ネオリアヤの言葉

ネオリアヤの言葉

薫のいた夏




カナミは、ホームで電車を待ちながら、自分の足元を見つめていた。
いまさっき日に焼けたばかりの、太陽と砂と、海の匂いのする足首。
黒い革のスリッポンとワンピースのあいだで揺れる、
少しだけ小麦色をした素足には、軽い疲労感が漂っていた。

薫と来たかったな。

稲村ヶ崎から江ノ電で鎌倉に着いてから、
カナミは池袋行きの電車を十五分ほど待っている。
薫は、カナミの別れた恋人だった。
去年の夏に逢えなくなってから、もうすぐ十ヶ月になろうとしている。
嫌いになって別れたわけでもなく、カナミ自身に他に好きな人ができたのでもなかった。
ただ、何とは知れず逢えなくなって、それがいつの間にか終わりだったのだと気づいた。
秋から冬になる頃、彼との関係が終わっていたことを知った。
あの出逢いから一年近く。
それなのに、まだなんとなく心は、ふとした時に薫を探している。

昨日から、江ノ島方面に出かけることをカナミは決めていた。
昨夜の天気予報は予想最高気温を三十二度と告げ、現に今年最初の真夏日になった。
頭が冴えて全然といっていいほどに眠れず、結局五時半に起きて、
いつも通りにストレッチ体操をしてから、ゆっくりと支度をし、
水着の上に巻きワンピースを羽織り、七時には家を出た。
まるで遠足を待ちわびていた小学生のようだと自分でおかしかった。
冷房の効いた電車のなかは、土曜日の七時過ぎということも手伝って、
出勤スーツに身を包んだ女性やサラリーマンが三分の一ほど乗り合わせている。
ほかの乗客は、おそらくカナミと同じく鎌倉か横浜へ向かうだろう格好をしていた。

持ってきた小説の本を開きながら、カナミは、麦わら帽子の隙間から、
外の空を見上げた。
紫外線避けの薄いブルーを帯びた電車のガラスからは、
少し曇ったような雲と空しか確認できなかった。
それでも、なんとはなしに快晴になるような気がした。
天気予報を信じたかった。

鎌倉で江ノ電に乗り換える。
この時間、江ノ電はまだ二両編成なので、ホームの一番前に並ぶと車両が足りなくて、
改札口方向に戻ることになる。
カナミは一番後ろ、つまり改札に近い位置に立って、海水浴に行く親子の後ろに並んだ。
電車を降りたあとの開放感を待てず、高揚を隠し切れない人々の眼には、
すでに江ノ島の風景が見ているようだった。
おかしいわけでもないのに笑いが口元にあふれ、
眺めているだけでカナミの心を優しくさせる。

半ズボンの下にまっすぐに伸びる、細く健康的な、黒く日焼けをした少年の脚。
その傍で大きなレジャーバッグを抱えた、サンダル姿の母親。
子供たちと、海だけではなく、
休みになればスポーツもキャンプも一緒に真っ黒になって遊んでくれそうな
お母さんだった。
踵だけが白くささくれている。

「ちゃんと手摺りにつかまってなさい。転んで人に迷惑かけるでしょ」

電車のなか、母親の声に、
少年は右手と左手を重ねるようにして銀色の手摺りを握り締める。
両脚を、自分の肩幅よりも大きく広げて。
反対側の席に坐っている青年は、膝に乗せていた深緑色のリュックから、
1.8㍑のミネラルウォーターを取り出し、当然のようにして飲み始めた。
これから遊びに行くのか、それとも藤沢あたりの実家に帰るのか、
見当もつかない風貌で、一人じっと前だけを見つめて水を飲んでいる。
カナミの不思議そうな視線に気づき、彼は、坊主頭の左耳あたりを掻いた。

窓を開けて、手を伸ばせば届きそうな距離で通り過ぎる家々や木々の小枝。
カナミは小さな鞄を小脇に抱え、
つり革につかまった左手から繋がっている白い腕を眺めた。
握ったままのつり革を裏返し、手の甲の色を比べる。
どうみても別人の色だった。白くひんやりとしていそうな二の腕の内側。
骨と皮膚がほどよくくっついた小麦色した手に、ピンクシルバーのリングが際立って、
手の甲だけが勝手に夏を満喫している。
腕の内側と足の甲は同じ色をしていた。
足の甲だけじゃなくて、その上に続く膝も太ももも、胸も。
肩から手の甲にかけての腕の「外側」と顔以外は、全部、恐ろしく真っ白なのだ。
カナミはそれが嫌で、夏になると、決まって海へ日焼けをしに行く。
江ノ島の東浜に並ぶ石段に坐って、日焼けクリームを塗る。
そうして十一時くらいから二時過ぎまで本を読んでいると、
次の日には適当にいい色の兆候ができる。
肌が弱いため、翌日は赤くなるのだけれど、
それはしばらくすると小麦色に落ち着いてくる。
そうしてひと夏は夏色で過ごすことができる。
でも冬になる頃にはまたもとの白い色に戻る。
赤くなって白くもどるのは、皮膚癌になる恐れがあるから日焼けには注意しなさいと、
親がお医者さんの友人から云われたことがある。
けれど、いつなるとも知れない皮膚癌に怯えるよりも、
手の色に全身の色を合わせて、ファッションを楽しむほうが、
カナミには大切なことだった。

