ネオリアヤの言葉

ネオリアヤの言葉

愛した人へ




 希望を持つことと
 希望を持ち過ぎないこと

 あきらめずに努力すること
 そして
 あきらめること

 愛することと
 愛し過ぎないこと

 あなたから教わった
 前向きな生き方の意味


カナは、会社の玄関に足を踏み入れた瞬間、
自分にその日のエネルギーがすでにないことを初めて知った。
よく磨かれたガラス扉が開き、反対に出て行く同僚とすれ違う時、それがわかった。

「おはよう」

挨拶をしつつも、いつもの笑顔が出てこなかった。
自分では笑っているつもりでも、顔の筋肉が動かないし、気持ちがわいてこない。
家を出てから会社に辿り着くまでの四十分間、何も考えずに、
ただただ移動だけをしてきたらしい。
どんな速度で歩いてきたのかさえ、思い出せない。
この一ヶ月間続いた緊張と高揚の日々が、一夜にして終わりを告げた。
躰も頭も知っていた。心はそれを、認めたがらないけれど。

更衣室のロッカーを開ける左の手のひらに、軽い痛みが走る。
その痛みは、手のひらから一気に、二の腕の内側の筋肉へと響いた。
筋違いをしていたことさえ忘れていた。
ゆっくりと左腕を下ろし、右手で扉を開く。
左腕の痛みさえ、昨日迄は愛しかった。

終わりは、いつだって透けているとわかっていたのに。
それはあまりに突然、当然の権利のようにやってきた。
何が悲しいのか、感じる暇を与える間もなく。
歩き慣れた五十三段という階段が、今日はひどく長い道程に思えた。


「違ったら笑っていいからね。…それって俺?」

直球な答えに、思わず笑ってしまった。悔しいけれど、あたってる。
好きな人がいるというカナの告白に、守はワンフレーズおいて、そう云った。
二人の間を流れる雰囲気と、それまでの会話からすれば、
当然予測できたことかもしれなかったけれど。

「あ、今笑ったでしょ」

自分の云ったことが当たっていることを知りながら続ける会話。
むしろ、カナが笑うことを前提に、彼の口から発せられた一言だということが、
すぐにわかる。

「いや、あってるよ」

カナがつられて笑いながら答えたのは、一ヶ月前のこと。
コノヒトハ、ナレテル。
絶妙のタイミングで言葉を交わす人。慣れていなければ、こんな間(ま)は使えない。
唇が重なるちょっと手前の、わずかな風の震えに、この人には気をつけなきゃと感じた。
本気になってはいけない人だと、心が信号を送っている。
これまで近づいたことのない領域に入り込んでいく自分の後ろ姿が、
脳裏に浮かんだ。
年上の男(ひと)と恋愛をしたことがなかったわけじゃないけれど、
これまでのタイプとは全然違っていた。
服装も、生活も思考レベルも。そして何より、育ってきた環境が。

彼はいつも仕立てのいい服を身につけていた。
そして身のこなしも、実にさり気ない。
カフェの椅子に、無造作にかけられるジャケットの小さなタグの多くは、イタリ―製。
おそらく日本では、東京でしか手に入らないだろうことを推測させる。
物に限定して云えば、守は何でも手に入るかもしれない。
そんな余裕を感じさせるし、実際のところ、嫉妬でも何でもなく、
彼はある程度の生活力を持っていた。

彼の行動はいつも堂々として、どんな場所でも、傍にいて安心できた。
「わかんないけど、やってみればなんとかなるさ」といった、
学生のノリを思わせる「行動力」ではない。飛び込みもOKな営業タイプでもない。
経験からしか培われない余裕の滲む、紳士的なスマートさだった。

