ネオリアヤの言葉

ネオリアヤの言葉

追い越しの恋




風邪をひいたのか、啓輔は地下鉄に乗っているときから、全身が寒くて仕方がなかった。
深緑色のピッグスキンのコートは、その下のジャケットの奥にまで底冷えを運び込む。
どうやら、羽織るものを選び間違えたらしい。
首元に巻いたグレーのマフラーも、肌触りの悪さばかりが気になるだけで、
いっこうに躰を暖めてはくれなかった。
立っているのも具合が悪く、伏し眼がちになりながら、
空いた席にすかさず腰をすべりこませる。
背もたれと腰のあいだに少し隙間をつくり、椅子全体に躰をななめにあずけた。
両手の指を組んでみるけれど、もうそれ以上温まる気配はなかった。
眼を閉じて、眠ろうとするけれど、おでこからまっすぐ脳に入ったあたりに走る、
いやな重みに神経が集中してしまう。
あごをマフラーのくぼみに埋めた。

寒さを受ける肩をそぼめ、地下鉄の階段をのぼりきり、
鼻先にあたる夜風が全身に伝染する。
冷たくなった、薄っぺらいコートのポケットをまさぐり、左手で煙草を抜き取ると、
ライターで火をつけた。
ようやく、顔に炎の暖かさがあたる。
一瞬の温度。
後ろから来る人の気配に、道を空けようと車道と反対側に躰をよせた。

「煙草吸えるんじゃない」
「?」

通り過ぎると思われた影が、啓輔の隣から覗き込むようにして歩いている。

「重病かと思っちゃった」

自分に話かけられていることに気づき、啓輔は声の主に顔を向けた。
つばの狭いグレーの帽子を被り、ロングコートの裾を翻すように、
勢いよく足を前後させて歩いている。
おそらく、並んではいるけれど、寒気とは無縁の体調と思われた。

「大丈夫?」
「…ちょっと、寒気がね」

その女性の横顔をちらりと確認して、啓輔は再び寒気と向かい合いながら、
どこかで会ったことがあるのかと思い巡らせた。

「…地下鉄の階段を上って、方向が同じだったら声をかけようと思ってたんだ。同じ車輌に乗ってたのよ」
「いま?」
「そう。私が坐ろうかなあと思ったら、あなたが転がりこむように坐ったから…寒いんだろうなあと思って」

とくに明るくもない声だったけれど、耳に心地よく響く低音。

「手袋、使う?」

彼女は、自分がはめている黒い革の手袋をはずすと、右手と左手でそれぞれ差し出した。
よく使い込まれた指先部分は、皺がすっかりのびきっている。
革の内側は、ベージュのカシミアだった。
Made in Italy
そう書かれたタグが小さくくっついている。

「…どこまで行くか知ってるの?」

啓輔は初めて自分から質問をした。

「…知らない」

眼が合う。
黒いまつげが、まっすぐ前に長くそろっている。
下瞼のあたりに少しだけ、黒い点々があって、睫毛に化粧をしていることがすぐにわかった。
なんと云ったっけ…。
啓輔は、睫毛につける化粧品の名前を思い出そうとした。
アイシャドウ? いや…もっと…、マラ…あ、マスカラか。
両頬にかかったあごほどの長さの髪の束は、帽子でしっかりと固定されていて、
あごのかたちがはっきりとはわからない。
ところどころ、くせ毛のようにあちこちに髪がはねていた。

「私と同じくらいの指の長さだから、ちょうどいいと思うけど、いらない?」
「…ありがとう。じゃ、途中まで」
「私、次の信号を右に曲がるんだけど…どこまで行くの?」
「僕はこの道を…十五分くらいまっすぐ行ってから左」

足元にだけ向けていた眼を、道なりにあてる。
気が遠くなるほどまっすぐに続いている。
車道を平行に走る歩道を、本当にこれから二十分近くも歩かなくては
家に辿り着かないのかと思うと、自分で云っておきながら後悔する。
自覚症状がなければ、もっとただ黙々と歩くだけですんだのに。

「…よかったら、カイロかなにかあげようか」
「?」
「家にあるんだけど、その道右には入って二分くらいで家だから」
「…」

視線を合わせずに、啓輔は近づいてくるその信号を見つめた。
あのマンションだろうか…思ってもみなかった想像が浮かび、慌てて打ち消す。

「やっぱり、さすがにそれは怪しいかな」

彼女は、一人で喋っていた。
啓輔は、寒気と頭痛に耐えながら、どうにか歩いている。

「…どう?」
「僕のこと、心配してるの? それとも信用してるの?」
「…どっちも」
「…」

彼女が貸してくれた手袋は、啓輔にはない体温で温められていた。
指の長さは、確かにおさまりそうだったが、掌の幅は、違った。
革がぴんと張っている。

「…私の好きな人と似てるからかな。横顔や斜め上から見た感じも、背格好とか。そういう洒落たスーツとソックスの組み合わせはしないけど」

照れたように笑いながら、啓輔のズボンと靴のあいで見え隠れする靴下を見た。
白いソックスにグリーンのストライプが入ったものだった。

その相手は恋人ではないのだろうと、勝手に啓輔は感じた。
恋人であれば、似ているからと云って声などかけたりはしないだろう。
いや、もしかすると、遠く離れて暮らしている恋人であれば、あり得るのかもしれない。
啓輔は少しだけ、この女性の家の玄関までついていく自分の姿を想像した。

「そうだね、カイロか…ありがとう」
「?」
「そこのコンビニで買うから大丈夫だよ」
「…」

歩調が、これまで長いこと一緒に歩いてきたかのように、同じになっていた。

「…そこのコンビニまで、手袋借りててもいいかな」
「どうぞ…そのほうが私も安心」
「ありがとう」

寒気で、すっかり青ざめているだろう表情を貼り付けた顔で、
啓輔は彼女に微笑みかけた。



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