カナミの肩から手の甲にかけての色は、ほどよく小麦色をしていて、
カナミ自身、自分の躰のなかで一番好きな色だった。
イタリアやスペインの女性のように、太陽を賛美するような明るい小麦色をして、
大好きなシンプルな服をかっこよく着こなしたいのだ。
ゴールドを嫌味なく身につけるのも、肌の色次第だと思っている。
黒や白も、どんな色の服だって、黒い髪だって…、
とにかく全身小麦色になりたくて、カナミは去年も江ノ電に乗った。

あの日、本当は江ノ島で降りる予定だった。
けれど、カナミの前に坐っていた、
白いコットンのふわふわしたスカートに黒いノースリーブのタンクトップを合わせた、
ベリーショートの女性が、稲村ヶ崎で席を立った。
小麦色した端整な顔立ちに、美しい眉、
均整のとれた腕やふくらはぎから足首にかけての滑らかなカーヴ。
眼が釘付けになって、まるで追いかけるようにして、カナミも稲村ヶ崎で降りた。
駅を出、改札で切符を駅員に手渡すと、彼女は海岸とは反対の坂をどんどん歩いて行った。
小さな量販店を過ぎ、降りてくる車を縫うようにして、上っていく。
カナミはぼんやりとその後姿を見つめ、踏み切りの遮断機の前で突っ立っていた。
あんな子が近くにいたら、勉強が手につかなくて大変だろうな…。
たぶん同じくらいの年齢だろうけれど、カナミはまるで男子学生のような感情を抱いた。

勇気がなくて告白しそびれた後の男の子のように、脱力とあきらめで肩を落としながら、
カナミは彼女とは反対側の海に向かって細い道を歩き始めた。
コンビニで水とアップルパイを買った。

店を出てすぐのわき道に入ると、すぐに眼の前に広い海が広がっていた。
江ノ島方面へ向かう車道には、延々と車が続いていて、
信号を使わなくても優に渡ることができた。
石段を下ると、水を含んだ黒い砂と、
乾き始めた白い砂が流線を描くように海へと向かっている。
サーファー、と呼ぶには少し早すぎるレベルの人たちが、
少し離れたところで練習をしている。
波に放ったボードの「パンッ」という音が響いて、顔を上げると、
真っ黒になった影が小さな波に躰を乗せている。
一緒に流れてきた海草が、浜辺に寄せては返す。

そうして二時過ぎまで読書をして、たっぷり太陽を浴びて立ち上がったとき、
とてもお腹がすいていることにカナミは気づいた。
黙って読書をして坐っていただけではあったけれど、陽射しと真夏の気温で、
躰は疲れ、頭はほとんどぼうっとしていた。
車道脇のレストランには、カップルの顔が並んでいて、
待ってもすぐには席が空きそうにはなかった。とぼとぼと、
日に焼けて薄く小麦色をした足首を眺めながら、自己満足の疲労感を漂わせて歩く。
靴のなかで、濡れた砂がつま先に集まっていく。
足の裏や爪のあいだに砂がはりつくのを感じながら歩いた。
薫と出逢ったのは、その途中だった。

「一人ですか?」

後ろから声をかけてきた。
振り返ると、日焼けをして浅黒い、背のそんなに高くない男性が立っていた。
清潔そうな白い開襟シャツに、黒い膝丈の半ズボンをはいた、
たぶん四十代になるかならないかの人だった。ニコニコしている。

「…」

カナミは、声に出さずに頷いてから、前に向き直って歩き始めた。
ナンパを巧くかわせるほどの元気は残っていなかった。
めんどくさいな…と思いながら、冷たい一瞥をくれた。

「あ、ちょっと待ってください。楠さんですよね?」
「?」

数秒の遅れを伴って振り返る。
あてずっぽうに云って当たる苗字ではない。
そんなことぐらいは、いくら疲れていてもわかる。

「…ですよね?」

男性はやっぱりニコニコしながらカナミの眼を覗き込んだ。

「そうですけど…」

カナミの方に見覚えはなかった。
嫌いなタイプでもないけれど、記憶に残るほど好みのタイプでも、洒落た男性でもない。
男性が女性を眺める「品定め」のように、上から下まで見つめてから、
もう一度眼を合わせる。
やっぱり覚えはなかった。

