1

『サタデーバチョン』は、ラジオ大阪で1976年~1991年に放送された深夜番組。放送時間は、毎週土曜日~日曜日の23:00-1:00、メインパーソナリティは浜村淳。浜村さんは平日はMBSでありがとうをして、テレビも帯でして、土曜の深夜15年も・・メインパーソナリティ 浜村淳 アシスタント 初代 横井くにえ 「ヒットでヒット バチョンといこう!」より引き続いて担当 番組進行は、まず映画の試写会招待を兼ねた新作映画の紹介からはじまる。浜村お得意の熱演や殆どラストまで語ってしまう詳細な説明(「アホにものいうような」とも評された)は、特にファンから好評だった。その後、番組テーマ曲の『女が町にやってくる』(演奏:ホルストヤンコフスキー楽団)に乗せてタイトルコール。24:00には『午前零時のバチョンクイズ』というコーナーがあり、リスナーと電話をつないでのクイズを行っていた。問題は「今日これから掛かる曲は何でしょう?」で、不正解なら賞金は次回に持ち越す形式。回答者はそこそこ正解していた。24:30頃には『思い出は映画と共に』のコーナーがある。このコーナーは、リスナーから寄せられた映画にまつわる思い出話をニニ・ロッソの「夜空のトランペット」をBGMにして、情感豊かに読み上げるというもの。
2010.03.10
閲覧総数 226
2

音楽の歴史をさかのぼれば人と人が出会い、そのことでまた、人がであい、今から過去に、少しさかのぼると、非常におもしろい。モーニング娘。という存在はこの佐竹さんがいなければ、まったくなかったことだろう。この佐竹さんを語るひとや、本があまりみない、実は彼は、2003年になくなった、もう、彼がいなくなって、4年もたつ、しかし、誰もきずかない。誰も語ろうともしない、しかし、モームスはいる、妊娠もする。彼女たちが妊娠したのは、関係ないが。モームスの所属する事務所が、アリス創設のヤングジャパンである、ヤンジャは、アリス解散とともに、解散、そう、ありんこさんの好きな、。坪井先生のいたところ、こき使われやめたというふうにぼくは、記憶しているが、しかし、アリスのヒットがなければ後輩ノアーチストたちは岸田さとしやシグナル、海援隊、ばんばん、などがセールスできなかった、しかしながら、アリスはなかなか、ヒットを出せなく、赤字まみれの状態、細川氏は苦労しただろう、しかし、そのとき、この佐竹さんの曲との出会いでかわった、この歌はその後のアリスの道筋をつけるような歌だと思う、ドラムのきんちゃんは、編曲のうまさドラムのうまさでは、有名。オフコースなどの初期のEMI作品では、たいてい、きんちゃんがたたいているのではないだろうか、その少し暗い歌をアレンジで、バランスよくハーモニーと、ギターを響かせて、カバーヒットした。http://www.dime-concert.com/html/history.htmlから引用。1965年7月、立命館大学一回生の山本逸士・杉田二郎のコンビと土井月子が出会い、その一ヶ月余り後に、杉田と立命館高校で同級生であった佐竹俊郎がベーシストとして加わって“P,P&M”のコピーバンド【モダンルーツ・シンガーズ】を結成した。(数ヵ月後に山本が抜け、代わって佐竹がヴォーカルとギターを担当する様になった。)当時の京都には【デューディー・ランブラーズ】・【グリティー・グリーメン】等、フォークソングのグループやシンガーは十指に満たない状況で、未だフォークソングだけで構成されたコンサートは一つも無かった。カントリーやブルーグラス主体のコンサートやエレキギターをがんがん鳴らす(その為、舞台袖で出番を待つ間にギターのチューニングが狂ってしまった程)グループサウンズの演奏に混じって舞台に立つ事しかできなかった。これらに先立つ1964年か1965年の始め頃であったか「関西初のアマチュア・フォークソング・バンド」と自ら謳った【デューディー・ランブラーズ】(主にハイウェイメンのコピー)のメンバーである藤原洪太さんは高校時代に体験したアメリカでのホームステイ中に本場のFolk Songと出会い、帰国後、所属していたカントリーバンドをひとまず解散、端田宜彦さん、田平義昭さんの三人でフォークソングのバンドを結成していた。そして、1965年か‘66年に入った頃であったろうか、藤原洪太さん・端田宜彦さん達の手で<おそらく日本で初の>フォークソング主体のコンサートを始めた。“アソシエイティッド・フォークロリスト=AFL”コンサートである。