彼はいつも忙しかった。
不動産や学校経営、宝飾店などを手広く展開している父親の会社を手伝っているのだ。
もともとは老舗宝飾店だった先代のお祖父さんが亡くなったあと、
バブル景気より少し早く事業拡大をしたのが大きく成功した。
銀座をはじめ、札幌を含む政令指定都市にはほとんどその宝石店がある。
結婚指輪は本物を、という人たちの多くがその店で購入するらしい。
まだ店に足を踏み入れたことはないけれど、
最近簡単に出入りできる高級ブランド店とは異なるタイプの、静かな佇まいの店。
守は三年ほど東京の広告代理店で働いたあと、予定どおり札幌の事業責任者になった。
店の営業というより、不動産方面の付き合いが忙しく、時々、

「今日はちょっと疲れた」

と云って、止めた車の中やベッドで熟睡する。
起こすのを躊躇ってしまうほどに。
だから、ともすると気障に見えてしまう彼が、
そのちょっとした時間をカナのためにあけてくれることを、素直に嬉しく思っていた。
でも、いつも心のどこかで危険信号が点滅していて、その眼を覗き込むたび、
理由のわからない不安と、優越感がカナを包み込んだ。
カナが守に感じる感覚、または、守自身が発する体温にはいくつかあった。
それはいつ会っても同じで、変わらない。

 すごくレイセイなこと。
 コドモっぽい表情をすること。
 トオクを見つめること。
 ジブンノキモチを云わないこと。
 ワタシをペットのように可愛がること。

そのどれもがカナにとって、とても不思議な行為であり、少しだけ怖かった。
そして、興味を深くさせた。
冷静な行動と眼は、カナの不安を増長させるのには充分過ぎるほどで、
言葉を発することさえ、最初は戸惑った。

「こんなもんだと思ってもらっちゃ困るよ」

傾斜を残して倒した車のシートで、守がカナの中に躰を滑り込ませながら、
耳元で囁く。
驚愕として震えている躰を優しく包むように、守は順を違わずに確実に崩していく。
自分の足が、車の天井にへばりついているのを、
カナはうっすらと辛うじて開いている眼で見つめていた。
秋の外気に直接触れているウィンドウの内側が、
粒子のような水滴を溜めて光っているのがわかる。
出逢ってから初めて関係を持つまで、そう時間はかからなかった。
シートの上で、立ち膝の態勢のままスピードを増す守の影は、
星空と付近の民家の灯を背後から受けて熱を帯び続ける。

「カナ…」

守の声がした。静かな、やわらかい響きが心地いい。

「このくらいにしとこうかな…」
「いい顔んなったね」
「きれいだよ、カナ」
「いい脚だよね」
「おいで…」

次々に発せられる言葉の応酬。
カナは、酸欠に近い心臓に空気を取り込むので精一杯だった。
あれから目まぐるしく過ぎた日々は、密度の濃さに比例するようにして、
一気にカナを自堕落にした。
朝起きること、食事をすること、掃除をしたり職場に行くこと。
地下鉄に乗ることも眠ることも全部、守と逢うためだった。
今彼は何をしてるだろうか、そう考えるだけで、時間が速くて遅くなる。
彼のことを想う以外、世の中とつながっているものは何もない。
これが終われば守に逢える。

彼と逢うことに繋がっている、ただそれだけの基準で生活するだけの毎日。
それがなければ、まるでどうでもいいことばかり。
守がすべてだった。
「カナの声が訊きたくなった」

そう云って仕事中に電話してくるときの彼は、運転中のことが多かった。
明るく疲れた声で、眼につく景色を次々と話す。

「今ね、かっこいいおっちゃんが転んだ」

笑い声がする。

「痛そう。大丈夫かな」
「あれっ、八丁目のビルなくなっちゃった。またしょうもないビルにすんだろうなぁ。安孫子さんとこ景気いいから…」
「何してる人?」
「不動産屋。おやじの友達なんだ」
「ふうん」
「カナは何してたの?」
「記事原稿の推敲しながら守のこと考えてた」
「かわいいこと云うね」
「ほんとだもん」
「あ、パトカーだ。またね」
「気をつけて」

