの脚にぶつかった。そして離れていった。鮫?それとも、同じくらい危険な何か?そうだったとしても、死は二人を素通りしていった。レイフはグウェンがため息をつくのを感じた。彼女は頭をレイフの肩に預け、丸めた体を流れにまかせて少し伸ばしている。まるで海がベッドで、レイフの肩が枕だというように。彼女の髪が海面に浮かんでゆらゆらと動き、レイフの首をなで、首に絡みつき、また離れていく。「見て」グウェンが言った。「かもめだわ」見ると、ブーメランを二つつなげたような姿が空を背景に羽ばたいていた。空は、二人がやって来た方向が明るくなりつつあるように見えた。グウェンが言った。「海の上でかもめを見たら陸が近いって、どこかで読んだわ」がっかりさせるのはつらいが、レイフは言った。「それは間違った説だよ。鳥は途方もない距離を飛ぶことができる。実際に飛ぶしね」グウェンは、またため息をついた。「間違いなの?」レイフは、そうだと言う代わりに喉を鳴らした。「ああ、レイフ」グウェンはささやいた。「愛しているわ。本当にごめんなさい」レイフは、しょっぱい味のする彼女のこめかみにキスをした。「そんなふうに考えるな。自分を追いつめるんじゃない。疲れるだけだし、なんのためにもならないよ」「わたしを追ってくるべきじゃなかったのよ」レイフは笑みをもらした。「今さら遅いよ、グウェン」「避難訓練を受けたとき、教わったわよね。誰かが海に落ちたら――」「救命浮き輪を投げてブリッジに連絡すること。でも、ブリッジに連絡しようにも、きみは遠くへ流されてしまっていて、できなかったんだ」グウェンは何も言わなかった。だが、何を考えているかはわかった。また自分を責めているのだ。「やめるんだ」そう忠告しながら、頭は別のことを考えていた――間違いない。東の空が確かに明るくなっている。レイフは片手でグウェンの腕をなでた。「日が昇るよ……もうまもなくだ」グウェンは、笑い声とも、すすり泣きとも取れるような声をあげた。「そんなにひどいようには見えなかったの。嵐のことよ。デッキに出た当初はまったく。手すりのところまで行ったわ。そうしたら、みるみるうちにひどくなっていったの」「もうすんだことだよ、グウェン。今の状況に対処しよう」グウェンは小さく息を吐いた。「あなたはいつも本当に現実的ね」「きみはロマンチックじゃないと言うけどね」「わたしがばかだったわ」レイフはほほ笑んだ。「だが、ぼくの愛すべきおばかさんだ……」「レイフ?」グウェンは体を起こして立ち泳ぎしていた。「どうした?」「見て」グウェンは西のほうを指さした。「見える?」レイフにも見えた。それは陸地だった。 <8/4公開 第11話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年08月03日
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第9話 『嵐のあと』 <全25話>────────────────────────────────────「ぼくにもたどり着けない」レイフは声を張り上げて、険しい口調で言った。グウェンは反論しようと口を開いた。だが、レイフは彼女にしゃべる隙を与えなかった。「一緒にいるんだ。助け合って浮かんでいること。そうするしかない」グウェンはレイフを見つめた。その目には罪悪感と自己嫌悪が見て取れた。「グウェン!つまらないことを考えるのはやめろ。ぼくたちは助かる。一緒にね。わかったかい?」グウェンは下唇をかすかに震わせながら、しばらくレイフをにらみつけていた。やがてその顔がくしゃくしゃになり、つぶやきをもらした。「マッティ、ケニヨン……」聞き取れないほど低い声だったのに何を言ったかがわかったのは、レイフも同じことを考えていたせいだった。「二人のことは心配いらない」彼はきっぱりと言った。子どもたちは、ワイオミングでライジング・サン牧場を経営しているグウェンの兄、ザックのところに預けてあった。ザックにはテスというすばらしい妻と、二人の娘と赤ん坊の息子がいた。ザックとテスは愛し合っている。二人で幸せな家庭を築いている。いざというときには、ためらうことなく姪と甥を養子にしてくれるはずだ。レイフは思ったままを口にした。