「あの…ごめんなさい。どこかで…?」
「いつだったか、僕のいる事務所に書類を取りにいらしたんですよ。RKBにお勤めですよね? 松野さんと一緒にいらして、あなたは書類だけ持って先に帰ってしまったけど」

RKB。松野さん。
確かにカナミはそこの音楽イベント担当だし、松野さんは先輩だ。
でも、この人は…。
自分が覚えていることを忘れないうちに、そしてカナミに横やりを入れられないように、
彼はとても早口に一気に喋った。
その口元を見ながら、カナミは記憶を辿ろうとしたけれど、
頭のなかまですっかり日に焼けてしまった思考回路では、
朝の電車を思い出すので精一杯だった。

「無理もないです。だって僕と挨拶してないし。なんだっけな…えっと、あ、そうか。北海道の岩見沢でやる夏の音楽イベントで、解散したグループに一晩だけ再結成してコンサートをやって欲しいっていう企画持ってきたんですよ、確か」

思い出した。
そうだ。去年の冬のはじめ、
岩見沢市と北海道が主催の夏の恒例音楽祭でRKBが出したプレゼンは、
今の二十代後半から三十代が十年ほど前に熱中した大所帯グループバンドの再結成案だった。
アイドルに近い存在ではあったけれど、時代を読み、一世を風靡したバンドで、
カナミ自身も生で聴いてみたいと思っていた。
けれど、この人は事務所の人? 
それにしては自由で若い空気が漂っている。
カナミの知っている音楽事務所の人間は、よくも悪くももっと神経質そうな、
それでいてどこか軽薄そうな感じだからだ。

でも、眼の前で笑っている人は、とても爽やかで眼尻の皺なんか、
すごく人なつこそうで、どちらかというとプレイヤーやミュージシャンの部類に入る。

「僕は松野さんとずっと親しくしてるんだけど、RKBが提案してくれたグループの、バックバンドやスタジオミュージシャンをしてた、ライアン・薫です」

カナミは一瞬、自分の躰が身構えるのを感じた。
そしてそれを隠すほどの礼儀も失っていた。
ぼんやりしていた気分が、すっと仕事モードに戻る。

「ライアン・薫さん? ごめんなさい…私、名前は知っていたんですけど、お顔まで一致してなくて…」
「全然いいですよ。でも、僕のファンもたくさんいるんですよ」

彼はそう云って、ますます笑った。
ライアン・薫。
パーカッショニストとして有名な人物で、
例のグループではデビュー以来パーカッションを勤め、
コンサートで全国を廻り、アルバムを制作すればスタッフに名を連ねる。
三十代後半の、グループメンバーと同じくらいの年齢層には彼のファンも多い。
彼の家は稲村ヶ崎にあり、奥さんと一緒にレストランを経営しているのだそうだ。
主に奥さんが切り盛りをし、彼は音楽活動の合間を縫って店に出ている。

「近いんです。いかがですか?」

いや~、感激だな~と云いながら彼はカナミをエスコートして歩き始める。
最初にカナミを見たとき、「この人だ」と思って、
松野さんに名前を確認したのだという。
何がこの人だ、なのかはわからないのだけど、とにかく挨拶して事務所に入ってきてから、
出て行くまでに発していたパワーが輝いていたし、オーラが素晴らしかった、
らしい。

カナミに対する彼のテンションの高さに押されるようにして、
金曜の夕方から土曜にかけて、毎週、一緒に過ごすようになった。
場所はいつもカナミの部屋。

金曜の夜、薫の仲間が経営する原宿の店で、大勢で夕食をとる。
ミュージシャンや大手の音楽会社のスタッフが集まり、
アルコールが廻ると決まって店内でセッションが始まった。
若い頃はきっと手のつけられないほどに遊んだであろうミュージシャン達が、
いい年の取り方をしていることがよくわかる。
様々なことを共に経験し、笑顔も言葉も、親しみのこもった優しい色をしていた。
いち時期、ブラウン管を賑わせた顔や、
彼らがいまプロデュースをして育てている若手など、
いつも十人以上の人間で店は溢れていた。
彼らに会うためにやってくるファンもかなりいる。
人気絶頂の頃には、どんなにしても会えなかった雲の上の彼らに、今ここでならば、
こうして気軽に同席し、言葉を交わすことができるのだ。
もちろん、ここにいるミュージシャンたちは、今も活動している。
音楽番組にこそ出てはこないけれど、一緒に年齢を重ねてきた固定ファンがいて、
クラブで突撃ライブをすれば若い人も彼らのヒット曲を聴いて一気に盛り上がる。
いい時代に音楽をやっているとカナミは感じた。
何の話をしていても、いつのまにか音楽につながっていく。
カナミのわからない話も多かったけれど、彼らの楽しそうな表情を見ていると、
それだけで嬉しくなった。

薫は、カナミの存在を仲間に隠さなかった。
そして彼らもまた、とても自然にカナミを受け入れた。

「楠カナミさん。俺の彼女だから手出さないでね」
「ライアンの恋人に手を出すほど、肝の据わったヤツいないよ」
「仕事してるの? どんな仕事?」
「ライアンと一緒じゃなくても、いつでもこの店においでよ。誰か彼かいるからさ」

たぶんこれまでも、ずっと、
彼らはそうしていくつもの共犯を互いに分け合ってきたのだろう。
初め、カナミは内心たじろいだ。
結婚している男性と関係を持つのは、これが初めてだったし、
何しろ彼は、下世話な表現をすると、有名なプレイヤーである。
彼らのレベルまでいくと、異性関係や交友も大っぴらになるのだろうかと感じた。
お祭り好きな音楽人間が、底抜けに明るく集う場所、そんな店。
明け方近くまでひとしきり騒いで、三々五々家路を辿る。
そして薫とカナミは一緒に帰った。

小さなベランダに並んで、夜の湿度を残した明け方を見つめながら煙草を吸う。
黙って、アルコールと音楽が大音量で流れている頭をそれぞれに抱えながら。
まるで海の家で、早起きした気分になる。
薫の本当の年齢は四十七だった。
好きなことを続けていると、こうも若いものかとカナミはびっくりした。
始発の電車の音が遠くで訊こえる。

「カナミは自分で意識してないかもしれないけど、凄いエネルギー持ってるよ」
「どう凄いの?」

カナミは驚いて訊ねた。

「…俺のカミさんね、△△っていうメーカーの社長の娘なの」
「へえ」

内心、だからあんな場所で店を開いて、音楽を続けながら、
遊びも生活もできるのかな…と思った。
でもすぐに打ち消す。
けれど、やっぱりそのメーカー名は、カナミのなかで意味もなく木霊し続けた。
世界にその名を馳せるプロダクトメーカーだ。

「社長の秘書の女性がね、カナミにとっても似てるんだ。凄く綺麗な美人でね、頭もきれて、結婚してもずっと仕事を続けてるんだけどさ。控え目で、それでいて社長を意のままに動かしてしまう。先を読む勘も優れていて、言動がしっかりしてるから、社長の信頼も得て」
「凄いね」
「人をサポートする仕事って、ものすごいパワーが必要なんだよ、何か事を起こそうする人間自体、抑えられないエネルギーがあるのに、その人間をコントロールするんだから、冷静な判断力と、その人に負けないだけの発想とかも…。それに信頼されるだけの人格もね」

薫は、いつもまともなしっかりした話をする。

「俺さ、カナミにそういう女性になってもらいたいんだ。なれると思ってるんだけどね」

ミュージシャンとして、
自分をサポートしてくれる人に対する希望が含まれているのはわかるけれど、
それにしても、結婚している人が彼女に話す内容とは趣きが違う気がした。

あまり感情的な会話をしない。
セックスだけを求めるわけでもない。
夕食後、ずっとカナミの部屋にいて、何もせずに帰ることもあった。
話をして、散歩をして、料理を作りあったり、笑ったり。
セックスはしなくても逢えば必ず、カナミを褒めたり、助言をした。

「あのさ、俺の恋人になってくれないかな」

となんの脈絡もなく云った日も、キスもセックスもしなかった。
仕事の話、これまでの恋愛のこと、生活のこと、
お互いの考え方をいろいろ話していた途中だった。
カナミの失敗談に、ひとしきり二人で大笑いしたあと、突然に薫が云った。

「?」

二人の関係に、全く予想していなかった提案ではなかったけれど、
そのタイミングとは違った。
笑って涙を目じりに浮かべたままのカナミに、真顔で薫は返事を待っていた。

「恋人って、…セックスするってこと?」
「それだけじゃないよ」 

薫は苦笑しながらビールを飲んだ。
金曜の夜、白金にある旧い木造民家を改造した、洒落た隠れ家風の店の二階。
ここも薫の行きつけの店だ。
手を床つきながら前かがみで昇るような急な階段で、床がギシギシと鳴る。
薄暗い店内には、カップルが数組、ろうそくやランプを挟んで言葉を交わしている。

「恋人ってどういう意味?」
「いや?」
「薫のこと好きだけど、恋人になるって、これ以上どういうことかなって」
「カナミの時間と心を、ちょっとだけ束縛したいってこと」

