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「楽しさ」を意識し… New! かめおか ゆみこさん

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森の声

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2008.11.29
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カテゴリ: カテゴリ未分類
ピアノさん

生きていてくれて有り難う。

ピアノさんと出会えたことを感謝します。

人は出会いによって成長します。その変化は常に双方向的です。人が素直にありのままの自分であろうとするとき、その出会いが起きます。
出会うとはそういうことなのです。

ですから、ピアノさんが私のブログに影響を受けたように、私はピアノさんの心からのコメントに影響を受けました。

有り難うございます。

ということで、色々と考えたので、もう少し話を続けさせてください。

人と人が関わるときに、その関わり方には二つのパターンがあります。
それが「向き合う形」と「共有する形」です。

それに対して、「共感」や「共存」は共有する形です。

欧米文化における人間関係は「向き合う形」が多く、東洋における人間関係は「共有する形」が多いと思います。だから、欧米ではすぐに対立になるのに対して、東洋では対立ではなく共存を目指すのです。(欧米では契約によってその対立を押さえています。東洋では信用でつながるので契約は不要です。)

子育てが難しくなってしまっている人の場合、欧米型の向き合う形で子育てをしていることが多いように感じます。向き合ってしまっているので自分の子どものことしか見えなくなってしまっているのです。そして、その子どもに自分の影を見て自分のことばかり気になるようになり、結局、肝心の子どもが見えなくなります。
つまり、向き合う子育てではお母さんは自分を相手にすることになってしまうのです。そして子どもが取り残されていきます。

子どもが多いときにはそのような問題は起きにくいのですが、子どもが一人だけだとその状態に陥りやすくなってしまうのです。そして、今そのような状態で子育てをしている人が一般的になってきました。

私は、その根底には「孤独」と「不安」があるのではないかと思います。
孤独な人は待つことが出来ません。だから、直接相手と向き合うことでつながろうとするのです。顔が見えないと不安なんです。キリスト教の根底にもその孤独を感じます。それが「原罪」の思想を生み出してきたのではないかと思っています。それは、キリスト教を生み出してきた風土の影響かも知れません。

欧米では「自然」に対してもそれをやっています。自然との関係の中で孤独と不安を感じていたのでしょう。だから、「自然」を人間に合わせようとするのです。子育てでは子どもを大人に合わせようとします。

私は、欧米文化の根底に「孤独」と「不安」を感じるのです。だから、絶対神を求めるのではないでしょうか。

でも、東洋ではその逆に人間が「自然」に合わせようとしてきました。子どもに大人が合わせようとしてきました。だから一般的に子どもに寛容だったのです。

でもそれ故に、東洋では機械文明が発展しませんでした。だから、絶対神も生まれず、客観的な視点に基づく科学や文化も生まれませんでした。




遊びにもこの二つのタイプの遊びがあります。
じゃんけんやゲームのような遊びは「向き合う遊び」です。
わらべうたのような遊びは「共有する遊び」です。

そして今、子どもたちはこの「共有する遊び」を遊ぶことが出来なくなってしまいました。すぐ、対立しようとするのです。お母さんとの関係をそのまま遊びの場にも持ち込もうとしているのでしょう。

そんな時、スポーツならルールという「契約」があるので、対立は回避されます。だから、今の子どもたちはスポーツなら遊ぶことが出来ます。でも、ルールがないわらべうたのような遊びでは遊ぶことが出来ないのです。




おままごとも「共有」する遊びです。ピアノさんは共有する遊びでも向き合おうとしてしまうのでしょう。だから、どうしていいのか分からなくなってしまうのです。

続きます。





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Last updated  2008.11.29 09:16:18
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ありがとうございます・・・その5  
ピアノ さん
森の声さんの暖かく包み込むような文章に・・・
心が、明るい光のある場所の方角へ、と引き上げられたような気持ちになります。