http://www2s.biglobe.ne.jp/~somemura/bbs1/134877643854455.htmlの和田さんの投稿から引用。今日は、フォークソングとギターをこよなく愛する皆様方に悲報をお伝えします。アリスの出世作"今はもう誰も"をご存じでしょうか?この歌は、アリスの作曲した歌ではなく、今は京都の中堅企業の社長である佐竹俊郎さんの作曲された歌です。その佐竹さんが、先月5月28日56才の若さでご逝去されました。関西で、フォークをされていた団塊世代の方ならば、この方をご存じだろうと思いますが、まさに我々、世代の憧れの人でありました。PP&Mが日本で紹介された1965年頃、東京では小室さんのPPMフォロワーズ、関西では佐竹さん率いるモダンルーツシンガーズ(男の相棒は杉田二郎さん)でした。京都のダイムコンサートに所属(会長)され、フォークル、ジローズ等の京都のバンドを育てた方でもあります。その後、PPMバンドは、解散され、そのあとカラーズと言うフォークロックのバンドを結成されました。このバンドに私が出会ったのは1969年の春、我々が主催していた大阪のシティージュビリーの御堂会館でのコンサートでありました。少し猫背で髭を生やして、サングラスをかけ、12弦ギター一本。あとはエレキベースとドラムの3人トリオ。当時のフォークコンサートとしてはとしては、何もかも斬新の一言。12弦ギターの3フレット目にかっこいいゴムバンドのカポをしてAコードからスタート。強烈なドラムとエレキベースの音と共に、佐竹さんの高い声、それに初めて見る複雑なコードストローク。正直、我々のバンドもそこにいた各バンド(谷村さんのロッキャンもいた様に思います。)は全員・・・・・・やられた・・・・・二曲目は、一転変わって佐竹さんと一本のギターでの引き語りと朗読。内容は、一年前に交通事故でなくしたお兄さんを追悼する歌でありました。最後は佐竹さんバリの熱唱でした。皆、涙が出ました。その後は、シティーの他のバンドの一人とウッディー・ウーと言うバンドを再結成しされ少しの間、セミプロで活躍された様です。どういう経緯で谷村さんが佐竹さんの"今はもう誰も"を取り上げられたのかは知りませんがこの時のコンサートの出会いが原因ではないかと今思っています。その後、偶然にも2000年に(32年ぶり)仕事でお会いしました。お互いに、かすかな思い出をたどり、感激の再会でありました。昨年の6月にお会いした時、『ボーカルを探している、2人でやりませんか?』という名誉なお誘い受けてから、返事もできないまま5月の末に悲報を受けました。最近まで、年一回は京都でミニコンサーを開かれておられたようです。お仕事でのお付き合いでしたが、お会いすると仕事は少しだけで、あとはギターの話やら、今作曲中の歌の話やら まさに30年前のまだ青春真っ盛りの方でした。最後お会いした時、佐竹さんより、"今はもう誰も"は自分でも良い唄だと思う、それでその熟年版を作ったので聞かせてあげようと言う事で、ギターなしで朗々と歌ってくれました。彼らしい良い曲でしたよ。D-28ー12ギターは今でも現役の様でしたが、彼は、これを6弦で弾くと(誰も知らないが)これまた良い音がするのだと得意そうに言っておられました。色々なギターをお持ちで、ギターをこよなく愛する方でもありました。このコラムの愛読者のなかには、アリスで青春時代をおくられた方もおられるとおもいます。その方々に、その原点である"今はもう・・"の佐竹さんを偲んでいただければ幸いです。[2003/06/12 14:04:37]アリスのヒット、それまでがその歴史があり、人がいた。佐竹さんは、若くしてなくなった。ぼくが、提唱する、日本フォークロック殿堂には、佐竹俊郎さんとウッディーウーをいれたいとおもう、 今はもうだれも 愛したくないの 何もかも失くした 今の僕に出来ること 淋しさだけが じっとしてる 止めど流るる涙に ひとつひとつの思い出だけが 今はもうだれも 愛したくないの 今はもうだれも 愛したくないの 何もかも失くした そんな僕に出来ること * 愛されたくて みんな君に 僕の中に悲しみだけが たったひとつの残りものなの 今はもうだれも 愛したくないの* *くりかえし* 愛したくないの 愛したくないのここ
2007.11.03
閲覧総数 1298
3

