ありがとう仙人の幸せ玉手箱

ありがとう仙人の幸せ玉手箱

2014年12月07日
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カテゴリ: 哲学

みなさん、こんにちは

多くの人が、自分の繁栄と全盛を目指して努力しています。

すなわち、名誉、地位、名声、お金を得て自分の人生を輝かしいものにしようとしています。

自分がやりたいことをやればそれで良いので、そのこと自体は何の問題もありません。

しかし、いくら努力しても、全員が名誉や地位、名声、お金を得ることはできません。


「わかったカネ?」(笑)

はははははっ!大笑い


名誉、地位、名声、お金を得ることができなかった人は、自分の運命を嘆き始めます。

また、他人の人生に嫉妬します。




しかし、本当はどんな人の幸・不幸も同じなのです。

「どんな人の幸・不幸も同じ」といのうは、その内容ではなく、人生で体験するエネルギー量のことです。

ある人は、全盛を迎えて大きな幸を得ます。


しかし、この世は二極の世界ですから、全盛があるということは必ず衰退があるということです。

すなわち、全盛時代に体験した大きな喜びと同じ量だけ不幸を体験するのです。


今、どん底状態ある人は、その量と同じだけの喜びを体験します。

というのも、「どん底」があるということは「頂点」があるということだからです。


だから、イエス・キリストはこう言ったのです。

今、泣いている者は幸いである。やがて、あなたは笑うようになるだろう。



あはははは…っ!大笑い




適度な幸・不幸を繰り返しながら人生を終えます。



どんな人も、人生で感じる幸・不幸は同じなのです。

だから、全盛を迎えている人を羨ましく思う必要もなければ、どん底にいる自分を嘆く必要もないのです。

また、全盛もどん底もない自分を責める必要もありません。

総計は同じなのですから!



というのも、出来事はニュートラルだからです。

そのニュートラルに自分がどう思うかだけです。

シェイクスピア曰く、

「この世には幸も不幸もない。自分の心でどうにでもなる。」




哲人・中村天風先生は、「人生は心1つの置きどころ」と言っています。

つまり、自分の心が出来事の意味を決めるんです。

こういう話があります。

ブッダの十大弟子の一人にプルナカシャパという者がいました。

プルナカシャパは、弟子になる前は商人でした。

このプルナカシャパは、ブッダの教えを忠実に実践し、悟りを開いた一人です。

ブッダは、悟りを得た者は自分の側から離れて、布教することを勧めていました。

弟子たちは、誰もブッダの側を離れたくないので、自分が悟ったことを隠していました。

が、ブッダにはすべてお見通しです。

とうとうプルナカシャパは、ブッダに呼ばれました。

「プルナカシャパよ! お前はもう悟りを得ているのだから、私のもとを離れなければいけない。
どこかに行って、苦しんでいる人の手助けをしなさい。」

プルナカシャパも、諦めて布教に行くことを決心しました。

「ブッダさま、わかりました。そのようにします。」

「で、お前はどこの国に行くつもりなのだ?」

「はい、スナーパラン国に行こうと思っています。」

「スナーパラン国? それはダメだ! あそこには行ってはいけない。」

「なぜですか?」

「スナーパラン国は治安が悪い。インドの中でも最も治安の悪い国だ。
あそこの国の人々は、乱暴で性悪だ。あそこはやめて別な国へ行きなさい。」

「いえ、ブッダさま。そういう人々にこそ、あなたの教えが必要なのです。
ブッダさまがいつも仰っているではありませんか! 

