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質問 なぜ、私の人生は失敗ばかりなのかありがとう仙人さん、こんにちは。メール相談はしていないなのは承知で質問させていただきます。私の人生は、失敗ばかりです。中学のときに、いじめられて不登校になり、高校では、自分の第一志望の大学に落ち、最近は恋人にふられてしまいました。なぜ、私の人生は失敗ばかりなのでしょうか。人生とは決まっているのでしょうか?それとも変えられるのでしょうか? 「失敗」という概念は、単独では成り立たない概念です。「失敗」という言葉を使うときは、必ず、何かと比較しています。 比較すると、錯乱状態になります。例えば、不登校で言うと、「周囲の人は、毎日学校へ通っているのに、それに比べて私は…」と比較することによって、失敗したと解釈しているのです。 もし、不登校を対象とした通信制高校サポート校に入学したら、「周囲は皆、私と同じ体験者ばかり」という安心感を得るでしょう。すなわち、比較することによって、不安と安心の両方を体験するのです。これを錯乱状態といいます。なぜ、比較するのでしょう。貴女は、小さい頃から、親や教師から教わりました。「人より努力して、良い成績をとるのよ」、「たくさん勉強して立派な人になるのよ」と…。人よりテストの点数を上げることに努力し、運動会では競争に勝つことを目標とし、また、テレビで成績優秀者への賞賛を見てきました。こうして、貴女は、「そうか、努力して人より抜きん出ないとダメなのかぁ」という固定観念を潜在意識にしまい込んだのです。この「思い込み」によって、貴女は苦しんでいるのです。 そして、常に他人を意識して生きるようになりました。そのことに疑問も抱かずに…。周りも努力して人より優秀な成績を修めることを第一として生きている人達ばかりなので、疑問を抱かないのは当然です。 しかし、いい機会なので、考えてみましょう。なぜ、人より抜きん出ようとするのかを。本当に良い結果が出せない人は、価値がないのでしょうか。 貴女はペットを飼っていますか。猫を飼っているとします。猫の一日を観察してください。ただ、食べて寝ているだけです。良い結果など出していないですよね。でも、猫がいるだけで貴女は満足するはずです。猫が存在してくれているだけでいいのです。人間も同じです。存在していることに価値があるのです。「もし、あなたが存在していなかったら、今の宇宙は存在していない。あなたの存在が今の宇宙を存在させているのだ」(釈迦)「良い結果」というのは、貴女の存在にプラスされた小さな価値でしかありません。存在あっての結果です。我々の一番の価値は、存在です。そのことに気づいてください。さて、「失敗」と判断しているのは、誰でしょう。貴女は自分が判断していると思っていませんか。今、自分と思っている自分は自分ではありません。私とは、自我(顕在意識)と生命(潜在意識)の二人によって構成されています。自我というのは、この現象世界で様々な体験をするために、生命によって創られた道具です。その道具である自我は、認識できるがゆえに自分だと錯覚しがちです。が、本当の自分は、感覚することができない全智全能の生命です。 先も言いましたが、「失敗」と解釈しているのは、道具である自我で、本当の自分である生命は、「全ては上手くいっている」と知っているのでニコニコです。 なぜなら、人生に起こる全ての出来事は、生命が創造しているからです。今まで自分だと誤解してきた自我には、出来事を起こす力はありません。自我が出来事を起こしているわけではないのに、起きてきた出来事について、「成功」とか「失敗」とか、勝手に判断して喜んだり落ち込んだりしているのです。面白いと思いませんか。自我には、それが良い出来事なのか、良くない出来事なのか、絶対にわかりません。自我のすることは、「これをしよう」と選択することです。その望みが叶うかどうかは、生命にお任せするのです。自我と生命は役割が違うのです。 悩みや苦しみの原因は、実は一つです。今の状況が、「自分の思い通りではない」ということだけです。全てが「思い通り」と感じていたら、苦しみは湧いてきません。「思い通りではない」と判断したとき、悩むのです。「思い通りではない」と思っているのは、自我です。内なる生命から見れば、「全て思い通り」なのです。どちらの観点から見るかの違いです。今までは、自我が自分だと思い、自我の観点から見て生きてきたので、「思い通りではない」と判断して苦しんでいたのです。だから、これからは、本当の自分である生命の立場から見てはどうでしょう。生命の立場から見ると、全て「思い通り」なので、悩みが消えてしまいます。さて、「思い通り」とは、どういう思いが「思い通り」だと思いますか。 我々は、生まれる前から存在していたのです。トロント大学のホイットン博士は、「私は、生まれ変わりなど信じていなかったが、実験結果から、生まれ変わりが真実だということを認めざるをえない。我々は、かつて前世を生きたことがあり、来世も生きるだろう」と発表しました。また、アルメダー博士は、「我々は、死後も生き続けることは、誰でも認められる証拠によって明らかである」と発表しています。 我々の生命は、生まれる前に、自分の人生の計画書を設計し、生まれた後は、その計画書通り生きています。過去に起きたことは、全て計画通りだし、今の状況も全て計画通りで、これから起こることも計画通りなのです。生まれる前に、自分の性別、両親、国、出会う仲間など、自分が体験したいことを達成するのにふさわしい状況を設計して生まれてくるのです。 釈迦は前世で臨終の際に、周囲の人たちに言っていました。「私は、今度、釈迦族の王子として生まれる。私の母はマーヤーという人で、私の父はスッドーダナという人だ。母は、ある日、象が自分の脇の下に入る夢を見る。母がルンビニー園で、しゅろの樹の下に立つとき、私は生まれる。そして、すぐに七歩歩く」そして、その言葉通り、紀元前四六三年ごろ、釈迦は生まれた。 「人生が決まっているのか」、「人生は変えられるのか」、それはどちらでもいいことです。 釈迦に、こういう話があります。朝、釈迦にある男が尋ねた。「私は、人生は変えられると思っています。人生は変えられますか?」「人生は変えられるかって!人生は決まっています」「エッ。あなたは、人生は変えられると説いているといわれて来たのです」「それは違います。私は、人生が決まっていることを説いているのです」昼頃、ある男が尋ねた。「私は、人生は決まっていると思っています。人生は決まっていますか?」「人生は決まっているかって!人生は変えられます。決まってはいません」「エッ。あなたは、人生は決まっていると説いているといわれて来たのです」「それは違います。私は、人生が変えられることを説いているのです」夕方になって、ある男が尋ねた。「私は、人生が決まっているのか、人生は変えられるのか、わかりません。教えてください」「私がわかるはずないじゃありませんか」「エッ。あなたは、悟りを開いた智者だと聞いてきたのです」「それは違います。私は無知な者です」 しばらくして、一緒にお供をしていたアーナンダは釈迦に尋ねた。「私は、頭が割れそうです。あなたは、朝は人生は決まっていると言い、昼は変えられると言い、夕方はどっちか分からないと言いました。何が何だか分かりません」「アーナンダよ。答えなんかどうでもいいのだ。大事なのは、誰に言ったかなのだ。朝の男は、人生が変えられると信じていた。が、そのせいで苦しんでいたのだ。だから、私に確認しに来たのだ。私に人生は決まっていると言われて朝の男は救われたのだ。昼の男は、人生が決まっていると信じていた。が、そのせいで苦しんでいたのだ。だから、私に確認しに来たのだ。私に人生は変えられると言われて昼の男は救われたのだ。夕方の男は、人生について何も考えていなかった。ただ、私が来たというので質問をしてみただけだった。だから、私は答えるわけにはいかなかったのだ。答えれば、その言葉を信じ込み、偏った考えで生きることになるからだ」自我には、未来は分かりません。だから、自我の立場から見れば、人生は変えられると言えます。人生の創造主である生命(魂)は、全てを知っています。だから、生命の立場から見れば、人生は決まっていると言えます。どちらも、同じ説明です。どちらの立場で見るかの違いです。貴女は、今まで、自我の立場で生きてきました。その結果、今苦しんでいます。だから、今度は生命の立場で生きることをお勧めします。そうして、ニュートラルになるのです。 生命から見ると、いじめも不登校も大学も失恋も計画通りに進んでいるということになります。全てが「思い通り」ということです。第一志望の大学に合格しなかったのは、生命にとっては、その大学は第一志望ではなく、合格した大学が第一志望だったのです。全ては予定通りだとしたら、「失敗」という概念は消えます。「人生は決まっている」という立場を採用すれば、人と比較しなくなります。この考えは、今の貴女を救います。全ては上手くいっていると決めて、起きてくることに委ねてみてください
2023年08月02日
「否定的な感情を感じることは、別に悪いことではありません。自分の人生の中に、困難をもたらすものではないのです。否定的なものを否定するとき、それが困難をつくりだします。」 ( バシャール )我々は、怒り、恐れ、悲しみ、嫉妬、憎しみ、といった否定的な感情を出してはいけませんと教えられてきました。そのため、否定的な感情を否定する傾向があるのです。ですから、自分が否定的な感情を出したら自分を否定し、周囲で否定的な感情を出している人に触れたら、その人を否定してしまいます。しかし、バシャールは、否定的なものを否定するから苦しむのだと教えています。否定的な感情が湧いてきたら、単に感じればいいだけのことです。否定的な感情を出したからといって、自分の人生に困難をもたらすことはない、とバシャールは断言しています。肯定的な感情だろうと否定的な感情だろうと、その感情を感じればいいだけなのです。そのことに良いも悪いもないのです。「私は、臆病で…」という人がいますが、それのどこが問題なのでしょう?その恐れを単に感じればいいだけなのです。その恐れも長続きしません。感じていれば、やがて消えていくのです。ブッダは、「この世は無常である」といいました。無上とは、「常では無い」、つまり、「同じ状態のものはない」ということです。これは精神状態にも当てはまるのです。どんな感情も一時的な現象で、やがて消えていくのです。ですから、目の前の感情を感じればいいのです。なんて、シンプルなんでしょう!シンプルすぎて、気づかなかったのかもしれませんね!ただし、否定的な感情を出しても問題ないからといって、それが習慣になると厄介です。「習慣は第二の天性」です。否定的な感情が習慣にならないように、普段から努力することは大切です。要は、バランスの問題なのです。
2023年07月04日
大祓詞は、物凄い浄化力のある祝詞です。しかし、かなり長いので自分で唱えるには根気がいります。大祓詞は日本最強の言霊パワーと言われているほどの祝詞です。それゆえ、聴くだけでも効果があります。「何かあるのが人生だ」と中村天風先生は言っています。何かあった時に、「大祓詞」を聞くだけでも流れが変わります。ありがとう仙人が唱えた大祓詞を貼り付けますので、よろしかったら聴いてください。http://aikidoshurenkan-343.seesaa.net/article/498731404.html
2023年03月25日
植芝先生直伝の合気道を体験しよう!コロナ禍で長い間、初心者体験会を中止していましたが、この度、開催することになりました。埼玉県で唯一、岩間流合気道が学べる道場です。植芝先生の精神を学びたい方の応募をお待ちしています。日時:第1・3日曜日 10時~11時30分場所:越谷囲碁会館1階 ※「入門案内」ページ参照対象:合気道初心者 高校生以上の男女参加費:1500円(学生500円) ※運動できる服装をご用意ください。 申込:「合気道1日体験申込」ページからメールにて申込。件名は「合気道体験希望」でお願いします。
2022年12月25日
今日のテーマは、「悲しみ」です。悲しみを体験したことがない人はいません。「私には悲しみはない」という振りをしている人はいますが…。そういう人は、かなり劣等感が強いですね!「私は、あなたよりもレベルが高い人間だ」とパフォーマンスしなければならないのですから…。わはははははは…っ!この「悲しみ」という感情は、どうして起こるのでしょう?「悲しみ」というのは、何かを失った時に起こる感情です。別な言い方をすると、「自分が執着をしていたものを失った時に起こる感情」です。名誉や地位、お金、恋人、家族など、自分が愛着をもっていたものを失った時、悲しみはやって来るのです。しかし、何の愛着もないボールペンやハンカチを失っても、悲しみはやってきません。でも、形見のボールペンやハンカチを失ったら、悲しみはやって来ます。つまり、「悲しみ」とは、自分が価値を付けたものを失った時に、やって来る感情なんです。例えば、掃除をしていたら、押入れから汚い箱が出てきたとします。中を開けたら、汚いお皿が出てきました。ゴミとして捨てようとしたら、「安土・桃山時代」のお皿であることが箱を見てわかりました。どうです? 捨てますか?捨てないで保管しますよね!「これは価値がある」と自分が思った途端、ゴミが一変して宝物(執着)になるんです。がはははははは…っ!自分が価値を付けていないものを失っても、悲しみはやって来ないんです。名誉や地位を失っても悲しまない人がいるのは、そのためなんです。そういうものに価値を付けていない人は、失っても悲しまないんです。わはははははは…っ!名誉や地位、お金を失っても悲しまない人を見ると、執着のない聖人のように感じますが、それは違うんです。そういう人も、「自分が価値をつけたもの」を失うと悲しむんです。ただ、名誉や地位、お金に価値を付けていないだけなんです。がはははははは…っ!つまり、悲しむということは、執着があるという証拠なんです。だからと言って、悲しみをなくすには「執着をなくせばいい」という話ではないんです。悲しみの原理を知って、悲しみと仲良く付き合おうというのが今日の話の主旨なんです。わはははははは…っ!「人生から悲しみや苦しみをなくして、喜びだけで生きよう」というのが今までのやり方でした。しかし、それは上手くいかないんです。なぜなら、悲しみはなくならないからです。インドのマスター・和尚(OSHO)曰く、「悲しみは、必ずやってくる。避けることはできない。もし、避けようとするなら、幸福になる可能性そのものを破壊するしかない」わはははははは…っ!悟りを開いた聖人でさえ、悲しみはやって来るのです。ブッダが最も信頼する弟子・モッガラーナとシャーリープトラが亡くなったとき、ブッダはこう言いました。「あの二人がいなくなったのは、正直、悲しい!」だから悲しみを排除するのではなく、受け入れて体験することです。ブッダにこういう話があります。キサー・ゴータミーという女性がブッダのところへやって来ました。その理由は、「死んだ子供を生き返らせてほしい」とブッダに頼みに来たのです。幼い子供を亡くしたゴータミーは、死んだ子供の死骸を抱いていました。その死骸は、腐りかけていました。「ブッダさま、私の子供を生き返らせてください。」ブッダは、ゴータミーに言いました。「わかった! お前の望みを叶えてやろう!どこかの家を訪ねて、ケシの実をもらって、それを飲ませなさい。そうすれば、お前の子供は生き返る!」「本当ですか! ありがとうございます!」「ただし、ひとつだけ条件があるのだ。まだ、一度も、死人を出していない家のケシの実でなれば効かないから、そういう家を探して、分けてもらいなさい。」「わかりました! そうします。」ところが、死人を出していない家は見つかりませんでした。どんな人も、身内の死の悲しみを背負いながら、生きていたのです。ゴータミーは、ブッダのところへ戻ってきました。「ゴータミーよ! 子供は生き返ったか?」「ブッダさま、目が覚めました。人は、皆、死ぬものです。その死を受け入れて生きなければならないことが分かりました。悲しみは、すべての人が体験するべきもなのだと悟りました。これからは、悲しみを取り除こうとするのではなく、それと直面して生きていきます。」悲しみを排除して、喜びだけで生きようとするのではなく、悲しみも喜びと同じように、付き合うのです。バーソロミュー曰く、「人生の楽しい面しか見ようとせず、自分には否定的な経験が全くないと主張する人は、人間がこの地球界に転生してきた目的のひとつを避けているのです。自分の恐れや、いわゆるネガティブ、つまり、否定的な面を感じることを拒否すると、人生の可能性を最大限に生きることはできません。」わはははははは…っ!実は悲しみという感情は単独で存在しているのではないんです。「悲しみは自分が価値あるものを失ったときに起こる感情である」ということは、悲しみの前にそれを手に入れた「喜び」があったということです。つまり、「得た」から「失った」のです。言い換えれば、「喜び」があったから「悲しみ」がやって来たのです。それなのに、「喜び」のことは忘れてしまって、「悲しみ」がやって来ると、「私は世界一不運な人間」と思い込んでしまうんです。「喜び」を得たあなたが、「不運な人」のはずがないじゃないですか!がはははははは…っ!「喜び」と「悲しみ」は表裏一体なのです。もし、「喜び」がなかったら、「悲しみ」もありません。反対に、「喜び」があるから「悲しみ」があるのです。「喜び」しかなかったら、それが喜びであるという感覚はありません。つまり、「喜び」を支えているのは、「悲しみ」なのです。和尚(OSHO)曰く、「幸せ(喜び)ばかりが一杯で、不幸せ(悲しみ)が少しもなかったら、人は狂ってしまう。不幸は幸福のバランスをとるものだ。」今までは、悲しみを排除して喜びだけで生きようとしてきませんでしたか?それは不可能なんです。和尚(OSHO)曰く、「苦痛(悲しみ)を手放して喜びを蓄えることができる、マイナスを避けてプラスだけを得ることができるなど、途方もない誤解だ。」わはははははは…っ!喜びの後には、必ず悲しみがやって来るし、悲しみの後には、必ず喜びがやって来るのです。なぜなら、喜びと悲しみは表裏一体だからです。同じエネルギーの表と裏の作用なんです。「悲しみ」がやって来たということは、単に「喜び」のエネルギーを使い果たしたということです。そして、「悲しみ」のエネルギーを使い果たすと、再び「喜び」のエネルギーがやってくるのです。それが宇宙のリズムなんです。それは、朝がやって来たら、必ず夜がやって来るようなものなんです。だから、イエス・キリストは、こう言ったのです。「悲しんでいる者は幸いです。やがて、喜びに満たされるからです。」わはははははは…っ!「喜び」がやって来たら喜び、「悲しみ」がやって来たら悲しむ、それでいいのです。これが「ニュートラル」な生き方です。「ニュートラルな生き方」とは、「シンプル」なんです!和尚(OSHO)曰く、「両方の極(プラスとマイナス)に開いていなさい。それがコツ、バランスをとる秘訣だ。ある時は、すっかり幸福になって、またある時は徹底的に悲しみなさい。どちらにも、それなりの美がある。真ん中(ニュートラル)に永遠にとどまるということは、死を意味する。中道(ニュートラル)にあることは、静的な状態ではない。それは動的な現象だ。だから、左(喜び)から右(悲しみ)、右から左へと動き続ければいい。それこそが真ん中にとどまる唯一の方法だ。人は幸福でいたがるが、必ず不幸が伴うことを認めようとしない。それらは同じコインの両側だ。この世では、一方を求めれば、もう一方が求めなくても、その人のところにやってくる。快く両方を受け入れるか、両方を手放すか、どちらかでなくてならない。」わはははははは…っ!我々は人間なんです!人間らしく、喜びと悲しみの両方を体験しようではありませんか!バーソロミュー曰く、「嘆き悲しみたいときは、思いきりそうしたらいいのです。病気をしてもいいのです。どんな悲しみも後悔も罪悪感もすべて思いきり感じていいのです。あなたの心のなかにある愛は限りなく大きいものですから、どんな感情も包み込んでくれます。」がはははははは…っ!さぁ、今日から「悲しみを排除して喜びだけで生きよう」とするのを止めて、両方を体験することに決めましょう!それが、ニュートラルに生きるコツです!「泣くことが弱虫のしるしだなんて、誰が言ったのか?そうではない、それは弱虫のあかしではない。感性の強さのあかしだ!」( 和尚 OSHO )笑いたい時は笑い、泣きたい時は泣く!そこには、何の善悪もありません。ただ、「感情を体験している自分がいる」だけなのです。これがあるがままの姿であり、ニュートラルな見方です。今日の話はこれで終わります。今日も、みなさんと共に学べたことに感謝いたします。さぁ、最後に笑いましょう!がはははははは…っ!
