ネオリアヤの言葉

ネオリアヤの言葉

卓哉




「エリと恋愛してたいんだ、俺」
縁せきに車体を寄せて、ブレーキをゆっくり踏む。
そして、私は助手席に坐る卓哉の顔を見つめた。
美術館の壁にかけられた、ゴッホの筆跡をひとつひとつ確認するように、
彼の両の眼を覗き込む。
たぶん、私の眼は、か弱い動物を見る時の、
半ば感情が欠落した色を放っているのだろう。
彼は、請うような表情をしている。

「駄目かな」
「駄目かなって、卓哉…。何考えてるの?」
「エリのことやっぱり好きだからさ。恋愛してつき合っていたいんだよな」

戸惑いや躊躇といった響きのない声で、卓哉は自分自身に云い含める。

「卓哉の云う恋愛は、両想いの二人じゃないと成立しないと思うけど…どう?」
「…エリ、俺のこと好きじゃないの?」

思わず、ハンドルを握り直してしまった。
一直線にのびた国道の先には、太陽が沈みかけている。
溜め息を我慢して、私はハンドルの上で重ねた手の甲に、顔を乗せた。
自分の子どもと、歳が五つと違わない相手に向かって云う言葉だろうか。
がっかりした表情を、私は隠す寛容ささえ失っていた。

「そんなこと、どうして今さら云うの?」
「知ってるだろ、ずっと変わってないよ」
「嘘。私が卓哉のこと、構わなくなったからでしょ。だから面白く感じてるのよ。自分の方を向かせるのが楽しいだけ」

サイドミラーで後方を確認しながら、同じようにゆっくりと車線に戻る。
思ったより、冷静に対応している自分にホッとした。

「家でいいんでしょ?」
「ん、あぁ。悪いな…」

一瞬、ごく自然な会話になったけれど、気持ちは冷めたまま。
何も変わりそうになかった。

「ねえ卓哉。勘違いしてるみたいだから云っとくけど、私、卓哉のこと、もう好きじゃないからね?」
「どうして」
「わかってるでしょ。もう終わったのよ、私たち。ずいぶん前に」

信号待ちの対向車線に、取引先の白いバンが停まっている。

「あれはエリが一人で云いだしたことだよ」
「もう終わりにしようって?」

けれど、その言葉に、頷くことも否定することもなく部屋を出て行ったのは、
彼の方だった。
一方的に終わりが来るなんて、ありえない。
少なくとも、そうなるよう仕組んだのは、やっぱり卓哉だ。
私が、日に日に彼に夢中になっていくのを、卓哉も初めの頃は楽しんでいた。
でも、後半は、それが重荷になっているのがわかった。
それでも、決して自分からイヤだとか、別れようとか云わない人。
いつもそうだった。全てが、相手の意思決定で進んでく。表面上は。

「またそうやって責任を逃れるつもり?」

苦笑いしか出てこなかった。
バンがゆっくりとすれ違っていくのを、横眼で最後まで追いかけた。
心なしか、卓哉と一緒にいる自分の姿を見られてはいないという確信を持ちたくて、
敢えて、相手の動きをじっと見つめていた。
まるで一挙手一投足を封じ込めるように。

一度も眼が合うことなく行き過ぎたバンが、スピードを上げて遠ざかっていくのを、
内心勝ち誇った気持ちで見送った。

「素直に云ってるだけだよ」
「ありがと。…でも嬉しくない。今さら云ってもらってもね」
「好きだよ」
「…息子さんが訊いたらガッカリね」

ここで家族を持ち出すのはフェアじゃない。わかってる。
でも、これ以上話を続けることに嫌気がさしていた。
それに、息子さんが同じ大学の後輩にあたり、彼が私を知っている事実は、
隠しようがない。
と云っても、私を知っている学生は多かった。
在学生のほとんどが知っていたと思う。
邦画に何本か出演していたことも影響しているが、それ以上に、
教授の愛人であるという噂が大きかった。

その教授は有名で、テレビ番組にもコメンテーターとして呼ばれる頻度が高かった。
彼のゼミ生となるべく入学してくる学生が、今でも多いと訊く。
私が、そんな人気ゼミの一員となったのは、四年に一度オーストラリアで学会が開かれる年。
その学会に、助手として同行するはずだった四年生の男子学生のかわりに、
新人の私が急遽同行することになるのだが、
一ヶ月後に戻った時には、すっかり私は有名人になっていた。

男性の嫉妬は怖い。
初めて感じたことだった。
母校の大学では、有名な教授のゼミともなると、
評価や実績がその後の仕事や就職につながる場合も多い。
だから、女性のそれよりも性質が悪く、陰湿になる。
切れ者や、頭脳明晰で機知に富んだ人間が特に集まっていたゼミのため、
手の込んだ嫌がらせには、眼を見張ることも多かった。

しかしながら、良い噂ではなかったけれど、どこへ行っても名が知れているというのは、
まんざら悪いことばかりでもなかった。
初めは戸惑っていたけれど、おかしな話、就職活動では武器になったくらいだ。
「あ、君が…」で始まる面接。
こちらもその反応には慣れていたし、噂の理由が理由なだけに、
下手な自己紹介や云い訳も必要ない分、核心から入ることができた。
噂は噂でしかなかったけれど、思考回路の幅や相手を読む訓練は確かに身についていた。

