森へ行こう(心とからだと子育てと)

森へ行こう(心とからだと子育てと)

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Favorite Blog

すべて、お楽しみさ… New! かめおか ゆみこさん

Profile

森の声

森の声

2012.08.29
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
私は15年くらい前から、子育てでも、教育でも、社会の状態でも「このままでは大変なことになる」と言い続けてきました。

そして実際、予想したとおりの状態になってきました。

このままではさらにどんどん悪化していくでしょう。

しかも、世界規模でその悪化は進むでしょう。

永遠に拡大し続ける経済などあり得ません。経済規模の拡大には「地球の許容能力」という上限があるからです。

そして、もうその上限に達してしまっています。

ですから後は、その上限の範囲内での「奪い合い」が起きるだけです。そして、さらに困ったことには、気候変動によりその「上限」自体が下がり始めています。

今までは世界規模で人々の生活が豊かになりましたが、これからは搾取によって豊かさを維持できる国と、搾取され貧しくなる国に分かれていくでしょう。

そして、強い国はますます強くなり、弱い国はますます弱くなります。なぜなら、強い国が「世界のルール」を決めているからです。



民主主義社会では、少数意見を尊重すべきなのですが、選挙というシステムでは結局多数派が勝つのです。そして、その多数派を操ることが出来るのは「富める者」なのです。

「貧しい者」は選挙に出ることさえ出来ません。

よく、「政治がこんな状態になってしまっているのは、政治家を選んでいる私たちの責任だ」というようなことを言う人がいますが、それは違います。

「富める者」しか立候補することが出来ないシステムでは、どんなに正しくても「貧しい者」の意見は通らないのです。

裁判員制度のように、抽選で選ばれた任意の国民のグループが、一年ぐらいの単位で政治のあり方について強く提言できるようなシステムがあれば、国民の声を直接政治家に届けることが出来ますが、今の政治はあまりにも国民の感覚からずれてしまっています。

そして、政治家たちはそのことに気付いてすらいません。気付いていたとしても、そのようなシステムは作らないでしょう。

殺人事件のような、非日常的な出来事を市民感覚で判断させようとしているのに、「政治」という私たちの生活に密着したことに関しては「市民感覚」を全く無視しているのです。

ここには大きな矛盾があるのですが、「富める者」は決して自分たちの利益や既得権を失うような制度は作らないのです。

それは、アメリカのやり方を見ていてもよく分かります。それでもアメリカは情報は開示します。ですから、後からその過程をチェックすることは可能です。そしてそのことが選挙にも影響してくるでしょう。

でも、日本では情報も開示しないので、裏で何をやっているのか全く分かりません。それで選挙で正しい判断を求められても、それは不可能です。「情報開示」は民主主義の根幹です。日本にはその根幹すらありません。三権分立すら出来ていません。

日本の政治は「民主主義」ではなく、ただの「多数主義」です。



と、悲観的なことを書いていますが、でも、私が私の立場で言いたいことはそのようなことではありません。

私が言いたいことは、「そのような社会の流れの中で私たちはどのようにして「子ども」と、「自分」と、「家族」と、「仲間」を守っていくことが出来るのかということです。

何も知らず、何も考えずに、流れに任せままの生き方をしていると、取り返しが付かなくなります。

みんながゲーム機を持っているからと、何の考えもなく子どもにゲーム機を与えていると、困ったことになります。

小さい時からゲームで遊んで育った人には、その「問題」が見えません。でも、「問題が見えなくなること」が最大の問題なのです。そして、そのような人はゲーム機の害を説く人を非難します。



そのような人の世界観は「ゲーム機ありき」から始まってしまっているので、「生命」や、「からだ」や、「自然」といったものの立場に立った考え方は理解できないのです。

人は、「子どもの頃に体験したことのない世界」のことについては考えることが出来ないのです。

子どもの頃にそのようなものと深く触れあわないままゲーム漬けの生活をしていると、お母さんがどんなに「自然」が大好きでも、子どもは「自然」に違和感を感じるようになるのです。

そのような価値観で育った人にとっては、「自然を守ろう」という言葉は「資源を守ろう」という言葉と同じ意味になります。

でも、幼い頃から自然と交流しながら育った人にとっては、「自然を守る」ということは「命を守る」ことと同じです。

表現は同じでも、その言葉に込められた意味が全く違うのです。

だからこそ、子どもの頃に「生命」や、「からだ」や、「自然」といった、「私たちの命を支えている根源的なもの」と出会う体験が必要なのです。

その体験が「子ども」と、「自分」と、「家族」と、「仲間」を守っていく力になるのです。

経済が崩壊しても、「子ども」と、「自分」と、「家族」と、「仲間」を守る能力を持っている人は、何とか生き延びていくことが出来るのです。

そして、そのような人たちが、いつの日かまた新しい文化と文明の形を再生していくでしょう。

私は「絶望」を書いているのではなく、「絶望」の後に来る「希望」を書いているのです。

子どもの心やからだに寄り添った子育てや教育は「希望を育てる行為」なのです。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2012.08.29 09:03:05
コメント(2) | コメントを書く


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


Re:「人類の希望としての子育て」(08/29)  
まっちーオンマ さん
毎日ブログを読ませていただいて、考えることが多くて追いつかず、コメントしようにもかなり時間がかかってしまいました・・・。
子どもが生まれる前の時間がある時期に人権問題について触れたことがあり、そこから「日本の社会は民主主義ではなく、多数主義である」ことを知りました。自分の手で政府(?)から人権を勝ち取った国と日本とは明らかに何かが違うのです。与えられた民主主義のような、説明が難しいですが。
このこととはまた別に、私自身の課題と言うか、日本に行って韓国に戻ってきて感じることも多くあり、まだ整理がつきません。
ただ、交友関係が限られてる異国で、私には芸術的活動は必要だと思いました。絵ならお金もかからないかな、と思うのですが、たとえば、文章でも芸術のうちに入るでしょうか?
長くなりそうなので、ここまでにしますね。。。 (2012.08.29 09:46:01)

Re[1]:「人類の希望としての子育て」(08/29)  
まっちーオンマさん
>自分の手で政府(?)から人権を勝ち取った国と日本とは明らかに何かが違うのです。与えられた民主主義のような、説明が難しいですが。

日本の民主主義は権力によって与えてもらったものです。

>ただ、交友関係が限られてる異国で、私には芸術的活動は必要だと思いました。絵ならお金もかからないかな、と思うのですが、たとえば、文章でも芸術のうちに入るでしょうか?

もちろん、表現することはみな芸術に入ります。

ただし、「表現=芸術」ではなく「よりよく表現しようとする意識」が「芸術」になります。
(2012.08.31 11:00:14)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.

Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: