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母の日に「お花」と「お嫁さんからの大切なお手紙」をいただきました。あまりにうれしかったのでここに紹介します。 お母さんへご無沙汰しております。母の日、今年もお花をお贈りします。 以下は長くなりますが私達家族の近況です。 Yさん(息子)は夜遅い帰宅のことも多いですが、休日はご飯を作ってくれたり、家族とのお出かけの時間を作ってくれたりと、疲れているところ家族のためにたくさん尽くしていただき、本当に感謝です。 娘が寝静まってから2人で離乳食作りをすることもあります。こんな旦那さん、なかなかいないと思います。ゴールデンウイークには福岡へ2泊3日で旅行にも行きました。楽しい思い出がまた一つ増えました。 娘は4月から保育園生活がスタートしました。園ではあまり泣くこともないようで、教室に着くと目を輝かせて一目散におもちゃ目がけてずり這いをしていく姿はとても可愛らしい反面、私から離れても平気そうな娘を見て少し寂しさもありましたが、今のところ上手く馴染めているようで安心しています。 自宅では私の姿が見えなくなると泣いてしがみついてくるのに不思議です。よほど保育園のおもちゃが魅力的なのでしょうか? 最近は高速ずり這いから少しぎこちないハイハイで移動するようになりました。椅子を押して歩いたり、「いただきます」、「バンザーイ」、「行ってらっしゃーい」などもできるようになりました。 今月には早いもので1歳を迎えます。去年の今頃はお腹の中にいた子が、こんなに大きくなり目の前で笑い遊んでいる姿を見ると不思議な感じがします。 最後にお義母さんにずーっとお伝えしたかった事があります。母の日なのでこの機会に。 Yさんを産み育ててくださってありがとうございます。うまく表現できないのですが、Yさんの穏やかで優しいところ、いつも前向きでポジティブなところ、明るくお話好きなところ、お料理をつくることや食べることが大好きなのはお母さんの影響が大きかったのかな?と感じます。(Yさんから子供の頃の思い出話などを聞いていて) 最近お義母さんのブログをYさんにみせていただきました。お義母さんのいろいろな思い、家族の支え、愛情を知って涙なしには読めませんでした。一緒にブログを書かれているお父さんの優しさも伝わってきます。 私がお義母さんの直接お役に立てることはないかもしれませんが、ただただお母さんが行き続けてくださっていることに感謝の気持ちを伝えたいです。 これからもずっと孫の成長、私たち家族のことを見守っていてください。また家族みんなでそちらに伺いますね。 私も、お母さんの目の動きを読んで直接お話ができるようになりたいです!!
2023年07月20日
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お孫ちゃんは可愛いよ。仕事熱心だった(今も)夫はわが子よりもメロメロだ。コロナ禍でも、娘と赤ちゃんは時折来てくれて、両親の家にも寄ってくれた。ご近所に桜の見どころがいくつかあり、お花見を兼ねて母を連れて来てくれた。母に会うのは数ヶ月ぶりだった。認知症のすすんでいる母が、私の手を撫でながら泣いていた。何の役にも立たない私が親不孝していると改めて感じた瞬間だった。初孫ちゃんは4月で1歳になった。重宝なのは私の子育て時代になかった動画や写真で、その時折ですくすくと育つのを見守っている。お試し保育と産休を終えて、娘は職場復帰をして頑張っている。ロシアのウクライナへの侵攻、これほど長く続くなんて心痛む。動ける、働ける、絵をかける、お話しできる、お食事できる、元気なウクライナの人々が、次々に命を落としている、、、許されない。お孫ちゃんの未来が平和の時代になっていることを祈り続けるであろう。
2022年07月15日
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2年ぐらい前から思いついて始めたから、スマホで調べたはずがなく、頭の中で毎日確認している。iPS細胞に期待しているけど、ぼけになったら失敗なので、私の方法でぼけ防止している。47都道府県を覚えている。山口県、大分県、石川県と字画の少ない県から21画の県まで確認している。(12画の県は香川県、三重県、岩手県)テレビのネプリーグでしていたけど、都道府県の中で濁音がついているのが20。さんずいへん「氵」がついているのが4。100人の医師が選んだ体に良い食べ物ベスト10。第1位は納豆。朝よりも夕食にとった方が良いらしい。夫の出張中に、たっぷりの大根おろしとともに和風スパゲッティをよく作っていた。第2位は鯖。生を使うより缶の方が新鮮な鯖を使っているので漬け汁も食べること。第3位はヨーグルト。昔、コレステロールが溜まるので卵は1日1個までと聞かされていたけど、今は正反対。毎日、卵3個以上食べ続けているヨーロッパの100歳近くの健康な女性をテレビで見た。ドライアイには、銀鮭と良いごま油を毎日摂ると楽になる。キノコは冷凍した方が栄養が豊かになる。など、食べ物がプラスになる方法が50個ぐらい。漢字でさんずいへんが付くのを57個、にんべんが付くのは50個、きへんが付くのは35個、しんにょうが付くのは28個、うかんむりが付くのは23個、てへんが付くのは18個、くさかんむりが付くのは15個、おんなへんが付くのは12個。5画の漢字(丘、写、母など)は69個。10画の漢字(恩、師、書など)は70個。老漫才コンビが簡単にしていたので面白いなとチャレンジしてみた。1+1=2, 2+2=4, 64+64=128...........20万台にたどり着いた。九九を確認したり...............(小学生かしら?)フルーツ大好きな私は、味わいと舌触りを思い浮かべながら33種類。(デラウェア、マスカット..............はブドウ。 ふじ、紅玉...............はリンゴ)アルファベットは大文字小文字はもちろんのこと、筆記体も確認している。単語も思い出している。公文式の先生をしている親友のメッセージと比べるあまりにも低レベル。一昔前の共通一次試験が必要な大学に入った私が、数Iの数式を覚えていないのが情けないよー。
2021年11月20日
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娘の誕生日、婚姻3周年記念日に、娘夫婦と赤ちゃんが会いに来てくれた。娘家族の絆を、強く頼もしく感じて嬉しかった。すっかりイクメンになったお婿さんと、お産予定日の12日前まで勤めていて、これからも働き続けるという娘は、平和な家庭を築くに違いない。赤ちゃん大好きな私は、抱っこできないのが情けない。けれど、この子の成長を長く見届けたいと、元気をもらった。「私を産んでくれてありがとう」娘が、素敵な言葉をかけてくれた。
2021年08月02日
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4月、私達夫婦の結婚記念日に、娘が男の子を授かった。コロナ禍で、娘夫婦が希望した立ち会い出産も、お見舞いも禁止で、若いパパが初めて我が子に会ったのは、退院の時だった。私のスマホに動画や写真が届く度に、喜びが続く。娘は弟をとても可愛がり、ご近所のおちびちゃん達へも、優しく接してきた。このような娘を、ママにしてくださったこと、幸せな娘を私が見届けられたこと、全ての方に感謝の気持ちでいっぱいだ。息子も優しく育ってくれた。会いに来てくれる度に、父母の所を訪ねて、母の体を真剣に心配してくれる。甥っ子の1ヶ月検診が終了した時、車で両親を乗せて、大阪の娘夫婦の家に行ってくれた。初ひ孫を抱いて、微笑む父母の写真を見て幸せを感じている。息子は、東大出身の教授のもとで、この春から大学院進学を決めた。コロナで暗いニュースであふれる中、申し訳ないけれど、子供達の明るい春から、生きる勇気をもらっている。
2021年05月29日
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1月、2月で、父は92歳、母は90歳になった。 ALSになり、親不孝したのは、両親が70歳代後半の時だった。初期には看護師さんの指導のもと、両親が痰吸引をしてくれた。年配なので、申し訳なかった。 唯一の親孝行と言えば、私の代わりにおじいちゃん、おばあちゃん孝行できる優しい娘を育てたこと。一昨年の年末、電車の駅の階段で父が左大腿骨骨折した時も、娘が大活躍してくれた。 父は頑張ってリハビリ専門病院に転院して、完璧になって、娘の結婚式の前日に退院した。娘は父を送り届けた後、私に会いに来てくれて「式の前日に花嫁がこんな時を過ごしてはいけないの」と本音がポロリ.......。ありがとうと娘を抱きしめたくなった。 結婚式の当日、娘はお色直しに行く時、両親と手をつないでスポットライトを浴びた。両親にとって、最高の日と時になったに違いない。 その上、良かったのは私つながりで最初に契約された事業所のヘルパーさん達が、両親のお世話もして下さっていて、ケアマネさんも同じ方。 父母の近況もしょっちょう聞ける。 昔からおしゃべり好きな父はヘルパーさん達や通院の先生方との話にストレス発散をしているそう。 母は皆さんに好かれていて、素直で感謝の気持ちでいっぱいだと、私の知らなかった母の素顔を教えて下さっている。 母は忘れっぽくなったけど、父は神戸の専門学校の校長をしていて、週一回授業を受け持っている。人との交流が大好きな父は、リモート授業、卒業式や入学式の中止、学会も会合もなくてかわいそうだ。私宛に来たカードのお礼は父が書いてくれる。 私は両親の存在を誇りに思っている。
2021年03月30日
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ご心配をおかけして申し訳ありません。共に過ごした いとおしい時間が懐かしいです。体が動かないだけで痛みはありません。病気は突然襲われるものなので、皆様 お気をつけ下さいませ。
