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香椎線の踏切で最後に残った踏切がこの西戸崎港踏切だった去年まではこのすぐ近くで働いていたんだが当時は踏切なんて興味も無かった 県道から少しはずれ路地狭く北側はすぐ博多湾そしてすぐそこに西戸崎駅があるなかなか素人の諸君らにはさがそうとしてもさがせない(さがす人もいないだろうが) 貴重な踏切の資料となりうるのだろうか?そんなことはどうでもいことである
2014.06.21
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4月にはじまった香椎線の踏切散策がとりあえず終わったすべての踏切をこのブログ記事として書いたら完全な終わりだ忘れないうちにメモを残す4月14日 三平踏切から宮前踏切まで歩く4月16日 土井踏切から駕与丁踏切まで歩く4月23日 酒殿駅から宇美駅まで歩く5月21日 和白駅から雁の巣駅まで歩く6月2日 和白駅から香椎駅まで歩く
2014.06.12
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雁ノ巣県道踏切から数メートルしかはなれていないところにある踏切県道59号線を横断した香椎線は雁ノ巣駅に向かって県道の北側に位置をここでかえる これまで見てきた踏切の中で圧倒的に新しくすべてが新品ばかりの踏切だった古い裏付踏切も見たかった気がするそれにしても片側しか遮断機がないのも特徴的だ 雁ノ巣駅が近くに感じるのだが雁ノ巣駅は電車の中からしか見たことがないんだ この道をまっすぐいくと海に出るはずとにかく間違いなく・・・
2014.05.28
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雁ノ巣県道踏切は以前1度書いているとりあえず2度目だが撮ってきた写真をアップしてみよう 踏切なのに一旦停止しなくていい信号のある踏切なのだ信号には「雁の巣踏切」と書かれているが「雁ノ巣県道踏切」が正しい名称のようだ 昔々からある俺らが大学の頃からあったそれ以前からあったんだろう
2014.05.27
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ここは昭和的な空気が残っている踏切だった 近代建築には近代建築のよさがいっぱいあるのはわかっていても昭和建築ののどかさは欠落している アメリカからやってきたコカコーラの赤い自動販売機もすっかり町にとけこんでしまったね 開踏切ひらきふむきりヒラキフミキリなかなかインパクトのある名前の踏切だね 踏切周辺の写真をできるだけそのままに撮っておきたいという気持ちで すてきな路地だすてきなスーパーだ住民しか知らない場所で生きている いいブログが書けた今年最高のブログだと思う開踏切のおかげである
2014.05.27
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湯浅踏切県道59号を歩くのに飽きて裏道を歩き出した裏道という表現はおかしいが裏道には童話のような景色を発見することが多い 線路沿いに道があったら必ず通ることに決めている 本音を言うと線路をずっと歩いてゆけたらいちばんいいんだが 記憶に深く刻まれる踏切もあれば印象が薄い踏切もある湯浅踏切は印象が薄い踏切だった
2014.05.26
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前潟2号踏切予想を越える名前の踏切だった前潟1号踏切はあるのかな?とすぐ疑問がわいた 早い話が奈多駅に隣接した踏切なのだでも奈多駅を利用している人の何人がこの踏切名を知っているのだろうか? 駅舎の写真は別フォルダにまとめることを今回決めた和白駅も雁ノ巣駅ももちろん奈多駅もたくさん撮った ちなみに今回の踏切散策で前潟1号踏切とは出会えなかった
2014.05.26
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七分袖の上着うを脱いだ暑かったかばんの大きめを持ってきて正解だった こういう踏切のそばにあるお店が後々重要になると考えている スーパーサニーと新開踏切の文字が一緒に写った1枚これは貴重な1枚だね この1枚も最高のアングルだな googleで検索されても恥ずかしくない写真をアップしなくちゃ踏切に失礼になるからな
2014.05.25
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奈多踏切は奈多という地名があるからなんだかホッとした地名がついた踏切はがっかりすると同時にホッとする自分がいる ローソンがあるのが奈多踏切の目印になるしかし50年後ローソンがあるかどうかわからない 4月に撮った写真も1枚 近くに牧のうどんがある その近くに落石の事務所もあった 踏切特集だが踏切ばかりじゃおもしろくないからなま、いいだろう
2014.05.24
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この踏切の正確な住所がわからないいやこの踏切に限らず全部正確な住所はわからない上湯踏切上湯なんて地名は聞いたことがない三苫のバス停が近くにあった 県道59号線を歩くのもはじめてだ 4月には車の中から撮った踏切だ立花山などが彼方に見える
2014.05.23
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2014年5月JR和白駅で下車するのもはじめてならば和白駅から奈多駅、雁ノ巣駅まで歩くのもはじめて。同じ東区に30年近く住ませてもらいながら車という便利なものがあるため駅で下車し、町を歩くことをしないまま生きてきた最初にであった踏切が汐浜踏切まさに和白干潟を背景にした小さな踏切だった 実はこの踏切4月にも一度撮影している仕事帰りの雨模様の中だったので2,3枚の写真を撮っていただから2度目の出逢いだった 線路の向こうが香椎駅方面である 線路の向こうが奈多駅方面である 道の向こうが和白干潟である 4月小雨の中で撮った写真も1枚のせておこう濡れた踏切がセクシーじゃないか!YouTubeがあった!
