ネオリアヤの言葉

ネオリアヤの言葉

会話




「結婚してる男性は嫌いですか」

視線の先には、確かに結婚指輪があった。
会話の流れとしては不自然なものではない。
ぼんやりと長いこと、
見るともなしに見つめていたらしい、ピンクゴールドの艶やかな光を放つ指輪は、
左手がひらひらと振られると、一緒に揺れてみえる。

その声の主に、眼の焦点を合わせた。
不自然な流れではないと云いきるには、
それが会話の口火ではないこと、
そして初めての会話ではないことが前提になる。
けれど、低い革のスツールひとつ挟んだ、左隣に坐っている男性は、
全くの初対面だった。

「…ごめんなさい。ぼうっとしちゃって」

私は声に自嘲をこめて笑いかけた。
返事をしたことで、会話が成立したことになる。
そしてたぶん、この先も二人のあいだで幾つかの言葉が交わされるだろうことが、
容易に想像できた。

「別に構いません」

カウンターの一番奥に坐り、先ほどからバーのマスターと軽やかな、
当たり障りのないやりとりをしていた男性。
年齢的には、三十代半ばからもしかすると四十代の前半あたりだろうか。
声や笑い方は嫌いじゃなかった。

「嫌いそうに見えましたか?」

先刻の自分の眼に疑問を感じて質問を返した。

「いえ、そういうんじゃないんですけど…ぼうっとするには、かなり長い時間、これを見てらっしゃったので…まあ僕にとっては会話のきっかけに過ぎませんけどね」

俯いて前を見た男性の服装に、私は素早く視線を走らせた。
カウンター上のダウンライトと、
背後のテーブル席側から射し込む同じトーンの明かりで、
その姿は立体的に浮かび上がっている。
黒い細身のスーツに身を包み、白いシャツの前を少しはだけた、
ファッションセンスの高い着こなしをしている。
厭味な感じはちっともしないけれど、
それが自分に似合っていることを知らなければ出せない雰囲気を漂わせていた。
揉み上げの少し下あたりから顎にかけて、無精程度に伸ばされた髭。
顎から下唇のところで、その髭は終わっている。

私の視線を感じていながら、
その男性は左手で握るようにショットグラスを抱え、ひと口だけ含んだ。
カウンターの奥にあるアルコールの並んだ棚を見つめ。
唇の高さで止まった左手とスーツの袖のあいだに隙間ができる。
この夏限定の某ブランドの時計のバングルが覗く。
雑誌の広告に掲載されてから一ヵ月。
国内でそんなすぐに、簡単に手に入るものではないことは、私にもわかる。
なんとなく、この男性が乗る車種が想像できた。
袖口の四つボタンは黒だが、
ボタンホルダーの縫い目には鮮やかな紫色の糸が施されている。
細い光沢が、ダウンライトに照らされて、妙に色っぽい。

「嫌いでなければ…もう少しお話してもいいですか?」

グラスをコルク製のコースターに戻しながら私を見た。
少し細めた眼元に、細い笑い皺が数本寄る。
悪い人ではなさそうだった。
ただし、悪い男性であるかどうかは、別の次元だけれど。

「私の父も、母と結婚してますし、結婚している男性とお付き合いしたこともあるので、嫌いではないですよ」

彼は、大胆なことを云いますねというふうに微笑んでから、
グラスの中の大きな丸い氷を指先で軽く転がした。
アルコールで溶けてできた隙間のせいで氷がグラスにぶつかり、
高く透き通ったきれいな音が響く。

「何を飲んでるんですか?」
「これですか? …焼酎です」

照れたように笑った。
この人に厭味な感じがしないのは、この、どこか照れて自嘲的な、
ともすると寂しさの雰囲気があるからなのだと気づく。
その笑いは、乾いた孤独感を滲ませていた。
手の甲から指先にかけて、節くれと皺が刻まれている。
関節と関節のあいだに知的さが漂う掌だった。
クロスのペン、それもゴールドのものを軽く回しながら、
考え事をしている様がしっくりくる。

「白いからジンなのかと思いました」
「カクテル系は苦手なんです…柑橘のカクテルがお好きなんですか」
「辛めであれば、なんでも」

細長いカクテルグラスを見つめて、自分の唇の形跡を指でぬぐう。
そして、口に運んだ。

「辛めとは…けっこう酒好きな表現ですね」
「わかります?」

二人のあいだで、初めて共通の笑いがおこった。
会話の行方を静かに見守っていたマスターが、そっと私たちの傍から離れて行く。

「袖口の紫色、ステキですね」
「? …あ、これですか。ありがとう」
「Mビルにあるセレクトショップですか?」

再び、彼の眼が細く微笑む。
今度は驚きが含まれているのがわかる。

「…そうです。よくいらっしゃるんですか」
「たまに…あそこのメンズライン、好きなんです。女性ものは割とカジュアルなので私は着ませんけど」
「そうですか。それはよかった」
「?」
「僕も、あなたの使ってらっしゃる香水、一番好きな香りなんですよ」

