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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)閑しづかさや岩にしみ入いる蝉の声おくのほそ道陸奥みちのくの深山みやまの奥にこのように閑寂なまほろばがあったのか。蝉の声がさざめいて岩に染み入っている。立ちつくしてそれに聞き入っている私はいつしか「無」になっていた。註元禄2年(1689)夏、出羽国(でわのくに、現・山形県)立石寺(通称、山寺)にて詠んだ。芭蕉46歳、代表作の一つで不朽の名句。なお、立石寺の読み方は、現在「りっしゃくじ」と呼ぶのが一般的だが、古くは「りゅうしゃくじ」と呼んだという。「建立」などと同じ呉音であろう。* 本文の表記は、岩波文庫『おくのほそ道』および『芭蕉俳句集』に依拠した。
2024年07月27日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)しばらくは瀧に籠こもるや夏げの始はじめ奥の細道(暑いなあ。)しばらくの間、涼しい滝に籠ろうか。夏の初め、夏行げぎょうの始めだ。註下野国しもつけのくに(現・栃木県)日光の「裏見の滝」にて。夏げ:当時盛んだった、大自然の中での仏教・修験道などの「夏行げぎょう」(夏季の修行、呉音読み)。巨匠が表現の目標として掲げたものの一つ、洒脱な「軽かろみ」と諧謔(ユーモア)が感じられる名句。 裏見の滝 栃木県日光市ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン
2024年06月17日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)あらたふと青葉若葉の日の光おくのほそ道元禄二年(1689)旧暦四月一日(新暦5月19日)作ああ、尊い。青葉若葉の万緑を育む燦々たる日光よ。註下野国しもつけのくに(現・栃木県)日光東照宮にて詠んだ。春爛漫の光景を詠うたいながら、長かった戦国乱世に終止符を打ち天下泰平をもたらした「東照大権現とうしょうだいごんげん」徳川家康を讃えた名句。あら:ああ。感動詞。たふと:形容詞「尊し(たふとし)」の語幹。「トート」と読む。ありがたい。もったいない。かたじけない。「たふとし」は、もと文字通り「タフトシ」と読んだのだろうが、音便化されて「とうとい」と「たっとい」の二音が派生し、現代に至った。 世界遺産 日光東照宮 表参道 鳥居ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン
2024年05月03日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)探丸子の君、別墅べっしょの花見もよほさせ給ひけるに昔のあともさながらにしてさまざまの事おもひ出す桜かな真蹟(自筆)懐紙 / 笈おいの小文こぶみかつてお仕えした藤堂良忠公のご子息・良長公が私の故郷、伊賀上野の下屋敷で花見の宴を催して下さったが昔の思い出もさながらにさまざまなことが思い出されて涙ぐんでしまう満開の桜だなあ。註貞享5年(1688)の旧暦二月(新暦のほぼ3月)、伊賀上野に滞在中の作。芭蕉45歳。すでに俳諧の巨匠として厚く遇されていた。探丸子の君:伊賀の小大名・藤堂良長。芭蕉はかつてその父・藤堂良忠に近侍した。別墅:別所。別邸。下屋敷。
2024年04月01日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)旅寝してわが句を知れや秋の風『野ざらし紀行』私の発句は身にしむ秋風の中で旅寝をしたことがある者にしか本当は分からない。どうかあなたも漂泊さすらいの旅をした上でわが句を味わってほしい。註生前すでに俳諧の巨匠として全国津々浦々にその名が轟いていた作者は、行く先々で崇拝者・素封家・金満家たちの熱烈歓迎を受ける大スターだった。彼自身も、宗匠としての責任感もあって甘受していたのだろう。だが、これは違うんだ、本意ではないのだ、私の俳句は、もののあわれの侘わび寂さび軽かろみ萎しおりを詠んでいるのだと抗あらがい諫めているような、メッセージ性の感じられる珍らかな逸品。詩歌・文学に親しむ者が拳々服膺すべき真理を含んでいる。 奧の細道行脚之図(芭蕉と河合曾良) 森川許六筆ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン * 画像クリックで拡大。
