全9件 (9件中 1-9件目)
1
前回からの続きですが、小川祐忠自体は結構能力のある人物だったように思えます。織田信長に下った際も、信長の旗本としてそこそこ重用され、なんと信長から「茶会開催」の許可までもらってます。これは、当時の信長家臣としては非常に名誉な事だった訳で、彼は信長にそれなりに認められていた証拠と考えて間違いないでしょう。 秀吉家臣時代にも、小田原征伐や朝鮮渡海で結構活躍して伊予今治7万石を拝領してますし、秀吉晩年の大行事である「醍醐の花見会」では、そうそうたる顔ぶれに混じり三番茶屋を建て秀吉一行をもてなしたようです。所謂、文武両道の人だったように見受けられます。 関が原の合戦後には、石田三成の居城である佐和山城攻略戦にももちろん東軍として参加して奮戦したんですが、残念ながら戦後あえなく領地没収の憂き目に(涙)。改易の理由としては「事前に通款を明らかにしなかったから」以外にも「領内悪政」「子供が石田三成と入魂」などあるようですが、要するに家康だって小川祐忠のあまりの運勢の悪さを嫌ったんじゃないでしょうか。「悪い運気を自分の所に持ち込んでくる家来」な訳ですから。彼を家臣にした主人は、全員あまり幸せではない死に方してます。現在だって、過去に入社した会社が片っ端から倒産する男をわざわざ社員として迎え入れたい社長なんていないと思います(苦笑)。なまじ、彼が有能な男だけに余計始末が悪いですね~。 小川祐忠は領地を没収された後は、京でひっそりとその短い余生を送り、関が原の合戦から1年もしないうちに死去したようです。まぁ、彼の場合赤座直保とは違い、武士を辞めてる訳ですから、家康の手の者に殺されたと言うよりは、失意のあまりって奴なんだと考えます。もっとも、息子の一人が京で両替商を営み大成功を収めたと言う事ですから、領地没収とは言っても、何らかの資産は没収されずに残ったんでしょう。生活面では不自由がなかった感じですから、案外平穏で心安らかな大往生だったのかもしれません。 それにしても、彼のような生き様はあまりにも悲しすぎてしかもロマンとか悲壮感とかそう言う所からもかけ離れている為、あんまり小説の題材にはならなそうな感じです。・・・って言うか、こんな人物の人生描いているとこっちまで気が滅入って来そうですから(苦笑)。まさしく諸行無常のひびきあり・・・って感じです。 強いて無理やり面白そうな題材見つけるとすれば、柴田家家臣時代に主人である柴田勝豊を調略したのが、関が原でお隣さんだった悲劇の名将「大谷吉継」その人だったようです。自分の主人である柴田勝豊を口先三寸で羽柴側に寝返らせた大谷吉継の事を、当時家老職にあった小川祐忠がその場に居合わせ、その事で嫌いだったと設定してもそれ程無理ではないと思いますね~。羽柴側に寝返った主人の柴田勝豊のその後もあまり幸せではなさそうな生涯でしたし。
2010/03/28
コメント(0)
「関が原の合戦寝返り4人衆」続いては小川祐忠さんの登場です!(笑) まずは例によって、彼の簡単な経歴を調べてみましょう。・小川祐忠(1549?~1601)・小川氏は代々近江に割拠した土豪らしい。・先祖は六角氏の家臣だったが、祐忠の代には浅井家家臣として小川城を預かっていた。・織田家と浅井・朝倉連合軍の戦いの後、織田信長に降服し織田家家臣となる。・本能寺の変の後、「山崎の合戦」では明智光秀に味方するも敗北。・明智家滅亡の後は柴田勝家に臣従する。・羽柴VS柴田の戦いで柴田家が滅亡後は秀吉家臣となり伊予今治7万石を領する。・関が原の合戦では西軍から東軍に寝返るも、戦後領地を没収される。・・・とまぁ、こんな感じです。 