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「楽しさ」を意識し… New! かめおか ゆみこさん

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森の声

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2012.09.09
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カテゴリ: カテゴリ未分類
多くの人が「人間は全ての生き物たちの王であり、地球の支配者であり、地球上で最も偉大で賢い生き物」だと思い込んでいます。

でもそれは勘違いです。

現代人を、何も持たせずに一人だけで無人島に閉じ込めたら、ほとんどの人が何も出来ないまま死んでしまうか、獣のような生活によって生きながらえるだけになってしまうでしょう。

一人だけでなく数人の人間でも、何も持たせなければ、結局同じことになるでしょう。

子どもだけだったらもっと悲惨なことになります。

人間の素晴らしさは「個」に属するのではなく、集団に属しているのです。ですから、人間を集団から切り離してしまえば、「人間」は「取るに足らない存在」になってしまいます。


現代に生まれた子でも、集団から切り離された状態で育てられてしまえば、集団の中で育った古代人以下の能力しか得ることが出来なくなります。

だからこそ、どのような集団の中で、どのような関わり方をしながら育ったのかということが、その子の人間としての成長に決定的な影響を与えているのです。

その「集団」は、「古代からの智恵と知識と技術の積み重ね」の上に成り立っています。



そして、その「古代からの智恵と知識と技術の積み重ね」は「言葉」によって受け継がれ、支えられてきました。

そこには「目に見える世界」だけでなく「目には見えない世界」に関する知恵と知識と技術も含まれます。

人間は「言葉を共有することでつながる生き物」なのです。ですから、「同じ言葉」を話す人が「仲間」なのです。これは子どもの集団でも大人の集団でも同じです。


人間の精神の自由も「言葉」によって支えられています。 「言葉」を失うことは、「心」を失うことです。「心」を失うことは「自由」を失うことです。「自由」を失うことは「創造性」や「想像力」を失うことです。

そして、「つながり」を失うことです。

ですから、「言葉」を失えば、「古代からの智恵と知識と技術の積み重ね」も消え、それを共有することで成り立っていた集団も消え、人間は「個」として生きなければならない存在になり、次第に人間としての偉大な能力を失っていきます。

それは、今、現在進行形の現象です。

現代人が「お金」と「道具」さえあれば「言葉」も「つながり」も必要としない社会を作り出したからです。

でも、「言葉」と「つながり」が失われた世界では、「子育て」が出来ないのです。
そのため、悪循環の連鎖によって状態の悪化が加速しています。

今、「バベルの塔」の崩壊が始まっているのです。



「ウルセー テメー シズカニシロ」と怒鳴るような子育てをしていたら取りかえしが付かなくなってしまうのです。

そのためにまず必要なのは一人一人が「自分の言葉」を取り戻すことです。

知識や常識を語るのではなく、また他人の言葉を引用するのでもなく、自分の頭で考えたことや自分で感じたことを、「自分の言葉」で語るようにするのです。

その時、「自分との対話」が起きます。その「自分との対話」が、意識や、感覚や、知性や、心を目覚めさせるのです。

そして、これが非常に重要なことなのですが、「自分との対話」が出来る人だけが、「他者との対話」も出来るのです。





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Last updated  2012.09.09 11:37:35
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Re:「バベルの塔」(言葉が失われつつある社会)(09/09)  
忠武飛龍  さん
原発の崩壊が、日本のバベルの塔の崩壊に思えました。

今の文明自体が虚妄ですから、崩壊すべきでしょう。

でも文化は残すべきですし、人は生きるべきでしょう。

再見! (2012.09.09 19:33:41)

Re[1]:「バベルの塔」(言葉が失われつつある社会)(09/09)  
森の声  さん
忠武飛龍さん
>原発の崩壊が、日本のバベルの塔の崩壊に思えました。

>今の文明自体が虚妄ですから、崩壊すべきでしょう。

問題は「その後」ですね。 (2012.09.10 09:31:10)

Re:「バベルの塔」(言葉が失われつつある社会)(09/09)  
三日月 さん
なるべく「自分の言葉」で、語るようにしたいです。「自分の言葉」で語っている人って、言葉に、命が吹き込まれているような気がします。
「自分の言葉で語る」って、私は自分の人生の中から生まれた言葉を、使うことなのではないかなあ、と思います。きっと、人によって、いろいろな解釈があると思いますが、私は、そういう風に、思いました。

人のことも、受け入れられるようになりたいです。

ざっと、読んだだけなので、うろ覚えなのですが、イラクの方へ、諸外国の兵士や自衛隊が、駐留したときに、現地の人の「諸外国への対応」が、国によって、違うということが、書いてありました。
「日本人にとっては、”なんで、違うんだ”と、思うけれども、その国では、対応が違って、当たり前で、日本の常識は、通用しないものなんです」と、いうような趣旨のことが、書かれてありました。

どの国にも、同じように接しようと努めるのが正しいような気がするので、「へえ、そうなのか」と驚いたのですが、
よくよく考えると、同じ日本人でも、「どうして、こういう対応なの?なんで、こうしないの」って思うことは、いっぱいありますね。
個人レベルでも、「異文化交流」に近い要素は、いっぱいあるように、思いました。受け入れるということは、一つの形だけじゃなくって、いろいろな形があるのかな、と最近思います。

領土問題について、テレビで、見てて、、解決する道があるのなら、受け入れられないとしても、たくさんの人、いろいろな考えに触れることが、大切なのではないかなあ、と思いました。
別に、外国へ行かなくったって、隣にいる人は、ちがう人生、違う考えを、持った別の人間ですよね。
なんか、「受け入れなきゃ」って、思うのでなくって、分かり合えなくても、「ふん、ふん」って、聞くだけでも、いいのかなって、思います。・・そんなことを、考えました。
(2012.09.10 11:15:41)

Re[1]:「バベルの塔」(言葉が失われつつある社会)(09/09)  
森の声  さん
三日月さん

>どの国にも、同じように接しようと努めるのが正しいような気がするので、「へえ、そうなのか」と驚いたのですが、

それは日本人が「国」という単位で物事を考えないからです。

だから、中国や韓国の反応に驚いてしまうのです。

本当は「国という単位」ではなく、「一人一人の人間」という単位で物事を見たり考えたりすればいいのかも知れませんが、日本以外の国ではみんな「まず国ありき」から物事を考え始めます。

そしてそれが今の世界の現実でもあります。

私も外国を放浪していた時「日本人であること」にずいぶん救われました。

中国人はどこに行っても馬鹿にされていました。

インドにいた時は「○○のやつだ」ということで、袋だたきになっている人もいました。 (2012.09.10 12:30:17)

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