第百十一段
【本文】
むかし、男、やむごとなき女のもとに、なくなりにけるをとぶらふやうにて、言ひやりける。
いにしへは ありもやしけむ 今ぞ知る まだ見ぬ人を 恋ふるものとは
返し、
下紐の しるしとするも 解けなくに 語るがごとは 恋ひずぞあるべき
また、返し、
恋しとは さらにも言はじ 下紐の 解けむを人は それと知らなむ
【注】
〇やむごとなし=身分が第一級だ。尊貴だ。
〇とぶらふ=不幸にあった人になぐさめを言う。
〇言ひやる=手紙や使者を通して、こちらから相手に言ってやる。
〇知る=わきまえる。さとる。
〇ものとは=ものだということは。『後拾遺和歌集』六七二番「明けぬれば暮るるものとは知りながらなほうらめしきあさぼらけかな」。
〇下紐のしるし=女性の下袴のひもが自然に解けると男から恋い慕われている証拠とした。
〇なくに=~ないのだから。
〇さらに=ふたたび。
〇人=あなた。相手の女性を指す。
【訳】
むかし、男が、身分が極めて高い女性のところに、身内がなくなったことに対し慰めを言うのにかこつけて、言ってやった歌。
むかしは、そんなこともあったのだろうか。今になって覚った。まだ対面したこともない人を恋しく思うものだということは。
女の返事の歌、
下袴のひもが自然に解けると男性から恋い慕われている証拠とかいいますが、わたしの下紐が解けないところをみると、あなたは口で言うほどには私に恋してはいないのでしょう。
また、男の返事の歌、
恋しいとは再び言うまい。こんど下紐が解けたらそれを、あなたは私の情熱の証拠だと気づいてほしい。