読書メモの続きです。
今回が第4回。
第3話「和彦くんがしゃべった」を参照していきます。
(第1回は こちら 。)
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『障害があるからこそ普通学級がいい』
4
(p95~128(第3話の終わり)まで。 緑文字
は僕のコメントです。)
筆者は前回の「直ちゃん」の後、
また1年生担任となり、「和彦くん」を交流先の担任として
受け持つことになります。
・
(和彦くんはそばにいる人に頭突きをするが、)
周りの子たちが慣れて、よけ方がうまくなったりして、
そのことが生活上での大きな問題ではなくなった
。
・子どもの数が少なければそれが一番子どもにとって良いかというと、
そうとも言えない。
みんなでいっしょに考え合うような授業をするときには、
人数の多い分、いろいろな意見が出されたりして、
かえっておもしろい授業になったりする。
これは僕も同じことを感じていました。
去年、僕は新学習システムという立場で、中学年の算数を担当していました。
担任の先生と、子どもたちを半分ずつの人数にして違う教室で教える
「少人数授業」をするのか、それとも担任と一緒にクラスに入って教える
「同室複数指導」をするのか、その判断基準はなんなのかということを
ずいぶん考えました。
出た結論が、ここで書いてあることと同じことです。
意見交流など、多様な意見を出してほしい内容の時は「同室複数」、
問題をどんどん解くなど、交流よりも各自が練習問題を進めるようなときは
「少人数授業」というふうに、一応思っていました。
本当は全く分けなくてもいいとも思っているのですが、
一応、ハーフ(半分ずつの人数)での「少人数授業」も
することになっているので・・・。
・給食当番だけでなく、掃除当番も、係り活動も、
和彦くんはみんなと同じように必ずどこかに入った。
決して特別な存在ではないということを、
和彦くんにも周りのみんなにも意識してほしかったし、
できないからやらないではなく、
やっているうちにできることが必ず出てくるという思いもあった
。
・それでなくても1年生の給食指導は大変で、
そういう中に和彦くんがいたら、もっと大変になるだろうということは
想像できる。
でも必ずしもそうではなかった。
これは不思議なことだが、
子どもたちの中になんか「しっかりしなくては」という気持ちが
生まれていたのかな
という気もする。
・(この話の目玉となる「和彦くんがしゃべった」エピソードは、
省略します。臨場感のある記録が載っているので
本書を参照ください。(^^;))
・分けられた空間で「訓練」して いくつかの言葉が言えるようになったとしても、
それを聞き合う関係がなかったら、意味はない。
でも、 いっしょに生活していれば、聞こえない言葉を聞くことができる 。
・ 我々の予期しないところに
彼の可能性はあった。
この章の中で、「勉強ができないというだけで
その子の人間性まで否定されてしまいそうな世の中で」
という記述があります。
この章を読んで、「できる」「できない」ということを、
非常に考えさせられました。
ちょうど今日、3年生に向けた「理解教育」がありました。
3年生全員を一堂に集めて、特別支援学級や通級教室について
説明したり、そこに通っている子のがんばっていることを伝えたりする会です。
そのまとめの時間に、特別支援学級担任でコーディネータの先生が
こんなことを言われました。
「できることはいいことだけど、できないことは悪いことではない」
「できない」ことを悪いこととみなさない価値観。
「できない」ことを笑顔で受け入れられるクラスや学年。
世知辛いこの世の中で、こう言い切られた先生のすがすがしさ、
軽いショックと感動を覚えました。
自分自身、「できないことは悪いこと」とずっと思ってきた気がします。
「できない」ことを受け入れられたとき、
自分にも、他人にも、寛容になれる。
それこそ、共生社会への第一歩なのかもしれません。
(第3話「和彦くんがしゃべった」より) ================================
第4話は「理沙さんと仲間たち」です。
では、また 次回!
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