2023年10月08日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)閑しづかさや岩にしみ入いる蝉の声おくのほそ道陸奥みちのくの深山みやまの奥にこのように閑寂なまほろばがあったのか。蝉の声がさざめいて岩に染み入っている。立ちつくしてそれを聞いている私はいつしか「無」になっていた。註元禄2年(1689)夏、出羽国(でわのくに、現・山形県)立石寺(山寺)にて、芭蕉46歳の作品。なお、立石寺の読み方は、現在「りっしゃくじ」と呼ぶのが一般的だが、古くは「りゅうしゃくじ」と呼んだという。「建立」などと同じ呉音であろう。* 本文の表記は、岩波文庫『おくのほそ道』および『芭蕉俳句集』に依拠した。
2023年08月11日
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松尾芭蕉この道や行く人なしに秋の暮句集『其便そのたより』ああ この道は誰一人行き来する人もなく秋の日は暮れて寂しさが漂っているばかりだ。註切れ字「や」を用いた、江戸前期の芭蕉の自家薬籠中の文体で詠まれているが、僭越の極みながら仮に現代語風に変換するとすれば、やや散文的になるが「この道をゆく人なくて秋の暮れ」なんてのもリアルでいいなと、軽く妄想してしまう。 秋 紅葉ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン * 画像クリックで拡大。
2022年11月18日
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松尾芭蕉古池や蛙かはづ飛こむ水のおと註芭蕉の代表作で、日本文学史上の最高傑作。たった17音で宇内うだいの静謐と閑寂を表現した。日本の詩歌人すべてが仰ぎ見る最高峰の一句である。仮名遣いなどは江戸前期のものだが、現代風に古池や蛙飛び込む水の音としても全然毀損されない、かまわないと思う。もちろん夏の句である。季節外れもいいところではあるが、今夜放送されたNHK『歴史探偵・正岡子規』で、明治の「文学革命家」子規も絶賛した名句として登場したので、改めてご紹介したくなった。
2022年11月16日
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松尾芭蕉草の戸も住み替る代よぞひなの家おくのほそ道私がついこの間まで住んでいた侘しい庵いおりに入れ替わりに引っ越してきた一家の可愛い女の子が一心にお雛様で遊んでいるよ。註不朽の名著『おくのほそ道』の劈頭を飾る一句。草の戸、ひなの家:現・東京都江東区深川「芭蕉庵跡」おくのほそ道 序文 月日つきひは百代はくたいの過客くわかくにして、行ゆきかふ年もまた旅人たびびとなり。 舟の上に生涯しやうがいをうかべ、馬の口とらえて老おいをむかふるものは、日々ひび旅たびにして旅を栖すみかとす。古人も多く旅に死せるあり。 余よもいづれの年よりか、片雲へんうんの風にさそはれて、漂泊へうはくの思ひやまず、海浜かいひんにさすらへ、去年こぞの秋江上かうじやうの破屋はおくにくもの古巣をはらひて、やや年も暮くれ、春立てる霞の空に白河しらかはの関こえんと、そぞろ神がみの物につきて心をくるはせ、道祖神だうそじんのまねきにあひて、取るもの手につかず。ももひきの破れをつづり、笠の緒お付けかえて、三里さんりに灸きうすゆるより、松島の月まず心にかかりて、住める方かたは人に譲り、杉風さんぷうが別墅べつしょに移るに、 草の戸も住替すみかはる代よぞひなの家 面八句おもてはちくを庵いほりの柱にかけ置く。
2016年02月29日
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卒爾ながら、俳句や短歌の途中で、「や」とか「かな」とか、終止形でいったん文が終わるのを「切れ字」と言うが、芭蕉はこの手法を完成させた天才であり、特に「や」の用法はまさに独壇場といえる。まさに、工夫する句風、詠風、作風である。芸能の淵源、能の用語で言えば「芸風」とも言えよう。代表作といわれる名句でも、古池や蛙とびこむ水の音夏草やつはものどもが夢の跡しづかさや岩にしみ入る蝉の声荒海や佐渡に横たふ天の河など、驚くほど愛用・多用している。「や」は、「か」と並び、もともと疑問の係助詞・終助詞だったが、その後疑問の意味はほとんど失われて、詠嘆や強調の間投助詞になった。ちなみに、芭蕉は伊賀出身の関西人である。現在の関西弁の語尾の「や」(「あいつはほんまもんのアホや」などと使う)は「にてあり(にてある)」が転訛して→「ぢゃる(おぢゃる)」→「ぢゃ(じゃ)」→「や」と音便化したもので、文法的には助動詞に分類され、語源は全く異なると思われる。なお、よく知られた土佐弁の語尾「ぜよ」は、おそらく「ぢゃ(じゃ)」が別に変化した「ぜ」に「よ」が付いたものだろう。・・・が、言葉の来歴はそう単純明快なものではなく、一部は助詞の「や」の詠嘆的なニュアンスも取り込まれているとも考えられなくもない。「にて」は現代語でも決して死語ではない。改まった表現では普通に用いられる。「ホテルにて挙式」、「ホテルで挙式」、どちらも可である。が、日常語としての趨勢は「で」が優勢であろう。「にて」を含む文節は、口語としてはたいてい「ダ」行になってしまうようである。これは、現代語「じゃん」ときわめて似た経緯である。僕と妻は普段、ごく普通に「じゃん」言葉で話しているが、これも「にてはないか」→「ぢゃないか」→「じゃない?」→「じゃん」と転訛したものである。
