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今回の「眩(くらら)~北斎の娘~」を演出した加藤拓は、綾瀬はるか主演で「八重の桜」や「精霊の守り人」も手掛けてる。もともとは生瀬勝久などの周辺で演劇を書いたりしてた人らしく、いわゆる「映像畑」から出てきた人ではなさそうです。「八重の桜」や「精霊の守り人」はチラッと見ただけですが、そのときは、とくに映像で心惹かれることもなかったし、まして演出家を気にすることもありませんでした。もちろん、ドラマは演出家ひとりで作るものではありませんし、今回の「眩(くらら)」の画面の美しさというのは、演出家がどうのというより、NHK選りすぐりの映像スタッフが結集した成果だったのかもしれません。とはいえ、いちおう「加藤拓」の名前は今後も記憶に留めておきたいと思います。◇もうひとり、今回のドラマで気になったのは、美しい音楽を担当していた稲本響。この人も、いままでまったくノーチェックでした。ヨーロッパで学んだクラシック系のピアニストみたいですが、洗練された作曲スタイルが洒落ています。最近のNHKの音楽では、阿部海太郎の「世界で一番美しい瞬間」なんかが好みなんだけど、ちょっと雰囲気的に近いものがあるかもしれません。※現在、音楽惑星さんのサイトにお邪魔して「斉藤由貴」問題を考えています。
2017.09.25
歴史秘話ヒストリア「お栄と名画のミステリー」を視聴。先日のドラマのなかでは、善次郎に「色気がない」と評されていたお栄の画風だけど、今回の番組を見てたら、若い女性の袖から見える腕のふくよかさや、着物の端からチラリとのぞく赤い襦袢などに、ささやかな色香や可愛らしさを洒落たセンスで表現していることが見てとれました。男絵師が追求するくどくどしい艶っぽさはないけれど、そこには女性らしいさり気ない美意識がありました。◇ドラマでは描かれていなかった、信州・小布施における父娘ののびのびとした創作の日々。山車の天井に描かれた「男浪/女浪」の抽象的な造形も凄いけれど、その化身ともいえるような「龍/鳳凰」が存在したことも驚き。さらには、縦横6メートル四方の天井を覆う金色の「鳳凰図」!!「龍」が男性で「鳳凰」が女性なのだとすれば、ここに現れているのは、まるで女神の慈愛が天から降り注ぐような神々しさだといえます。今回のドラマ版では描かれていなかった世界が、さらに新しい映像で見てみたくなりました。※現在、音楽惑星さんのサイトにお邪魔して「斉藤由貴」問題を考えています。
2017.09.23
「眩(くらら)~北斎の娘~」のモデルになった葛飾応為(お栄)の浮世絵をネットや画集で見てみた。渓斎英泉(善次郎)が描くような、やたらとエロく艶っぽい春画や美人画とは対照的に、応為(お栄)の描く浮世絵は、淡白といってもよいほど端正に女性の輪郭を写しとったもので、そのサラッとした感覚は、とてもモダンに見える。ドラマの中で善次郎は、「お前の絵には色気がない」と繰り返し言うんだけど、くどくどしないその端正さこそが、お栄の画風なんだろうと思う。朝井まかてや大森美香の作品がそうであるのと同じように、お栄の作品も「女性が女性を描く」という点こそが重要であって、そこには、男性作家にない清廉な眼差しがあります。花や蝶を描くときでさえ、そこには「女性が女性を描く」ときのような視線がある。善次郎は、お栄がいずれ「光と影」の表現に行き着くことを予感してたかもしれないけど、それよりも前から、彼女のもつ澄んだ美意識に嫉妬していたんじゃないかという気がします。じつは「色気がない」という善次郎の言葉のなかに、彼女のそのような資質への羨望が含意されていたんじゃないでしょうか。※現在、音楽惑星さんのサイトにお邪魔して「斉藤由貴」問題を考えています。
2017.09.22
今回「眩(くらら)~北斎の娘~」を見たのは、たまたまのことだったんだけど、およそ10年ほど前に、「不機嫌なジーン」「風のハルカ」といった大森美香作品や、「ちょっと待って神様」「純情きらり」といった宮崎あおい出演作を、そうとうな熱狂でもってフォローしていたわたしとしては、この美香&あおいコンビで作られたドラマを絶対に見逃すわけにはいかなかった。…なんてことを考えながら、自分が書いた昔の日記を読み返してたら、かつて宮崎あおいちゃんのことを「主役しかできない俳優」などと書いたことを思い出しました。ある意味では、たいへん失礼な言い方ではあるんだけど、しかし、いまだに基本的な考え方は変わってない。むしろ、今回あらためて、彼女の「主役力」というものに驚嘆させられた。◇かつて日本には、ものすごい「主役力」をもつ役者がいました。絶対に、主役しかできないような役者。それは、他でもない、三船敏郎です。もしも三船敏郎が脇役だったら、そりゃあ困る。たぶん、作品が成立しない。あまりにも彼の存在感が強すぎて、ほんとの主役を喰ってしまう。三船敏郎が画面に映った瞬間、それは、彼を主役とする作品として完全に成立してしまいます。そのぐらいの、有無を言わさぬ力を放っている。三船が右を見ただけで、物語はどんどん右へと動いていく。三船が左を向けば、話は一気に左へ向かって進んでいく。三船敏郎というのは、そういう役者です。主役としての圧倒的なエネルギーをもっている。それと同じようなことが、あおいちゃんにもいえる。彼女が苦悶の表情を見せれば、ドラマは明確に苦難の展開へと突き進んでいく。彼女の表情が明るく輝いただけで、ドラマにはいっきに希望の光が差し込んでくる。脇役が誰であろうと、主役の存在感だけで、その作品を成立させてしまう。いまの日本には、「名脇役」と呼べるような役者はわりと多いんだけど、「名主役」と呼べる役者というのは、意外なほどに少ない。そういう意味で、やっぱり宮崎あおいというのは、希少な存在なのです。※現在、音楽惑星さんのサイトにお邪魔して「斉藤由貴」問題を考えています。
