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新婚時代(猫たちを保護し始める前)に、2頭のペットと暮らしたことがある。最初のコは、ハツカネズミの「バタータ」。このコを何故飼い始めたのか、どこで買い求めたのか、今では思い出せないが、ペット不可のアパートで、静かで、大家さんにバレずに飼えるので購入したのだと思う。ハツカネズミは確か1年ほどで天国へ行ってしまった。懐くことはなく、でも生き物が家にいるだけで、私には嬉しいことだった。次に飼ったのは、ウサギの「デデさん」。このコは新宿の路上で「大きくならないテーブルウサギ」として売られていて、2000円だったと記憶している。衝動買いだった。掌に乗るくらいの小さなウサギ。毛色は茶色。眼は黒くて、とてもかわいらしかった。ケーキを入れる箱に入れてもらって連れ帰ったところ、夫も動物好きなので、すぐに木材で小屋を作ってくれた。彼はモルモットを飼ったことがあるそうで、げっ歯目の動物は歯が伸び過ぎるとエサが食べられなくなり、命に係るからと木の枝も入れてくれた。でも、デデさんはその木の枝より、木でできた家を齧るようになり、小屋の前に「腹が減っても家食うな」と標語を書いて掛けたっけ(o^―^o)ニコちなみに「大きくならない」は全くのデタラメで、デデさんは普通の子ウサギ。すぐに大きめのオス猫と同じ程のサイズ、6㎏にもなった。当時はそういう怪しい商売があちこちであった時代だったのだ。デデさんは、私や夫がいる時は、小屋から出して部屋の中を自由に走らせた。ご飯はラビットフードなどなかったから、定番の人参やキャベツなどの野菜。そういえば、青菜がとても高かった冬があり、八百屋さんで、捨てる野菜をいただいたことがあったっけ。お腹が弱い様子だったので、彼がビオフェルミンを与えていたのも覚えている。ウサギは頭が良くないと聞いていたが、それは話掛けが足りないからだと少しずつ理解した。なぜなら動物病院へ連れて行く際に動物用のキャリーバッグを床に置くと自分からちゃんと入ったし、「出て」というとすぐに出るようにもなったからだ。動物病院へ初めて連れて行ったのは、健康診断のため。当時は自由が丘に住んでいて、まだ獣医さんの知り合いがいなかった。ボランティアで祐天寺にあった「ミーナ・キャットバンク」で保護猫の世話をするようになりそこでお世話になっていた学芸大学駅傍の動物病院へ連れて行くことにした。ところが、その獣医さんもウサギのことを大学でまったく学んではいなかった。というより、昔の獣医学科は家畜のことを学ぶ場で、犬猫等の愛玩動物を学ぶことは皆無だったそうだ。ある時、デデさんの喉元に腫瘍のようなものができ、慌てて連れて行った。 すると先生は「困ったなあ。原因も治療法もまったく判らないよ」 しばし考え、やがて先生はポン、と手を打った。「そうだ! 大学の友人に長野に帰って動物病院を開いているのがいる。彼に聞こう」ところが、電話をしながら、先生の顔が徐々に雲っていってしまった。そして…「彼の地元ではウサギは食べるけれど、ペットにしている人は皆無だそうだ」と驚く返事がなされた・・・。もう40数年前のことだ。その後、運よくもデデさんは回復し、そのまま6年ちょっと生きてくれた。最期は徐々にご飯を食べなくなり、心配でタクシーで病院へ連れて行く途中、亡くなった。今では実に色々な種類のウサギがペットとして飼われているが、あの時、露店で売られていたデデさんは、私にとっては初めての家族ウサギさんで、そして最後の家族ウサギさんになった。
2023年08月04日
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フランス語を学んだことがある人ならご存知だろうが、数字の読み方に独特なものがある。69までは、そのまま数える。でも70は「60、10」ソワサント ディスと言う。つまり60+10の「+」を省いて言う。80となると「4、20」キャトル ヴァン。つまりは「4×20」の「×」を省く。99は「4、20、19」キャトル ヴァン ディズヌッフ。「4×20+19」だ。文字にする時はそのまま数字を書くので問題がないが、耳で聞くと、とてつもなくややこしい。最初に耳に届く数字が例えば「60」だとして、頭の中に60を描くと、次に12が来たりして、結果「72」になったりする。数字が幾つも続くと、訳が分からなくなる💦仏語通訳の人も、相手に紙とペンを差し出して「書いてください」と言ったりする。間違えてはいけないから・・。どうしてこんなややこしいことに? と調べたら、現代フランス語の前の古典ラテン語時代、数字は例えば70なら「10×7」としたらしい。それが前と後ろを入れ替えた形で残ったとか・・(・・?ちなみにフランス人は算数はやはりあまり得意ではないようだが、優秀な数学者が生まれた数は、アメリカに次いで世界第2位だとか・・。合理性が強い国民性が関係しているらしい。私は子供のころから数字が好きで、買い物をする時は暗算で合計を出しながらスーパー内を歩いたりするが、さすがにフランス語では、これはやりたくない。 面倒で、とてもできない(´;ω;`)ウゥゥちなみに私の今の年齢は・・耳で聞くと、ソワサント・・おや? 60?いえいえ次に、11の「オンズ」が来、年齢のアン「ans」とリエゾンして「オンザン」。ちなみにフランス語は複数のSを発音しないので「ソワサント オンザン」。まじで疲れる(;^ω^)P.S.体調は少しずつ戻ってきています。血圧は下がり、体温も高め安定になりました。ご心配のメールを、たくさん、ありがとうございました。昨日、地元のマルシェで生の青パパイヤをゲット(o^―^o)ニコパクチーも菊芋も、とっても安かったので、今日は青パパイヤと菊芋とパクチーのサラダを作ります🎵