「子どもたちは大丈夫だ。ザックが面倒をみてくれるさ」グウェンは目を閉じた。その目を開けると、彼女はうなずいた。「わかったわ」「いい子だ」レイフはグウェンを後ろに向かせると、抱き寄せて、救命胴衣を着た彼女の背中を自分の胸に合わせた。そして彼女の耳元で言った。「脚を曲げて引き寄せるんだ。楽にして」レイフの父は今も、コロラドで急流下りの会社を経営している。ウォルフ・マクミランはあまり家庭的な男ではなかったが、その息子は父にたたきこまれたサバイバルのための教訓を一つ残らず覚えていた。父に言われた言葉がレイフの口をついて出てくる。「温かい水の中でも低体温症になることがある。水の中では地上よりも体の熱が奪われやすいんだ。それに動くと、熱をかなり失うからね」グウェンはもう反論しようとはしなかった。彼女が両脚を胸に引き寄せると、レイフもその下で自分の脚を引き寄せた。二人は上を向いたスプーンのような格好でぷかぷかと浮かび、波に乗って波頭まで持ち上げられては、波の谷間に落とされた。やがてレイフが後ろを振り返ると、アナベル・リー号の姿はなくなっていた。船は、延々とうねり続けるこの奇妙な水の世界を抜け出していったのだ。時間がたち、嵐が過ぎ去った。波も穏やかになった。レイフが手を海中から出してみると、肌がふやけて、すっかりむくんでいた。多機能の防水腕時計は豪華な客室のコーヒーテーブルに置いてきたので、どれくらい漂流していたのか、よくわからない。でも、浮かんでいた時間の長さや、今が何時かなどということはどうでもいい。アーミーナイフはポケットにあった。ずいぶん前に父からもらったものだ。いつも肌身離さず持っていたおかげで、今もここにあるというわけだ。どこか無人の砂浜にでもたどり着いたときには、このナイフがきっと役に立ってくれるだろう。どんな時計よりも。悪魔のようにうなる風は去って、さわやかな南国のそよ風が吹き、果てしなく広がる夜の海の荒れも収まっていた。雲が風に追われてしだいに空が晴れてくると、星が顔を出した。レイフとグウェンの住むフィラデルフィアの町の空に輝く星々よりもずっと明るい。レイフは北極星を見つけると、そこから地球へ線を引っぱって――今の緯度ではそう遠くない――真北はどこかを見つけた。 <8/3公開 第10話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年07月31日
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第8話 『グウェンの決意』 <全25話>────────────────────────────────────グウェンも初めのうちはレイフと並んで泳ぎ、一生懸命についてきていた。だが、やがて遅れ始めた。レイフは彼女に合わせてペースを落とした。それから何分もしないうちに、グウェンはスピードを落として止まった――揺さぶってくる波の中で、どうにかその場にとどまっているという状態だったが。レイフは振り返った。その瞬間、彼にはグウェンの考えていることがわかった。「だめだ」レイフは叫んだ。「来るんだ」グウェンは首を横に振った。「行って。お願い。わたしが悪いのよ。あなたは行って……」レイフはもう一度、船に目をやった。ますます遠くに見える。遠すぎる。そして彼は気づいた。潮の流れが、二人の目指す方向とは逆に向いているのだ。レイフは腹に一発見舞われたかのように、現実に打ちのめされた。船までは戻れそうにない――二人一緒には。それでも、レイフの頭の中には、二人一緒という選択肢しかなかった。それなら、二人が助かる見こみはどれくらいある?レイフの頭は見こみを計算しかけて、現実に立ち返った。とにかく生き延びるのだ。今、二人がしなければならないことは一つだけ。それは生き続けることだ。この嵐をどうにかして乗りきって。一時間でも、一分でもいい、とにかく一つでも息をして生きるのだ。海の荒れが収まるまで。浮いて息をし続ける。それだけでいい。夜明けまで生き延びれば、陸にたどり着くか船に引き上げられる可能性も多少は出てくるだろう。アナベル・リー号は、早朝にバハマ諸島のコンセプション島沖を出発する予定になっていた。つまり、二人は少なくともまだバハマ海域にいる。