2017.09.21
NHK「眩(くらら)~北斎の娘~」を2日間かけてじっくり再視聴。初見のときは濃密な75分間が見事な出来だと思ったけど、あらためて見ると、もう少し長く楽しみたい気がしてくる。ディレクターズカット版とか無いのかな…。たとえば、灯篭に浮かび上がる「春夜美人図」に至るまでのエピソードを、伏線もからめて、もう少し見せてもらえれば、善次郎がお栄の才能に嫉妬した理由というのが、もっと理解できる気がする。ドラマの冒頭には、現代のあおいちゃんが北斎の「神奈川沖浪裏」に対面するシーンがあるけど、最後にもういちど現代のあおいちゃんが出てきて、お栄の作品を訪ねてもいいのにな、とも思う。100分くらいの内容に再編集ってのはどうでしょう?いずれにしても、たった一回だけの放送で終わってしまうのはもったいない。もう少し深く、この作品の世界を味わいたい。とりあえず、朝井まかての原作を読んでみようと思います。※現在、音楽惑星さんのサイトにお邪魔して「斉藤由貴」問題を考えています。
2017.09.20
昨夜の「眩(くらら)~北斎の娘~」の興奮が冷めやらず、録画したのを朝から再視聴。最初のシーンで、幼いころのお栄が、はじめて絵筆をにぎる瞬間の生き生きとした場面に、さっそく感動して落涙(笑)。最後まで観るのに体力を消耗しそうなので、いったん休憩して(笑)、ちょっとネットをチェックしたみたら、どうやらNHKは、今回のドラマの放送に合わせて葛飾北斎の関連番組をいっぱい作っていたらしい…。【総合】9月15日 後8:00 歴史秘話ヒストリア「世界が驚いたグレートウエーブ 葛飾北斎」【総合】9月18日 前9:05 特集「日本-イギリス 北斎を探せ!」【総合】9月18日 後7:30 特集ドラマ「眩(くらら)~北斎の娘~」【総合】9月22日 後8:00 歴史秘話ヒストリア「北斎の娘・お栄と名画のミステリー」【BSP】10月7日 後9:00 北斎インパクト~世界が愛した超絶アート~【総合】10月9日 前9:05 北斎“宇宙”を描く【BSP】10月18日 後9:00 名画の暗号 ゴッホと北斎のミステリー【総合】11月3日 前10:05 ゴッホは日本の夢を見たあおいちゃんが大英博物館を訪ねるドキュメンタリーが、昨日の朝に放送されてたんですね…。知らなかった。(T_T)きっとドラマの冒頭の場面は、そのときの映像だったんですね。こちらもあわせて再放送を要望しておきます。※現在、音楽惑星さんのサイトにお邪魔して「斉藤由貴」問題を考えています。
2017.09.19
いやあ…久しぶりにテレビドラマで興奮してしまいました。NHKの「眩(くらら)~北斎の娘~」。瞠目すべき、素晴らしい映像。もういちど、つぎはスクリーンで見てみたいと思わせるような、見事なカットの連続でした。カンヌでも上映するのだそうです。宮崎あおいちゃんの演技が素晴らしいのはいうまでもないけど、加藤拓の演出に魅入られっぱなしの75分間。さほど意識したことのない演出家だったけど、驚きました。最後のクレジットを見たら、なんと脚本は大森美香ちゃんでした。役者と演出家の能力に全幅の信頼を寄せて、無駄をそぎ落とした、じつに簡潔な脚本でしたね。同じNHKの「この声をきみに」を書いてるのは把握してましたが、こっちも書いていたとは、まったくノーチェックでした。(^^;…格子の向こうに浮かび上がる遊郭の陰と色彩。…あおいちゃんの顔に触れる龍平の手。…父が最後に描き切った龍に圧倒されるあおいちゃんの表情。うわあ、ほんとうに素晴らしい!きっとカンヌの観客をも満足させることでしょう。※現在、音楽惑星さんのサイトにお邪魔して「斉藤由貴」問題を考えています。
2017.09.18
宮崎あおいちゃんが、いわゆる「演技派」なのかどうかは分かりません。この人はたぶん、脇役を演じることができないと思う。それから、民放の現代劇を演じることもむずかしいと思う。今後、どこかの民放が、あおいちゃんに現代劇をさせることがあるかもしれないけど、たぶん、かなり難しいはずです。かといって、これだけビッグな女優でコケるわけにもいかないし。とにかく宮崎あおいちゃんは、主役しか出来ないような人です。そしてNHKでは、めっぽう強い女優さんです。これは、今の芸能界では特殊な存在といっていいと思う。主役しかできない女優さん。これは役者としては欠点でもあるけれど、少なくとも今の芸能界で、こういう存在感をもってる人は希少です。あおいちゃんが出ていると、ドラマがとても明快になる。不思議なことに、彼女を見ているだけで、「いま物語がどのへんにあるのか」がはっきり分かる。途中から見始めた人でも、ほとんど迷わずに見ることができる。なぜなら、物語の中心が揺らがないから、視聴者が安心して見てられるんです。本来、主役をはる俳優の演技ってのは、そういうものなんだろうと思います。したがって、脚本や演出に多少の難があっても、主役の存在感だけで、かなりの程度、ドラマを引っ張れてしまう。あおいちゃんには、それだけの力があると思う。今回の『篤姫』の脚本は、そのあおいちゃんの特質を、よくわきまえています。ちょっと意地悪くいえば、かなり、あおいちゃんの力に依存した作りになっています。物語の中心を、主役からそらすことがほとんどない。