2020年11月22日
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子供たちへALSの告知を伝えたのは娘が高3、息子が高1の夏休みだった。治験を受けていた病院で、先生とスタッフの方々が家族との場を設けてくださった。私は泣きっぱなしで、子供たちも涙してくれた。娘は家で泣いてばかりの私と家庭パソコンから病名を予想していたみたいで、すぐ先生に「5年以内に亡くなるのですか?」と質問したらしい。まず本人の意思で県外の中高一貫校に入学入寮していた息子の部活指導の先生にメールを打った。先生に病名を伝えて「母の代わりに息子を見守って下さい」と泣きながら訴えた。(右利きの私が違和感を覚えたのが右手指からだったので、お手紙が書けなかったのだ。)私はどうしてもALSを受け入れられなかった。治験病院に通うだけで、今の子供たちの積極性に比べると0点のだめママでした。なげやりになっていたかも知れない。あまりの辛さに「認知症になった方がまし」とこぼしたら、娘が真顔で「私の顔もわからなくなったらいや」と言った。後に関西に帰って、若年性認知症の大変さをテレビで見て失礼なことを言ったと反省している。私は最初から人工呼吸器をつける気がなかった。ある訪問看護師が熱心に説得してくださった。約8年前に人工呼吸器をつける決心をした。決意を認めてくれた夫と子供たちに非常に感謝している。おかげで子供たちの成長と幸せをみることができた。現在1日24時間のケアをしていただいている。誠実でやさしい主治医の先生に巡り会えたのは、まだ話せる時だった。娘の結婚式にも私のために先生と看護師長さん、呼吸器に詳しい技師さん、大好きなヘルパーさんが付き添って下さった。週1回往診を受けている親切な2つの訪問看護事業所の方々と色々あったけど多くのヘルパーさんにお世話になってきている。人手不足のヘルパーさん社会において、幸せなことに最近一年内に信頼できる方が8人も契約してくださった。7月に停電時のシミュレーションの会合が開かれた時、皆さんのおかげで生きておられるのだと改めて感動した。セカンドオピニオンを求めて京都の神経内科で有名な病院に行った時に、ひとりだけの私に対して一人の先生がALSの告知をした。つらかった。この京都の病院とご縁があり、あたたかな家族と友達がいなければとっくに絶望していたかもしれない。
2020年10月10日
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二人の努力と幸運も重なり、彼は主治医も驚くほどの早さで良くなり、すっかり元気にしています。去年、大阪に引っ越した娘が、三ヶ月ぶりに会いに来てくれた時、「今は幸せです。」とのこと。何よりの喜びです。娘夫婦のためにも、ワクチン開発が早く進めばよいのになと思うこの頃です。ーーーーーーーーーーーーーーー頑張っている吉村大阪府知事と私は同じ誕生日なのよ!
2020年07月30日
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娘夫婦は、私のためにバリアフリーの式場を探してくれました。昨年2月の式場を予約し、二人で幸せそうに準備をしていました。ところが元気いっぱいだった私が病にあったように、元気な野球青年だった、さわやかなお婿さんは突然大病に倒れ、式は延期になりました。娘は涙する時もあったけど、ナースの経験も重ねて、頭が下がるほど気配りの出来るたくましい女性に成長していました。娘夫婦の絆はとても強いものになったと思います。そして今年2月新型コロナが流行る前、式を挙げることができました。娘は手紙の中で役立たずの私に「明るくて、お料理上手で、自慢のお母さんです」と言ってくれました。幸せな一日でした。
2020年05月04日
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平成の始まりはお腹に5ヶ月の娘がいて、世間は令和のようにおめでたムードではなかったけど私はとても幸せでした。誕生の時は、目が大きくて、可愛くて・・・昨日のように思い出します。二年半後に息子が生まれ、平成は子育ての時代。幸せの日々でした。平成の後半12年間は母親らしいことも出来ず申し訳なく思っています。そんな中で愛する彼と出会い、幸福の日に婚姻届を出したことは私の最大の喜びになっています。残念ながら現在彼は体調を崩していますが、その後の治療は順調とのこと。嬉しいです。あなたの生まれた南九州に小旅行するとのこと。次の治療も控えているので無理をせずゆっくり楽しんで来てください。あちらは日差しが強いのでUVカットをしっかりしてね。令和元年五月一日母より
2019年08月08日
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ご不沙汰しております。娘が載っていますので、大学のホームページを見てやってください。
2019年07月07日
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春から娘がナースとして働き始めた。同時に6年間お付き合いした彼と入籍し、彼の提案で私のマンションの別室で新婚生活を送っているマンションから5分のところには私の実家がある。私の代わりに娘が親孝行してくれる。母の通院にも休みを利用して付き添ってくれている。こんな嬉しいことに出会えて、思い切って人工呼吸にしてよかった。友達からお手紙やカード、コメント、プレゼントなど戴いて、いっぱい励まされている。みんな ありがとう
2018年08月08日
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4月から関西で息子が研修医として働き始めた。7月に行われたALS協会近畿支部の総会にも、娘と一緒に参加してくれた。とても心強かった。外出はとてもたいへんだ。今回もたくさんのボランティアのお世話になった。車いすに移乗するだけで3人の手が必要になる。ふらふら自由に出掛けた昔が懐かしいもんだ。夢の中では自由だ。キャベツとニラと白菜の新鮮なものが手に入ったので「これで家族においしい餃子を作れる」と喜んだ瞬間に目が覚めた。つまみ食いしながら調理したりするものだから、飲み込んだ!と思ってあわてたり、、、いろいろあるものです。
2016年11月12日
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昨年の11月7日 夢で恩師にお会いした。いつもなら、年賀状と、年に2回はお電話を差し上げて近況などをお話しさせていただいていた。しかし、南九州から逃げるように大学入学目前の娘とともに脱出したのだから、超一流の行方不明者であった。他の恩師にも、親しい友人たちにも、とても失礼なことをしてしまった。初めて仕事について書こう。あまりに口惜しくて振り返りたくなかった・・・・・芸大を出て美術の教師をしていた。学校も好きだったけど、もっと生きがいを感じたのは、絵を描くのが好きな子が私の一言、一筆でさらによく分かってくれる瞬間!幸せだったのはきらりと光る感性を持った子や主婦の方々にずっと出会えたことだろう。美術系の場合、受ける大学にもよるが、当時高3では週3回は何が出るか分からない実技のために美術専門の研究所に通うのが普通だった。南九州で開催した三人展の時に紹介された生徒について書こう。広島大学の教育学部を高校3年で受験したいという子だったが、それまでデッサンの経験が無いと言われ、とても驚いた。幸い推薦を狙えるらしいから、一般科目はできたに違いない。私としても引き受けたからには、真剣で必死だった。推薦だったから11月には本試験があり、残された時間は4ヶ月しか無かった。まずしたのは同僚の先輩に電話をすることだった。その方との電話で気づかされた点は、時間が足りない、新設なので東京芸大から先生が来るらしい、何より新設だから過去の資料が何もない、という三点だった。とにかく時間が無い。そこで考えたのは週に3回は宿題を出し(モチーフを手渡して)、自宅が遠いので週に1回、生徒と一緒に3時間、私もかつての受験生のように必死に描いた。大学1年の時から自分もお世話になった研究所で受験指導のアルバイトをさせていただいたのが、幸運にも描写の指導の基本となったのであろう。結果は合格!彼女もよくついてきてくれた。嬉しかった。倍率は三倍。指導は下手をすれば夜中の12時になった。興奮状態になり、床についても3時頃まで寝付けない。あの頃は無理したものだ。今回、今まで伝えられなかった友人に対しても、ALSについてカミングアウトしようと思う。告知されてから9年になるから、友人たちにしっかり失礼をお詫びし、一日一日大切に生きて欲しいと願いつつ・・・・・ 決断した。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー福岡の直ちゃんにずっと黙っていてごめんなさい。あまりにショックで言えなかったの。時々電話して近況を語り合っていたのが懐かしいわあ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2016年05月08日
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大学で心理学を学んだ娘が社会人になった後、この春から看護学校に通い始めた。昨春ごろからスキルアップを目指して思案していたようで、自分で就職先を決めたように全て一人で決断した。大好きな仕事で、出張を一人で任されたりして、一生懸命打ち込んでいた。ライバル会社のお誘いもあったようだがそれも受けず、嬉しかったのは部長が円満退社だねと言ってくださったこと。人と人とのつながりを大事にしている彼女らしい見事な去り際だったと言えるであろう。勤めた30か月の最後の一年はボスと言われる責任のある立場になり、いろいろ貴重な経験を積んだようだ。新入生になってからもいろんな面で頑張っている。戴帽式では宣誓を依頼されたらしい。自分がしゃべれなくなったのは、子供たちがそれぞれに自分で考えて自らの力とするために必要だったのだと考えている。
