ネオリアヤの言葉

再会

由希子から今朝電話があった。
蒸し暑くて、夜中に何度も眼が覚めては、
少しの水を口に含んで涼を体内に取り込み、再び寝付くことに終始した。
氷まくらを去年買ってあったのを途中で思い出し、
太ももの付け根あたりに、薄いタオルでくるんだそれを敷いた。

それでも、朝起きたときにはすっかり温くなり、
たぷたぷともたついた感触が却って煩わしさを増長させる。
ベッドから滑り出していた足の裏が、ぺったりと床に張り付いていた。
そっちのほうが冷たかったのだろう。
おでこに汗が滲み、左手で触れると緩く滑る。
大好きな、緑色の葉模様が入った厚手のフランス製カーテン。
その上部の隙間から、電車の音と一緒に太陽の光が入り込んでいた。
うつらうつらと意識を野放しにしながら、私は起きようかどうか、
ずっと考えている。
特に予定は決めていないから、このまま夕方まで寝て過ごしても、
なんら罪悪感はない。

昨夜、タイ国の財閥たちが集まるパーティーに出席し、かなりビールを飲んだので、
まだ血中アルコール度は高い。
ますます寝ていたい。
けれど、この暑さは、部屋にいる限り、私の躰を溶かしこんでいくだけ。
先週買ったばかりの麻の服を着て、
原宿の最近お気に入りのカフェで、本を読む姿を想像し、
ようやく上体をベッドの上に勢いよく起こした。

寝ぼけているのではなく、暑さで頭がぼうっとしているので、
給湯器のスイッチを入れ忘れ、しばらく冷たいシャワーを浴びていた。

鼻唄の途中で、夕べのパーティーの光景が浮かんできた。
二十五歳の若者が十人程度、一緒に来日していたのだけど、
ああいうパーティーに飽きているのか、それとももともとの身分柄なのか、
ずいぶんとふてぶてしい感が漂っていた。
会場端に置かれた椅子に、背を預けて両足を開いて坐り、
全体を眺めるようにして煙草を吸っている。
男の子たちはみんな黒いスーツに白いシャツを着込み、正装なのだけれど、
どうにも開襟シャツの胸元には、
「取り巻き」「ゴロツキ」的な雰囲気があり、私はおかしくて仕方なかった。
女の子たちの大半も黒いスーツで、なぜか就職活動中の学生を思わせる。
年齢よりもはるかに幼く見えることに、男女の区別はなかった。
一人だけ、民族衣装のようなシルクの艶やかなドレスに身を包み、
耳にはパールがいくつもついた大振りのリングのピアスを下げていた。
褐色の肌に、その鮮やかなピンクのシルクドレスはエキゾチックに映え、
日本人と対して区別のないアジア的な顔の造りをした他の若者よりも、
タイの血を濃くひいている横顔には、プライドと優しさが滲み、
私は久しぶりに美しい女性を見た気がして、とても幸せな気分に浸っていた。
やっぱり、美しいものは、誰がどう見たって美しいものなのだと思う。

ペットボトルから直接水を飲んでいたとき、電話が鳴った。
ダイヤル式の、旧いタイプの電話でうるさいから、
普段は枕とベッドの間にしまいこんでいるので、音が篭もる。
しかし、これまた暑さのせいで緩みまくっている思考では、
起きたときに電話を、定位置にしまうのを忘れていた。
ひどく高く乾いた音が、部屋中に響いた。
開け放った窓の外にも、鳴り響いていることだろう。
まだ少し湿っている足をペタペタと進ませて、
急ぐわけでもなく受話器を取った。

「はい」

名前は名乗らない。

「おっはよー」
「…おはよう」
「寝てた？」
「シャワー浴びたとこ」
「今日も暑いねー」
「…今日も朝から元気だね」
「外に出たほうがだいぶ気持ちがいいよ」

そんなわけはない。
大好きな服を着て、大好きな場所へ、大好きな人と行くのなら、
話は別だけれど。

「どうしたの？　こんな時間に珍しい」

私は冷蔵庫のうえに置いた時計を見た。
もう、あと十分くらいで正午になる。
頭のなかでカウントダウンが始まる。

「しかも、携帯じゃなく家の電話にね」

由希子が自分で注釈をつける。

「…ほんとだ」

由希子からかかってくる電話が大抵、携帯であることが当たり前になっているのに、
今朝に限って部屋の電話を使って話していることに、
なんら疑問を感じていなかった。
いつもと違うことが起きても、あまり気づかない。
それも暑さのせいにしておこう。