そういう脚本です。これは、たとえば『新選組』や『巧妙が辻』とは対照的です。『新選組』は、複数のキャラを同時に立たせながら、いくつかの舞台が同時に進行するような作りになっていましたし、『巧妙が辻』もまた、主演夫婦をめぐる小さな物語とは別に、織田~豊臣~徳川の大きな物語が進行していくという作りでした。どちらの場合も、主役の比重は相対的に小さかったと言えます。このような作りのドラマは、脚本的にも技巧を要しますし、配役的にも色んな工夫が必要とされます。技術的には、そっちのほうが難しい。それに対して、『篤姫』の場合、あおいちゃん一人に、かなりの比重がおかれてる。脚本は、下手な小細工をしない。物語の中心を、いっさいあおいちゃんからずらさない。いわば、あおいちゃん一人に、そうとうな負担を強いるようなタイプの脚本です。(同じことは、『ちょま神』にも『純きら』にも言えますが。)そして、それをど~んと受け止めるだけの器が、彼女にはある。それによって物語が飽きられるということもない。他の女優さんだったら、かなり難しいと思います。ちょっと存在感の薄いような女優さんだと、こういう脚本はもたないです。あおいちゃんだから成立するタイプの脚本です。田淵久美子は、意図的にそういう脚本にしていると思う。つまり、「脚本は、宮崎あおいに依存できる」と思っているはずです。あおいちゃんの演技が、いわゆる「上手い演技」であるかどうかは微妙です。どちらかと言うと、彼女の演技の特徴は、古典的で、やや大仰だともいえる。しかし、そういう「主役らしい存在感」を発揮できる役者さんは、やっぱり、今のところ希少なんです。あおいちゃんが主役を演じるドラマは、とても分かりやすい。それは、ドラマが、非常に単純明快な内容になるってことでもある。これは、作品そのものからすると、長所でもあり、また短所でもあるのだけれど、少なくとも視聴率的に見れば、そして、NHK大河のような国民的なドラマにとっては、大きな強みになりえることです。※現在、音楽惑星さんにお邪魔して、「斉藤由貴」問題について考えています。
2008.03.17
『純きら』。今日はふたつめのレビュー。というより、中間考察。冬吾と笛子は、意外にもあっさりと結ばれたんだけど、正直、わたしにはまだ腑に落ちないところがある。東京時代の冬吾と、岡崎に来てからの冬吾。ずいぶんキャラが変わってる、と感じてる人は多い。岡崎に来てからの冬吾は、本来の姿を隠して、何かすこし「演じてる」ように見える。変な歌をうたって踊ったり、妙に明るすぎる。のみならず、笛子に対しての態度もそうだし、創作活動に対する態度もそうなんだけど。「結婚」をあっさりと受け入れたり、看板とかカエルとか、当たり障りのない絵を描き続けたり。どうも、怪しい。東京時代の彼のキャラからは、ちょっと想像しにくい。◇今日は笛子の意外な一面が出た。「源氏物語」のことで、役人に楯突く笛子。これも、今までの彼女からは想像しにくかった。笛子というのは、姉妹の中でもっとも保守的で、世間の常識を突破することのできない、じつは「いちばん弱いところのある」キャラクターって設定だった。だから、今日の笛子の描写は、ちょっと驚き。もちろん、なにか政治的な信条があって『源氏物語』にこだわってるとか、そういうことではないんだと思う。ただ純粋に、政治や思想とはまったく無関係に、古典文学の素晴らしさを生徒たちに伝えたい、というだけのところへ、たまたま、いつもの強情な性格が表に出てしまって、役人にたいして迂闊な口答えをしたのが災いしたってだけのこと。とはいえ、「冬吾の芸術活動を支える」という決心をした時点で、笛子は、それまでのキャラから変わる必要に迫られていたし、今回のことでも、冬吾を守るという彼女の立場上、権力に逆らうことも含め、引き返せないところへ来てしまった。◇そして、あらためて冬吾のことが気になるんだけど、「右も左もない」みたいなことを言ってトボけてるものの、ほんとに冬吾ってそれだけなのか?という疑いが消えない。というのも、わたしはやっぱり、受賞したあの絵のことが気になってます。間違ってるかもしれないけど、あの絵は、裸婦像や、看板画や、カエルの絵とかとは違って、やっぱりプロレタリア的な作風のものといっていいんだろうし、あそこに描かれた3人の男は、わたしは「囚人」じゃなかったのかな、と思ってるんだけど。何故あの時、冬吾が、突然思い立って「巣篭り」をして、あんな絵を描こうと考えたのか。なにかあの頃、あんな絵を描かせる特別な動機とかキッカケでもあったのか。ただならぬ雰囲気があったように思うんですけど・・。たんなる思い過ごし?
2006.06.20
貴様、天皇陛下を、テンノウヘイカを、てんのうへいかをっっ!!こんなもの!コンナモノ!⊇ωTょもσ!!マルクスコード。ダヴィンチコード。紫式部コード。不敬に、冒涜に、革命。せっかく桜子も音楽学校に合格できたのに、なぜか、そのエピソードも、やけにあっさりスルー。そんなことはもはやどーでもいいとばかりに、桜子帰郷だ、笛子結婚だ、西野先生再登場だと、なんだか急にあわただしく話が展開させられてるなァと思ってたら、要するに、物語は、もう新たな段階へと急旋回しはじめてたんですね。みんな、ついてこーい!!みたいな状況ですョ。いわば。朝からテンション高いし。天皇陛下が!天皇陛下が!天皇陛下が!!不敬だ!不敬だ!不敬だっっ!!・・・笛子は不敬罪で公職追放だし、杏子も濡れ衣きせられてタイーホだし、桜子も敵国の音楽めざしてるし、てぽどんも発射準備、万端だし。いよいよ日本も戦争ですか?