船が嵐で航路を大きくはずれていなければ、そういうことになる。ぼくが今回の旅に興味を持つようにと、グウェンが読んで聞かせてくれたじゃないか。バハマには七百ほどの島があるだけでなく、二千を超える小島や岩礁があるということだった。あまり遠くないところに乾いた小さな陸地があって、ぼくたちを待ってくれているに違いない。レイフはグウェンのほうに手を伸ばした。グウェンは彼を押しやり、叫んだ。「だめ、行って!」そして、もうだめだというように咳きこんだ。レイフは彼女の両肩をつかみ、その名を叫んだ。グウェンの咳が止まった。彼女はもう、わめいたり押しやったりはしなかった。だが、決意の表情は変わらない。絶対に従わないという顔だった。 <7/31公開 第9話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年07月30日
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第7話 『嵐の海で』 <全25話>────────────────────────────────────レイフの視界の隅に、鮮やかなオレンジ色がちらりと見えた。投げておいた救命胴衣の一つだ。波にもまれながら、まっすぐこちらに来る。手を伸ばせばつかめるところまで来ると、レイフはそれをつかんだ。「ごほっ」グウェンはまた苦しげな咳をした。「さあ、救命胴衣だ。着けて」レイフが手伝って、ぐったりした彼女の片腕を袖に通し、胴衣を背中からまわして、もう片方の腕も通し、ようやく身に着けさせた。グウェンが自分の救命胴衣を着け、支えてやる必要がなくなって初めてレイフは、彼女をまっすぐに支えているのがいかに大変だったかに気づいた。安堵がじわじわとこみ上げてくる。だが、安心するのはまだ早い。依然として嵐は二人を襲い、波は彼らを容赦なく揺さぶっているのだから。でも、二人一緒だ。それに、二人とも生きている。今度は、あの救命浮き輪にたどり着かなければならない。あれに手が届いて、つかまることができれば、そのうち嵐はやむだろう。乗客たちがデッキに出てくる。ぼくたちは彼らの目にとまり、船に引き上げてもらえる。最終的には。「グウェン、大丈夫かい?」彼女はひどく顔色が悪かったが、しっかりとうなずいてみせた。「泳いで戻るしかない――船までね。救命浮き輪を投げておいたから……」グウェンは理解し、またうなずいた。だがそのとき、彼女の視線がほかに移った。レイフの後ろのアナベル・リー号のほうを見ている。そしてその顔に、彼をぞっとさせるような表情が浮かんだ。それは紛れもない絶望の表情だった。レイフは振り返り、船を探した。船は少なくとも一キロ半は離れているように見えた。「グウェン」レイフは、風と押し寄せる波に負けないように叫んだ。「やってみるしかない」グウェンはうなずいた。唇が動く。レイフは、その言葉を聞いたというより読み取った。「わかっているわ」二人は船を目指して泳ぎ始めた。海は今のところ、荒れが少し収まったように見える。そうであってほしいと思うあまり、錯覚を起こしているのかもしれないが。それでも、雨が弱まったことだけは確かだと言えそうだった。だがグウェンは、気絶して海水を大量に飲んだあとだ。それにそもそも、レイフほど体力がない。彼女のためにはレイフがゆっくり泳いでやるしかなかった。二人の間が開いてしまうことは避けたい。もう一度彼女を失うこともありえる。依然として荒れている波は、いつグウェンを運び去ってしまうかもわからない。そうなれば、彼女のあとを追わなければならなくなるだろう。しかし、今度もまた追いつくことができるとは限らないのだ。 <7/30公開 第8話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年07月29日
