”名も知れぬ人たちへ”・【承26】

・・・私は妻にいったい何をしてやったのか・・・

なにもしてやれなかった。

付属病院で妻に頼まれた,『家を,娘を頼む』と。
『分かった,でも・・・それはあたりまえのことだよ』
続けて,『お母さんは,とにかく治療に専念すること,早く直すんだ』と励ましの言葉だったかな,でもその時は本当に直る,と信じていた。

ある日,私は,上司に呼ばれた。
「どうたい?奥さんの具合は?」と。
「いま付属病院で放射線治療と抗がん剤を併用してがんばっています」
「そうか,仕事の方は大丈夫だから。休暇はいままでどおりでいいんだね。」
「ええ,なんとかお願いします。それとトータルコストのことですが・・・」
(トータルコスト・・・来年度の仕事と予算を計画する重要な仕事)
「ん,そのことなんだが,その仕事を次の人にやらせることにした。それから今後の仕事はまた重要な仕事だが・・・」と。

そのことは,私も覚悟ができていた。
私は上司に,「妻のことを思うと,なかなか仕事に身がはいらないし会社に迷惑をかける。私はこれからも妻につきっきりになるので,転勤してきたばかりで申訳けないが元に戻してほしい。」と伝えた。
その言葉は,私が会社に勤めて23年,これからいろいろな部署で活躍できる,という将来を捨てることでもあった。

こんな思いを妻は知らない。
知り得たとしても,そんなことは長い人生の中のほんの少しのページに過ぎないのだから。

・・・ほんの少しのページだからこそ・・・
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