2015年10月18日
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今年は行けなかったものの、昨年の近畿ブロック総会で娘に代読してもらったあいさつ文を、少し変えつつ、紹介したいと思います。 発症して8年11ヶ月、告知を受けて8年2ヶ月になります。今、26歳になったばかりの娘と二つ違いの弟がいます。最初は泣いてばかりで、生きる意味も見つけられず、絶対に気管切開はするまいと決めていました。半年間ミニトラックだけで頑張った後、意識不明で病院に運ばれ、その後の2年間、ミニトラックと鼻マスクで粘っていました。その間、つらい体験もありましたが、「幸せ」にもたくさん出会いました。その結果、3年前の6月末に気管切開の手術を、自分からすすんで受けました。現在は体調も良く、家族、医療関係の方々、見守っていただいているすべての方々に感謝の想いでいっぱいです。できなくなったことは山のようにありますが、できることだけを見つけながら、iPS関連の新薬に期待しつつ頑張っています。Q&A一番困ったこと、辛かったことは? 話せないこと。 特に辛かったのは、作るのも食べるのも大好きな私が食べられないこと。楽しかったことは? 子供たちの成長ぶりを見ること。何かをされてうれしいと思ったことは? この会に初めて参加させてもらいましたが、それを決めたときにボランティアで6名の方々が集まってくださって、それがすごく嬉しかった。延命治療を受けてからの気持ちは? 生きる意欲 満々です。
2015年05月31日
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私の一家は南九州にいて地震に遭わなかった。両親は阪神高速が横倒しになった近くに住んでいたので、家は全壊したものの、奇跡的に二人ともかすり傷も負わず、無事だった。同じく関西に住んでいた義両親にはすぐ電話が通じ、無事が確認できたが、問題は両親の行方だった。私の方に大阪にいた兄から両親の安否を尋ねる電話がかかり、さらに父の教え子からもかかってきた。一方、テレビでは刻々と惨状が伝えられていた。亡くなった人の数もどんどん増えていく。大切なふるさとがまさかこんな事になろうとは........。 当時子供たちは5歳と3歳。テレビをつけっぱなしにして、おろおろと涙にくれている母親を見てどのように感じていたのだろうか。とにかく両親の安否が心配だった。兄が大阪から車で様子を見に行くというのでその連絡を待つしかなかった。普通は40分くらいの道を二十倍以上の時間をかけて行き着いたらしい。夜に兄から両親はどうにか無事との連絡を受け、私は腰が抜け、その場に崩れ落ちた。両親が居た地域は最も被害がひどかったところで、父はご遺体を安置したりもしたらしい。両親は約2週間、生き残った皆さんとたき火に当たり、食料や衣類を分け合いながら過ごしたようだ。家は全壊したのだが、幸いにも親戚の長岡京のアパートの一室で、2年ほど仮住まいさせていただくことになった。ずっと気になりながら、私がようやく現地に足を踏み入れたのは1ヶ月半たった後のことであった。伊丹空港が近づくにつれ、下に広がるブルーシートの行列。異様な光景であった。電車でふるさとが近づくにつれ、車窓の景色もどんどんブルーシートが増えていき、恐ろしさに駅に着くまでに涙で顔はぐっしょりだった。ようやく会えた母は少しも感傷的になっておらず、目の前のことをただ着々とこなしているようで、その姿がかえって痛々しかった。後日尋ねたら、兄一家も、私たち一家も全く別の地で元気にしていたから、両親は自分たちの事だけ考えて前進できたとのこと。地元にいると人数分だけドラマがあり、それぞれに思いを背負って20年を過ごされてきたのだということがよく分かる。大切な友人たちも様々な思いを胸に生きてきただろうと思える。両親は、仮住まいしながら仕事に通い、区画整理の話し合いにも顔を出しなんとか乗り切ってくれた。最初は京都に転居するつもりだった。ところがご近所のなじみの方々に誘われて結局、断層の真上(元々住んでいたところ)に、新居を建てることになってしまった。転居した後には、母に乳がんが見つかり大変なことに!その直後起こったサリン事件から20年、福知山線脱線事故から10年、東日本大震災から4年、韓国のフェリー沈没事故から1年、ネパールの大地震も起こったばかりだ。その他にも交通事故や犯罪に巻き込まれたりと毎日大勢の方々が思いもよらぬ出来事で亡くなっている。生きているってことは奇跡の積み重ねでとてもすばらしいことなのだ。今月で告知を受けて8年になる。福知山線脱線事故の時はまさか自分が四年後に寝たきりになろうとは夢にも思わなかった。自殺なんて許せない。「動けるやん。話せるやん。食べられるやん。」「それだけで十分幸せよ」と声を大にして言いたい。
2015年04月29日
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息子のママ友の喪中ハガキが届いた四月に亡くなったという大ショック二年前には娘の親友のママが亡くなっている彼女らの元気そうな姿をいつもうらやましく思っていた私は、「私が先に逝くはずだったのに」と人生の不条理さに愕然としている
2014年12月31日
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もう5ヶ月過ぎてしまったけど、2014年6月14日にグランキューブ大阪でALS協会近畿ブロック総会、交流会があり、私は初めて出席した。出席できたと言ったほうがよいかもしれない。実に4年半ぶりの遠出である。参加に当たって、私のことを親身になって理解してくださる看護師のNさんがいち早く名乗りを上げてくださった。その後、OTの先生2人も名乗りを上げてくださった。3人ともありがたいことにボランティアである。集まった患者の中で精神的に強い方が印象に残った。その方は年末に告知を受けたばかりとのこと。私はといえば、告知を受けてからずっと逃げてばかりだった。治験病院にも気管切開をした方がおられたけれど、視界にはいらないようにしていた。何よりうれしかったのは、関西へ移住する前にアドバイスをしてくださった患者の西村さんにお会いできたことだ。西村さんは37歳で発症されたが、今までに2冊の本を出版されており、私にとってお手本と仰ぐすてきな生き方をされている。西村さんの奥様はミッション系中高で私の1年先輩であった。私がALSの告知を受けた直後、偶然中高の同窓会誌が届き、それに西村さんの奥様が家族について書かれたエッセイが載っていたのである。私はそのエッセイを読んで声を上げて泣いた。今思うと、神様のお導きであったのかもしれない。ずっとエッセイをお守りにしていた私が、両親を通じて連絡をとったのもお導きであろう。相談にのっていただく中で、市によって補償がずいぶん違うということも初めて知った。実家にも近く、補償も行き届いた今の市には、このようにして南九州から移住したのである。初めてお宅に伺ったのが約6年半前。先輩である奥様は今回見えていなかったものの、私は西村さんの笑顔に包まれ、「奥様のおかげで私はここにいます」と号泣が止まらなかった。この夏、もう一つ うれしいことがあった。息子が夏休み8月4日から30日まで泊まってくれたのだ。その間、ボート部の後輩の試合の応援に浜松まで行ったり、泊まり込みで病院実習に行ったりしていた。20日から28日までは「アジアで自分探しをしてくる」と言い残し、タイとカンボジア(アンコールワット)に出かけていった。ネットで格安の宿や航空券を手配している状況も分かり、頼もしく感じたのも事実だ。春休みには親友とインド(タージマハール制覇)にも行っている。息子は5年生。ポリクリという、全ての診療科でそれぞれ2週間にわたって行われる病院研修の真っ最中だ。1年から4年までは、夏休みといえどもその前後にある定期試験のため、休み中も勉強しなければならなかった。5年のポリクリ期間中は実習なので、レポート提出などはそれなりに大変なようだが、定期試験はない。テストを挟まない一ヶ月の休みがよほどうれしかったのであろう「定年までこんな長い休みはとれないんだよ。」とのたまわった。そんなこと考えているのかと驚かされた。娘も息子も超現実主義者だ。そりゃそうだ。元気印(義母評)だった私が、突然 にっくきALSに倒れたのだから。アイスバケツ・チャレンジも遅まきながらうれしかった。難病の多くが皆さんの理解を得られますように・・・・・
2014年12月01日
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皆さん、心配おかけしてごめんなさい。皆さんに早速お寄せいただいたコメントを一つ一つお顔を思い浮かべながら読ませていただきました。実はこの冬も先生が驚かれるくらい調子良くて、年明けのALSを扱った連ドラ「僕のいた時間」についてもいろいろ思うところがあり、ブログを更新したくてならなかった。でもまず2年前の体験を綴らなければと必死だった。(夫の方が聞き取りでもっと大変だったと思う。感謝。)久々に更新した後、両親が「ようやくわかったよ」と言ってくれた。涙がぽろぽろでた。当時のつらさを思い出して・・・・・理解してもらえた事への安堵感か。あれだけつらい体験をしたものの、後遺症と言えば一つだけ。真冬でも冷たい飲み物が平気だった私が、真夏でも40度ぐらいにしないと飲めなくなったことくらいである。熱すぎても、冷たすぎても気持ち悪くなる。これだけですんだのも、特に心臓と胃腸を強く育ててもらった両親のおかげかもしれない。
2014年06月15日