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第6話 『甦る愛おしさ』 <全25話>────────────────────────────────────波は戦いを仕かけ続けた。レイフは応戦しながら、ときおりスピードをゆるめて目から水をぬぐい、ピンクのレインコートがまだ視界の中にあることを確かめた。いつまでこうしていなければならないのか。だがそのとき、ついに波が彼をあと押ししてくれた。レイフの体は高く持ち上げられたかと思うと、波の谷間に突き落とされた。そこは、ぐったりして波に揺られているグウェンの体から三メートルほどのところだった。レイフはひとかきごとに祈りながら懸命に泳ぎ、ついにピンクのレインコートに触れた。そして、つかんだ。片手でレインコートをしっかりと。グウェンはまったく動かなかった――少なくとも自分からは。浮かんで、打ちつける波のなすがままになっている。レイフがぐいと引っぱると、何かが手に絡みついた。グウェンの髪だ。レイフは手を髪の中に入れ、もう一度引っぱった。彼女が悲鳴をあげ、痛いと怒って叫んでくれることを願って。だが、グウェンは何も言わなかった。波は相変わらず二人に打ちつけてくる。レイフは髪を持って彼女を引き寄せた。乾いているときにはブロンドと茶色の中間色で、光の筋のように見える美しい髪。ぼくはいつも、この髪に指をくぐらせるのが大好きだった……。レイフは目を閉じた。甘くせつない感情が身を貫く。彼は獣の遠吠えのような大声をあげた。グウェンの顔と子どもたち、マッティとケニヨンの顔が、走馬灯のように次々と心の中に浮かんでは消えた。まだだ。グウェンはまだ死んでいない。せっかくつかまえたのだ、手放したりするものか。ぼくたちはまだ終わっていない。これを切り抜けて、家に帰るのだ。レイフはグウェンを引き寄せ、顔が上を向くように向きを変えさせた。すると彼女が咳きこんだ。奇跡だ!咳をしたぞ!「いいぞ、そうだ、グウェン」レイフは彼女を腕の下から抱きかかえて、自分のほうを向かせ、できるだけ頭を高くしてやって、口と鼻に少しでも波しぶきがかからないようにした。グウェンが激しく咳きこんだ。レイフは彼女を高く支え続けた。彼女の胸がふくらんだかと思うと、痙攣しながら、しぼんだ。そしてグウェンは吐いた。誰かが吐くのを見てこんなにうれしいと思ったのは生まれて初めてだった。「レイフ……」グウェンがしわがれた声で言った。「レイフなの?」「そうだよ。ぼくだ。息をして。大丈夫かい?」グウェンはうめいたが、ちゃんと息をしていて、空気を吸い、吐いている。彼女は大丈夫だ――今のところは。 <7/29公開 第7話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年07月28日
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第5話 『必死の思い』 <全25話>────────────────────────────────────レイフは手すりをつかむ手を交互に持ち替えながら横へ進み、いちばん手近な救命浮き輪にたどり着いた。そしてそれを海に投げた。ひものついた大きなドーナツのような浮き輪が空を飛び、波間に揺れるピンクのレインコートから数メートルの海面に落ちた。救命胴衣だ!頭の中で言葉がはじけた。救命胴衣がつまったロッカーがいくつかある――船のあちこちに配置されていたはずだ。レイフは手すりをつかみながら、さらに先へ進み、ロッカーの一つに行き着いた。掛け金をはずして扉を開き、救命胴衣を二つ引っぱり出す。その一つを自分でも驚くほどすばやく着こんだ。それから、目に入る雨を払いながら、あたりを見まわした。救命ボートはどこだろう。いや、だめだ。ピンクのレインコートは、波間に浮き沈みしながら、どんどん右舷沖へと流されている。ボートにたどり着いて自力で水に降ろしている時間などない。レイフは救命胴衣をあといくつか引っぱり出し、海中に投げ入れた。もしかしたら……何かの役に立つかもしれない。手に持っているぶんをなくした場合とか。時間を惜しみながら、レイフは靴を脱ぎ捨てた。靴はないほうがいい。体が重くなるだけだ。そして彼は手すりに登り、高く荒れ狂う波間に飛びこんだ。体が水面にぶつかった。冷たくないぞ、ありがたい。そして救命胴衣が役に立って、すぐに体が浮き上がった。だが、次々に押し寄せる波が邪魔をして、視界が保てない。相当な時間がたったような気がしてから、ようやくピンクのレインコートが目に入った――それに救命浮き輪も。