2025年11月30日
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父のことにはけっこう触れているが、母のことはほとんど書いてこなかった。何故なら、母との間に、幼少期からの確執があるからだ。まだ幼い頃は、ただただ厳しくて怖い人だと思っていた。食事の際に菜箸を持って傍に座り、私が好きな物を集中的に食べようとすると、いきなり手をはたかれ、違うおかずをご飯の上に載せられた。叱る時は、それは当時のほとんどの家庭で同じだったのかもしれないが、口で言い聞かすのではなく、叩かれた。 母は和裁用の竹製の物差しで叩くことが多かった。小学校2年生の時、学校で具合が悪くなり、保健室の先生が熱を測ったら37度少しあった。 担任の教諭が家に帰るように促し、帰宅したら母に叩かれ、もう一度ランドセルを背負わされた。「37度くらいの熱で帰ってくるんじゃありません!」私は学校へ戻った。そんな母でも、やはり私は子供だ。 嫌いではなかった。どうやったら好かれるのか、褒めて貰えるのか、いつも考え顔色を窺い、機嫌を取っていた。決定的なことは、小学校3年の時に起こった。あの日の光景は今でもはっきりと覚えている。両親の寝室で母は洗濯物を柳行李に仕舞っていた。「あのね、お母さん…」 何を話そうとしたのかまでは覚えていない。すると母は私のほうを振り返り、憎々し気な顔でこう言い放ったのだ。「醜い顔ね! よくそんな顔でおもてを歩けたものね!」翌日の学校での朝礼の際、私は畳んだハンカチで顔の半分を覆っていた。担任が来て「どうしたの? 気持ちが悪いの?」と聞く。私は答えた。「私、お顔が醜いから…」母は同居する姑と折り合いが悪く、姑=つまり私の祖母を憎んでいた。そして顔がそっくりで仕草も似てきている私と、祖母が、重なることが多くなったようだった。そのことを、まだ子供の私には解るはずもなく、ただただ愛されてはいないと思うようになった。子供にとって親の言うことは絶対だ。顔が醜いと信じきった私は、ずっと暗い顔で過ごしていた。でも、ある時、クラスメートのUくんの転校が決まり、去る時にUくんはこう言ったのだ。「ぼく、もし将来お嫁さんが見つからなかったら、高野瀬さんと結婚したいな」「えっ? でも私、顔が醜いからダメよ」 そう応えた私に一言。「高野瀬さんはかわいいよ。・・・男子は皆そう言っているよ」私の眼から鱗が落ち、そして母の言葉を初めて疑った。私は醜い顔ではないんだ・・・。それから母を見る私の眼が変わった。
2023年05月04日
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小学校3年の時に芽生えた母への疑念は、徐々に膨れ上がっていった。学校のテストが返却されると、母はその点数が80点未満だと私を叱った。「お母さんが笑われるんですよ!」と叩いたり抓ったりされた。たとえ平均点が60点くらいでも、叱られた(怒られたと言うべきか?)。学校のクラスに女の子の転校生が入ってきて、私はその子と仲良くなった。家に呼んで遊んだ際、母は彼女の父親が銀行員であることを聞き出し、友達として認めた。でも何かの折に「おばあちゃんは八百屋さんだったの」と彼女が言ったとたん、態度が一変した。「商人の家の子だなんて。うちは家柄・血統がいいんだから、もう一緒に遊ぶのは許しませんよ」居間に祖母がいる際に、母はわざわざ新聞を広げ、死亡欄を読み上げる。「〇〇学者の〇〇〇さん。69歳。…立派な人は早く死ぬのね」。そして祖母が居間を去ると、私に「おばあちゃんはいつかしら?」と言う。私は祖母がこの世からいなくなることに、強い恐怖を覚えるようになった。そして小学4年生の夏休み。お盆の時季に、いつものように母の実家に連れられて行った時のこと。母方の祖母が「順子は何が好き? 明日のお昼ご飯にこしらえたるわ」と聞いてきた。私は「お雑煮」と答えた。でもお膳に載ったのは、私が食べたかった「雑煮」ではない。私にとっての雑煮は、関東風。 鶏ガラ出汁の醤油味。四角いお餅は焼いてから入れる。でも用意されたのは関西風。 白味噌仕立てに、焼かない丸餅を入れて煮てある。一口食べて…口に合わなかった。「これじゃないの」と言った私に、母方の祖母は怒って手を挙げた。「あんたが食べたい言うから、こしらえたんやないの!」泣きながら横を見ると、目に飛び込んだのは、口の端を歪めて笑った(ように見えた)母の顔…。母には最初から解っていたはずだ。私の言っている「お雑煮」が実家のそれとは全く異なることを。母は私が叩かれるのを喜んでいる。・・・そう感じて、ますます母を信じられなくなり、そこから私の母への憎しみが、ことあるごとに増していった。今はどうか知らないが、昔は霊柩車が通ると、あわてて親指を隠したものだった。親があの世に連れて行かれないように・・・と。でも私は霊柩車を見ると、急いで親指(お父さん指)は隠したが、人差し指(お母さん指)をそれに向かって突き出すようになった。そして、優しくて大好きな祖母が死なないようにと、毎晩、眠る前に祈るようにもなっていた。母にも母なりの理由や葛藤があったのだろう、と今では思える部分がある。そういう育てられ方をしたから、同じような育て方しかできなかったのかもしれない、とも。でも・・・一度でいいから、優しくハグされたかった。顔色を窺うことなく、無邪気に甘えたかった。
2023年05月06日