赤座直保と違いあまり怪しい点はありませんが、なんと言っても彼の場合運が悪すぎます!(笑)。代々近江に住んでいたのがいけなかったのでしょうか?浅井→織田の際も、単に近江の支配権が織田に移ったから。織田→明智も、本能寺の変直後の近江周辺で反明智色を打ち出した土豪などは100%確実に光秀軍によって蹂躙されちゃいますから、選択の余地はなかったでしょう。山崎の合戦後に、小川家が代々支配してきた地域は柴田勝家の養子である柴田勝豊の物となりましたから、そこでも否応無しに柴田側に・・・。さらには、羽柴vs柴田の際には秀吉の調略を受けた柴田勝豊が羽柴側に寝返っちゃいましたから、その家臣に過ぎない小川祐忠には、これまた選択の余地なく秀吉の軍門に下る事に。そして、関が原では背後の小早川秀秋率いる16,000人もの大軍が西軍から東軍に寝返って背後から迫ってきた訳ですから、ここでもまた定番の「選択の余地なし!」。 そうそう、あまり知られていませんが秀吉vs家康の「小牧・長久手の合戦」の際にも、彼はしっかり豊臣秀次の下で家康軍と戦い見事ボロボロに負けると言う、彼の経歴にまた一つ花を添える華々しい(笑)出来事を経験してます。もっとも、これだって別に彼が悪かった訳ではなく、その時の主力級の武将たちの判断の拙さが原因な訳ですからかわいそうなもんです。 この小川祐忠って人は前世でよっぽど酷い行いでもしちゃったんでしょうか?ここまで運がないと言うか自分の意思とは関係なく周囲に翻弄される人も珍しいんじゃないでしょうか。
2010/03/26
コメント(0)
赤座直保の謎はまだまだ続きます(笑)。晴れて?前田家藩士として7,000石を領し前田家重臣となった彼ですが、関が原の合戦から6年後の1606年に領内の大門川という川が大水で氾濫した際に、現場を検分中濁流に飲み込まれて溺死したとされています。うーん、これも思い切り怪しいですね~(笑)。領内の天災をわざわざ重臣が検分に行くのがそもそも怪しいですし、何で彼だけが濁流に飲み込まれなくっちゃならんのでしょう? どう考えても謀殺されちゃったとしか思えません。関が原後もずっと「赤座直保」に目を光らせていた徳川家が手を下したのか、それとも徳川の目を恐れ彼の存在が邪魔になった前田家がやっちゃったのかは微妙な所ですけどね。彼の死後赤座家は改易にならず、子供の「赤座孝治」が後を継いでいるところから想像すると、犯人は前田家じゃなくて徳川でしょうか? これを裏付けるかのように、後を継いだ直保の子「赤座孝治」はまもなく「徳川家をはばかって永原と改姓し、その後子孫は代々前田家藩士として存続した」とあります。関が原から6年も経過し、しかも父親は「溺死」したのになんで徳川家に遠慮して改姓したんでしょう?もし、本当に徳川家に遠慮したのであれば、父「赤座直保」の代に改姓すべきだと思います。また、父の死の背後に「徳川家の影」がちらついていなければ、わざわざ徳川家にはばかったりはしないでしょうからね。とにかく、この「赤座直保」に限らず、徳川家にとって目障りな人物は、ことごとく都合よく(徳川にとって)死んでますからね~。怪しい限りです。 ・・・って、以上「関が原の雑魚キャラ武将」一人を取って見ても、謎だらけでしょ?この辺りを膨らませていけば、小説だって楽勝っ!って言う気になります。・・・これで、文章表現力さえあればね~(涙)。
2010/03/21
コメント(0)