このあいだはコメントを何か憑かれたように、一気に書いてしまって
最後に我に返ったような状態でした。読んで嫌な思いをする方がいないか、心配でした。
そして何故か「怖さ」を感じていました。

今回の文章を読んで、ハっとしました。
> 人が素直にありのままの自分であろうとするとき

ああ・・・わたしは、今までの人生をずっと
仮面を被って生きていたのだなあ、と実感しました。
そして今まで受けた暴力の全てを、自分の人間としての価値の低さの証明のように
感じていたことに、初めて、気が付きました。
首を絞められて、首に黒いアザをつけられるくらいの
顔の骨を折られても、それを受けるべき、な
そんな暴力を受けて然るべき価値しかない、人間だ、と。
そして原因も、見えました。幼いときに親からよく物で滅多打ちにされていました。
1mの竹の物差しは2つに裂け、そろばんは折れ、やは首を絞められ、ロープで吊るされ、、
だから親と離れても、似た人間にばかり、つかまってしまう。
前回、コメントを書いた後に後に襲われた「怖さ」の理由が見えてきました。
自分の過去をこれだけ恥に思う理由。そんな奴隷のような価値しかない人間だと、
人から思われないよう、今まで必死で隠してきたんですね。 (2008.11.30 15:05:49)

ありがとうございます・・・その6  
ピアノ さん
続きです。
それを「素直に」と言ってくださって、目から涙と一緒に鱗が落ちました。

なぜなら、森の声さんの文章にわたしへの疑いが無いからです。
そして、逃げも無い・・・。感動しました。

わたしの思う普通の人の対応は、そんな変なことをされている人
心の傷を持つ人と関わるのは止めよう、と思うのではないかと。
人は異質なものを嫌います。自分とは異なる世界の体験を持つものは異質です。
または、信じられません。異質な体験談は、幽霊を見た人のように
信じられないと、思うのでは、と。
だから、必死で無かったことにしてきました。でも子供が産まれて
無理矢理こじ開けられる。記憶障害でスッポリ抜けていた部分でさえ
ちらほらと浮かび始める。育児が苦しくて、たまらない!
そして森の声さんに思い切って相談して出会ったキーワード。
ああ。「それが、わたしである」、ということ。
今までどれだけ自分に素直に、とか、ありのままに、という数々の文章を
読んできても、そこには届かなかった。そこは黒い布で覆われていて
隠されていた、でもやっとそこに光が当たった、そんな感じです。 (2008.11.30 15:07:32)

共有する遊びの中で  
ピアノ さん
何度もすみません。
あまりにビックリした事があり、先にその思いを書いてしまいました。

> ピアノさんは共有する遊びでも向き合おうとしてしまうのでしょう。
> だから、どうしていいのか分からなくなってしまうのです。

はい。間違いなくその通りです。その理由は
このブログのひとつ上の文章「共感とつながり」の中にある

>そして、子どもの姿の中に必要以上に自分の姿を見つけてしまいます。
> そして、それを消そうとします。だからよけいに子育てが難しくなるのです。

正しく、これが答えです。
そうです、おままごとをしている自分の子供が
子供時代のわたし自身の映像へと、摩り替わってしまうのです。
そして大きな恐怖感に襲われます。私が子供のとき、楽しいことを
しているとき、面白いことがあってキャッキャと笑い声を出したとき
たいがい恐ろしいことが起こります。たぶん不機嫌な人間は楽しそうな
姿を不快に思う心理からでしょう。それで自分の子供が笑ったり
または熱中して遊んでいるのを見ると、突然恐怖感に襲われ逃げたくなるか
または何も我が子に向かって背後から飛んでくるわけではないのに
ギュっと守りたくなります。3才の子供はそんなとき、いつも
ママだいじょうぶだよ、と言います。そしてまた自己嫌悪になります。
子供に心配をさせてしまったことに対して・・・。
自分の傷を子供に見せてしまっているわたしも、子供に精神的な
虐待をしてしまっているのではないだろうかと、悩みます。 (2008.11.30 15:43:33)

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