そして、会社の三次面接で私を面白がり、
入社後もことあるごとに、接待の席や様々な場へ連れ出してくれたのが、卓哉だ。

「絶対に営業(ウチ)は面白い。誰も何も云わないから、好きにやってみろ」と、営業に引っぱってくれたのもそう。

飯田卓哉。
今ではもう、わが社の営業局長として、第一線を勤め上げる四十九歳。
当時は部長で、上司と新入社員の関係だった。
それが、それ以上の関係に発展してしまったのは、入社して一年半ほど経ってからのこと。

当然彼は、私が息子さんの先輩であることも承知のうえで。
私も、肯定こそしなかったけれど、
「やっぱりマズいよなぁ…」と、反省する程度だった。
でも、本気にもなれないような、中途半端な関係が長続きするはずもなく、
私は他の人に恋をした。
それが、卓哉と別れようと決めたきっかけではあったが、
それ以前に、彼との付き合い方に疲れていた。

彼は、決して
「ホテルに行こうか」とか「今夜一緒にいる?」と私に訊いたことがない。
食事をしてホテルへ行くことが、
ある日を境に、当たり前の流れになってしまった。
つまり、外で食事をすることは、セックスを意味した。
そんな暗黙の了解にストレスが溜まらないわけがない。

何も云わなかった私も悪かったと、反省している。
しかし、その行為は、互いの意思が尊重されていないことの証でしかなく、
だたでさえ肩身が狭く感じていた私の声を、奪うものにしかならなかった。
だから、内心、早くこの関係を終わらせる何かが欲しかった。

セックスも抱き合うことも好きだけれど、それだけでは虚しい。
それに、わがままや本音を普通に云えない時点で、
自分の気持ちが本気になりかけていることがわかったから。
逃げ腰になる彼の姿が、容易に想像できた。

「もうやめていい?」

夜の十時を回ったホテルの一室で、私は、テレビに見入っている卓哉に話かけた。

「……ねえ」
「どうした?」

彼は、躰を振り向かせながら、私を見た。

「卓哉と私のこと。どう思ってる?」
「んー…」

ひざに手をあてながら、うつむく。

「まあ、これ以上は変わりようがないからな。辛いか?」
「そういうんじゃないけど…」

私に辛い関係かどうか訊くこと自体、ナンセンスなことなのに。
それさえわかっていない。こっちを見ていないのがよくわかる。
楽な関係ばかり望んでいるのではない。
でも、彼と私は、こんな距離でなければ、もっと簡単で、発展的な言葉を交わせるのだ。
かつて、そうであったように。

「卓哉とこんなふうになってから、つまらない」
「何が?」
「話も、仕事も」

セックスも、の言葉を呑み込む。

「話のレベルを上げる勉強をさせてくれるんでもないし、セックスするようになってから卓哉、黙ってることが多くなった」
「そうか……?」

わかっているのに知らないふりをしている時のクセ。
右手の人差し指で、眉毛の一番高い部分を掻く仕草をする。

「だから。私ね、はっきりしてるの。向上しない関係は持たない、それだけのことなんだ。……ね、もう終わりにしていい?」

卓哉だって待ってたはずなのだ、私のその言葉を。
それなのに、にわかに苦痛を思わせるような表情をする。
この人と出逢うのが、今であってよかったと思った。
もっと早かったら、彼の反応が全てだと思い込んでしまっていただろう。
私は、彼との関係がマイナスを意味していたとは、正直思っていない。
少なくとも、彼がとる私との距離感は、客観的に見て面白かった。
営業の仕事によく似ていた関係のせいで、
どうすれば相手を思ったとおりに動かせるのか、
どうしたらこちらが言葉を発せずに、先方の意思決定で物事を進められるかという、
実践の縮図そのものだった。
ただ、面白さ以上に、関係の維持が億劫になってきていた。
営業先での仕事は、女優になりきること。
それが中核をなしていた。いかに、仕事を演じきるかが問題であって、
そこに初めて人間対人間のコミュニケーションが生じてくる。
素のままで、全ての対人関係が成立するほど、優しい社会ではない。
そのうえ更に、社内及び局内でまで、もう一つの演技を続けることへの不毛さを
感じ始めていた。

当初は、それはそれで楽しかった。
が、業務遂行に支障を来たすのは火を見るより明らかだった。
言葉は悪いが、バレないわけがない。
そうなると、同僚とも後輩とも、まして先輩や他局の上司とも真っ向から勝負できないのだ。
それは、相手がどう思うかではなく、自分自身がどう感じるかの問題だった。

「……」

あの時、答えは卓哉の沈黙で決まっていた。
私は軽い諦めと、開放感を噛み締めながら、別の道を歩き始めた。

それから二ヶ月と経っていない、営業先から直帰する車の中で、
彼は途方もないことを云い出した。
自分に素直なのか、ただ単に自分勝手なのか…。
「エリ…」

卓哉の声が、近づいてくる。
自分の気持ちが、ひどく残酷になるのを感じながらも、
それを止めることをしないところまで来ていた。

「息子さんの恋人が私でも、同じこと云う?」
「!」

まっすぐ前を見つめながら、私はアクセルを踏む足に力を入れる。

「まさか、悪い冗談だろ…」
「……」

太陽が、あと、もう数センチで空から消えそうだった。


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