2022年06月02日
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 植芝盛平先生直伝の合気道で浄化する━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━合気道はどなたにもできる武道です!植芝先生直伝の合気道は、武道のように見えますが、実は、「瞑想」なのです。また、合気道の型(武技)は外的環境を浄め、宇宙の汚れを落とし、自分の心を開く行法です。ありがとう仙人の道場は、男性は男性同士、女性は女性同士で組んで稽古をしますので、女性の方も安心して稽古できます。また、合気道をやっていると、姿勢が美しくなりますので、好印象な人に変わります。祝詞、みそぎ、言霊、浄化、瞑想、坐禅などに興味のある方は、お訪ねください。素晴らしい仲間がお待ちしています。光明(悟り)を得たマスター・植芝先生直伝の合気道を体験してみよう!植芝先生直伝の合気道が体験できる稀有な機会です。心身が浄化されるので、体験後は、心が軽くなっている自分に驚くでしょう!「合気道の教えに耳を傾け、練習を重ねるにつれ、あなたは、ゆっくりと、 より静かに、より穏やかになっていく。」(OSHO)合気道の体験入門案内はこちら↓https://iwamaryuaikido.jimdo.com/
2022年05月27日
みなさん、こんにちは!今日は災難についてのお話です。中村天風先生は、「何かあるのが人生だ」と言われています。生きている以上、何かあるのが人生なんです。その何かには、災難もあります。災難!「お野菜が高くて親災難」(笑)がはははは…っ!なぜ、災難が人生に起こるのでしょう?災難というのは、「自分が放出した内なるエネルギーと外なるエネルギーの共鳴によって起こる」のです。どんな人もエネルギーを放出しています。ですから、災難も起きてくることがあるのは当然なのです。災難を人生からなくすことはできません。ですが、その災難を自分の力で軽減することはできます。がはははは…っ!「人間は7つの身体から構成されている」と言われています。その7つの身体の1つにエーテル体と呼ばれる身体があります。このエーテル体が人生に大きな影響を与えています。インドのマスター・OSHOは、エーテル体について、次のように言っています。『この青みがかった形態、この青みがかった光こそが、エーテル体の存在だ。 あなたには幾つもの体がある。 …略… 体は七つある。どの体も〈神〉の中に入るのに使える。どの体も扉となる。 …略… エーテル体はもっとも認識しやすい。ほかの体はもっと深くにあるので、 認識するのも難しくなる。 エーテル体は肉体のすぐ近くにある。 エーテル体は二番目の体だ。肉体を取り巻いている。 肉体を貫き、肉体を取り巻いている。ぼんやりした光、青い光が、ゆるやかな衣のように取り巻いている。』(『生の神秘』OSHO 市民出版社より引用)このエーテル体に働きかける技法を知っています。それが、悟人・植芝盛平先生が創始した岩間流合気道です。『エーテル体に目覚める本』松村潔著(アールズ出版)には、次のように書かれています。「合気道はエーテル体を高める運動であり、円運動的な性質も盛り込まれていると思われる。 創始者の植芝盛平は、水素12と連動する動作・本能センターを想定していた。 しかしそうなるとスポーツではなく宗教である。 実際に植芝盛平は大本教の出口王仁三郎の弟子だった。 現代の合気道の多くの指導者は、この盛平の12の要素を批判し、その部分を取り除き、 24を中心とした運動と考えるようになった。」岩間流合気道は、植芝盛平先生の合気道を忠実に再現した動きです。まさに、エーテル体に働きかける動作であり、禊の武道です。このエーテル体が高まると、運勢も良くなります。『エーテル体に目覚める本』松村潔著(アールズ出版)には、次のように書かれています。「運勢の強い人とは、エーテル体の強い人と考えてもいい。 なぜならそれはより大きなエネルギーを吸収するからだ。 エーテル体が安定してつくられると、それはプラナの容器になる。 プラナは宇宙的な生命力だ。 エーテル体が強いと、もちろんそれは生命力が豊かになるという意味になる。」実際、当道場でも岩間流合気道を始めて運命が好転した道場生は大勢います。(運命が好転したら辞めてしまいますが…)不世出の武道家・植芝盛平先生が創始した武道です。意味のない動作を稽古させるはずがありません。岩間流合気道を修練すれば、エーテル体が安定してきます。エーテル体が安定すると、生命力が強くなります。すなわち、そのエネルギー作用により、「大難は小難となり、小難は無難となる」のです。
2020年12月09日
この方法は、「勇気の煥発法」であり、臍のセンターの開発法です。天風先生は、この方法をインドでの修行中に体得されました。天風先生によると、インドでは、熟練している者は山の奥での修行が許されていますが、未熟な者は山の浅手での修行しか許されないそうです。それは、山の奥には、猛獣や毒蛇がいて、それらに襲われないだけのオーラを発していなければ、すぐに餌食になって命を落とすからです。この「クンバハカ法」こそ、猛獣や毒蛇にも襲われないオーラを発することができるようになる方法なのです。その証拠に、天風先生は、虎が入っている檻に入ったことがありますが、虎は天風先生には何もしませんでした。それどころか、天風先生は、虎の頭を撫ででいるのに、虎はおとなしくしていたそうです。(写真が残っているそうです)インドでは、このクンバハカ法は、親兄弟といえども、口伝で伝えてはならないとされている秘法中の秘法です。あくまでも、自分で体得するしかないのです。それを日本に帰国した天風先生が、「こんな良い方法を独り占めにするのは人類のためにならない」と我々に教えてくれているのです。この方法を実行すれば、活力がみなぎり、勇気が煥発され、何事が起きても動じないでいられるようになります。この方法を知らない者は、他人の言葉や動作、出来事などを直接心で応接します。そのため、神経系統が過剰反応し、感情が不安定になり、思考も混乱してしまいます。神経系統が過剰反応すると、胃や腸、腹痛、頭痛を引き起こします。俗に言う「自律神経失調症」です。しかし、何か刺激を受けたときに、この方法を実行すると、神経系統の反応を調節し、心に動揺が生じなくなるのです。それゆえに、クンバハカ法のことを「神経反射の調節法」といっているのです。誰かに嫌なことを言われたら、まず、クンバハカ。不安や緊張がやってきたら、まず、クンバハカ。急にクラクションなどの爆音が聞こえたら、まず、クンバハカ。嫌な臭いを嗅いだら、まず、クンバハカ。嫌な場面を見たら、まず、クンバハカ。急激な寒さ・暑さを感じたら、まず、クンバハカ。つまり、何かの刺激を受けたら、即座にクンバハカをするのです。そうすれば、神経系統の過剰反応を調節し、ストレスを受けないのです。要は、刺激がきたら心で受けず胆(はら)で受けるのです。健康上に何かあったり、運命上に何かあるたびに心が乱れていたのでは神経系統の生活機能が正常に働かず、ますます精神的にも肉体的にも支障が生じてしまいます。それを防ぐ方法がクンバハカ法なのです。ちなみ、クンバハカをしながら歩くと息が乱れません。クンバハカとは、「最も神聖なる体勢」という意味です。この体勢をしているとき、オーラが輝くのです。この方法は、普段から練習していないと、咄嗟に出来ません。そのため、気がついたらクンバハカを習慣づける必要があります。さぁ、その実際方法を紹介します。何かの刺激を受けたら、こうするのです。1 肛門を締め上げる。2 肩の力を抜いて、肩を下ろす。3 下腹部に気力をこめる。この3つを同時に行う。この方法は、聞いてしまえば何てことないことですが、自分で悟れと言ったら生涯かけても無理でしょう。3つの動作を同時に行うのは最初は、難しいかもしれません。そういうときは、肛門を締め上げると同時に肩を下ろすことだけでも効果はありますので、その2つをやってみてください。この中で、一番重要なのは、「肛門を締め上げる」ことです。この体勢が難しい人は、肛門を締め上げることだけでも実行してください。本当の効果を体得するには、この3つの動作を同時にできるまで修練することです。最初、一番要領がつかめないのが「下腹部に気力をこめる」ことです。下腹部に気力をこめるとは、臍下5センチくらいに意識を持っていくということです。なぜなら、臍下5センチ(といっても確定的な数字ではなく、あくまでも目安)は、生エネルギーの中心で、和尚(OSHO)が「第一のセンター」と呼んでいるところです。つまり、生命エネルギーの源泉ともいうべきところです。その証拠に、生まれる前、赤ん坊は母親と臍を通じて生きていました。臍は生エネルギーの源泉だからです。それくらい臍は重要なポイントなのです。この体勢は、「緊急自己防衛体勢」とも言われています。天風先生によると、肛門を締め上げることによって、骨盤神経叢の興奮を防止するそうです。肩を下ろすことによって、横隔膜の上昇を防ぎ、心臓神経叢、総頚動脈神経叢の動揺を防止します。下腹部に気力をこめることによって、腹腔神経叢の動揺を防止します。友人と旅行に行った時、小さな山城に遭遇しました。すると、友人が、「小さな山だけど、どっちが早く頂上の天守閣跡に着くか競争しよう!」と言いました。というのも、友人の趣味が「山登り」だったからです。自分のスゴイところ誇示したっかたのでしょう。ところが、最初に頂上に着いたのは私でした。しかも、私は頂上で10分以上も友人を待っていました。友人は息を切らしながら言いました。「おかしいなぁ! 俺が先を越されるなんて…」実は、山登りの際に、深い呼吸をしながらクンバハカの体勢で歩いていたのです。ですから、神経が調節され、息が乱れなかったのでスイスイ登れたのです。本当に、クンバハカはスゴイ技法です。このクンバハカ法の応用法が「養動法」です。臍のセンターを活性化させる効果的な方法でもあります。正座、あぐらなどで座し、背筋を伸ばし、瞑目し、クンバハカの体勢で、臍で「の」の字を書くように右回りに状態を回すのです。注意事項として、決して、左回りに上体を回さないこと!なぜなら、内臓の動きが右回りだからです。反対の左回りに回すと内臓支障を起こす場合があります。「養動法」の肉体的効果は次の通りです。1 姿勢を矯正する2 内臓のコリやつり、張り、伸びを正常にする。3 血液循環が促進する。4 胃や腸が活性化し、便通が良くなる。5 運動不足を解消する。「養動法」の精神的効果は次の通りです。1 胆力がつく。(度胸がつく)2 チャクラを矯正し、直感が湧きやすくなる。3 蓄積しているストレスが解消される。
2020年07月06日
この自己暗示について、こういう話があります。フランスの医師エミール・クーエは、ある町で薬剤師として開業していました。ある日のこと、1人の男が店にやって来ました。「薬をくれ!」クーエが、その薬は色あせていたので、確認すると期限が切れていました。「お客さん、申し訳ございません。この薬、期限が切れていました。すぐに取り寄せますので、1週間待ってください。」「いや、期限切れでも構わん! その薬はすごく効くのだ!売ってくれ!」「薬剤師として、期限切れの薬は売れません。」「そんなこと言わないでくれ! 期限切れを売ったことの責任はあなたにはない。私が期限切れを承知して買ったのだから。さぁ、売っておくれ!」あまりにしつこいので、「責任はもてない」という条件で、その薬を売ったのです。数日後、あの男がやって来ました。苦情を言いに来たのかと思ったら、「ありがとう! あの薬のおかげでスッカリ良くなったよ!」とお礼を言いに来たのです。それを聞いて、クーエは、考えました。「おかしいな!あの薬は期限切れだから、効力なんかないはずなのに…。 これは、薬ではなく、「あの薬を飲めば治る」という自分の暗示で治したのだな!」これを機に、クーエは薬剤師を廃業し、自己暗示による治療を始めました。これが世界的に有名な「クーエ・メソッド」の始まりです。クーエの自己暗示治療は、難病の患者に、ある言葉を唱えさせるものでした。「私は、毎日、あらゆる面で、ますます良くなる」この言葉を、機会あるごとに言うことによって、多くの人が癒されたのです。自己暗示による「自己矯正」の効果は、実証済みなのです。話を戻しますが、観念要素の更改法は、夜の寝際に行います。ということは、安眠が必要条件になります。そこで、安眠の秘訣を天風先生は教えてくれています。安眠は臍のセンターを開発するのに重要です。「毎夜時刻を決めて、規則正しく眠りに就くのは、いつでも熟睡の出来る人の行うことで、とかく眠りに入りにくいという人は、就眠の時刻などを規則的にしないで、真に眠くならなければ就寝しないという反対方法を採る方が効果が多いのである。」( 中村天風 )我々は、学校や親から、「規則正しい生活をしなさい」と教えられてきました。教師や親ばかりでなく、医者も同じことを言うので、それが正しいことだと信じてきました。「規則正しい生活をする」この言葉を聞いて、異を唱える人はいないのではないでしょうか?ところが、天風先生は、その反対のことをいっています。天風先生によれば、「毎日、活力の消耗状況は違うのだから、同じ時刻に寝れるはずがない」のです。言われてみれば、その通りです。動物も、眠くなったら寝るし、眠くないときは起きています。動物は、規則正しく生きてはいませんが、常に健康です。しかし、病気になる確率は、動物より人間の方がはるかに高いのは事実なのです。天風先生は、単に「自然の法則に順応すること」を説いているのです。我々も自然界の中で生きているのですから、自然の法則に逆らった生活をすると当然、不健康になるのです。眠くないということは、「眠る必要がない」ということです。眠る必要があるときは、いくら抵抗しても寝てしまいます。眠る必要がないのに、決められた時刻だからといって寝ようとしても寝れないのは当然なのです。また、睡眠時間も毎日違うのが自然なのです。その日の活力の消耗状況によって、1日4時間で十分なときもあれば、10時間必要なときもあるのです。毎日8時間寝なくてはいけないというのは、自然の法則から外れているのです。「活力が充実しているときは寝なくても良い」と天風先生は言っています。このことを知っているだけで、睡眠に関する悩みは消えてしまいます。なぜなら、眠くなったら寝ればいいし、眠くなければ寝なくても良いのですから。また、天風先生は睡眠に関して、次のように注意を促しています。「体の弱い人や、特に病を持つ人は、夜中の12時過ぎまで起きていることは決して賛成しない。たとえ眠れなくとも、床の中に入り、体を横にして、休養の安息を採ることである。それは、12時過ぎは、太陽光線が地上から消失するからで、そのため起きていると、疲労を一層増大するからである。」太陽光線の残留波は、夜中の12時にはなくなります。太陽エネルギーの恩恵によって人間は生きています。その太陽エネルギーがなくなる時間に活動すればするほど疲労が増大します。ですから、たとえ寝れなくても体は横にするべきなのです。宮本武蔵は、「体の疲れは横になるだけでとれる」といっています。だから、寝れないときは、体は横にしながら、本を読んだりすればいいのです。それだけで体の疲れはとれます。精神的疲れがあるときは、必ず眠くなります。そのときは、寝ればいいのです。あまり眠ることに神経質にならないことが、安眠の秘訣だったのです。「観念要素の更改法」は、心の掃除を促進する方法です。そこで、ついでに、体の掃除を促進する方法を紹介します。多く言うまでもなく、人間の体の60~70%は水で出来ています。しかも、脳や内臓などもほとんどが水によって構成されています。だから、ブッダは人間の体のことを「水子」と呼んでいたのです。ところが、「水子」というと、流産や死産した赤ん坊の霊のことだと思っている人が多いようです。とにかく、人間にとって、水は大切なものです。しかも、「水」には、ものスゴイパワーがあるのです。「水に対する重要な理解は、水の中には、強烈なエネルギーを有する活力があるということである」 ( 中村天風 )ですから、心と体を清めるために、「滝浴び」や「沐浴」が行われているのです。水のパワーによって、汚れを清めるのが目的です。また、水は体を掃除する働きがあります。しかし、水の飲み方が無意識的なため、その効果を半減させている人が多いようです。水の効果的な飲み方は「体の中を掃除してくれて、ありがとう!」という観念と共に飲むことです。つまり、心と体を一つにして飲むことです。ところが、ほとんどの人の水の飲み方は、無意識的な動作のみで、決して観念を入れながら飲んでいません。それから、就寝の直前には、必ず水を飲むように天風先生は言っています。これは、就寝前に水を飲むことによって、体内の毒素が、翌朝には体外に排出するからです。これは、体の掃除には最も有効なことですから、必ず実行しましょう!そして、朝起きたら、やはり水を飲みましょう。これによって、胃が洗浄されるからです。 ただし、ここでいう「水」とは「天然水」や浄化水のことを言っています。「観念要素の更改法」と併行して、夜の寝際と朝の目覚め時に実行すれば、心と体の両方が掃除されます。
2019年05月25日
この方法は、頭のセンターに対するもので、思考の整理をするものです。思考の整理をすることによって、頭のセンターの刺激を緩和し、心がリラックスするのです。人の心は、大別すると、表面(顕在)意識と潜在意識の2つから構成しています。(さらに細かく分類すると、顕在意識、潜在意識、超意識の3つから構成している。)表面意識は、外の情報を潜在意識に取り入れる働きをしています。潜在意識は、内に入っている情報を表面意識に出す働きをしています。何かを見たり、聞いたり、触ったり、味わったり、嗅いだりすると、それが潜在意識の中へ記憶としてインプットされるのです。つまり、別の言葉で説明すると、見たり、聞いたり、触ったり、味わったり、嗅いだりするものは、「暗示」となるということです。潜在意識の中に入っている暗示(記憶=観念要素)が、機会あるごとに表面意識に飛び出してきます。潜在意識の中に、積極的な観念要素がたくさんインプットされている場合は、常に表面意識に積極的な観念が飛び出してくるので、何事にも前向きに解釈して生きられるのです。反対に、消極的な観念要素がたくさんインプットされている場合は、常に表面意識に消極的な観念が飛び出してくるので、何事にも否定的に解釈して生きてしまうのです。例えば、いくら表面意識で「やるぞ!」と思っても、潜在意識の中に消極観念が充満していると、消極的観念が飛び出してきて、「面倒だからやめよう!」という気持ちになってしまうのです。逆に、表面意識で「面倒くさい」と思っても、潜在意識の中に積極観念が充満している場合は、「よし、やろう!」という気持ちになってしまうのです。つまり、潜在意識の中の観念要素を、積極的なもので充満させてしまえば、大した努力なしで、積極的に生きれるようになるのです。「暗示」には、大きく分けて2種類あります。1つは「他面暗示」です。これは、外からくる暗示のことで、他人の言葉や動作、教育、道徳、風習、迷信、テレビ、ラジオ、本、寒暑、匂い、風景などがこれに当たります。第二次世界大戦中、ある国が捕虜を「死刑」するのに、暗示を使っていた話は有名です。その方法は、ベットに目隠しをして寝かせ、手首をナイフの刃のない部分で、スーッと切ったようになぞります。ベットの下に水を入れたバケツを取り出し、一滴ずつ水を垂らし、捕虜にこう言うのです。「お前の手首を切った。血が垂れる音が聞こえるだろ! お前は出血多量でもうじき死ぬだろう。 気持ちよく眠るように死ぬだろう。」すると、実際には手首を切っていないにもかかわらず、捕虜はそのまま死んでしまうのです。これが他面暗示の作用です。もう1つは、「自己暗示」です。これは内からくる暗示のことで、自分の思考、言葉、行動、感情などのことです。例えば、自分のことを「ダメな人間」と思っていると、それが暗示となり、ダメな人間みたいな振る舞いをするのです。また、自分のことを「勇気ある人間」と思っていると、勇気ある振る舞いをするのです。宇宙にあるもの全てが暗示となるのです。つまり、天風先生に言わせると、我々は暗示の中で生きていると言っても過言ではないのです。このことを理解した上で、潜在意識の中を積極観念で充満させる方法、つまり、「観念要素の更改法」の説明に入りたいと思います。この方法の目的は、潜在意識の中に蓄積している消極的要素を消去し、積極的要素で潜在意識の中を充満させることにあります。言い換えれば、潜在意識を掃除することにあるのです。そうすることで、頭のセンターが整理され、心がリラックスしてきます。では、その方法を紹介します。夜の寝際、鏡の中の自分の眉間を凝視し「お前は○○が強くなる」と命令暗示をかけるのです。最初は、「お前は意志が強くなる」がいいと思います。なぜなら、意志が強くなれば、人生が一変してしまうからです。心身統一法も意志が強ければ実行しますからね!天風先生も、「人生真理を現実化するには、真我の所有である自己の生命を支配する最高の権能をもつ意志を煥発することである」と言っています。意志の煥発は、臍のセンターの開花を増長します。「お前は」と2人称で言うのがポイントです。鏡に写る自分は、自分ではないから「お前は」と命令するのです。そして、布団に入ったら、絶対に消極的なことを考えないこと!積極的なこと、つまり、面白かったことや楽しいことを考えながら寝るのです。もし、消極的なことを考えてしまったら、「と、昔は考えていたけど、今は考えない」と心で取り消して、再び積極的なことを考えるのです。それでも、消極的なことを考えてしまう人はこうしてください。これは、OSHOの瞑想法です。1 布団に入ったら、「子宮内の赤ん坊の姿勢」になる。2 母親の子宮の中にいると想定する。3 呼吸に意識を向けて、呼吸を感じる。 つまり、息が出て行くのを感じ、息が入ってくるのを感じる。4 10分くらい行う。5 すると、静寂を感じていることに気づく。そのまま、眠る。OSHO曰く、「何かを眠りに持ち込む必要があるのなら、瞑想を持ち込むがいい。」寝つきの良くない人は、真理の話の講演テープや朗読テープを聞きながら、寝てください。その話に耳を傾けているうちに、いつの間にか眠っていますから。夜の寝際の心の持ち方くらい、1日のうちで重要なものはないのです。なぜなら、夜の寝際と朝の寝起きは、暗示の感受力が最も強く、考えたこと、聞いたことが無条件に潜在意識へインプットされるからです。天風先生曰く、「夜」の世界こそは、わが生命が、宇宙霊の絶大なる「力」と結び合おうとする尊い時であると同時に、心なく生きる人を向下へと堕とす悪魔の跳梁する心許すまじき時なのです。OSHOもこう言っています。「寝る前の最後の思考は、朝の最初の思考となる。寝ている間、夜通し、8時間、それは底流として流れ続けている」夜の寝際に、「明日は朝の5時に起きるぞ」と思いながら寝ると、ちゃんと朝5時に目を覚ます体験をしたことがあるはずです。この作用を活用したのが、「観念要素の更改法」なのです。そして、朝起きたら、「私は○○が強くなった」と断定暗示をするのです。昨夜、「お前は意志が強くなる!」と命令暗示をかけた場合は、朝は「私は意志が強くなった!」と断定暗示をかけるのです。朝は、鏡はいりません。この断定暗示は、昼間も機会あるごとにやると効果が倍増します。つまり、「つぶやきの自己暗示法」です。(ボクシングの元世界チャンピオン、モハメド・アリは、この「つぶやきの自己暗示法」を活用していました。アリは、常に「俺は偉大なチャンピオンだ!」と機会あるごとにささやいていたのです。)たまに、「強くもなっていないのに、”強くなった”などと嘘はつけない」という人がいます。でも、それは違うのです。1日実行すれば1日分強くなったのです。3日実行すれば3日分、1か月実行すれば1か月分強くなっているのです。天風先生によると、それは、ちょうど、濁ったコップの水に、一滴一滴、清純な水を入れると、最後はコップの水が透明になるようなものだそうです。強くなったことが実感できたら、次の暗示に移行しましょう。(続く)
2019年05月12日