二つは、さっきよりずっと離れている。それに、ここからグウェンまではかなり距離がある。彼女をつかまえたいなら、泳ぎ始めたほうがいい。レイフはグウェンのほうに向かって力強いクロールで泳ぎ出した。腕で水をかきながら、夏になると父とコロラド川で泳いだのはずいぶん前のことだと思った。こんなに一生懸命に速く泳ぐのも久しぶりだ。もう一つの救命胴衣は、まもなく捨てるはめになった。両手が自由でなければ、波を切って進んでグウェンにたどり着くことはできそうにない。レイフは泳いだ。持てる力を振り絞って泳いだ。潮の流れにはちゃんと乗っているはずなのに、まるでそう感じられない。波が命を持ったかのようにレイフに戦いを仕かけ、押し寄せてくる。まるでわざと彼をグウェンのところに行かせないようにしているみたいだ。レイフは海水を飲んでしまい、咳をして吐き出した。そして泳ぎ続けた。 <7/28公開 第6話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年07月27日
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第4話 『グウェンの姿が・・』 <全25話>────────────────────────────────────レイフは体を起こし、耳をすませた。嵐が勢いを増している。かなり荒れている様子だ。彼はさらに耳をすませてみた。まるで台風のような音がしている……。レイフは急いで立ち上がり、グウェンを探しに向かった。左舷デッキへの出口のドアは、激しく吹きつける風のせいでなかなか開かず、体を預けて強く押さねばならなかった。そうしてレイフはようやくデッキに出たものの、そこには人の姿はなかった。ずぶ濡れのデッキにうなる風、あちこちで飛び散る波しぶき、荒れ狂う暗い空、そして果てしなく広がる荒れた黒い海。あるのはそれだけだった。レイフはたたきつける雨風の中を懸命に前に進んだ。グウェンのむちゃな行動に激しい怒りを覚えながら。そんなふうに怒っているのは、そうでもしなければ、彼女の身に何かあったらという恐怖に押しつぶされそうだったからだ。レイフは妻の名を叫んだ。「グウェン!」もう一度叫んだが、言葉は風に乗って自分に返ってくるばかりだった。そのとき、ついにグウェンの姿が見えた。船の中央あたりだ。右舷の手すりにしっかりとつかまり、鮮やかなピンクのレインコートを着て、ずぶ濡れになっている。ここから三メートルと離れていない。レイフはもう一度、名前を叫んだ。だが、彼女は振り返らなかった。風がレイフのその叫び声を唇からはぎ取ったとき、巨大な波が起きて左舷に押し寄せた。波はデッキにたたきつけ、そこら中に水が飛び散った。それも大量の水が。水浸しになるうちに、レイフはピンクのレインコートを見失った。そしてようやく波が引いたとき、右舷の手すりのところにいたグウェンの姿は消えていた。レイフは右に左によろめき、荒れ狂う風にもまれてずぶ濡れになりながら、グウェンが姿を消した手すりのところを目指して必死で進んだ。手すりにつかまり、逆巻く波の上を見渡す。いた!あそこだ。ピンク色が見える。あれは彼女のレインコートの背中だ。背中だって?くそっ、それはまずい。彼女は波にのまれて気を失ったのに違いない。顔が見えない。水から顔を上げておこうとしている様子がない。レイフはわらにもすがる思いで船首から船尾へと目を走らせた。やはり誰もいない。船長や乗組員はおろか、嵐に備えてハッチは当て木で閉ざされていた。船上の誰もがこの事態を乗りきろうとしている。レイフと溺れかかっている彼の妻を除いては。後ろのブリッジは、レイフの頭上二階分の高さがあった。あそこからだと、船首に人がいれば目につくかもしれないが、中央部に人がいても、よほど気をつけて見ていない限り目につきそうにない。角度が悪いのだ。彼らはグウェンが落ちたことを知りもしないだろう。それに、知らせている時間もない。ピンクのレインコートは船から遠ざかりつつあり、波にもまれて右舷沖へと流されていっている。 <7/27公開 第5話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年07月24日