2014年12月01日
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松尾芭蕉秋深き隣は何をする人ぞ『笈おい日記』晩秋の夜言い知れない憂愁と孤独を身に抱えて町の片隅に寓居していると、隣人宅からは物音一つ聞こえない。いったい何をしている人なのだろう。註芭蕉最晩年(亡くなる十数日前)の秀句。「深き」と、終止形でなく連体形になっているところに味わいがあるとともに、誰しも疑問を覚えるところだが、これは「ぞ・・・深し」の係り結び(の倒置法)ではないかとも思われる。 松尾芭蕉像 与謝蕪村筆ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン * 画像クリックで拡大。
2014年11月17日
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松尾芭蕉この道や行く人なしに秋の暮『其便そのたより』この道に誰一人行く人もなく晩秋の日は暮れて言いようのない寂寥が漂っているばかりだ。 秋 紅葉ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン * 画像クリックで拡大。
2014年11月17日
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松尾芭蕉旅寝してわが句を知れや秋の風『野ざらし紀行』私の発句は身にしむ秋風の中で旅寝をしたことがある者にしか分からない。どうかあなたも漂泊の旅をした上でわが句を味わってほしい。 奧の細道行脚之図(芭蕉と河合曾良) 森川許六筆ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン * 画像クリックで拡大。
2014年11月17日
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松尾芭蕉憂うき我をさびしがらせよ閑古鳥かんこどり『嵯峨日記』もの憂い私を、くっきりとした閑寂の境地に誘ってくれ、郭公かっこうよ。 松尾芭蕉像 葛飾北斎筆ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン * 画像クリックで拡大。
2014年11月17日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)物いへば唇寒し穐あきの風真蹟懐紙撰集『芭蕉庵小文庫』ものを喋っていたらふと唇のあたりが肌寒く思われた。深まりゆく秋の風なのだなあ。(言わずもがなのことを言ってしまった時はうそ寒い秋の風に唇を撫でられたような気がするなあ。)註人口に膾炙した名句。古来、秋季の一齣のシンプルな写生であるとする説と、( )内のような処世訓的な解釈の二通りがあるが、脱俗的な芭蕉の句風から推して、私個人はどちらかといえば前者の写実説を採りたい。穐:「秋」の異体字。意味は同じ。「秋」と表記されることが多い。 秋 ヤマモミジウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン * 画像クリックで拡大。
2014年10月29日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)あらたふと青葉若葉の日の光おくのほそ道元禄二年(1689)旧暦四月一日(新暦5月19日)作ああ 尊く神々しい。青葉若葉の万緑を育む燦々たる日光よ。註下野国しもつけのくに(現・栃木県)日光東照宮にて詠んだ。長い乱世に終止符を打ち天下泰平をもたらした「東照大権現とうしょうだいごんげん」徳川家康を讃えた名句。あら;ああ。感動詞。たふと:形容詞「尊し(たふとし)」の語幹。「トート」と読む。ありがたい。もったいない。かたじけない。「たふとし」は、もと文字通り「タフトシ」と読んだのだろうが、音便化されて「とうとい」と「たっとい」の二音が派生し、現代に至った。 日光東照宮 表参道 鳥居ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン
2014年06月03日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)梅むめが香かにのつと日の出る山路やまぢかな句集『炭俵』(元禄7年・1694)朝の山路を歩いていると梅の香りが漂う中にぬうっと太陽が顔を出した。註梅むめ:「むめ」の訓は中古から生じたが、「うめ」の方が古い。のつと(のっと):ぬうっと。当時の俗語。日の出る:文語で「日出(い)づる」などとせず、あえて口語で「出る」として(「のつと」と合わせ)「軽み」を意図した巨匠の試み。
2014年03月18日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)梅むめが香かにのつと日の出る山路やまぢかな句集『炭俵』(元禄7年・1694)朝の山路を歩いていると梅の香りが漂う中にぬうっと太陽が顔を出した。註梅むめ:「むめ」の訓は中古から生じたが、「うめ」の方が古い。のつと(のっと):ぬうっと。当時の俗語。日の出る:文語で「日出(い)づる」などとせず、あえて口語で「出る」として(「のつと」と合わせ)「軽み」を意図した巨匠の試み。
2013年03月19日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)探丸子の君、別墅べっしょの花見もよほさせ給ひけるに昔のあともさながらにしてさまざまの事おもひ出す桜かな真蹟懐紙 / 笈の小文かつてお仕えした藤堂良忠公のご子息・良長公が私の故郷でもある伊賀上野の下屋敷で花見の宴を催して下さったが昔の思い出もさながらに満開の桜を眺めながら私はさまざまな思い出の感慨に堪えず言葉もなくただ涙ぐむばかりである。註貞享5年(1688)の旧暦二月、故郷・伊賀上野に滞在中の作。芭蕉45歳。探丸子の君:伊賀の小大名・藤堂良長。芭蕉はかつて、その父・藤堂良忠に近侍した。別墅:別所。下屋敷。
2010年04月15日
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松尾芭蕉いざさらば雪見にころぶ所まで句集「花摘」さようならばこれにて。私は雪見に行く。雪に躓(つまづ)くところまで、行けるところまで。註貞亨4年(1688)旧暦12月3日(新暦の今頃)、名古屋の門弟で書籍商・風月堂孫助(俳号:夕道)邸の雪見の宴に際しての初案「いざ出でん雪見にころぶ所まで」(真蹟懐紙)。推敲案「いざ行かん雪見にころぶ所まで」──句集「笈(おい)の小文(こぶみ)」所収。上記掲出作は最終決定稿。名句であるが、初案および「笈の小文」の第2案が良く、最終案(決定稿)はむしろ改悪ではないかというのが、大方の見巧者の意見であろう。僕もやや同感。侘び寂びを漂わせ脱俗洒脱といえる初案・第2案とニュアンスが変わり、離別句めいた妙な悲壮感を漂わせてしまっている。・・・好みの問題だとは思うが。
2010年01月15日
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松尾芭蕉蛤はまぐりのふたみに別れ行く秋ぞ奥の細道蛤の蓋(ふた)と身が二つに引き裂かれ分かたれるように私は親しい人々と別れて伊勢の二見に向って行く。折しも時節は行く秋である。註「不易流行」を具現化した日本古典文学不朽の名作「奥の細道」の掉尾を飾る記念碑的名句。生涯を通じて、いわば“ナチュラルな枯淡”とでもいうべき「侘び寂び」「軽み、萎(しお)り」の句風を追求し続けたさしもの芭蕉も、畢生(ひっせい)の著作のラストとあってか、珍しくここでは和歌的ともいえる華麗な技巧を凝らしたアーティフィシャル(人工的)な詠風を見せている。「蓋」と「身」、「二身」、「(伊勢)二見」、「分かれ」と「別れ」、「(別れて)行く」と「行く秋」が、それぞれ重層的に掛かっている。
2009年12月07日
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松尾芭蕉波の間まや小貝にまじる萩の塵奥の細道波の合間の渚を見ると、ますおの小貝に交じって萩の花びらが美しく散りわたっている。註〔別案〕小萩散れ ますほの小貝小盃(こさかづき)越前(福井)敦賀・種(いろ)の浜(現・色浜)にて。ますほの小貝:チドリマスオガイ。大きさは、米粒ないし小豆(あずき)粒大。種(いろ)の浜(色浜)の名もこれに由来するという。
2009年12月05日