インドの覚者・和尚(OSHO)は、「100年に一人のマスター」と呼ばれた導師です。和尚(OSHO)が説く技法によって光明を得た人は数え切れません。和尚(OSHO)は、「霊的な扉を開く鍵」は、「臍のセンターを開発すること」だと言っています。和尚(OSHO)によると、人間には大きく分けて3つのセンター(中枢)があるそうです。1つは、頭のセンター、2つめはハートのセンター、3つめは臍のセンターです。頭のセンターは、脳の辺りにあり、思考や理性のセンターです。ハートのセンターは、胸の中央部にあり、感情のセンターです。臍のセンターは、臍の下5センチくらいにあり、生エネルギーのセンターであり、意志のセンターです。そして、「人間の中心は臍である」と和尚(OSHO)は断言しています。江戸時代の白隠禅師も「臍は宇宙に通じる箇所である」と言っています。(臍については後述します)頭のセンターは、絶え間なく続く思考と過剰な知識(情報)によって、常に張りつめた状態にあります。ですから、瞑想などで頭をリラックスさせ、張っている頭を少し緩ませる必要があります。ハートのセンターは、怒りや憎しみ、嫉妬などの感情の乱発によって、緩んでいます。緩んでいるため、すぐに感情的になるのです。ですから、感情を浄化することで、緩んでいるハートを少し張る必要があります。臍のセンターは、ほとんど機能していない状態です。ですから、臍のセンターを開発する必要があるのです。つまり、頭のセンターとハートのセンターのバランスをとり、臍のセンターを開発することが霊的扉を開ける最初のステップなのです。瞑想で頭のセンターをリラックスさせ、浄化によってハートのセンターを中立に戻し、臍のセンターを開発さることです。臍のセンターを開発するには、次のことが必要だと和尚(OSHO)は言っています。身体的には、深く呼吸すること、正しい食事・正しい労働・正しい睡眠を心がけることです。深い呼吸について、和尚(OSHO)はこう言っています。「まず、頭に置いておかねばならないのは、1日中、できる限り、目一杯呼吸すること。そして、気づくたびに、できる限り深い呼吸をするということだ。朝起きて目が覚めたら、すぐにベットの上で深く息をしなさい。道を歩いているときにも、できるだけ深く息をしなさい。酸素過剰にしなさい。体内の酸素が増えるにつれ、不純物は減っていく。新鮮な空気を取り入れるにしたがって、思考がマインドの中で動き回る余地が狭まる。」和尚(OSHO)に限らず、聖人とよばれる人は、一様に「深呼吸」の重要性を説いています。しかし、空気の中に生きていながら、空気を意識することは滅多にありません。最も身近な「空気」こそ、心と体の浄化剤だったのです。まさに、「灯台下暗し」です。正しい食事とは、こうです。1 健康をもたらす食物を摂取する2 食べる量を適量(少量)にする3 心配や悩みごとを考えながら食べない4 喜びと感謝の念をもって食べる食生活を改善することは、大きな変容をもたらします。なぜなら、「食べる」ことは、誕生から死まで続く習性だからです。誕生から死まで続く習性は、「食べる」ことしかありません。その習性を変えると、心と体に変化をもたらすのです。特に、食事の量を減らすと、活動的になり、積極的になります。あのナポレオン軍が強かった理由の1つは、「空腹」だったからです。兵士は、少量の食物しか与えられず、少し空腹な状態だったのです。それで、いつも迅速な動きができたのです。しかし、ナポレオンが皇帝になると、兵士たちも大量の食事をするようになりました。そんな状態で戦ったナポレオン軍は、連敗を続け滅んだのです。正しい労働とは、適度な運動をすることです。和尚(OSHO)曰く、「労働(運動)のためのエネルギーは、臍から直接引き出される。そこがエネルギーの源だ。多少の肉体労働(運動)は是非とも必要だ。正しい労働(運動)は、究極の宗教性に至る梯子の重要な一段だ。」しかし、過度な運動は逆効果で、有害になります。あくまでも「適量」です。正しい睡眠とは、深い睡眠を十分にとることです。「限られた人生だから、眠っている時間がもったいない」と感じて、睡眠時間を短くする人がいるようですが、臍のセンターの開発という観点からすると、逆効果です。和尚(OSHO)曰く、「8時間の睡眠は無駄にはなっていない。むしろ、16時間起きていられるのは、その8時間のおかげだ。さもなければ、それだけ起きていられない。失った生エネルギーを再び得るのは、睡眠の中にしかない。」睡眠がどれだけ重要かを証拠づけるものに、「拷問」があります。戦時中、敵のスパイを捕まえると、「眠らせない」という拷問をしていた国があります。スパイは鍛え抜かれた強靭な精神力の持ち主です。にもかかわらず、「眠らせない」という拷問には降参して、大事な情報を白状してしまうそうです。以上が、臍のセンターを開発する身体的方法です。心理的な方法としては、勇気を養うことです。勇気を養うと、臍のセンターは成長すると和尚(OSHO)は断言しています。勇気が不可欠な武道家に、悟りを開く人が多いのはそのためです。和尚(OSHO)曰く、「生命の危険があるとき、最初の震えは常に臍で感じられる。それは、臍が生命の中心であるからだ。恐れる状況が生じると、それはまず臍のセンターで感じられる。だから、度胸を養えば臍はよりいっそう健全になり、勇気を養えば臍のセンターはさらに成長していく。度胸や勇気が重要なのは、それが臍のセンターを全面的に活性化させるからだ。」和尚(OSHO)の臍のセンター開発法を、もっと日常的に教えてくれているのが、中村天風先生です。天風先生は、日本が生んだ不世出の「哲人」です。呼吸や食事、運動、睡眠はもちろん、勇気の養い方、心の安定法など、日常生活を営みながら行修する方法、それが「心身統一法」です。日常生活こそ最良の行修の場です。和尚(OSHO)曰く、「自己実現を成就するのに最も適しているところは、日常生活である。山の中に入ったりするよりも、日常生活の方が色々な刺激がある。多くの不正が存在する中で生きる方が、自己実現の成就には最適である。」天風先生が創始した「心身統一法」こそ、頭のセンターの緊張を和らげ、ハートのセンターを中立にし、臍のセンターを開発する方法を日常的にしたものだと私は思っています。この2人に共通しているのは、単に講話に終始しているのではなく、「こうすれば良い」という技法を教えていることです。どんなに素晴らしい話を聞いても、自分の問題を解決することは出来ません。結局、自分の問題を解決するのは自分しか出来ないのです。和尚(OSHO)は言っています。「エゴは遠くのものに魅力を感じる習癖がある。恋人と仲良くしている人を見る。すると、「幸せそうでいいなぁ」と思い、恋人を求め出す。恋人が幸せをもたらすと思ったからだ。お金持ちを見ると、お金を求め出す。お金が幸せをもたらすと思ったからだ。権力を持っている人を見ると、権力を求めだす。権力が幸せをもたらすと思ったからだ。エゴは、他人の方が自分より幸せに感じる。だが、他人はあなたの方が自分より幸せに見える。「隣の芝生は青く見える」のだ。すると、エゴは、他人の芝生を自分の物にしようとする。しかし、それよりも、自分の芝生をもっと青くすれば解決する。」自分の芝生を青くする具体的な方法を2人は教えてくれています。この2人の技法は、人類にとっての宝物だと思います。和尚(OSHO)の技法や言葉を交えながら、中村天風先生の「心身統一法」を紹介していきたいと思います。この本に書かれている「心身統一法」は、あくまでも私の解釈であることをお断りしておきます。
2019年04月30日
世の中には、すぐにキレる人がいます。ちょっとしたことですぐに怒る人って、嫌ですよね!そういう人に遭遇したとき、どうしてます?怒り返したり、近寄らないのもひとつの方法です。しかし、別な方法もあるんです。それは、相手が「なぜ、すぐに怒るのか?」を理解することです。そうすると、相手の心がわかるので、感情的になったり、相手を怒らせないように気を遣う必要もなくなります。わはははははは…っ!そこで、まず「怒り」について理解すべきなんです。大抵、「怒り」は良くないもの、悪しきものと思っているんです。しかし、それは誤解です!「怒り」は必要だから、すべての動物に与えられているんです。「笑い」は、人間だけに与えられた特別なものですが、「怒り」は、全ての動物に与えられた必要不可欠なものなんです!わはははははははは…っ!「怒る」ときって、どういうときですか?大別すると2つあります。1つは、「欲求が中断されたとき、あるいは中断されそうなとき」に怒ります。動物もそうです。餌を食べていると、他の動物が横取りしようとすると「怒り」ます。「食事を食べる」という欲求が、中断されそうになったからです。人間も同じで、テレビゲームで楽しんでいるのに、お母さんに、「早く宿題やりなさい!」と強制的に勉強させられると、子供はふてくさてます。どうしても、ゲームがしたいときは、キレます!「ゲームで遊びたい」という欲求が中断させられたからです。つまり、「怒り」は、自分が生きていく過程で、「快適」に生きるために与えられた感情なんです!「怒る」ことによって、自分の欲求を妨害する相手を排除しているんです。もし、「怒り」がなかったら、快適な世の中になるって思っていませんか?とんでもない!それは逆なんです!「怒り」があるから、自分の欲求を満たせるんです。「怒り」がなかったら、相手に自分の欲求を中断され続けます。そして、今以上に、ストレスの多い世の中になるんです!がははははははははは…っ!もう1つは、「自分の生命が犯されそうになったとき」に怒ります。ネズミですら、絶体絶命のピンチになったら、猫を襲うんです。「やられる前に、やる」というわけです。人間も同じで、どんなに普段、穏かな人でも、自分が危険にさらされたときは、攻撃します。さぁ、そこで、すぐにキレる人の話です。すぐに「怒る人」というのは、実は「臆病」なんです。自分の欲求が妨害されるのが怖いんです。あるいは、臆病だから、自分がやられるのを恐れて(自分がなめられるのを恐れて)、常に攻撃するんです。わははははははは…っ!すぐにキレる人の原因の大抵は、「幼児体験」にあります。自分の思い通りにいかないとすぐに怒る親に育てられると、子供は親を見て学びます。「そうか! 自分の欲求を満たしたかったら、怒ればいいのか!」こうして、その子供は、「怒り」を武器に、自分の欲求を満たそうとするんです。同時に、自分の欲求が妨害されることを極端に恐れる人になるんです。「恐れ」が強いので、そうならないように、常に「怒り」を武器に攻撃するんです。また、すぐに怒る親に育てられると、子供は、自分の生命に危機を感じて、反撃します。親の倍以上の「怒り」を返すことによって、親に「怒る」のをやめさせようとしているんです。そして、子供は学びます。「そうか! 相手の倍以上の怒りを返せば、相手は静かになるのか!」こうして、その子供は、「怒り」を武器に、相手を黙らせようとするんです。同時に、誰かに怒られることを極端に恐れる人になるんです!「恐れ」が強いので、そうならないように、常に「怒り」を武器に攻撃するんです。わははははははは…っ!すぐにキレる人は、実は「臆病」なんです。だから、常に神経をピリピリしているんです。自分の欲求が中断されたら怒り、自分がなめられそうになったら怒り、自分の言うことを聞かないと怒ります。その心理は、「恐れ」が原因だったんです。どうです!身近にいるすぐに怒る人をよ~く観察してみてください!確かに、臆病者だと感じる言動ばかりですから。それがわかると、すぐに怒る人が哀れであると同時に滑稽に感じてきますから!そうなったら、その人の影響を受けずに、客観的に見ることができます。次の対処法は、「爆破による浄化法」を実践してください。(過去記事を参照)そうすれば、あなたの周囲にいるすぐに怒る人の問題は解決しています。
2019年04月28日
今日は、「夢」についての話です。夢を見る理由は、たくさんありますが、精神世界の観点から話をしたと思います。がははははははは…っ!一般に、夢というのは、「眠りが浅い」ときに見ると言われています。そのため、朝、夢を見て目覚めると、「眠りが浅かった」と思い込み、疲れが残っているように感じてしまう人が多いんです。しかし、これは自分の暗示による作用なんです。事実は、全く逆で、夢を見るから疲れがとれるんです。びっくりぃぃぃ~~~っ!そのことを、心理学者たちは、実験によって証明しました。どうやって実験したのかというと、夢を見ているとき、「眼球が動く」んです。その性質を利用して、実験をしたのです。ある人には、寝てから眼球が動くたびに起こすのです。つまり、夢を見始めたら起こすのです。もう1人には、眼球が動かないときに起こすのです。つまり、夢を見終わったら起こすのです。すると、どうでしょう!夢見を妨害された人は、全く眠った気がせず、1日中、倦怠感にみまわれました。実際には、かなりの睡眠時間をとっていたのに…。一方、夢ではなく眠りを妨害された人は、元気で、いつもと全く同じでした。つまり、人は夢を見ることによって元気になるんです。インドの聖者・和尚(OSHO)曰く、「あなたのからだ、つまり、身体的な健康は夢に依存しているのであって、 伝統的に考えているように眠りにではない」また、びっくりぃぃぃ~~~っ!わははははははは…っ!和尚(OSHO)によると、ビルマの原住民は夢を見ないそうです。その理由は、2つあるそうです。1つは、1日中、重労働をしているため、眠りが深いからです。もう1つは、「抑圧」がないからです。私が考えるには、抑圧がないから深く眠れるのだと思います。我々も、重労働をして、深く眠ります。が、8時間の睡眠の全てを深く眠っているわけではありません。定期的に浅い眠りがやってきて、夢を見ているんです。和尚(OSHO)曰く、「抑圧された人間ほど、よく夢を見る。 なぜなら、抑圧されたものは何であろうと、マインドは夢を見ることで 排除しなくてはならないからだ。 これは、1種の浄化作用で、つまり、マインドがみずからの束縛を解いているのだ。」なぜ、夢を見るのかというと、基本的に「心の掃除」をするためなんです。がははははははは…っ!我々は、夢でうなされたり、悪夢を見ると、不吉な予感がして嫌な気分がしますよね!が、本当はそういう夢こそ、ありがたい現象なんです。悪夢というのは、心に蓄積したマイナスのエネルギーを、一気に解放するために、生命が起こした現象であり、「祝福」なんです。つまり、夢の内容が重要なのではなく、夢を見ているときに味わっている感情が重要なんです。その感情こそ、過去に抑圧してきたマイナスのエネルギーなんです。例えば、恐い夢を見たら、「恐怖」を抑圧していたのです。夢で誰かを攻撃したのなら、「怒り」を抑圧していたのです。つまり、夢というのは、個人的なものなんです。その人のためだけのものなんです。がははははははは…っ!「悪夢」というのは、催眠療法のようなものなんです。催眠療法は、催眠を使って、過去のトラウマとなっている出来事を思い出し、抑圧していた感情を湧き上がらせ、再体験させるんです。抑圧した感情は、再体験することによって、そのエネルギーが流れ出し、消えていくのです。「悪夢」も同じで、潜在意識にインプットされている情報を組み合わせて適当なストーリーを作り、抑圧してきた感情を湧き上がらせ、再体験させているのです。つまり、「悪夢」は、生命が起こしてくれた催眠療法なんです!えっ! またまた、びっくりぃぃぃぃぃぃ~~~~っ!今までは、悪夢を見たら、嫌な気分になっていませんでしたか!今日の話を聞いた皆さんは、悪夢を見たら、「ありがたい! 心が掃除された!」と思うはずです。このことを知っているだけで、皆さんの生活に「安心」が増えるんです。知らない人は、相変わらず、悪夢を見たら、嫌な気分になるのですから!がははははははは…っ!抑圧とは、したいことを我慢して、その「思い」を抑えつけることです。つまり、その「思い」はなくなったのではなく、抑えつけただけで、未だに残っているんです。抑圧とは、「実現しなかった願望」のことなんです。和尚(OSHO)曰く、「夢を見るのは、それは何か、自然なことを抑圧したときに起こる。 例えば、男が色情を抱いて女を見たとする。 しかし、実際にはそれを表現できない。 そのため、その願望を実現する変わりに夢がやってくる」我々は、多くの「してはいけない」という規制の中で生きています。だから、未遂の願望で、心の中は一杯なんです。それを解き放つために、夢を見るんです。唯一、誰にも邪魔されないで自由に振舞えるのが、「夢」の世界なんです。わははははははは…っ!夢を見ないと人は狂ってしまうと言っても過言ではないんです。抑圧がある限り、夢を見続けるのです。悟りを開いた聖人らが夢を見ないと言われているのは、抑圧がないからです。毎日、夢を見続けているのなら、心が浄化しているはずなのに、どうして、夢を見続けるのでしょう?その理由を、和尚(OSHO)は次のように言っています。「新たな夢を見るために、毎日新たな材料を作り出しているからだ」がははははははは…っ!夢だけでは、浄化は間に合わないのです。普段から、浄化をする必要があります。和尚(OSHO)の講話に、こういう話があります。昔、ある皇帝がいました。この皇帝の統治下のもとで、国は豊かで治安も良かったのです。しかも、この皇帝は人格者で、慈悲深く、人民から慕われていました。この皇帝の言動は、まるで聖者のようでした。しかし、この皇帝には、不思議な日課があったのです。それは、公務を終えた後、奥にある密室に入り、約1時間、必ず過ごすのです。どんなに多忙でも、この日課を欠かしたことは1日もありませんでした。一体、密室で1時間も何をしているのでしょう?妻や側近たちでさえ知りません。好奇心は頂点に達しました。妻や側近たちは、皇帝が何をしているのか知りたくなり、協力して、内緒で密室を覗くことにしました。妻が皇帝のいない隙に密室に入りました。が、そこには何もありませんでした。ただの部屋です。机も椅子もなく、ただの空間です。ここで一体、何をしているのか?妻は、壁に覗き穴を掘りました。さて、皇帝が公務を終えて、いつものように密室に入っていきました。妻や側近らが集まり、順番に覗くことにしました。まず、妻が覗きました。すると、そこで見たものは…。なんと、皇帝は真っ裸になって、大声で叫びながら暴れていました。その姿は、聖人ではなく、狂人でした。完全に狂っています。妻をはじめ、側近たちは目を疑いました。聖人だと思っていた皇帝が狂人になっていたのですから…。あまりにもショックだったので妻らは、翌日、密室を覗いたことを皇帝に白状し、何をしていやのか尋ねました。それを聞いた皇帝は、怒ることもなく、いつものように慈悲深い顔で言いました。「どんな人間も、内側に感情を溜め込んでいる。この感情を放出しないでいると、放出せざるをえない出来事を引き寄せてしまうのだ。私は、自分の中に溜め込んでいる感情を毎日吐き出しているから、普段、みんなに優しくなれるのだ。私は皇帝だ。それに相応しい行いをするために、たくさんの仮面を心にかぶり、どれだけ、自分を抑えつけていることか…。だから、裸になって、ありのままの自分に戻り、自分の中の狂気を吐き出しているのだ。私が正気でいられるのも、この1時間のお陰なのだ!」わははははははは…っ!皇帝のような浄化をするには、コンサートやスポーツ観戦で、大声で騒ぐのいいでしょう。コンサートで狂ったように動いている人がいますが、浄化には最適です。サッカーの応援で、狂ったように叫んでいる人がいますが、浄化には最適です。温泉に行って、露天風呂に入り、真っ裸で外にいるのも浄化には最適です。また、瞑想や呼吸法、体操、ランニング、水泳、ダンス、武道、スポーツなどを行うのもいいでしょう。がはははははは…っ!良い夢も、悪夢も、どちらも生命からの「祝福」です。これを知っただけでも、これからの生活は変わりますよ!さぁ、浄化のため、笑いましょう!「笑い」が簡単な浄化です!
2019年03月28日
ある者が、ブッダに尋ねた。「この世を支配しているのは、神なのでしょうか。」すると、ブッダは言った。「いや、違います。 この世の支配者は心です。 人は皆、心によって支配されているのです。 人は思い通りにしようという心と、自分の思いを遂げる邪魔を するものを排除しようとする心に支配されているのです。」ブッダのいう「心」とは、自我(エゴ)のことです。自我とは、「自分勝手な思い」、「私は…、私が…、私の…」という働きをいいます。この世の苦しみの原因は、「思い通りにならない」という「思い」が原因です。思い通りになっているとき、人は機嫌がいいのですが、思い通りにいかないときは機嫌が悪くなります。例えば、レジで列に並んでいたとします。前の人が、お金を財布から出すのに時間がかかっているとイライラしませんか?それは、「私は早く買いたいのだから、私の都合に合わせて、お前も早く動け!」という「思い」が原因なのです。それが思い通りになっていないからイライラするのです。「ほとんどの怒りは、自分の希望通りにいかないときに湧いてくるのです。」(上江洲義秀)車に乗っていて、前の車がトロトロ走っているとイライラするのも同じです。「自分に合わせて、お前も行動しろ!」といっているのです。つまり、自分のことしか考えていないのです。それなのに、自分は正しい主張をしていて、相手に非があると思い込んでいるのです。「私の都合に合わせろ!」、つまり、「私の…」という「私」を真っ先に優先して考えるのが自我(エゴ)なのです。上の2つの例は、まさに典型的な自我のパターンです。がはははははは…っ!「思い」を遂げようとする思いが苦しみの原因です。かといって、「思い」なんか持たないというのも苦しみの原因になるのです。ブッダは、「何が何でも思いを遂げてやる!」というのは、極端なことだいっています。また、「どうせ思い通りにならないから何もやらない」というのも極端なことだといっています。その真ん中、つまり、中道(ニュートラル)に生きることをブッダはススメています。ブッダ曰く、「極端をやめて、中道を歩むことである。この世界は、思い通りにならないことに満ちている。生まれること、病むこと、老いること、死ぬこと、愛する者と別れること、嫌な者と会うこと、希望が叶わないことなど、苦しみに満ちている。だから、この世は「苦しみ」であることを自覚して人生を生きるほうが、正しく対処できるのである。」がははははは…っ!要は、「思い通りにならなくてもいいし、もちろん、思い通りになっていい。大切なことは、目の前のことを誠心誠意やること」なのです。インドの偉大な聖者・クリシュナも同じことを言っています。「アルジェナ(弟子)よ! 未来は宇宙に委ねよ! 行動の結果は宇宙に委ねよ! ただ目の前のことを行え!」自分の出来ることを精一杯やって、その結果は宇宙に委ねるのです。ちなみに、「クリシュナ」という聖人の名前を引用したものが、「クリスト」、つまり、「キリスト」です。キリストの誕生日を「クリスマス」、キリスト教徒のことを「クリスチャン」といいますよね!その由来は、インドの聖人・クリシュナなんです。クリシュナは、それくらい尊敬されている聖人なのです。わははははは…っ!宇宙は完全です。それに異を唱える人はいないと思います。つまり、(津留晃一さんの言葉で説明すると、)「自分が目の前のことを精一杯努力したにもかかわらず、自分の思う通りの結果が出なかった時、実は、その方が(その結果が)ベストだった」のです。完全である宇宙がやった結果ですから。だから、時が経てば、必ず、「あの結果のおかげで、今の自分があるんだ!」と実感するときがくるのです。「宇宙で起こることはすべて完璧に起こるべくして起こっている」「あなたは人生の日と時を通じて選択を続け、ほんとうの自分を知るのにぴったりした、過不足のない完璧なチャンスが得られるよう、人や出来事や環境を創造しつづけている。」~『神との対話2』(N・ウォルシュ著)より~わはははは…っ!我々のすることは、目の前の人に誠心誠意接し、目の前のことを誠心誠意こなすことだけなのです。そうすれば、最高の道へ導かれていくのです。実際、それしか出来ないんです。ですから、最悪と思える出来事が起きても心配しないでください。「今」、「ここ」に意識を向けることが「向上への一番の近道」なんです。OSHO曰く、「聖人の働きとは、あなたを繰り返し、「今」と「ここ」に連れ戻すことだ。自我は、「今」からすり抜けようとする。自我は2つのやり方で、「今」と「ここ」から逃げ出すことができる。「過去」のほうに向かい、記憶の中に入るか、あるいは、「未来」のほうに向かい、何かの理想郷に入ってゆくか。」今出来ることを誠心誠意やれば、最高なものが与えられるのです。シンプルですね!「自分の人生、生活をできるだけシンプルにしてください。」 (バシャール)
2018年12月17日
今、世界中で病気が増えています。いったい、病気は全部でどれくらいあるのでしょう? 全ての病名の一覧をつくったら、その膨大さに驚く はずです。こんなに多くの病気の中に囲まれているにもかか わらず、死なずにこうして生きているんですから、 奇跡ですよ!まして、健康で生きている人は「超人」ですよ!がははははは…っ! 「私は病弱で…」という人が時々いるんですけど、 病気にかかりやすいにもかかわらず、死なずに生きているんですから、「病弱」ではなく、「病強」なんです。 「病弱」というのは、病気になった時に、心まで弱くなる人を言うんです。 中村天風先生は、「たとえ身に病があっても、心まで病すな!」と言っています。 病気になったときに、心を病まさないためには、 普段から次のことを心がけてください。それは、「笑う」んです! 普段から笑っていない人が、病気になって笑うことなんて出来ませんよ!インドのマスター和尚(OSHO)曰く、 「病気の時に笑うことが出来るなら、あなたは早く健康を回復するだろう。 笑えない人は、遅かれ早かれ健康を損ない病気になるだろう。」わははははは…っ! 我々は、「死ぬまで生きている」んです。だから、生きている間は、できる限り笑って生きたいものです! 和尚(OSHO)曰く、 「死があなたを連れ去る前に大笑いしてごらん!」がははははは…っ!ところで、医学が発達したにもかかわらわず、なぜ、こんなに病気が増えているんでしょう?その理由を和尚(OSHO)は、こう言っています。 「世界で病気の数が増えている裏の理由は何かというと、 病気自体の増加ではなく、人間が口実を使う回数が増えているからだ。」どうです! 心当たりありません? 学校や仕事を休む時はもちろん、約束をキャンセルするのに、 「体調不良」や「風邪」など、病気を理由に使ったことあるでしょ? 私はあります(笑)わははははは…っ! 病気を口実にすれば、大抵の場合、相手は承諾します。だから、病気を理由にして、自分の予定を調整する人が多いんです! 逆に、病気を口実に使ったことのない人が何人いるんでしょう? 哲学者プラトンが言ったように、この世は観念(エネルギー)が投影した現象世界です。 世界の多くの人が、「体調不良」や「風邪」などの病気を口に出してみてください!そのエネルギー(観念)は強力です。やがて、そのエネルギーは、この世界に投影されます。イエス・キリストは言いました。 「隠されたもの(嘘や口実)は、必ず現れる(現象化する)」わははははは…っ! 自分の為にも、世の中の為にも、まず、「自分」だけは病気を口実にしないことです! 病気を口実にしない人が増えれば、それだけで世界から病気の数が減るんです!しかし、病気が増えている理由は、それだけではないんです!もう1つあるんです。それは何かというと、「病気を愛している人が多い」ことなんです。 和尚(OSHO)曰く、 「病気であることで、家の中の支配権を握ってしまえる、ということ を、あなたは知っているのだ。病人は独裁者、暴君になる。家中の者が言うことをきく。」がははははは…っ! 実際、病気になると周囲の人は優しくなるし、自分の言うことを きいてくれるんです!もし、病気が治ってしまったら、それが終わることを病人は知っているんです。だから、「もっとこのままの状態が続いてほしい!」と思っちゃう人が結構いるんです!そして、症状が悪化すると、再び「早く治りたい!」と思うんです!わははははは…っ!こういう人は、他人から「愛」をもらおうとしているんです。しかし、どんなに他人から「愛」をもらっても、自分の「愛」は増えないんです! 他人が愛を与えても、その人の愛が減らないのと同様に、あなたが、どんなに他人から愛をもらっても、あなたの愛は増えないんです! 和尚(OSHO)曰く、 「与えても減らないものは、もらっても増えない。これらの現象は一体のものだ。」 和尚(OSHO)によると、愛は与えても増えもしなければ減りもし ないが、与えればハートのセンター(胸の中央部)が開発され、 愛が成長するそうです。 人間の本質は「愛」ですが、与えないと開花しないんです。だから、病気の時に「愛」をもらったのなら、1日も早く治して、 相手に「愛」をお返しするべきなんです! 病気を愛する人が多いんですから、当然、その観念(エネルギー)は、この世界に投影するんです! 病気を愛さない人になるには、病気の時の態度に気をつけることです。 哲学者カントは、どんなに病気で辛くても、人前では辛そうな顔や弱音を吐かなかったそうです。 一人でいるときに、苦しんでいたそうです。その理由は、病気で辛そうにすると、周りに迷惑をかけるからです!ところが、多くの人は、人前では、辛そうな顔をして病人ぶりを アピールし、一人になると辛そうな顔をしないんです!わははははは…っ!さぁ、今日からは、病気を口実にしたり、病気を利用して愛を もらおうとするのはやめて、強く生きていきましょう!