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第3話 『もっと私を見て』 <全25話>────────────────────────────────────レイフは広い肩を少し丸めて、全身を集中させ、黒い目を細めて、目の前の画面に見入っている。ほっそりとした長い指を形の整った唇に当てて、もう片方の手でパソコンのマウスを自在に操っている。グウェンは水槽の一つの前に陣取った。彼の視線の正面だ――向こうが目を上げさえすれば。だが、そうはならなかった。「ううん」レイフはまだ画面に目を据えたままで言った。それから、長い指をした両手をキーボードの上に置いた。カタカタカタカタカタカタカタ。グウェンは歯を食いしばり、挑発的に見えるようなポーズを取った。そして咳払いをした。二度。二度目の咳払いは効果があった。レイフが目を上げた。やった!彼がこちらを見ている。わたしのことを見ているわ。あの表情には覚えがある。目に浮かんだあの温かい光が何を意味しているか、わたしはちゃんと知っている。レイフが低い声で彼女の名前を呼んだ。「グウェン……」親密さをこめて。愛情たっぷりに。このあとにお楽しみが待っていることを約束するように。心が浮き立ち、グウェンはほほ笑んだ。ところが、レイフは顔をしかめた。「五分待ってくれないか……」そして彼の美しい目は、再びパソコンの画面に釘づけになった。もうたくさん。グウェンはすうっと息を吸いこんだ。「新鮮な空気を吸いたいわ」吐き捨てるように彼に言った。レイフはうわの空で手を振った。「ほんの数分だよ、グウェン、約束する」わめいたりするのはやめようとグウェンは思った。わめいたところでどうにもならないし、そこまで自分をおとしめるつもりはない。彼女は身を翻すとベッドルームに戻り、着古したピンクのTシャツを着て、白いカプリパンツとテニスシューズを履いた。そして、鮮やかなピンクのレインコートを洋服掛けから取ると、ドアに向かった。グウェンが足を踏み鳴らしてそばを通っても、レイフは顔を上げなかった。彼女がドアをばたんと閉めたことにも、ほとんど気づかなかった。だが数分後、ずっと頭を悩ませていた問題にけりがついたとき、彼はすべてを悟った。グウェンは出ていってしまった。ひどく機嫌を損ねて。レイフは両手で髪をかき上げると、ソファのクッションにもたれて小声でののしった。なんだよ、たった五分くらい待ってくれてもいいじゃないか。ちょうどそのとき、船が大きく揺れた。大きな波がぶつかったに違いない。アナベル・リー号には安定装置がついている。それでもこれだけ揺れるのだから……。 <7/24公開 第4話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年07月23日
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第2話 『クルーズに来た思いは・・』 <全25話>────────────────────────────────────このクルーズに来たのは、夫と二人きりになりたかったからだ。二人が愛してやまない子どもたちのことや、日々の雑事も忘れて。雑事とは、おもにアンドリューズ・アンド・マクミラン建築設計事務所の仕事のことだ。結婚して八年になるレイフは、才能と努力の人で、熱心に仕事に打ちこみ、今やこの会社の共同経営者としてなくてはならない存在になっている。カタカタカタカタカタカタカタ。ああ、また聞こえてきた。いやというほど知っているあの音が。荒れた波が打ちつけ、雨が激しくたたきつけ、風がうなる音をかいくぐり、水槽の通気装置のごぼごぼという控えめな音に混じって、あの音が聞こえてくる。カタカタカタカタカタカタカタ。レイフがノートパソコンを使って仕事をしている音だ。まったく、レイフときたら。この一生に一度のとびきりロマンチックな休暇に、パソコンと電話機とブリーフケースをしっかりと持参するなんて。マイアミへの機中も、マイアミに泊まった夜も、彼は電話をかけてばかりいた。グランドバハマ島へのローカル便の機中では電話は使えなかった。アナベル・リー号の船上でも通じなかった。