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松尾芭蕉古き名の角鹿つぬがや恋し秋の月芭蕉翁 月一夜十五句皓々たる月光に照らし出された敦賀の湊を眺めているとこの世ならぬ気分に包まれてきて遠い昔の角鹿という古名が恋しくなった。註「奥の細道」には収録されなかったが、4つ前のエントリーの句と同じく、元禄2年(1689)旧暦8月中旬(新暦の10月初め頃)に越前(福井)敦賀で詠んだもの。なかなかロマンチックな雰囲気がある作品である。芭蕉自家薬籠中の用法である「や」の切れ字がまたしても効果的に使われて、余韻を醸し出している。角鹿つぬが:敦賀の古名。「日本書紀」にこの名で登場する。同様に、日本の地名・苗字には縁起を担いだ当て字が多いことはよく知られており、枚挙にいとまがない。山門→大和、黍の国→吉備の国、木の国→紀の国(紀伊国)、葭原(あしはら→よしはら)→吉原、窪田→久保田、新堀(にいぼり)→日暮里・・・等々。徳川という苗字も、江川→得川(えがわ→とくがわ)→徳川となったという説がある(・・・何かの本で読んだ覚えがあるが、どの本だったか出典は忘れて不詳)。
2009年12月01日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋奥の細道源氏物語の昔から寂しさの極みとして知られる須磨の秋にも勝るこの種いろの浜の秋のもののあわれ。註種(いろ)の浜:敦賀湾の西岸、立石岬周辺。現・敦賀市色浜。
2009年11月29日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)名月や北国日和ほくこくびより定めなき奥の細道せっかくの仲秋の名月の夜がよりにもよって雨だとは、北陸の天気の変わりやすさが恨めしや。註元禄2年(1689)旧暦8月14日(新暦の10月初め頃)、越前国(現・福井県)敦賀の出雲屋という旅籠に投宿。■敦賀観光協会・関連ページ
2009年11月28日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)月清し遊行ゆぎやうの持てる砂の上奥の細道月の光が清々(すがすが)しい。遊行上人が自ら運んだという御社(みやしろ)の砂の上に照りわたって。註北陸道総鎮守・越前の国(現・福井県)一之宮・気比(けひ)の明神(気比神宮)。地元・敦賀周辺では「けえさん」と呼ばれて親しまれているという。遊行(ゆぎょう):遊行宗(時宗)の開祖である一遍上人(いっぺんしょうにん)の弟子で二世遊行の他阿上人(真教)。泥でぬかるむ気比明神の境内に土石を運び、参詣の人の煩(わずら)いを救ったという。以後、この故事は慣例化し、「遊行上人御砂持(おすなもち)神事」として今に伝わる。■この句に関わるユーチューブ動画「書道」
2009年11月28日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)物書いて扇あふぎ引き裂く余波なごり哉かな奥の細道別れに臨み、扇に記念の言葉を書きつけて二つに引き裂き分け合ってなごりを惜しんだのだ。註「扇捨つる」は秋の季語。金沢から半月あまり、奥の細道の旅に同道した新参の弟子・立花北枝(たちばな・ほくし)との、越前・松岡(現・福井県吉田郡永平寺町松岡清水)での惜別を詠んだ。
2009年11月25日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)庭掃はいて出いでばや寺に散る柳奥の細道けさ、一泊したこの寺を辞して庭に出た折しも、柳の枯葉がはらはらと散り落ちていた。一宿一飯の恩義に、この落葉を掃き清めてから出立するとしよう。註寺:加賀・大聖寺(現・石川県加賀市)城外の全昌寺に泊った翌朝の句。
2009年11月21日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)石山いしやまの石より白し秋の風奥の細道全山の石山より白い瀟殺しょうさつたる白秋の風。註石山:加賀の国(石川県)小松市那谷(なた)那谷寺境内にある、全山が石英粗面岩の霊場。白し秋の風:古代中国道教思想などの文脈では、四季を順に、玄冬・青春・朱夏・白秋と呼んだ(冬至を「太陽のよみがえり」と見て、四季は冬に始まるものとされていた。正月が冬であるのは、そうしたことの影響があるものと見られる)。それぞれに対応する象徴的動物(四神)は、玄武(げんぶ、亀)・青龍(せいりゅう)・朱雀(すざく、火の鳥)・白虎(びゃっこ)。なお、これを人の一生にも当てはめ、数え年1歳~15歳を冬、16歳~30歳を春、31歳~45歳を夏、46歳~60歳を冬に見立て、60歳を以って再び生まれ変わるものと見なして「還暦」という。