2018年10月13日
自我(エゴ)は、つねに比較します。「比較」こそが、自我の食料なんです。「あの人は私よりすごい」、「あの人よりは私の方が優れている」自我は、「私は優れている」と感じたがっているんです。なぜなら、自我は劣等感が強いからです。だから、わざわざ、「私は凄いんだぞ!」という確信が欲しいんです。そのために、自我は色々な努力をします。ある人は高価なカバンを買い、それを見せるために街に出かけます。そして、「ねぇ、あのカバン、○○(ブランド名)じゃない?」と注目されて優越感に浸っているのです。高価なカバンを持っていない人は、惨めな気分になります。それが快感なんです。「私は凄いでしょ!」と実感できるわけです。がははははは…っ!ある人は、「私には悩み・苦しみなんかない」という態度で、幸せそうに振る舞い、周りから「すごい人」と思われるために努力します。ある人は、出世して、部下に挨拶され、一目置かれたがります。どれも、劣等感から来る行動です。イエス・キリストは、十字架に磔にされたとき、偽善者らにこう言われました。「お前が本当に神の子なら、十字架から降りてみろ!神の子なら出来るだろ!神の子である証拠を見せろ!」しかし、イエスは何もしませんでした。なぜ、イエスは何もしなかったのでしょう?イエスには劣等感なんてありませんでした。だから、わざわざ、自分が「スゴイ人」であるという証明をする必要がなかったのです。そんなアピールをする必要はなかったのです。自分を偉く見せる人は、劣等感が強い人です。なぜなら、わざわぜ偉く見せなくてはならないのですから!わはははははは…っ!イエスに、こういう言葉があります。「頭を高くする者は低い者であり、頭を低くする者は高い者である」なぜ、わざわざ頭を高く(自分を凄く見せようと)するのですか?それは、自分の内側では、自分が凄い人ではないのを知っているからです。だから、わざわざ、「私は凄い人なんだぞ」という証明をしようとするんです。がはははははは…っ!人は独自な存在です!だから、自分の方が優れている面もあれば劣っている面もあるのです。劣等感をなくす方法は、「平凡な人」になることです。ある者が、イエスに尋ねました。「イエスさま、私はどう生きたらいいのか悩んでいます。人はどう生きるべきなのでしょうか?生き方をお示しください。」すると、イエスはこう答えました。「あなたは、質問する人を間違えています。私に聞いてもダメです。私ではなく、花や鳥たちに聞きなさい。」花は花、鳥は鳥です。バラがのユリの花になろうとすることはありません。雀が鷹になろうとすることはありません。誰か他のようになろうとするのは人間だけです。私は私です。非凡になる必要はないのです。平凡な人であることの美しさを学ばないかぎり、人は劣等感に苦しめられるでしょう!何でもないことの喜びを学ぶことです。工事をしている人たちは、何事もなく1日が終わると大変喜ぶんです。 「今日も、何もなくて良かった!」何でもないことが、どんなにありがたいことで、どんなに美しいことか…。平凡な人になりましょう!平凡な人であることの美しさを学びましょう! 「汝を愛するように、隣人を愛しなさい」(イエス・キリスト)この言葉は、イエス・キリストの代表的な文句です。この言葉を聞いて、真面目な人は、早速、隣人(他者)を愛そうと努力するんですけど、上手くいかないはずです。なぜなら、この言葉を実践するには、まず、「自分を愛する」ことが第一条件だからなんです。汝(自分)を愛していないのに、隣人(他者)を愛することは出来ないんです。イエスも、「汝を愛するように」と、ちゃんと言っています。わははははは…っ!しかし、汝を愛している人って、案外、少ないんです。もし、自分を愛しているのなら、どんなことがあっても自分を責めることはないはずです。たとえ、マイナス思考やマイナス感情が湧いてきても、あるいは、たとえミスを犯しても、「これでいいのだ!」と、自分を責めないはずです。『天才バカボン』のパパのように(笑)がはははははは…っ!そういう人は、他者のマイナス思考や感情に触れても、相手をとがめないんです。また、他者のミスを許せるんです。自分を愛している人、つまり、自分を許し、自分に寛容な人は、他者にも同じように、許し・寛容なんです。なぜなら、自分を愛するようになれば、やがて、愛は拡大して他者に注がれるからです。そのことはみんな体験しているはずです。自分が機嫌が良いとき(自分を愛せたから機嫌が良くなったのです)他者にも寛容な態度をするでしょ!つまり、自分を愛していれば他者にも愛は注がれていくのです。だから、まず、「汝を愛する」ことが大事なのです。「汝を愛する」ためには、次のことが必要です。それは、自分に「完璧さ」を求めないことです!よ~く、考えてください。自分を責めている時って、自分が「完璧」ではなかった時ではありませんか?少しでも、マイナス思考が湧いてきたら自分を責めていませんか?不機嫌になってしまった自分を責めていませんか?悪口や愚痴を言った自分を責めていませんか?それはみんな、自分に「完璧さ」を求めているからです。我々は、人間なんです!だから、完璧なはずがないんです!完璧ではないんですから、完璧ではない要素を探せば、いくらでも発見出来るんです。自分に「完璧さ」を求めているかぎり、「自分を愛する」ことなんて出来ないんです!だいたい、今までに完璧な人に出会ったことがありますか?完璧な人とは、絶対にマイナス思考もなければ、病気もなく、好き嫌いもなく、やることが全て上手くいく人ですよ!がははははは…っ!人はみな不完全です。その不完全さを受け容れることです。「不完全さ」は、人によって異なるのです。ある人は「怒りっぽい」という不完全であり、ある人は「傲慢」という不完全であり、ある人は「自分勝手」という不完全なのです。自分と同じことが「不完全」ではないので、つい、「あいつはとんでもない奴だ」と裁いてしまいがちなんです。自分と同じではないという理由で、相手を裁くのはナンセンスですよ!なぜなら、宇宙には同じものが存在していないからです。宇宙は、独創的です。あなたのような人は過去にもいなかったし、これからもいないでしょう。もちろん、現在にも存在しません!だから、誰かと比較して、相手を裁くのはナンセンスなのです。がはははははは…っ!自分と他者を比較すると、自分を愛せなくなります。なぜなら、自分よりも劣っていると感じる人と比較した時は自分を愛せるんですが、自分よりも凄いと感じる人と比較した時は、劣等感を感じ、自分を責めるからです。本当は、自分が誰かより優れているわけでもなければ劣っているわけでもないんです。単に、「独自な存在」なだけなんです。自分よりも劣っていると感じる人も、別な面ではあなたよりも優れているのです。「我々は人間なんだから、優れている面もあれば未熟な面もある」という価値観を自分の基準にしてみてください。そうしてはじめて、「相手も私と同じ人間だから完璧ではないのは当然だよね」という愛の心で接するようになるのです。これが、イエスの言う「汝を愛するように隣人を愛しなさい」という意味だと思います。
2018年07月21日
「この宇宙は、常に調和であり、バランスそのもではないでしょうか。 皆さんの家庭を流れる電気も、プラス電気が多くてもマイナス電気が多くてもアンバランスでは ないでしょうか。 プラス電気のみでは光は輝きません。プラスとマイナスが調和されることにおいて、 そこに美しき光が灯されていくことを知ってもらいたい」( 上江洲 義秀 )これは、思考や感情にもいえる言葉です。プラス思考だけではアンバランスなのです。マイナス思考だけでもアンバランスなのです。プラスのときもあれば、マイナスのときもある。それでいいのです。マイナス思考に偏りがちな人は、「プラス思考」を意識的にやるといいでしょう。そうすることによって、プラスとマイナスのバランスがとれます。しかし、プラス思考のみで生きようとするのは、到底無理なことであり、アンバランスです。24時間、プラス思考で生きようとしている人は、「マイナス思考」な自分を認めることが大事です。また、マイナス思考に偏りやすい人は、「プラス思考」を心がけて生きることが大事です。プラス思考に偏っている人は、マイナス思考を心掛けてください(笑)そうすることによって、バランスがとれます。プラス思考が良いわけでもなく、また、マイナス思考が悪いわけでもないのです。要は、バランスの問題なのです。ブッダ(釈迦)は、そのことをこう言っています。「両極端になってはいけない。常に、中道を心がけるべきである。 人は、良いものと悪いものがあると勘違いして、この2つにこだわっている。 が、良いもの悪いものもなく、それは人の心がつくりあげたものである」
2018年06月02日
1.涙は心の掃除これまでの話で、笑いが健康にいいことは、もう分かりましたね!今度は、「涙」についてです。「笑い」の反対にあるのが、「涙」です。「笑いは健康に良い」と言われても、抵抗なく受け入れられます。なぜなら、笑っていると心地良くなるからです。でも、「涙は健康に良い」と言われても、すぐには受け入れられません。なぜなら、小さい頃から親や教師に、「泣いてはいけません」と言われ続けてきたからです。赤ちゃんでさえ、泣くと止めさせられます。「泣くこと(涙)は良くない」と思っているからです。ところが、涙には浄化作用があって、泣くことによって心が清められるのです。その証拠に、泣いたあとはスッキリします。これは、心が清められたからです。昔から日本は、「清め」に水を使用してきました。神社でも、水で手を清めてから参拝します。滝浴びも、水で心身のけがれを清めているのです。涙も同じで、水(涙)を流すことで心の汚れを掃除しているのです。(ちなみに、汗や小便、鼻水も清めです。)涙を流すことをオススメします。どんな涙でもいいのです。感動する映画を見て泣こうと、悲しくて泣こうと構いません。ただし、目にごみが入って流す涙や、あくびをしたときに出る涙には心の浄化作用はありませんから!2.涙はストレスを解消するなぜ、人間に涙が与えられているのでしょう。それは、笑いが与えられている理由と同じです。創造活動するにあたって、様々なストレスがやってきます。それは避けられません。そこで、笑いや涙によって、ストレスを解消してもらうのです。「笑い」と「涙」は宇宙からのプレゼントです。涙には、コルチゾール(俗に言うストレス物質)を体外に排出する働きがあるのです。ですから、泣いたあとは、心がスッキリするのです。涙を流したいのに我慢すると、いずれうつ状態になります。我慢せず、「お清め」だと思って、泣きたいときは思いっきり泣きましょう。コルチゾールが排出されて、心が軽くなりますよ。「気が重い」とは、別な言い方をすると、「体内にコルチゾールが蓄積している」ということです。心が軽くなるとは、別な言い方をすると、「体内のコルチゾールが減って軽くなった」ということです。3.涙は心の鎮痛剤である 我々は、肉体に痛みが生じたとき、鎮痛剤などを飲んで、その症状の苦痛を和らげますよね。心の痛みが生じたときはどうですか?心の痛みとは、強烈なストレスのことですよ!強烈なストレスとは、「絶望」したときのことです。絶望したときに、皆さんは泣いていますか?「泣くことは敗者の象徴」という思い込みがある人は、涙を抑え込みます。特に、男性がその傾向にありますね!それは、「男のくせにメソメソするな!」と言われてきたからです。男って、かわいそう~~っ!シクシク~~ッ!涙は、心の鎮痛剤なんです。涙の成分には、ロイシン・エンケファリンがあり、この成分は心身の苦痛を鎮静化する働きがあるのです。また、ストレスや悲しみを浄化する働きがあるのです。だから、よく泣く人ほど健康であり、幸せに生きれるんですねぇ~~!さあ~っ! 思いっきり泣きましょうぉ~~っ!シクシク~~ッ!すっきりぃ~~っ! そして、にっこりぃ~~っ!がはははは……っ!4.涙は、体の緊張を解放する 「笑い」と「涙」は、コインの表と裏の関係のようなものなんです~!この2つは、同じエネルギーの表と裏なんですねぇ~!だから、大笑いすると涙が出くるでしょ!また、大泣きすると心がスッキリして、ニコッ! としますよね!笑うとき、その腹筋運動によって消化器官が活発することは、もう話しましたね!泣くと、肩が上下運動します。すると、筋肉がほぐれるんです。そして、エネルギーの通りが良くなるので、元気が湧いてくるんです。泣くことは、「心の大掃除」です。みさなんの心が掃除されれば、自分はもちろん、周りの人も幸せになります。なぜなら、自分が満たされているとき、人は誰に対しても親切に接することができるだからです。感動する映画でも見て、思いっきり泣きしょう!この度、ありがとう仙人の本、『人はどう生きればいいのか?』が出版されました。アマゾンでご購入できます↓https://www.amazon.co.jp/dp/4815002983?tag=mugenbooks-22
2018年03月11日
ピラド(ローマからの使者)は、イエス・キロストに尋ねた。「お前は神の子か?」イエスは答えた。「その通り!」再びピラドはイエスに尋ねた。「真理とは何だ?」すると、イエスは黙り込んでしまった。 この場面は、イエスが本物の聖人であったことを証明しています。今までピラドの質問に答えていたイエスが、「真理とは何か?」と尋ねられた途端に、沈黙してしまいました。もし、イエスが答えていたら、イエスは真理を体得していなかったことになります。なぜなら、真理は言葉では表現できないからです。しかし、イエスは答えませんでした。言葉では表現できないから答えなかったのです。その証拠に、答えられる質問には答えています。よく、これこそが絶対真理だ、という人がいます。が、「これが真理だ」というのは間違いです。どんな説明も真理全体を指してはいないのです。あくまでも、真理の一面的説明にすぎない。例えば、コップを言葉で説明してみましょう。「円い形をしている」「長方形である」「ガラスである」この3つの全く違う説明は、実はどちらも正しいのです。真上からの角度で説明すると円形であり、真横からの角度で説明すると長方形であり、本質という角度から説明するとガラスなのです。つまり、説明をするときは、どこかの角度から説明しないと出来ないのです。真理の説明も、必ずどこかの角度から説明しているのであって、全体を指すものではないのです。あくまでも一面的な説明なのです。未だに結論がつかい論争の1つに、「運命は変えられる」、「運命は決まっている」という正反対の主張があります。実は、「運命は変えられる」、「運命は決まっている」という正反対の説明は、どちらも正しいのです。角度の違いなのです。どの角度で説明するかによって、まるで違う説明になるのです。イエスは、そのことを知っていたので、「真理とは何か?」と尋ねられても答えなかったのです。「お前は神の子か?」という質問には答えました。なぜなら、すべての生きとし生けるものは神の子だからです。イエスだけが神の子という意味で答えたのではないのです。中村天風先生の話を聞けば気づくと思いますが、天風先生は「これが真理である」とよく言っています。が、天風先生の「これが真理である」というものが、たくさんあるのに気づくはずだです。やたらと、「これが真理」と言っています。決して、1つを指して、「これが真理である」とは言っていません。なぜなら、どの説明も、どこかの角度から説明したもので、一面的な真理だからです。だから、聖人の話には矛盾を感じる話が多いのです。が、どれも正しいことを知ってください。そうすれば、混乱することはなくなります。ヘーゲル弁証法の大家、許萬元先生は、「言葉による真理の説明は、全て一面的な事実であって、絶対的なものではない」といっています。自分の信じているもの以外は、間違っていると思い込んでいる人は真理をわかっていない人なのです。
2018年02月22日
「どんな人に対してであれ、決まった生き方の法則などないの だ、ということを忘れないでください。求道の結果、健康になったかもしれませんし、ならなかったかもしれません。菜食主義になって、病気になった人もいれば、それで健康になった人もいます。」 ( バーソロミュー )最近の流行といえば、「ありがとう(ございます)」、「トイレ掃除」です。小林正観さんによって流行になった法則です。「ありがとう」と唱えれば、その回数に応じてラッキーなことが起きるというものです。「ありがとう」を唱えて、末期癌だった人が治った、ということを聞いて、「ありがとう」には癌を治すパワーがある、と決める人がいますがそれは違うようです。治った人もいるかもしれませんし、治らなかった人もいるでしょう。また、小林正観さんによると、「トイレ掃除」をすると「お金が入ってくる」という話です。これもお金が入った人もいるし、入らなかった人もいるのです。「決まった生き方の法則などない」のです。このバーソロミューの言葉は、病気治しや臨時収入を得るために、「ありがとう」を唱えたり、「トイレ掃除」をしている人にはガッカリする言葉です。「ありがとう」を唱える真の意義は、「感謝の心」を深くするためです。感謝の心が深くなった結果として、ある人は病気が治ったり、ある人はラッキーなことが起きたのです。また、「トイレ掃除」をする意義は、掃除をすることによって、自分の心を掃除することにあるのです。「この世界は心の反映」ですから、(トイレ)掃除をすることによって、心が掃除されるのです。その結果として、お金が入った人もいるし、ラッキーなことが起きた人もいるのです。「ありがとう」を唱えたら病気が治るとか、「トイレ掃除」をしたら臨時収入が入る、などという決まった生き方の法則はないのです。なぜなら、宇宙には同じものが存在していないからです。つまり、同じ人もいないということです。ということは、同じ人生もないということです。宇宙を貫く法則はありますが、「決まった生き方の法則」はないのです。「こうすれば病気が治る」とか、「こうすれば運が良くなる」という話は、あくまでもその人の話です。それを参考にして、自分で創意工夫するのには役に立ちます。が、同じ結果を期待すると必ず失望することになるでしょう。あなたの人生は、世界でたった1つの人生です。誰もあなたの人生を真似できないのです。
2017年12月06日
「アーナンダ(弟子)よ! 人は、色々なことで悩むが、悩みとは何だと思う? 悩みとは、「どうすれば今の苦しみから逃れられるのか」という「思い」なのだ。」だ。」( ブッダ )ブッダは、この世の苦しみについて徹底的に追求した聖人です。そして、苦しみの原因を発見したのです。苦しみの原因とは、「思い通りにならない」ことだったのです。老いる苦しみは、「私はいずれ老いる、私は老いてしまった、私は老いている」という「思い」が原因です。老いたくないという「思い」があって、それが思う通りにいかないから苦しむのです。わはははははは…っ!病む苦しみは、「私はいずれ病むかもしれない、私は病んでしまった、私は病んでいる」という「思い」が原因です。病みたくないという「思い」があって、それが思う通りにいかないから苦しむのです。そして、ブッダによると、全ての苦しみの原因が、「どうすれば今の苦しみから逃れられるのか」という「思い」なのです。それが思い通りにならないから苦しむのです。では、どうすればいいのでしょう。ブッダは、「人生には、思い通りになるときもあれば、思い通りにならないこともある」ということを受け入れるよう説いています。苦しみから逃れようとするのではなく、その状態をそのまま体験すればいいのです。そして、目の前のことを一生懸命やればいいのです。常に、「今」を生きるのです。今目の前にある感情を体験し、今目の前にいる人を大切にし、今目の前にあることを誠心誠意やればいいのです。そうすれば、最善の方向へ進んで行きます。ブッダが言うように、「どんな状況も永続しない」のです。
2017年11月12日
「人は思考に従っているのではなく、感情に従っている。あなたは、怒りは良くないと思っている。しかし、怒りが湧いてきたら、思考は脇に置かれ、怒ってしまう。あなたがたは皆、自分のエネルギーに苦しんでいるだけだ。」(OSHO)「怒りは良くない」という思考によって、怒りを抑えつけることが出来ても、怒りというエネルギーは、そのままなのです。心の奥にしまい込んだだけで、処理できていないのです。一度発生したエネルギーは、解放されないかぎり、心に残り続けるのです。感情は、単なるエネルギーです。感情というエネルギーに良いも悪いもありません。我々は、そのエネルギーの処理に苦しんでいるだけなのです。ですから、エネルギーの処理の仕方を覚えたら人生が一変します。感情というエネルギーを処理する方法は、大きくわけると3つあります。1つは、運動を通してエネルギーを解放する方法です。運動といっても、スポーツだけを指すのではありません。例えば、拳を力一杯握り、限界に達したら一気に力を緩めます。この運動によって、エネルギーが解放されます。また、深呼吸という運動もエネルギー解放に役に立ちます。呼吸法は、浄化に役立ちます。2つめは、感情を言葉にする方法です。怒りや自分の思いを、言葉にするのです。一人になって、独り言を言うのもいいでしょう。また、紙に書いて、それを燃やすのもいいでしょう。あるいは、カラオケで大声を出すのもエネルギーの解放にいいでしょう。3つめは、目を閉じて、感情というエネルギーを感じる方法です。嫌な場面を想起して、感情を湧き上がらせ、そのエネルギーを感じるのです。感じることによって、そのエネルギーが流れて消えていくのです。がはははははは…っ!我々は、OSHOが指摘するように、「自分のエネルギー(の処理)に苦しんでいるだけ」なのです。ですから、エネルギーの処理の仕方を覚えたら人生は楽になるのです。
2017年10月01日
「多くの人が解放されるべきエネルギーを抑え込んでしまいます。 それは、感情を露にすることが幼児性として嫌われてきたからです。」( 津留晃一 ) すぐに感情を出す人は「幼児性が抜けていない」と教わってきました。ですから、感情を露骨に出す人をみると、してはいけないことをした犯罪者のような目で見てしまうんです。そして、自分は犯罪者にはなりたくないので、感情を出さないように抑えつける努力をします。そうでしょ?がはははははは…っ!そういう価値観で生きている人は、感情を顔に出さない人は「人格者」で、感情を顔に出す人は「犯罪者」として接してしまいます。しかし、事実は逆で普段から感情を出している人の方が「人格者」で、感情を抑えつけている人こそ「犯罪者」の要因を持っているのです。ニュースを見れば一目瞭然です。殺人や傷害などの事件をおこすほとんどの人は、ふだんは真面目だという評価を受けている人です。ですから、インタビューで、「そんなことをする人ではない」と知人は驚くのです。真面目な人とは、感情を出さない人のことをいっているのです。感情を抑えつけている人は、単に心の奥に感情というエネルギーをしまい込んだだけで、そのエネルギーは未だに心の中に存在しているのです。ですから、何かの拍子で、一気にそれが爆発する可能性を秘めているのです。まるで、活火山です。しかし、感情を普段から出している人は、心に蓄積していないので、穏やかなのです。怒ったと思ったら、次の瞬間には、もう笑っているのです。すなわち、感情を出しているがゆえに、人格者的な行動も出来るのです。しかし、感情を他人にぶつけると、いずれ自分に返ってきて苦しみます。だから、自分一人で処理する方が賢明です。感情を出している人は、人格者だと言いましたが、他人に感情をぶつける人は違います。自分の感情を一人で処理しながら、感情を出す人が「人格者」なのです。
2017年09月18日
「悩み苦しみは、今目の前にある現象が自分の思う通りになって いないことから生じる。 思い通りにしようという思いを持たないこと!」 ( 小林正観 ) 最近ニュースで、「自殺」する人が目立っています。「自殺」を考えることまでは、別に何の問題もありません。心理学者によると「どんな人も一生のうち10回以上は、自殺を考える」らしいんです。ですから、「自殺」を考えるくらいなら、問題はないのです。が、本当に自殺してしまうのは問題です。 「自殺」をするのは、人間だけです。なぜ、人間だけがするのか?それは、「自分の思う通りにいかない」ことに嫌気がさしたからなんです。動物は、そんな思いはありませんから、絶対に自殺はしません。 「自分の思う通りにする」 この思いを持っているかぎり、悩み苦しみは消えないでしょう。なぜ、こんな思いを持つようになってしまったのかというと、ほとんどのことが思う通りになっているからなんです。手を上に挙げようと思えばその通りになるし、歩こうと思えば歩くし、どこかへ行こうと思えば行けるし…。だから、知らず知らずのあいだに「思う通りになることが当たり前」になってしまったんです。 でも、全てのことが自分の思う通りになっている人なんていませんよ!悟りを開いたブッダやイエス・キリストでさえ、自分の思う通りにならないことがたくさんありました。彼らは、神通力が使えたにもかかわらず、自分の思う通りにならないことがたくさんあったんです。でも、彼らは、「自分の思う通りにならないことがあるのが当たり前」と知っていたから、悩むことはなかったんです。また、「何が何でも自分の思う通りにしよう」という思いもなかったので、苦しみもなかったのです。 動物も、狩りに失敗したり、「思う通り」にならないことだらけですが、それが当たり前と思っているから悩みません。「自分の思う通りにならないことがあるのが当たり前」と思うことにより、悩み苦しみは、かなり減少します。 「思いを遂げよう」とすること自体は、素晴らしいことですが、そのことに執着すると苦しくなります。自分が、創意工夫して努力した結果、自分の思う通りにならなかったときは、こう思ってください。「その方がベストだったのだ」(津留晃一さんはよくそう言っていた)宇宙は、完璧です。その宇宙の一部であるあなたも完璧です。もし、完璧でない人が一人でもいたら、宇宙も完璧ではなくなります。 完璧である宇宙がやったことです。自分の思いがかなわなかったときは、「その方が自分にとってベストだった」んです。「思い通りにならない」ときは、普通は、「どうすれば思い通りにいくのか」という解決を考えます。でも、そのいうときは、「思いを遂げよう」とするのではなく、今感じている感覚に浸るべきなのです。「思い通りにならないときは、こういう感覚がするのかぁ~」そのまま、その感覚を感じるのです。すると、「思い通りにならない体験」が終わるのです。そして、新しい展開が始まります。体験し尽すことによって、その現実も終わりを向かえるのです。その感覚を体験しつくさずに、解決しようとしても、いずれまた、同じような現象を引き寄せるのです。なぜなら、体験しつくしていないからです。「今起きていることが自分にとってベストなことである」という新しい価値観を持つことによって、祝福できない感情を感じてみようという気になるのです。今を生きるとは、今感じている感情を感じ尽すことなのかもしれません。
2017年08月05日
「ただ知って欲しいことは、他人を変えようと思っても、他の人は変えられないということです。そして、自分のまわりの世界を変えるための一番の方法は、自分を変えることです。」 ( バシャール )小林正観さんも言っていましたが、相談ごとの多くは自分のことではなく、「どうしたらあの人を変えられるか」という他人のことで悩んでいます。でも、実は相手を変えようとするのは、相手を自分の価値観と同じにさせたいだけなのです。自分と違う価値観で生きている人を見ると、自分がイライラするから相手を変えようとしている人が多いのです。相手に自分の価値観を押しつけることを「干渉」と言います。「相手を変えることは相手のため」という理由を自我が作り上げて正当化し、相手に干渉しているだけなのです。このバシャールの言葉は、そういう人にはショックだと思います。他人を変えることは不可能だと断言しているわけですから!では、どうすればいいのでしょう?要は、自分と違う価値観で生きている人を見ても、自分がイライラしなくなればいいのです。相手の問題ではなく、イライラしている自分の問題なのです。ですから、自分が変わればいいのです。どういうふうに変わればいいのかというと、「自分と違う価値観で生きる人を見ても反応しない」ように変わればいいのです。「反応しない」ようになるには、自分の内側にある価値観に気づき、そして、それを手放すことです。この場合でいえば、「自分と違う価値観で生きることが正しい」という価値観が自分にあったことに気づき、それを手放すのです。そして、新しい価値観を持ってください。「自分と違う価値観で生きる人がいて当たり前」自分が何に反応するかによって、自分の価値観に気づくのです。価値観、つまり、「~するのが正しい(当たり前)」、「~するのことは間違っている(良くない)」という価値観がなければ、「反応」はしないのです。これからは、イライラしたら、自分の内側に意識を向けて、「どういう価値観が原因でイライラしたのだろう」と探求してみてください。
2017年07月17日
「泣くことは全ての人が学ぶべき最も重要なものの1つだ。 一度も泣いたことのない人が何百人もいるかもしれない。 彼らはその喜びを知らない。 いかにくつろぎ、瞳が浄化されるかを、瞳にとどまらず内なる視界まで浄化されるかを 知らない。」 「泣くのは美しい。 何ひとつ間違っていない。何であれ、ありのままを受け入れなさい。 なぜと問う必要はない。 なぜなら、その問いが事実から遠ざ けてしまうからだ。 なぜ泣くかは重要ではない。 原因なんて見つけられはしない。」 ~『OSHOタイムズ Vol.18』より~「笑い」に浄化作用があることは、今や常識でもあります。だから、病気になったとき、笑えばドンドン回復していきます。病院の中には、落語家などを招いて笑いを患者に提供している所もあるくらいです。しかし、和尚から言わせれば、それでは片手落ちなのです。なぜなら、「笑い」と「涙」は表裏一体だからです。「笑い」が表のエネルギー作用なら、「涙」は裏のエネルギー作用なのです。この両方を用いてこそ、浄化は促進されるのです。しかし、「泣くことは良くないこと」という固定観念があるため、泣くことをついつい抑えてしまいがちです。また、誰かが泣いているのを見ると、つい、「そんなに泣くなよ!」と言いたくなるものです。でも、それは自分が泣くことを抑えているからなのです。誰かが泣いているのを見ると、自分の内側に蓄積された同質のエネルギーが呼応してくるから、「見たくない」という反応をするのです。その証拠に、テレビのドラマで泣いているシーンを見ると、知らず知らずのうちに自分も泣いているはずです。テレビを見ているときは、泣くことを自分に許せますが、日常生活ではそうはいきません。人前で泣くと、自分がいけないことをした気分になるからです。それくらい、泣くことに対する固定観念は強いのです。このOSHOの言葉を多くの人が知ることによって、新しい価値観で生きる人の数が増えるでしょう。それは、「泣くことは心身を浄化する美しい行為である」という価値観です。「笑い」と「涙」は、宇宙が人間に与えてくれた贈り物なのです。
2017年07月04日
「いつでも何かに落ち込んだ感じがし始めたら、それをすぐに楽しみなさい。 落ち込みに同化しなさい。何も悩むべきことではない。 本当に落ち込みなさい。 何であれ、落ち込み対してできることをしなさい。歓迎すべき友人としなさい。 すると、すぐに、エネルギーの変化を感じるだろう。 落ち込みを楽しみ始めたら、それはもはや落ち込みではない。 あなたはそれを変容させた。あなたはそれを超越した。 悲しみが悲しみであるのは、あなたがそれを楽しんでいない間だけだ。」 ~『 OSHOタイムズ vol.11 』より~ この言葉は、初めて聞いたときはショックであった。なぜなら、今まで、自分の感情と闘ってきたからだ。なぜ、闘ってきたのかというと、「落ち込むことは良くない」と教わったからだ。 「良くない」ことをしたくないばっかりに、闘ってきたのだ。でも、それは違うようだ。 自分の感情を否定せずに、体験すれば良いだけなのだ。「落ち込むことは、人間として価値のある体験である」と自分の価値観を変えることによって、落ち込みを楽しめるようになるのだ。 このOSHOの言葉は、落ち込みやすい人には最高の強壮剤となるだろう。
2017年07月02日
【 多くの悟った人が合気道を薦めている 】哲人・中村天風先生や五井昌久先生、OSHOなど多くのマスターが弟子に合気道をやるよう薦めました。それは、弟子に合気道を極めてもらうことが目的ではなく、合気道の稽古をすることで、霊的成長が促進するからでした。合気道の段位を取得することにはマスターは関心がありません。純粋に合気道の稽古を通して心身を浄化して光明を得て欲しいからなのです。「(合気道の)武技は天の理法を体に移し、霊肉一体の至上境に至るの業であり道程である」(開祖・植芝盛平翁)【 合気道の手技を受けるだけでも効果がある 】合気道の開祖植芝盛平翁は「合気道は至上の健康法である」と言っています。そして、植芝盛平翁は「合気道においては技をかける方も技をかけられる方も浄化する」と言っています。技をかけられる方が浄化するというのは不思議に聞こえますが、その理由は手の刺激にあります。【 手は体の縮図である 】手は体の縮図です。手のひらには、内臓器官や頭、肩、足と直結しているツボがあり、そのツボが刺激されることで脳も刺激を受けて各器官に影響を与えます。手の甲は、背面と直結する経路があり、その経路を刺激することで脳も刺激を受けます。植芝盛平先生は、「合気道で関節のカスを取るのじゃ!」と言っていたそうです。実際、関節にエネルギーのカス(エネルギーブロック)が溜まりやすいのです。エネルギーブロックがあると生命エネルギーの流れが滞ってしまうため、半分の力しか出せません。しかし、エネルギーブロックを除去すると、生命エネルギーが流れ出すため、自然に心身の調子が整い始めます。エネルギーブロックを解消することで生命エネルギーが全身に流れ出すため、肩コリが改善し、疲れにくい体質になります。また、合気道の技は骨と骨との間の筋肉を刺激するので関節のエネルギーブロックも除去できます。合気道の手技を受けるだけで心身が自然に癒されるのです。合気道は自然療法なのです。しかし、現在の合気道の多くは植芝先生の合気道を変えてしまったものです。だから、植芝先生の言う効果を味わうためには、植芝先生の合気道を変えていない技を受ける必要があります。当道場は悟人・植芝先生の合気道の技をそのまま継承している岩間流合気道です。それゆえ、植芝先生直伝の合気道の手技を繰り返し受けることによって、全身の調子が良くなっていきます。武道が苦手な人も、合気道の技を受けるだけなら抵抗なく出来ます。初心者体験会の案内はこちら↓https://blogs.yahoo.co.jp/arigato21jp/folder/1085532.html合気道の体験入門案内はこちら↓http://blogs.yahoo.co.jp/arigato21jp/folder/965033.html
2017年06月25日
「恐れを感じるとき、人はそれを肉体を通して感じます。 つまり、恐れは肉体的なものなのです。 しばしば胸やのどや頭がしめつめられる感じがします。 そうした状態になったときには、今までの効果のないやり方を 繰り返す代わりに、次のことを試みてください。 まず、恐れのエネルギーが体のなかで活動するのにまかせて ください。 それを取り除こうとしたり、何かに変えようとしたり、 抑えこもうとしたり、それから逃げようとしたりしないで ください。 完全に受身になって、それが働くのにまかせてください。」 ~『バーソロミュー』(マホロバアート)より~悟りを開いたマスターらは、みんな同じことを言います。 「恐怖を克服する方法は、恐怖を体験すること」 我々は、恐怖を体験しようとはせず、恐怖を消そう消そうと努力します。が、消そうと努力すればするほど、恐怖は強くなってしまいます。恐怖を超越する最善の方法が、恐怖を肉体で体験することだったのです。バーソロミューの「恐れは肉体的なもの」という言葉は印象的です。今まで、恐れは精神的なものと思い込んでいましたから…。考えてみれば、全ての感情は、肉体を通して感じます。だから、感情は肉体的なものなのです。肉体的なものであるなら、肉体を通して感じればいいだけのことです。胸の鼓動がはやくなったら それを体験し、頭が痛くなったらそれを体験する。目を閉じて、その肉体の感覚を体験していると、やがて消えていきます。大事なことは、感情から逃げずに体験しようとする「勇気」を出すことです。中村天風先生が、「勇気の煥発」を強調していた理由も納得できます。全ての感情を肉体を通して体験するとは、人間らしく生きるということなのかもしれません。
2017年06月25日
今日は、人生についての話です。どんな人の一生も、「飲んで、食べて、排泄して、 自分の欲を満たすために動いて」を何十年か繰り返して死ぬだけです。これが、人生のあるがままの見方です。つまり、人の一生はニュートラルなんです。だから、人生の意味は自分が付けるんです。 「人生の目的は何ですか?」と尋ねる人が時々いるんですけど、それは自分が決めるんです。 全ての人に共通する人生の目的なんてないんです!わははははははは…っ!だから、ある人は「プロ野球選手になって人々に感動を与える」ことを人生の目的とし、またある人は、「漫画家になって人々に夢を与える」ことを人生の目的としているんです。 人それぞれ、人生の目的は異なるんです!がははははははは…っ! 「人生の目的」は人によって異なるんですけど、「生命(魂)の目的」は共通しているんです。 『神との対話』(N・ウォルシュ著 サンマーク出版)に、こう書いてあります。 「人生とは、概念として知っていることを体験的に知る機会だ。 … 略 …あらゆる生命の目的はひとつしかない。あなたがた、そして、生きとし生けるものすべての目的は、できるかぎりの栄光を体験するためだ。 話したり、考えたり、行動したりするのもみな、この目的のためだ。 … 略 …魂は体験したがっている。 自分が寛大であることを知っていても、寛大さを示す何かを しなければ、概念にすぎない。 親切であることを知っていても、誰かに親切にしなければ、 自意識があるだけだ。 自己についての偉大な概念を偉大な体験に変えたい、それが魂の唯一の望みだ。 概念が体験にならないかぎり、推測にすぎない。」わはははははは…っ! 生命(魂)は、愛であり、力であり、知恵であり、偉大です。 生命は、自分が愛であり、力であり、知恵であり、偉大である ことを概念として知っているんですけど、それがどんな感覚な のか体験したことがないんです。だから、「自分を体験する」ことが生命の唯一の望みなんです。 再び、『神との対話』を引用します。 「魂は完璧な愛であり、自分がそうであることを知っている。だが、知っている以上のことを求めている。 完璧な愛を体験している魂になりたがっている。」がははははははは…っ!だから、一生の中で、できるかぎり愛を表現し、できるかぎり能力と知恵を発揮することによって、自分を体験的に知ること ができるんです。その手段として、仕事や人間関係があるんです! 相手がいなければ「愛」を表現できないし、仕事がなければ「能力と知恵」を発揮できません。つまり、生命の目的を成就するには、人に笑顔で親切に接し、 愛ある言葉を口にし、仕事(家事もこれに当てはまる)を誠心誠意やり、知恵をもって、人の世のために役立つことを することです。インドのマスター・和尚(OSHO)曰く、 「人生とは、自己実現する機会だ。 生まれるとは、生を成就する機会が与えられたということだ。 生を成就するとは、自分を体験することを意味している。」 今日の話はここまでです!