2014.05.22
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酒殿駅には東口と西口がある(写真の奥が酒殿駅。右が駕与丁公園、左側にルクル)僕以外の人は皆西口から出て行ったルクルに勤める人らしい僕は東口から出たすぐ目の前には駕与丁公園に隣接したドームの屋根が見えた 酒殿駅から歩いてすぐのところに踏切が見えた若葉町踏切とうい踏切だった若葉町というのがなんとなく好感がもてた「若葉」という歌が好きになっていたからだと思う フミキリストになるまでには至らないが踏切ネタを書いた場合その多くがgoogleのトップ前後にくるからある意味責任重大なんだゆえに下手な文章よりもその時代の周辺の写真を1枚でも多く載せておくことが未来の人にとって役立つような気がする ひとつの踏切を5枚くらいの写真に残すことが目的であるまわりの風景と踏切を一緒に撮れるのがいまのところいいと思っている 動画も撮れないことはないのだが今のところは写真で遺すことに集中する
2014.04.23
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珍々踏切を買って踏切天国を読み終えた たしかに珍しい踏切には興味はあるのだがあまりにも珍しさにこだわりしらけてしまう本になってる珍々踏切のほうが文章がおもしろかった買うほどのこともなかった
2014.04.20
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ここまでの踏切探訪でもっとも感動を与えてくれた踏切が雨水踏切であった雨水と書いて「あもうず」と読めますか?僕はこの読み方にも感動させられたのだがこの踏切のある場所その道の狭さにも感動したわけである この踏切のすぐ横を多々良川が流れている鉄橋がある緑の鉄橋にも感動した 東区だと思うが糟屋郡のゆでもある実に微妙な場所にこの踏切はある 軽自動車が離合するのがやっとの広さであるというよりか人も車もほとんど通らない道である 雨水踏切ちょっと自慢したくなるような香椎線にある踏切だ!こんなであいがあるとは思わなかった。
2014.04.19
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中久原踏切「なかくばるふみきり」と読むらしい中久原を「なかくばら」と読めるが原を「はる」「ばる」と読むのが福岡界隈の特徴らしい前原と書いて「まえばる」と読むのが常識なのだから この踏切は県道21号線ぞくに福岡直方線とよばれる道を横切っているこの道の先に幽霊スポットとして有名な犬鳴峠がある 踏切のすぐそばに「ダーメン」というラーメン屋がある以前は店員のおばちゃんとじゃんけんして勝ったら替え玉が無料になった一度も勝ったことがない最近は小鉄ラーメンにいくのでダーメン屋にはご無沙汰している久しぶりに行ってみようかと思う 彼方に見える水色の道路は都市高速である右側が貝塚方面で左側は福岡インターチェンジにつながっている
2014.04.18
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この踏切で写真を撮ったのがフミキリスト・コックンになるきっかけだったきっかけは埼玉のtoshiさんが「全踏切には名前がある」という一言だったこの「埋もれ火のアンソロジー」もそうだがtoshiさんの影響は大きい彼の影響でネット遊びも広がったしいろんなことを学んだ 向こうに見える白い建物が元藤島部屋だ駐車場には黒いベンツがとまり若貴兄弟が稽古に励んでいたところだ九州場所の頃だから11月12月かな宮沢えりと貴ノ花が噂になったときもここがステージだった住民は迷惑したもんだ 踏切のずっと彼方にお寺が見えるだろう?このお寺の境内を借りて藤島部屋の稽古があっていたよくのぞきにいったまだ幼い若乃花貴ノ花が稽古している姿があった踏切の話ではなく藤島部屋の話になってしまった先の家屋も今は売り出し中である 奥に見えるのがJR土井駅上を左右に走っているのが新幹線であるこの一帯に住み始めて6月で28年になる
2014.04.17
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香椎線のなかでかなり車量が多い踏切ではなかろうか24時間常に車が通ってるような気がする参道踏切というのはgoogleで検索していないがなんだかどこにでもありそうな気がするせめて香椎参道踏切くらい香椎宮を入れてもよかったのではなかろうかと思った 楠木と参道踏切の名前を一緒に撮りたかった線路の中に入って撮影していたらチンチンチンチンと鳴り出して電車が来た 上の写真の右上の空き地には数ヶ月前までは黒木書店があって薬屋さんと並んで建っていたんだ今はセブンイレブンが残るだけとなったもう少し前にフミキリストになっていたら黒木書店も撮っていただろうにと少し残念である時刻表をはじめて買ったのが黒木書店だった 動画も撮ったのでアップしたいのだがYouTubeにしないとアップできないのだろか?YouTubeにしてみた
2014.04.17
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土井踏切中久原(なかくばる)踏切雨水(あもうず)踏切江辻踏切戸原(とばる)踏切広田踏切伊賀踏切駕与丁踏切最後に参道踏切をたずねた土井踏切から駕与丁踏切までは本当に踏切天国だった感動をいっぱいもらったそして図書館で「踏切天国」を借りてきたひとつひとつの踏切について感じたことを書いていきたい
2014.04.16