「関が原裏切り4人組」のトップバッター「赤座直保」の謎は他にもいっぱいあります。2番目の謎は、関が原では途中で寝返ったにもかかわらず「西軍」とみなされ、戦後所領没収の憂き目にあった彼が、なぜ前田利長に7,000石もの大禄で召抱えられたかって言う事です。 言って見れば、彼は「負け組み=賊軍」な訳です。当時、徳川家から嫌疑の目で見られることに戦々恐々だった前田家が、何故わざわざ彼のような「危険分子」を家臣としたのでしょうか?当時の前田家当主の前田利長が気骨のある人物ならば、関が原以前に家康から戦を仕掛けられそうになった際、ひたすら弁明に努め最終的には実の母親である芳春院を人質として江戸表に差し出すような真似はしなかったでしょう。 個人的には「赤座直保」の関が原前後の行動には前田家の意向が少なからず影響していた物と考えます。つまり、ある程度は赤座家と前田家は事前の連携がなされていたのではないかと言う事なのです。当時、加賀の大藩であった前田家とその周辺部分の小領主に過ぎない赤座家には、少なからず主従関係のようなものが存在していたと考えるのが自然でしょう。 しかも、関が原前後の前田家の行動もかなり怪しさに満ち満ちています。関が原では家康率いる東軍に属すると旗色を明らかにした前田家ですが、実際には関が原の合戦には参戦していません。一応史実では「東軍に属した前田利長率いる前田軍25,000人は金沢を出撃し東西軍決戦の地を目指す。途中、大聖寺城・北の庄城を落とし関が原に向かうが、西軍に属した敦賀領主大谷吉継が救援の兵を差し向け、さらに前田家の本拠地である金沢を海路攻め込むと言う情報を得て、反転金沢にもどる。その後、再度出撃を試みるが、すでに関が原の合戦は終了した後だった」と言う事になってます。 うーん、あまりにも怪しすぎます!(笑)。当時前田軍は25,000人、対する大谷軍は関が原に参戦した兵士数でも僅か1,000人前後に過ぎません。敦賀の小領主に過ぎない大谷吉継が、金沢を陥れるような大軍を擁する訳がないのは誰が考えたって明らかでしょう。にもかかわらず、噂を耳にして金沢に反転するのはどう考えても前田家がはじめから東西両軍のどちらにも味方したくないと考えていたからに違いありません。その後の行動を見ると、この「前田利長」と言う人物は家康に負けず劣らずの「クセモノ」みたいで、一筋縄では行かない様なので、この想像はいよいよ現実味を帯びてきます。 前田家の不可解な行動は後述するとして、関が原の合戦後に路頭に迷うことなく「赤座直保」が前田家に仕官できたのは、その辺りの裏事情を他の人間に漏らされては困る「前田利長」による口止め料だったと考える事も決して無理ではありますまい。
2010/03/19
コメント(2)
まずトップバッターは「赤座 直保」!以下に彼の簡単な経歴を記してみました。・赤座 直保(生年不祥~1606年)・関が原合戦当時は従五位下備後守、越前今庄2万石領主・父の赤座直則は越前朝倉家、そして美濃斎藤家の後、織田信長に仕える。・後を継いだ直保は秀吉の家臣となり、小田原城攻めで功を現し越前今庄2万石を拝領。・関が原では、当初西軍に属しながら戦の途中で東軍に寝返る。・戦後「事前に去就を明らかにしていなかった」との理由で所領を没収される。・所領没収後加賀前田家に仕え、7,000石を領する。・1606年に所領内の川が氾濫した際に検分に出向き、濁流に飲み込まれ溺死する。・直保の子の孝治は、徳川家に気を使い「永原」と改姓する。 ざっとこんなもんですが、たったこれだけの事を見ても「怪しい箇所」がいっぱいです。まず、最大の謎は「なぜ関が原で寝返ったのか?」ですが、通説では背後の「小早川秀秋軍16,000」が東軍に寝返った為、連鎖的に寝返ったと言う説が一番受け入れられているようです。確かに、関が原に陣取った赤座軍は僅かに600人ですから、背後の「小早川軍16,000」が寝返ったのに対して、あくまでも西軍側を主張すればどうなるかは火を見るよりも明らかです。 