2017年06月10日
【 相 談 】こんにちは。私は「他人が私のことをどう思っているのか?」が凄く気になります。「あの人は私をどう思っているのか?」それが気になって堪りません。 <Hさん><ありがとう仙人>わはははははは…っ!「他人が自分のことをどう思っているのか?」ということが、なぜ気になるのか?それは簡単です。インドの聖者・OSHOによると、他人の評価が気になる原因は2つあるそうです。1つは、自分が他人をいつも評価しているからです。そして、良い評価よりも批判していることの方が多いはずです。だから、他人も自分を批判しているにちがいないと感じて、他人の評価が気になってしまうのです。インドの聖者・パラマハンサ・ヨガナンダは言っています。「他人を批判したがる人の多くは、自分が批判されることには耐えられません。」貴女は、他人から批判されることに耐えられないから、「あの人は私を批判していなかった」という証拠を欲しがっているのです。だから、他人の評価に関心があるのです。わはははははは…っ!もう1つは、貴女が「自分を知らない」からです。自分がどういう性格なのか? どういう癖があるのか? どういう人格なのか? 貴女自身が分かっていないのです。哲人・ソクラテスは弟子たちに、「汝自身を知れ!」と言っていました。自分のことを知らないから、自分を知りたくなるのです。もし、自分が分からないのなら、どうやって「自分」を知るのか?自分がどういう人間なのかを知る簡単な方法が、他人から自分はどういう人間に見えるかを聞くことです。だから、貴女は、他人の評価が知りたくなるのです。多くの人が貴女のことを「優しい」と言えば、貴女は「私は優しい人間なのだ」と知ることが出来ます。しかし、同じ人たちが「意地悪」と言えば、今度は「私は意地悪なのか?」と思い込みます。そして、混乱するのです。「私は優しいの? それとも意地悪なの?」わはははははは…っ!今、貴女が「自分はこういう人間だ」と思っている自分は、単なる他人の評価の集計にすぎないのです。他人のアンケートを集計したようなものなのです。OSHO曰く、「自分とは、他人がどう思っているかを寄せ集めたファイルにすぎない。自分の全イメージは、他人によって作られている。他人は意見を変え続けているので、いつも不安な状態になる。」がははははははは…っ!覚えておいてください!「他人の言うことは真実ではない」のです。なぜなら、他人は、自分の都合によって評価を変えるからです。だから、今日は貴女のことを「優しい」と言ったと思ったら、明日は「意地悪」と言ったりするのです。パラマハンサ・ヨガナンダ曰く、「私は、人がどう思おうと気にしません。人は、私の味方になったり、敵になったり、始終変わるからです」がははははははは…っ!他人の評価を気にしすぎると、良い評価を得ようとして、他人の機嫌をとるようになります。他人の機嫌をとるようになると、苦しみます。なぜなら、他人の機嫌は相手の事情によって変化するからです。ブッダにこういう話があります。ある男がブッダに尋ねました。「真理とは何でしょう?」すると、ブッダは、沈黙してしまいました。真理は言葉では表現できないからです。言葉で表現できるのは真理の一面であって、全体ではないのです。それを見た男は、怒って帰っていきました。その様子を見て、お供のアーナンダが言いました。「ブッダさま、あの男、ブッダさまの悪口を言いふらすかもしれませんよ!」「アーナンダよ、あの男が何をしようと放っておきなさい。私とは関係ない。気にすることない。アーナンダよ、幸せに生きたかったら、絶対に他人の機嫌を気にしてはならない。このことを覚えておくように!」ブッダでさえ、相手を怒らせることがあるのです。でも、それはブッダのせいではなく、相手の勝手な都合なのです。だから、そんなことは放っておけばいいのです。わはははははは…っ!では、貴女はどうすればいいのでしょう?答えは簡単です。貴女が「愛の実践」をすればいいのです。「愛の実践」とは、目の前の人に「笑顔」で「親切」に応対することです。その結果、他人から批判されても、それは構わないのです。「愛の実践」をしているにもかかわらず、貴女を批判してくる人とはどういう人だと思います?恐らく、「無愛想」で「不親切」な人です。正反対の人が批判するのです。なぜなら、波動が合わないからです。愛想の良い人がいると、無愛想な人は、自分の「無愛想」が露見してしまうので、排除しようとするのです。親切な人がいると、不親切な人は、自分の「不親切」が露見してしまうので、排除しようとするのです。イエス・キリストは「愛の実践者」でしたが、「愛を実践しない宗教家」によって、殺されてしまいました。イエスがいると、自分たちの言行不一致が露見するからです。言行一致の実践者は、言行不一致な人たちに批判されるのです。ですから、そういう人たちから批判されても落ち込む必要はないのです。むしろ、誇りに思うべきです。なぜなら、「無愛想で不親切な人から批判された」ということは、貴女は、「愛想が良く親切な人」ということなのですから。人から批判されて落ち込むなら、親切で高徳な人から批判されたときです。わはははははは…っ!全ての人から良い評価を得るのは不可能なのですから、批判されたことで悩むのではなく、どういう人から批判されたかに重点を置くべきです。だから、イエス・キリストは弟子たちにこう言っていたのです。「偽善者から迫害(批判)される者は幸いなり」また、パラマハンサ・ヨガナンダもこう言っています。「すべての人を喜ばせることは不可能です。私は、だれにも不愉快な思いを与えないように心がけ、そのためにできるだけの努力はしていますが、それが私にできる限界です」わははははは…っ!さぁ、結論です!他人が「自分のことをどう思っているか」を探る必要はありません!「どういう人が自分を批判しているのか」によって自分を知ることができるからです。ですから、貴女のすることは、他人がどう思っているかを探ることではなく、自分が正しいと感じることを実践することです。笑顔で親切に人に接すればいいのです。すると、正しくない人やエゴの強い人が貴女を批判するでしょう。それは、貴女が「正しい人であり、愛深い人」である証なのです。「他人の評価」ではなく、「自分の言行」が大事なのです。今日から、生まれ変わったつもりで、「愛の実践」を心がけてください。「愛の実践」をしていると、似たような意識を持った人たちの交友が始まりますよ!最後に、パラマハンサ・ヨガナンダの言葉を贈ります。「人を惹きつける最良の方法は、善い行いをすることです。話をするときは、自分のことを話し過ぎないように気をつけなさい。そして、相手が関心をもっている事について話すよう努め、相手の話をよく聞きなさい。これが魅力的になるコツです。」「相手の話をよく聞く」ことも、愛の実践の1つなのです。なぜ、中国の劉邦(りゅうほう)が項羽(こうう)を破って「漢」を建国できたと思います?劉邦は、どんな身分の低い人だろうが、相手の話をよく聞いたのです。そして、相手が関心のある話題を話したのです。その結果、民衆は劉邦に魅力を感じ、それが人望となったのです。ヨガナンダの指摘通り、「善い行い、相手が関心ある話をする、相手の話をよく聞く」ことが、魅力的になるコツなのです。<Hさん>貴重なアドバイスをありがとうございました。こういう話は初めてです。なんか自分の中でスッキリしたように思えます。本当にありがとうございます。
2017年03月18日
みなさん、こんにちは!どんなに文明が発展しても、人の苦しみはなくなりません。そこで、悟りを得たマスターらは、人々の苦しみを軽減するために、色々な道を示しました。しかし、マスターらが示した道は、目の前の苦しみを解決してあげることではなく、人々に「無」を体験させることでした。なぜなら、目の前の苦しみを解決しても、内側が変容していない限り、再び新たな苦しみを作り出すからです。真に、苦しみから解脱したいのなら、内側を変容させるしか方法がないことをマスターらは、体験的に知っていたのです。そして、人々の内側を変容させるには、「無」を体験させることが不可欠だったのです。「無」とは文字通り、「自我が無い」状態のことです。自我が無い時、在るのは霊(内なる神)だけです。そこで、マスター(道師)らによって、「無」を体験出来る独自の技法がたくさん生み出されました。マスターらは、「無」を体験させることを最終目的としていました。坐禅、瞑想、祈り、マントラ、ヤントラ、タントラ、ヨガなどの究極の目的は、「無」を体験することにあります。では、なぜ、「無」を体験することがそんなに大事なのでしょう?「無」を体験すると、どういう変容があるのでしょうか?このことを理解するには、スピリチュアルな説明が必要になります。というのも、「無」を体験させようとしているのは、スピリチュアル体験をしたマスターだからです。だから、「無」を体験させる理由も、スピリチュアル的な理由からなのです。がはははは…っ!なぜ、「無」を体験することが大事なのか?「そんなことも知らないの?」「ムッ(無)」(笑)がはははは…っ!人間は、大きく分けると、3つの層から構成されています。3つの層とは、肉体・心・魂(霊)です。運動法は、肉体を浄化するのに有効です。肉体は3つの層のうち、一番外側の部分です。暗示法、イメージ法、叫び法などの行法は、心を浄化するのに有効です。心は3つの層の二番目の部分です。心理行法は、潜在意識を浄化することは出来ますが、最奥の超意識(霊)までには働きかけられません。また、潜在意識は「無限の倉庫」とも言われていて、潜在意識の中には、心の垢が無限に蓄積しています。1回の心理行法で潜在意識を掃除出来るのは数個です。しかも、日々、新たに別な垢を潜在意識に蓄積しています。なので、心理行法だけでは不十分です。潜在意識に蓄積している垢を大量に掃除したいのなら、超意識(霊)に働きかけなければなりません。坐禅や瞑想、祈り、マントラ、タントラ、合気道などの行法は、霊(内なる神)を顕現させるのに有効です。霊(内なる神)は3つの層の一番奥の部分であり、人間の中核です。従って、霊(内なる神)を顕現させれば、肉体も心も浄化されるだけでなく内側が一気に変容されます。すると、人間の本質である愛が湧き上がってきます。さらに、霊(内なる神)が顕現すると、人生に必要な力が必要に応じて湧き出てきます。そうなれば、人生に何事があろうと、颯爽と生きていくことが出来るのです。だからこそ、霊(内なる神)を顕現させる、つまり、無を体験することが重要になってくるのです。がはははは…っ!肉体・心・感情を1つ1つ順番に浄化するのを待っていたら切りがありません。しかも、仮に浄化しても、内側が変容していないため、再び、エネルギーブロックが蓄積してしまいます。つまり、浄化しても、新たなエネルギーブロックを蓄積させるため、切りがないのです。そこで、「無」になる必要が出てくるのです。「無」になれば(自我がなくなれば)、「霊」が顕現します。たとえ「無」を体験する時間が数秒だったにしても、そのわずかな時間で肉体・心・感情が一気に浄化され、さらに内側が少しずつ変容します。自覚は湧かないかもしれませんが…。無(霊)には、それだけのパワーがあるのです。だからこそ、マスターらは、「無(霊)」を体験させたがるのです。内側を変容させるには、「無(霊)」が不可欠なのです。インドの覚者・OSHO曰く、「身体は身体しか含まない。心は、身体と心の両方を含む。そして魂(霊)は、その三つ全てを含む。高次のものは低次のものを包含するが、その逆はない。これは心に留めておく重要な法則の一つだ。高次のものに働きかけるなら、低次のものは、自ずと解決される。霊は、あなたの存在の三つの次元を全て含んでいる。だから、私の関心は、あなたの霊的な成長にあるのだ。」わはははは…っ!合気道などは霊を顕現させるのに有効ですが、単に稽古するだけでは不十分です。その後、坐禅や瞑想、お祈りなどの行法をする必要があります。心身を浄化した後に坐禅や瞑想をした方が「無」を体験しやすいからです。いきなり坐禅や瞑想をしても、雑念ばかりで無を体験することは至難なことです。運動法や呼吸法を行った後に、坐禅や瞑想をした方が無を体験しやすいのです。にもかかわらず、運動や武道をやったら、「ああ、いい汗かいた」と、それで終わる人が多いのです。もったいない。その後に坐われば、無を体験出来るかもしれないのに…。ありがとう仙人の合気道場では、稽古後、坐禅(安定打坐法)をしています。なので、ほとんどの道場生が「無」を体験しています。「無」の体験は人生最大の体験です。これこそ、人生の目的の1つだと言っても過言ではありません。がはははは…っ!中村天風先生は、誰でも容易に「無」を体験することが出来る「安定打坐法」という坐禅法を創始してくれました。この「安定打坐法」を行うと誰でも簡単に「無」を体験出来ます。最初は1秒くらいしか体験出来ませんが、たとえ1秒でも、その間に浄化する量は膨大であり、内側の変容も確実に起こっています。そして、1秒の無の体験を積み重ねているうちに、内側が変容し、やがて霊が長時間、顕現した状態になるのです。すなわち、安定打坐法を続けていると、必要な時にインスピレーションが湧いて来て、人生の一大事に遭遇しても難を乗り越えることが出来ます。だからこそ、天風先生は「安定打坐法」を一番重要視していたのです。天風先生は、言っています。「極論を言えば、心身統一法は安定打坐に始まり、安定打坐に終わると言えるのである」がはははは…っ!しかし、誰でも簡単に「無」を体験出来る安定打坐法でさえ、いきなりは上手く出来ません。運動法や呼吸法をやって肉体と心を浄化してから坐わならければ無は体験できないのです。つまり、この「霊(内なる神)」を顕現させるのもかなり根気が必要です。どんな行法も根気が必要なのです。自我がすぐに結果を得ようとします。自我が強い人は根気もないのです(断言)。霊を顕現させるには、肉体行法、精神行法だけでなく、瞑想や坐禅などの行法を併用しながらやることです。3つの行法すべてが大切なのです。その証拠に、かつてマスターらが示した技法は、肉体・心・感情を浄化する3つの行法が組み合わされています。インドのマスター・OSHOは言っています。「現代人ほど急いでいる人々は、いままでにいない。昔の人々は、現代人ほどせっかちではなかった。現代人は物事を即座に求め、いま欲しがる。それが障害だ。まったく忍耐のないハート。絶えず走り、突進し、結局どこにも到達しない。なぜなら、内なる魂が望むことは、どれも待つことを必要とし、時間を必要とし、沈黙(無心)を必要としているからだ。」「無心(沈黙)」これが内側を変容するキーワードであり、人生を変容させるキーワードなのです。
2017年01月22日
みなさん、こんにちは!生きていると、どんな人も苦しみを体験します。苦しみを体験したことのない人なんていないんです。この苦しみから解脱するために、修業をする人がいます。しかし、どんな苦行をしてそれに耐えられるだけの精神力をつけても、人生に起こる苦しみを超越したことにはならないんです。例えば、学生時代に、辛いクラブ活動で苦行に耐え、鍛えた人も、人生に起こる苦しみにもがいるのが現実です。「昔、野球で鍛えた精神力があるから、人生で何事があっても平気だ」というわけにはいかないんです。そうでしょ?だから、相撲で鍛えた力士たちが、自分よりも小さい中村天風先生の所へ行って心を強くする方法を学んでいたんです。「ドヒョー(土俵)」(笑)あはははは…っ!苦行というのは、自らが望んだ苦しみです。最初から苦しいことを覚悟して、自ら苦しみを招いて、それに耐えようとする行為を「苦行」と言うのです。一方、人生に起こる苦しみは、自らが望んだ苦しみではありません。自ら招いた苦しみではなく、望んでいない苦しみです。自ら望んだ苦しみに耐えられても、望んでいない苦しみには耐えられないのです。それは、「掃除」と同じなんです。自ら望んでやる掃除は苦痛ではありませんが、当番でやらされた掃除は苦痛です。そうでしょ?「はい!」「そうじき者(正直者)!」(笑)あはははは…っ!自ら望んだ苦しみには耐えられるのに、自ら望んでいない苦しみには耐えられない。つまり、自ら望んだか望んでいないか、がポイントなのです。苦しみを超越するには、望んでいない苦しみに対して平然としていられるようにならなければ無理なのです。要は、人生に起こる苦しみを、自ら望んだ苦しみだと思えればいいのです。しかし、人生に突如としてやって来る苦しみを、そう簡単に「これは自ら望んだ苦しみなのだ」と思えないのが実情です。なぜ、そう思えないのでしょう。それは、「私」という自覚が誤っているからです。普段、「私」が生きていると思っています。実際、飲んだり食べたり、本を読んだり、遊んだりしているのは「私」がやっていることです。だから、「私」が人生を生きていると思っているのです。しかし、今、「私」と思っている私は本当の「私」ではありません。今、「私」と思っている私は、「自我」のことです。しかし、内側には、もう一人、「私」がいるのです。もう一人の私とは、「生命」です。これが真の「私」です。だから、イエス・キリストは、こう言ったのです。「私は生命である」わかりました?「イエス!」(笑)あはははは…っ!また、中村天風先生も、こう言っています。「およそ、現象の世界に、その生命を生かしつつあるものは、いずれもすべてが“見えざる実在の力”に依って、その命を保たれているのである。」つまり、私(自我)が「生きている」のではなく、内なる私(見えざる実在の力)によって「生かされている」のです。しかし、内なる私には、「私」という感覚はありません。自我の「私」には、個としての「私」という感覚があります。このトリックが、「私」が生きているという錯覚を引き起こすのです。聖者ラマナ・マハリシは、言っています。「“私がやっている”という感覚が邪魔ものである。」本当は、自分が生きているというのは錯覚で、生かされているのです。見えざる実在の力(生命)によって催眠をかけられ、あたかも、「私」が生きていると誤解しているのです。全ては真の私がやっている人生劇なのです。ラマナ・マハリシ曰く、「あなた自身に“誰が働いているのか”と尋ねよ!あなたが誰なのかを忘れてはならない。 …略…起こるべく定められていることは起こるだろう。例えば、あなたが仕事を離れるべく定められているのであれば、仕事はいくら探しても見つからなくなるだろう。反対に、あなたが仕事を続けるべく定められていたら、それを避けることは出来ないだろう。あなたは、その仕事を続ける以外にない。」がはははは…っ!全ては、内なる私(生命=見えざる実在の力)がやっているのです。全ては内なる私がやっているのなら、人生に起こる出来事も、内なる私が自ら望んで招いていることになります。ただ、感覚がないので実感がないだけです。あはははは…っ!内なる私は完全な存在です。その完全な存在である「私」がやることです。間違いはないのです。つまり、全ては、自分にとってベストな出来事なのです。「今の境遇は、これから起こる出来事の単なるプロセスに過ぎない」のです。しかし、自我には、そう思えません。それは当然です。なぜなら、出来事を招いているのは自我ではないからです。自我が招いたのなら、今目の前の出来事が良いことなのか悪いことなのか、分かるでしょう!しかし、出来事を招いているのは、内なる私なので、自我には分からないのです。あはははは…っ!ブッダは、「今の境遇は今のあなたにふさわしい」と言いました。何度も言いますが、「今の境遇は、これから起こる出来事の単なるプロセスに過ぎない」のです。人生に起こる出来事は、全て自分にとってベストな出来事なのです。それなのに、ほとんどの人は、「プロセス」にとらわれてしまって、それが過ぎ去る現象であるということを忘れてしまっているのです。完全な存在である「内なる私」が、自ら望んで招いたことですよ!一休禅師なら、こう言うはずです。「心配するな!何とかなる」あはははは…っ!大切なことは、今目の前のことを誠心誠意やることです。そして、今目の前の感情から逃げないで、体で体験することです。苦しいことが起きたら、まず、「今の境遇は、これから起こる出来事の単なるプロセスに過ぎない」という事実を思い出して下さい。あはははは…っ!出来事というのは連続しているのです。いきなり単独で起きることはないのです。つまり、どんな現象も単なるプロセスであり、決定した現象ではないのです。だから、「今」を生きればいいのです。後に、「あの出来事のお蔭で今の私がある」と必ず、言いますから!つまり、自分にとってベストなことしか起こらないのです。今日の話は、これで終わりです。
2016年10月08日
多くの人が、幸せになりたいと思っています。 しかし、「私、幸せです」と断言できる人は少ないのが現状です。 なぜなのでしょう? それは、心底、幸せを願っている人が少ないからです。 えぇぇぇ~~~っ! わはははは…っ! 確かに、ほとんどの人が幸せを願っています。 しかし、自分が幸せでいると、周囲の人はあなたに嫉妬し、あなたを敵視し始めます。 例えば、あなたが会社で昇格したとします。 最初は周囲も祝福するかもしれません。 しかし、あなたの幸せそうな態度が、やがて周囲を激変させます。 段々、あなたのことが憎たらしくなってきます(笑) そこで、周囲から敵視されないように、「昇格してかえって苦しくなった」という素振りをして自分の幸せを自粛し始めます。 経験あるでしょ? わはははは…っ! しかし、これは、「私は幸せを放棄します」ということを宇宙に宣言したことになるのです。 人は、思考、言葉、行動によって、人生を創造しますが、その中で一番エネルギーが強いのが行動です。 自分の幸せを自粛するという行動で、あなたは「幸せ放棄」エネルギーを宇宙に放出したのです。 すなわち、あなたは心底、幸せを望んでいるわけではないことになります。 がはははは…っ! また、「幸せになりたい」と願っていながら、無意識に不幸を喜んでいる人もいます。 というのも、自分が惨めな時、周囲の人はあなたに同情して、みんな親切にしてくれます。 その対応に快感を覚えて、好んで自分の惨めさを創造しようとします。 こういう人は、不幸を利用して人生を楽しんでいる幸せな人かもしれません(笑) がはははは…っ! 幸せになりたいのなら、周囲の反応を恐れて自分の幸せを自粛しないことです。 また、自分の惨めさを周囲にアピールして同情を得ようとしないでください。 自分が今、幸せなら、幸せを自粛するのではなく、周囲に「私が今、幸せなのはあなたのおかげよ!」と言ってあげてください。 そうすれば、周囲はあなたを敵視しないはずです。 幸せのキーワードは「感謝」です。 幸せは理屈ではありません。 「こうすれば幸せになる」というような公式はありません。 理屈で幸せになることはないのです。 なぜなら、幸せは理に合わないからです。 OSHO曰く、 「理由もなく幸せになれて初めて、あなたは幸せになれる。 それ以外に道はない。 不幸せには理由があるが、幸せには理由はない。」 不幸せはエゴが創りますが、幸せは無我から生まれます。 理屈はエゴの食べ物です。 理由もなく幸せなるには、本ではなく浄化と瞑想が必要です。 今日の話はこれで終わりです。