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奈多駅と雁ノ巣駅の中間に昔からある古い踏切だ昭和51年まだ雁ノ巣基地があったころ早朝、大島君の運転でこの県道59号線を走ったあれは確か大島君が免許を取ったので練習としてこの道を選んだのだと思う俺はまだ免許を取っておらず大島君の運転の下手さを指摘していた 人工島ができ海の中道大橋ができるまでは県道59号線1本が志賀島へ行ける道だった雁ノ巣踏切を渡らなければ志賀島へ車では行けなかった 踏切を撮る場合は踏切周辺の町の様子も撮っておく必要があると感じた
2014.04.15
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この踏切は一般庶民はなかなか通れない踏切であるマリンワールドだとかワンダーワールドだとか水族館や遊園地が好きな人は案外無意識のうちに通っているのだがその踏切に西戸崎県道踏切なんて名前がついてたとは知らないはずだ googleで検索してもこの踏切は出てこなかったやがて「西戸崎県道踏切」で検索したらこのブログにたどりつくのかもしれないそういう楽しみ方もある
2014.04.14
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予想通りの名前だった名前を見て安心する心と落胆する心がある三平踏切なんてどこからついたのか名前の由来がわからないからだ海の中道踏切は3年前にはじめてであい毎朝毎夕渡った踏切である3月からまたもっとも身近な踏切となった 海の中道踏切からつづく桜並木はすごく気持ちよい道だ桜が咲いたら桜好きにはたまらない道なのだgoogleで検索したら海の中道踏切画像というのがでてきてすごい数の写真があるびっくりした!海の中道踏切画像
2014.04.14
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新しいシリーズ「踏切たち」である。鉄道マニアとか鉄道オタクという人たちがいるように踏切が好きで好きでたまらない人たちもいるようだその人たちのことを「フミキリスト」と呼ぶそうだ俺は香椎線沿いの踏切だけに絞って自分が今好きな歩くことを兼ねて踏み切りの見学観察撮影などしようと思う最初は三平踏切である 土井団地の道を下って八田の四つ角に行く道でみどりが丘に住んで28年一番多く渡った踏み切りだと思うしかし、今日まで踏切に名前があるということも知らなかった埼玉のtoshiさんが教えてくれたことによって踏切を見る目が変わったJRに限って言うならば灰色のボックスに踏切の名前とふりがなまで書かれている 三平踏切をgoogleで検索したらYouTubeまであって愛知県の武豊線にも三平踏切があることもわかったそういう楽しみ方もあるんだYouTube創作欲もわいてくるかもしれない楽しみだなあすぐ飽きる傾向が強いから一気にやってしまわないといけないのである↑これは武豊線の三平踏切である
2014.04.14
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これは長男が保育園でなく幼稚園に通い始めた頃なのだろう・・・あ、三宅保育園というところにも通っていたのでみどりが丘に来る前だから昭和61年前あたりだから昭和60年頃の手紙だと思われる。 秋祭り山代くんち八日市を孫と手をつないで散歩したいという想いを勝手に想像している・・・4分の1世紀前のことになってしまった・・・ZOO
2010.10.12
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絵はがきとかはあるが絵てがみ?3才の初孫にかいた比古太の手紙を見てみよう!拡大で「ゆきがふってゐます。」の「ゐ」は3才の孫に書くかなあ~?「おぢいちゃん」というのは比古太らしいかもしれないがおじいちゃんが普通でしょ!最後はおぢいちゃんよりNov'871987年11月の比古太の孫への想いがこめられているのだろう・・・歩道橋の上で
2010.10.12
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毎日10人くらいの人が遊びに来てるのかたまたま立ち寄ったのかよくわかりませんが静かな部屋です。10日に1度くらいのペースで更新しています。ま、気まぐれですが・・・時々は「埋もれ火のアンソロジー」で宣伝しますので、よろしく百二十五年物語
2010.08.15
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「新・百二十五年物語」好評連載中!1885年から2010年までを描いた超平凡な4世代の移り行く物語です。新・百二十五年物語
2010.07.10
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祖母の命日だった。昭和44年11月30日没。72歳だった。清吉とツナ その祖母が「百二十五年物語」のつづきを書きなさいと言っているような午後だった。イチョウの黄色がきれいな午後だった。 とりあえずここまでの「百二十五年物語」をふりかえることからはじめる。気の長い話なんだ・・・・・百二十五年物語 序 その1百二十五年物語 序 その2百二十五年物語 序 その3百二十五年物語 序 その4百二十五年物語 序 その5百二十五年物語 祖父清吉・1百二十五年物語 祖父清吉・2百二十五年物語 祖父清吉・3百二十五年物語 祖父清吉・4百二十五年物語 祖父清吉・5百二十五年物語 祖父清吉・6百二十五年物語 祖父清吉・7百二十五年物語 祖父清吉・8百二十五年物語 祖父清吉・9百二十五年物語 祖父清吉・10百二十五年物語 満州帝国 歴史学について
2008.11.30