オフコースがプロになったのは、赤い鳥の影響がおおきい、まず、演奏のすごさ、練習。楽譜つくりなど。そして、負けたこと、オフコースは2位、1969年11月、「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に関西・四国地区代表として出場。「竹田の子守唄」を歌い、フォーク部門第1位を獲得、他部門の優勝グループを抑え、グランプリを獲得(この時、オフコース(当時は「ジ・オフ・コース」として)、チューリップ(当時は「ザ・フォーシンガーズ」として)も出場していた)。1970年6月にシングル「人生」でメジャーデビュー。メンバーは後藤悦治郎(ギター)、平山泰代(ピアノ)、山本俊彦(ギター)、新居潤子(後に山本と結婚し、山本潤子)(ヴォーカル)、大川茂(ベース)の5名。(後期には、大村憲司(g)、村上秀一(ds)、渡辺俊幸(key)を加える)1971年発売の「竹田の子守唄/翼をください」が発売3年で100万枚を突破するヒットになった。新居潤子の声と平山泰代のハーモニーは、山々のこだまするきれいな森をイメージする。路線対立から1974年に解散。その後、後藤・平山の夫妻が「紙ふうせん」、山本夫妻と大川が「ハイ・ファイ・セット」を結成した。紙ふうせんはフォークのあり方を追求し、ハイ・ファイ・セットは荒井由実やジャズをとりあげる等お洒落でポップな演奏を繰り広げた。1974年、ハイファイセット結成のまえに、山本潤子は、オフコースを誘うのである。潤子 「ねえねえ、小田君、鈴木君、私たちのグループにはいらない?」鈴木 「 ええ?」小田 「 どういうこと?」しかし、1969年から、5年経ても大きなヒットがないオフコースは、小田 「いままで、やってきたから、もう少しぼくたちは、がんばるよ、」山本 「 ざんねーん。またね、初コーサートゲストできてよ。」そして、小田は、ハイファイセットに歌をプレゼントする、 「 歌を捧げて 」この歌は、オフコースもカバーし、ハイファイはLP閃光フラッシュにいれている。その後のハイファイの活躍はすごいものだった。しかし、いまからおもうに、その彼らのヒットの仕方はEPの荒井由実の作品や。フィーリングなどのように歌謡界の、なかにし礼の作品とか自分たちの作品のLPはかんばしくなく、そのジレンマ、扱われ方のギャップを感じるのである。1980年にいったん活動停止するが、1年後に活動再開、4ビートジャズを日本語の歌詞で歌うなど新境地を開拓した。1984年には「素直になりたい」がCMソングに使われてヒット。1992年10月の活動休止まで、シングル曲26枚、アルバム19枚を残す。1994年9月の解散後、山本潤子はソロシンガーとして活動している。大川茂の歌う“緑の町を舞い降りて”ユーミンの歌、盛岡のイメージ。ぼくは、あの歌がすきだった、なかなか、ユーミンの歌を低い声で大川さんの渋い声で聞けることは。。。みなさん、悲しいことに、ハイファイのファンとしては、彼が窃盗事件をおこしたことに、深い悲しみです。山本夫妻と大川という不思議な形。紙ふうせんは、夫婦、大川さんだけ、ひとり、もう一度、声聞かせてよ、大川さん、人間には誰しも過ちがある、そんな中、子育ても終わり、山本潤子さんは、ずっと、ヤスとも小田さんとも歌を歌う、不思議だね、1969年にであって、かれらはもう40年近くのつきあいだ。やっぱり、オフコースは赤い鳥と深い前世からのおつかいあいがあるにちがいないね、えはらさん。もう一度、フィーリング を聞きたい。もう一度、翼をください を聞きたい。音楽性の違いでも人間性の違いでも誰しもひとそれぞれ、その違うもの同士があわさることで、ハーモニーができあがる。もう一度、フィーリング を聞きたい。もう一度、翼をください を聞きたい。ぜひとも、この記事をよんでる山本潤子さん、神戸こくさいホール2007年11月5日あたりはどうでしょう。チケットは6500円でどうですか。
2007.02.05
閲覧総数 15044
4
![]()
オフコースが人気絶頂であるとき、オールナイトニッポンでタモリが批判を始めた、あわせて、さだまさしも批判の対象になった。小田さんがたまたま深夜、仕事帰りに車のラジオを聞いていると自分たちの批判が聞こえてきた、ぼくもリアルタイムで聞いていた、複雑であった、タモリの放送は面白く人気もあり、毎週聞いていたが、同時にオフコースやさだまさしのファンでもあったので、「そうか、くらいんだ。」と改めておもうのであった、特にさだまさしの批判がすごく、ものまねまでしてやられた、203高地という戦争映画の「防人の歌」を歌えば右翼だとか、関白宣言なども批判、おすぎとぴーこも同調した。