でも、本当にそれだけなんでしょうかね~?実は、赤座家が領主だった越前国には短期間ではありますが「小早川秀秋」が国主として赴任してきた時期があるんです。秀吉の朝鮮出兵の際に、総指揮官として大陸に渡った小早川秀秋は、目付け役の石田三成らに「総指揮官不適格」との報告を秀吉にされ、それが元で秀吉の怒りを買いそれまでの領地「筑前・筑後」を没収され、越前北の庄に転封されちゃってます。 この「小早川秀秋の転封」は明らかに秀吉の方に非があると思います。少々軽率であったと言うものの、朝鮮では兵の先頭に立って敵陣に突撃し敵兵を槍で付き伏せたと言われています。まぁ、実際にこの男がそこまでの度胸があったかどうかは怪しい物ですが(笑)。それでも、石田三成の報告を受けて激怒した秀吉が彼を日本に呼び戻した際、「小早川秀秋」自身は、養父秀吉から褒めてもらえると思い込み、意気揚々と帰国したとあります。少なくとも、この時の彼の行動には、秀吉の叱責を受けるような物は含まれていない気がします。まぁ、当時は秀吉もすでにかなり耄碌してたんでしょう。 とにかく、自身では見に覚えのない事で秀吉から譴責を受け、旧領を没収され北の庄に流されてきた傷心の少年(当時小早川秀秋は10台半ば)と、その寄騎武将となった「赤座直保」との間に、何らかの心の交流があったとしても決して無理ではありません。・・・って言うより、小説書くなら是非そうしたいところです。 つまり、私個人としては「赤座直保」の関が原における寝返りは、その場の状況で行った「成り行き返り忠」ではなく、あくまでも旧主「小早川秀秋」に殉した物であったと考えたいのです。「寝返り前」に旧主の「小早川秀秋」と事前協議があったか否かは、個人的にはなかったものと考えたいところです。小説的には、「小早川秀秋」の境遇に同情した「赤座直保」側の一方的な思い入れがあり、それが関が原で「赤座直保」の自発的な行動となって表面化したと言う事に話をもって行く予定です。 戦後の論功行賞で家康が彼の所領を没収したのも、彼「赤座直保」の寝返りが家康に対する忠誠心からではなく、「小早川秀秋」に対する同情心から出た物である事を知っていたからではないでしょうか。つまり、関が原において「小早川秀秋」が西軍にそのまま属していたら「赤座直保」もそのまま西軍に居残ったと思われ、彼の行動は論功行賞に値しないと判断されたと想像します。
2010/03/17
コメント(0)
まぁ、そんな影の薄い(涙)「雑魚キャラ4人組」ですが、関が原の合戦後の論功行賞ではその扱いに大きな差が出てます。・赤座 直保:事前に家康に通款を明らかにしていなかったとして領地没収。・小川 祐忠:事前に家康に通款を明らかにしていなかったとして領地没収。・朽木 元綱:事前に家康に通款を明らかにしていなかったとして減封(9,900石)。・脇坂 安治:事前に家康に通款を明らかにしていた為所領安堵(最終的に加増)。 最後の「脇坂安治」は、確かに関が原以前に家康に宛てた「東軍への寝返りを約束する手紙」が残っている様なので仕方ないにしても、赤座・小川と朽木の差はなんなのさ?3者とも事前にはその去就を明らかにせず、その場の状況で寝返ったのは同じなのになんでさ??確かに合戦後に非常に大きな権力を手中に収めた徳川家康ですが、いまだ豊臣家の家臣である立場に変わりはないはず。事実、戦後「福島正則」「黒田長政」「加藤清正」などのいわゆる豊臣恩顧の大名達の取り扱いには非常に気を使ってます。そんな状況で、一時はかなり苦境に立たされた「関が原」で寝返ってくれた赤座・小川に対する扱いはチョット厳しすぎるんじゃないでしょうか? そんな辺りが気になったので、もう少しこの「雑魚キャラ4人組」について調べてみる事にしました。すると、この程度の人物達でも結構「???」な部分が次々と出てくるんですよね~。そうなれなこっちの物で(笑)、後はこの曖昧模糊とした部分に勝手に想像を加味して行って、話を膨らませばイッチョ上がりって訳ですね。次回からはこの「雑魚キャラ4人組」個々をもう少し詳しく見て行きたいと思います。
