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すべて、お楽しみさ… New! かめおか ゆみこさん

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森の声

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2012.04.21
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カテゴリ: カテゴリ未分類
私は色々なことをあれこれ書いていますが、それらは全て「自由になるため」だということに最近気づきました。

気質を学ぶのも、からだのことを学ぶのもみな自由になるためだし、子育てや教育のことを考えるのは子どもたちが自由に生きることが出来るように、ということです。

人の苦しみの原因は「他者からの束縛」と「自分自身による束縛」の二種類があります。他者からの束縛は逃げることが可能です。また、苦しくても、自分で自分を責める必要はなく、怒りという形でその苦しみを行動のエネルギーに転換することも可能です。

でも、「自分自身による束縛」だけはどうしようもありません。

逃げることが出来ません。また、束縛しているのも自分なので、束縛している自分を責めてしまうと余計に苦しくなります。

この苦しみからは逃れることが出来ません。消すことも出来ません。

麻薬やお酒やお金や様々なものへの依存を通して、一時の安楽を得ることは可能ですが、それらには常に一時的な効果しかありません。

人は死ぬまで「自分」からは逃れることが出来ないからです。

「だから受け入れなさい。生きるとはそういうことなのですから。」と説いたのがお釈迦さまです。



この二大聖人のいずれも「苦しみを取り除く方法」を提示したわけではありません。「苦しみの受け入れ方」を提示しただけです。

つまり、お釈迦さまやキリストでさえ、苦しみを取り除くことは出来なかったのです。それだけ「生きる」ということにおいて苦しみは本質的な要素だということです。

でも、「生きる」ということにおいて人間が得たのは「苦しみ」だけではありません。「喜び」もまた、「生きる」ということにおいて本質的な要素なのです。

苦しみがあるから喜びがあり、喜びがあるから苦しみがあるのです。この二つが組み合わさって「生きる」という事象が成り立っているのです。

空腹という苦しみがあるから、食べることの喜びもあるのです。子育ての苦しみがあるから、子育ての喜びもあるのです。

でも、そのどちらの面を強く意識しているのかということは人それぞれです。

「人生は嬉しいことがいっぱいだ」という人もいれば、「人生は苦しいことでいっぱいだ」という人もいます。でも、登山のように、時として「大きな苦しみ」は「大きな喜び」の種であることがよくあります。

だから修行者は、大きな喜びを得るために、わざわざ大きな苦しみを引き受けるのです。マザー・テレサも同じです。

お釈迦さまやキリストさまでさえ「苦しみを取り除く方法」を知らなかったのですから、当然のことながら私も知りません。

でも、「人生は苦しいことだけじゃないんだよ」ということを伝えることは出来ます。

苦しみがやってくる時には苦しみを否定せず素直に苦しみ、喜びがやってくる時には苦しみを想い出さず素直に喜ぶ。



雨が降ったら雨を楽しみ
雪が降ったら雪を楽しみ
子どもが生まれたら子育てを楽しみ
病気になったら病気を楽しみ
老いたら老いを楽しむ



多分、そういう生き方が「自由な生き方」ということなのではないでしょうか。





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Last updated  2012.04.21 08:33:19
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