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彼女は准看護師だった。寝やすい体勢(上気道に隙間ができるからとあごを挙げる姿勢)を教えてくれたのは彼女だった。すっきりと痰をとるためには水分をこまめにとることが大切と教えてくれたのも彼女だった。整理整頓が上手でもあった。そこまではありがたかった。ただ口を開けば人の悪口しか言わない彼女だった。全くというほど文字盤を使わない彼女でもあった。私は彼女に土、日、火、木曜日とお世話になっていた。時々訳もなく 突然切れるのがとても怖かった。ケアマネージャーさんに 土日は人がいないと言われてがまんしていたのだった。年老いた両親の介護も限界で、本音を言うと耳が遠い父と直ぐパニックを起こす母よりましと思っていた。4月半ばを過ぎた頃、彼女が突然私の首のベルトをきつく締め上げた。首のベルトは、「ミニトラック」という首の前から気管に差し込まれた細めのチューブを保護するための器具を固定するためにまかれたものである。私はこのベルトを締め付けられるのが苦手であった。彼女はそのことをわかっているはずなのに、何故するのか・・・・・不思議なことに、ヘルパーさんや両親が来る前には必ず元に戻すのだ。これから何が起きるのかと恐怖だった。これがちょうど4日続いた。次の土曜日、彼女は突然予期したより多く水分を入れ始めた。10分に一回、なにやら胃ろうに注入しに来る。一回の量は50ccだろうか。はじめは平気だった。3時間もすると満腹になり、それ以上入ると気持ちが悪いというところまできた。ただただ、逆流しないか 恐怖だった。逆流して吐物が気管に入ると誤嚥性肺炎になり、大変なことになる・・・・・・・・恥ずかしいことだが、逆流しないように尿をおむつの中でするしかなかった。なぜこんなひどいことをするのだろう。このまま命を無くしても、誰も原因を知らず、変死(病死)したと書かれるだけなのだろう。そんなことを考えてしまうくらい怖かった。これからどうなるのか・・・・・・・・一方で、負けてなるものかという気持ちがふつふつとわいてきた。ALSで全身の筋肉が奪われた私のまともな感覚まで 打ち壊そうとする彼女が腹立たしくてならなかった。次の日。今度は節水作戦できた。のどが渇いても少量しか水分をとらせてくれない。これまでテレビを楽しんでいたのも一切無しで、緊張してその時を待つ。わかるのだ。どれだけ水分が足りないか。どれだけ体が水気を必要としているか。今でも、何もかも摂取水分量として計算すると、一日軽く3リッターを超える。当時は今と違って細いミニトラックだったから、細いチューブから気管にかけての喀痰を吸引するためにさらに水分量が必要だった。彼女が帰ってヘルパーさんと替わるや否や、私は飲み物を胃瘻に入れてもらった。400cc、400cc、400cc、400cc、200cc 一気に飲み干したのである。ヘルパーさんが、心配しながらも入れてくださったのは私にとっては好都合だったが、この件以降、水分制限が先生から出て、苦しめられることになる。何より忙しい看護師さんとヘルパーさんに、意味のない水分摂取量計算で時間をとらせるのが申し訳なかった。いくら飲んでも体が欲する乾き・・・・・・・・完全に体が壊れたと思った。つらいのはその後だ。ミニトラックが水分不足でガチガチになり、それを通すためには吸引を高い圧力でかけなければならない。普通20kPaのところを50kPa以上で吸引しなければならないのだ。彼女も「○○さんは痰が固くて100kPaでないと取れない」と公言していたほどだ。吸引機の耐えられない響き・・・・・・・・気が狂いそうだった。毎回100kPaでないにしろ70kPaはでていたはず。それまでも風邪気味の時は意識的に50kPaまで上げるときもあったが、それは例外である。看護師さんの中には頼んでも怖いから絶対30kPa以上には上げてくれない方もある。そのようなものだ。今はミニトラックではなくより太い気管切開に替わったが、吸引は常に20kPaである。彼女は両親がいても変わらず高圧で吸引し続けた。両親は「動いてますね」と言ったきり、目盛りを読もうとなんてしない。性善説を信じている(私もその家庭の一員であった)両親は一度善い人だと思ったら簡単には否定しない。次の日、ようやく聞いてくださる看護師さんにどれほど苦しい思いをしたかを伝えた。さらに日頃世話してくださる皆さんにも連絡ノートを見てもらったのだが、皆さんそのノートを見ても「これには普通に書いてあるよ」と言うのだ。嘘ばかり書いていたのだ。ひどいことをする人がそのまま正直に書くわけがないのである。その週の火曜日、木曜日も同じ節水責めが続き、次第に「生きる意味」を考えるようになった。えもいわれぬ恐怖と戦いながら、逆に生かされていると感じるようになっていた。体が悲惨さに耐えられずに、口惜しいけど命を落とす方もいるであろう。でも私は生きている。吸引機の激震に耐え、心臓が飛び出そうな心拍の高さにも耐え、私は生かされている。このようなことが繰り返される日々が続いた。皆さん、私の恐怖や脈拍の変化になかなか気づいてくれなかった。がひとり気づいてくれたのが、マッサージの先生であった。その日も恐れおののいていた。母の目の前で彼女は堂々と文字盤を隠した。母はその事に気づかない。助けを求めているのに無視する彼女の態度や、私のあまりの心拍の高さにマッサージの先生も驚いたようだ。見るに見かねて施術の後、母に勧めてくれたらしい。「彼女とは合わないから遠慮してもらった方がよいのではないか」と。もっとも、良い方だと信じ込んでいる母が聞く耳を持つわけはない。連休後の土曜日、彼女だけで家族は誰もいないそこに、消耗しきった私を心配して看護師のNさんが訪ねてきてくれた。彼女と二人っきりにならなくてほっとした。Nさんが心配して先生に電話してくれた時、最初で最後のウソをついてしまった。ごめんなさい。先生に死にたいと言ったのは、生きたい一心だったのに、少しでも窮状を救ってもらいたかったから。心からごめんなさい。看護師長さんへかけてもらった電話では「助けて」と言った。Nさんが帰って、また彼女と二人っきりになった。それからの4時間で、水分量はたったの50CC。その後今度は極端な水責めが始まった。普通はゆっくり夕食が始まるのに、続けてお茶を入れられ、エンシュアを3つ。イリゲーターを全開にしていっぱいお茶。彼女は「死にたいとか、助けてとか矛盾している。死にたいなら都合良く死ねるから、良いでしょ。死になさいよ」と言った。彼女は私の死を望んでいるのだ。たいへん。この人に二度と家に入ってもらっては困る。さあ 何ができる?私には両親に彼女が来ないように頼むしかないのだ。案の定、思い通りには事が進まなかった。次の彼女が来る予定の日、朝からどれほど どきどきしたであろう。12時。 その時が来た。なんと奇跡がおきた。現れたのは彼女ではなく、いろいろつたない話を聞いてくれたヘルパーのTさんであった!Tさんが明るく言うには、先にエレベーターに乗ったのはTさん。そこに彼女が現れた時、Tさんが「今日は私が行きますので。」と高らかに言い放ったらしい。彼女はぶつくさと悪態をつきながら帰ったそうだ。Tさんは何回も外出に付き合ってくださったS子女史の従業員である。彼女をやめさせるのに、S子女史がケアマネージャーさんに話をしたりして大活躍だったそうだ。機転の利いたS子女史と、文字盤を通してしか話せない私の言葉を信じてくださったすべての方々に大感謝であった。これを機にケアマネージャーさんは事業所へのSOSの出し方を変えたそうである。それ以降、新しい出会いもあり、私は幸せに包まれている。こんなこともあった。彼女があまりに文字盤を使わないので、ケアマネージャーさんに相談した。そしたら、彼女 一日に一回だけいろはかるた(「いぬもあるけば、ぼうにあたる」というような)を好きなように使い始めた。要するに、彼女が「てんじょうから」と言ったら、私が文字盤で「めぐすり」と答えるというとんでもない使い方。本来、文字盤の使い方は、使い手がゆったりと、受け身の私たちを受け止め、まず「何か用ある?」と聞いてもらう事から始まる。そこで初めて順番に言葉を選べるのだ。今思えば彼女は私のおつむの程度をチェックしていたのではないか。他人とコミュニケーションがとれるかどうか、調べていたように思えるのだ。話せないのは弱点だ。あまりの彼女の用意周到さから私の前後に同じ様につらい目にあっている犠牲者が出ていないことを祈るばかりである。家族の方、介護者の方、お願いです。話せない患者さんには、心拍の変化など十分に注意を払ってください。その後約一か月、生かされていると思った私は進んで気管切開の手術を受けた。あれから2年余り・・・・・・・・調子も良く、こころ穏やかに過ごせている。
2014年06月08日
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気切(気管切開)から丸一年が過ぎた。頑なに気切を拒否していた私が、なぜ受け入れる気になったかというと、そこには三本の柱がある。一つ目は、関西に戻った初めの頃からいろいろな形で励まし続けてこられた看護師さんの一言。ALSの会にお嬢さんと来られている方がいて、「母の笑顔がみられるようになってうれしい」と言われていたのこと。確かにマスクで覆われた顔は苦しいばかりで、、、笑顔なんて忘れてた。子供たちが、亡きママを思い出すと悲しむだろうなあと思うだけで二つ目はお世話になった両親に、直接 私の言葉でお礼が言いたいということ。気切を開けてからは、iPS研究も進んでいるし、すっかり良くなる心地でいる(夢心地?)。三つ目はある事件がからむ。「忘れなさい」とまわりの人は言うけど、どうしても忘れられない。このことがきっかけで死んでたまるかと、生きようという気持ちが強く働いたのも事実。事件については次回に。。。
2013年08月10日