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レコードつながりで、もうひとつ。子供の頃、家には78回転のレコードがたくさんあった。数百枚、いや大台に載っていたかもしれない。すべてクラシック。父によると、私の父方の祖父は日曜日になると時々レコード屋さんを家に呼び、何枚かのレコードを試聴後に購入したそうだ。同じ交響曲でも指揮者によって曲想がかなり違う。だから指揮者違いの同じ曲を数枚買ったりもしたそうで…。ただ、幼い私にはその違いが判るはずもなく、いちばん好きなグリーグの「ペールギュント組曲」(中でもソルヴェイグの歌)をいつもねだってかけてもらった。でもそれは多分、小学校に上がってからだったのだろう。 幼稚園かその前の段階では、絵本とレコードが一緒になった音楽絵本(?)の「ブー・フー・ウー」を好んでいた。どうして子供って同じことを何度も何度も繰り返せるのだろう? 今でも内容や絵まで覚えているが、この「ブー・フー・ウー」、多い日は一日に3度も4度も聴いた。きっと親はうんざりだっただろう(;^ω^)初めて自分のお小遣いでレコードを買ったのはいつだったか?確かNHKの「大河」か何かのテーマミュージックで、どうしても手元に置きたくて、付録にその曲がソノシートでついてくるNHKの会報誌を書店で購入したのだ。ソノシート・・それはビニール材質の柔らかいレコード。比較的安価で造れたようで、当時は色々な雑誌の付録に時々ついていたらしい。 私の記憶には、このNHKのしかないが。その後、お小遣いで初めて買ったシングル盤は、もうソノシートではなく普通の盤。GSのだっただろうか?中学生の時に夢中になった「オックス」のデビューシングル「ガールフレンド」だった?いや、映画音楽の「悲しみは星影と共に」だったような気も・・。いずれ倉庫を整理して確認しよう。当時、小遣いで購入したものはすべて母に見せなくてはならず、母はGSを認めようとはしなかったが、私も中学生になった頃には言うなりではなく、反抗し、レコード店に返しに行くことを阻んだ。同じレコードを2枚購入したこともあった(そういう人は多かった)。何度も何度も聴いているとレコードは擦り減ってしまう。だから聴取用と保存用とを買う。中でも忘れられないのは、高校1年の時だったか、たまらなく好きな楽曲に出会った。それは中尾ミエさん歌唱の「片想い」。大好きな作詞家・ZUZUこと安井かずみさん作詩・川口真さん作曲のとてもとても美しいバラード。これは当時の彼(同級生)にもプレゼントしたので、3枚購入した。「片想い」は中森明菜ちゃん他カバーしている歌手も何人かいて、明菜ちゃんの歌唱はさすがの域だが、私としては、イントロなどアレンジも含め、中尾ミエさんのものが一番好き。今でも宝物として2枚、お気に入りの小ぶりのトランクに入れてある。 これは会うことがなかった祖父が世界一周の旅に出た際、手持ち鞄として使っていたという鰐革のトランクだ。(ちなみに祖父は今でいう警視庁(当時は内務省)で鑑識員だったが、中途退庁して仲間と研究所を立ち上げたそうだ)革製品はアニマルライツの精神から持たない主義だが、これだけは父から受け継いだので大事にしている。大事なバッグに大事なレコード。「片想い」の他にも50枚ほどシングルが入っているが、その話は、いずれ、また。
2025年02月27日
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4月には愛猫「梅子」と「光稀(こうき)」の命日がある。梅ちゃんは4日に33回忌、光ちゃんは10日に16回忌。どちらもソメイヨシノの花が散りゆく頃だった。なのでしばらくはソメイヨシノを見るのが辛かった。梅ちゃんの時は落合に住んでいて、あの日、📺ニュースで「桜ももうすぐ散りそう」と聞き、慌てて井の頭公園まで電車で行った。 落合駅からだと20分くらいだっただろうか。梅ちゃんは没時推定20歳の三毛猫さん。推定10歳程の時に保護したが、片目の眼球がないコだった。住んでいた渋谷のマンションの駐車場で行き倒れており、原因は鼻気管炎。完全なる野良だったため、動物病院での数本の注射が効き、すぐに元気を取り戻した。ただ、獣医さんが「匂いは解らないままだから、もう外で餌は獲れない」とおっしゃるのでうちのコに迎えた。常に家具の後ろに隠れていて、私や夫がいない時にご飯の器が空になり、トイレもすませていたようだ。半年以上経った頃、私が眼の開いていない子猫を3匹保護したら、徐々に姿を見せてくれるようになり、慣れてくれた後は甘えん坊(嬢?)になって、いつの間にか家の猫たちのお母さんとなっていた🐱梅ちゃんはその日まで、具合の悪さを見せないでいた。井の頭公園から帰宅したのが午後3時くらいだったか。うずくまり、様子がおかしい。慌てて落合から渋谷の病院までタクシーで向かった。そのまま入院。でも虫の知らせがあったのか、胸騒ぎがして夜の7時少し前に病院へ戻った。連れて帰らないといけない気がして、そう願い出た。そして・・数時間後に私の腕の中で旅立った。間に合って、ほんとうによかった。光ちゃんは、横浜の獣医さんから託された元保護猫。うちに来た時は推定2~3歳。交通事故で意識を失くしていたところを救われたが、砕けた顎の結合手術を受け、脳にも問題が残った。物覚えが悪く、同じ場所からいつも転落することもあって「知的障碍」との診断。最初は私が病院内のcageに入っている所に声をかけると背を向けていたが、懐かせられる自信はあった。そして懐いた後のこのコの甘えん坊ぶりは、どの🐱よりも深くて、たまらなくかわいかった。光ちゃんの命日は10日。平年ならもうソメイヨシノも葉桜になる頃だが、この年はまだギリギリ保っていた。‥今年とよく似ている。あの日、仕事から帰宅すると、梅ちゃんの時のように様子がおかしかった。夜で時間外だったが、電話をしてから懇意にしている獣医さんのもとへ、やはりタクシーで向かった。そして・・その翌朝に、やはり私の腕の中で静かに逝った。光ちゃんは私の最後の飼い猫となった。 当時の喪失感は半端なものではなかった…。ソメイヨシノは美しく、そして儚い。あれからもうかなりの年月が経つが、そしてソメイヨシノを見に行くことができるようになってはいるが、やはり、いつまでも、私にとってソメイヨシノはどこか悲しく、淋しい花。