2009年11月20日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)今日よりや書付かきつけ消さん笠の露奥の細道今日よりは笠に書いた誓いの言葉も笠に置く露が消してしまうに任せよう。註奥の細道の旅にここまで同行してきた河合曽良(かわい・そら)は、山中温泉でにわかに腹の病を起こして、縁(ゆかり)のある伊勢に一人旅立った。笠に書いた「乾坤無住同行二人」と書き付けた風狂の旅の誓いの言葉が虚しくなった。「露」が涙を暗示する。
2009年10月01日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)山中や菊は手折たをらぬ湯の匂ひ奥の細道(元禄15年・1702)山中の出湯(いでゆ)はまことに霊験あらたかで山の中の菊を手折って浮かべた酒を飲むまでもなく寿命が延びる心地がするいい香りだなあ。註山中や菊は:9月9日などの重陽(ちょうよう)の節句に、中国の故事に基づき、深山の野生の菊の花を杯に浮かべて長寿を祈祝する「山路の菊」と呼ばれる習わしがあった。その習俗と、能登(石川県北部)の山中温泉を掛けている。芭蕉と随行の河合曽良(かわい・そら)は、元禄2年(1689)7月27日(新暦換算9月10日)から8月5日(9月20日)まで10日間(8泊)山中温泉に逗留。謡曲(能)「俊寛」の台詞「濡れて干す山路の菊の露の間に我も千年(ちとせ)を経る心地」を踏まえる。すでにこの頃多数の門人を抱え、俳諧の大家として世に鳴っていた芭蕉による、地元の人々が泣いて喜んだであろう挨拶句。
2009年09月30日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)むざんやな甲かぶとの下のきりぎりす奥の細道痛ましいなあ。重い甲の下に、蟋蟀(こおろぎ)がか細い声で鳴いている。註加賀(石川)小松・多太神社にて、平家の武将・斎藤実盛(さいとう・さねもり)遺品の兜を実見した時の作。むざんやな:世阿弥の(能)謡曲「実盛」より、源(木曽)義仲家臣・樋口次郎の言う科白「あなむざんやな、斎藤別当実盛にて候ひけるぞや」の引用。■謡蹟めぐり「実盛」やな:この「やな」は、あるいは現在の関西弁の「やな」にも通じる語尾か。きりぎりす:現在のコオロギ。キリギリスのことは機織虫(はたをりむし)と呼んだ。
2009年09月29日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)しをらしき名や小松吹く萩薄はぎすすき奥の細道なんと控えめでしおらしい名前だろうその小松にふく秋風が萩やススキを揺らしている。註加賀の国(石川県)小松にて。その地名と、古来和歌などで愛されてきた「姫小松」のイメージを重ね合わせ、秋の七草の季節感を取り合わせた、「国誉め(ご当地ソング?)」的な佳句。しをらし(しおらしい):美しい形容詞だ。決して死語にまではなっていないと思うが、現代日本から失われつつある美意識だ。・・・加賀・石川の森喜朗(もり・よしろう、シンキロウ)元首相は、しばらくの間、少し「しおらしく」している方がいいと思う
2009年09月29日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)塚も動け我が泣く声は秋の風奥の細道塚も動け。我が慟哭の声は、蕭々たる秋の風の音となって吹きすさぶ。註金沢きっての俳人で、芭蕉旧知の葉茶商だった小杉一笑への追悼句。奥の細道の旅の年(元禄2年・1689)の前年に死去したと初めて聞いた驚愕と悲嘆が現われている。あまりにもストレート過ぎて俳句としての深みや捻りはないが、追悼詠の性格上、これで上々だろう。
2009年09月29日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)秋涼し手毎てごとにむけや瓜茄子うりなすび奥の細道秋の涼しい風の中みんなてんでに皮を剥いて瓜や茄子を馳走になろう。
2009年09月28日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)あかあかと日は難面つれなくも秋の風奥の細道眩(まばゆ)い陽射しはまだ容赦なく照りつけているが冷涼な秋の風が吹き始めて、寂しさをかき立てられる。
2009年09月28日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)早稲わせの香かや分け入る右は有磯海ありそうみ奥の細道早稲の香の漂う一面の稲田を分け入ってゆく右手は、紺碧に耀(かがよ)う有磯海。註元禄2年(1689)旧暦7月15日(現在の8月末~9月初め頃)、越中(富山)・加賀(石川)国境の砺波(となみ)山・倶利伽羅(くりから)峠付近で、富山湾を遠望して詠んだ。有磯海ありそうみ:現・富山湾伏木港付近の海。「有磯」の語源は「荒磯」であろうか。