2010/03/16
コメント(0)
例えば「関が原の合戦途中で西軍から東軍に寝返った武将」って言うテーマで考えて見ましょう。まず、ちょっと歴史好きな方ならば「小早川秀秋」と言う名前が出てくるのではないでしょうか。この小早川秀秋と言う人物は、豊臣秀吉の妻「寧々」の兄の子、つまり秀吉の甥にあたり、当時実子のなかった秀吉夫婦に養子として引き取られ、一時期は後継者候補の一人となっていた人物です。 彼の様に豊臣家と非常につながりの強い人物がなぜ家康に組したのかは、後々彼を語る段になってご紹介するとして、結果的に約16,000人と言う関が原に集まった全大名中堂々3番目の大兵力を擁する「小早川軍」が開戦当初西軍に属していながら不戦を決め込み、最終的に家康率いる東軍に寝返った事が「関が原の合戦」の勝敗を左右する最大のポイントであった事は間違いのないところです。 ところで、この「小早川秀秋」が合戦途中で東軍に寝返った際に、小早川軍の近くに配されていた西軍側の「雑魚キャラ武将4人組」が一緒になって寝返りをした事はご存知でしょうか。その事実を知っているだけでもかなりの歴史マニア、4人の名前をスラスラ答えられる様ならば、あなたは完全に「歴史オタク」です(笑)。 ちなみに、その「ついでに返り忠4人組」は以下の4大名です。・赤座 直保:越前今庄2万石領主 兵力600人・小川 祐忠:伊予7万石領主 兵力2000人・朽木 元綱:近江朽木谷2万石領主 兵力600人・脇坂 安治:淡路国洲本3万石領主 兵力1000人 彼ら4将は、西軍が鶴が翼を広げたように横長の陣形「鶴翼の陣」を敷いたはじっこの方に布陣してます。位置的には西軍側の悲運の名将「大谷吉継」のお隣、で背後の松尾山には例の「小早川秀秋軍16,000」が控えてます。そして正面、つまり敵側には「藤堂高虎」、「京極高知」辺りがいます。まぁ、正直言って味方の西軍側からも、敵方の東軍側からもあまり重要視されてなかったんじゃないかと思われます(涙)。 実際彼らが合戦中に寝返ろうが寝返るまいが、背後に位置する「小早川軍16,000」が東軍に寝返ってしまえば、4将合わせても4,200人前後の勢力では大勢に影響を及ぼす事は出来なかったと思われます。
2010/03/15
コメント(0)
さすがに日本人でありながら、日本史上最大規模の国内合戦である「関が原の合戦」を知らない人はいないでしょう。まぁ、物凄く簡単に説明しちゃうと「豊臣秀吉の死後急速に台頭してきた徳川家康に危機感を感じた石田三成が戦争を仕掛け、1600年に関が原で石田三成を中心とする西軍85,000と徳川家康率いる東軍75,000、合わせて160,000人と言う未曾有の大軍勢が激突し、わずか半日ほどの戦いで家康率いる東軍の勝利に終わった」と言うもので、この結果家康の権勢は更に増大し、最終的には豊臣家を滅ぼして天下を手中に収める訳です。 最初、この「関が原」を題材にした小説を書こうと考えていたのですが、あまりにも規模が大きすぎて今の技量ではとてもとても(苦笑)。仕方がないので、まずは関が原に参加した武将でも「比較的小物」を題材に習作をと考えました。 