2025年04月09日
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眠るキミの横顔を見ていた。初めて会った日から、もう1年経つ。まだ高校生だったあの頃より、大人になった。そしてスターの顔にもなった。人は、人に見られる仕事をしていると、どんどん垢抜けていく。でも無防備に眠るキミには、どこかまだ幼さが見られるよ。私だけが知っている、この顔。好き。 たまらなく好き。ずっとキミの傍にいたい。 キミを離したくない。少しだけまどろんだ・・・のだろう、多分。目を開けると、キミの顔がそこにあった。 私の顔を覗き込んでいた。「瑠璃、おはよ」明るい顔をしている。 昨日のことをたどる。 キミは家を飛び出し、夜中にバイクを飛ばしてやってきた。思い通りにならないことに憤りを感じていたその心を、落ち着かせることができたのだろうか。「何か、飲む?」「オレが持ってくるよ。瑠璃は何がいい?」冷蔵庫に作り置きしてあるミント水を頼む。「しょうちゃんたちのフード、さっきあげておいたよ」穏やかなキミを見るのは嬉しい。キミは足元に甘える猫たちと一緒に、キッチンに向かい、2つのグラスにミント水を入れて戻ってきた。「オレ、昨日瑠璃が言った言葉で、ちょっと目が覚めたっていうか・・・。『何もかもは同時に手に入らない』ってこと、オレ、他の人にも言われたことがあるんだ」そうなんだ。 キミの言葉の続きを待つ。「こんな話をしたら、瑠璃、怒るかもしれないけれど・・・。ユミさんがね、言ってた」ユミ。 歌姫・楢咲ユミ。 私からキミを奪った人だ。でもキミを愛していたからではなく、スターへの道を約束されていたキミを、自分が作る事務所に入れたかったから。ユミは一回り以上も年上のマネージャーと恋愛関係になっていて、すべてはふたりの計算の元に計画されたことだった。自分は利用されようとしていた、そう知ったとき、キミは私の前で泣いた。キミはそんなユミのことを、今でも思い出すことがあるの? 「ユミさんはシンガーを引退して、病気のお母さんに付き添いたいって。その話は瑠璃も知ってるよね」「うん。だからKYOJIを事務所に入れて、自分はプロデューサーとしてやっていこうとしたんだよね」シンガーソングライターは名ばかりで、詩は私がゴーストをしていたんだもの。 ユミにどんな事情があったにせよ、あの人を人とも思わない態度の数々は、同情を呼べない。「オレ、ユミさんのことはもう何とも思っていないよ。 それは信じて。ただね、ユミさんが何度も言ってたんだ。 『とっても欲しいものを手に入れたとたん、ママが倒れちゃったんだ。大スターになりたかった。でも代わりに一番大事なママが倒れちゃったんだ』って。そしてね『本当にほしいものは、ひとつでいいのかもしれないね』って」「・・・」 複雑だった。 ユミのことは今でも好きにはなれない。でも、この言葉に嘘はないように感じた。「オレ、思った以上にCDとか売れて、コンサートもチケット完売で。で、家族も元気だし、瑠璃もいてくれるし、もしかして、これ以上、望んだらバチが当たるかな? って思って、怖くなった。アーチストとして大きくなっていくこととか、いい曲を生み出していくことを願うのならともかく、やっぱ、まだ友達を呼ぶためのマンションとか、やっぱ贅沢だよね」キミが暴走しそうになるのを止めたのは、ユミさん?ちょっと複雑だった。でも口に出して言うのはやめよう。キミの穏やかな顔を、もう曇らせたくはない。「瑠璃。仕事の準備、大丈夫? オレのことかまわないでいいから、ちゃんと用意とかして」「じゃあ、ブランチに何か作って」甘えた声で言ってみた。「あ、大スターのKYOJIさまに、そんなこと?」キミはふざけながらそう言って、キッチンに立とうとする。「いいの、嘘、嘘」 キミの腕にぶら下がって止める。「じゃ、一緒に作ろ」キミの隣で野菜を刻む。 時折キミと目線を交わしながら、ほほえみを交換しあいながら・・・。キミの心、ここに留まれ! このままずっと、ずっと、私の傍に留まれ!
2006年07月17日
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子供の頃、5月になると実家に、たくさんの客人が来た。父が庭で育てていたたくさんの「サツキ」が、一斉に花を咲かせたからだ。なぜ父がサツキを育てるようになったのか、私は知らない。物心ついた時から庭にあったように思うし、一緒に出掛けた先で珍しいサツキを見つけると、父は5~7㎝位だろうか、手折って持ち帰り(当時は許されたようだ)庭に挿し木していた。確か、多かった時期には150種類だったか、200種近くもあったか…。色々な色があっただけでなく、変わり種として、めしべとおしべだけの花もあったし、花弁の形も様々だった。花が咲くと、それらを見たいと、園芸の専門家たちが休日に訪れるようになった。エンジニアだった父なので「サツキ」は趣味に他ならなかったから、どこで聞きつけたのか。学校が休みの日には、黄色くなった葉を、待ち針で一つ一つ取り除く作業を手伝った。これは正直って大変な作業だった。でも指でつまんで引っ張ることは木が痛むからと許されなかった。水やりも夏休みなどは子供たちの仕事になって、面倒だと思ったことが正直言ってある。華道家の安達瞳子さん(瞳は「日に童」と書く)の取材時に父とサツキのことを話したら、「あなたは何の花が一番好き?」と聞かれたので、「ほたるぶくろ、です」と答えると、「サツキ好きな父にほたるぶくろ好きな娘・・・おもしろいわね」と微笑まれた。その心は? と伺ったが、微笑まれただけで、教えてはくださらなかった。たくさんのサツキは、父が亡くなった後、動物や植物の飼育が苦手な母によってほとんど枯らされてしまった(´;ω;`)ウッ…サツキ咲く五月。父の育てたサツキたちを想い出す。私が一番好きだった、白とサーモンピンクの斑模様のそれは、もうどこにも見当たらない。