2006.06.20
“達彦の嫁”候補として、若林家から連れられて来た日舞娘。見かけは上品に振舞いながらも、達彦の前で恥じらってみせる、その、微妙にムカつく演技が素晴らしい。こういう演技を的確にこなす役者さんって、スゴーイ。◇今日の桜子。私、達彦さんにはもう未練はないけど、冬吾さんのことが心配なんだ。さすが、魔性の女っ。「使えないロミオ」にはいつまでも固執しない。この切り替えこそが、女が戦中・戦後を生き抜くための処世術。・・ってのはウソで、桜子の心の葛藤が、いまだ奮闘中であることを示すセリフ。「冬吾が心配」というのは嘘ではないけれど、そちらに気を向けることで達彦を忘れようとする心理の表れ。べつに笛ネェと冬吾を結びつけようなんて、そんな気の利いた手回しができるような妹じゃありませんから。そして、その発言のとおり、冬吾との時間を過ごす中で、達彦への想いをまぎらせようとする桜子。イケメンを忘れるために、別のイケメンを活用する。なんて華麗な芸当は、姉の笛子にはとうてい無理ですけど。これが並みのイケメンだったら、2人の時間を過ごしてるうちに、またコロリと桜子の「魔性」に引っかかっちゃうとこですが、まあ、冬吾なら、その心配もなさそうです。(断言はできませんけど(~~;;)◇今日、ピカイチだったのは、笛子のセリフ。あたし、桜子が苦手なんです。何話してもケンカになるんです。あの子が「音楽、音楽」っつーのもわからんわ。勇太郎を大学にやらんといかんのに、桜子にだけそんなに甘くもできないじゃないですか。(冬吾曰く:「んで?」)ょ、要するに桜子ね。桜子が、あなたに居って貰いたがってるんです。だから家に居って、あの子の話し相手になってください。あの子も今、いろいろ辛いみたいだから。ワケのわからない、あきらかに矛盾したことを喋ってる笛子。じつは、ちゃんと妹想いな姉。とはいえ、なんとか桜子の話し相手を見つけてやろう、なんて、そんな気回しができる、気持ちの細やかな姉でもありませんから。なにげに、自分優先ですから。そんな、なにげに正直で可愛い笛子に、冬吾がちょっとほだされたかどうかは、まだ先を見ないと分からない。・・・いちどは、不用意に劇団ひとりとの恋に期待して、結果「妹にとられる」という惨めな思いを経験した笛子。今回も、桜子が無邪気に冬吾に甘えてる姿を、複雑な視線で眺めてしまいます。不用意な期待は禁物だよ!笛子!!こんどは笛子は、ただ「愛すること」に徹しなきゃいけません。「愛されること」を期待したら、また同じ目に遭ってしまうヨ・・。◇味噌職人のキヨシ・・。お前は・・・(ーー;)。でも、ここまで極端な人物描写をされると、かえって勘ぐってしまうッてもの。さまざまな確執の末に、じつは、このキヨシこそが、やがて桜子のピアノの最大の理解者に変貌していくんじゃないの?そういう展開も、悪くないなー。ただし、味噌職人を続けるにせよ、「山長」を去っていくにせよ、若旦那・達彦との確執には、脚本的に、落とし前をとってもらわないと。それにしても。あんな奴のことは忘れろ!俺が幸せにしてやるで、桜チャンっっ!!ニヤッこれには直後のアナウンサーも、さすがに神妙な顔でしたよ・・
2006.06.09
味噌屋・山長の人々。今日は、かなり理解しにくい場面が続出。1.かねもとはと言えば、あんたが達彦をたぶらかして東京に連れて行ったから。それで達彦が「店を継ぎたくない」やら言い出して。それが元で、主人は倒れたんだわ。主人の通夜の場で、小娘相手に、まるで殺人犯よわばり。味噌屋に尽くしてきた元職人頭の孫でもあるのに、この店は、その徳次郎に対しても、敬意のかけらも無し。それどころか、頑固者の徳次郎も、なぜか店に対しては卑屈なほど従順。職人の孫と跡取り息子が結ばれるのが、そこまで忌まわしいかな。経営者が、身内の職人を平然とさげすむ、古い企業体質?まあ、思ったことは何でも口にする女ってことなんだろうけど。このぐらい無礼な女じゃないと、田舎の企業は成り立たないってことか。かねの意地悪っぷりを披瀝するギャグだとしても、ちょっと、シチュエーションが重すぎます。2.職人連中「これを、時期が来たら、坊ちゃんにお渡しするように。」と、旦那さんに頼まれてまして。「音楽で身を立てるのは生半可なことじゃなかろう。 成功すればいいが、 刀折れ、矢尽きて、岡崎に舞い戻ってくるようなことがあれば、 そのときは、どうか温かく迎えてやってほしい。」旦那さんは、坊ちゃんのことを大事に思ってらしたんですよ。(泣)まだ「刀折れ、矢尽きて、舞い戻ってきた」と決まったわけでもないのに、主人が死んで早々、すかさず店の窮状を達彦に示す職人たち。父親が残したノートは、達彦の夢を断念させる道具として利用?故人の遺志は無視かよ。つーか、いま達彦が岡崎に戻ったところで、味噌屋の窮状がどうにかなるわけでもないし。たしかに、東京への仕送りは出費しなくて済むし、人件費のかからない使いっ走りが、ひとり増えることにはなるけど。徳井優の髪型も、そうとう変。(笑)3.キヨシ山長の職人キヨシですっ。達彦坊ちゃんは音楽の道をあきらめ、店を継ぐ決心をします。一緒にピアノの練習をしてきた桜ちゃんは大ショックですが、オレには絶好のチャンスッッ!!欲望のままかよ。
2006.06.03