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世界史の中の満州帝国 posted by (C)コックン宮脇淳子著「世界史のなかの満洲帝国」この本がおもしろかった。中央ユーラシアの遊牧民族の歴史と総合的な中国史の研究者なのだが研究する中で「満洲帝国」の歴史書がないことに気づきこの本をまとめてくれたのだ。僕より3つほど先輩の女性だが研究者というのは有難いと感じた。多分、彼女が何年もかかって、たくさんの資料を読んでこの小さな本にしてくれたおかげでぼくは読むだけで大まかな満洲帝国を知ることができたのだから・・・はじめにーなぜ、いま満洲かを引用する。 日本が大陸から引き揚げてから六十年が過ぎた。1945年に消滅した「満洲帝国」という国家について、二世代という時を経過してようやく、歴史の対象とすることができるようになった。 本書が「満洲帝国」とするのは、「大日本帝国」と同様、これが歴史的にみて正式名称であるからである。建国当初は「満洲国」であったが、まもなく溥儀(ふぎ)が皇帝となったのにともない、「満洲帝国」になった。また「満州」ではなく「満洲」である理由は、第一章でくわしく述べるが、同じく歴史的にみて正確であるからである。 満洲帝国に関する文献はいろいろあるけれども、大学で学生たちにアジア史を講義するとき、とりあえずこれを読みなさい、と推薦できるものはない。(中略) いままで刊行された満洲帝国に関する数多くの書物は、二つに大別できる。一つは、引き揚げた人たちの回顧録である。個人の経験や思い出話、歴史の材料にはなるけれども、それだけでは歴史ではない。二つ目は、政治学の立場から、また国家間の力関係や、そのときどきの政策の是非を論じるものだと思うが、その判断の基準は、いまの国際関係や主権国家にある。 歴史学は、政治学や国際関係論とは違う。歴史、個人や国家のある行動が、道徳的に正義だったか、それとも罪悪だったかを判断する場ではない。また、それがある目的にとって都合がよかったか、それとも都合が悪かったかを判断する場でもない。 私の夫の岡田英弘が「歴史とは何か」(文春新書)で書いているように、歴史には、道徳的価値判断を介入させてはいけない。歴史は法廷ではないのである。 岡田や私の定義からすると、古来、中国には歴史がない。あるのは政治だけである。(中略) かつての満洲帝国の領土は、いめ現在、中華人民共和国の国土であるから、中国では、太古までさかのぼって、これを中国史として処理しようとする。満洲について、私たちが考えるような客観的な歴史書が、中国において書かれる可能性は、今後ともまったくない。 (中略) まだ六十年しか経っていない出来事に対して、普遍性のある客観的な歴史を書くことは、たいへん困難なことはわかっているが、ともかくスタートしてみたい。 政治は必要悪だと思うけれども、その材料となる歴史書は、公平かつ客観的なものでなくてはならない。満洲帝国についても、そういう解説書があってほしいと、私は心から願うのである。 これからあと、たくさんの「よい満洲帝国史」が出てくることを期待しながら、世界史に組み込める満洲史を書くことを目的とする、はじめての取り組みをしたいと思う。特に参考になったのは、第八章 満洲帝国の成立第九章 日本史のなかの満洲第十章 日本敗戦後の満洲であった。 「百二十五年物語」を書きはじめたときは、こんなたくさんの満洲帝国や満鉄の文献と出会うことは想定していなかった。 ただ、書きたかったのはおじいちゃんのことであり、おばあちゃんのことだったのだ。そして、死ぬまで親父の中から消えなかった親父のふるさと満洲国大連のことを少しでも知りたかっただけなのである。 この僕自身の満洲帝国研究はつづけながら、「百二十五年物語」はやはり気楽に残っている写真など眺めながら僕の勝手な想像で書いていこうと思う気持ちがいまの正直な感想である。 しかし、「世界史のなかの満洲帝国」の著者宮脇淳子氏には深く感謝している。岡田宮脇研究所楽天ブックス
2008.06.22
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満州都市物語 posted by (C)コックン「満洲」についての豆知識 日本人が中国東北地方を「満洲」とよんだのは、この地が、中国最後の王朝である清王朝をうちたてた満洲族の故地であったからである。 中国ではここを、古くは関外(かんがい)、あるいは東三省(とうさんしょう)、現在では東北(地方・地区)とよんでいる。 中国人にとって「満洲」とは一民族名であり、地名であったことはない。 1932年、満洲事変ののち、関東軍の傀儡政権として満洲国政府が成立した。その結果、「満洲」の一語は、地名として機能する以外に、傀儡国家「満洲国」をさす言葉としても使われるようになった。 しかし、厳密にいえば、「満洲国」は国家名称であり、「満洲」はあくまでも支配地全体をさす地名である。 満洲国政府の存続期間は、日本の40年におよぶ中国東北地方支配のうちの13年間でしかない。満洲国成立以前、すでに「満洲」には30万余の日本人がすんでいたのである。清吉は兄とともに神戸の家を弟喜代松に譲り(半ば強制的に)、満洲へと渡った。それは一体何年の頃なのかと思いつづけてきたが、満洲国成立以前、すでに「満洲」には30万余の日本人がすんでいたのである。この一文から想像するしかないのである。 ポーツマス条約の調印によって日露戦争が終わり、日本の中国東北地方=「満洲」支配がはじまる。これが1905年であるからして、1885年生まれの清吉はこの時二十歳である。 学歴のなかった清吉が後にプチブル的な地位までのぼりつめたことを思うに、清吉の満洲でのスタートは案外はやかったのではないだろうかと想像する。 21才1906年前後だったのではないだろうか? 清吉がアジア号をつくった話は祖母や親父から子どもの頃聞かされたが、どんな仕事をしていたのか具体的には知らない。無題 posted by (C)コックンこの写真が、なんとなくアジア号を作ってる雰囲気がするのだが・・・・・。視聴はここで
2008.06.13
