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森の声@ Re[3]:「体験格差」(子どもの育ちに必要な体験について)(11/04) めげぞうさんへ >これからどうなって行…

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森の声

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2017.06.26
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カテゴリ: カテゴリ未分類
きょとん さんから以下のようなコメントを頂きました。

高校で事務員をしています。
今の若い人達は、理由もなく、他人を助ける事ができません。
自分に利益がないと、他人と関わったり、人を愛する事ができない事に強い危機感を感じています。
もちろん、説教や物語なんて高校生にしても耳を傾けず、スマホばかり見ているので、無駄です。
そんな中自分に何ができるか、模索しています。

最近ニュースを見ていて理解出来ないのは、自分が犯罪を犯している現場を動画に撮ってそれをネットにアップしている若者が多いことです。

イジメをしている動画、コンビニで冷蔵庫に入っている写真、道路を暴走している動画、子どもに車を運転させている動画、中には自分が自殺する動画までリアルタイムでアップする若者までいるようです。

彼氏だけに見てもらうために自分の性的な動画を送ったのに、その動画を誰でも見ることが出来るサイトにアップされてしまい困っている女の子もいます。

当然、犯罪を犯している動画をアップすれば、それが証拠になって捕まってしまいます。

犯罪を目撃した他者が、動画を撮って告発のためにアップするのなら分かるのですが、自分自身で自分の犯罪証拠をアップしているのです。

これは、捕まりたいからやっているのでしょうか。

それとも、単に、自分の趣味、興味、欲求に従って行動するだけで、その行動が自分自身や周囲にどのような影響を及ぼすのかを想像出来ないからなのでしょうか。

犯罪ではなくても、「死ぬかも知れない」というような危険な行為をしている動画をアップしている若者も多いので、多分、これは後者の理由によるものだと思われます。



イジメによって子どもが死んでしまう事件、虐待によって幼児が死んでしまう事件も多く起きていますが、そのような行為をした本人はみな「殺すつもりはなかった」といいます。

多分それは本当のことなんだと思います。
「自分の趣味、興味、欲求に従って行動していたら、気付いたら相手が死んでいた」ということなのでしょう。

殺すつもりがなく、子どもを殴ったり、蹴ったり、水につけたり、ヒモで縛ったり、ご飯を与えなかったり、冬にベランダに出したり、高いところから落としたり、熱湯をかけたりしているのです。

刑法的には、「殺すつもりがなく、自分はただ遊んでいただけなのに相手が死んでしまった」ということを主張すれば、殺意を持った殺人よりも罪が軽くなるのかも知れませんが、でも、「人類の未来」という視点で考えると、これは、「殺意がある殺人」よりもはるかに恐ろしいことです。

このようなことを平気でしてしまうような若者(大人も)でも、普段は普通の「いい子」(いい人)です。

ただ「楽しいこと」を探しているだけで、悪意や殺意を持って行動しているわけではないからです。
ですからイジメをしている最中も、音声を消していじめている子だけの動画を撮れば、楽しいことをしているようにしか見えないと思います。

いじめられている子は地獄の苦しみの中にいるのに、いじめている方はそれを単なる「遊び」としか考えていないのです。

そこにあるのは恐ろしいほどの想像力の欠如です。

それを大人は「イジメは良くないことだ」「イジメをやめよう」と子どもに押しつけるだけで回避できると思い込んでいます。


じゃあ、どうしてそうなってしまっているのかということですが、それは遊びや生活の中に想像力が育つような学びや体験が欠如しているからです。

最近の子どもたちは、簡単便利で何の不自由もなく受け身の生活をして、牛や豚が死ぬ現場に立ち会わなくても牛肉や豚肉をたらふく食べることも出来ます。


ケンカもする前に止められてしまっています。
ハサミもナイフもノコギリも、「危ないから」といって使わせてもらえません。

自分の意思で、自由に行動する自由も与えられていないし、一緒に行動する仲間も、行動する時間も空間も奪われてしまっています。

子どもたちに与えられているのは画面の中の空間だけです。

そして毎日、お勉強とゲームとテレビやネットに明け暮れ、親や先生から競争に追い立てられながら生活しています。そんな生活をしていたら必然的に想像力が欠如した状態になってしまうのです。