2023年05月02日
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このことを書こうかどうか、かなり迷った。でも私のことを誤解しているY子さんにどうしても知ってほしくて、綴ろうと決心した。6月には祖母の命日がある。1983年のことなので、もう丸40年も経った。祖母はその数か月前に「足が痛い」と仮病を使って、外科専門病院に入院した。おそらく妹が結婚で家を出て父も単身赴任。嫁である母との二人暮らしが辛かったのだろう。外科病院では院長が「ベッドも空いているし、好きなだけいたらいいですよ」と言ってくれた。ところが、それから1か月ほど経った時だろうか、祖母の血圧が急に上がり、外科では対応できなくて、車で10分ほどの内科病院へ転院となった。 それからは検査の日々となったが、まさか最悪の事態となるとは、思ってもみなかった。2週間ほど経った時、未明に渋谷在の私に母から電話があった。「夜中におばあちゃんの様態が急変したのよ。今日がヤマですって。死んだら知らせるから喪服を用意していなさいね」。・・・死んだら知らせる? 冗談じゃない。すぐに行くわ! 私は猛スピードで原稿を書き上げ、小学館の裏受付に届けてから、横浜へと電車で向かった。祖母のいる個室病室へ入った瞬間、間に合わなかった、と思った。目に入ったものは、片づけられた部屋。それまではベッドサイドや窓枠の上に、時計やら花やら私が贈ったぬいぐるみがあった。それらが全部なくなっている。間に合わなかった…そう思って震えながら祖母の方を見ると、「じゅんこ~」と祖母が力のない声で私に声をかけてくる。びっくりした。 ホッとした。 次の瞬間、私は母に「何で片付いているの?」と聞いた。問いただした形だ。 すると母は「だって、今夜にはもう家に帰るんですから。今日中に死ぬんですから」慌てた看護師さんが、母を抱きかかえるようにして、廊下に連れ出した。祖母は力なくほほえんだ。それからしばらくして意識が遠のいたが、単身赴任先から新潟に出張していた父や、結婚で県外にいた妹が駆け付けるまで、命の灯は消えずにいてくれた。そして、夕方・・・皆に看取られながら、祖母は静かに逝った。この世で一番悲しい日だった。それまでの29年間の人生の中で。祖母の棺の中には、私がマルベル堂で撮ってもらったブロマイドや、愛犬・樹里の写真、そして葬儀会社が用意した花とは別に、ほたるぶくろの花を入れた。さくらんぼも入れた。母は姑の最期の日に、意趣返しをした。憎むには憎むだけの訳があるのだろう。その一部のことを後に父から聞いた。母が嫁に来た時に、祖母は一緒に暮らしてみて母の性格に呆れ、実家に戻そうとしたのだ。母からすれば、悔しかったのだろう。 ただ、どんな理由があろうとも、人生の最期の瞬間に、この仕打ちはないだろう。私が同じ立場になったとしたら・・間違いなくこんなことはすまい。母との確執が、強く深まった出来事だった。
2023年06月06日
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最後に祖母や父のお墓参りに行ったのは、いつだったか・・・。先祖代々の菩提寺は滋賀県の彦根市にあるため、そうそう気軽には出かけられない。ましてや無神論者の父だったため、子供の頃にお墓参りの習慣はないに等しかった。それでも何らかの節目にはお参りしていたようで、祖母だけで出かける時や、祖母と父が行く時について行ったことが何回かあるが、 残っている写真を見ると私はまだ幼稚園児だったり、そこから急に飛んで、アテネ・フランセ時代のもので、実はあまり記憶にない。ただ祖母が亡くなった1983年以降は、ほぼ毎年、私は一人でお参りしていた。不思議なことに関西方面での取材が定期的に入り、その帰りにスタッフとは別行動をとって、新幹線の米原駅で下車し、JRか信楽高原鉄道で1つめの彦根へ向かったのだ。JRならば新幹線の時の乗車券で追加料金がかからずに彦根まで行かれたが、私は単線の信楽高原鉄道が好きで、わざわざ米原駅の外に出、その駅へと向かった。お寺さんでは、住職に声がけすると、お経をあげていただいたりの時間が必要なので、彦根駅から歩いて菩提寺へ行き、そのまま用意していた花やお線香を供えて、合掌して戻った。最後に行ったのは・・・私にとって最後の猫となった光ちゃんを虹の向こうに送った年の秋だったか?(光ちゃんが一頭だけになった後は、知的障害がある光ちゃんを長い時間ひとりにするのは心配ですべての出張は断り、光ちゃんの傍にできるだけいるようにしていた)ペットロスを癒すため、久々に旅に出た。 2010年のことだ。大好きな祖母が亡くなった後、ほんとうにしょっちゅう関西方面への出張が入ったのはありがたかった。お墓参りに新幹線で往復すると、日帰りであっても数万円はかかる。でも出張のついで、という形なら、ほんの数千円の差額で行くことができた。祖母が呼んでくれたのかな? そう思う。父が亡くなって納骨した後は、不思議と関西方面への出張は少なかった。それも「お墓参りはいらないよ」と言っていた父からメッセージだったのだろうか?