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現在 約35人の看護師さんとヘルパーさんのお世話になっているさらに週2回の訪問入浴、週2回のOT、PTの先生、週一回の主治医の先生の往診、歯科の先生やマッサージの先生に見守られている。この体制に五月ぐらいからなった。難病指定の中でも非常に恵まれたほうだと思う。その上に大切な友達が時々訪ねてくれる。手紙やメールや季節ごとのカードなど、どれほど大きな励ましをもらったことだろう。さらに老親がたびたび訪ねてくれたり、無い物を補充してくれたりする。特に母が作った特製野菜スープは絶品有名な料理研究家のレシピだけど、ほぼ毎日作るのは大変な思いであろう。また最強の家族がついていてくれる。娘は早いもので社会人2年目になる。試験の時から何もかも自分で決め、社長面接の「君は何でも任せられる」の一言が効き、入社以来楽しくやりがいを持って働いている。鉄の心臓を持っていると言われているらしい。週末には必ず来てくれる。 その時に聞く武勇伝が何より楽しみな私である。 息子は医学部4年生になった。毎年10人位留年者続出の中、よく頑張っていると思う。ボート部に入り多忙な中、貴重な友人関係も築いているらしい。長期の休みには必ず私のところに寄ってくれる。 最後に夫のこと。結婚してから27年。病気になって初めて本物の夫婦になれた気がしている。多忙な中、月二回は来てくれる。逆の立場なら私は結構愚痴をこぼしていただろう。夫は愚痴らない。私の完敗である。 多くの愛に包まれて、私は生かされている。
2013年06月29日
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そこそこ体調も良く、安定していたところへまず乾燥防止にしょっちゅう指していたヒアレインミニ点眼液が合わなくなったいろんなことが起きるもんだ専門家には添加物のないヒアルロン酸でアレルギーなんて考えられないと言われた目薬が落ち着いた頃、次に来たのが栄養剤のアレルギー。まぶたが腫れ上がり、目があかなくなり、頭の表面まで痛かった。専門家には食べ物が影響するなら全身にアレルギー症状がでるはずと言われた私は顔と頭だけ全て教科書通りでないことばかりその上先生が、PEGを交換するときに 腹部のこれから太る分をなぜか1センチにされ(5ミリもあるのに)、胃瘻が痛くて大変なことにかつてキレイと言われた胃瘻人生の中で 最悪の日々が待っていた次々にいろいろ起こる春であった
2013年04月29日
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年末に義母が亡くなりました父が亡くなって六年その前にはよく電話して遠くても交流していたのですちょうどその頃、私の病気が判りその後は、身体の変化についていくのが精一杯でした母にはずいぶん寂しい思いをさせたと悔やまれます
2013年01月03日
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思いのほか、皆さんの愛の交流の場となり、癒されております10月11月はご好意からのストレッチの失敗で左足を痛め、たいへんな思いをしましたストレッチをお願いしたところ、顔を見ていただけず、一気にされました悲鳴をあげてから、連続5回ひどくなるわけですどれほど声の必要性を感じたことでしょういろいろありますなぁでも今ではもうすっかり良くなりました
2012年12月02日
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おかげさまで一週間で退院できました今懸命に、徐々に、失われた体重を取り戻そうとしています。750カロリーに摂取が落ちこんでいたのを、1500カロリーに上げようと必死になっています。少しでも体力をつけねば。。。そして新薬の登場を期待している私です
2012年08月19日
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二年間、NIPとマスクで頑張ってきましたが、とうとう決心し、6月27日 手術を受けました。
2012年07月01日
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北海道から宮崎までの友人達よ・・・心配かけてごめんなさい!おととしの秋は調子よかったのに・・・一昨年末に両親から風邪をもらってしまった。なんと、私はまたたく間に気管支炎にー。かくして、1月2日に入院、4日には湧き出てくる痰を引くためのミニトラックをつけた。1か月半の入院中に息子のセンター試験が終わり、二次試験があり、発表があった。ヤッター第一志望に合格。最近で一番嬉しい出来事だった!父親の背中を見て育ったのね。息子よ・・・。今スタートだよ。息子の卒業式があったり、入学式があったり、私が何をするわけでもないけどそう、こうしている間に意識不明で運ばれる事件がおきた・・・。その日から、1ヶ月入院した。代償として飲食を失った。息子はボート部に入り、娘もそれぞれの生活を楽しみ、休みのときには私のところへ集まってくれる生活・・・。時には学生時代の友人達が訪ねてくれて、どんなに励まされたことだろう・・・。大みそかに洗礼を受けた・・・。ようやく『その場』が用意された感じで安心した・・・。そして、去年、東日本大震災が起こった。いつもお祈りされている自分が祈ってばかりだった。相変わらず、痰吸引の為に生きているのか、吸引するから生かされているのか分からない生活が続いている・・・。
2012年06月01日
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横になるのが怖い。3ヶ月ほど前から、普通に横になると寝返りできなくなった。苦肉の策で、ベッドの下の方へ寝て(足首が外に出るくらい、枕なし)フットボードで足を突っ張りながら少しずつ身体をずらす。でもその程度では全身がだるくて眠れず、身の置き所がないしんどさだ。ようやくうとうとするとすぐ目が覚めすると全身がこわばって動かない。恐怖!どこが、どうしんどいのか、口で説明できない、恐怖もある。ベルやうめき声を無視され、文字盤、を使われないと、苦しくてーー 幾晩 身動きできぬまま 泣きながら朝を迎えたことか。その翌日には、確実に全身状態が退行している。身内介護は、もう限界!日々変化する私の身体に、対応しきれないのだ。無理もない。不安感が増して さらに眠れない。週に2回家政婦さんの泊りの時と、日々の訪看さんの時にうとうとして、生きつないでいる感じ~ああ~ぐっすり眠りたい!
2009年09月30日
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9日~16日、家族が集結し再び解散して 早くも半月が過ぎた。3ヶ月ぶりのにぎやかさーとは言え、仕事やアルバイトや夏期講習・・で皆忙しく 4人が揃うのは夜だけ。2時間ほどだけ、3人のたわいのない会話に耳を澄ます。時には噴き出しながらー楽しくも寂しいひととき・・一緒に喋りたい!!「話さなくても通じ合える」なんてーーせいぜい1割かなー身内でも言葉にしないとわからないことばかりだ。不自由な左かかとでの入力や文字盤なんて必要最低限の伝達、で精一杯。しかも、の前に連れて行ってもらわなければ~文字盤を手にして根気強く付き合ってもらわなければ~何もできない!何もかも受動的な私!もどかしくて悔しくていつも発狂寸前子供達との楽しい語らいを奪われ、久々に帰宅した育ち盛りの息子に手料理すら用意してやれない。母親としての(妻としても)無能さに打ちひしがれる。皆が集う嬉しさは、深い悲しみと背中合わせなのだ。
2009年08月30日
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仲間の中で1番遅い「報告」-ー26日に大阪で、同病仲間が集まった。半年振りに会う仲間たち・・初めてお会いする仲間2人・・総勢8人。(同伴者9人)みんなの笑顔が、まぶしいみんなのおしゃべりも、まぶしい私も・・しゃべりたいよ~一方で、体調不良で参加できなかった仲間もいる。発症の仕方も進行具合も、ホントに個人差がありすぎる、変な病気だと 今さらながらに思う。みんな~、ともにがんばろうねえ集まるたびにヨレヨレになってきている私だけどみんなの明るさにパワーをもらったヘルパーのS子さんへ特別なひとときをご一緒していただき、ありがとう☆
2009年07月31日
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6月の私ー1日から急にムセ?セキ?ウナリ声?が続き始めた。夕方から夜が特にひどい。横になると大丈夫。風邪の症状はない。断続的に続き、はずみでフットスイッチも蹴とばしてしまう。・・何?これ・・平静を装いながらも病気の新たな展開(進行)か~と、怯える私がいる。急きょ、予定外の往診ーでも、首をひねる先生。「口頭蓋の何らかの炎症かな」「一時的なものでないなら、一生付き合う覚悟がいるよ」ひゃあ~ しんどすぎる~パソコンの前にいても、唸っているだけで文字入力は進まず・・楽しみなはずの食事も、恐ろしげでーオリジナルメニューのアイデアも、滞るー身体がきついと気力も萎える。そんな日々の中、新しいヘルパーさんや家政婦さんの来訪も続き対応に追われて、さらにぐったり~10日目にふと思い出した!3年ほど前からこの季節に、からせきが出ることを。~~1人だとおさまっていて、人の出入りで激しくなるそうじきのあと激しくなるタンがからむというより、反射?のように無意識に出る昨年は、治験中に症状が出て、でいろいろ検査して「アレルギー性のもの」と診断され、薬で落ち着いたのだった。往診の先生に伝えると、またまた首をひねりながらも抗アレルギー剤を処方された。二週間飲み続け、みるみるおさまった。チャンチャン♪・・・というか・・自分で気づくのが遅すぎ?だってーセキが、球麻痺のせいで、ウナリ声になるとはーー知らなかった。悲しいかな、ウナリ続けた1か月でひどく体力消耗した。そんなこんなでメール返信も、ブログ更新も、失礼ばかり!ごめんなさい!