慌ただしく切られる携帯電話。
逢うことより、電話で話す機会のほうが断然に多かった。
声を訊いて彼を想像し、彼に逢うためにだけ通り過ぎる凡庸な日常。

でもそれでよかった。
守との時間が総てになって、
初めて自分はこんなにも人を好きになることができるのだと知った。
この人がいるなら、どんなことがあっても生きていよう。
彼が時折みせる寂しそうな笑顔は、その想いを一層募らせる。
彼は自分のことを何も話さなかったけれど、抱えている重さを感じることはできた。
守の哀しさや寂しさから、彼を守ってあげたいと本気で思っていた。
自分にはそれができると。
けれど、それは彼自身が気持ちを解放してくれないと、近づくことさえ許されない領域。 
心に触れることは、その躰に触れ、体温を感じるほど簡単にはいかなかった。
決して言葉にして伝えられてくることのない心の傷と二人の関係は、
曖昧なまま平行線をたどるだけ。
彼の苦しさの深さを推し量ることさえ、カナには許されなかった。

ある晴れた日曜、初めて約束をして海までドライブをした。
夏の名残りの暖かさが、太陽に滲んで、眩しい光が海から反射している。

「今日の夜、坂巻のおっさんの事務所に行かなきゃならなくなった」

数歩後ろを歩いていた守が呟く。
先月、政治資金規制法違反や贈収賄などで逮捕された政治家の名前をあげる。
数十年に亘り国政に深く絡んだ仕事をしていたため、
世論を揺るがせ、外交問題にさえ影響を与えるような逮捕劇だった。
数年前、カナも仕事でその政治家を二度ほど取材したことがあった。
初対面では、名刺と挨拶程度の言葉しか交わさなかったのに、二度目会ったとき、
遠くから手を挙げ、わざわざ人ごみを掻き分けるようにして笑顔で近づいてきた。

「やあエナミさん、今日はわざわざどうも。この前の事件記事読みましたよ。いい視点でしたね。頑張って下さい。でも、お手柔らかに頼みますよ」

自分の右眉が、ぴくりと上がるのがわかった。
この人の立ち回りは普通ではない、
と改めてその地位たる所以やエネルギーを感じたのを覚えている。
当人の能力もさることながら、さぞかし有能な秘書を抱えているんだろうと、
厭らしい憶測が過ぎった。
新聞社の地方記者を務めているため、
政治・経済・生活文化、なんでも担当しなくてはならず、
カナの記事に至っては、地方版にしか掲載されない。
国内外駆けずり回る、これだけ忙しい坂巻本人が読んでいるはずはなかった。
その政治家と、守の父親は繋がりがある。
彼と出逢ったのは、取材がきっかけ。
公共事業絡みの取材で出入りしていた札幌の事務所で、訊き覚えのある苗字を耳にした。

「M新聞のエナミカナと申します。神田ビルの綿谷さんでらっしゃいますか?」

普通、カナから自己紹介を受けると、大抵の人間が表情を強張らせて構えるのに、
彼はきょとんとした眼をしてから、屈託無く笑った。

「そうですけど、それはおやじの会社だから。僕は息子の綿谷守です」

札幌にいてそのビルを知らない、
まして日本にあってはその宝石店を知らない人間はほとんどいない。
カナは、震えるような緊張と高揚感が湧き上がってくるのを感じた。
今回の取材に彼の会社が関わってこないだろうことはわかっていたけれど、
これだけの事業展開をしていて、代議士と無関係で出入りしているはずがなかった。
久々に血が騒いだ。

ところが。
守はこちらが警戒するほど自然体で接してきた。
バブル期の銀行の企業融資体制、政治家の裏献金、企業の事業拡大と自己破産。
それまで、一般的に「被害を被る側」として取り上げられる市民の声を中心に取材してきた、
たかだか記者二年目のカナにとって、当事者の生の声を訊くことは衝撃だった。
企業倒産にしても、やむに已まれぬ理由で事態が進行するのではなく、
あまりにあっさりと物事が決定される現実と、切り捨てられていく人々の扱いに、
何度も言葉を失った。

「そんなもんだよ」

表情は決して柔らかくはなかったけれど、簡単な言葉だった。
ある日突然、生活への現実的な不安に直面させられる人間と、
会社ひとつ潰したくらいでは、
生活どころか家族それぞれに暮らす家の存在さえ揺らぐことのない人たち。
何時間もあてどなく話を訊きながら、カナはそのうち、社会の現実や矛盾ではなく、
彼その人に興味を覚えるようになっていた。