さだまさしは、当時、その批判を耳にし、いわれのないもので「もう、音楽はやめようと」とおもったという、芸能界の体質というかそういうんにうんざりして、反論するきにもならず、おんなじ土俵にいることもいやであった。深夜ラジオ放送で一方てきにこうやられると、セールスにも影響が出る、やっと、順調に行けると思いきや、オフコースもいろんな問題を抱えるわけだ、で、前回も書いたけど、なぜ、オフコースとさだまさしが標的になったのか、アリスでもなく、中島みゆきでもなく、なぜなのか、そこがなぞ。たまたま、ということだろうか、で、さだまさしは中国に逃避するんだね、映画「長江」もそういう背景からでできている。オフコースはまったく気にせず、大人であった。しかも、4人になり、小田さんはタモリの番組にでている。ほんとうに、小田さんは偉いとおもう。タモリもほんとうのこというと、たちの悪い冗談ではじまったのが、冷や汗ものになる、皮肉にもタモリは朝日系で長い間音楽番組をするが、一切、こういう世代はでない。しかし、小田さんが作った歌がJr系のタレントがでたときに、「さすが、小田さんですね」といったという、また、さだまさしの小説「解夏」が映画になり、その作成はフジテレビになり再び、その映画の宣伝できた俳優にさだまさしの原作をプレゼントされるという皮肉、一番、実はおたくでくらいのがタモリだったのは、彼の趣味を見ていればわかる、タモリクラブの番組を見ていると、ぼくは、そう感じるのである。あの時若いタモリはアングラの人間であったから、なんでも言いたい放題。しかし、有名になってしまうと、逆に発言への責任を感じ、止めるほうに回るつまらないことになる。さださんや小田さんが人格者の余裕を感じるのはそういう経験もしているからであろう。二年前の小田さんの番組にさださんがでたときに「よく、昔、くらいとか、めめしいとか、いわれましたねー」という言葉に僕は彼らのときの流れを感じた、そして、暗い、めめしい、とか言われることを、実は自分もいやだったことも思い出し、複雑なニュアンスを思い出して、懐かしく感じてしまった。暗く女々しい、このことは実は精神衛生上に大切なことだとおもうし、自分の内側を見るという行為は、人生の最初にやっておかないと、しんどいことだ。ここ【古本】 解夏/さだまさし【レコード・EP盤】(中古) さだまさし/天までとどけtotoeba
2009.06.11
閲覧総数 688
5

名古屋市は26日、昭和区桜山町5丁目の「ステーキのあさくま桜山店」で食事をした客計20人が、下痢や腹痛などの食中毒症状を訴えたと発表した。いずれも快方に向かっているという。昭和保健所は同日付で同店を営業禁止処分にした。 市によると、20人は22日、同店で会食。ほぼ全員がサラダバーの野菜や果物を食べており、市はサラダバーの食品が原因とみて調べている。古いコーンかな
2007.12.26
閲覧総数 1125
6

28年ぶりの同窓会という、ものをみつけました。ぼくもなんか、懐かしくなりみましたどうぞ
2007.11.08
閲覧総数 2
7

ヤスがオフコースを抜けたいといったのが話によると1979年のころ1982年の 武道館の10日間のoverツアーまで2年に近く、待ったのであろうか止めたのであろうか、皮肉にもその時期が一番、注目されて。「語らないオフコース」は人気を高めてゆく。小田さんとヤスの間の軋轢や心の行き違いなんてのもあったのだろう。NHK教育のテレビ「若い広場」で 愛の中への録音風景をみた、小田さんのキーにあわせて、ヤスの声ももっと高い声がでるようになったというが、すさまじい、高い、その音程を保つには音感もかなりのものであろう。「ナンダコレー」とヤスがさけぶ、小田さんはすかさず、楽譜を説明しに行くいろんな、ヤスのコーラスのテイクを重ねてゆき、ハモラサセルのであった。積み重ねるように作る曲、イメージの中で曲ができて、それにあわせた詩が天から降ってきて試行錯誤して、編曲をおこない、最後に題名で完成。建築の手法なんだろうかね、アルバム over が1981年12月1日発売。その中のシングルとして「愛の中へ」が同日発売。ファンはほとんど迷うことなくシングルはかわず、LPしかかわない。それでもこのシングルはベストテンにランクインされていた。録音風景フリーダムスタジオの録音が終わると、やすまず、米国にミックスダウンへゆく。やはり、ヤスのコーラスは重要なものであったとおもうし、ライブの風景を見ていると、ヤスのコーラスのあと、小田さんのショットを見ると「実に寂しそうに悲しそうな表情」愛の中へ
2009.06.17
閲覧総数 1372