● 金持ちで才能もある冬吾。(~o~)● 同じく、金持ちで才能もある達彦。(~o~)金持ちの育ちであるが故に、背負わざるを得ないしがらみもある。芸術家の自由を縛りつける、お家の事情。そこから逃げ続ける冬吾。達彦は、そこから逃れることができるんでしょうか。つーか、冬吾の逃亡って、自由を追求する芸術家の信念なのか、たんなる自己中なのか。たしかに、八州治やキヨシから見れば、冬吾や達彦の進む道は、金持ちの境遇にある人間の、甘い自己中にしか見えない。でも、それを言っちゃうのは、やっぱり妬みです。● 貧乏だけど才能がある桜子。(~~;貧乏であるがゆえに、家の縛りもユルいよね。(笑)桜子も達彦も、理解者であった父親を失うのかもしれません。でも、そこからもたらされる結果は、それぞれに違うんでしょうか。それとも達彦も、桜子と同じ道を歩むんでしょうか。達彦と桜子の違いは、男と女という違いでもある。男のほうが背負うものは大きいかもしれないけど、女が引き受けさせられる、社会的な制約ってのも大きい。いまのところ桜子は、女が強いられるところのその種の制約を、少女ゆえの無邪気さと自己中でもって、すべてスルーしてますが。(笑)でも、今後予想される、妬み、弾圧、嘲笑、軽蔑のたぐいのさまざまな壁があるのは避けられない。いずれにせよ、女流芸術家が今後も生き残ってくために必要なのは、永遠の無邪気さと、永遠の自己中であることに変わりありません。● 貧乏で才能もない八州治。(ToT)/~~~貧乏は克服できても、才能のなさは克服できない。結局、現実の事情に屈して、芸術の自由を歪めてしまう。むろん、それを一概に「芸術家の敗北」ということはできませんけど。少なくとも、冬吾とは対照的ですね。● 金持ちだけど才能がない、るり子お嬢様。($・・)「桜子追放作戦」に失敗してから、彼女の出番がありません。彼女が音楽家になろうとする意志って、どの程度の強さなんでしょうか。意外にしぶといほうが、ドラマ的には面白いかも。● 同じく、金持ちだけど才能がなさそうな、松尾。($・・)世渡りはできそうだけど、芸術家としての出世はなさそうだな。● 金持ちで、才能も権威も名誉もある、西園寺教授。(*~o~*)彼にさえ、社会的な障害はある。けど、それに逆らうだけの大胆さや反骨精神があるかどうかは微妙。けっきょく軍歌を作ってしまった。「上海に逃げる」と泣きべそをかいたり、意外にひ弱なところあり?信念の強さという点では、やっぱり冬吾に劣るかも。● 桜子と同様、貧乏だけど才能がある秋山。(~~;彼は、ヒョロヒョロと自分の道を進みつづけてはいるけど、どこか卑屈さを克服しきれないところがあって、完全にはばたけない感じですね。やっぱり芸術家には強さが必要でしょうか。 金持ち るり嬢 松尾 西園寺 冬吾 達彦 ↑ 信念が弱い ← → 信念が強い ↓ 八州治 秋山 桜子 貧乏ちなみに、「信念の弱さ」ってのは、良くいえば「現実的」ってことだし、「信念の強さ」ってのは、悪くいえば「自己中」ってことになります。いずれにせよ、「芸術家にふさわしい資質」なんてものが、どこかにあるわけじゃありません。そんなものは、通り一遍の価値観でははかれません。
2006.06.02
純情きらり。いちど聴いただけで暗譜して、さらにアレンジまで施してしまう、すっかりアマデウスな桜子。達彦との連弾も、モーツァルトの『キラキラ星変奏曲』。この時代の日本で、クラシック音楽といえば、すなわちベートーベンやバッハを意味しました。時節がら、モーツァルトは「軽薄」ということで看過されてた。桜子が公式なピアノの練習をするときも、もっぱらベートーベンやバッハであって、モーツァルトじゃない。この時代の日本では、モーツァルトは、ジャズにも近い「自由」の象徴なのかもしれません。実際、アマデウスの即興性は“ジャズ的”ともいえる。わたし自身は、モーツァルトより、ベートーベンとバッハのほうの趣味なんですけど。◇冬吾のあの絵には、何か意味があるんでしょうか。3人の男が、木の周りに立ってる。いったい何の絵だか、ぜんぜんわからなかったけど。迷いの中にあった達彦が、あの絵に向かっていた冬吾の姿を目撃したあと、一心不乱にピアノを弾き出して、自分の意志を問うていましたが。なにか達彦にうったえるものをもった絵だったんでしょうか?風のハルカSP。見ました。 村川絵梨ちゃん、ドラマの時より綺麗になってました・・。桝岡明ちゃんもずいぶん大きくなって、それに、歯並びもきれいになってたのでビックリ!番組全体の内容もとてもよく出来てた。ファンにとっては嬉しい企画だし、毎回こういうのがあってもいいですね。なんだか、これだけ見たら、ドラマ本編もすごくいい作品だったように思えてしまった・・。でも、あくまでこれは余計な部分をそぎ落とした再編集版なので。ドラマ本編のほうには、もっと余計な部分も粗もありましたから。まあ、朝ドラは長いから、それもある程度しょうがないけど。・・たとえば、木綿子が青木課長との結婚をためらってたのは、たんに青木の赴任先と自分の職場の距離が遠かったからであって、べつにハルカや陽介ら前の家族への遠慮があったせいじゃないと思う。そのへんが、編集ではすっ飛ばされて、水野一家の家族の物語のなかにキレイにまとめられすぎてます。ついに完成したという『家族の欠片』の映画フィルムだって、ドラマ本編を見てきた人間からすれば、「ほんとにそれ上映する気あんの?」とツッコミをいれたくなる。◇とはいえ、今回のSP版で、物語の骨格をあらためて見直せたし、良かったです。わたしも、もうすこし啓太郎の存在に共鳴できていれば、このドラマの本筋を踏み間違えなくて済んだんだろうな・・、と思いました。