2009年07月11日
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誕生日が来た。(更新日のすごいズレ!おゆるしをー)カード、お手紙、メール、素敵なお花、おいしいものー届けて下さった皆さん、心からありがとう48才だなんて~発病していなければ「年なんて忘れたわ」と笑い飛ばしていただろう。しかし今の私の思いは・・「何とか生きていたー!!」昨年の誕生日は治験で迎えた。治験と治験の間に、胃ロウを造り、どっぷり入院中だった。励ましに来てくれた友人たちの笑顔とに囲まれつつ~「来年の”今日”は、あるのだろうか・・」「今から一年~身体はどうなってしまうのか・・」~~と、考えていた。”今日”は、存在した。 しかしながら、この一年間の身体の退化の様子の恐ろしさ・・現実と向き合わざるを得ない精神的苦痛の大きさ・・は、想像を絶するものだった。周りの無神経な言動に、傷つき、苛立ち、情けなくて涙が止まらないこともあった。意思伝達の難しさーー簡単なことを伝えるにも時間ばかりかかる、やりきれなさ、むなしさー毎日心中は、暴風雨だでも、新しい多くの素敵な出会いに救われた家族の愛に支えられた友人たちの思いやりに元気をもらったこうして何とか一年が過ぎたのだ。さて・・次の”今日”は、あるのでしょうかー?ご無沙汰してしまい、ご心配いただいた皆さん、ごめんなさい!次回に、その失礼の理由を書きますね。
2009年06月17日
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やれやれ~連休明けにすぐ更新するつもりが、どうも調子が出ない連休のために、通常の時間数訪看さんのマッサージを受けられず全身ガチガチさらに新人(私にとって)家政婦さんお二人の実習が続き、ぐったり~近頃身体の状態が、ガクンとグレードダウンしていることを実感。・・一体既にこれまでに、何段階転がり落ちさらにこれから、何段階下っていくのやら・・一方通行の下りらせん階段~~先は深い闇に包まれている。幸い呼吸は安定しているらしいが首がいっそう疲れやすくなった痰がからみやすくなった口の周りがこわばり、口の締まりがぐんと悪くなったいよいよ完全にしゃべれなくなった(たまに、娘にだけは単語を分かってもらえていたのに)大声(悲鳴ですらー)を出せなくなった動かない両手がますます動かなくなった(ウォシュレットは右手のひらで押せていたのに、押せない時がある)(仰向けに寝ていて、体の横の手をおなかの上へ移動できなくなった)寝ていても突っ張ってしまうほど、足のこわばりがひどくなった介助してもらって歩行するとき、両足がひどく交差するようになった今さらながら、なんと恐ろしい病だろう~ヒタヒタと悪魔が忍び寄る。このように、次々と体の退化を実感していると「いつ、何が起きても不思議じゃない」=「今、何か起きるかも?」~と、時々恐怖心でいっぱいになり、動悸が早まる。相性の悪い家政婦さんと過ごした晩は、何度も死ぬかと思ったヤリキレナイ思いは、24日の(関西チームの集い)で笑顔に変換してこようと楽しみにしていたら・・インフル騒動で、延期だよ~やっぱり、やれやれ~なのでした。
2009年05月15日
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昨日、娘とショッピングに出かけた(正確には・・連れて行ってもらった)で5駅先の、駅前のファションビル。1年前にできた小さなビルだけどにはほど良くて、お気に入り。これまでも数回行ったけれどで出かけたのは初めてーーヘルパーのS子さんとの外出が、ちょっと自信になり~(ん!?自信ー私が持つものじゃないかな?)娘が快く、提案に応じてくれたのだ春らしい部屋着を3着ゲット娘も可愛いTワンピを見つけた。二人であれこれ見て回れるのがホントに嬉しくて、楽しくて私がに座っていること以外は気持ちも、物を見る感覚も、前と変わらない。1年半前までおしゃべりしながら腕を組んで(娘がふわっと腕をからめてくるあの感覚が懐かしい!)ショッピングモールを歩き回りおいしいものを食べ・・(食べやすいものを選ばなくて良かった、あの頃~)女子の楽しみ(笑)を満喫していたなあ。を押されながら、いろんな思いが交錯した。もともと優しい子だけど、この日の娘は格別で実によく気がつき、かいがいしく世話をしてくれ、大感激スタバのフラペチーノを食べさせてもらいながら「良いママになるよ」とつぶやいた途端、洪水が起きた無類の子供好きで 大学生活のほかにベビーシッターのバイトを生き生きとこなす彼女。私はどこまで娘の人生を見守ってやれるのか・・愛しい子供達が、社会人として仕事をこなしそして新しく家庭を築き上げる・・その過程をともに喜び、励ましてやりたいのに。私の命はあとどれだけなの?彼らの“お荷物”でしかない存在になるなら命の意味も感じない~~結局娘の笑顔に助けられ、ほどなく笑顔を取り戻したのですが・・ところで阪神電鉄さーん、特急も停まる駅なのに、エレベーターもエスカレーターもなくでも、ネットでは「階段昇降機」があるとのことーー安心して出かけたら駅員さん3人がかりの「階段昇降人力機」お手間をかけて申し訳ない気持ちと有難く思う気持ちと・・それにしても、階段が長い上に角度が急でこわかったよぉ~
2009年04月20日
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昨日の往診時、4カ月弱ぶりに胃ロウ器具の交換をした。今回も突然に告げられ「ええっ?」と言っている間にベッドに寝かされていた。バルーンタイプバルーンタイプの交換は、痛くないよね・・と 気持ちを落ち着かせつつドキドキしていたら「きれいになってるー!」と、師長さんの声。ん気づかぬうちに器具が抜かれていておなかの“穴”の状態をチェックされていたのだ。~~というのも2週間前の往診時に、やはり突然に“穴”の周りの小さなニクゲ(肉の盛り上がり)の処置を受けたから。~な、なんと「ニクゲをつまんでつぶす」と聞かされた時には恐怖だったけれどギリギリ耐えられる痛さ(!?ビミョー)でクリアしたのだった。さてさて、交換の続きーー新しい器具も、ほとんど意識しないうちに差し込まれ無事終了バルーン式は、ほんと、おすすめですその後、ひと通りの診察があり、先生がおっしゃった。「調子いいねえ」「肌つやもいいし、目の輝きもーー」自分では決してそんな風に思えないけれど・・言われて悪い気はしないよね。~と、師長さんが笑いながら「せんせい、○○さんとは違うわあ!若いもん!」聞けば、私の直前の訪問先は、99歳の老婦人だったそうな。・・・・・
2009年04月10日
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前回思わず愚痴ったけれど補足として、素敵な出会いのことも~5人目でようやく巡り会えた家政婦さんもそうなのだが、明るく、思いやりがあって、勘が良くて、気配りができて、すべてに熱心に取り組んでくださる方が、大好き(ヘルパーさんに限らず、看護師さんも、長く付き合いたい友人もそうよね)髪が乱れればすぐにといて下さり・・言葉でお願いしなくても、いつの間にかお風呂がピカピカになっていたり・・いつの間にか足浴の用意をして、むくんだ足を揉んで下さったり・・ご面倒だろうなぁと思われることも、さりげなく笑顔でこなし・・嬉しい時も悲しい時も、私の心に寄り添って下さる・・年齢には関係なくこのような方なら、食事介助もトイレ介助も、抜群に上手このような方々との出会いによって、どれほど大きな“生きる力”を頂いてきたことか~何気ない日常が心穏やかに過ぎていくと絶望的な“近い将来”について考え込むのはよそう、と思えるのだ特にここのところ約3カ月、特大の元気を頂いているのがS子さん。妙齢の女性ながら、数少ない「障害者自立支援費」対応の事業所経営者。昨年12月半ばに76時間枠が認可され、お会いできた。夕方から4,5時間ーを、週2回と時々週末に多数時間、お世話になってきたがすべての面で(身体介助も、家事も)非の打ちどころがない!しっかりされつつお茶目で、その人柄に私だけでなく身内もすっかり魅了されている息子が一人前なら「ぜひお嫁さんに」と言いたいぐらい(オットー、息子は半人前どころかまだ高校生だ!S子さんゴメンネ)もう半月以上前のことになるけれどずっと行ってみたかった、新しい大型ショッピングモールへ行けたのも、彼女のおかげ。これまで電車で外出なんて(旅先とは違い)、介助者の負担を思うと娘にもヘルパーさんにも、頼めなかった。それが、彼女からの提案で実現何もかもに慣れておられ坂道も、でこぼこ道も、乗り降りも、見事なハンドルさばき!しかも、大変でしょうに、実に楽しそうにこなして下さるのだ。彼女、やはりスゴイすっかりくつろいで身をゆだね、心ゆくまで楽しませてもらった。感謝良い家政婦さんにも巡り会え、ヘルパーさんや訪看さん達にも恵まれようやく落ち着いた日々なのであります
2009年03月29日
