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長野県立歴史館は長野の弥生時代を知りたい人には外せない場所です。長野県立歴史館(公式ホームページ)弥生中期、中野市七瀬遺跡の「えぶり」。今日でも見かける完成された形の農具を見て、弥生中期に広まった農耕は完成された形で移入されたものだったのだろうと想像した。農耕が広く行われていたことを示す、石包丁や木製農具が多数展示されている。左:千曲市力石条里遺跡群出土「貝殻条痕文土器」(弥生時代前期)右:長野市松原遺跡出土「栗林式土器」(弥生時代中期)左の弥生時代前期の壺には貝殻による条痕がほぼ器面全体に亘って施されている。この文様がもし櫛描によるものであれば右の甕のように一気に弥生中期や後期の土器のようになる。この櫛描文は条痕文から施文具が変わることにより在地で発達したものなのか。櫛描の先進地から伝播したものなのかという疑問を持った。長野市篠ノ井遺跡群「箱清水式土器」(弥生時代後期)簾状文ではなく櫛描横線文。後期のどの段階のものか気になる。長野市篠ノ井遺跡群「箱清水式土器」(弥生時代後期)飯田市丹保遺跡「座光寺原・中島式土器」(弥生時代後期)左の甕には座光寺原・中島式土器の文様の特徴である櫛描短斜線文が施されている。飯田市丹保遺跡「座光寺原・中島式土器」(弥生時代後期)廻間式の高坏に似ている。廻間Ⅱ式ぐらいか。なんじゃこりゃあ!!!ジブリのカオナシに近いにもかかわらず人面付き土器?目・鼻・口が省略されて最早「人面」と呼べる代物だろうか?本当に人?なのか。先日、ブロ友KUMA0504さんのブログ記事『「カミとヒトのものがたり」展 日本の神には顔がない? 』にコメントしてその返信も頂いた。KUMAさんの説は「縄文・弥生時代の日本人は神の姿をハッキリと描けなかったのではなく、描かなかった」というものだ。「カミとヒトのものがたり」展 日本の神には顔がない? (再出発日記)言い方を変えると神の姿をハッキリと描くことを避けていたということになる。そうすると、なぜ避けていたのかということが大きな問題となる。ここで思い当たるのが実名敬避俗や、神の名をみだりに読んではいけないという習俗だ。名前の不思議―(1)(おぢさん)強力な神の姿をあまりにも似せて作ることは「恐れ多いと同時に恐ろしいこと」と考えてわざと簡単につくるというのは確かにありそうなことだと思う。そうした時にこの顔面の主要部を欠落させた土器は顔を描くことを見事に避けており上記の説に良く適合する。私も土偶の顔の簡単すぎる表現が劣った技術によるものだとは思っていない。今のところおぢさんはそれは手抜きであり形代か玩具ではないかと考えている。にほんブログ村
2017.08.23
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関東の前期古墳からの出土土器を見ていくとまず目につくのがいわゆる二重口縁壺と呼ばれるものだ。特徴的で誰もがすぐ覚えられる器形である。最近取り上げた鷺山古墳からもこのタイプの土器が出土している。鷺山古墳出土のものは口縁部に2個の透孔が近接する形で6組12個の穴が開けられている。このような孔は珍しいらしい1。埼玉県本庄市鷺山古墳出土二重口縁壷と椀形土器(本庄市歴史民俗資料館所蔵)埼玉県埋蔵文化財調査事業団による冊子『見えてきた古墳時代の幕開け!!東松山市反町遺跡を中心に』では埼玉の前期古墳(周溝墓含む)49基の情報が表2にまとめられている。その49基中13基で二重口縁壺が出土している。埼玉県熊谷市塩古墳第1支群第1号墳出土2重口縁壺 『埼玉県指定史跡「塩古墳群」の調査』 p.25『埼玉県指定史跡「塩古墳群」の調査』では塩古墳出土の二重口縁壷について検討している。1, 2について直接時期は示していないが鷺山古墳のものと頸部形態や透孔などの特徴が似ていることから庄内IV式~布留式0を想定しているようだ。3は庄内II~III式段階としている3。東北から近畿地方の前期古墳からもこの二重口縁壺が出ている。東北では福島県南相馬市の桜井古墳や宮城県加美町の大塚森古墳。関東では群馬県の元島名将軍塚古墳、千葉県の神門3・4・5号墳、神奈川県の秋葉山古墳やホウダイ山古墳の他多数の出土例がある。