私は少し、身構えた。
服装ならいざ知らず、香水に言及するなど、簡単に使えるセリフではない。
香水の種類を知っていることも必要だけれど、
そこに触れるためのセンスを要するだからだ。

「でも妻は使ってませんけど」
「…そういうセリフは、口説き文句ですよ」
「そのつもりですが」
「でも、あなたなら、仕事中にでもさらりと云いそうですね。たとえ口説くつもりはなくても…」

肩をすくめて笑ってみせた。
少し皮肉な言葉だったけれど、対応の仕方で相手のセンスが伺える。

「そんなことないですよ…よく云われますけど」

まんざらでもない表情と抑揚で、彼は会話を楽しんでいる様子だった。

「この店は初めてですか?」

その言葉に、本気で恋をしなければ、この人との距離感は楽しいと感じる。
今の会話を、ここで終えて別の話題に運ぶのは、馴れていなければできない。
口説くことに固執すると、さり気なさを装ったせっかくの効果が、
ただの野暮ったい借り物のセリフだと、すぐにわかってしまうからだ。

一投目はストライクで相手に空振りさせる。
二投目は変化球で様子を見て、その出方によっては三投目も打たせて取る。
このとき大切なのは、
四投目まで、相手をバッターボックスに立たせておくことなのだ。
まして、死球で一塁へ歩かせるのは論外。
まあ、そうなったらそうなったで、追わずに諦めたほうがスマートなのだけど。
ツーストライク・ワンボールくらいからが勝負のしどころとして、丁度いい。
この人は、どちらかというと、
勝負をしたとしても最後には打たせて出塁させてしまうタイプだろう。
恋愛対象となる女性を、
自らアウトに討ち取ったり、バッターボックスに残しておくことはしない。
出塁したければどうぞ、そんな感じがする。

「ええ。いつも違う店なので…」
「どうしてですか」
「…いろいろな店に行ってみたいから、というところです。その中で本当に好きな店を見つけられればそれでいいかなと…」

あなたのような人がいるから。
その言葉を飲み込んだ。
そう振り切ってしまうには、
この人はこれまでバーで声をかけてきた男性とはあまりに違っている。
下心があるのかどうか、それが濃くも薄くもなり、
こちらの心境を落ち着かせない。

「いつも独り?」

初めて、言葉尻がくだけた。
敬語の語尾を濁したのではなく、はっきりとそこで質問を区切る。

「そうですね…人と一緒だとお店の雰囲気も感じずに、お喋りになるでしょう? ま、相手によるのかもしれませんけど」
「そうですね、人によるでしょうね」

穏やかな調子は、ずっと崩れることがない。
微笑みに滲む声は、とても優しい。

「いつもいらっしゃるんですか?」

今度は私が質問をする。

「僕は新しいところに一人で入る勇気がないから…わりと出不精だし、落ち着くほうが好きかな」
「…じゃあ…この席にも、いつもいらっしゃる方がもうすぐ見えるのかしら」

自分が坐っている席を見下ろして、笑った。

「そんなことはありませんよ。ここで知り合いになった女性は一人もいませんから」
「声をかけなくても、直接知り合いにならなくても、勝手に楽しみにしていることだってありますよ」
「…」

彼は思い出すようにして眼を天井に向け、両手を顎のあたりで組んだ。
口元には微笑が残っている。

「だったら嬉しいんですけどね」

どこまで見た目とセリフが違うのだろう。
いや、違う。
こういう男性は、外見ほどに傲慢でも自信過剰でもない。
その控え目な雰囲気が女性を惹きつけることを知ってはいるけれど、
丁寧な言葉遣いと気遣いが相手をやきもきさせることは、知らない。
だから、得てして悪い男と云われる男性ほど、実際は親切で優しいのだ。
派手な生活を送っている人は、ガサツな部分がわかりやすく、
女性の側でも却って安心できる。

