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「楽しさ」を意識し… New! かめおか ゆみこさん

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森の声

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2007.09.24
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カテゴリ: カテゴリ未分類
今、真面目に勉強をする子が“いい子”で、勉強をしない子は“悪い子”というような常識(?)がありますが、これってどうなんでしょうか。

勉強が嫌い、勉強が出来ないということは悪いことなんでしょうか。

原則として、学校は勉強を教えるところですから学校という場においては勉強は絶対的に“善”なるものなのでしょう。

“勉強が嫌いでもいいよ”、“勉強が出来なくてもいいよ”ということを認めてしまったら学校の存在する意味が消えてしまいますからね。

ですから、“勉強が嫌い、勉強が出来ないということは悪いことなんでしょうか?”という疑問は、“学校というものは本当に必要なのか”という疑問にもつながってしまうのかも知れません。

もちろん、人間が人間らしく生きるためにはどの子にも学びは必要です。でも、逆に言うと、どの子にも必要な学びとは“人間が人間らしく生きるためのもの”だけに限られると思います。

あとの学びは、個人としての可能性を広げ、人間としての成長を目指すためのものでしょう。でも、これらの学びは必ずしも全ての人が求めているものでもなければ、全ての人に必要なものでもありません。

そして、前者の“人間が人間らしく生きるための学び”は、その学びの有無がその人の人間性とつながってくるでしょうから、出来ないより出来る方がいいに決まっています。

でも、後者の学びは個人的なものですから、出来たからいいとか、出来なかったから悪いなどと言うこととは全く関係がありません。



と書いて、困ったのはもしかしたらどちらも教えていないのではないかという疑問が出てきたことです。

明らかに、“人間が人間らしく生きるためのもの”は教えていません。
それらは、椅子に座って、教科書で教えることなど出来ないようなことばかりだからです。

では、個人の可能性を広げ、人間としての成長を目指すためのものかと思ったのですが、でも、個人の成長を支えるためのものならその個人に合わせることができる形で授業が運営されているはずです。
それに、どう見ても子どもたちの可能性が広がっているようには見えません。
実際に、子どもたちは学校での学びを通して、どんどん閉鎖的、排他的になってしまっているからです。それは、学校が“成績”という一つの価値観しか認めない社会だからです。

昔の寺子屋は、基本的に自学自習ですから、個人の学びに合わせた形で教育を行うことが出来ました。でも、今の学校は一斉教育ですから個人の学びに合わせた形で教育を行うことはできません。それに、自学自習の学びでは点数による他人との比較は意味がありません。あくまでも、比較の対象は昨日の自分だけだからです。

つまり、今の子どもたちは自分には関係のないことを押しつけられているわけです。
だからやる気が出なくて当然です。
“なんで勉強なんてやるのか”という疑問が出てきて当然です。

それで、学校は点数による競争原理を取り入れ、“点数が低いより、高い方がいいに決まっているじゃないか”という風に論理をすり替えて、子どもを説得しようとしています。


例えばそれは、“人間の価値を背の高さだけで決める”という論理と全く同じすり替えです。

音楽の80点と、数学の80点とでは全く意味が違うはずなのにそれを足し算して成績を出すなどと言うおかしな事をやっているわけです。
(「水1リットルとリンゴ3個と自動車2台を足すと、いくつでしょう」という問題と同じです。全部重さに換算することで、この問題の問題点を見えなくしてしまっているのです。)

このような状況で、“ぼくは勉強が嫌いだ”というのは正当な意見として、大人は真剣に受け止めなければならないと思うのですが、どうなのでしょうか。





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Last updated  2007.09.24 15:23:39
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