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森の声@ Re[3]:「体験格差」(子どもの育ちに必要な体験について)(11/04) めげぞうさんへ >これからどうなって行…

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森の声

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2008.04.02
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カテゴリ: カテゴリ未分類
以前、「“ものがたり”という技法」というテーマでしばらく書きましたが、今回はその「技法シリーズ」の二回目です。ただし、三回目があるかどうかは不明ですけど・・・。

日本人はどうも物事を感覚的に捉えるのは得意なのですが論理的、構造的に捉えるのは苦手なようです。それで、何でもかんでも精神論に還元してしまう癖があります。
子育てでも優しさやつながりが大切だとは言いますが、でもいつも“ではどうやってその優しさやつながりを育てるのか”という具体的な方法論がないのです。そして、ただ箱ものを作ったり、イベントを企画するだけで、後は全て個人の意識と努力だけに還元してしまうのです。
だから、トラブルがあるとみんな個人の責任になってしまうのです。

でもそのやり方では個人の資質に左右されるばかりです。優秀な資質を持った人は優秀な職人になることが出来ますが、資質を持っていない人は“努力が足らない”と言われてしまいます。でも、そんなこと言われてもどうしようもありません。特に子育てなどでは資質がないからといってやめるわけにはいきませんからね。

そこで技法が必要になるのです。
でも、ここでいう“技法”とはマニュアルのことではありません。一つの考え方、視点であり、またそれを実現するための方法のことです。
マニュアルは作業動作手順に過ぎません。ですから、マニュアルをこなす時にはそこに考え方も、視点も必要ありません。ただ“動作”があればいいのです。
“スマイルはタダです”というように、笑顔すら動作にしてしまうのがマニュアルです。
子どもはお母さんに“動作”ではなく、“心の触れ合い”を求めているからです。たとえ、笑顔やスキンシップがあってもそれがただの“動作”なら子どもの心は満たされないのです。

では、私の言うところの技法とはどのようなものかと言うことです。
それを簡単に言うと“技(わざ)”です。どんな立派なマニュアルがあってもマニュアルに載っていない出来事には対応出来ませんが、技を持っていれば自在に対応ができます。
そして、何が起きるか分からない子育ての現場ではマニュアルは全く役に立ちません。でも、技を持っていると冷静に対応出来るのです。

ただし、マニュアルは覚えるだけですが、技を学ぶためにはそれなりの訓練が必要になります。でも、この技は一度学んでしまうと子育てだけでなく人生の全てにおいて使うことが出来るのです。
昔は、幼い時からの群れ遊びや人と人との関わり合いを通してそういう技を自分の力で学んでいたのですが、でも、いまそういう関わり合いをしないまま大人になってしまっている人がいっぱいいるので現代ではこれを“技”として学ぶ必要があるのです。
そうでないと子育てが出来ないのです。
そして、この“技”は子育ての場だけでなく、教育の場でも使うことが出来ます。

さて、ここで今日のテーマである「表現という技法」の実際に入ります。
皆さんは学校で「1+1=□」という問題をやらされてきましたよね。この□の中に答えを入れるわけですが、この答えは一つしかありません。
これはマニュアルの発想です。だから、正誤を簡単に見分けることが出来ます。このような問題の採点は小学生でもできます。日本の学校のテスト問題の大部分は小学生でも採点出来るレベルのものばかりなのです。
また、サイコロを転がせば回答出来るような問題が多いのでサルでも0点にはならないかも知れません。

人は答えが一つではないから考えるのです。 たった一つしか正解がない場合は考えないのです。覚えるだけです。そして、日本の教育は覚えるだけの教育です。これで応用力が育ったら奇跡です。

これも“表現の技法”の一つです。
私が言っている表現とは、演劇や絵画などの芸術のことだけを言っているわけではありません。
まず、そこを理解してください。
まず自由があり、そこから自分の感覚や考えなどで何かを選び取っていくのが私が考える“表現”なのです。そして、それ故に表現を大切にする教育とは考えることを大切にする教育でもあるのです。
ですから、もちろん自由に絵を描くことも表現です。真っ白い画用紙に一本の線を引くだけでも表現なのです。無数に可能な線の中からその一本を選び取らなければならないからです。


また、自由ばかりで一つを選び取るという必要がない状態でも表現は生まれません。欲しいものを何でも買ってもらえるのは表現ではなく、その欲しい物の中から一つを選ぶ時に表現が生まれると言うことです。それは、 自由の中の不自由が必要だということです。 そういう体験の中から子どもたちは自由の大切さ、自由な社会での生き方を学んでいくのです。
表現を学ぶということと自由を学ぶということとは密接につながっているのです。 自由は一つの技術として学ぶものなのです。そしてその技術が民主主義を支えているのです。でも、その事を知っている人は多くありません。そして日本の民主主義には自由がありません。

また、“どう思いますか”と問いかけるのも表現の技法です。日本の教育では“あなたはどう思いますか”と問いかけることはしません。
ですから、お母さん達に“自由とはどういうことですか”、“平和はなぜ大切なのですか”と問いかけてもみんな自分の考えではなく“答え”を言おうとするのです。

それで、“いや、答えではなく、あなたの考えを聞かせて下さい”と聞いても、その意味が理解出来ないのです。大学のレポート課題でネットで調べた知識をコラージュしてまとめたような答えしか返ってこないのです。
でも、私はお母さん達を非難しているわけではありません。これは日本の教育の問題なのです。でも、その事に気付き、そこから抜け出さないことには自分の人生を自分自身のものとして生きることは難しいでしょうね。人生も一つの表現だからです。コラージュした人生では虚しいでしょ。

科学寅さんがやっている「仮説実験授業」は問いかけることから始まります。これも表現の技法に基づいたやり方です。問いかけられることから思考が始まるのです。

私がこのように現代の様々な問題に対して“技法”という形で対応策を提示しているのは、技法は共有され、伝えることが出来るからです。また、他の人が研究し、開発していくことも可能です。個々の場において適切な技法をみんなで考えることが出来るのです。精神論ではそれができないのです。
そして、これが“技法”であるという認識があれば話し合いや議論も可能になります。でも、精神論は価値観のぶつかり合いになってしまいます。

精神論は個人の中では有効ですが、それを共有させようとするとあぶない方向へ行ってしまうのです。それで、それを避けるために今度はマニュアルに頼ってしまうのが今の日本のやり方です。

また、科学寅さんが「どんぐり倶楽部」という所の勉強法を勧めていますが、詳しくは知りませんが寅さんの説明を読んだ限りではそれも“表現の技法”を応用しているようです。
このように、


ちなみに以前書いた「“ものがたり”という技法」も同じです。“ものがたり”という技法に気付くとそれまで別のものだと思っていたことが一つにつながるのです。そして新しい方法も考えやすくなります。ポイントが分かるからです。

R.シュタイナーが“芸術のように授業をしよう”と謳いましたが、それを多くの人は芸術教育と思い違いをしています。でも、それもどうしたらよいのか見えてきます。

確かに宮沢賢治は素敵な授業をしました。でも、賢治は技法を作らなかったので、職人芸で終わってしまいました。でも、R.シュタイナーは技法を作りました。だからその方法が残っているのです。





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Last updated  2008.04.02 19:06:50
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