歴史小説を書く場合には大きく2つの方法があると思います。一つは「関連資料を可能な限り収集して史実に基づいた小説に仕上げる方法」、もう一方は「史実は捻じ曲げないにしても、ある程度は作者の想像を取り入れて小説を書く方法」です。生来ずぼらな私が選んだのは、当然の事ながら後者!もちろん、ただ単に「性格的に不精だから資料を集めるのがメンドクサイ!」という事だけが、後者を採用した理由ではありません。あくまでも私見ではありますが「歴史的資料」ってそこまで信用すべきではないと言う考えが根底にあるのは確かです。 例えば徳川家康が天下を手中に収めた江戸時代の歴史学者が前支配者である豊臣秀吉の事は相当に貶めて記述した様に、「歴史書は常に勝者に都合の良い様に書かれる」事は間違いないからです。同様に「××家由来書」みたいな奴も、自分のご先祖様を悪く書く子孫なんている筈がありませんから、相当に美化されていると考えるべきでしょう。まぁ、なんだかんだご大層な御託並べてますけど、結局はある程度想像入れてお話を膨らませた方が、小説書くのに楽だって言うのが実情ですけどね(笑)。それと、小説の主人公が「雑魚キャラ武将」の場合、良質な資料がほとんど存在しないって言うのも事実です。「雑魚キャラ」クラスとはいえ、一応大名クラスの武将なのに、その生没年を含めほとんど何も伝わっていないなんて事はざらです。せいぜい500年位前の事なのにね~。そんな事例を幾つか実際に見ていきたいと思います。
2010/03/13
コメント(0)
これはあまり友人や知人達にも知られていない事ですが、実は私は大の歴史好き・・・と言うより厳密には「日本の戦国時代マニア」です。自宅には、関連資料や歴史小説など物凄い量の蔵書が山積みになってまして、常日頃から家族の顰蹙を買っております(苦笑)。もちろん徳川家康や織田信長級の超大物にも興味がありますが、結構好きなのが「B級、C級クラスの小物武将達」でして、彼らのはかなくも懸命な生き様にひどく惹かれるものがあります。 もっとも、ただ純粋に戦国武将が好きなのではなく、「将来的には小説家として生計を立てて行きたいっ!」と言うスケベ根性も大きな要因の一つとなっております(笑)。一応、私の人生プランによると「歴史小説で名を売り、その後世界中を放浪しながら軽薄なエッセイを滞在各地で量産し、どこかの国の安ホテルで誰に見取られる事もなく没する」って言うのが理想型になってます。 若い頃にはもう少し夢があって、あくまでも「芥川賞作家」を目指してたんですけどね~。家族にも見せた事ありませんが、若かりし頃の駄作「烏賊釣り船」で某文学賞に応募した事も(当然落選)。でも、その後こうして年を経てくると「自分には純文学を書くだけの文才がない」事を痛感しました。原稿を書いている時に頭の中に浮かんでくるイメージを文章に表現するだけのボキャブラリーがないんです。頭の中のイメージをそのまま原稿用紙に表現できたら、間違いなく「芥川賞」なんですけどね(爆笑)。あっ、別に歴史小説を軽視してる訳じゃありませんからね。あくまでも、私の最終目的は「世界中を勝手気ままに放浪する事」な訳で、その為には市場性の低い純文学よりは、印税ガッポリの歴史小説って言う訳でして・・・ そんな「偏った歴史マニアで小説家志望(苦笑)」の私ですから、常日頃から暇な時は小説を書く準備をしています。まぁ、準備って言うよりかは習作ですけど。「さかなおやじのひとりごと」の本来の範疇からは大きく外れてしまいますが、時々は「さかなおやじの戦国史」みたいなものも披露して行きたいと思ったりしています。
2010/03/12
コメント(0)
全9件 (9件中 1-9件目)
1