「そんなもんだよ」

と、少なくとも記者だと名乗っている自分に対し、
冷静に云い放つことのできる人の内面はどうなっているんだろうか。
どんな生き方をし、何を見てきたのか。
二人のあいだで、記者としてのカナが消し去られた瞬間だった。

「何しに行くの?」

浜辺を裸足で歩きながら、手で砂を掘っている守を振り返った。

「整理しなくちゃなんない資料もあるんだけど、相談持ちかけられたからね。断れないよなぁ、おやじもすいぶん世話んなったしさ」
「大丈夫なの…?」
「わかんない。でもさ、俺が断れないの知ってて連絡とってくるんだから、あのおっさんもなかなかやるよね」

守はいつものように笑いながら、しきりに砂を掘っている。

「ま、俺がどうこうじゃなくて、要はおやじとのツナギ…」

掘った穴のうえに、漂流してきた細い枝を格子のように置いていく。
忘れ去られたビニールゴミを乗せ、さらさらと砂をかけた。

「完成~、落とし穴」
「危ないんじゃないの」

苦笑しながらカナは近くに寄った。
弧を描いた浜辺の反対側で、犬の鳴き声がした。

「あの犬、引っかからないかな~」

無邪気に笑う彼の、心のなかに潜む子どものような残酷さを感じとり、
返事をしなかった。

「冗談だよ、カナ」

わかってる。
守が家族以外に無条件で大切に可愛がるのが、犬だということを知っている。
二人でよく行くカフェには、店長の犬が鎖につながれていて、
カナたちが行くと嬉しそうに尻尾を振って大きな躰を起こす。

「太郎、元気だったか?」

そう云って舐められるままに太郎を抱きしめる彼の姿は、純粋に愛しかった。
そして、同時に太郎に嫉妬もした。
太郎を太郎として受け止め、本当に可愛がっているのと、
人間であるカナをペットのように可愛がることは、同じではない。
どちらが幸福なのかはわからない。
けれど、カナは守と同じ一人の人間であり、
好きな想いを言葉にして伝えることができるのだ。
自分が太郎だったらいいのにと、本気で想うことがあった。

「俺さ、実は妹がいるんだ」
「え、人恵ちゃんのことでしょ?」

初めてホテルへ行った夜、彼が云った。
人恵ちゃんは、友人とまでは呼べないものの、高校時代の同級生。
日に焼けた笑顔が印象的な、少しエキゾチックな美人だった。
実家は東京で、お金持ちだという話しか訊いたことがなく、
委員会が一緒ということくらいしか、接点はなかった。

「もう一人いるんだ。埜乃(のの)っていうんだけど、おふくろも人恵も知らなくて、おやじと俺の秘密」

いたずらが見つかった子供のような、やんちゃな眼をして笑った。
自分がどんな顔をしているのか、カナはわからなかった。

「いま四歳で、俺のガキの頃にそっくりなんだ」
「いつわかったの?」
「三年前かな…。びっくりしたよ、おまえの妹だっておやじに云われてさ。でも似てるから嘘だとは思わなかった。来週遊園地に連れてく約束したら、すっごい喜んで」

札幌に住んでいるその妹と母親である女性とは、週に一度は会っているのだと彼は云った。
東京にいる父親の代わりとして。その人が風邪で体調を崩せば、守が見舞いに行き、
埜乃ちゃんの面倒をみる。
その家を出て自分の部屋に帰るとき、埜乃ちゃんは
「どこ行くの?」

と必ず訊いてくる。それがたまらなく可哀そうだと、守は優しく笑った。

「どうして一緒に住まないのって云われて、仕事のせいにしちゃう。まるでおやじみたいだよね」
「ねえ、守は辛くないの?」
「考えたって仕方ないよ。妹であることに変わりはないし…。おふくろや人恵を思うと絶対に云えないけど」

