土曜日の書斎 別室

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ある明治人の記録

【土曜日の書斎】  名作断章



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  1900 (明治33) 年の 北清事変 に際し、 その沈着な行動によって世界の賞讃を得たのが、 日本公使館附武官 ・ 柴五郎中佐 でした。
  柴中佐は、 旧会津藩子弟であり、 会津籠城戦で、 祖母 ・ 母 ・ 姉妹を喪っています。
  その晩年、 この悲痛な体験と併せて、 維新の裏面史とも云うべき、 惨苦の少年時代の思い出を書き遺しました。
  それらは、 石光真人編著 『ある明治人の記録』 に収められています。



ある明治人の記録

(1868 (慶応4) 年8月23日)




1




血涙の辞

・・・過ぎてはや久しきことなるかな、 七十有余年の昔なり。
郷土会津 にありて余が十歳のおり、 幕府すでに大政奉還を奏上し、 藩公また京都守護職を辞して、 会津城下に謹慎せらる。
  新しき時代の静かに開かるるよと教えられしに、 いかなることのありしか、 子供心にわからぬまま、 朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、 会津藩民 言語に絶する狼藉を被りたること、 脳裡に刻まれて消えず。


(石光真人編著 『ある明治人の記録』 所収)


北越戦争 と共に、 戊辰戦争最大規模の激戦が繰り広げられた 会津戦争
  壮丁のみ成らず、 老幼婦女子をも巻き込み、 数多くの犠牲者を出した事が、 悲惨な印象を一層強めています。
  降伏後、 藩士とその家族は、 下北半島の火山灰地に移封され、 言語に絶する飢餓生活を強要されました。
  一方的に 朝敵 の汚名を着せられ、 滅亡へ追い込まれていった 会津藩 の悲劇は、 今日では、 維新の矛盾を象徴する事例として語られる場合が圧倒的です。



  8月21日。
  新政府軍は、 会津攻略へ向けて軍事行動を開始。
  最も防備が手薄な 母成峠 を急襲し、 是を攻略。
  会津領内に雪崩れ込んだ。
  他の藩境を固めている会津藩主力部隊は、 その急報に接しても、 俄かに動きの取れない状態であった。

8月23日 早朝。
  新政府軍先鋒は、 一挙に、 若松城下へ突入する。
  その進撃が余りに急であった為、 若松城下は大混乱を来たした。
  敵襲を告げる警鐘が乱打され、 藩士の家族は、 続々と城内へ避難するが、 籠城の足手纏いになる事を憂慮し、 退避を拒む者も多数あった。
筆頭家老 ・ 西郷頼母 の母 ・ 妻 ・ 娘達は、 邸宅に火を放ち、 共々に自刃して果てた。

  ・・・柴五郎の母も、 祖母も、 姉も、 幼い妹も、 全く同様の最期を遂げた。
  城下一帯は、 紅蓮の焔に包まれていた。


・・・薩長の兵ども城下に殺到せりと聞き、 たまたま叔父の家に仮寓せる余は、 小刀を腰に帯び、 戦火を逃れきたる難民の群れをかきわけつつ、 豪雨の中を走りて北御山の峠にいたれば、 鶴ヶ城は黒煙に包まれて見えず、 城下は一望 火の海 にて、 銃砲声耳を聾するばかりなり。

  「いずれの小旦那か、 いずこに行かるるぞ、 城下は見らるるとおり火焔に包まれ、 郭内など入るべくもなし、 引返されよ」

  と口々に諌む。
  そのころすでに自宅にて自害し果てたる祖母、 母、 姉妹のもとに馳せ行かんとせるも能わず、 余は路傍に身を投げ、 地を叩き、 草をむしりて泣きさけびしこと、 昨日のごとく想わる。


( 「血涙の辞」 ・ 前掲書所収)










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