そのような人は、ありのままの世界、ありのままの自分には目を向けずに、思い込みによって作られた自分の感覚と価値観だけで世界を認識しているのです。

そこには「自分を中心にした視点」しか存在していません。
そのため、「自分に見えない世界」は存在していないのです。
「自分」すら存在していません。自分のことは見えないからです。

そしてそれは、想像力とは異なるものです。

想像力とは、ありもしないことを色々と考える能力のことではありません。
自分中心の視点だけで色々と考えるのは「想像」ではなく「空想」の方です。「想像すること」と「空想すること」は違うのです。

「想像力」とは、つながりの中で、可能性をたどっていく能力です。ですから、科学的な思考にも想像力は必要です。

自分自身のこともそのつながりの中で考えることが出来ます。

「こういうことをしたらこういう結果になるな」ということを、行為をする前に考えることが出来るのも想像力です。

でも、そのように想像できるようになるためには体験が必要になるわけです。
「狭いところで棒を振り回したら危ない」ということを棒を振り回さなくても分かるようになるためには、棒を振り回した体験が必要になるのです。

それに対して「空想」の方は、自分の感覚や価値観に導かれて自由に考えが展開していくだけなので、そこにあるのはあくまでも「自分視点」だけです。

「想像」は現実の延長にあるの対して、「空想」は現実とは切り離されたところにあるのです。そのため体験が必要ないのです。

幼児でも空想は出来ます。でも、体験が乏しい幼児は想像するのは苦手です。だから、平気で後先を考えずに困った事をしてしまうのです。

自己肯定感が低い人がいつもやっているのも「空想」の方です。
だから、いつまでもその状態から抜け出すことが出来ないのです。「空想」を「想像」に変えていくと自分の姿が見えてくるのです。

そしてその事で、出口が見えるようになってくるのです。

最近の若者が得意なのもその「空想」の方です。空想には何の学びも必要が無いからです。

空想と想像の違いを絵本で例に挙げると

「かいじゅうたちのいるところ」(センダック)や「もりのなか」(エッツ)などに描かれているのは、空想の世界です。そこには「自分視点」しかありません。ですから、「何でもあり」です。

長新太の絵本も、ファンタジーの世界も空想の世界です。(ただし、子どものファンタジーと大人の空想とでは質が違います。)

それに対して、「そらのいろ みずいろ」(下田昌克)、「しんせつなともだち」( 方軼羣, 君島久子)、「おおきな木」(シェル・シルヴァスタイン)、「よあけ」(ユリー・シュルヴィッツ)などは想像によって生まれた世界です。

それらの絵本では、現実の世界の出来事が「自分を超えた視点」で書かれています。

絵本と言っていいのか分かりませんが「せいめいのれきし」(バージニア・リー・バートン)で描かれているのも想像の世界です。

「根っこのこどもたち 目をさます」(S.V.オルファース)や、様々な昔話などは、想像と空想が混ざり合っています。

そして絵本としてはこのタイプが一番多いかも知れません。いわむらかずおの「14ひき」のシリーズも、想像と空想が混ざっています。

ただし、空想することも大切ですからね。人は空想の世界では自由になることが出来るからです。
まただから、自由が与えられていない子は空想の世界に逃げ込んでしまうのかも知れません。

自分の部屋に引きこもっている子にとっては、自分の部屋の中だけが自分が自由でいることが出来る空想の世界なんだろうと思います。

空想の中にいると自分と向き合わなくてもいいのです。
でも、想像は自分と向き合わないと出来ないのです。

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Last updated  2017.06.26 13:06:57
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