2016年08月14日
【 相談 】自分の怠け癖に悩んでいます。何事にも最初は「勤勉」に取り組もうと励むのですが、途中ですぐに「どうやったら、もっと楽になるか」と怠け心が出てきます。常に「楽をしたい」という思いが湧いてくるんです。どうしたら、怠け癖を改善できますか?貴方は大きな勘違いをしていますね!自分の怠け心に悩んでいる、とのことですが、そうではありません。貴方にお尋ねします。「楽をする」ことにマイナスのイメージを持っていませんか?もちろん、ありますだって、楽していたら、向上しないじゃないですか!楽ばっかりしていたら、ダラしなくなります。そうですね!だから、悩んでいるんですものね!しかし、実は貴方を悩ませているのは、怠け癖ではありません。「楽をする」ことに対する自分の解釈が貴方を苦しめているのです。では、なぜ貴方は「楽をする」ことにマイナスの解釈をするのでしょう?それは、幼い頃から親や教師、社会から教え込まれたからです。「楽をしてはいけません。努力しなさい!」その教えを無条件に信じています。しかし、私は断言します。「楽をしてはいけない」といのうは偏見であると…。よく考えてください。「楽をしたい」というのは人類共通の思いです。ワットが蒸気機関を改良したのも、楽をしたいからです。手で作業するのが辛かったので、機械を発明して楽をしたかったのです。スティーブンソンが蒸気機関車を作ったのも、エジソンが電球を発明したのも、「どうしたら、もっと楽が出来るか」という思いが原点なんです。携帯電話やパソコンが発明されたのも、「もっと楽になりたい」という思いからです。「楽をしたい」という思いがなければ発明もないのです。つまり、人間に潜在している「もっと楽になりたい」という思いが、文明を発展させてきたのです。「楽をしたい」という思いは発明の母なんです。どんな会社も、「効率的」に仕事をすることを主張しています。それは「楽をしたい」という思いからくる発想なんです。だから、「もっと楽をしたい」と思うことに何の問題はありません!なるほど~!そんなこと、考えてもみませんでしたねぇ!言われてみると、その通りです。携帯電話やパソコンも、「もっと楽になりたい」から売れているんですね。「便利」とは「楽に」ということなんですね!「楽をしたい」と思うことは、悪いことではないんですね!そもそも、貴方が私に相談した動機も、「楽になりたい」からです(笑)「楽」を別の言葉で言い換えると「自由」です。魂の本質は自由そのものです。だから、「自由を求める」、つまり、「楽になりたい」と願うのは、正常なことなんです。「楽をする」ことは、人間をダラけさせるのではなく、むしろ、向上させるのです。これからも、「楽になるにはどうしたらいいのか?」と考え続けてください。貴方は、小さな発明家になるでしょう(笑)わかりましたぁ~。楽になりました(笑)ありがとうございます。~『もっといい加減に生きよう あなたは考えすぎなのです』(ありがとう仙人著)より~
2016年05月07日
みなさん、こんにちは!人生は「選択」の連続です。人は常に、何かを選んで生きています。何も選択しないで生きるなんて不可能なんです。こう言うと、「いや、全てを人に任せて、自分は何も選択しなかったことがあるよ!」と、言う人が必ずいます。しかし、それは「人に全てを任せる」という選択をしたんです。はははははっ!どんな人も生きている以上、何かを選択しているんです。つまり、人は選択をしないと生きていけないのです。「確かに、汚れてしまいます」「それは洗濯」(笑)はははははっ!人生は「選択」の連続です。実は、この「選択」は、生まれる前からしていることなんです。この世に生きている時だけ、選択をするのではありません。生まれる前もしているのです。そして、死んだ後も選択をしているんです。生まれる前は、どの国に生まれ、どの両親にするか、そして、性別、容姿、名前を選ぶんです。ヨガの聖者・パラマハンサ・ヨガナンダは、こう言っています。「人がある家族的、社会的、国家的環境の中に生まれて来るのは、偶然ではなく、 前世の行為によって、自ら選んでそこへ生まれて来るのです。」がはははは…っ!一般に、子供に名前をつけているのは親だと思っています。本当は、お腹にいる胎児が親に想念を送って、親に名前をつけさせているんです。名前を選んでいるのも親ではなく子供自身なんです。まだ口をきけない子供は、想念を親に送り続けることよって、親に名前をつけさせているんです。だから、名前を見れば、今回の自分の人生のテーマが分かるんです。親が名前をつけているんじゃないからです。「おやおや」(笑)がはははは…っ!死んだ後は、自分の人生を振り返り、次の生で何をするか自分で決めるんです。つまり、生きているとは、「選択」することなんです。何をするにせよ、まず、選択をしなければならないのです。「今日は何もしない」という人は、「何もしない」ということを選択したのです。がはははは…っ!人は、選択なしには生きられないのです。しかし、何の迷いもなくスムーズに何でも選択出来るわけではありません。選択するのに、迷うことがあります。例えば、こんな経験ありません?「今の仕事をこのまま続けた方が良いのか?それとも転職した方が良いのか?」「この人と結婚するべきなのか?それともしない方が良いのか?」「カツ丼にしようか?それともカレーにしようか?」(笑)がはははは…っ!迷うのは、「間違った選択をして失敗したらどうしよう」という恐れがあるからです。しかし、本当は、どちらを選んだにせよ、ベストな選択なのです。津留晃一さんも言っています。「右を選んだら右の体験があり、左を選んだら左の体験があるだけです。 その左右の体験に、良いも悪いもありません。」でも、後から「やっぱりあっちにしておけば良かった!」と感じることはありますよね!それは間違った選択をしたのではなく、その時はその選択をした方が自分にとってベストだったから、それを選んだのです。いや、選んだというより「内なる自分」に選ばされたと言った方が妥当かもしれません。その証拠に、後から「あっちにしておけば良かった」と感じるまでに、色々な感情を体験したはずです。その感情を体験するために、それを選択した、いや、選択させられたのです。そして、自分が体験すべき感情を体験し終わったから、後から「あっちにしておけば良かった」と感じるのです。わはははは…っ!自我は、もう一方を選んだらどうなるのかは体験をしていないから、もう一つの選択の方が良く思えてしまうのです。「隣の芝生は青く見える」ものです。津留晃一さんは言っています。「右の道を体験し尽くした人は、その体験による学びが終わり、次は自ずと 左の体験を望むようになってきます。」はははははっ!本当は自分の選択に、間違いなんてないのです。「全ては、自分がしたい体験をするために、それを選ばざるを得なかった。 つまり、他に選択の余地はなかった」というのが本当なんです。あっ、ここで言っている自分とは、「内なる自分」のことです。大きく分けると、自分には2人いるんです。えぇぇぇ~~~っ!はははははっ!1つは、今、自分と認識している自分です。今、自分と認識している自分は自我です。自我には「私」という感覚があります。もう一人は、内なる生命の自分です。生命の自分には、「私」という感覚がありません。感覚がないがゆえに、自分の中にもう一人自分いるなんて知らない。だから、「自分とは2人で構成している」なんて理解出来ません。だからこそ、中村天風先生は「安定打坐法」という坐禅を重視していたのです。「安定打坐法」は、誰でも「無(内なる自分)」を体験出来る方法です。思考が無くなった時、自分の肉体感覚はありません。また、思考が無くなった時、自我(心)もなくなります。肉体感覚や自我がないのに、それでも自分は「在る」のです。つまり、自分は肉体も自我でもないということになります。ただ在る人こそ、内なる自分であり、生命なのです。内なる自分を安定打坐で体験すればするほど、「全ては、この人がしたい体験をしているんだなぁ」という実感が湧いて来ます。だからこそ、「安定打坐」は、内なる自分を体験する秘法中の秘法と、天風先生は言っているのです。安定打坐法を体験したい方は、ありがとう仙人の合気道道場に来てください。がはははは…っ!OSHO曰く、「“自分は肉体ではない”と知ることは、すばらしい巡礼の始まりになる。そして、“自分は肉体でも思考でもない”と知ることが次のステップになる。そして最終的に“自分は肉体でも思考でも、感情ですらない”と知ることが、最後のステップだ。この3つのステップで旅路は終わる。なぜなら、4つ目のステップで、人は自分の存在を見つけるからだ。」はははははっ!全ては内なる自分が体験したいことをするために、自我に選ばせているんです。肉体や自我は、この現象世界を生きるために、内なる生命によって作られた道具なのです。中村天風先生曰く、「身(肉体)といい、心と称するものは、真我の命が現象世界に生きゆくための 一切方便を行わんがための命の要具なり。」がはははは…っ!どんな人もこういう体験をしているのです。「あの時に、こっちを選んだお陰で、今の自分があるんだよなぁ~!」あるでしょ?その時は「最悪な選択をした」と感じていたことが、後になって、「あの選択はベストだった」と感じる体験。それこそ、自我ではなく、もう一人の自分が選択した証拠です。だって、自分(自我)では最悪だと思っていたのに違ったのですから!OSHO曰く、「何が起こっても、それでいい。 内なる存在が道を誤ることはあり得ない。 内なる存在が私(自我)の望みを実現しないとしても、 それはただ、私(自我)の望みが間違っていたことを意味するだけだ。」はははははっ!でも、どちらを選んだ方が良いのか迷うのは、苦しいですよね。何かを選ぶ時に、「基準」みたいなものが欲しいですよね。そうすれば、苦しむことなく決められますから。そこで、選択に迷った時の基準みたいなものを紹介したいと思います。どちらにしたら良いか迷った時の参考にして下さい。がはははは…っ!どちらを選んだらいいのか、迷った時は、こうして下さい。「ハート(胸の中央)の感覚を感じてみる」どうして迷うのかというと、「頭」で考えているからです。頭で考えて決定出来ないから悩んでいるのです。ですから、「頭」で考えるのではなく、「感覚」に従うのです。もし、「こっちにしよう!」と決めた時、ハートがキュッと収縮した感覚があるなら、それは止めた方がいいでしょう!内なる自分が嫌がっている感覚だからです。もし、ハートが広がる感覚がしたなら、そっちを選んだらいいでしょう!それは、内なる自分が喜んでいる感覚だからです。OSHO曰く、「選択に迫られたときは、決してハートを差しおいてマインド(頭)を選択してはならない。ハートとは、存在(内なる生命)とあなたとの関係性だ。マインドとは、社会とあなたとの関係性だ。ハートが悲しければ、あなたは間違っている。喜びに溢れているなら、あなたは正しい。」ははははははっ!こう言うと、「でも、結局、最後は内なる自分が選びたい方を選択するんですよね?」と、言う人がいます。そうなんです。が、頭で考えていると、決定するまでに、迷い苦しみます。苦しんだ挙句、選ぶのです。また、頭で選ぶと、自分(自我)が選んだと思い込みます。だから、少しでも、自分の期待とは異なった結果が起こると、「しまった!あっちを選んでおけばよかった!」と自分を責め、後悔します。ところが、ハートの感覚で決めると、たとえ良い結果が起こらなくても、「内なる自分が選んだことだ!必ず、最後は自分の為になる結果が起こるにちがいない。今は、それまでのプロセスにすぎないのだ」と安心します。だから、起きてくることに身を委ね、「今、自分が出来ることを誠心誠意する」ことに意識が向かうのです。「頭」で選んで良い結果が起こらなかったら、意識は「過去」か「未来」に向かい、「今」に生きることはできません。なぜなら、「やっぱりあっちを選べば良かった」(過去)、「これからどうしたらいいのだろう?」(未来)、という考えに捕らわれるからです。ハートの感覚に従うというのは、あくまでも、「今に生きる」ための、ひとつの方法なのです。最後に、聖者・ラメッシの言葉です。「自由が起こるのは、“私は自分自身の意志によって自分の人生を生きている”という 愚かな観念と傲慢が落ちるときです。」今日の話はこれで終わりです。
2016年03月29日
みなさん、こんにちは!どんな人もプライドを持っています。そのこと自体は別に問題ありません。ただ、誰かにそのプライドを傷つけられると、怒りが湧いてきます。なぜかというと、自分が「大したことがない人間」だと感じさせられたからです。つまり、自分が小さくなったような気がするわけです。エゴには、拡大したいという根本的欲求があります。だから、自分を小さくさせた相手に怒りを感じるのです。つまり、自分が小さい人間だと感じるのが恐いのです。あるいは、他者から自分が小さい人間だと思われるのが恐いのです。これは、みんなそうなんです。なぜなら、これは自我(エゴ)の特性だからです。自我というものは、「大した人間」になりたがっているんです。どんな人も自我を思っています。ということは、どんな人も「大した人間だと思われたい」のです。だから、「別に大した人間と思われなくても私は今のまでいい」と思っている人の方こそ特別な人間なのです。だって、みんなが大した人間と思われたいのに、一人だけ「今のままでいい」と思っているのですから!OSHO曰く、「平凡な生を生きようとする人は特別だ。特別でありたい、並外れた存在になりたいというのは全くもって平凡なものだからだ。くつろいで、平凡でいようとするのは、本当に特別なことだ。」あははははは…っ!「大した人間になりたい」ということは、逆から言うと、他者から「大したことない」と思われたくないのです。そこで、自我は、自分を大した人間に見せるために様々な努力を始めるんです。人から賞賛されたいがために、お金持ちになろうとしたり、芸能人になろうとしたり、肩書きを得ようとしたり…。がははははは…っ!つまり、他者から認められることによって、自分が大きく感じたいわけです。「どうだ、俺はこんなに凄いんだぞ!」と実感したんです。だから、自分の優越性をアピールしようとするんです。しかし、奥底では、本当は自分が大したことないことを知っているんです。もし本当に、自分は大した人間だと実感しているなら、どうしていちいち自分の優越性を他者にアピールしようとするのですか?奥底では、自分は大したことがないことを知っているからアピールするのです。だから、誰かから「お前なんか大したことない」というような態度をとられると腹が立つんです。経験ありません?私はあります!(素直)あははははは…っ!イエス・キリストは、自分の優越性をアピールしようとはしませんでした。なぜなら、劣等感がないからです。イエスは、十字架に磔にされた時に、こう言われました。「もし、本当にお前が本物のメシア(救世主)なら、神通力で十字架から降りてみろ!」しかし、イエスは何もしませんでした。他者に自分の神通力を見せて、驚かす必要がイエスにはなかったのです。だって、イエスは達成した(悟りを得た)のですから!わははは…っ!人々に、自分の優越性を証明しようとするのは、自分の劣等性を隠すためなのです。自我は、自分を偉く見せようとする習性があります。よく、悟ったような振りをして真理を説いている人がいます。「私がこの真理を発見した」「私は真理を体得して○○理論を創始した」こういう人いますよね?こういう悟った振りをしている人の特徴は、どんな質問にも答えようとすることです。「何のために人は生きているのか?」「人生は決まっているのか? それとも変えられるのか?」「この世は誰が何のために創ったのか?」こういう質問にも、理論で答えてくれます。しかし、心理学、哲学、宗教、精神世界などのあらゆる学問は、必ず、究極の問いに直面します。究極の問いとは、絶対に答えることが出来ない問いです。例えば、イエスは、「真理とは何か?」と尋ねられた時、何も答えませんでした。それは、イエスがその答えを知らなかったからではなく、言葉では答えられないことを知っていたから答えなかったのです。ブッダは、「この世は神が創造したのですか?それなら、神は誰が創造したのでよう?」「生命とは何でしょう?」という問いには、沈黙をしました。それに対する回答などないことを知っていたからです。合気道の開祖・植芝盛平先生も、弟子に「気とは何ですか?」と尋ねられても何も答えませんでした。開祖の道歌に、こういうのがあります。「合気とは 筆や口にはつくされず 言ぶれせずに悟り行へ」つまり、「頭で理解しようとせず、ただ、稽古して体験しろ!」ということでしょう!しかし、悟った振りをしている人は、どんな問いにも答えようとします。答えないと、人々の信頼を失うかもしれないからです。だから、どんな質問にも必ず答えてくれます(笑)もし、本当に達成している人なら、こう言うはずです。「私には分からない」はっ?と、思いませんでした?ははははははっ!この「私には分からない」という言葉は、自我の強い人は言えないんです。なぜなら、「私には分からない」と言うと、自分が軽く見られてしまうからです。また、“私には分からない”と言おうものなら、信頼を失くしてしまうかもしれないからです。だから、他人から自分が知らないことを尋ねられても、素直に「わからない」とは、言わないんです。「今忙しいから後でね!」という曖昧な返事でごまかすんです。地位の高い人ほどそういう傾向があるんです。なぜなら、自分の地位を汚したくないからです。だから、地位が高い人は、「私には分からない」と言えないんです。自分の信用が失墜するかもしれないという恐れがあるからです。信用を失うとは、「他者から、大したことがないと思われる」ことです。「自分を大した人間に見せたい」という自我があるかぎり、「私には分からない」という言葉はいえないんです。OSHO曰く、「“私は知らない”と言うためには、この世における最大の勇気が必要とされる」わはははは…っ!あなたは、「私は知らない」と言えますか?学校の先生が生徒に知らないことを尋ねられた時、「私には分からない」と言える先生は少ないんです。「あの先生、大したことがない」と思われるのが恐いからです。しかし、事実は全く逆で、分からない時は「分からない」と言った方が信用を得るのです。というのも、「分からない時は分からない」と言う人は、逆を言えば、分かる時は分からないとは言わないで答えるのですから、曖昧な返事をすることがないからです。反対に、分からないのに分かっている振りをして、曖昧な返事をしていると、やがてそれが露見して信用を失う場合が多いのです。「信用を得ようとする者は信用を失い、信用を捨てる者は信用を得る」なんて皮肉なんでしょう!わはははは…っ!「私には分からない」という言葉は、大したことのない者が言うセリフだと思っている人が多いんですが、本当は、立派な人が言うセリフなんです。ギリシャの哲人・ソクラテスが良い例です。ソクラテスは、人々から「賢者」と言われていました。「ソクラテスには知らないことなどない」と人々は思っていました。ある日、弟子がソクラテスに尋ねました。その弟子は、ソクラテスの「知」をひどく尊敬していました。「人間は死んだらどうなるのですか? 魂は死なないで生きているのでしょうか? それとも、魂も一緒に死ぬのでしょうか?」すると、ソクラテスは躊躇せずに言いました。「私には分からない」がはははははは…っ!しかし、ソクラテスは信用を失っていません。むしろ、「ソクラテスは素直で誠実な人だ」と、ますます信用されたのです。ソクラテスは、「私は自分が無知だということを知っている。が、他の学者は、自分が無知であることを認めようとせず、自分は何でも知っているように振舞っている」と語っていました。だから、他の学者は分からない時も「分からない」とは言わずに、適当にごまかしていたので、結局、分からないときは「分からない」と言ってくれるソクラテスのところに人々は集まってきたのです。わはははははは…っ!分からない時は「分からない」と言う。こんな単純なことが、自己変容の助けになるのです。というのも、「私は分からない」と素直に言う時、自我がないからです。分からない時は「分からない」と言えば自我が沈静化して、人格向上につながるのです。シンプルでしょ!しかし、本当は、シンプルなことの中に深遠な真理が隠されているのです。OSHO曰く、「真の意味で、信頼できる人とは、“私には分からない”と言う人のことだ。“分からない”と言うとき、あなたは開いており、学ぶ用意ができている。“分からない”と言うとき、あなたは“ああだこうだ”という偏見を一切持たない。」がはははははは…っ!仕事や家庭で、分からないことを尋ねられたら、「私には分からない」と言ってみてください。楽になりますから!自分に正直なときは、苦しくならないのです。自分に不正直なとき、苦しむのです。先も言いましたが、「私は分からない」と言える人は、立派な人だけです。ほとんどの人が「大した人間になりたい」と思っています。つまり、「大した人間」に見せようとすることは、ごくごく平凡なことです。そんなことは皆やっています。しかし、「私には分からない」と、自分を低く見せようとすることは、立派な人にしか出来ないことです。だから、イエス・キリストは、こう言ったのです。「自分を高くする者は低い者であり、自分を低くする者は高い者である」ソクラテスのように、「私には分からない」と言える人こそ、大した人なのです。先も言いましたが、どんな人も「大した人間」になりたがっています。大した人間になりたかったら、大した人間になろうとしないことです。なんて皮肉なことなんでしょう!ホント、この世界はパラドックス(逆説)ですね!がはははは…っ!もう1度、言います。「私には分からない」という言葉は、あなたの信用を失墜させるのではなく、あなたの信頼を得る行為なのです。分からないときは「分からない」と言ってみてください。自分が恐れていたような結果にはなりませんから!今日の話はこれで終わりです。
2015年11月06日