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四人 posted by (C)コックン祖父清吉は1962年6月13日に亡くなった。今日が命日である。64年の歳月が流れ去った。そんなわけで去年もブログで「命日」という短文記事を書いてるが、「百二十五年物語」を書かぬわけにはいかぬ。実は満州帝国の乱読雑読で見えてきそうな何かを感じているのだがそれを学習してたらこの話は進まないと判断した。俺は歴史・地理が弱いのだ。年号なんて覚えられない中学生だった。人物名も知名も覚えきれないのだ。そういうのを得意とする奴っているんだよね・・・俺はとにかく社会科は苦手だったしかし満州帝国のことにはややはまりつつあるのさ。世界史の中の満州帝国 posted by (C)コックンこの本が気に入ってる。簡単に満州のことについてふれてはやく19世紀から20世紀にはいらないと清吉だけではなく祖母のことも書かなければならないのだ・・・視聴はここで
2008.06.13
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おじいちゃんよ!おじいちゃんが満州国大連でどんなことをしてたか少しでも知りたくなってね・・・本を漁りだしたらキリがないぜ退職後の余暇暇つぶしだったらゆっくり読書時間も確保できるのだが今は乱読雑読状態だ・・・しかしわずか2つ図書館だけでもかなりの本があった図説満州 posted by (C)コックン世界史の中の満州帝国 posted by (C)コックン大連都市物語 posted by (C)コックン満州とは何だったのか posted by (C)コックン満州の日本人 posted by (C)コックン満州国の最期 posted by (C)コックン満州国の実態 posted by (C)コックン満州帝国 posted by (C)コックン満州帝国の興亡 posted by (C)コックン満州帝国2 posted by (C)コックン以上10冊なんと電卓で本の値段を合計したらな、な、なんと20360円本の表紙みて目次みて写真みて2週間後は返却するのだろうが親父が生きてたらこの本たちをサカナにしながらいろいろ話せただろうと思うと少し残念だな・・・まあ、いいやあの世にいってたっぷりおじいちゃんや親父と満州国について対等に話せるくらいの知識をつめこんでおこう・・・視聴はここで
2008.06.08
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昨日、古賀市立図書館で借りてきたよ。少し本を読んで勉強しようと思ってね。親父が生きてたらこんな本をサカナに話がはずんだろうなあと少し悔しかった・・・・・借りてきた本を並べて紹介するだけの「百二十五年物語」だよ・・・こういうのは普通の小説ではないよね・・・ああ満鉄 posted by (C)コックン図説満鉄 posted by (C)コックン満州の誕生 posted by (C)コックン満州国の遺産 posted by (C)コックン満州国皇帝の秘録 posted by (C)コックン満州都市物語 posted by (C)コックン全部読むわけないけど何かつかんでやるからね・・・お楽しみに!おじいちゃん=祖父清吉があの世から薄笑いしながら眺めてるよ・・・「コヒコ」って俺のことを呼んでいたんだ・・・おじいちゃん元気か?おばあちゃんや前の奥さんや3人の娘さんや又衛伯父さんと一緒なのか?親父も一緒なのか?そっちに行ったときこの「百二十五年物語」の文句・意見・感想・補足よかったら聞かせておくれ!そっちでがんばってねおじいちゃん!おれもこっちでもう少しがんばってくるからね!百二十五年物語 序 その1百二十五年物語 序 その2百二十五年物語 序 その3百二十五年物語 序 その4百二十五年物語 序 その5百二十五年物語 祖父清吉・1百二十五年物語 祖父清吉・2百二十五年物語 祖父清吉・3百二十五年物語 祖父清吉・4百二十五年物語 祖父清吉・5百二十五年物語 祖父清吉・6百二十五年物語 祖父清吉・7
2008.05.26
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ありません1 posted by (C)コックンありませんこの家の二階が晩年の清吉の住処だったそのよこにぼくの部屋があった当時、この家は百五十年とも二百年とも言われてて柱が傾いていた蒼空ちゃんがこの写真をモデルに絵に描いてくれた生家 posted by (C)コックンめちゃきれいな生家になってしまったがこの家で清吉又衛ツナの三人が死んでいった・・・あ、登場人物をもいちど整理しとくね。祖父清吉(セイキチ)祖母津奈(ツナ)長男=俺の伯父又衛(マタエ)二男=俺の親父比古太(ヒコタ)俺=著者及びこの物語の主人公 友彦(ともひこ)祖父の兄 名前不明祖父の弟 喜代松(きよまつ)祖父の妹 八重(やえ)祖父の先妻 名前不明祖父の三人の娘たち 名前不明視聴はここで百二十五年物語 序 その1百二十五年物語 序 その2百二十五年物語 序 その3百二十五年物語 序 その4百二十五年物語 序 その5百二十五年物語 祖父清吉・1百二十五年物語 祖父清吉・2百二十五年物語 祖父清吉・3百二十五年物語 祖父清吉・4百二十五年物語 祖父清吉・5百二十五年物語 祖父清吉・6
2008.05.22