カナミは少し笑った。なんて正直な人なんだろうと思った。

「金曜の夕方から土曜日まで一緒に過ごしたい」

日曜は店に出るし、平日は打ち合わせやライブ、レコーディングがあるから。
 薫は、その時間だけを自分のために空けて欲しいし、
カナミと一緒にいたいのだと云う。

「それ以外は、これまで通りカナミの生活を過ごして構わないから。どう?」
「いいよって云うのも変だけど…いいよ。でも私、好きな人のことや恋人のこと、隠してることできないけど、大丈夫?」
「それはオッケー。俺も黙ってないから、カナミのほうを心配してたんだ。でもよかった。俺さ、隠せないから云っちゃうんだよね、先に。あ、でもカミさんには云わないけど」

奥さんはとてもやきもち焼きで、
ちょっとでも他の女性の存在が漂うと大変なんだそう。
でもそれほど薫のことを好きだったら、たとえ言葉にしなくても、
そういう女性の存在は感じてしまうのじゃないだろうか。
それとも、
わからないようにして自分を大切に扱ってくれていることを感じさせてくれているあいだは、
目をつぶっているのかな。
そうだとしたら、とても賢い女性なんだろう。
まあ△△の社長令嬢だったら、それもありか、な、とカナミは感じていた。

土曜の夕方には、曇った空をベランダから見上げ、ぼんやりとビールを片手に坐る。
電柱の蛍光灯の明かりが、曇った空の下で鮮やかに彩りを放ち、
自分たちの存在がだんだんと薄くなっていく。
レコーディングを終え、
MDからCDに落としたばかりの曲を外に聴こえるくらいのボリュームで流し、
一昨日作ったカレーを食べる。

カナミは土曜に仕事を入れないようになった。
恋人の存在を隠しておけない性格だからとは云っても、
いくらなんでもそれを理由に仕事を断るほど常識は欠落していない。
これまで、都合するのをめんどくさがって土曜日に移していた用事や事務処理を、
平日に片付けるようにした。
イベントがあるときは、薫を会場に連れ、時間を共有する。

九月の第一週目に夏休みをとって、カナミは江ノ島の民宿に滞在した。
来週には夏の営業を終える宿だ。薫の店も家も近いので、黙って秘密にして泊まった。
それに薫は奥さんと一緒に旅行に行っていた。
明け方を過ぎた五時前、民宿の部屋の軒先に坐って、一人ぼんやりと煙草を吸った。
足の指のあいだが白くて、カナミは十分に幸せだった。
手の指でそっと両足の指のあいだを確認する。
冬から初夏にかけてずっといやだった白さが残っている。
隠れた場所以外、全てが手の甲と同じ小麦色になり、
ひとりでこっそりまだ夏を楽しんでいる気持ちがあった。
日焼けと一緒に乾いた砂の感触が、すねのあたりに残っている。
寒くも、暑くもない初秋の朝。
それでも、日中になればまだまだ暑い日が続く本州の九月。
毎日、東浜の浜辺で読書をする。持ち込んだ文庫本は全部で十冊。
一日一冊、ゆっくりと何度も読み返し、気に入った箇所には線を引いたり、
ページに折り目をつけたりしながら、自分だけに用意した時間を過ごした。

宿のおばあさんが作ってくれるお番茶を魔法瓶に入れて、暑い陽射しの下、
熱々のお茶を飲む。
汗をかきながら。
ひと夏、着倒した水着のあとは、その境目がくっきりとしていた。
ホルターネックのワンピースで、サイドから背中にかけて肌が露出している。
背中には手が届かないので、宿を出る前に、
宿の幸恵さんにサンオイルを毎朝塗ってもらう。
読書とお茶とそれが唯一の日課だった。

「今日も暑くなりそうだね」

床の軋む音にゆっくりと顔を向けた。

「カナミちゃん、今夜何が食べたい?」

幸恵さんは、渡廊下でぼんやりと朝の煙草を吸っていたカナミに訊いた。
その手には、いっぱいの野菜が詰まった籐の籠が抱えられていた。
人参、じゃがいも、きゅうりやピーマン、キャベツ、トマト。
近くの八百屋さんで仕入れてきたばかりの新鮮な野菜たち。
その鮮やかな色に、カナミは急に食欲が刺激された。

「今日、何人泊まってるんですか?」

反射的に訊いた。

「五人だよ。カナミちゃんをいれてね」
「じゃあ全部で…八人か」

民宿のおばあちゃん、娘の幸恵さん、旦那さん。

「私がカレー作ってもいいですか?」
「え、カナミちゃんが? どうしたのよ急に」
「私、カレー大好きなんです。それに得意なんですよ」

煙にまかれて薄く曇った視界から、幸恵さんの驚いた顔を見上げた。
日に焼けて、顔の皺のなかにまで太陽が沁みている。とても幸せそうな、
ゆったりした笑顔をする人だった。