2009年07月26日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)一家ひとつやに遊女もねたり萩と月奥の細道旅寓の一軒宿で、伊勢参りの遊女と隣り合わせの部屋で寝た。あわれ楚々たる萩と月。註親不知(おやしらず)、子不知、犬戻り、駒返しなど、当時北国街道随一の難所を越えて来て疲れ切ったという、越後・市振の宿での一夜の出来事。お伊勢参りに行くという新潟の遊女二人とたまたま出会って語らい、身分社会の底辺の苦界で喘ぎ、明日をも知れぬ彼女たちの不幸な境涯を一晩とっくりと聞いた芭蕉と河合曽良(かわい・そら)。翌朝になって、芭蕉たちを旅の高僧と思い込んだ娼婦二人は、今後の随行を望んだが、当時すでに引く手あまたの著名人であった多忙な芭蕉らは、それを泣く泣く振り切って別れてきたというのである。「萩と月」の形象には、おそらく風狂の世捨て人・芭蕉自身の自己イメージも含まれている。この一連の件(くだり)は、芭蕉の半ば創作ではないかと考えられているが、「哀(あはれ)さ、しばらくやまざりけらし(哀れさが、自分の中でしばらくやまなかったようだなあ)」で結ばれる詞書きも併せて、余韻嫋々たる名文といえる。
2009年07月25日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)荒海や佐渡によこたふ天河あまのがは奥の細道日本海の荒海の彼方にほの見える佐渡の上空に横たわる雄大な天の川のきらめき。註「古池や蛙飛び込む水の音」「閑かさや岩にしみ入蝉の声」などと並ぶ、芭蕉の代表作。詠んだ場所については諸説あるが、出雲崎付近と思われ、元禄2年(1689)旧暦7月7日(七夕)の夜、越後(新潟)直江津の句会で披露された。芭蕉46歳。ちなみに、直江津は今年の大河ドラマの主人公・直江兼続公が開いた港で、地名にその名を冠している。当時、まだ清新な気風の町だったろう。*本文表記は、岩波文庫版「おくのほそ道」「芭蕉俳句集」に依拠しています。 ■俳聖・松尾芭蕉 生涯データベース■奥の細道 全文(詳細註釈・地図リンク付き)
2009年07月24日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)暑き日を海にいれたり最上川もがみがは奥の細道真夏の灼熱の太陽の一日を軽々と包容する無辺の日本海に注ぐ最上川の広大な河口。註山形・酒田、「安種亭から袖の浦を見渡して」と詞書(ことばがき)にある。この「日」が、「太陽」の意味か、はたまた「一日」の意味なのかは、大きく解釈が分かれているところだが、たぶん芭蕉自身が、ある程度両義性を意図しているのではないかと思う。
2009年07月22日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)語られぬ湯殿ゆどのにぬらす袂たもとかな奥の細道陸奥・湯殿山の門外不出の秘密、それは、御神体が男女のまぐわいを示しているということ。決して他言を許されぬこの禁忌に思いを馳せながらありがたさに涙を滴らせる袂なのである。註一読しただけでは、何のこっちゃ(僕も)さっぱりワケが分からず、どうしても註釈が要るだろうが、これはなかなかエロティックな一句なのだといわれる。国語の教科書にもよく載っている芭蕉ではあるが、謹厳実直一辺倒の石部金吉だったと思うのはどっこい勘違いであり、けっこうこうした艶っぽい句も詠んでいる。伊賀の武家出身であるが、そこはそれ、やはり江戸の俳諧師の群れから身を起こした人である。湯殿山の御神体は、深い谷間の熱湯の噴き出る褐色の巨岩で、男女の性器を象徴するという。「湯殿」の名も、それを示唆しているのだろう。古代アニミズムの系譜も汲む日本の神道・修験道は、男女の性的エネルギーと豊穣を聖なるものとして崇めてきた。例えば、日光・金精神社の御神体も、その名の示すとおり、男性器を象(かたど)った物体であるという。各地に残る「道祖神」を含め、こういう例は、枚挙にいとまがないだろう。
2009年07月22日
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このところ、生業に加え、地元神社の夏祭りの設営、町内会、さらには夏休みに入った子供たちを花火大会に連れて行くなど、家族サービスにも寧日なき有様ですので、ブログ更新の方は、しばらく減速すると思います。ご寛恕の上、ご了承下さいませ~松尾芭蕉(まつお・ばしょう)涼しさやほの三日月の羽黒山奥の細道出羽三山の羽黒山を登り竟(お)え、月山(がっさん)の頂(いただき)まで息絶え身凍える心地で臻(いた)り下って来た今、ふと振り返れば涼しげな三日月のほのかな光に浮かんだ夜の羽黒山の威容。註出羽国(現・山形県)羽黒山にて。「ほの三日月」の身にまとう女性性と「羽黒山」の体現する男性性の対比という評もある。