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あじあ号1 posted by (C)コックンおふくろに電話して聞いた。「おじいちゃんの先妻さんや娘さんの名前は知らない?」「知らんよ~。あ、戒名がおじいちゃんとおばあちゃんの古い位牌の裏に書いてあったけど、和尚さんが「古い戒名はこうして古くなるよりも私のほうできちんと供養しますから」といいもっていったそうである。「いつのこと?」「おとうちゃん(親父)が死んだ年よ」つまり、2003年時点では清吉の先妻さん娘さんの戒名だけはわかたということだ。しかし、僕が知りたいのは名前そのものだったので、戒名じゃなかったんだ。「神戸のタダシさんは喜代松おじさんの息子だったの?」「そうそう、タダシさんはおとうちゃんが死んだ年、その後すぐタダシさんも亡くなったとよ」「うそ!じゃあ、愛子さんってのは八重おばちゃの娘さん?」「そう、愛子さんっておとうちゃんに年賀状がきよったばってんね・・・」「生きとんしゃると?」「わから~ん」「愛子さんの住所とか電話番号とかかはわからんと?」「わから~ん」しかし、30分くらいの電話で、おふくろは貴重な話をしてくれた。清吉が十代で大連に兄貴さんと一緒にいったこと。神戸の造り酒屋を継ぐのは清吉になっていたそうだが、それを嫌って、弟の喜代松に譲って大陸に渡ったのは十代だったそうだ。学歴はなく、丁稚のような下働きからはじめて満州鉄道での地位を確立していったそうである。おふくろも、清吉の兄の名前を覚えてはいなかったが、写真で見たことがあるそうだ。背の高い人だったと話しえくれた。これはおふくろの清吉観を聞いたら「とにかくやさしかったとよ~。おかあちゃん(おふくろ)が保母になるための試験を受けに行く朝は、わたしの靴をきちんと磨いてくれて、死ぬまで一度も怒られたことがないし、おばあちゃん(祖母)とケンカしたときも、おじちゃん(清吉)はわたしの味方になってくれたとよ~」「近所の人たちにも深々とお辞儀して、低姿勢でだれからも尊敬されとったとよ~」「ふ~ん」「でもね、大連ではおじいちゃんが乗る列車には給仕の人が並んで、おじいちゃんが歩くとその左右に給仕の人が並んで天皇陛下みたいやったって、サヨコおばちゃんが若いとき、大連で給仕しよったけん、おじいちゃんの姿をみとらすもんね」満州国王という人から功労賞として盃のようなものをもらってて実家にあるそうだ。ま、後に書くけど、祖母のこともたくさん情報が入った。有意義な電話だった。そこでぼくの歴史認識を改めなければならないのは、満州国というのが1932年~1945年にしばられていたが、清吉は満州国ができる以前に十代で大陸に渡り、早い結婚をしたのではなかろうか、という推測が出てきた。つまり、20代はじめに結婚をして、20代で3人の娘の父親となり、そして妻と3人の娘を亡くしたのも清吉20代のことではないかというのが、今のぼくの憶測なんおである。つづく。大連の街・視聴
2008.05.18
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ここまでを読んでない人たちのために・・・五人家族 posted by (C)コックン百二十五年物語 序 その1百二十五年物語 序 その2百二十五年物語 序 その3百二十五年物語 序 その4百二十五年物語 序 その5百二十五年物語 祖父清吉・1百二十五年物語 祖父清吉・2百二十五年物語 祖父清吉・3第1章 第2部 祖父清吉・4清吉は77才で死んだ。1962年6月13日だった。長男又衛(またえ)は1922年生まれだと思う。親父比古太(ひこた)よりも7つ年長だと聞いてるから。と、すると又衛は清吉37才の時のこどもで比古太は清吉44才のこどもである。なにを考えていりうのかというと清吉の初婚が何才のときだったのかを想像してるわけであるが、清吉は少なくとも35年か36年の人生で妻と3人の娘を亡くしたということになる。ぼくは29才で父親になり35才のとき三男とであった。これも「百二十五年物語」で後に話すが、父親になることをあきらめての結婚だったので三人の子どもたちとであっただけで幸せを感じてた。その年令で清吉は妻と三人の娘を亡くしたことを考えるとある意味、「地獄」のような運命を感じたのではないだろうか。この「百二十五年物語」を書くにあたって清吉の先妻、娘たちの名前をここに記したかった。しかし、僕の創作する名前は付けられるが本当の名前はわからないんだ。神戸のタダシさんも親父と同年齢だったから今も生きておられるのかどうかわからないし、仮に、清吉の先妻の名前、3人の娘の名前を知っているとは思えない。本当に申し訳ないが「先妻」さん、「3人の娘」さんとしてここには記すことにする。彼女たちの分まで地上に残ったぼくがこの地獄のような地上で働かなければならないと肝に命じよう!(一時中断。やはりおふくろに電話して清吉の先妻さん、娘さんの手がかりを知る努力をしてみようと思う)先祖 posted by (C)コックンおふくろに電話したが留守だった。ところで親父が清吉や大連時代の写真を赤いアルバムにまとめてくれてるのはいいのだが誰なのかが書いてないのでこの人が誰なのかわからないわけさ・・・。で、いつもの推測なんだけど清吉のお母さんなのではないだろうか?もうこれを明確に「○○さん」と言い切る人間も残っていないんだ。つづく。今日の歌はこれ
2008.05.18
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無題 posted by (C)コックン第1章 第2部 祖父清吉・3清吉は結婚をしている。神戸でしたか大連でしたかはわからない。ただ満州国という占領地の時代が1932年から1945年のわずか13年間だったという経過から考えて清吉の最初の結婚生活は神戸だったのではないかと想像している。そして3人の娘に恵まれるのだ。その頃の清吉がどんな仕事をしていたのかそういうことは一切わからない。わかっていることは・・・・・奥さんと3人の娘を結核で亡くしたという事実だけだ。ぼくの実家には清吉の最初の奥さんの写真も娘さんたちの写真も残っていない。ただ、1972年 高校二年のとき親父と二人で夜汽車に乗って神戸に行ったんだ。清吉の弟喜代松おじさんや八重おばさんは生きていたのかどうか忘れたが喜代松おじさんの息子のタダシとかいう人の家に泊めてもらった。そこで、タダシさんに連れられてだったと思うが墓参りをしたんだ。何も知らないぼくはただついていくだけだったのだが小さな墓だった。確かに4つ並んでたっていた。清吉の先妻と娘さんたちの墓参りのつもりで親父は来たんだろうと思われる。清吉のそんな話を聞いたのはその神戸でのことだったかもしれない。若くして妻と三人の娘を肺結核で亡くした男清吉清吉が神戸を捨てて満州にいったのはその深すぎる悲しみから逃れる生き方だったのではなかろうか・・・つづく。視聴はここで百二十五年物語 序 その1百二十五年物語 序 その2百二十五年物語 序 その3百二十五年物語 序 その4百二十五年物語 序 その5百二十五年物語 祖父清吉・1百二十五年物語 祖父清吉・2百二十五年物語 祖父清吉・3