「いいでしょ? おかわりできるくらいに作るから」

台所にある大きな手付き鍋を想像して云った。
泊り客の多くは男性で、みんな昼間のサーフィンに疲れ、夕食はかなりの量を食べる。
カナミも食欲はあるほうだが、やっぱり男性には叶わないと、
毎日唖然としながら彼らの見事な食べっぷりを眺めていた。
用意しなくてはらないカレーの量を想像する。

「そう? じゃ任せようかな。何か揃えておく食材ある?」
「その野菜使っていいですか?」
「もちろん」
「このへんにゴーヤーって売ってます?」
「ゴーヤー?…そうだねえ…稲村ヶ崎の八百屋さんにはいつも結構な量があるけど」
「よかった」

早々と読書を終え、カナミはその日の二時過ぎには稲村ヶ崎にいた。
電車を降り、駅前の八百屋でゴーヤーを五本買った。
緑色が鮮やかな、突起部分も新鮮なものを選んだ。
ゴーヤー入りカレーは、カナミの特製で、
夏になると決まってスタミナ作りのために食べていた。
煮込むと苦味が抜けるゴーヤーは、
カレーに入れると、ルーが辛さと苦味で複雑な味になる。
でも、熱々の状態だと、苦さが相乗効果を呼んで、
あまり辛くしなくても熱くて辛いカレーになる。

日に焼けて砂っぽい足の裏に、台所のスリッパが涼しい。
みんなおいしいと云って、あっという間に鍋が空っぽになってしまった。
その日の夜、薫にメールを送った。ゴーヤー入りカレーを作ったことを報告した。
そのとき初めて、江ノ島の民宿にいることを告げた。
宿泊をしてから四日目の夜のこと。
返事は期待していなかったけれど、やっぱり来なかった。
それでも寂しくはなかった。

カナミと薫、それぞれの短い夏休みが終わったあと、
薫の店に仲間が集まって賑やかな夏締めの会をした。
それぞれにますます日に焼けた笑顔を披露し、歌ったり踊ったりしながら、
一晩中過ごした。

「カナミちゃん、江ノ島に泊まったんだって?」

奥さんの慶子さんがカナミの側に来た。
マリンブルーの香りが漂う。
その匂いに郷愁が誘われるけれど、カナミは彼女と眼を合わせても、
動揺することはなかった。
何故なのか自分でもわからない。
神経が太いのか、図々しいのか…。
みんなにも凄いよ、と影で云われる。

「薫ったらね、ホテルに泊まってるのに、突然カレーなんか作ってくれたのよ」

慶子さんはおかしそうに、ピーチフィズを飲んだ。
可愛いい容貌に似合った飲み物を飲んでいる。
日焼けした腕が、フィズと同じ鮮やかなピンク色のワンピースの袖から伸びている。

「カレーですか?」
「そうなの。それもゴーヤー入り」

まるで告げ口するみたいに、カナミの耳元に唇を寄せて。
周りは音楽が溢れている。カナミは初めて言葉が出てこなかった。

「沖縄に行ったわけでもないのにね。ゴーヤーなんてなかなか売ってなくて、探し回ったんだけど。ホテルに無理云って、食材から一本だけもらったの。苦いんだか辛いんか熱いんだからわからなくって、でもおいしかった」

彼女の笑顔は、薫の突飛な提案を思い出して、楽しんでいるようだった。
カナミは、それが自分のせいだとは云えなかった。
確信もなかったけれど、たぶん自分が送ったメールのせいで、薫がゴーヤー入りカレーを作っただろうことを感じた。
不思議な共犯意識が芽生えて、意味が全然違うのだけど、慶子さんと一緒に笑った。
そしてちょっぴり悲しくなった。

薫、料理作るんだ。

初めて知った。
週末にカナミの家に来るようになってひと月半。
一度だって料理を作れる話をしたことはなかった、別に関心もなかったし、
特に訊いたこともなかった、でも、知らなかったことが寂しい気がした。
全部を知りたいんじゃないのに。彼女と一緒に薫を見て笑いながら、
カナミの心は、太陽に焼かれた砂で甕に漬け込まれるようにひりひりと痛んだ。

カナミの時間と心をちょっとだけ束縛したい。

薫の言葉は、こんなときに限って妙に現実的な意味を伴う。
なんて意地悪なんだろう。
薫はどんな気持ちでカレーを作ったんだろう。
ホテルの狭いキッチンで、一人で立ったのだろうか。
ゴーヤーの中綿をスプーンで取りながら、何を考えていたんだろう。
左足に体重をかけて立ちながら野菜を切ったんだろうか。
中辛のルーだった? それとも辛口にした? 
ちゃんとゴーヤーもじゃがいもと一緒に、最初から煮込んだだろうか。
味見をしながら、何を思ったの。