2009年07月19日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)五月雨さみだれをあつめて早し最上川もがみがは奥の細道梅雨に降り続いた雨を集めて陸奥(みちのく)の渓流から庄内の大地へと奔放に流れ来る夏のはじめの最上川。
2009年07月18日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)閑しづかさや岩にしみ入いる蝉の声奥の細道陸奥(みちのく)の深山(みやま)の奥にこのような閑寂なまほろばがあったのか。岩に染み入る蝉の声を聞いている私はいつしか「無」になっていた。註芭蕉の代表作で、日本古典文学の最高傑作の一つ。元禄2年(1689)夏、出羽国(でわのくに、現・山形県)立石寺(山寺)にて、芭蕉46歳の作品。なお、立石寺の読み方は、現在「りっしゃくじ」と呼ぶのが一般的だが、古くは「りゅうしゃくじ」と呼んだという。「建立」などと同じ呉音であろう。*本文表記は、岩波文庫版「おくのほそ道」「芭蕉俳句集」に依拠しています。 ■俳聖・松尾芭蕉 生涯データベース■奥の細道 全文(詳細註釈・地図リンク付き)
2009年07月17日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)蚤虱のみしらみ馬の尿しとする枕もと奥の細道ノミやシラミに悩まされ、傍らでは容赦なく馬がおしっこをする夏の雨宿りの寄寓の一夜。註芭蕉の研ぎ澄まされた感性で、一つの「リアル」が表現された名句。しかも、この境遇をどこか楽しんでいるような風情さえ感じられて楽しい。
2009年07月17日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)五月雨さみだれの降ふりのこしてや光堂ひかりだう奥の細道〔通説的解釈〕もの皆すべてを朽ちさせるという梅雨の雨が何百年も降り続いたというのにここだけは避けて降り残したというのか。その名の通り、燦然たる光堂。〔一般的ではないが、個人的に捨て難い解釈〕梅雨はとうに明けたはずだが、降り残したというがごとくに雨がそぼ降る森閑たる中尊寺金色堂の荘厳。
2009年07月17日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)夏草や兵つはものどもが夢の跡奥の細道その昔、唐の詩聖・杜甫は、「国破れて山河あり、城春にして草木深し」と詠んだ。そんなことを思いながら衣川を眺め、夏草が生い茂るこの奥州・平泉の地に佇んでいると、源頼朝公に滅ぼされた藤原三代の栄耀栄華と悲劇の貴公子・義経の見た夢の跡の哀れさがしんしんと胸に迫って来るのだった。■俳聖・松尾芭蕉 生涯データベース■奥の細道 全文(詳細註釈・地図リンク付き)言葉遊びの歌詠み処方箋 奥の細道
2009年07月16日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)風流の初はじめやおくの田植うた奥の細道会津磐梯山を遥かに望む奥州・須賀川の田園に早乙女たちの田植え歌が朗らかに谺(こだま)する。まことに、文学や音楽・舞踊の起源を辿れば等しくこのような歓喜の歌が原初だったのだろう。
2009年07月16日
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松尾芭蕉(まつお・ばしょう)田一枚植うゑて立去る柳かな奥の細道柳の樹蔭でしばし休んでいると、いつのまにか田植えが一枚分終わり、早乙女たちの声が消え、独りぽつんと取り残されてしまった。それでは、私もここを立ち去って旅を続けるとしよう。註歌聖・西行を崇敬し、その漂泊の生き方を身を以って再現したほどの俳聖・芭蕉が、昨日エントリーの歌などへのオマージュ(讃美)を込めて詠んだ名句。■遊行柳・遊行庵
2009年07月16日
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栃木県大田原市・雲巌寺* 写真:「日本列島お国自慢」ウェブサイトより。この画像は著作権者の許諾に基づき転載しました。松尾芭蕉(まつお・ばしょう)木啄きつつきも庵いほはやぶらず夏木立奥の細道およそもののあわれを解しない禽獣のキツツキでさえこの風雅な庵(いおり)は毀(こぼ)たぬと見える。深山幽谷の夏木立。■雲巌寺画像リンク■雲巌寺観光リンク
2009年07月15日
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