2023年09月22日
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クドカンさんの脚本だというので、毎週録画して見ている「不適切にもほどがある!」は期待通りにおもしろい。この「おもしろい」は業界用語。「興味深い」という意味もある。底辺に流れる、昨今の優しくない、人間味の薄すぎる「コンプライアンス」への皮肉にもうん、うん、と頷いて観ている(もっとも耳が遠くなって、セリフが聞き取れない場面もあるが)。テレビはもちろんのこと、雑誌や書籍でも、神経を尖らせるのは「差別用語」だ。相手を傷つけてしまうような、卑下した言葉や呼び名などがないか、原稿に厳しくチェックが入る。当たり前のように会話に出てくる単語でも、差別用語であったりする。つまり、差別用語とは知らずに遣っていることが意外とあるのだ。テレビやラジオの生放送で、知らずに差別用語を遣ってしまい、干された人もいる…。差別用語と聞いて私が忘れられないのは、30年ほど前に家業で野菜を作っている人を取材した時のこと。「おれは百姓として…」と本人の言葉を「」で書いたところ、百姓は差別用語だと編集長に言われた。「農業従事者、と書き直すように」とのお達しだ。やっぱり来たか! と思った。「お百姓さん」が差別用語になっているのは、もちろん知っていた。だから取材の際にもその旨を話し「農業従事者、って書くことになります」と告げると、「いや、おれは百姓です。先祖代々、百姓であることに誇りを持っています」とおっしゃるのだ。編集長にそのことを話すが「でも、差別用語になっているから、まずいんだよね」と返される。困った。本人が「百姓がいい。農業従事者などではない」と言っているのだ。それを書き換えていいものなのか。結局は「百姓(農業従事者)」とし、欄外に本人が希望したことを記することで編集長と話はついたのだが、それでも上からはクレームがあって、結局どうなったのか? ・・・実は思い出せない(;^ω^)昭和の時代、特に戦前生まれの人の人種差別や職業差別には、目を覆うものがあるのは確かだ。横浜で育ったが、学校の先生から「電車の中で朝鮮人学校の生徒と目を合わせないように」と言われ続けてきた。関西生まれの母は、同和地区の人も異様に嫌った。関東育ちだとピンとはこないが、就職や結婚の際に、親が関西出身だと「〇〇やないやろね?」と関西以西出身の人に差別用語丸出しで聞かれた、と言う人も何人も知っている。歌手のマネージャーになり、その後にフリーライターとなった際には、在日韓国人や いわゆるハーフと呼ばれた、片方の親が日本人ではない歌手や俳優、タレントさんなどと親しくなった。「黄色いさくらんぼ」が大ヒットした「ゴールデン・ハーフ」という4人組の歌手が出てきたころからやっとハーフの人を、差別するより憧れの対象、と見る女の子が現れ始めたが、ハーフの友人から打ち明けられた、子供時代の差別によるいじめは、想像をはるかに超えていた。今、そういう差別をなくそうとし、少しでもあれば問題視されるようになったことは、素晴らしいことだろう。でも一方「〇〇ハラ」と何でもハラスメントになってしまうことには、やっぱり抵抗がある。生まれた環境や容姿など自分ではどうしようもないことを、差別の対象としたり、からかったりは問題外。ただ、心底、美しいとか、かわいい、素敵、と思っていることを口にしてもハラスメントになったりするのは、おかしくなぁい?相手の顔色を窺いながら言葉を選ばないといけないし、コミュニケーションの取り方が解らなくなってしまう。本音で付き合うことが、いよいよ難しくなっていきはしないだろうか?やがては無関心でいることへ、繋がってはしまわないか?「中庸をいく」という仏教の考え方が好きだ。なんでも行き過ぎてはいけない。難しいことだけれど、ちょうどいい場所を見極められる人間になりたい。
2024年03月21日
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9月16日に転倒し、右手首を骨折してから約2か月半。昨日、ようやく主治医(手術の執刀医)から、重いものを持つ、手すりに身を委ねる、などの今まではNG行為だった動作も、「以前のように動いたり動かしたりしてかまわない」と言ってもらえた。もちろん、まだまだ完全ではなく、病院でのリハビリは続くのだが。そして来年の10月頃には手首に入れたプレートを抜く手術😨も待っているのだが・・。大人になってから初めての転倒。そして、まさか、まさか、の利き手・右手首の骨折。全身麻酔をかけての手術は初めてで、目覚めなかったらどうしようとと怖かったし、着替えがままならない、箸すら持てない、など日常生活に大いに支障が出て手術が無事終わっても一人暮らしの身では(その後の生活はどうなる?)と焦りもあった。それらの日々を、なるべく時系列に沿って書き残そうと思う。指は手術翌日からのリハビリのおかげで比較的早くから動かせるようになったが、まだ手首の稼働には問題があり、手術の傷跡がパソコンを使っていると痛む。なので、ゆっくりと・・・ゆっくりと・・・。次回は、転倒に至った経緯から。
2024年12月03日
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あれは忘れもしない、中学時代。ビートルズやローリングストーンズ等のロックバンドの影響があってだろうが、日本でも歌謡界にバンドブームが起きていた。「グループサウンズ」・・通称「GS」だ。タイガース、テンプターズ、オックスetc.etc.今とは異なってゴールデンタイムに幾つもの歌番組があり、GSの人気バンドが登場していた。ファンは女性がほとんどだったが、男性はというと、GSそのものというより日本に浸透してきたばかりのエレキギターに憧れる人が多く現れた。そして、若い男性の髪型にロングが目立つようになったのも、この時期から。それまでは髪を伸ばす男性は、おそらくゲイか浮浪者と言われる人達くらいだった💦あれは中2の時だっただろうか。学校の体育館に生徒一同が集められた何かの集会の際、音楽教諭のM先生がマイクを握った。曰く、「エレキギターが流行しているようだが、あんなのは楽器ではない。ビートルズやロック、GSは音楽ではない!」音楽=クラシックだと言い切った。まあ、そういう時代だったことは否めない。そしてM先生は男性の長髪についても苦言を呈した。「私は、あの男子の長い髪を見ると、虫唾がはしる」すると女子の手が上がり、マイクを貰ってこう声を張り上げる。「私はM先生の髪の、刈り上げた青い部分を見ると、虫唾が走ります。人、それぞれです!」体育館は拍手の渦(o^―^o)ニコM先生はどうしたか・・ 怒っていたが、何も言えずにいたように思う。あの勇気ある女子。誰だったんだろう?中学は各学年、一クラス52人くらいで10クラスずつほどあった。私の知らない生徒だったことだけは、確か。あの女の子、どんな大人になったんだろうな?そして、その後、エレキギターは当たり前に音楽界に浸透していった。