カナミは、勝手に複雑な心を抱えてしまった。
何も特別な料理じゃないし、
カナミ以外の人によってさっさと考案されていた食事なのかもしれない。
薫も、前に作ったことがあったかもしれない。
それでも、心のどこかで、
自分が作ったから薫もゴーヤー入りカレーを作ったと思いたかった。
そう信じて、幸せな気持ちでいたかった。
こっそりと抱えて、たまに思い出して、一人でいても幸せになることを許されたかった。

酔いの廻った頭で、カナミはそんなことを考えていた。
誰に遠慮することなく、思考のなかだけで、カナミは幸せと寂しさを噛みしめていた。
悲しさも愛しさも、冷静なままで感じる自分の性格を、カナミは嫌いではなかった。

時々、仕事を終えて帰宅した部屋で、寂しさに叫びだしたくなることもあった。
でもそうできなかった。
鉄筋のマンションだけれど、隣の人が訊いたらビックリするかな、とか、
声を出したくらいでスッキリする感情ならば大したことない、
ともう一人の自分が云っている。
少しずつ薫の占める時間と心が増えていって、
一人でいるときも薫のことを想うようになった。

レコーディングで、楽しそうに演奏しているまだ見ぬ姿を想像したり、
誰かカナミとは別の女性と一緒に食事をしている光景。
慶子さんと店に出ているところ。
薫のキスの仕方。厚い掌。壊れ物を扱うようにカナミを抱くときの、
優しくて残酷な眼。
自分といないときの薫は一体どんななんだろう。
一緒にいない時間のほうが、断然多いのに、自分といるときが中心に廻っている。
それが悔しくて、自分でも笑ってしまう。
ちょっと前まで、薫のいない生活が全てだったのに、
今は薫との時間が気持ちの半分以上を占めている。

薫と逢ってから、カナミは一人でいてもお酒を飲むようになった。
薫の好きな缶ビールを買って、冷蔵庫にいつも入れておく。
部屋でインターネットをしながら。
料理を作りながら。
ベランダで洗濯物を取り込みながら、一日一回必ずと云っていいほど、ビールを飲んだ。

そうすると、薫という存在を自分のなかにはっきりと描くことができた。
薫を想う自分の気持ちも、素直に感じることができた。
逢えなくて寂しいということも、逢っているときに自分が感じている気持ちも、
想いを躊躇して抑えることなしに、溢れる想いをそのままに言葉にして呟くことができた。
思い込みに違いないことまでも、カナミは日記のように書き綴ることができるようになった。

こんなこと期待したって、あとで違って傷つくのは自分なのに。
そういう感情をこれまでは殺して生きてきた。
それが、薫で出逢ってから、余計な心配をしなくなった。
色々に考えたって、結局はなるようにしかならない。
それならば、自分が幸せになれることを素直に生きようと、
思えるようになってきたのだ。

感情の起伏が激しくなって、幸せだった気持ちが突然に悲しくなって泣けてきたり、
部屋のなかをウロウロ歩き続けたりもした。
言葉にできない感情を探すように、手当たり次第本を捲ったり、
ベッドに躰を預けて天井を何時間も見つめたり。
一人でいる部屋には、自分以外、向き合う対象がなくて、
カナミはそのことを初めて意識した。
何年もこの部屋に住んできたけれど、
これまでほとんど独り暮らしだということを考えたことがなかった。
それほど仕事は面白く、ただ寝に帰るだけの場所だった。
誰かを招き入れたり、恋人を連れて入ったこともない。

自分の部屋に入り浸る習慣を、恋人とのあいだに置きたくなかったので、
どんなに頼まれても断ってきた。
自分が唯一ひとりで過ごす時間のための場所に、一番身近な人を入れることは、
これまでのカナミにとって勇気のいることだった。
共有の場所は、誰の部屋でもなくて、互いの心のなかだけでいいと信じていた。
一度許された場所は、その後だんだんと当たり前の、
散漫とした空間に成り果てる。
それを知っていた。
家庭であればいいけれど、恋人という関係において、
この空間を家庭に代えるつもりはなかった。
以前、どうしてもと云われて相手の部屋を訪れたときも、
どこに坐っていいのかわからず、とても落ちつかなかったことがあった。
部屋が汚れていても掃除はしなかった。
それは自分の了見ではないと想っていたから。それは今も変わらない。

けれど、薫と出逢ってから。
薫と二人っきりで過ごす時間と場所が、自分の部屋以外ほかにないと感じてから、
少しずつカナミの気持ちは変わってきた。
何を恐れて、何が変わることを恐れてこれまで拒んできたのか、考えるようになった。
それは単に、
自分が相手から影響を受けて変わっていく可能性を受け入れたくない恋だっただけ、
というしかなかった。
恋によって自分のベースを変えたくないことに、今も昔も変わりはない。
が、恋のかたちが変わってきて、カナミ自身が将来変わっていくことへの恐れよりも、
今どうしたいのかを大切に向き合えるようになった。