「実はね、慶太から電話があったの」
「…由希子に？」
「そう」
「なんだって？」
「会いたいみたいよ」
「…私に？」
「そう」
「…なんで？」
「…なんでって…知らないけど」
「なんか云ってた？」
「今度東京に戻るから、みんなで会わないかって」
「…」

私は、自分から連絡を取らなくなった、昔の恋人の顔を思い出そうとした。
慶太は、私が三年前に付き合っていた男の子だった。
子と云ったって、当時でも二十三歳だったのだから、
十分に大人ではあるのだけれど。
なんとなく、輪郭や素振り、笑顔の感じまでは浮かんでくるのだけど、
顔については、ぼんやりとしか出てこない。

難しい漢字やタレントの名前が、喉元まで出掛かってあとちょっと…
というときの、血管の弁がひっかかって開かないような、
鼻と眼の奥がぎゅうっと詰まっていくときの厭な圧迫感が、
記憶の扉を押している。

もうなんとなく、このまま会わずに終わらせたい。
終わらせるということさえも、自分から口にしたくないから、
連絡を取らずに…と姑息な手段を思いついたのは、
私のほうだった。
凄く大好きだったし、一緒にいても気持ちが安らぐ相手だった。
でも、途中からめんどくさくなったのが本音。
メールや電話が毎日来るのは、正直、段々と億劫になる。
いいヤツだけど、ちょっとこの先は面倒くさいかも…そう思った直後には、
もう、慶太の携帯番号をメモリーから削除していた。
ヒドい女だと、自分でも思った。
しかし、仕方ないよと、心の中で舌を出していた。

「…私と会って、何か云いたいことがあるのかな」
「…今さらないでしょ、もう」
「…だよね。もう三年も前だしね」
「そうだよ。もう吹っ切れたから、逆に会う気にもなったんじゃないの？　これまで、絶対にキョウの名前、出したことなかったもん」
「…それが普通だよね…」

それなら、今後もずっとそうしてもらいたい。
別に会ったら罪悪感を感じるというのじゃない。
ただ、面倒くさい。
それだけだった。
会うのも連絡を取るのもメンドくさくなって関係に勝手に終止符を打ったのに、
そんな相手と会うなんて、もっと気が重い。
会っても、話すことなんてないのになー…。
どうしたいんだろう。
わけがわからない。

自分を振った女に会いたいなんて、気が知れない。
いい男になったから、私を見返したいの？　
でも、全然そんなこと関係ない。
自分はもう恨んでなどいない、平気だと云いたいの？　
恨んでもらっていて構わない。
それにそっちのほうが自然。
まさか、また縁りを戻そうなんて、
そこまで考えるような男の子ではないと思うし…。

私は、半分暑さで溶けかけている脳みそを動かしながら、
由希子の声に耳を傾けた。
けれど、別に返事も次の言葉で出てきそうな雰囲気になかった。

「由希子、なんて云ったの？」
「私？　キョウに訊かないとわからないって云った」
「それも変な返事だね」
「…確かに。でも、そうじゃない？　わかったって云っても、キョウが厭だったら無理なわけだし…キョウの性格だから、どうせ会いたくなんてないんだろうけど」
「…うん」
「…そんなに嫌いなの？　慶太のこと」
「…」

そんなんじゃない。
だから、めんどくさい相手なだけなのに…嫌いなのなら、まだいい。

「あ…そうか…めんどくさいんだっけ」
「わかってんじゃん」
「いやー快いほど馬鹿正直で失礼だよね」
「笑いすぎ」
「ま、とにかく。来週にちょっと早い夏休みをとって東京に来るらしいからさ、気が変わったら連絡してよ。慶太にも伝えるから」
「…変わらないけど、わかった」
「かわいくない」
「それより今晩、食事しに行かない？　昼間は勘弁して欲しいけど、夜ならこの湿度も許せるから」
「いいよ」

待ち合わせの時間と場所を設定して、私は受話器を置いた。
今度はちゃんと、電話を枕とベッドの間にしまいこんで。

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