2025年11月12日
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「私は人生の中に『余生』があるとは思いません。この世に生まれ、成長し、学び、社会に出て活動し、そして高齢期を迎えて老いが進み、やがて死が訪れる。そのライフサイクルの中の、すべての時間は、等しく大切なものだと思うのです」これは「さくら苑」桜井里二苑長の言葉だ。もう20年も前のことになるが、文春文庫から私が上梓した「老人と犬~さくら苑のふれあい~」。横浜市は旭区にある特別養護老人ホームでの、動物と入居高齢者との日常を、「盲導犬クイールの一生」の写真家・秋元良平氏の写真と私の文章で構成したドキュメンタリー本。ことの起こりは日本動物病院福祉協会が、人と動物の絆を深める「CAPP活動」を始めるにあたり、動物が定期的に訪問できる施設を募集。 桜井苑長はその第一号に名乗りをあげ、「できれば訪問を受けるだけでなく、動物と一緒に暮らしたい」と申し出た。その理由が前記したもの。 つまり「高齢期は自分の人生の総括の時です。たとえ車椅子の生活であっても、寝たきりになっても、日々を楽しく充実させて生きていたいと思うのは、すべての人の願いではないでしょうか。老人ホームでも、大切なのは『生存』ではなく『生活』なのです」(桜井苑長)こうして大型犬を含め犬6頭&猫3頭を迎え入れた苑での日々の生活を「老人と犬」では追った。ペットと位置付けられた動物を受け入れた苑では、数々の奇跡のようなことが起きた。もう何年も手が動かせないでいたおばあさんが、犬を抱きしめたい一心で手を動かしたり、誰とも仲良くなろうとしなかったおじいさんが、猫の話しをするために仲間の輪に加わったり・・。すべてを書くと長くなってしまうので、動物との絆はここまでとして、「さくら苑」にはもうひとつ、とても「大きな試み」がなされていた。厚生省(現・厚労省)では、特別養護老人ホームには「静養室」と「霊安室」を設けることを義務付けている。ちなみに「静養室」とは、死が目前に迫った人を、他の居住者から離して看取るための個室。もちろん「さくら苑」にも、この二つの部屋はある。でも・・・開設依頼、一度も使われたことがないのだ。桜井苑長は言う。「生きとし生けるものは、必ず最期を迎えます。生と死は対極にあるのではなく、死は生の延長線上に位置するもの。死とは決して敗北ではなく、人生を結実させる大事な瞬間だと思うのです」最期の時に、夜陰に紛れて家族に引き渡してしまうのではなく、縁あって一緒に暮らしてきた仲間と共有する時間を持つ。桜井苑長は最期の時間を今まで居住した部屋で、同室者や仲のよい人と共に過ごすように計らい、亡くなった後は食堂ホールに安置して、スタッフや動物も含めた全員でお別れの時を設ける。簡単なことではない。日々の生活と、国から決められた課題を守ることだけでも大変な介護の現場で、桜井苑長の「想い」を実現するために、スタッフも全員、力を合わせていた。桜井苑長の考えに心から賛同している人たちが、苑を支えていた。「死は生の対極ではない。生の延長線上に死はある」「人生のどの時期をとっても、すべての時間は等しく大切なもの」私の中で最期まできっと生き続ける、たいせつな、たいせつな「言葉」、「想い」・・。
2025年11月24日
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パソコンデスクの前に、紙に書いて貼ってある言葉。ひどく落ち込んでしまって前へ進めない時、これを見て気持ちを落ち着かせる。生き方の指針となっているものだ。ちなみに各宗教でも、表現こそ違えど同じことを説いている(すべては自分の中にあるという‥)。状況は常に中立です。そこにポジティヴな意味を与えるか、ネガティブな意味を与えるかはあなたの選択です。by バシャールそして、次なるは、ベッドルームに貼ってある言葉。すべての宗教はひとつ。それは「愛」と言う名の宗教。そして祈る唇より、差し出す手の方が、より尊い。by サティア・サイLove is all. 愛こそすべて。~悩み患うな。物事に執着するな。愛をもって進め~心に刻んで生きてはいるけれど、まだまだ修行が足りずに、迷ってばかりの私。あと何年生きられるか判らないが、最期の日まで、なんとか成長していきたいと願う。P.S. スマホから見ると、消えている文字があるようです。色やポ数を替えてみましたが直らないようで‥ごめんなさい。
2025年10月15日
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先日のダウン前日のこと。「港の見える丘公園」まで薔薇を見に行った。妹が母の介護で大変な時に、自分だけ楽しい思いをしていいものか‥と躊躇したが「今年に行けなかったら、来年以降、行かれるという保証はない」と考え直したのだ。同い年なのに、すでに彼岸の向こうに行ってしまった友がいる。いきなり難病を発症し、寝たきりになって20年を超え、そして鬼籍に入った大事な先輩も…。「行かれる時に行っておこう。もしかしたらこれが最後かもしれない」と、自分に言い聞かせて。横浜市では2017年より「ガーデンネックレス横浜」というイベントがスタートした。これは市内のあちこちに、花壇を造ったり花を飾ったりして、街中を緑化する催し。観光地として名高い山手地区やみなとみらい地区はもとより、すべての区で独自の見せ方を工夫している。今年のガーデンネックレスは3月19日にスタートし、6月15日まで。花も桜の季節からチューリップ、薔薇、そして百合、などとその時季のものを織り込んでいく。特に5月がメインとなる「薔薇を中心とするイングリッシュガーデン」と言えば、港の見える丘公園と山下公園。ちなみに薔薇は横浜市の花でもある。元々、港の見える丘公園にはイギリス館があり、以前はローズガーデンだった場所がイングリッシュガーデンへと変わった。公園だから無料でいつでも入れる。 そして特に午前中の早い時間は花の香りも際立つ。横浜にはゆったりとした時の流れが似合う、と子供時代から思ってきたが、イングリッシュガーデンで薔薇の芳香に包まれながら、しばしベンチに座って眼を閉じる一時は、至福。・・・ああ、なんて平穏な時間・・・来年は来られるだろうか? とやはり考えてしまう。この先、身体がどうなっていくか…。一番好きな「春」という季節に、どうしても行きたい場所を3か所に絞ってみる。2月下旬の松田山の河津桜。3月末の根岸森林公園のソメイヨシノ。そして5月の港の見える丘公園の薔薇。他にも6月の金沢八景(横浜市金沢区)は瀬戸神社のヤマアジサイや、お正月の江の島コッキング苑のウインターチューリップなどもあるが、贅沢は言わない。松田山、根岸森林公園、港の見える丘公園、どうかこの三か所だけは、来年も、その先も見に行かれますように。その為に、一日おき1万歩のウォーキングや、食事療法、家でのスクワットetc.etcできることを努力しよう。 一日でも長く自分の足で歩き、心持ちも平穏でいられるように。