2006.05.27
クドカンの昼ドラ、『吾輩は主婦である』。はじまりましたね。(~o~)このタイトルのギャグセンスに、まずウケてしまいました。でも、もともと夏目漱石にとっても、いちばん自分のことを「吾輩」なんて呼びそうにないのが、家で飼われてる猫ちゃんだったわけですから、原題の『吾輩は猫である』というのが、もともと当時から見れば、超一級のギャグだったわけです。クドカンのギャグセンスも、もともとは漱石から受け継がれてます。クドカンが、現在の斉藤由貴ちゃんの魅力をどう引き出してくれるのか、期待。さて、朝ドラ『純情きらり』のほうですが、きわめてオーソドックスな「朝ドラ的風景」をつくりだしてる感じ。わたしとしては、もうちょっとディープな「池袋モンパルナス」っぷりを見たかったので、その点では少し物足りない気もしますが、まぁ、しょうがありません。この時代設定のドラマに、宮崎あおいちゃんの“女学生”キャラがピッタリはまってるし、これなら視聴率がとれるのも、まあ当然。宮崎あおいちゃんは、良くも悪くも「NHK朝ドラ的」なタレントで、ある意味、キャラが一時代古いというか、どちらかというと、むかしの児童劇団風な、古典的な演技が目立つ子で、いまのところ、民放の夜の枠で現代女性を演じるキャラとは言いにくいけど。でも、そういうタレントだからこそ、もっか、NHK朝ドラの枠には最適なキャラなわけでして、さぞかし、世間のお父さんやお爺ちゃんたちにとっては、「自分の娘や孫にしたいタレント投票」あたりで確実に一等賞になりそうな、さしずめ、原節子の時代ぐらいのタレントさんを見るような気持ちで、百歩ゆずっても、せいぜい若い頃の吉永小百合を見るような気持ちで眺めるぶんには、いまのところ、これ以上無い、ベストな女優だといえます。どっちかと言うと、わたし自身の興味は、なぜ浅野妙子が、そういうタレントを継続的に演出し続けてるのか。その、脚本家の動機とか展望のほうにあるんだけど、それはともかく、もうひとつ、このドラマで興味があるのは、浅野妙子の「戦争」の描き方の問題です。ドラマの舞台が“昭和20年”になるには、もうしばらく時間がかかるとは思うけど、東京にいるにせよ、岡崎にいるにせよ、主人公の桜子は、まちがいなく空襲を経験することになる。東京はもちろんですが、岡崎にも空襲はありました。だから、桜子が空襲を避けられることはないんだと思う。そして、そこでは複数の登場人物が無差別に死ぬことになる。さすがに「桜子が死ぬ」という展開にはならないと思いますけど、逆に、それ以外のことは何も言えません。良い人だろうが、悪い人だろうが、共感できるキャラだろうが、できないキャラだろうが、視聴者の好みとか、人気とかにかかわらず、無差別に、しかもいっぺんに何人もの登場人物が死んでしまうことになる。戦争のリアリティを描くには、そうする以外にないから。視聴者から苦情が来ても、そうするしかない。その意味で、映画よりも、むしろTVの連続ドラマのほうが、戦争のリアリティが強く出てしまうような気がしています。映画の場合だと、はじめから見る人は「戦争映画」だってことを身構えて見てるし、ある程度、どの人物が死ぬことになるか見当もついてしまう。でも、連続ドラマの場合、それまで毎日のように画面に登場していたキャラクターが、その前日まで普通に笑ってたはずなのに、次の日からは、いっぺんにいなくなってしまうことになる。しかも、一人や二人じゃなく、何人もの人物が消えてしまう。今までの朝ドラでも「戦争」を扱った作品はあったと思うけど、このドラマを見ていて特徴的だと思うのは、今のところ、ほとんど戦争のにおいを感じさせないってところです。だから視聴者は、いろんな登場人物に対して、好きだとか嫌いだとか、いまのところ身構えずに自由に感想をもてるし、いろんな評価をすることもできる。それは、いまだドラマに「戦争」が感じられないからです。だれが死ぬとか死なないとかを、考えもせずに見ていられる。でも、戦争で何人かが死んでしまったとき、そういうことは言えなくなる。そこは、恋愛ドラマとは大きく違うところ。恋愛ドラマの場合、たとえば失恋した後になっても、その人物について色んなことが言える。その人の人格とか、それまでの振る舞いとかについて、いろんな評価もできる。でも、戦争のドラマで死んでしまう人物に対しては、たぶん何も言えない。もともと戦争の死は、無差別に降りかかってくる不幸だから。善人でも、悪人でも、爆弾の下にいれば死ぬ。大森美香ちゃんが、「恋愛ドラマで登場人物の別れを描くのは悲しい」みたいに言ってたけど、そんなことで悲しんでたら、戦争のドラマなんて描けません。登場人物の性格や背景にかかわらず、無差別に何人もの人に降りかかってくるのが、戦争の不幸と悲劇。善人も悪人もない。かりに視聴者から「どうして死なせたの?」と苦情が来たとしても、戦争のリアリティの表現である以上、そうなるのはしかたない。イラクの空爆と同じように、東京や岡崎の空襲でも、だれの上で爆弾が爆発するか分かりません。だれの上であれ、その人の上で爆弾が爆発しさえすれば、その人は死ぬ。現実に差別なく人が死んでしまうのが戦争なわけで、ドラマでも、そう描くほかないだろうと思います。そういう戦争の表現は、連続ドラマでこそ可能な気がしています。