箸墓古墳4や纏向型前方後円墳の纏向石塚山古墳5、ホケノ山古墳からも二重口縁壺が出土している6。纏向石塚古墳発掘調査報告書本文編 p.159-161から2重口縁壺を抽出二重口縁壺がいつごろ頃盛行していたのかが分かれば古墳の年代の手がかりになるはずだ。この土器の出土によって前期古墳とされている古墳も多いと思う。近畿地方(中河内)の土器編年では二重口縁壷は3タイプに分類されている。3タイプ共に継続期間が長くこの分類だけでは細かい時期を絞り込むことはできない。二重口縁壺といってもその姿は図にあるように実にさまざまであることが分かる。鷺山古墳、塩古墳1.2、纏向石塚古墳出土のものは土器編年の庄内III~布留IVにかけて存在し、布留Iで盛行したB3タイプに見える。鷺山古墳から出土した小型丸底坩(椀形土器)は小型壺の土器編年の「小型壺D」と判断すれば、鷺山古墳の築造時期は土器から布留1~2と推測できそうだ。1. 本庄市教育委員会 『本庄市の遺跡と出土文化財』 p.132. 埼玉県埋蔵文化財調査事業団 『見えてきた古墳時代の幕開け!!東松山市反町遺跡を中心に』 p.223. 埼玉県熊谷市教育委員会 『埼玉県指定史跡「塩古墳群」の調査』 p.24, p.314. 土器から見たホケノ山古墳と箸墓古墳(邪馬台国の会)5. 桜井市纒向学研究センター 『纒向石塚古墳発掘調査報告書』6. 天理市教育委員会『波多子塚古墳』 p.5 奈良盆地東南部の古墳からの出土品が表にまとめられている。参考:纒向遺跡ってどんな遺跡?(桜井市纒向学研究センター):纏向型前方後円墳の各古墳の説明が良。にほんブログ村
2016.07.09
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日本の狭い意味での歴史、つまり文字によって知ることができる時代はどこまで遡るのか?日本書紀が完成した西暦720年からは疑いなく歴史時代といえる。ある程度信用できる歴史はいつ頃からなのか。どの程度信用できるのか。弥生時代末期から古墳時代のことを調べる際にはまず考える必要のある基礎的な事項だ。日本書紀の継体天皇以前の記録はあまり信頼できないとされるが、ではどの程度信用できるのか?記紀の元となった旧辞、帝紀はいつ頃成立したのだろう?歴史に限らず、まずは文字による記録が日本でどのように始まったのかを見直すことから始めたい。 おぢさん作成年代は推定含む木簡に関しては『飛鳥の木簡―古代史の新たな解明』に拠った。元データはこちら。 表作成後に知ったのだが、鏡には40文字以上が記された景初三年(239年)銘の銅鏡などもあり改めて調べる必要があるが、舶載か倣製かなどなど難しいので断念。鏡については抜け落ちてしまっていることを了承願いたい。 上の表からは7世紀後半から文字の使用が徐々に増え、7世紀末に文字の使用が本格化した様子が見て取れる。それ以前の史料は散発的で文字数も少ない。おそらく文字を読み書きできる人間も限られており使用する機会も多くはなかったのではないだろうか。稲荷山鉄剣、江田船山大刀は例外的に早い時期の史料である。稲荷山鉄剣には八代に亘る系譜が記されており。一部ではこの時代から継続的に記録が残されていた可能性も示す驚くべき史料だと考えるが、現在のところ可能性に過ぎない。 つづく。
2014.11.24
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ネトウヨの噂話でよく見る以下の話には出典情報のような物が付けられているが、出典を見るとでっち上げだったったり。情報源が不明だったりで、単なる噂話の域を出ていない。… 米人類学者Cavalii-Sforzaの遺伝子勾配データによれば、 朝鮮人は世界でも類を見ないほど均一なDNA塩基配列の持ち主であり、これは過去において大きな Genetic Drift(少数の人間が近親 相姦を重ねて今の人口動態を形成)か、あるいは近親 相姦を日常的に繰り返す文化の持ち主だった事を表します。 (文献:The Great Human Diasporas: The History of Diversity and Evolution)出典には該当する内容の記述が見られず捏造といえる。