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一人だけで夜を過ごすのは危険だ、と皆に心配され昨初秋から、父や娘・・たまに夫・・そして週に1,2回はヘルパー兼家政婦さんに泊まってもらっている。特に木曜日は、必ず朝10時~翌朝10時まで。24時間お世話になるって~本当にドキドキもの。(たぶん先方にとってもね)satoさんから書き込み頂いたように、ヘルパーさんとの相性の問題は必須課題。幸い2,3時間ずつお世話になるヘルパーさん(昨5月から総勢15名)には,本当に恵まれた。皆さん明るく、一生懸命に向き合って下さる。何気ない声かけや、思いやりに、どれだけ支えられてきたことか。ただ問題は~~泊まりの方。関西チーム新年会へ同伴下さったYさんとの出会いは奇跡的で・・そのYさんが怪我で来られなくなってから2カ月弱~(もうご自分のことはできるけど、力のいる介助はまだ無理、とのこと)木曜日が来るたびに不安と情けなさに震えていた。情けなさ~~そう、なぜこうも他人に頼る日々なのかあれだけ元気だった私が、なぜ20歳近く年上の見ず知らずのおば様に(Yさんは例外的で、泊まりの方は年配者が多い)抱きかかえられているのかそして人材不足ゆえ、つい言いたい言葉(家政婦さんへの評価)を我慢して、「選ばれる利用者」でいる受け身な私(さすがに身の危険を感じた時にはお断りしたけれど)正直に不満を言いたかったわよある方はベテランらしいのに、今までの中で一番食事介助が私に慣れて下さっているヘルパーさんの指導があったのに水分の飲ませ方も全くタイミングが合わず・・しかもこの方に親子丼を頼んだところ・・今まで見たことのない「そぼろ卵丼?」~全てポソポソなの冷凍とりもも肉を、電子レンジで<解凍>の代わりに<加熱>された時に悪い予感がしたのだけど・・今まで多くの方にオーダーしてきて、頼みやすい簡単メニューだと安心していたのに。 少々味付けが好みとずれていても、文句は言わないわ。でも我々にとって、滑らかさのない食べ物が一番困る。案の定「そぼろ」は、飲み込みにくいし、こぼれるし~普段の倍以上時間がかかり、相手が不機嫌になるのが分かり、辛い。「しっとりした親子丼ならぺろりなのよ」と叫びたかった!あーあ合わないなあ、と思っていたらあちらから高齢を理由に断られた!ある方は、お会いするなり「私はALSの方ばかりお世話してきました」「何でも経験済みです、救急車も呼びました」と自信満々。やっと頼れる方に出会えた、と嬉し涙がこぼれた。でも、どうも、私の日常には戸惑っているご様子・・(もちろん予め、ケアブックを渡していたけれど)早とちりや思い込みが多くて、私にとっても戸惑うことばかり・・そして、何とも辛かったのが通常皆さんはに座らせて下さった後、「一人で大丈夫ですか?」(うなづく私)「近くにいますから、呼んで下さいね」「ごゆっくりどうぞ」と、ゆるくドアを閉め、一人にして下さる。そして時々声をかけて下さるのだ。ところがこの方、私の方を向いて座り込み動かない。私との距離、わずか40センチ!こちらの気持ちを尋ねてくれないしも文字盤もなければ「一人になりたい」と言えないひゃあー困った例え身内が相手でも、嫌な状況~出るモノも出ないよー無駄に時間が過ぎ、彼女の不機嫌な表情に耐えられず・・・・と、「ポトッと音がしましたね」と実況中継が始まった。や、やめてぇ~結局30分以上惨めな闘いが続いた。翌日。訪看さんが来られた途端~「排泄がホントーに大変で疲れました」と訴える彼女。この方とはだめだー、と思ったけど黙っていたらあちらから持病を理由に断られた!泊まりの家政婦さんは、高齢者のお世話をされてきた方が多いのだ。同じALSでも年齢や症状もいろいろだし・・ での泊まりの付き添いなどは、楽で効率が良い(!)らしいし・・在宅の我々は、手がかかるーということか。夜中もほとんど起こさないのになあ~結局5人目で、ようやく良い方にお会いできた。長い道のりなのだった~~
2009年03月20日
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相変わらず、つまらないことに時間ばかりかかる日々~夜には足スイッチを使う左足はガクガク!つくづく嫌んなる気が滅入りがちな中、嬉しいことが2/28、前に住んでいたところの友人が、はるばる訪ねてくれたのだ。1年前のブログによく登場して頂いたGさん。治験入院も身内のように支えて頂いた。笑顔でいたいのに、あまりにも様々な思いが込み上げすぎて~3/2は担当者会議だった。身内も含めて、総勢17名この時に合わせてケアブックをさらに充実させようと必死ーがんばったものの・・私的には時間切れ~以前のように粘れないのが、何とも悔しい3/3,3/4,3/5は、夫と娘とともに名古屋へ旅行大好きな私だけれど、間際まで行く決心がつかなかった。昨夏の旅行の時よりも、身体の至る所が弱っているのは明らか。自分が一番自覚している。特に夜が怖い~ホテルのふかふかベッドが怖いのだ。自宅でレンタルしているのは、硬めマットレスで柵付き。当初屈辱的に感じた柵が、今では必需品。必死に寝返りするときに、足を突っ張るのだ。夜中に何度も目覚めては体勢を変えたい私にとって、大問題!ふかふかに身を沈めると、もっと眠れない。健常者には(身内でも)理解しがたいこと。他にも不安要素はいっぱい~でも「最後の旅行」かも・・と、プランに身を委ねた。でもね持って行く、と言っていたオペナビは持参されず吸引機もなし心身ともにストレス溜まりまくりで娘の優しさと、アメリカの画家「アンドリュー・ワイエス」展へ行けたことと、高島屋の呉服売り場で、娘の振り袖姿(来年成人式)を楽しめたこと、~は、幸せでした時差のありすぎるつぶやきで失礼しました
2009年03月07日
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長らく失礼をしてしまいました。ご心配をおかけして、ごめんなさい!心優しき友人たちも、次々にやしてくれました。申し訳ありません体調を崩していたわけではないのですー毎日食欲もあり、元気いっぱいです。〈~なわけないか~~(--;〉でも毎日数時間はの前にいたのです。更新できなかった〈ネタはあるのにねー〉理由はいろいろだけど・・一番は、意思伝達のための文章入力に追われてしまっていたということ。足のこわばりがひどくなり、以前のように軽やかに足で文字盤を操れなくなったからです。前夜には翌朝のヘルパーさんに宛てて、朝食メニューなどをーー朝食後は午前の訪看さんに宛てて、体調やマッサージの要望箇所などをーーその後は午後の訪看さんやリハビリの先生に宛ててーー夕方には夜のヘルパーさんに宛てて、夕食のメニューなどをーー週2回は、訪問入浴スタッフに宛ててーー月2回の往診の日には、先生に宛ててーーもちろんその間に対話〈応答?〉もあるし、久々に夫や娘が来れば、本音トークも文字化しなければならないのです。要望メニューも「親子丼」なら誰にでも通じるけれどオリジナル料理をひらめいたりするので作り方を詳しく書いたり・・文字盤なら「おちゃ」と、関白亭主(!)のような依頼も仕方ないけれど、で依頼するなら「お茶お願いします」と書きたくなるし・・挨拶も、お礼も、時にはジョークのひとつも書きたくなるのです。こうして追われているうちに~馴染みのヘルパーさんお一人が事業所をやめられることになり新しい方とご対面。そうなると、また私をわかって頂くために文字数が増えるのです。〈でもとても良い出会いだったので、納得)こうしてまた追われていると~ナント、大好きなヘルパー〈兼家政婦〉Yさんが怪我された、とのこと肩を痛められ、しばらくお休みされることに最低1週間に1日は泊まって頂き、外出も何度もご一緒して頂いているのです。急きょ全く初めての方が24時間滞在されることに・・勿論必死になって、項目別にケアブックをまとめました。だのに~~その方じっくり読んでくれず〈というか、思いやり不足?〉問題があり、次週はお断りしました。~~となるとまた別の新しい方があーしんど私何しているんだろただ目の前のことに追われているだけ~話す事さえできれば、こんな思いをしなくてすむのに~情けなくて、悔しくて時折、不意に涙があふれるのです
2009年02月15日
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心待ちにしていた、同病仲間の集いがありました。大阪から、キャサリンさん、とよさんご夫妻、 (幹事お疲れ様でしたー もっとおしゃべりしたかったわ)三重から、カトーさんご一家、 (お別れ際にわざわざご挨拶頂き恐縮でした。 「父方の祖母は三重出身なのですよ」とか・・お話したかったー 素敵なご家族ですね!) 姫路から、かずさんカップル、 (胃ロウの体験話とか・・(笑)おしゃべりしたかったー)明石から、ちょびさんご夫妻、 (同じテーブルで食事させて頂いたのに、もっとお話伺いたかったー)そして私~大好きなヘルパーYさんに付き添って頂きました久々にお会いする仲間の笑顔~初めてお会いする仲間の笑顔~嬉しい・・でも待てよ・・見渡すと、私が一番重症だあ単純に比較できるものではないけれどー独りになった途端、いろんな思いが目からあふれ出ましたいかん、いかん、プラス思考でいきましょ!今日の楽しいひとときを支えて下さったすべての方に感謝です
2009年01月18日
