全18件 (18件中 1-18件目)
1
【訪問日:2023年(令和5年)8月26日(土)】
2023年08月26日
コメント(0)
【参加日:2023年(令和5年)8月26日(土)】 ※ 公式HPより 前半の部:越谷市のデジタルアーカイブでどんなことができるのか?~探す・見る・活用する~ 後半の部:「忍領の碑」はどこにあったのか?~デジタルアーカイブの活用事例~ う
2023年08月26日
コメント(0)
【見た日:2023年(令和5年)2月26日(日)】 ※ 公式HPより 海道西遺跡(かいどうにしいせき)は越谷市大字大林字海道西地内において、平安時代や江戸時代の土器等が地表面に確認されたことから平成18年に遺跡として登録されました。 遺跡は河畔砂丘上に立地しています。河畔砂丘とは、榛名山や浅間山の火山灰等に由来する大量の砂が、寒冷期の強い季節風により、利根川の旧河道沿いに吹き溜められて形成された内陸の砂丘です。平安時代から室町時代にかけて形成されたと考えられており、羽生市から越谷市にかけての中川低地に点々と分布しています。越谷市内では袋山河畔砂丘・大林河畔砂丘・北越谷河畔砂丘・東越谷河畔砂丘・大相模河畔砂丘が知られており、海道西遺跡はそのうちの大林河畔砂丘に立地しています。 令和4年4月から5月にかけて分譲住宅建設工事に伴い発掘調査が行われ、実際に平安時代から近世にかけての遺構・遺物が確認されました。確認された遺構は平安時代の竪穴住居跡、中世の火葬土坑、大きな穴、江戸時代の溝などです。遺物は平安時代の土師器・須恵器、近世陶磁器等が発見されました。 越谷市内の河畔砂丘上の遺跡が発掘されたのは、今回が初めての事例となります。 ※ 海道西遺跡の出土品
2023年02月26日
コメント(0)
【見た日:2021年(令和3年)9月28日(火)】 ※ 公式HPより 越ヶ谷順正会は国民健康保険法成立前の昭和11年に越ヶ谷町に成立した国民健康保険類似組合第1号です。 越ヶ谷順正会の前身は昭和初期に設立された「至誠会」という無尽講で、町税完納を目的とした組織でした。その後、町税の滞納は家族の罹病が大きな原因であることを知り、医療救助を目的とした共済組合「順正会」の設立を目指しました。しかし「順正会」の設立は治安警察法に触れるとして一時頓挫しましたが、国民健康保険制度の成立を目指す内務省の協力を得て昭和11年に「越ヶ谷順正会」が成立しました。その後、昭和13年7月に国民健康保険法が公布されると、「越ヶ谷順正会国民健康保険組合」として認可され、昭和16年には「越ヶ谷町国民健康保険組合」へと発展していきました。 越谷市には順正会に関連する資料として、(1)組織の概要や日誌を記した『創立の動機と日誌』、(2)越ヶ谷順正会の成立から越ヶ谷順正会国民健康保険組合への成立過程を記した『経過書』、(3)「順正会旗」、(4)昭和23年に建立された「相扶共済の石碑」、が残されています。(指定日:平成9年3月28日、市指定有形文化財(歴史資料)に指定。) ※ 越谷市指定文化財 越ヶ谷順正会関連資料(「相扶共済」の石碑) 〈越谷市役所:埼玉県越谷市越ヶ谷4-2-1〉
2021年09月28日
コメント(0)
【見た日:2021年(令和3年)5月8日(土)】 越谷探検シリーズ※ 公式HPより 東武伊勢崎線の北越谷駅と越谷駅の間に位置するこの区間は、明治32年に単線として開通した。 開通と同時に建設されたのが旧元荒川橋梁で、旧元荒川橋梁は平成4年(1992)に、現在の元荒川橋梁が建設されるまで、93年間使われた。 〈東武伊勢崎線 旧元荒川橋梁:埼玉県越谷市宮本町1丁目~北越谷1丁〉
2021年05月08日
コメント(0)
【見た日:2021年(令和3年)5月8日(土)】 越谷探検シリーズ 〈真言宗智山派 梅華山 照光院:埼玉県越谷市大沢2-4-6〉
2021年05月08日
コメント(0)
【参加した日:2019(令和元)年12月15日(日)】 「増森の」とうたっている以上、参加させていただき、勉強しなくては※ 資料代500円※ せきの渡し跡※ 大泉院跡※ 宝性寺※ 榎戸の渡し跡※ 宝正院※ 山王廿一仏板碑※ 増森神社
2019年12月15日
コメント(0)