出典としている文献の原作はイタリア語。(文献:Chi siamo. La storia della diversità umana 1993. by Luigi Luca Cavalli-Sforza, Francesco Cavalli-Sforza (ISBN13: 9788804395003))(邦訳:「わたしは誰、どこから来たの―進化にみるヒトの「違い」の物語」ルーカ カヴァーリ‐スフォルツァ (著), フランチェスコ カヴァーリ‐スフォルツァ (著), 千種 堅 (翻訳)ISBN-13: 978-4895831529)上記文献には該当の記述がない。「朝鮮」または「韓国」という言葉が7箇所(邦訳では201,202,247,277,278,297,304ページ)に出てくるが朝鮮人のDNA塩基配列が均一あるいは近親 相姦を日常的に繰り返すといった内容の記述は見られない。またGenetic Driftの説明は誤り。Genetic Drift(遺伝的浮動)とは「集団の遺伝子頻度が自然淘汰とは無関係に変化すること」である。 ・ドイツで人類のゲノム解析やってる大学教授の話朝鮮民族は近親 相姦の物と思われるゲノム上の痕跡(修正不能)が多すぎて、他の民族では考えられない異常な近親 相姦を、民族として繰り返してたと思われる。あまりにショッキングで常軌を逸した内容なので、そのゲノムの発表は出来ない。また、朝鮮人男性の40%に発症すると言われる統合失調症も、それが原因である可 能性が大きい。異常な民族と言わざるを得ない。話をした大学教授が誰か不明。「umiushiakai←ドイツで…」となっている場合があるが、umiushiakaiをドイツ人の名と勘違いしたものと見られる。yahoo知恵袋で活動(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1070041410)されているumiushiakaiさんがいるので。利用したのか間違えてコピペしたと思われる。歯の話で思い出したが、ドイツに留学した歯科医の人知ってて、その人がドイツで聞いて、ドン引きしてた話。ドイツ人の歯科の教授が、なにやら各民族の遺伝子的特性の流れを調査する為のプロジェクトにちびっと参加して、各民族のアゴの骨のデータを調査してたらしいんだが、その人がDNAサンプルから特性把握する人と会った時に、その人がドン引きしてて、「どしたの?」って聞いたら、「韓国人の一家を一単位として家族のDNAサンプル取って調べてたんだが、どう考えても"父+娘"と"母+息子"の組み合わせで生まれたとしか思えないサンプルがワラワラでてきて・・・』http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1248866492上記ページでsuperjackpot1781さんのが以下の様に解答されています。◎つまり、>ドイツに留学した歯科医の人知ってて、その人がドイツで聞いて、ドン引きしてた話の部分が非常に怪しく、俗に言う【また聞き】です。特に2ちゃんねるには、韓国嫌いも多く「作り話」ということも否定できません。それに、ネットの中は極端に、中国、韓国など隣国嫌いが多いですから、どこまで本当か分かりません。また、ネットに書かれてることの根拠を調べもせず信じる人が多いと思います。また、信ぴょう性を求め色々調べましたが、そもそもネットで調べると、上記の部分が【丸々コピーされて使われてる】、掲示板の書き込み、ブログ、サイトが、それこそびっくりするくらい「ワラワラ」出てきます。ほとんどが上記の記事を踏襲しています。エンドレスで次から次へとコピーされてるっぽいです。なんか、【都市伝説】っぽくなってる感じがします。また、質問主と同じように疑問に感じ、その信ぴょう性や、資料、証拠を提示して欲しいことを求める、書き込みや質問もいくつか見られましたが、どれもほとんど回答されてないものばかりでした。
2014.06.14