だが、パソコンは彼を失望させなかった。そんなわけで、昨夜の乗船以来、彼はグウェンとではなくパソコンと結婚したのではないかと思えるほど、その前に張りついていた。レイフ・マクミランは、ラム酒入りのカクテルを楽しむ時間も持たなければ、デッキに出てカリブの金色の太陽の下でのんびりと過ごすこともなかった。妻に注意を払うこともしない。あんまりだわ。彼の目はモニターに釘づけで、新しい物件の予備設計図をつくるのに夢中になっている。雨が激しさを増した。風がひゅうひゅうと鳴る音も少し大きくなった。それにつられるように、グウェンは体を起こして座った。今夜はまだあきらめてはいけない。レイフをその気にさせるために、ターコイズブルーのサテンとレース地の、透けたテディーをわざわざ身に着けたのだ。もう一度、なんとか彼の注意を引かなくちゃ。グウェンは立ち上がった。かなり大きな波がまたアナベル・リー号にぶつかり、足元の床がわずかに揺れた。でも、そうひどくはない。心配することはないわ。船長がそう言ったじゃないの。グウェンはチーク材で縁取られたアーチ型の戸口を抜けて、リビングルームに入った。レイフはソファに座り、その前にある低いコーヒーテーブルの上にノートパソコンを開いている。一心に集中している彼の表情を見ると、結婚して八年たった今でもグウェンは胸がどきどきしてしまい、ため息をつかずにいられなくなるのだった。憎らしい人ね。 <7/23公開 第3話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年07月22日
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第1話 『どうしてここまで来て仕事なの』 <全25話>────────────────────────────────────カタカタカタカタカタカタカタ。グウェン・ブラボー・マクミランは、その音を聞いて自分の耳を疑った。まさか。彼がそんなことをするはずはないわ……。しかし、うなる風とたたきつける雨が弱まって、外のデッキがやや静かになったおかげで、その音をかすかに聞き取ることができた。ベッドルームとリビングルームを分けているアーチ型の戸口のほうから聞こえてくる。カタカタカタカタカタカタカタ。グウェンはベッドわきの時計に目をやった。午前二時を過ぎている。この夜更けまで、彼女は夫の仕事が終わるのを待っていた。そしてようやく夫が、仕事は終わったと言った。そこでグウェンは、彼の気をそそるような服に急いで着替えた。それなのに、夫はまた仕事に戻ってしまったのだ。グウェンは落胆のうめき声をあげながら、特別客室の広いベッドの端に腰を下ろした。どうして仕事なんかするの?なんのためにわざわざ一緒にクルーズに来たの?答えはもちろん簡単なことだ。行かなければ絶対に許してもらえないということを、彼は知っているからだ。ひどい人ね、というようにグウェンはため息をつくと、ベッドに寝ころんで頭上の天窓を見上げた。雨がガラスをたたき、その向こうの暗い空は、荒れ狂う雲の渦に厚く覆われている。グランドバハマ島を出発してから二度目の夜で、嵐が迫ってきていた。スコールだと船長は言っていた。さほど心配することはない。朝には嵐を抜けて、光り輝く海に出る。明るい太陽と素朴な島々、ふるいにかけた小麦粉のように白くやわらかな砂に覆われたビーチが待っている、と。アナベル・リー号は全長約八十メートルの貨物旅客船で、四十七の客室がある。十三日かけて、カリブ海の島々をめぐりながら、バハマとトリニダードの間を往復する。この船は比較的小型で水中に没している部分が浅いため、大型の定期船ではけっして行かれない場所へも行けるのだ。無人のビーチの沖に錨を下ろしたり、古風なたたずまいの港に入ったり、異国情緒のある港町に立ち寄ったりすることもできた。グウェンは、夫のレイフと自分のために、船内でも最高の客室を手配していた。そのアドミラル・スイートは人目につかない場所に配置され、壁にはチーク材が張られていて、自宅以上に快適に過ごせる工夫がされていた。室内には鮮やかなネオンライトのついた、壮麗なエンゼルフィッシュの泳ぐ水槽もいくつか置かれている。バスルームには大理石の洗面台と、それに調和した浴槽がついている。さらに、屋根つきの専用デッキまであった。 <7/22公開 第2話へつづく>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年07月21日