【訪問日:2019(平成31)年3月16日(土)】※ 市公式HPより 市指定文化財のケヤキがあります。幹回り7メートル、樹高23メートル、幹は地上6メートルのところで6本に分岐し、さらに上方で多数の枝を広げています。幹の西側に幅1.5メートル、長さ2.3メートルにわたって洞穴状の枯損部がありますが、樹勢はきわめて旺盛です。樹齢約600年と推定されています。※ 浅間神社のケヤキ〈中町浅間神社:埼玉県越谷市中町7)
2019年03月16日
コメント(0)
【訪問日:2019(平成31)年3月9日(土)】〈越谷市指定有形文化財 旧東方村中村家住宅:埼玉県越谷市レイクタウン九丁目51〉
2019年03月09日
コメント(0)
【訪問日:2019(平成31)年3月9日(土)】※ 越谷市公式HPより 旧東方村中村家住宅はもと武蔵国埼玉郡八条領東方村(ひがしかたむら・現越谷市大成町)にあったもので、東方村下組の名主を勤めた中村家の居宅です。 東方村は元禄11年(1698年)に幕府領から忍領に組み入れられ、近隣の見田方(みたかた)、南百(なんど)、四条(しじょう)、別府(べっぷ)、千疋(せんびき)、麦塚(むぎつか)、柿ノ木(かきのき)の各村とともに廃藩置県まで忍領となっていました。下組中村家の記録によると、旧東方村中村家住宅は安永元年(1772年)に建築されたと記されていて、建築年代の確認できるものでは越谷市最古の住宅と言われています。本住宅は家人の生活の必要の為、ところどころに増改築がされていますが、江戸時代における村役人の家の構造を今に伝える貴重な建造物といえます。 施設内に併設する展示室には、同じ地域内に存在する見田方遺跡から出土した土器等の出土品も展示しています。 生涯学習や学校教育などにおける地域学習などにぜひご利用ください。〈越谷市指定有形文化財 旧東方村中村家住宅:埼玉県越谷市レイクタウン九丁目51〉
2019年03月09日
コメント(0)
【訪問日 2019(平成31)年2月8日(金)】※ 越谷市公式HPより 越ヶ谷御殿は徳川家康によって慶長9年(1604)に設けられた御殿です。御殿の建物に関する詳細は不明ですが、その広さはおよそ現在の御殿町全域と推定されています。 当初この地は越ヶ谷郷の土豪会田出羽の陣屋があった場所でしたが、家康が増林にあった御茶屋御殿を移したものといわれています。家康・秀忠などがしばし訪れて泊まり、鷹狩をしていた記録が残されています。 その後、越ヶ谷御殿は明暦3年(1657)年の江戸大火によって江戸城が消失したため、将軍の仮殿として江戸城二の丸に移されました。その跡地は畑地として開発され、現在に至っています。※ 越ヶ谷御殿跡〈越ヶ谷御殿跡:埼玉県越谷市御殿町 3-36〉
2019年02月08日
コメント(0)
【訪問日:2019(平成31)年1月19日(土)】※ 公式HPより【越谷市展示コーナー】 高崎力・郷土玩具コレクション展〈第1期〉 越谷市市民活動支援センター内越谷市展示コーナーでは、越谷出身の郷土史家でNPO法人越谷市郷土研究会の常任顧問でもあった、故・高崎力氏による郷土玩具のコレクションを3期にわたって展示します。越谷市内の船渡と砂原で作られていた郷土玩具に興味を持ったことをきっかけに、郷土玩具の収集を始めたという高崎氏。第1期の〈おめでとう!だるまちゃんと張り子ちゃんの新年会〉では、越谷をはじめとする全国各地のだるまと張り子人形70点以上を紹介します。 年の始めにふさわしい、にぎやかな「だるまと張り子の新年会」をお楽しみください。 高崎 力 氏について たかさき つとむ(昭和2年~平成28年)/旧桜井村村長の家に生まれ、埼玉師範(現・埼玉大学)を卒業後、越谷市で教員となる。学校現場と教育委員会を歴任するなか、越谷市郷土研究会では発足時より理事・顧問・常任顧問として、後進の指導と同会の発展に貢献した。主な研究対象として、『三ノ宮卯之助』『洋画家・斎藤豊作』『越谷出身の力士、行司』など。※ 越谷市展示コーナーでは、観光的視点をもったまちづくりに取り組む市民活動団体等の活動紹介・展示・成果報告等を行っています。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーNPO法人越谷市郷土研究会企画 高崎力・郷土玩具コレクション展〈第1期〉 『おめでとう!