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群馬県の弥生時代の遺跡をGoogleマイマップ上にプロットした。いまのところ『群馬県史 資料編2』付図「掲載遺跡の所在と弥生時代遺跡の分布」所載の遺跡をプロット完了した。『群馬県史 資料編2』の出版が1986年なので、その後発見された遺跡が多数抜けてしまっているので今後追加していく予定である。名前が変更になった遺跡もあるかもしれない。また、遺跡の位置は上記付図や住所を参考にプロットしたものなのでおおよその場所だと思ってもらいたい。地図データ © 2017 Google, ZENRIN 利用規約クリックでGoogleマイマップに移動します。中期を灰色、後期を緑色で示している。レイヤ分けしてあるので中期または後期のみ表示できます。デフォルトビューは「地形」にしてあるが左のパネルで[基本地図]―[地図]を選択すると若干軽くなるようだ。今回この地図を製作したのは、遺跡の場所を検索する他に、弥生時代の遺跡が立地する地形と分布の様子を知ることが目的だ。弥生時代中期と後期の遺跡の立地を比較すると従来から言われていることであるが中期は山間部にも遺跡が多く分布している。分かりやすいところでは榛名山の周囲や桐生の北東側など中期の遺跡が明らかに多い。再葬墓のみの遺跡が多いこともその一因だろうが住居自体も山あいにあったのだろう。沼田や渋川の周囲など地域毎に見た場合にも後期より山寄りに中期の遺跡が分布する傾向が伺える。中期後期ともに遺跡が集中する箇所と広い範囲にわたって遺跡が存在しない箇所がある。深い山に遺跡が希薄であることは予想どおりであるが、その他にも伊勢崎・玉村・前橋の中心を結んだラインで囲まれる地域、高崎南部と藤岡北部の烏川と鏑川が合流するあたりを中心とする地域、太田市から館林市までの広い範囲などに遺跡が見えない。これら平地にある遺跡の空白地帯は大河川の脅威によるものかもしれない。利根川は16世紀ごろまで現在より東の桃ノ木川―広瀬川の流路を流れていたと考えられている[1]。この古い利根川と現在の利根川に挟まれる地域が伊勢崎・玉村・前橋を結んだラインで囲まれる領域であり弥生時代の遺跡は殆ど存在しない。遺跡が集中する箇所は中期後期ともに幾つか見受けられる。同時期に区分されていても中期後期ともに長い期間なので遺跡が同時に存在したのかはわからない。一つの集落が発掘の都合上、複数の遺跡と捉えられてしまっているケース、近接した協力関係の集落が群を成しているケース、時間の経過で一つの集落が徐々に移動したケースなどいろいろ考えられるだろうが、やはり近くの集落をまとめてみていく必要があると感じた。地図作成後に見つけたのだがマッピングぐんまの地図がなかなか使える。たいへんすぐれものなのだが、一般的な遺跡名ではないコードのような名前で登録されているのと、地域によって地図への登録に濃淡がみられるようだ。[観光・文化・文化財情報]―[遺跡・文化財]選択で遺跡表示できる。マッピングぐんま(群馬県企画部情報政策課)[1] 群馬県埋蔵文化財調査事業団 2003『徳丸仲田遺跡(2)』、p.1にほんブログ村
2017.01.08
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土器の編年については良いHPを見つけた。土器の編年 上記HPでカバーしてある範囲は十分だが、他の地域と、もう少し後の年代までの編年にしたい。また、歴博発表の炭素14年代測定により年代を修正しなければならないところもある。ということで上記HPなどを参照しながらテキトーに編年を作成した。土器編年(おぢさん作成) 須恵器はよく「TK○○」という形で言及される。これについては以下を参照。<陶邑(古窯址群)須恵器編年> 五世紀前半から大阪南部の窯址群で作られた須恵器に対して田辺昭三氏、中村浩氏らが編年を行った。I~V型式に分けられる。I 型式 TK73, TK216, TK208, TK23, TK47II型式 MT15, TK10, TK43, TK209III型式 TK217IV型式 MT21, TK7V型式 TK112, MT5(TKは高蔵寺地区内の窯址、MTは陶器山地区内の窯址)
2015.02.14
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