2006.05.22
きのう終わった、『マチベン』の最終回。あ~、泣いた。あそこまで泣いたのもひさしぶり・・。最後の法廷シーン。すごかったです。自分のために嘘をつく祖父を見た孫娘の涙。偽りの人生を背負わねばならない孫娘を想って嗚咽する祖父。そんな二人が背負うそれぞれの苦悩を想って、泣き崩れる母親。彼らの苦悩を共有するために、自分も犠牲になろうとする弁護士。弁護士の犠牲心と、そこで芽生えた心の絆に救われて、あらたに涙する祖父。もう自分でも、何泣いてるんだか、ワケわかんなかった。何もかもが、一気に開放されてくようでした。「最後に竜雷太は真実をぜんぶ語りました」というオチと、「友香ちゃんは正当防衛になりそうです」という後日談は、話の顛末としては呆気ないものだったけど、その前の法廷シーンで、すべてを出し切った感じでした。どうなったとかこうなったとかいう話の顛末よりも、人間の心のなかにある本当の思いをすべて出しきることにこそ、感情のクライマックスと、物語のエンディングがあるんだなと思いました。そういう脚本の書き方に、あらためて感心です。先日書いたとおり、土曜ドラマの『マチベン』は、「よるドラ」の新作みたいな気分で見てたんですが、いっぽうの朝ドラ、『純情きらり』のほうも、わたしとしては、よるドラ『ちょっと待って神様』とのつながりで、注目してるわけです。『純情きらり』は、いまのところ、わたしは安心して見ていられる感じなのですが、まだまだ、先は長い。いったい、これからどうなっていくんでしょうか??今後のなりゆきを、勝手に予測・・。今後の展開でわたしが注目してるのは、浅野妙子と宮崎あおいちゃんとの関係です。(~~;つまり、脚本家が、アイドル女優にどこまで求めるか。その度合で、このドラマの展開も大きく変わってしまう。戦中戦後を生き抜く女性ジャズピアニストの人生を、どこまで「壮絶」なものに描くか。それが、ここでの浅野妙子の、サディズムのみせどころ。(~~;;;優等生タレントの宮崎あおいちゃんに、いったいどんな人生を歩かせるか。ここまでのストーリーのように、「経済観念のない、ちょっとわがままな女子高生」ぐらいの役どころなら、これはもう宮崎あおいちゃんの得意とする分野だったと思いますけど、問題はこれからです。噂によると、浅野&宮崎コンビの映画だった『NANA』(←見てません)では、役の内容に不満があって続編がキャンセルされたとも言われてますけど、それに劣らないような壮絶な役柄を演じることを、この『純情きらり』のほうで要求されてしまうのかも。もちろん、宮崎あおいちゃんだって、女子高生の役ばかり演じてきたわけじゃないだろうし、大人の役だって、出来ないわけじゃないと思う。考えてみりゃ、彼女は『ちょっと待って神様』のときに、ある意味すでに、五十過ぎのおばさんの役を演じてたわけだし。『ちょっと待って神様』のときは、少女らしさを失っていない(取り戻した)オバさんの役だったけど、今回の役も、どこか少女らしさを持ち続ける女性になるんだろうとは思う。とはいえ、この物語の設定からいって、“たったひとりの愛する男性と結婚して、幸せな家庭を・・”みたいなことにはならないだろうし、ヒロインのこれからの運命は、脚本家のサジ加減ひとつで、いくらでも「壮絶」なものになる。じっさい、『大奥』なんかのことを考えると、浅野妙子は、平気でコギャルタレントに壮絶な役をやらせるし、『華の乱』のときなんかは、容赦なく虐げられる貫地谷しほりちゃんがあまりにも可哀想すぎて、さすがのわたしもちょっとヒきました。(~~;;きっと、このドラマのヒロインも、戦中はせいぜい「非国民」扱いされるだろうし、人目を避けながら場末の隠れジャズバーあたりで演奏しながら、そんな地下の生活の中で、何人かの男性と関係を交じえつつ、そのうち、大事な恋人や大切な友人を戦争で失くして、やがて戦後になったら、極貧のなかで身を売るような日々。ついには、酒とタバコにおぼれて、みずから身を滅ぼしてく、・・みたいな展開だって、ありえない話じゃありません。彼女がいつかまた地元の岡崎に帰る日が来るかどうか、それさえ、まったく予測もできません。いったい浅野妙子は、どこまであおいちゃんにやらせるつもりなのか。つーか、それ以前に、「朝の連ドラ」という枠の中で、どこまで「壮絶な人生」なんぞを描写できるかってのも問題ですけど・・。ちょっとでも暗くて重い話にすると、すぐさま視聴者から苦情もきそうだし、きっと、そのあたりのバランスも、したたかに様子をうかがいながら書いてるんでしょうねー。昨日の放送では、東京でお金の工面に苦労している桜子ちゃんを、さっそく、磯おばさんが助けに来てくれました。個人的には、この磯おばさんにはずっと生きててほしいなぁと思いますが、でも、これから先、だれがどうなるか、まったくわかりません。とりあえず来週ぐらいは、笛子も、味噌屋の御曹司も来てくれるみたいだし、当面はまだ大丈夫だけど、やがて、こういう援助がひとつひとつ失われていくにつれて、桜子の人生は、どんどん「壮絶さ」を増すことになるでしょう。以前、劇団ひとりが、「桜子さんは真っ直ぐで迷いがない」みたいに言ってて、それを聞いたとき、わたしは思わず、「桜子に迷いがないのは、まだ経済観念のない女子高生だからだろ。」