この人に恋をする女性はきっと、そのギャップに惹かれ、
いつしか優しさに優柔不断さの影を重ね、
求めたほどに愛情が返ってこないという錯覚に痺れを切らすか、
愛されていないのだと諦め、自分から見切りをつけて去っていくのだろう。
そして後には、女性の心理に何が起きたのかわからずに、
寂しさを心に押し隠すことしかできないこの人が残される。
それでも、こんな自分でもいいと受け容れてくれる女性を探し、
同じことを繰り返すのかもしれない。
けれど、どんな女性も、自分だけという特権と証を求める。

「雰囲気が悪いのか、女性から声をかけられることもありませんね。実は、こうして待ってたりするんですが…」

自嘲的な笑いが拡がる。

「それはちょっと無理ですよ」

私は素直に笑った。

「どうみたって、簡単に女性から声をかけられるタイプの男性じゃないですよ。これはいい意味ですけど…。相手にされないと思って遠くから見つめるのが関の山でしょう」
「どうやらそうらしいです」
「そのスーツがまた、近寄り難さを増長させているというか…」

彼は、躰をカウンターから離し、自分の姿を眺めた。
云ってみれば、かっこつけすぎなのだ。
それがサマになっているせいで、これまた、
女性の眼にはただの憧れの対象としか映らない。

「どういう女性がお好みなんですか」
「別に…特にありませんよ」

微笑みながら、私の全身を見た。
昼間、夏の太陽の下では特に目立つものではないけれど、
こうして夜のバーにいると、
白いスーツは爽やかさを超えて場違いなほど際立ってみえる。
細い木綿の糸で編まれた細身の白いジャケットに、セットの膝丈のタイトスカート。
インナーは、店長がフランスから毎月買いつけしてくるセレクトショップで買ったもので、
Vネックの刳りが深い、紺色のサラリとしてテロンと重みのあるTシャツだった。
パンプスは、仕事柄あまりヒールの高くない、なめし革色。
好きな恰好ではあるけれど、いつもと代わり映えのしないスタイルだった。

「よくお似合いですね、白」
「…」

私は、ありがとうと応えるかわりに微笑んだ。
こんなところで、互いに長所を見つけて褒めあっていても、仕方がない。
続ける意志のない会話には、言葉で答えない。

どうみてもステキだと感じている相手に対して、
こうも素直になれないのは、用心しているから。
以前に恋愛関係にあった人が、こういうタイプの男性だった。

結婚はしていなかったけれど、妙に落ち着いていた。
所帯じみているのとは違う。
その反対で、自由な雰囲気が強調されていて、
誰のものにもならない風貌が眩しく感じられた。
誰のものにもならない、
つまりは、自分ひとりだけに留まらない人だと、初めから知っていた。
それでも、どんなに割り切っていても、段々と心は強欲になっていく。

自分が悪いのだろうか。
まるで、仕事のストレスで心が病んできているのを、
自分の精神が弱いからじゃないかと疑心し、
心と躰に鞭をうって仕事にのめりこもうとするサラリーマンのように、
私は自分とだけ戦い続けた。
その人とは、恋というカタチを失ってもずっと一緒にいたいと思っていた。
様々なことに理解があり、誰のことも尊重し、
ひたすらに自分の行動に責任を負う性格で、
それまで出逢ってきたどんな男性よりも、自分の足で歩いていた。

これほどの男性には、もう出会わないだろう。
そう感じていた。
けれど、実際に恋を終わらせても、
私にはその先を続ける余裕は残っていなかった。
あんなに失いたくない人だったことも、もう忘れてしまったように、
今は過ごしている。
あの感情も、恋だからこそ存在しえたものだと。
苦しいこともあったけれど、一時でも、
その人が世界の全てだと感じて生きていられたことは、とても幸せだった。
こんな思考になるなんて、あのときは想像もつかなかった。
彼が全てで、これ以上の人は私の人生のなかに二度と
現れることはないと本気で信じていた。

そして、彼を越す人はもういないとか、彼以上の人もいるだろうとか、
そういう感覚からはもう卒業し、
世の中には、人の数だけ唯一性があるのだと、
怠惰感と放心の日々のなかで知った。

それなのに。
こうして似た人に出逢うと、心がざわつき、距離を取ろうとしてしまう。
同じ人など、いないとわかっているくせに。

ふと、この眼の前にいる男性も、
私と似たような過去を背負っているからこそ、
微笑みに孤独が滲み、自嘲的な乾いた優しさがあるのかもしれないと感じた。

「次の一杯、私にご馳走させてもらえませんか」

思わず口にする。
細めた眼の奥には、どんな記憶が蘇っているのだろうか。
私には知る由もないけれど、どこかで確かに感じた接点に、感謝したかった。
かざされた右手の陰で、鈍く光っている左手の指輪が、小さく揺れた。


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