我々は、親や学校から「悪口を言ってはいけません」、「愚痴を言ってはいけません」と教えられてきました。全国の学校で今も教えられていることです。しかし、みんなが教えられてきたにもかかわらず、悪口を言っている人は後を絶たないんです。なぜだと思います?「悪口を言ってはいけません!」と教えた親や教師が、悪口を言っているんですから、子供も言いますよ!と、答える人がいるんですけど、私の答えはちょっと違うんです!悪口を言いたくなる本当の原因は、「ストレス」です。「ストレス」を感じたとき、感情というエネルギーが内側から発生します。発生したエネルギーは、「エネルギー不変の法則」に基づき、外へ出さない限り、永久に心の中に残るんです。心の中に、その感情エネルギーがあると、不快を感じるんです。そこで、感情エネルギーを外へ吐き出すために、無意識に悪口を言ってしまうんです。エネルギーを消す最善の方法は、「言葉」や「文字」にすることなんです。「言葉」や「文字」にすることによって、エネルギーが現象化し、消えていくんです。ですから、居酒屋で、上司や会社の悪口を言うと、スッキリするんです。でも、その後で、自己嫌悪になっている人がほとんどですけど。この世の中から、ストレスがなくならない限り、「悪口」や「愚痴」はなくならないんです。いくら、幼いころから、「悪口を言ってはいけません!」と教えられても、ストレスを感じたら、内側から発生した感情エネルギーを自動的に外へ出すようにできているんです。それは、生命の防衛反応なんです。エネルギーを溜め込んでしまうと、生命に危険が生じるからなんです。ですから、悪口を言わない人なんかいないのです。「でも、悪口や愚痴を聞かされるのは嫌です!」という人がいるんですけど、それは自分の問題です。悪口や愚痴を聞かされて不快に感じる理由は、2つあります。1つは、「~してはいけない」と教わったことを相手がしているからです。「~してはいけない」ことをする人を見ると腹が立つんです。ですから、居酒屋で上司や会社の悪口を言うとスッキリしたはずなのに、後で、「してはいけない」ことをした自分を責めて自己嫌悪に陥る人が多いんです。2つめは、「私も悪口や愚痴を言わないように我慢しているのだから、あなたも我慢しなさい」と相手をとがめているからです。この世の中から、「悪口」や「愚痴」をなくすことはできませんが、「悪口」や「愚痴」を言われても自分が平気になることはできるんです!では、どうすればいいのか?【 悪口を言われても平気になる秘術 】実は、「悪口」や「愚痴」なんて存在しないのです!事実は、こうです。「自分の思いを言葉にして、しゃべっているだけ」それなのに、我々は、誰かについての自分の思い(意見・感想)を言葉で吐き出したら、「悪口」と勝手に解釈しているんです。会社や自分の所属している組織についての自分の思い(意見・感想)を吐き出したら、「愚痴」・「不平不満」・「文句」と勝手に解釈しているんです。自分の不安を言葉で吐き出したら、「弱音」・「泣き言」と勝手に解釈しているんです。「悪口・愚痴・不平不満・文句・泣き言」は、単なる解釈なんです。事実ではないんです。事実は、どれも「自分の思いを人に伝えているだけ」なんです。津留晃一さんは言いました。「我々は、事実に悩んでいるのではなく、自分の解釈に苦しんでい るのです」このことを知っていると、人から悪口や愚痴を言っているのを聞かされても、「自分がストレスに感じていることを私にしゃべっているだけ」と見れるようになります。また、自分が悪口を言っても、「自分の思いを言っただけ」とうことがわかっているので、自己嫌悪に陥ることはないんです!勘違いしないでほしいんですけど、故意に人を傷つける言葉は別ですよ!あれは、自分の意見を言っているのではありません! あれは、言葉の「暴力」ですから!言葉の暴力は、無意識に言葉を吐き出したのではなく、最初に「あいつをいじめてやる!」という意図がありますから…。ここで言っている話は、「悪口を言わないようにしよう」と心がけているのに、つい言ってしまった時の話ですからね。勘違いしないでくださいよ!この前、私に「子供のこと」で相談にきた母親が、2時間、子供について俗に言う「悪口や愚痴」をしゃべっていました。そのとき、私はその母親が、「自分がストレスに感じていることを私にしゃべっているだけ」と知っていたので、2時間聞いても平気でした。最後は、「ああ、スッキリしました。ありがとうございます」と行って、帰っていきました。その間、私は何もしゃべっていません(笑)これからは、努力の方向を、「悪口を言わない、悪口を言わせない」ようにするのではなく、「悪口を言われても反応しない自分になる」ようにした方が楽に生きていけるようになると思います。今まで「悪口を言わない」と何度、心に誓っても無理だったはずです。それは、「出来そうで出来ない努力」なんです。それが、出来るようになるには、どんなことが起きてもストレスを感じない人になったときです。でも、そんな人います?これからは、「悪口」と解釈せず、「自分の思いを言っているだけ」というありのままの姿を見れるように努力してみてください。楽になりますから!これは、日常会話で訓練するんです。会話をよく聞いてみると、確かに、自分の意見を報告しているだけだと実感できますよ!ありがとう仙人初期講話は電子書籍でしか読めません↓お金がなくても幸せになれる秘術お金がなくても幸せになれる秘術2マイナス思考も、見方を変えれば、プラス思考になるのですニュートラル思考のすすめ どちらでもいいのです笑うもよし、泣くもよし!ニュートラル思考のすすめ これでいいのです
2015年10月10日
【 質問 】上司が私のことを正当に評価してくれません。上司に認めてもらおうと必死にがんばっているのですが、上司は私の功績を認めようとしません。私はこのような上司のもとで働くべきではないのでは?と悩んでいます。【 ありがとう仙人の回答 】貴方は、過去に人に評価されて喜びを感じたことがありますね。貴方が、なぜ、上司に評価してもらいたのかというと過去の栄光体験が原因なのです。貴方はこれまで、努力してある程度の結果を出し、他人から褒めてもらうことによって喜びを感じてきました。そして、自分が人から評価されて喜びを感じたいがために結果を出すことに努力をしているのです。しかし、これでは自分の喜びは他人が握っているということになります。それでは、面白くありませんよね。喜びというのは、他人がもたらすのではありません。自分の考え方によっていくらでも感じることが出来るのです。今、貴方を苦しめているのは、上司の態度ではなく、貴方の考え方なのです。結果を出して人に評価されればされるほど、反作用として、評価されなかったらどうしようという不安も大きくなりました。その不安がさらに発展して、自分を評価してくれる上司は良い人で、自分を評価してくれない上司は悪い人という解釈をするようになったのです。自分を評価してくれない上司がいる会社で働いても喜びを感じないので、「私はこの会社にいるべきではない」と思うようになってしまったのです。 しかし、私は貴方に言います。「上司が貴方を評価しないのは、貴方に原因がある」と…。「貴方こそが貴方の人生の創造主」なのです。自分の意思に反する出来事は絶対に起こりません。どうして、こういう質問が出るかというと、自分を評価しない上司は加害者で、評価されていない自分が被害者だという誤解からです。すなわち、自分が自分の人生を創造しているわけではない、という無責任な思い込みが貴方にはあるのです。「この世界は自分の心の反映」という宇宙の法則は、全ての聖者らが説いてきたことです。本当にその通りなのです。かつて地上に現れた聖者らは嘘を言っていません。貴方は貴方の心を体験しているだけなのです。上司が貴方を評価しないのは、貴方が自分を認めていないからです。自分を否定している面が反映されているだけです。貴方は、上司の評価が欲しくなるほど自分を評価していないのです。もし、貴方が自分の全てを否定せず認めることが出来たなら、貴方は周囲の人から認められます。「この世界は自分の心の反映」なのですから…。貴方もすでに体験しているはずです。人によって接する態度がちがうでしょ。ある人には、優しい態度で接していながら、別の人には、冷たい態度で接していますよね。これを貴方の立場から説明すると、何となくそういう態度をしてしまったということになります。しかし、相手の立場から説明すると、相手の心の反映として貴方がそういう態度をとっているということです。「この件だけは絶対に俺が正しい」と相手が主張してきたとき、貴方はどういう態度をとってきましたか。「わかった。でもこっちの件は俺が正しいぞ」というような態度をとっていたはずです。自分がこれだけは絶対正しいと言えば、自分の心の映像である相手もこれだけは俺が絶対正しいと主張してくるのです。自分の心を映像として見ているのです。だから、貴方のすることは、上司から認めてもらおうとすることではなくて、貴方が自分のあらゆる面を認めること、そして、自分を評価しない上司を認めることなのです。上司は貴方の心の映像ですから、上司を否定することは自分を否定していることなのです。自分のどの面を否定しているのか、探し出してください。そして、自分の短所を欠点として扱うのはやめましょう。短所を無くすと長所も無くなります。なぜなら、長所と短所とは表裏一体だからです。例えば、「優柔不断」が自分の短所だとします。しかし、優柔不断なお陰で慎重な行動がとれるのです。「慎重さ」によって、随分救われているはずです。もし、「優柔不断」を克服して「決断力の早さ」を身につけたら、「慎重な行動」も消滅します。優柔不断な人からは、決断が早い人が素晴らしく見えますが、決断が早い人から観れば、慎重な人が素晴らしく見えるのです。決断が早い人は、裏返せば「せっかち」ともいえます。それゆえ随分失敗もしているのです。つまり、「慎重さ=優柔不断、決断の早さ=せっかち」なのです。長所と短所は一体なのです。だから、自分の短所を欠点とみなすのはナンセンスなのです。自分の短所のデメリットにだけ意識を向けるのは偏った見方です。自分の短所のメリット面に意識を振り替えれば、短所は一変して長所になるのです。自分のあらゆる面を認めることに努めてください。さらに深く考えてみたいと思います。上司に自分を認めてもらおうとしているのは何故ですか。それは、自分に自信がないからです。すなわち、自分を否定している面があるからです。自分を否定しているから、「貴方はよくやっている」という他人からの承認を求めるのです。これまで貴方は、他人から承認してもらうことによって、自分を認めてきたのです。しかし、その結果として今苦しんでいるわけです。だとしたら、今度は反対のことをしてみませんか。他人からの承認を得ようとするのではなく、自分の承認を得ることに努めてみてはいかがですか。一〇〇%自分を認めている人は、人から認めてもらいたいという思いは絶対に湧いてきません。今の思いを持ったまま会社を辞めても、また似たような上司が貴方の前に現れてきます。この世界は自分の心が投影されたものだからです。そして、「私はこのままでいい」という思いを受け入れてください。本当は、貴方の欲しているものは、上司から評価してもらうことではありません。貴方が真に欲しているのは、喜びという感情です。貴方だけではありません。全ての人が欲しているのは、喜びという感情なのです。名誉や地位、権力を得ようとしている人も、それを得ることによって喜びを感じたいのです。お金を欲しがるのは、お金を得ることによって喜びを感じたいからです。彼氏や彼女を欲しがるのも、喜びを得たいからです。喜びというのは、外側から与えられるものではなく、自分の内側から引き出しているのです。そのことに気づかない限り、貴方の喜びは他人に支配されてしまします。喜びは感じるものです。感じるものなら、今すぐに感じることが出来るはずです。二分間呼吸を止めてください。どうです?呼吸が出来ることに喜びを感じませんでしたか。目を閉じて、過去の嬉しい体験を思い出してみてください。どうです?喜びを感じませんでしたか。仕事を辞めてみてください。このご時世ですから、再就職するのに時間がかかります。すると、働けること自体が喜びだったと実感するでしょう。このように、環境とは関係なく喜びを感じることは出来るのです。どんな環境からも自分の思いで、苦しみを体験出来ると同時に喜びも体験出来ることを知ってください。今の貴方の全てを認めて楽しんでください。そんな貴方を大宇宙は評価しています。 ~小冊子『ニュートラル思考のすすめ どちらでもいいのです』(ありがとう仙人著)より~ ※在庫あとわずかです!http://plaza.rakuten.co.jp/newtral343/3002/
2015年09月13日
みなさん、こんにちは! 先日の「真理瞑想」は、感動的でした。 参加できなかった人のために、真理瞑想の話の一部を掲載したいと思います。というわけで、今日は、真理瞑想行を文字で再現してみます。 (途中のブザーや鐘の音は再現できませんが…)----------------------------------------------------------------------安定打坐…。さぁ、真理の瞑想に入ろう! 人は一人では生きていけない。どんな人も、必ず、誰かとの縁の中で生きている。 縁とは、「出会い」のことである。 出会いのない人生なんてありえない。しかし、この「出会い」というのは、自分の意思とは無関係に起こるものだと思っている人が多いようである。つまり、出会いは偶然に起きるものだと思っているのである。しかし、人生に偶然はないのである。 中村天風先生は言っている。「縁というのは、偶然のような形で起こる。しかし、それは必然の出来事なのである」つまり、「自分の意思に反したことは起こらない」のである。こう言うと、「いや、俺の意思に反したことばかり起きてるよ」という声が聞こえて来そうである。(笑)しかし、それでも断言する。 「自分の意思に反したことは起こらない」のである。 実は、自分の意思には、大きく別けると2つある。1つは、自我の意思である。そして、自我とは別に、もうひとつ、自分の意思がある。それは、魂(生命)の意思である。しかし、表面意識に意思が上がって来た時点では、これが自我の意思なのか魂の意思なのか識別出来ない。… 略 …さて、出会いについてだが…。 実は、出会いを起こすのは、この想念というエネルギーなのである。 先も言った通り、人は休むことなく、想念エネルギーを放出している。(放出している想念エネルギーは、言葉にしたり、行動することで、さらに パワーが強大になる。)人から放出されるエネルギーは、波形を伴って宇宙に放射される。 放出された人のエネルギーは、市町村を越え、県境を越え、国境を越えて宇宙をさまよう。 宇宙、特に地球は、人が放出したエネルギーで充満しているのである。そして、自分が放出したエネルギーが、どこかの地点で他の人が放出したエネルギーと出会う。このエネルギー同士の出会いを「縁」と言う。そして、出会ったエネルギーが同質のエネルギーだった場合、エネルギー同士が結び合う。このエネルギー同士の結び合いを「縁結び」と言う。そして、エネルギー同士が結び合うと、ひとつのエネルギーになる。すると、エネルギーを放射した人同士が一本の糸のように繋がる。これが結婚する男女なら、「赤い糸」と言われる。というのも、エネルギーには、色があるからである。エネルギーの色とは大きく分けると7色ある。つまり、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫色である。 結婚する関係のエネルギー結合は、赤く輝く。だから、「赤い糸」と呼ばれているのである。エネルギーが一本の糸のように繋がると、引力が働く。 別の言い方をすると、「引き寄せの法則」が作用し始めるのである。すると、遠く離れた所にいる者同士の距離が段々、縮まって来る。あなたの知覚出来ないエネルギーの糸の働き、すなわち、引力によって、お互いが近づいて来る。 1日、1日と見えないエネルギーの糸の働きで、お互いの距離が近づいてくる。そして、ある日、現実として知らない者同士がバッタリ出会うのである。これが「縁(出会い)」の仕組みである。つまり、自分が放出するエネルギーの波形、色、速度、周波数によって、エネルギーの結合が起こり、出会う人が引き寄せられるのである。また、人と人との出会いだけではなく、ペットや本との出会いも、自分が放出するエネルギーによって、同様に起こるのである。なぜなら、人間だけでなく、動物や植物、鉱物など、全ての物がエネルギーを放出しているからである。だから、あなたが手にしている本も偶然ではないのである。 昔から、「準備が出来た時、師(導師)が現れる」と言われているのは、そのためなのである。あなたの心が熟した時、あなたの放射したエネルギー作用によって、 師と出会うのである。しかし、師と出会うと言っても、直接出会うとは限らない。 本で間接的に出会うことも師との出会いである。 幕末の志士・吉田松蔭は言っている。「良師良友は歴史(本)の中からも得られる」 出会いとは、同質のエネルギー同士の結合を言うのである。 同質のエネルギー同士とは、同じ色、速度、周波数、波形をしたエネルギーと正反対の色、速度、周波数、波形をしたエネルギーのことである。エネルギーは、同じような波形同士と結び合い、また、正反対の波形とも結び合う。 同じ波形が結び合うのは分かると思う。が、正反対の波形とも結び合うのは、どうしてなのだろうか? 実は、正反対の波形というのは、エネルギー的に見れば同じなのである。つまり、エネルギー的には同質なのである。 例えば、慈悲。慈悲の波形をしたエネルギーを絶えず放射している人は、どこかの地点で別の人が放射した慈悲の波形をしたエネルギーと出会い、結ばれる。そして、いずれ現実に出会う。また、別の人が放射した怒りの波形をしたエネルギーとも出会い、結び合う。そして、いずれ現実に、すぐに怒る人とバッタリと出会うのである。なぜなら、慈悲と怒りは同質のエネルギーだからである。 慈悲と怒りは、エネルギー的には一体であり、表と裏の関係なのである。だから、ブッダやイエス・キリストのような愛の人も、ヒステリックな人と出会うのである。しかし、愛の人がヒステリックな人と出会うからと言っても、波形が正反対であるから、交友関係になるとは限らないのである。 「類は友を呼ぶ」と言われているように、やはり、交友関係になるのは、 基本的には同じ波形の人なのである。しかし、正反対のエネルギーは同質であるため、エネルギーが反転して同じ波形になることはある。つまり、「今日の敵は明日の味方、今日の味方は明日の敵」ということである。 自分が放射するエネルギー作用によって、お互いが出会うとしたら、 自分の交友相手を見れば、今の自分の進化状態が分かるとも言える。インドのマスター(導師)・パラマハンサ・ヨガナンダは言っている。「何よりも大切なことは、交友を選ぶことである。どんな友達と付き合っているかを聞けば、その人がどんな人間かわかるのである。率直に真実を語り、自己改善を助けてくれるような優れた人たちと付き合うべきである。自分の生き方や欠点をどう改めれば幸せになれるか謙虚に忠告をしてくれるような友達こそ、最良の友なのである。」また、自分が放出するエネルギーの波形、色、速度、周波数が変化すれば、エネルギーの質が変わった為、今まで付き合って来た友人とも気が合わなくなり、やがて離れていくのである。これが「別れ」の仕組みである。 別れとは、単なるエネルギーの変化による現象にすぎない。「気が合う」とは、エネルギーの質が合うということであり、「気が合わない」とはエネルギーの質が合わないということなのである。すなわち、別れとは、単なるエネルギー現象なのである。それなのに、友人や恋人と別れると、何か犯罪を犯したように感じて、自分を責める人が多い。なぜなら、「継続は力なり」という言葉に代表されるように、何でも長く続いた方が良いと思い込んでいるからだ。しかし、長く続いた方が良いというのは偏った考えであり、極端な考えである。 関係は、長く続いてもいいし、短く終わってもいいのである。なぜなら、別れとは、単なるエネルギーの変化にすぎないからである。エネルギーの変化に、良いも悪いもないのである。この世界は変化の世界である。だから、自分が放出するエネルギーも、当然変化するのである。つまり、「出会い」も「別れ」も単なるエネルギー現象であり、進化のプロセスなのである。だから、自分の努力によって、最良の友を引き寄せることが出来るのである。ある日、弟子のアーナンダがブッダに尋ねた。「交友相手を選ぶことは、自己実現を成就するためには、大切なことだと思います。 ブッダさまは、どう思われますか?」「アーナンダよ、交友相手を選ぶことは、自己実現を成就するために大切なことではない。 交友相手を選ぶことは、自己実現を成就させたことになるのだ。」また、中村天風先生も言っている。「進化向上に意欲的な集団の中に、積極的に飛び込みなさい。そうすれば、進化向上がたやすくなる。」 交友相手を選ぶことは、自己実現には必要なことなのである。パラマハンサ・ヨガナンダは言っている。「真の幸福を得るには、瞑想することと、偉大な人たちの本を読んで、その思想を学ぶこと、 高尚で親切な人たちの中で暮らすことが何よりも大切である。」 心の訓練していると、環境の影響を受けないようになってくる。しかし、それは心が十分に強くなってはじめてそれが可能なのであって、そうなるまでは環境の影響を受けてしまうものである。だから、環境の影響を受ける性質を逆に利用して、交友相手を選べばいいのである。 病弱な人は、強健な人たちの中で暮らせば、その影響を受けて丈夫になる。 自分勝手な人は、奉仕に生きている人の中で暮らせば、その影響を受けて思いやりの心が養われる。 親切で、愉快な人と交流するだけで、大きく変わる。そういう人がいないときは、偉大な人たちの本を読んで、その思考から学べばいいのである。どんな人と付き合うか? これほど重要なことはないのである。… 略 …最良の友とめぐり合うことが自己変容の近道である。 最良の友とめぐり合うには、自分にその準備を整える必要がある。その準備とは、「浄化」と「瞑想」である。 浄化と瞑想に励むことによって、心が洗われる。すると、それに最もふさわしい人が引き寄せられてくるのである。なぜなら、出会いは自分の放出するエネルギーが関連しているからである。… 略 …----------------------------------------------------------------------以上、真理瞑想でした!