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新年早々長くお休みしてしまいましたご心配おかけしてごめんなさいーあっという間に1月も1/3~~早いですねぇお正月、家族はそろったものの・・1日に息子が高熱を出すし(インフルエンザかと怯えたけれど、食欲落ちず3日で完治。若さよねぇ)それぞれに予定もありその合間を縫って介護を頼まなければならない、心苦しさ・・一方、いつもよりちょっとご馳走風の食卓を整えるために段取りやら作り方やらを文字入力~(もちろん足で)各種鍋、パエリア、チーズフォンデュ、七草粥・・子供達にわかりやすく、説明を書くのは結構大変!(口で言えれば簡単なのに)一方、年末から訪看さんがお休みでマッサージをしてもらえず、身体中ガチガチ一度、娘が揉んでくれて、少し生き返ったけれど~そんなこんなで子供達がそれぞれの城へ帰ってしまったことは寂しいものの馴染みのヘルパーさん、看護師さんに支えられた”いつもの日々”が戻ってきて嬉しくもあるのです・・・そうそう、息子の体調不良が私にうつらなかった事はラッキーでした
2009年01月10日
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皆様良いお年をお迎えでしょうか・・今年は年。私、年女です!かつて娘の出産後、初産なのにすぐ噴水のように母乳があふれ出て「さすが、牛!(ホルスタイン牛ですの」と、新米ママ仲間からうらやましがられたなぁ・・息子の出産前には、陣痛の合間にステーキをぺろりと平らげその牛パワーで、入院してから一時間半ほどであっさりと息子に出会えたなあ・・せっかく年女なんだもの~今年はどんな牛パワーが発揮されるやら・・ううん、発揮しなくちゃね皆さん、今年もよろしくお願いいたします
2009年01月01日
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この1年どれだけ多くの新しい出会いがあり・・・どれだけ多くの方のお世話になったことか・・・支えて下さった皆さん、本当にありがとう関西へ移住する決断の、相談にのって下さった方々。引越しのお手伝いをして下さった友人達。いつも温かく迎えて下さった治験のスタッフの方々。関西の心優しき友人達。介護生活を見守って下さる多くの方々~ 今までお世話になった方 ドクター3人 訪問看護師さん13人 ケアマネさん3人 家政婦さん3人 ヘルパーさん14人 リハビリの先生4人 マッサージの先生2人そして、明るく前向きにがんばっているブログ仲間たち。そして・・・ 両親、夫、子供たち、兄夫婦~本当に感謝しています新年もどうぞよろしくお願いいたします
2008年12月31日
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一昨日夜、いとこが天に召された。私より4歳若く、小学生の女の子二人残して・・乳ガンだった。発病を知らされた5年半前~私の方は元気いっぱいだったけれど、ちょうど息子の中学受験の年で手術を控えた彼女に、祈りを込めてカードと果物を届けることしかできなかった。でも今思うと、あの当時、彼女の苦しい胸の内を私はどれだけ理解していたのだろう・・理解しようとしていたのだろう・・私が難病と共に関西へ戻った今年、彼女のガンは再発・・会うことはできなかったけどお互いに心から励ましあってきた。痛いほど気持ちがわかるから・・”関西の美人女子大生”として雑誌に何度も載った、輝く笑顔~客室乗務員として、生き生き活躍していた、そのがんばり~もう心の中でしか見ることができない。寂しいよー悲しいよー辛い闘病生活、よくがんばったね。おつかれさま!もうゆっくり休んでね。私、もうちょっと粘ってみるよ。見ていてね・・・・・
2008年12月30日
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お昼寝中に不思議な夢を見た。私は(たぶん今の状況=病気で)ベッドに横になり友達二人とを見ていた。 ~と、突然画面中央に自分にしか見えない円が浮かびその中に、元気な頃の笑顔の私が大映しになった。~と、突然その円に吸い込まれ、次の瞬間私はふわりふわりと空中に漂い上がっていた。「幽体離脱?」「私それほど重篤だったっけ?」心地良く漂いながら妙に冷めている私。いつの間にか舞台は教会の礼拝堂の中、上空。母校の聖堂でも、旅先で訪れた大聖堂でもない。「ここはどこ?」本来礼拝堂の正面上部にあるはずの十字架が今、目の前にある。思わず手を合わせた。~と、途端に地上に引っ張られた。そして目が覚めた・・隅々まで妙に覚えている不思議な夢・・もっともどんな夢も不思議なものではあるけれど~でもまあ、告知される前なら絶対に見なかったタイプのものかな・・ついこの前まで夢の中の私は決して病気ではなかったし・・今秋は珍しくドラマを幾つか観ていて、影響されたかしら?『風のガーデン』で中井貴一扮する医師が亡くなったからかなあ『イノセントラヴ』で礼拝のシーンが多く、よく賛美歌が流れていたからかなあふしぎ、ふしぎ~いずれにせよ本当の最期があんな風だったら苦しくなくて良いなあってチョコッと思った私もおりました・・・・・
2008年12月21日
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今日の往診時に、早くも胃ロウ交換した「バルーンタイプバルーンタイプだから痛くないよ」と、何度聞かされてもねぇ・・前回の激痛と恐怖が鮮やかに蘇る、日の浅さよ~(まだあれから40数日しか経っていない) しかしー結論から言うとーぜーんぜん痛くなかったのだ抜く時に「ブッ」と音がしたくらいで入れる時もあっけないくらいにスムーズ今から手術を控えておられる仲間にようやく良い報告ができたーーでもね早くても4ヵ月後にーと言われていた交換がなぜこれほどに早まったかというと・・私のポニョッてるおなかのせいなのだ。6月の最初の手術は、まだ腹筋も元気で体重が少し減り気味の頃だった。私のおなかの厚みを推測して、先生は3.5cmの管をチョイス。それがスッキリおさまっていた。ところが栄養剤の高カロリーのせいか、日毎減り行く筋力のせいか・・おなか周りだけ、見事に育ち胃ロウのボタンがおなかにめり込んでいるように見られ往診の度に笑われていた。~で、11月の交換時に、先生は4.5cmの管をチョイス。でもこれが計算違いだったのだ(プンプン)初めは気がつかなかったけれどほどなく穴から管が1cm近く飛び出すことがあるのを目撃 押せば引っ込むものの、抜けそうで、見た目も不気味~何よりも、移動介助のたびにヘルパーさんの手や自分の衣類が引っかかり、痛い私の訴えに、半信半疑だった先生もとうとう「長すぎたかなー」~~~というわけだったのだ。今から思うと、前回の交換直後の胃の内部の違和感も長過ぎる管のせいだったに違いない!だって今回はそのような不快感が全くないもの。長過ぎる管が胃壁を傷つけて、まれに胃潰瘍になる事もあるそうな・・今から胃ロウにtryする仲間の皆さん、ゆんゆんさーん、わくらばさーん、管の長さにも気をつけてもらって下さいねー
2008年12月18日
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早や今年も残すところ20日間。こういう節目の時節を前にすると、どうしても過ぎ去りしこの一年を振り返ってしまう。元気な頃を振り向いてばかりいても仕方がないのにねーでもでも現実の己の姿を100%受け入れるにはまだ、ちと修行が足らないようで・・(日々過酷な修行を重ねてるのに)きっと最後の最後まで抵抗し続けるんだろうな・・一年前のクリスマスディナーには、初めてケンタッキーを買った。すでに右手がかなり不自由になっていたのでー。の日にはお店に行列が出来ることをあの時初めて知った~~~それまではずっと手作り~ 骨付きチキンレッグに塩コショーとパプリカ(おいしそうに仕上がる) をもみこみオーブンで焼き上げ、付け合わせにはガーリック風味の ポテトグラタンと、クリスマスカラーのサラダ(ブロッコリー&ミニ トマトや、カラーピーマンのマリネなど) さらに定番は、きのこのパイ包みスープ 手作りピザや、ラザニアや、時には詰め物に凝った若鶏の丸焼きも。 そしてデザートは、ブッシュドノエルだったり、ティラミスだったり・・ 大勢集まった時に、ミニシュークリームをツリーの形に積み上げて 飾ったときもあったなぁ あ~料理したいよ~「おいしいー!!」って喜んでくれる笑顔も、人一倍食いしん坊の息子のサインも、もう見ることができない・・寂しいよ~一年前の年末年始は家族で沖縄にいたブログ1回目は、ホテルから発信したのだった。恒例の年末年始の用事を全くせずとも、気が紛れ異空間で家族みなで過ごせることが嬉しかった。ところがこの冬は~~夫は昨年休暇をしっかり取ったので その分 今回は新年2日にならないと関西へ来られない。息子も冬休みは短く、クリスマスにはまだ帰省出来ない。娘も毎度のことながら、何かと忙しそうで・・介護される身になって初めての年末年始。ヘルパーさんや訪看さんのお休みの予定が耳に入るたびにたまらなく寂しく不安になる。世間が楽しげににぎわう季節だからこそ一人だけ取り残されたような気分になるのです
2008年12月10日
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