守はいつもそうだった。
自分はどう感じるのか、自分が何を思っているのかを云わない。
自身のことは、二の次三の次、もしかすると一番最後になる。
抱えこんだ想いが、膨らんで膨らんで爆発したりしないのだろうか。
一体どこでバランスを取っているんだろうか。
でも本当のところ、カナには彼がバランスをとって生きているようには思えなかった。
少なくとも、彼の放つ眼の色は、緑色の藻を漂わせた冬の海を連想させた。
静かな水面のしたで、息をひそめてどろどろと溜まっているたくさんの海草の存在。
その濁った質感や恐ろしく静かな冬の日本海を見ていると、
カナは今にも足を掬われ、
躰に絡みつくべっとりとした得体の知れない生命体の奥深く沈められて、
もう二度と浮かび上がってこられないような不安に駆られる。

「カナは優しい、いい子だね」

頭を撫でながら、守がつぶやく。

「おいで…」

満たされて緩慢としていた肉体が、苦しさで泣き出しそうになる。

「大事にするからね」

あと少しで、叫び声が頭から飛び出しそうだった。
そうじゃないのに。大事にしたいのは守のほうなのに。
もっとわかりたい、もっと教えて、守のこと。
どうしたら守を安心して眠らせてあげられるの。
お願いだから…。
心臓もノドも突き破って、自分の悲鳴が訊こえる。
相変わらず守の手は、肩まで伸びたカナの髪をゆっくりと往復していた。

「どうした…ツライ?」
「違う…守は?」

まっすぐに優しく光っている彼の眼を、もう恐れずにじっと見つめた。

「大丈夫だけど…少し疲れたかな」

泣きそうなほどの微笑みを浮かべて、天井へ向き直る。

「どうして?」
「…俺には守らなきゃならない使命があるから」

自分の名前を冗談めかし、笑い声をたてた。空笑いが乾いた部屋に響き渡る。

「守ってもらえる人かもしれないのに」
「…カナいいこと云うね」

一瞬、守がとても哀しそうな苦しげな表情を浮かべたのを、カナは見逃さなかった。
でも、気づかないふりをした。
気づかないふりをしなければならなかった。
彼を守る人はカナではないのだと、守の静寂が物語っていた。

好きになればなるほど、彼が何を拒否し、何を求め、
どこを見ているのかが手にとるように感じられる。
人を好きになるというのは、そういうことだ。
だから、二人で過ごす最後の時間なのだということも、
カナには逢ったその夜、その瞬間にわかった。
そして抱き合ったとき、それは体温となって明確に伝わってきた。
一週間逢えずにいて、四六時中逢いたかったし、
彼のことだけを考え、感じ、その手に触れたくて、抱きしめられたくて、
心も躰もからからに乾いていた。

けれど、ずっと焦がれていた唇に自分の唇を重ねても、
カナの中にあいた穴は埋まらなかった。
あまりに哀しくて、無我夢中で抱き合った。
でもやっぱり、何も変わらなかった。これ以上一緒にいても、
互いの傷を癒せないことを悟ってしまっていた。

「好きだよ」

昨夜、初めて二人が口にした言葉が、最後の言葉になった。
こんなままで終わって、守を忘れられるはずがないことくらい、
カナにもわかっていた。
それでも、終わることしか、二人には残されていない気がした。

守の車を降りながら、
こうなることはもしかして彼の計算のうちだったかもしれないと、優しく感じた。
次第に慣らされてきた別れへの道順。選んだのも決めたのも、カナ自身だったけれど。

彼が本当はどんな人であろうと、カナはもう疲れていた。
守、私はもうあなたと逢わない。
逢わないことであなたを忘れることにしたから。
左足でアスファルトを蹴り、車体から完全に躰を離す。
扉の向こうの少し寂しげな笑顔におやすみを告げ、歩き出した。
倒れそうな躰をやっとの思いで支えながら。
いつか、守と過ごして感じた時間を、教えられたことを、
そして知った事実を言葉にできる日がくるんだろうか。

階段のてっぺんが、霞んでみえた。




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