「私ね、自分の気持ちをあんまり云えなかったんだ」
「ふーん」

漫画の噴出しのように薫が云った。

「それなのに負けず嫌いだから、何を想っているのかわからないってよく云われた」
「でも人って、そんなに言葉にできないんじゃない? それでいいと思うよ。云えるようになったら言葉にすればいいんだから」

薫の言葉は優しかった。

「性格だって、負けず嫌いなのは大切だよ」
「でも中途半端なんだ、これが」
「本当に負けず嫌いな女性を何人も知ってるけど、カナミくらいでいいと思うよ」

その言葉にだけは、ちょっと複雑な気持ちになった。
本当にひどく負けず嫌いなくらいじゃないと、
自分の夢をかなえることなどできない気がするからだ。
この性格が男性であれば叶えることもできるかもしれない。
けれど自分が女性である限り、今の世の中で、
女性が中途半端な想いで夢を実現させることはとても難しい。
厭というほど、そういう現実を見てきた。

冷凍庫から出したパンをビニール袋に入れたまま自然解凍させた。
口に含むとき、鼻にビニール袋の匂いがしみる。
それが嫌だったけれど、自分が生活していることを妙に実感できて、
薫と出逢ってから、カナミの習慣になっていることだった。

土曜の明け方。
珍しく昨日は店に寄らずまっすぐにカナミの部屋に向かった。
真夏日が毎日更新されるほど、暑い週だった。
九月も真ん中に差し掛かる頃。
 ベッドに腰掛けて、壁に背を預けたままの薫。
カナミはキッチンに立って、コーヒーを炒れていた。

「カナミ」
「?」

今想えば、どうしてあのとき、薫の提案に疑問を感じなかったんだろうと思う。
普段ならばあり得ない言葉だったのに。

「セックスしようか」
「何それ」

カナミは、カップを押さえながら笑った。薫も笑いながら、
立ち上がってカナミを後ろから抱きしめるように、腕をクロスした。
涼しい朝の風が、レースのカーテンのあいだからそよいでくる。
透明な風は、二人を包むように優しく流れ、
窓際においたスパニッシュ・モスの香りを部屋中に満たした。
それから、そっと静かに抱き合った。

翌週はレコーディングが入ったと電話連絡が入った。
連絡が取れなくなったのは、そのちょっと後からだった。
電話をしても出ない。着信はあるはずなのに、かけ直してもこない。
初めのうちは、いろいろと自分に云い訊かせてだまし騙しの生活をしていた、

けれど、段々と声を訊けない毎日が怖くなっていく。
店に行っても薫はいない。
カナミがなぜその店に行くのかを、店の仲間は知っているはずなのに、
何も云わない。
無駄に優しい言葉をかけまいとしているのか、それとも、
これまでもよくあった『別離』の儀式なのか。

泣いていいのかどうかさえ、カナミにはわからなかった。
終わったと心のどこかで感じているのに、サヨナラさえもなく、
この想いをどう終わらせていいのかがわからない。
一人になることを避け、仕事に熱中した。友達や同僚と仕事のあとも過ごし、
薫と出逢う前以上に、部屋はただ寝に帰るだけの場所に変わった。
心のなかで、薫のことを想うときに過去形が出てきたとき初めて、
終わった、過ぎた想い出なのだと知った。

そして、初めて泣いた。
凄く素敵な想い出があったわけじゃなかった。
ドラマチックなデートをしたことも、プレゼントをもらったこともない。
綺麗な言葉をくれたこともない。
いつも現実が目の前にあって、毎日が、生きていることの証のような生活だった。
出逢ったあと二人で海に行ったこともなかった。
週末、店に行ってみんなで騒いで歌って、カナミの静かな部屋で朝を迎える。
その繰り返しのなかで、薫がいつのまにか、カナミの生活のなかに入り込んでいた。

呆気無い終わりと云い切るには、あまりにも自然な日々だった。
ただひとつ、出逢ってしまったということだけが、いつか来る別れを予期しえた。
出逢いと別れだけが自然の定理に則って、当然の顔をしてやってきた。約束どおり。

今年も、稲村ヶ崎はまだ人影も少ない。
小さな波にボードを走らせ、バランスをとる姿が見える。
右手に見える江ノ島は、薄い霧を被っている。
相変わらず、車道は混んでいて、カナミは走り抜けるようにして砂浜へと下る。
少しだけ、江ノ島寄りに坐り、カナミは本を取り出した。
犬を散歩させている人、親子で水遊びをしに来た姿、そして流れ着いた海藻。
毎年、何も変わらない光景のなかに、カナミはゆっくりと躰を休める。
何も変わらない毎日の中に、影だけを残して消えた薫。
最後にもう一度許されるならば、逢ってさよならを云いたい。
自分のために。

薫。
もう一度だけ、逢いたいよ。




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