だるまちゃんと張り子ちゃんの新年会』 日時:2019年1月16日(水)~2月8日(金) 午前9時から午後5時まで【展示内容】 越谷をはじめとする全国各地のだるまと張り子人形70数点を展示【会場】越谷市展示コーナー ( 越谷市市民活動支援センター 観光・物産情報コーナー内) 入場無料 【お問合せ】 越谷市市民活動支援センター/048-969-2750高崎力・郷土玩具コレクション展-今後の予定◆第2期/2月10日(日)~2月24日(日) 『郷土玩具の原点・土人形』 郷土玩具の原点である全国の土人形を展示します◆第3期/2月26日(火)~3月20日(水) 『郷土でつくられた雛人形』 越谷や全国各地でつくられた郷土玩具としての雛人形やこけし等を展示します※ 12(寅)、13(虎)、14(虎)※ 79(お化け傘)※ 22(亀戸 藤娘)※ 19(相合傘)※ 16(松茸背負おかめ)※ 7(松茸抱おかめ)※ 6(首振恵比寿)※ 4(和藤内 わとうない)※ 15(角兵衛獅子)※ 17(子守)※ 9(牛乗天神)〈高崎力・郷土玩具コレクション展〈第1期〉:越谷市市民活動支援センター〉
2019年01月19日
コメント(0)
【訪問日:2019(平成31)年1月19日(土)】 旧日光街道・越谷宿の真ん中にある下見板張りの建物です。 昭和10年建造の旧越谷郵便局です。※ 横田診療所〈横田診療所:埼玉県越谷市越ヶ谷3-2-30〉
2019年01月19日
コメント(0)
【訪問日:2019(平成31)年1月14日(祝・月)】※ 越谷市公式HPより 蒲生の一里塚は綾瀬川と出羽堀が合流する蒲生愛宕町にあり、高さ2メートル、東西5.7メートル、東北7.8メートルの長方形をなしています。文化年間(1804~1818)に編さんされた「五街道分間延絵図」には一里塚が東西に描かれていますが、現在は東側のみが残されています。この一里塚が県内の日光街道沿いに残る唯一の一里塚となっています。〈蒲生の一里塚:埼玉県越谷市蒲生愛宕町11〉
2019年01月14日
コメント(0)
【訪問日:2019(平成31)年1月14日(祝・月)】※ 越谷市公式HPより 川口市、草加市との境を流れる綾瀬川は、古くは荒川の一分流でしたが、「あやしの川」ともいわれるほど上流部で川筋がいく筋にも分かれていました。「九十九曲がり」と表現されるはなはだしい蛇行は、流れが緩やかで水量が豊富であることから舟運に適し、綾瀬川舟運は埼玉と江戸・東京を結ぶ重要な交通手段として役割を果たしていました。 藤助河岸は、旧日光街道と綾瀬川が交差するという地の利を生かして、綾瀬川を代表する河岸場の一つとして繁栄しました。 明治の近代化以降、鉄道の普及などで河岸場がつぎつぎと廃止されるなかで、藤助河岸は繁栄を続けました。しかし、大正9年、東武鉄道に越ヶ谷駅が設置されたのを機に次第に衰退し、事実上昭和初期に廃止されました。 現在、藤助河岸は荷の積み降ろし小屋の一部が復元され、唯一当時の面影を伝えるものとして保存されています。〈藤助河岸(とうすけかし)跡:埼玉県越谷市蒲生愛宕町12-4)
2019年01月14日
コメント(0)
【訪問日:2018(平成30)年10月2日(火)】※ 公式HPより 東武伊勢崎線の北越谷駅と越谷駅の間に位置するこの区間は、明治32年に単線として開通した。 開通と同時に建設されたのが旧元荒川橋梁で、旧元荒川橋梁は平成4年(1992)に、現在の元荒川橋梁が建設されるまで、93年間使われた。 橋脚(煉瓦造りで隅石貼り)の一部を、越谷駅のコンコースに展示している。
2018年10月02日
コメント(0)
【訪問日 2018(平成30)年8月15日(水)】ふるさと再発見 越谷七不思議シリーズ その1※ 東武よみうりウェブ版より 白山神社の願掛け石塔(増林) 白山神社境内に、ひっそりと願掛け奉納石塔が建っている。老夫婦が向き合って願い事がかなえられるようにと拝んでいる様子が描かれたもので、拝み絵馬の形式をとっている。信州の道端に道祖神として、夫婦が描かれているが、越谷で見られるのは珍しい。※ 願掛け石塔 ※ 白山神社
2018年08月15日
コメント(0)
【訪問日 2018(平成30)年7月29日(日)】 地域で発見された遺跡の土器を見に行ってきました。
2018年07月29日
コメント(0)
全18件 (18件中 1-18件目)
1