2008.05.16
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無題 posted by (C)コックン第1章 第2部 祖父清吉・2祖父清吉は現兵庫県神戸市須磨区界隈で生まれた。ということにしてとりあえず話をはじめる。兄がいた。名前は知らない。弟がいた。名前は喜代松(きよまつ)。そして妹がいた。名前は八重(やえ)。四人キョーダイの2番目だったらしい。家は造り酒屋だったそうだ。長男は次男清吉に家の商いを継げと言ってたそうだが、清吉はいやだと断り、弟の喜代松の酒造りを継げと言ってたらしい。しかし、そういってる間に酒樽にカビが生えたかどうかで商いに失敗し、清吉は満州に行く決心をつけたそうである。清吉がどういう学歴をもちどういう青年時代を過ごしたかはわからないままだ。明治男というものが皆そうだったかどうかは知らないが清吉は息子(俺の親父)に自分の過去を語ったことはなかったそうだ。親子関係もさまざまだと思うが俺と親父は何でも話せる、何でも聞ける関係だったが、清吉44才のときに生まれた親父にとっては、父親とは絶対的権威があり何も聞けなかったそうである。無題 posted by (C)コックン上の写真中央が清吉であることに間違いはない。ここからは推測になるのだが、左の女の子が妹八重さんであり、右の少年が弟喜代松さんだと思うわけである。親父が生きてたら「そうだ!その通り!」とキッパリと写真説明ができるのであるが今となっては、親父からの少ない聞き語りを頼りに推測していくしかないのである。ところで、この写真もこの「百二十五年物語」を書くということを決めてじっくり見たわけで、それまでは清吉だけを見て一緒にうつってる人物に心はせたことがなかったんだ。そういう意味では「百二十五年物語」を書くという行為は俺にとって実に有意義なことだと感じ始めている。あとは、あの世から祖父清吉がテレパシーでも夢伝言でもいいから何か新しい話ネタというかもう少し詳しい事実を聞きたいわけだ。ま、おじいちゃんよ!ひとり孫の俺の遊びを笑いながら眺めてていいよ。俺のこと大すきだっただろうから何書いても許してね。そんなわけで・・・・兵庫県神戸市須磨区大手町○丁目○番地が俺が結婚した1982年までは、俺の本籍だったわけである。つづく。視聴はここで百二十五年物語 序 その1百二十五年物語 序 その2百二十五年物語 序 その3百二十五年物語 序 その4百二十五年物語 序 その5百二十五年物語 祖父清吉・1百二十五年物語 祖父清吉・2
2008.05.14
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第1章 第2部 祖父清吉無題 posted by (C)コックン祖父清吉は1885年頃生まれた。はっきりしない。親父が生きてたときに清吉の生年月日を聞いたのだが、「知らん」と言われた。ただ祖父清吉の命日ははっきりしてるからこの「百二十五年物語」を書くにあたって計算したわけである。清吉は昭和37年、1962年6月13日永眠。ぼくは小学校1年生だったし、その場面を今でも覚えているんだ。77才だった。そこで、1962-77=1885となって祖父清吉を1885年生まれとしたわけである。この物語は話がそれてもいいというのがぼくの決めたルールなので早速だが寄り道してみるぜ。1885年ってどんな時代でどんな人が生まれたかを調べたんだ。wikipediaでね。1885年というのは明治18年なんだね。中国は清の時代で朝鮮は李王国?なのかな?できごとがまたすごい!1月 - ハワイ王国への官約移民第一号となる944名が渡航。以後9年間で約29,000人がハワイへ移民した。 4月 - 日本(伊藤博文)と清国(李鴻章)との間で天津条約が結ばれる。 5月30日 - 福岡県令より福岡県立修猷館(現福岡県立修猷館高等学校)の設置が告示される。 7月6日 - ルイ・パスツールによって開発された狂犬病ワクチンが初めて人体に接種される。 7月以後 - 全国的に風水害と旱魃に見舞われて米が凶作となり、「明治18年の飢饉」と称される食糧問題が生じた。 7月16日 - 日本鉄道、宇都宮駅を開業。日本初の駅弁(おにぎり2個にたくあんが添えてあるもの)が販売される。 7月 - 咸宜(Hàm Nghi)帝の呼びかけによる勤皇運動始まる。試生軍(青年勤王隊)を組織して戦う。 10月25日 - ヨハネス・ブラームスの交響曲第4番がブラームス自身の指揮、マイニンゲン宮廷管弦楽団によって初演された。 12月22日 - 伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任。もっとびっくりしたのが1885年生まれの顔ぶれ・・・・ぼくが知ってるだけをここには記すね。 