医者を必要としているのは病人であって健康者ではない。それと同じで、私の教えを
必要としているのは、苦しんでいる人であって快楽に溺れて遊んでいる者ではない、と。」

「わかった。ただし、そこへ行く前にいくつか質問するから、その答えを聞いてから決めよう!」

「わかりました。」

「では、質問だ! もし、お前がそこへ行って説法したとき、人々から罵られ、バカにされたらどうする?」

「はい、私はその者たちを愛おしく思います。」

「なぜだ?」

「はい、本来乱暴な性格なのに、殴ったり、蹴ったりしなかったのですから。
 私はその者たちに感謝するでしょう。」

「では、その者たちに殴られ、蹴られたらどうする?」

「はい、私はその者たちを愛おしく思います。」

「なぜだ?」

「はい、本来乱暴な性格なのに、素手で攻撃してくれたのですから。
 私はその者たちに感謝するでしょう。」

「では、石を投げられ、棒で叩かれたらどうする?」

「はい、私はその者たちを愛おしく思います。」

「なぜだ?」

「はい、本来乱暴な性格なのに、刃物を使わずに攻撃してくれたのですから。
 私はその者たちに感謝するでしょう。」

「では、刀で殺してきたらどうする?」

「はい、私はその者たちを愛おしく思います。」

「なぜだ?」

「はい、死ぬということは、この苦しみの世界から安らぎの世界へ戻っていい
 ということだからです。私は解放されるのです。

 私はその者たちに感謝するでしょう。そして、そのことを悟らせてくれたブッダさまに
 感謝するでしょう。」

「わかった! プルナカシャパよ! お前はスナーパラン国へ行くがいい。
 お前がいるところは、どんな環境であろうともすべて天国だ。」

まさに、「人生は心1つの置きどころ」という典型的な話です。

当時のインドでは、カースト制度による差別、殺人、強盗、強奪など、相変わらず起こっている
にもかかわらず、ブッダとその弟子たちは天国として生きたのです。



がはははは…っ!大笑い


しかし、多くの人はひとかどの人間になりたがります。

何ででしょう?


つまるところ、名誉や地位、お金を得て、多くの人々を服従させたいからです。


インドのマスターOSHO曰く、

「エゴが喜ぶのは、誰かを自分の配下に従えるとき、

”私はあなたより上だ、あなたより偉い”と言えるときだけだ。

 知性ある人は、他者を支配することには興味がない。

 その人の第1の興味は自分自身を知ることだ。」




がははは…っ!大笑い


誰もが他者から認められることを望んでいます。

というのも、他者から認められてはじめて自分は存在している価値があると教え込まれてきたからです。

だから、他者から認められれば喜びが得られると誤解してしまったのです。


他者から認められれば喜び、他者からけなされれば落ち込む。

これでは他人の奴隷です。


自分自身を知らないから、他人の評判、すなわち、他人のアンケートを通して自分を知ろうとしてしまうのです。

あなたは他人の評判が気になるでしょ?


わはははは…っ!大笑い


他人から認められることにはあまり意味がありません。

あなたの喜びは自分の創造的な時間を楽しむことにあるのです。


OSHO曰く、

「仕事をするのは自分が認められるためではなく、自分が創造的になることを楽しむためであるべきだ。


 あなたの満足は仕事そのものにあるべきだ。
 喜びとは何かを成し遂げることにあるのではない。

 喜びとは、あなたがそれを望み、それをしている間、すべてを、全世界を忘れていたことにある。
 それはあなたの全存在の唯一の焦点になっていた。

 そこにあなたの至福と報酬がある。」




がははははは…っ!大笑い



多くの人は常に外側を見て判断します。


「私が怒っているのは誰のせいか?」

「私が不幸なのは誰のせいか?」

「私が悲しんでいるのは誰のせいか?」

「私が貧乏なのは誰のせいか?」


しかし、全ての原因は自分の内側にあります。

まず、自分の内側にある創造性を発揮してください。


それは、絵や書、武道、料理、踊り、なんでも構いません。

「オードーリーと踊りぃ~」(笑)

がはははは…っ!


自分に合ったもので自分の創造性を発揮してみてください。


OSHO曰く、

「どんな創造的な仕事も、内なる成長に役に立つ。」


人生は1回限りであり、人の幸・不幸は同じです。

だとしたら、自分にできることは、自分の内なる成長に役に立つことを今するだけです。

「今」を体験することは、「過去」と「未来」を体験することになるのです。

というのも、「今」に過去と未来が含有しているからです。

創造的な人生を今日から歩みましょう!

今日の話はこれで終わりです


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最終更新日  2014年12月09日 09時24分56秒
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