と思ったし、いずれ笛子みたいに経済観念に縛られるようになったら、「“迷いなくまっすぐ走る”なんてことは出来なくなるだろう」と思ったけど、でも、ある意味、桜子みたいな人物というのは、一生「経済観念」なんてものとは無縁なんじゃないのかって気もする。支援してくれる人たちのことを有り難いと思うことはあるだろうけど、じゃあ自分で地道にコツコツお金を貯めて、人生に保険を賭けながら、健康な老後を設計しようなんて生き方は、いつまでたっても絶対にやらないだろうと思う。したがって、周囲から支援してくれる人たちがいなくなれば、それにつれて、桜子の人生は、必然的に転落せざるをえません。今後、笛子や杏子がどうなるのか。戦争で勇太郎の運命はどうなるのか。(原作ではけっこう生き延びるみたいだけど。)岡崎の味噌屋はどうなるのか。マロニエ荘の面々はどうなっちゃうのか。劇団ひとりや、イケテツとの再会はいつあるのか。このへんのサジ加減ひとつで、桜子の運命はどうにでも変えられる。理解者や応援者を減らせば減らすほど、宮崎あおいちゃんは悲惨になる。いっぽう、かつて、父親の三浦友和が言ってた、「桜子がいちばん強い/笛子は弱いところがある」ってのは、今後の物語を考えるうえでも、大きなヒントになる。笛子という人は、戦時だからといって必死で竹槍をふり回したりする人だけど、そういう彼女の姿というのは、「家族を守るため」だけのものじゃなく、ある意味、彼女自身の「弱さ」をも表してると思う。杏子や、桜子や、勇太郎は、その手のことには鷹揚で、動じることもほとんどありません。意外に、弟や妹たちというのは、世間的な価値観とか、常識とかに屈したりしないし、そういうものに逆らう神経とか耐える覚悟とかをもってる。磯おばさんも、そのへんの修羅場はくぐり抜けてきてます。それに対して、笛子の弱さというのは、けっきょく、常識や世間的な価値観を打ち破れないところ。「自分の人生を進むこと」に対して、いちばん臆病なのも、たぶん笛子だろうと思います。その意味で、笛子は、経済的な面では「助ける側」に立っているようで、人生のうえでは、ぎゃくに笛子のほうが、妹たちに「助けられる」場面も出てくるかも。笛子は、桜子に襲いかかるであろう「壮絶な将来」を心配するがゆえに、音楽家なんていう選択には反対しているわけだけど、逆に考えると、父親の三浦友和のほうは、桜子の将来が壮絶なものになりうることをも見越したうえで、彼女の「強さ」を信頼しきったのかもしれません。まあ、曲がりなりにも「朝ドラ」のヒロインである桜子の人生が、どれだけ「凄まじいもの」として描かれるのかも、まだ分かりませんけど、たとえば『大奥』なんかを見ると、浅野妙子のドラマに出てくる女性は、たとえどんなに壮絶で凄まじい人生を送っても、最後には、どこかキラキラした純粋な部分を見せて終わります。このドラマも、タイトルが『純情きらり』だし、ヒロインの人生も「壮絶」かつ「キラキラしたもの」になってくのかな。それでも、その人生の「壮絶さの度合」ってのは、やっぱり気になります。
2006.05.14
1/17の日記にも書きましたが、『ちょっと待って、神様』です!だって最終週なんだもーん。ハマってしまったんですから、しょーがありません。だれがなんと言おうと、もーいっかいこのドラマの話題でいかせてもらいますっ!!この時点で、今季最強の判断はもー変えません。この一週間、ラストシーンをむかえるまで、ひたすら疾走し続けたいと思います。最終週、「そこにあるのに気づかないこと」。たしか茂多くんのアルバムの名前もそんなんでしたっけ。ここまで来たら、どんな展開になろーが、どんな結末になろーが、かまいません。知ったこっちゃありません。全部、このドラマに身をゆだねます。わるいけど、すでに気合いはいりまくってます!(~~
2004.02.02
ニコニコ日記をこえるものなんてない、と思いつつ、なんか今回もハマりつつあるワケです。はじめは「津嘉山正種めあて」なだけだったけど・・・((*~~ゞもーいまやすっかり、泉ピン子をつよく抱きしめたい。てゆーか、演じてるのは、ほとんど宮崎あおいちゃんなんだけど(笑)、すでに、あおいちゃんの中に「泉ピン子」を見てるワケで。(宮崎あおいちゃんって、意外に演技がじょうず)今週も、最後はダラダラ泣いちまいましたよ。もー、涙腺ゆるいよ最近。「ウエーン、ピン子ちゃん、 娘がいてよかったねー、 やっぱり最後、 お母さん想いは女の子だよねー、 女の子は優しいよねー!」みたいな。爆泣。(あの子は、ウォーターボーイズで山田くんの妹だった子だ)こーゆー形で、母親の感情をいじらしく描いた話って、少ないと思う。設定の似たものに、大林宣彦の「さびしんぼう」ってのもあった。あれもたしかに、お母さんを少女にしちゃった話だけど、あそこで描かれてたのは、男の子の側から見た、お母さんへの恋愛感情。今回の場合は、母親の側から、夫や、息子や、娘に対して、いろんな想いや感情があって、それで、話もどんどんふくらんでる。なかなか他にはないんじゃないかと思います。◇あっちの世界が人間社会より「お気楽」って図式も、さすがは「ハナコさん枠」ってかんじです。(~~)
2004.01.17
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