1月17日 - 大杉栄、思想家・アナキスト(+ 1923年) 1月20日 - 尾崎放哉、俳人(+ 1926年) 1月25日 - 北原白秋、詩人(+ 1942年) 4月4日 - 本居長世、童謡作曲家(+ 1945年) 4月11日 - 正力松太郎、読売新聞社社主(+ 1969年) 4月26日 - 飯田蛇笏、俳人(+ 1962年) 5月12日 - 武者小路実篤、小説家(+ 1976年) 8月24日 - 若山牧水、歌人(+ 1924年) 9月11日 - D・H・ローレンス、小説家(+ 1930年) これ読むだけでも1885年がひとつのドラマじゃないか。ロマンだな・・・壮大な物語が秘められてるような気がしない?で、清吉が1886年の早生まれだった可能性もあるわけで1886年も見てみたらこの年もびっくりさ!興味があったら1886年もウィキペディアで見てくれるかな?あれ?物語がウィキペディアを頼っていいのかな?ま、いいや!なんでもありなんだ。明日1886年について書けばいいじゃないか。いや~それにしても大杉栄、尾崎放哉、北原白秋、飯田蛇笏、武者小路実篤、若山牧水らと清吉じいちゃんが同じ年生まれだったとは発見だったよ。つづく。(注)予定では祖父の名前は「多仲友吉」の予定でしたが故人についてはそのままの名前を使うことにしたんだ。また、いつか登場人物一覧表を書くよ。視聴はここで百二十五年物語 序 その1百二十五年物語 序 その2百二十五年物語 序 その3百二十五年物語 序 その4百二十五年物語 序 その5百二十五年物語 祖父清吉・1
2008.05.13
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楠久駅へ posted by (C)コックン第1章 第1部 その5おじいちゃんへ。おじいちゃんと暮らしたのはたったの7年間。だけど、僕が知ってるおじちゃんを書くことを許してね。天国でおばあちゃんや親父と一緒にこのブログは読めるの?読めたらいいけどね。俺、おじいちゃんのたたひとりの孫であることを誇りにしてるんだから。おばあちゃんへ。一緒に暮らした13年と半年。いちばん少年時代の思い出が多いのはおばあちゃんなのかもしれない。で、一番けんかしたのもおばあちゃんと。おばあちゃんのあの緑色の財布からいつもお金盗んでごめんね。おばあちゃんは伯父ちゃんの話ばかり聞かせてくれたけど自分の話はしてくれなかったから今少し悔やんでいるよ。聞かなかった俺も悪いけどね。まさかこんな日がくるとは思ってなかったからね。おふみおばさんやおたつおばちゃんもお話に登場するからね。楽しみにしててね。親父へ。アトリエで俺があの世のことを話しても鼻先で笑ってたもんな。でも、夢にあらわれてきて「お前の言う通りだったぞ」と言ってくれたときはうれしかったぜ。「ただなあ~、兄貴とまだ会ってないぞ」とあの時は言ってたが伯父ちゃん(親父の兄貴=多仲衛路)とはその後会えたのか?また、夢に出てきて報告を待つぜ!おふくろと細君には自分の口から直接話すから省略。さあ!家を建てるときも「たちいえ」という神様に感謝するイベントがあるように物語を書く場合も先祖供養が必要だと思ったんだ。あさちゃん、ありんこちゃん、おまるちゃん、あすかちゃん、公夫ちゃんこの五人は読んでくれると信じてMちゃん、Nちゃん、Sちゃん、Tちゃん・・・全部で愛読してくれる人が約10人はいると思って書こう。俺の友だちは読んでくれてるのかくれてないのかやさしいのかつめたいのかわからないんだ・・・ま、そっと俺の遊びそっと見守ってくれているといいほうに解釈しておこう・・・あすかちゃんの息子たちも読んでたら恥ずかしいなあ~。彼らは文才があるから・・・いや、文才など糞くらえ物語がこの「百二十五年物語」なんだ!あ!「糞くらえ物語」って題名もいいなあ~!つづく。男と海 試聴これまでの「百二十五年物語」を整理しとこう!百二十五年物語 序 その1百二十五年物語 序 その2百二十五年物語 序 その3百二十五年物語 序 その4百二十五年物語 序 その5
2008.05.11
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無題 posted by (C)コックン第1章 第1部 序 その4さて、そろそろ書かないと読者も編集者もいらいらして待っているので書きじはじめよう。ところでさあ~、「コックン純情物語」ってタイトルは仮題だったんだ。でね、変えたいと思うんだけど、いいタイトルが思いつかないんだ。それで仮題「百二十五年物語」にしたよ。検索で「百年の物語」とかはあるから、「百二十年物語」と思ったんだけどひとつひねって「百二十五年物語」としたんだ。すると1885+125=2010年(あさちゃん、間違い訂正サンクス!)つまり2年先の未来までをかく壮大な物語になるってわけさ・・・いいタイトルがあったらコメントに書いてね。気に入ったらすぐ採用するし、気に入らなかったら無視するからね。それと、登場人物だけどプリントアウトしておいて壁にはっておかないと忘れてしまう。主人公である自分の名前でさえ忘れてる始末さ。話は変わるけど「楡家の人びと」の書き出しにせよ立原正秋の小説にせよ書き出しが素晴らしいわけさ。情景描写っていうのかな・・・場面、時代の空気が伝わるような書き出しなんだ。一流の作家ってのはそんなもんあんだろうね・・・。ところが僕の場合、自称超一流作家兼詩人件歌人兼エッセイスト兼一般人なので情景描写も風景描写も不要なわけさ。文章の向こう側に「景色」が浮かび著者がこの物語を書きながら屁をふったとするとその屁の香りまでパソコン画面を通して届けるこれが自称超一流の作家兼・・・あと省略の実力なんだ。「第1章」というのが長編小説みたいでいいでしょ?125年を25年、つまり4分の1世紀でだいたい区切り第5章までつづけるつもりなんだ・・・さっき、トイレの便座に座って考えたんだ。では、書くけど、その前にちょっと昼寝するね。つづく。ありません 朗読
2008.05.11
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