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第22話 『最終話』 <全22話>────────────────────────────────────チャイナはあっけにとられて抵抗さえできないまま、覆いかぶさってきたトレントに熱烈なキスをされるがままになった。二人の女性は一瞬ぎょっとなったが、やがてシャロンが笑って言った。「あの……ここは職場ですけど」トレントが顔を上げた。「心配ご無用さ。今は休憩中なんだ」そう告げると、彼はまたキスを再開した。「なるほど」シャロンはジュリアにおどけた顔をして、ドアのほうにうなずいた。「事情は了解しました。では、またあとで」二人はくすくす笑いながら部屋を出ていった。「トレント!」チャイナはあらがって、やっと酸素にありつくと同時に吹きだした。「いったいなんのまね?」「きみにキスをしている」祈るように言う。「きみを抵抗できなくして、ぼくとの結婚を承諾させるために」「えっ、なんですって?」チャイナはめまいに襲われた。トレントはいとしげに彼女にほほ笑んだ。「チャイナ、きみを手放すわけにはいかない。わからないか?」「ねえ、説明したはずだわ。障害が多すぎるって――」トレントは彼女の言葉を途中でさえぎった。「違うよ、チャイナ。これはきみとぼくとの問題だ。ぼくを結婚させようとする母の思惑とも関係ないし、もちろんきみの姉さんの悪巧みとも関係ない」チャイナは目を細めた。「なんの話かさっぱりわからないわ」「結婚してほしい。でもそれは母のためじゃない。実際、母がなんと言おうときみと結婚したいんだ。それはきみの姉さんにしても同じこと。明日になって突然、母がきみに対する態度をひるがえしても、ぼくの気持ちは変わらないよ。今日メリンダが銀行強盗をしようと、かまうもんか。ほかの誰も関係ないんだよ、チャイナ。これは、きみとぼくとの間のことなんだ」「あなたとわたし?」すてきな響きね。彼を信じてもいいの?「そうだ、きみとぼく」トレントはポケットに手を入れ、アンティークのダイヤの指輪を取りだした。反射した光が部屋中をきらめかせている。「きみの指に指輪がないことに母が気づいてね。これを贈るようにと、ぼくに言ってきた。この指輪は百年以上前からペイトン家に代々伝わるものなんだよ」チャイナは息をのみ、宝石の美しい輝きに見とれた。「ああトレント、わたしには……受け取れないわ……」「受け取れるとも」トレントはそれを彼女の指にはめた。「これがどういう意味かわかるだろう?母はきみを信じているんだ。そしてぼくら二人のこともね」トレントは彼女にそっとキスをした。「どうだい、チャイナ?」やさしく尋ねる。「ぼくらのこと、信じてみないか?」彼女は指で躍るきらめきを見つめ、それから彼の瞳のきらめきを見た。「ええ、そうね」息をつき、彼の胸に身をゆだねる。「信じるわ」まるで誓いの言葉だった。トレントはそれを長く熱いキスで封印した。 <ご愛読ありがとうございました。>────────────────────────────────────この作品の一部、または全部を無断で転載、複製などをすることは著作権法上の例外を除いて禁じられています。All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form. This edition is published by arrangement with Harlequin Enterprises II B.V./ S.a.r.l. All characters in this book are fictitious. Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2008
2009年07月14日
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