2025年05月18日
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なかなか体調が戻らないため、今回は短い話しで…。浜っこは、横浜に坂が多いために自転車に乗れない女性も多い、と前に書いたが、他にも「浜っこ、あるある」を2つ。ちなみに「浜っこ」の定義は「横浜に生まれ育った人」もしくは「横浜で育った人」だ。①神奈川県民と言う自覚に乏しい(;´∀`)「ご出身は?」と聞かれると、必ず「横浜です」と応える。「神奈川県です」とは言わない。まあ、これは鎌倉市や横須賀市でも、あることだが・・。ちなみに江の島がある藤沢市は、藤沢市の名前をあげるのではなく「湘南です」と応える。茅ヶ崎市も昔はそうだったが、サザンが有名になってからは「サザンの茅ヶ崎市です」と応える人が多い。②「横浜市歌」が歌える。🎵我が日の本は島国よ 朝日かがよう海に連なりそばたつ島じまなれど あらゆる国より舟こそ通え🎵作詞は、なんと、森鴎外! 作曲は東京音楽学校・現在で言う東京芸大の南能衛教授。曲相が2メロでがらりと変わり、それがファンキーだと言う声もあり、愛されている(^▽^)横浜市では小学校で必ず覚えさせられた(今は違うらしい)ので、横浜市の小学校に通っていたことがあれば、誰でも歌うことができた。横浜が好きだ。 生まれ故郷を好きだと言えることは、やっぱり嬉しい。もっとも私が育った区は都区内に近いので、都内のベッドタウンという感じで横浜の中心地よりも都内に詳しい人が多いのだが・・。ちなみに横浜の港は、昔は小雨が似合った。でも今は、晴天が似合う場所に替わっているように思う。さて・・・それでは、しばし横になって身体を休めます・・・お休みなさい(つ∀-)オヤスミー
2025年11月27日
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だるくてたまらず、熱🤒を測ったら36度7分~37度1分を行ったり来たり。病院では「熱がある」というのは37度5分以上なので、37度1分では「微熱」とすら判断されない。私のように平熱が35度台であっても…だ (。´・ω・)? なので微熱未満…ではあるが。風邪🤧か? と疑ったが、鼻水は出ないし、喉の痛みもなければ咳も出ない。身体が異様に熱く感じ、頭もクリアではない。 もしかしたら? と血圧を測ってみる。ちなみに降圧剤の軽いのを毎日1錠💊だけ服用していて、それで通常は上が130台と下が70台。前は3種類の降圧剤が出ていたが、高齢者医療専門の医師・和田秀樹さんの著書📗📖を読み、降圧剤の怖さを知って、1種類に減らしてもらった。 半ば強引にだが(;^ω^)和田医師は、自身は上が200以上だった時でも、なんともなかったと言い、心臓に病気が見つかったので、今は薬で170くらいには落としているとも。約1時間おきに血圧を測ったが、上が170~160、下が100~90と急激に悪化していた。何より不安なのは、起きてゴミ出しに出るだけ👣で、身体がふわふわすること。ぼーっとした頭で歩いて、去年の秋のように転んでしまったら、また骨折🦴の心配もある。もし今度は脚をやられたら、手術後もなかなか家には戻れないだろう。病院🏥に予約📞を入れ、検査と受診🏥。 でも原因が判らない。「とにかく血圧を下げるために減塩をもっとしてください」そう言われて薬もなく帰された。まあ、降圧剤💊が追加されなかったことは、ありがたかったが‥。というわけで、仕方なくベッド🛏の中。時折パソコン作業や3食の用意のために起き上がる。~ベジタリアンだから出前は頼めない(´;ω;`)ウゥゥ~ベッドの中では読書をしたくても、身体に熱が籠っているために本を持つことすら辛いし・・💦CD💿を聴こう。寝ながら簡単に操作できるポータブルプレイヤーで🎵でもね、幼少期からバラード好きな私のCDコレクションは、見事にマイナー調なものが多く、しかも圧倒的にスローテンポ💦 はて、元気になれるリズミカルなものがあるか???って、あるじゃない(*^。^*) この夏、急に好きになったあの方ヽ(^。^)ノ 藤井風さん( *´艸`)💗ファーストアルバムとセカンドアルバム、そしてサードの「Prema(これはpreもセットで2枚組)」不思議なくらい、この齢になって見事、全曲にハマっている♬他のシンガーのものは、ベストアルバム💿であってすら数曲を飛ばして聴くことがほとんどなのに、風さんのは1曲たりとも外すことなく味わえる。 自分でも信じられない(;^ω^)声質に包容力があるのと、すべての曲に意外な展開があったり、歌詞もどれを取っても心に響くので、何度聴いても飽きないし、都度、新たな発見もあって聴き入ってしまうのだ💛。ああ、若かりし音楽誌のライター時代に戻れたら、私、インタビューしたのかな? なんて思いながら、でも世代が違いすぎる(現在28歳)彼の曲を、1ファンとして充分に楽しんでいる。ちなみに風さんのお父さんは私より1学年上。お母さんはお父さんより2歳か3歳下らしいので、ご両親共に私とは同じ世代らしい。風さんが子供時代に耳にしてきた音楽🎶が、私の好きなそれと重なる部分もあるのかな? 懐かしさも感じる。私の性格を知っている人なら、私がより好きだと感じる曲は「風よ」や「それでは、」だと思うだろう。もちろん、この2曲はかなり好みだが、実は「へでもね~よ」なんかもひどく好きだったりする(#^.^#)すべての曲の中で一番好きなのは歌詞がとにかく秀逸な「grace」🎶。後は…「帰ろう」「満ちてゆく」「旅路」「ガーデン」「さよならべいべ」「きらり」「死ぬのがいいわ」「まつり」「何なんw」「Prema」「Love Like This」「I need U Back」「It Ain't Over」 等、…ってバラードが多いが…結局、全部?(^▽^)さて、喘息やら膠原病やら、色々な持病があって、またまた新たな原因不明の症状追加・・。でも、めげずに受け入れよう。 そして落ち着いて前向きに対処の方法を考えよう。日々、ガヤトリーマントラとSAIRAMを唱え、風さんのCDを聴いて(#^.^#)「状況は常に中立です。そこにポジティヴな意味を与えるか、ネガティヴな意味を与えるかはあなたの選択です」自分、ファイトヽ(^。^)ノ
2025年11月21日
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