2015年07月15日
みなさん、こんにちは!「望郷の念」という言葉があります。 すなわち、故郷に思いはせる思いのことです。 例えば、九州で生まれ育った人が上京したとします。 体は東京にいながらも、心は機会あるごとに、故郷のことを考えます。時には、望郷の念に耐えかねて、故郷へ帰る人もいます。つまり、ホームシックです。「カイロでホームシックになり、日本にカイローとする友人」(だじゃれです 笑)わはははは…っ! なぜ、故郷が恋しくなるのだと思います? 「望郷の念」が湧くのは、単に、故郷が懐かしいからではないんです。 もっと深遠な意味があるのです。 なぜ、故郷に思いをはせるかと言うと、生まれ育った場所、家というのは、実は、生まれる前に自分が決めた環境だからなのです。よ~く考えてください。我々は、自我の意思とは全く関係なく生まれてきますよね?物心ついた時には、私は男で、日本に生まれていました。また、死ぬ時も、自我の意思とは関係なく死んでしまいます。「もっと、生きたい」と自我が望んでも、無情にも死んでしまいます。すなわち、自我とは関係なく、人生は始まっているのです。とすると、生まれる時と死ぬ時だけでなく、生まれてから死ぬまでの間の人生も、自我とは関係がないのではないでしょうか?自我というのは「私は~した(する)」という感覚のことです。しかし、私が生きているという感覚は幻で、本当はもう1つの内なる存在に生かされているだけなのです。だから、生まれる時や死ぬ時が自我の意思の通りにならないのです。あるインドのマスターは、こう言っています。「私というものは存在しないもし、行為者がいるとすれば内なる存在だけだ。 せいぜい私というエゴは、チェスの駒に過ぎない。 だから、私は喜んで存在が命じるままに生きよう! 存在が私を敗者にしたいのなら、進んで敗者となろう。 存在が私を勝者にしたいのなら、進んで勝者となろう。 勝者も敗者も私のもではなく、存在のものだ。」がはははは…っ! 我々は生まれる前に、場所、家などを自分で決めて来ます。その自分とは、自我ではなく、「霊」なる自分のとこです。肉体をもつ前に、あなたはすでに存在していたのです。そう考えると、イエス・キリストが、「私はアブラハム(イエスより2000年前の人)よりも前に存在していた」と言ったのも納得できます。そでしょ?「イエス!」がはははは…っ! 偶然、自分の故郷に生まれたのではないのです。 神様に強制されて、今の故郷に生まれさせられたわけではないのです。 全て自分で決めて生まれたのです。つまり、今の故郷は、自分が選んだ場所です。自分にとって、ベストな場所だからこそ、今の故郷を選んだのです。 そして、今、故郷へ離れている方は、自分にとってベストな場所だからこそ、故郷を離れて今の場所にいるのです。(故郷を離れていない人は、今も故郷が自分にベストな場所なのです) だから、今の自分の場所、仕事、環境を嘆くのはナンセスです。 もし、今の環境から体験すべきことは全て体験し尽くしたら、必ず、次の環境へと移ります。 なぜなら、「もし、行為者がいるとすれば内なる存在だけ」だからです。 だから、ブッダは、「どんな人も、今の環境は自分に最善の環境なのである」と言ったのです。 今の環境で、今できることをしてください。 もし、今の環境から逃れたいのなら、尚更、今できることをしてください。 次の環境へ移る時期が来たら、自分の周囲の状況が変化しますから! ただし、全ては自分が決めた環境だということだけは忘れないでください。 全ては自分が決めているので、どこにいようと、必ず、ベストな体験をするはずです。 その体験が良いにしろ悪いにしろ…。わはははは…っ! たとえ、どんな場所にいても、故郷を忘れない。 それが「望郷の念」なのです。しかし、心的な「望郷の念」とは別に、もう1つ霊的な「望郷の念」があります。 霊的な望郷の念とは何だと思います? それは、生まれる前に自分がいた場所に思いをはせることです。 生まれる前に自分がいた場所? それこそ、本当の自分の居場所です。 それは、宇宙エネルギーの世界であり、愛の世界であり、生命の世界であり、神の世界です。信じる信じないにせよ、ほとんどの人が、「あの世」に興味があるのは、そのためなのです。あのよぉ~!(笑)がはははは…っ!「あの世」を信じる人は、死にたくないという願望が強い人です。死にたくないから、「あの世」を信じたいのです。一方、「あの世」を信じない人は、二度と生まれたくないという願望が強い人です。「こんな苦しい人生は、もう嫌だ」と思っている人は、「あの世」を信じたくありません。なぜなら、「あの世」が存在するなら、再び、この世界に生まれて来ることになるからです。しかし、「あの世」を信じる人も信じない人も、共に「あの世」に関心があることには変わりありません。「あの世」に関心があるのは、自分の本当の故郷だからです。 そして、悟りを開きたいという願望が起こるのは、自分が生まれる前の世界と魂が合一したがっているからです。 悟りは、人類だけが体験できる究極の体験です。 究極の体験をした人々、つまり、ブッダやイエス・キリストなどのマスターらは、まだ究極の体験をしていない人のために、悟りを開くための技法を伝授することが彼らの地上での最後の仕事なのです。坐禅、瞑想、マントラ、お祈りなどがそれです。「お祈りするのは、甥のリー」(笑)わははは…っ! OSHOはダイナミック瞑想やクンダリーニ瞑想、ナーダブラーマ瞑想、ノーマインド瞑想など多くの技法を伝授しました。 中村天風先生は「心身統一法」を、植芝盛平先生は「合気道」という技法を創始して、人々を究極の体験(悟り)へと導きました。 どんな人も、最後は悟りを得たいという願望が必ずやってきます。 それがいつかは、その人の成長段階によって決まりますが…。 今世でそうなるか来世になるかは、その人次第です。 エゴは、坐禅や瞑想をしている時間が無駄に感じます。 なにしろ、何もしないで坐っているのですから!しかし、ブッダは言っています。「坐っている時間ほど、人生で貴重な時間はない」インドのマスター・OSHOも言っています。「死がやってきた時、あなたは思うだろう。名誉・地位、お金…。 何て無駄なことに時間を費やしてしまったんだ。 瞑想をしていた時間だけが本当に価値ある時間だったと。」こういう話があります。イエス・キリストのところへ、ニコデモという男がやってきて尋ねました。「イエスさま、どうすれば、あなたのような永遠の喜び(悟り)を得られるのでしょう?」すると、イエスは言いました。「永遠の喜びを得るには、再び生まれなくてはなりません。」「はっ? 私はすでに生まれています。死んで生まれ変われということですか?」「そうではない。今までの固い考え方や習慣を捨て、新たに生まれ変わるのです。」OSHO曰く、「あなたには固まった考え方がある。 あなたは公式を持っている。 真の人は、自分自身について何の公式も持ってない。 あなたがあらゆる固定的な観念、イメージ、理論、概念から完全にクリアでない限り、 あなたが何を理解しても、それはけっして理解ではあり得ない。」わはははは…っ!「あと3日であなたの生命は終わりです」と、宣告されたとします。あと3日しか生きられない時、名誉・地位・お金が欲しいですか?「ま~ね~(マネー)!」(笑)わははは…っ!欲しいのは、愛ではありませんか?平安が欲しいのではありませんか?つまり、あなたが本当に欲しいのは、愛であり、平安なのです。そう気づいた時、あなたは残りの人生の時間配分をどうしますか?相変わらずお金儲けに没頭しますか?相変わらず自分を偉くみせようとしますか?自分本位に生きますか?今日の話はこれで終わりです。
2015年05月16日
みなさん、こんにちは!どんな人も、「満たされていない」という思いを持っていると思います。なぜなら、どんな人も自分の思い通りにいかないことが必ずあるからです。「満たされた」と感じるのは、自分の願望が実現した時だけです。しかし、どんなに自分の願望が実現しても、満足は長続きしません。なぜなら、この世で永続するものはないからです。幸せはもちろん、苦しみも永続しません。どんな状態も一次的な現象です。だから、満たされた状態は消え失せ、再び、「満たされていない」という思いがやって来て、あなたをモヤモヤさせます。すでに経験してますよね?人生は、満足と不満の繰り返しなのです。がはははは…っ!実は、この繰り返しは、生まれる前に仕込まれたものなんです。「満たされた」という喜びを体験することによって、再び、その喜びを体験しようと創意工夫するのです。また、「満たされていない」と感じることによって、「このままではいけない。なんとかしよう!」という思いが湧いて来るのです。「このままではいけない」という思いによって、現状に満足せず、創意工夫をするのです。そうやって、人は進化するようになっているのです。つまり、満足と不満のリズムは、進化向上させるための起爆剤なのです。がはははは…っ!よく、「希望を持ちなさい」と言う人がいますが、希望を持つには不満にならなくては不可能なのです。なぜなら、不満があるから「希望」を抱くことが出来るからです。知ってました?OSHO曰く、「希望とは、今ここに不満があるということだ。なぜ、あなたは、今ここに不満があるのだろう?それは過去に希望したからだ。あなたは、あまりにも不満があり、未来に何らかの希望を取り寄せる必要がある。希望を持つことで現在は、何とか耐えられる。」つまり、希望があるから不満があるのであり、不満があるから希望があるのです。不満がなくなれば、希望もなくなります。希望は、辛い現在を生き抜くための鎮痛剤です。だから、希望を持て!「敵が攻めてきた!」「木、棒を持て!」(笑)冗談です!がはははは…っ!しかし、不満がなかったら希望もなくなるのです。自分の希望が叶った時の喜びを体験出来るのは、不満があるからなのです。もちろん、逆に、満たされないという思いが湧いて来るのは、希望があるからですが…。がはははは…っ!不満を抱くことは、良くないと思っていませんでしたか?それは偏った考えです。もちろん、ご存知のように、不満にはマイナス面があります。しかし、プラス面もあるのです。どんなことにも、プラス面とマイナス面の両方が均等にあるのです。だから、「不満を抱くことは良くない」という考えは、ニュートラルではありません。もし、不満がなかったら、進化向上もないのです。もし、不満がなかったら、「感謝」もなくなるのです。なぜなら、不満と感謝は同じエネルギーの表と裏の関係だからです。不満がなかったら、日常の会話から「ありがとう」の言葉もなくなるのです。今まで不満に消えてほしいと思っていませんでしたか?それならば、感謝にも消えてもらわなければならないのです。不満がなくなれば、感謝もなくなり、日常から感動もなくなるのです。気がつかなったでしょ(笑)がはははは…っ!どんなものにも、メリットとデメリットの両方があります。しかし、不満のデメリットだけが強調されているために、不満を悪とみなしてしまっているのです。本当は、どんな感情を抱いても、問題はないのです。ただ、ブッダが指摘するように、「偏る」と問題が生じるだけなのです。「偏り」これが苦しみの原因です。なぜなら、宇宙はバランスであり、調和だからです。だから、どちらかに偏ることは宇宙を敵にまわしたことになり、苦しむよになっているのです。つまり、苦しみとは、「あなたはバランスを崩していますよ!」との合図なのです。がはははは…っ!マイナスに偏っても苦しみますが、プラスに偏っても苦しむのです。だから、プラス感情である「感謝」に偏っても苦しくなります。というのも、感謝出来ないような事もムリヤリ感謝しようとするからです。そして、口では「ありがとう」と言いながらも、内心では不満を感じている自分を責め始めるのです。こう言われると、「感謝」は絶対的なものと教わってきた人には納得いかないと思いますが…。しかし、事実なので断言します。がはははは…っ!また、不満に偏っても当然、苦しみます。「このままではいけない」という段階の不満は、進化向上へと導いてくれますが、さらに「このままではいけない」という思いが発展すると、自己否定や自己嫌悪感になります。そんな状態で向上心など湧くはずがありません。そして、物事がうまく進まない自分を責め始めるのです。やがて、不満は怒りに変換し、イライラするようになります。そして、自暴自棄になり、爆発するのです。覚えておいて下さい。抑圧した感情は、最後は怒りに変換されてしまうのです。蓄積した感情は、いずれ怒りとなって爆発します。すると、周囲と不調和になり、孤立してしまうのです。そういう人いるでしょ?がはははは…っ!えっ、笑えない?ははははっ!人の苦しみの根源は、自分の思いが思い通りにならないことです。自分の願望が実現しない人の多くは、内側に蓄積したマイナス感情を放置しているからです。内側にマイナス感情が充満しているため、内側がマイナスに支配されています。だから、自分のプラスの思い(願望)にパワーがありません。内側がマイナスパワーに偏っているのです。内側が否定的感情で一杯の時に思考を使うと、思考はマイナスの方向に拡散していくことを覚えておいて下さい。内側が否定的な感情で一杯の時は、思考で解決しようとしても無駄です。自分の願望を達成したいのなら、内側を清めることです。すると、思いのパワーが調和され、本当の自分の願望が達成するように出来事が起きて来ます。願望には、エゴの願望と魂の願望があります。内側を清めれば、魂の願望が実現します。イエス・キリスト曰く、「内側を清めれば、外側は自動的に清まる」だから、内側を清めると、外側が変化して出来事が起きてきます。すると、「あっ、私はこれがやりたかったんだ!」と後から実感するのです。それは魂の願望だったのです。覚えておいて下さい。「出来事は起きてくるもの」なのです。がはははは…っ!内側を清める方法は、たくさんあります。例えば、絵を書くことは心を浄化するには最適です。というのも、絵を書くと、内側にあるものが自然と外側に表現されるからです。内側のエネルギーが外側に表現すれば、内側のエネルギーブロックは消えるのです。詩や絵、武道やダンスなど、自分に合う表現方法で内側を清めればいいのです。武道は特に良いです!「あっ、武道館出る人がぶどう噛んでる」(笑)わはははは…っ!技法は人によって合う合わないがあります。だから、自分に合う行法に出会うまで、色々な技法を試して下さい。自分を救ってくれるのは、話ではなく行法です。いくら真理の話を聞いても救われません。中村天風先生が未だに多くの人を救っているのは、「心身統一法」という行法を教えてくれたからです。知識だけでは人は救われません。むしろ、知識を得れば得るほど頭が混乱します。だから、孔子はこう言ったのです。「学べば学ぶほど苦しむ」がはははは…っ!知識を多くつけると、どれが正しい知識なのか迷い始めます。自分が信じていたことが、時々、「あれ、私の信じていたことは間違っていたのかもしれない」という疑問が湧いて来るのは、そのためです。経験あるでしょ?がはははは…っ!「知識を得ようとする人」から「技法を行ずる人」への時期がどんな人にもやって来きます。知識で混乱し始めた時が、その時期です。私は、ここ数年、まったく本を読まなくなりました。知識ではなく、行法に専念しているからです。がはははは…っ!しかし、技法を行っている人には、知識は役に立ちます。技法を行っている人には、理解は助けになります。知識だけで行法を行わない人には、知識は混乱の元です。「知行合一」という言葉の通り、知識と行法の両方が必要です。最後に、ヨガの聖者パラマハンサ・ヨガナンダの言葉を贈ります。「真理の教えも、それを実行しなければ、その素晴らしさはわかりません。偉大な聖者や預言者たちの教えは、実行しなければ無意味です。」今日の話はこれで終わりです
2015年03月24日
みなさん、こんにちはこの世界は2極の世界です。ですから、必ず正反対ものが存在します。しかし、正反対のものは相反する存在ではなく、1つとして存在しているのです。例えば、怒りと慈悲。怒りと慈悲は表裏一体です。ですから、散々、怒り散らした後は、慈悲の念が湧いてきます。また、慈悲をかけた後は、怒りが湧いてきます。「あんなに面倒を見てやったのに、あいつの態度は何だ!」ははははっ!「誰かのために」という気持ちは、やがて反対に作用して必ず憎くなります。経験あるでしょ?がはははは…っ!笑いと涙も表裏一体です。だから、笑いの後には涙がやってきます。また、涙の後には笑いがやってきます。イエス・キリストが、「泣いている者は幸いである。やがて、笑いに満ちるだろう」と言ったのもそのためです。分かりました?「イエス!」わはははは…っ!どんな人も生きていると必ず問題が起きてきます。なぜなら、生きているということは動いているということだからです。笑う日があれば悲しみ日があり、怒る日があれば慈悲に満ちた日があります。エネルギーは、常に反対へ動いているからです。だから、生きている以上、必ず、問題は起きてくるのです。しかし、最初にも言った通り、正反対のものは1つとして存在しています。つまり、「問題」と「解決」は表裏一体なのです。すなわち、「問題」が起きた時点で、すでに「解決」しているのです。「どんなもんだい!」(笑)がはははは…っ!「問題」は「解決」から1秒も離れて存在することはできないのです。ただ、解決するまでの時間が人によって違うだけなのです。その違いは内側に対処するか外側に対処するかによって、違ってきます。ほとんどの人は、問題が起きると外側に向かって解決しようとします。現実は外側にあると思っているからです。しかし、現実というのは外側にあるのではなく、内側にあるのです。自分の内側の投影が外側なのです。つまり、自分の見ているもの、聞いているもの、それは自分の心が現象化したものなのです。だから、何か問題が起きたら、まず、内側に対処するのです。問題が起きた時に辛いのは、問題が起きたからではないのです。問題を解決しようとして、外側にできるだけの対処をしたにもかかわらず、一向に解決の兆しが見えないからなのです。つまり、「解決しよう」という思いが思い通りにならないから辛いのです。ブッダが指摘したように、人の苦しみの根源は「思い通りにならない」ことが原因です。問題を早く解決しようとする思いが苦しみの原因です。「早く問題を解決しよう」という思いがなくなると、苦しみもなくなります。問題を解決しようとする(外側)のではなく、今の自分の感情を体験する(内側)ことに意識を向けてみてください。津留晃一さんは言っています。「私はこれまで結果を出すことを目的としてきたが、これからは体験を目的としよう。 ”その過程を体験する” これこそが初めの目的(生まれる前の目的)であったにもかかわらず、”結果を出す”ことを 目的としてしまっていた。 これこそが苦しみの源であった。 起きてくることこそ私が体験したかったことなのだ! こう思えるようになって以来、私の世界から思い通りでないことが消えてしまいました。」わはははは…っ!起きてくることを体験する。これこそが問題解決の近道です。なぜなら、問題と解決は一体だからです。だから、問題が起きた以上、必ず、解決します(消えていきます)。すなわち、自分に解決できる問題しか人生に起こらないようになっているのです。残念!あはははは…っ!先日、リストラをされた男性から相談を受けました。そこで、「問題が起きた以上、必ず、解決するから、内側を体験してください」とアドバイスしました。そして、「爆破による浄化法」を勧めました。※「爆破による浄化法」はこちら↓http://plaza.rakuten.co.jp/newtral343/diary/200908020000/その男性は余ほど悔しかったのでしょう。「爆破による浄化法」を3週間、実践しました。すると、ベストなタイミングで自分の条件に合った仕事に転職しました。内側を浄化した結果、外側が変化したのです。イエス・キリスト曰く、「まず内側を清めなさい!そうすれば、外側は自ずと清まるだろう!」わはははは…っ!「問題と解決は一体だから、人生に起こる問題は必ず解決する」そのことを忘れないでください。今日の話はこれで終わりです
2015年02月03日
みなさん、こんにちは!人生は「選択」の連続です。人は常に、何かを選んで生きています。何も選択しないで生きるなんて不可能なんです。こう言うと、「いや、全てを人に任せて、自分は何も選択しなかったことがあるよ!」と、言う人が必ずいます。しかし、それは「人に全てを任せる」という選択をしたんです。はははははっ!どんな人も生きている以上、何かを選択しているんです。つまり、人は選択をしないと生きていけないのです。「確かに、汚れてしまいます」「それは洗濯」(笑)はははははっ!人生は「選択」の連続です。実は、この「選択」は、生まれる前からしていることなんです。この世に生きている時だけ、選択をするのではありません。生まれる前もしているのです。そして、死んだ後も選択をしているんです。生まれる前は、どの国に生まれ、どの両親にするか、そして、性別、容姿、名前を選ぶんです。ヨガの聖者・パラマハンサ・ヨガナンダは、こう言っています。「人がある家族的、社会的、国家的環境の中に生まれて来るのは、偶然ではなく、前世の行為によって、自ら選んでそこへ生まれて来るのです。」がはははは…っ!一般に、子供に名前をつけているのは親だと思っています。本当は、お腹にいる胎児が親に想念を送って、親に名前をつけさせているんです。名前を選んでいるのも親ではなく子供自身なんです。まだ口をきけない子供は、想念を親に送り続けることよって、親に名前をつけさせているんです。だから、名前を見れば、今回の自分の人生のテーマが分かるんです。親が名前をつけているんじゃないからです。「おやおや」(笑)がはははは…っ!死んだ後は、自分の人生を振り返り、次の生で何をするか自分で決めるんです。つまり、生きているとは、「選択」することなんです。何をするにせよ、まず、選択をしなければならないのです。「今日は何もしない」という人は、「何もしない」ということを選択したのです。がはははは…っ!人は、選択なしには生きられないのです。しかし、何の迷いもなくスムーズに何でも選択出来るわけではありません。選択するのに、迷うことがあります。例えば、こんな経験ありません?「今の仕事をこのまま続けた方が良いのか?それとも転職した方が良いのか?」「この人と結婚するべきなのか?それともしない方が良いのか?」「カツ丼にしようか?それともカレーにしようか?」(笑)がはははは…っ!迷うのは、「間違った選択をして失敗したらどうしよう」という恐れがあるからです。しかし、本当は、どちらを選んだにせよ、ベストな選択なのです。津留晃一さんも言っています。「右を選んだら右の体験があり、左を選んだら左の体験があるだけです。 その左右の体験に、良いも悪いもありません。」でも、後から「やっぱりあっちにしておけば良かった!」と感じることはありますよね!それは間違った選択をしたのではなく、その時はその選択をした方が自分にとってベストだったから、それを選んだのです。いや、選んだというより「内なる自分」に選ばされたと言った方が妥当かもしれません。その証拠に、後から「あっちにしておけば良かった」と感じるまでに、色々な感情を体験したはずです。その感情を体験するために、それを選択した、いや、選択させられたのです。そして、自分が体験すべき感情を体験し終わったから、後から「あっちにしておけば良かった」と感じるのです。わはははは…っ!自我は、もう一方を選んだらどうなるのかは体験をしていないから、もう一つの選択の方が良く思えてしまうのです。「隣の芝生は青く見える」ものです。津留晃一さんは言っています。「右の道を体験し尽くした人は、その体験による学びが終わり、次は自ずと左の体験を望むようになってきます。」はははははっ!本当は自分の選択に、間違いなんてないのです。「全ては、自分がしたい体験をするために、それを選ばざるを得なかった。つまり、他に選択の余地はなかった」というのが本当なんです。あっ、ここで言っている自分とは、「内なる自分」のことです。大きく分けると、自分には2人いるんです。えぇぇぇ~~~っ!はははははっ!1つは、今、自分と認識している自分です。今、自分と認識している自分は自我です。自我には「私」という感覚があります。もう一人は、内なる生命の自分です。生命の自分には、「私」という感覚がありません。感覚がないがゆえに、自分の中にもう一人自分いるなんて知らない。だから、「自分とは2人で構成している」なんて理解出来ません。だからこそ、中村天風先生は「安定打坐法」という坐禅を重視していたのです。「安定打坐法」は、誰でも「無(内なる自分)」を体験出来る方法です。思考が無くなった時、自分の肉体感覚はありません。また、思考が無くなった時、自我(心)もなくなります。肉体感覚や自我がないのに、それでも自分は「在る」のです。つまり、自分は肉体も自我でもないということになります。ただ在る人こそ、内なる自分であり、生命なのです。内なる自分を安定打坐で体験すればするほど、「全ては、この人がしたい体験をしているんだなぁ」という実感が湧いて来ます。だからこそ、「安定打坐」は、内なる自分を体験する秘法中の秘法と、天風先生は言っているのです。安定打坐法を体験したい方は、ありがとう仙人の合気道道場に来てください。がはははは…っ!OSHO曰く、「“自分は肉体ではない”と知ることは、すばらしい巡礼の始まりになる。そして、“自分は肉体でも思考でもない”と知ることが次のステップになる。そして最終的に“自分は肉体でも思考でも、感情ですらない”と知ることが、最後のステップだ。この3つのステップで旅路は終わる。なぜなら、4つ目のステップで、人は自分の存在を見つけるからだ。」はははははっ!全ては内なる自分が体験したいことをするために、自我に選ばせているんです。肉体や自我は、この現象世界を生きるために、内なる生命によって作られた道具なのです。中村天風先生曰く、「身(肉体)といい、心と称するものは、真我の命が現象世界に生きゆくための一切方便を 行わんがための命の要具なり。」がはははは…っ!どんな人もこういう体験をしているのです。「あの時に、こっちを選んだお陰で、今の自分があるんだよなぁ~!」あるでしょ?その時は「最悪な選択をした」と感じていたことが、後になって、「あの選択はベストだった」と感じる体験。それこそ、自我ではなく、もう一人の自分が選択した証拠です。だって、自分(自我)では最悪だと思っていたのに違ったのですから!OSHO曰く、「何が起こっても、それでいい。 内なる存在が道を誤ることはあり得ない。 内なる存在が私(自我)の望みを実現しないとしても、 それはただ、私(自我)の望みが間違っていたことを意味するだけだ。」はははははっ!でも、どちらを選んだ方が良いのか迷うのは、苦しいですよね。何かを選ぶ時に、「基準」みたいなものが欲しいですよね。そうすれば、苦しむことなく決められますから。そこで、選択に迷った時の基準みたいなものを紹介したいと思います。どちらにしたら良いか迷った時の参考にして下さい。がはははは…っ!どちらを選んだらいいのか、迷った時は、こうして下さい。「ハート(胸の中央)の感覚を感じてみる」どうして迷うのかというと、「頭」で考えているからです。頭で考えて決定出来ないから悩んでいるのです。ですから、「頭」で考えるのではなく、「感覚」に従うのです。もし、「こっちにしよう!」と決めた時、ハートがキュッと収縮した感覚があるなら、それは止めた方がいいでしょう!内なる自分が嫌がっている感覚だからです。もし、ハートが広がる感覚がしたなら、そっちを選んだらいいでしょう!それは、内なる自分が喜んでいる感覚だからです。OSHO曰く、「選択に迫られたときは、決してハートを差しおいてマインド(頭)を選択してはならない。 ハートとは、存在(内なる生命)とあなたとの関係性だ。 マインドとは、社会とあなたとの関係性だ。 ハートが悲しければ、あなたは間違っている。 喜びに溢れているなら、あなたは正しい。」ははははははっ!こう言うと、「でも、結局、最後は内なる自分が選びたい方を選択するんですよね?」と、言う人がいます。そうなんです。が、頭で考えていると、決定するまでに、迷い苦しみます。苦しんだ挙句、選ぶのです。また、頭で選ぶと、自分(自我)が選んだと思い込みます。だから、少しでも、自分の期待とは異なった結果が起こると、「しまった!あっちを選んでおけばよかった!」と自分を責め、後悔します。ところが、ハートの感覚で決めると、たとえ良い結果が起こらなくても、「内なる自分が選んだことだ!必ず、最後は自分の為になる結果が起こるにちがいない。 今は、それまでのプロセスにすぎないのだ」と安心します。だから、起きてくることに身を委ね、「今、自分が出来ることを誠心誠意する」ことに意識が向かうのです。「頭」で選んで良い結果が起こらなかったら、意識は「過去」か「未来」に向かい、「今」に生きることはできません。なぜなら、「やっぱりあっちを選べば良かった」(過去)、「これからどうしたらいいのだろう?」(未来)、という考えに捕らわれるからです。ハートの感覚に従うというのは、あくまでも、「今に生きる」ための、ひとつの方法なのです。最後に、聖者・ラメッシの言葉です。「自由が起こるのは、“私は自分自身の意志によって自分の人生を生きている”という愚かな観念と傲慢が 落ちるときです。」今日の話はこれで終わりです。ご清聴、ありがとうございました。
2015年01月12日
みなさん、こんにちは多くの人が、自分の繁栄と全盛を目指して努力しています。すなわち、名誉、地位、名声、お金を得て自分の人生を輝かしいものにしようとしています。自分がやりたいことをやればそれで良いので、そのこと自体は何の問題もありません。しかし、いくら努力しても、全員が名誉や地位、名声、お金を得ることはできません。「わかったカネ?」(笑)はははははっ!名誉、地位、名声、お金を得ることができなかった人は、自分の運命を嘆き始めます。また、他人の人生に嫉妬します。そうでしょ?しかし、本当はどんな人の幸・不幸も同じなのです。「どんな人の幸・不幸も同じ」といのうは、その内容ではなく、人生で体験するエネルギー量のことです。ある人は、全盛を迎えて大きな幸を得ます。しかし、この世は二極の世界ですから、全盛があるということは必ず衰退があるということです。すなわち、全盛時代に体験した大きな喜びと同じ量だけ不幸を体験するのです。今、どん底状態ある人は、その量と同じだけの喜びを体験します。というのも、「どん底」があるということは「頂点」があるということだからです。だから、イエス・キリストはこう言ったのです。「今、泣いている者は幸いである。やがて、あなたは笑うようになるだろう。」あはははは…っ!全盛もなければどん底もなく淡々として生きている人は、大きな喜びがない代わりに大きな嘆きもありません。適度な幸・不幸を繰り返しながら人生を終えます。どんな人も、人生で感じる幸・不幸は同じなのです。だから、全盛を迎えている人を羨ましく思う必要もなければ、どん底にいる自分を嘆く必要もないのです。また、全盛もどん底もない自分を責める必要もありません。総計は同じなのですから!普通に生きていれば、総計は同じなのですが、自分の心で喜びを多くすることは出来ます。というのも、出来事はニュートラルだからです。そのニュートラルに自分がどう思うかだけです。シェイクスピア曰く、「この世には幸も不幸もない。自分の心でどうにでもなる。」哲人・中村天風先生は、「人生は心1つの置きどころ」と言っています。つまり、自分の心が出来事の意味を決めるんです。こういう話があります。ブッダの十大弟子の一人にプルナカシャパという者がいました。プルナカシャパは、弟子になる前は商人でした。このプルナカシャパは、ブッダの教えを忠実に実践し、悟りを開いた一人です。ブッダは、悟りを得た者は自分の側から離れて、布教することを勧めていました。弟子たちは、誰もブッダの側を離れたくないので、自分が悟ったことを隠していました。が、ブッダにはすべてお見通しです。とうとうプルナカシャパは、ブッダに呼ばれました。「プルナカシャパよ! お前はもう悟りを得ているのだから、私のもとを離れなければいけない。どこかに行って、苦しんでいる人の手助けをしなさい。」プルナカシャパも、諦めて布教に行くことを決心しました。「ブッダさま、わかりました。そのようにします。」「で、お前はどこの国に行くつもりなのだ?」「はい、スナーパラン国に行こうと思っています。」「スナーパラン国? それはダメだ! あそこには行ってはいけない。」「なぜですか?」「スナーパラン国は治安が悪い。インドの中でも最も治安の悪い国だ。あそこの国の人々は、乱暴で性悪だ。あそこはやめて別な国へ行きなさい。」「いえ、ブッダさま。そういう人々にこそ、あなたの教えが必要なのです。ブッダさまがいつも仰っているではありませんか! 医者を必要としているのは病人であって健康者ではない。それと同じで、私の教えを必要としているのは、苦しんでいる人であって快楽に溺れて遊んでいる者ではない、と。」「わかった。ただし、そこへ行く前にいくつか質問するから、その答えを聞いてから決めよう!」「わかりました。」「では、質問だ! もし、お前がそこへ行って説法したとき、人々から罵られ、バカにされたらどうする?」「はい、私はその者たちを愛おしく思います。」「なぜだ?」「はい、本来乱暴な性格なのに、殴ったり、蹴ったりしなかったのですから。 私はその者たちに感謝するでしょう。」「では、その者たちに殴られ、蹴られたらどうする?」「はい、私はその者たちを愛おしく思います。」「なぜだ?」「はい、本来乱暴な性格なのに、素手で攻撃してくれたのですから。 私はその者たちに感謝するでしょう。」「では、石を投げられ、棒で叩かれたらどうする?」「はい、私はその者たちを愛おしく思います。」「なぜだ?」「はい、本来乱暴な性格なのに、刃物を使わずに攻撃してくれたのですから。 私はその者たちに感謝するでしょう。」「では、刀で殺してきたらどうする?」「はい、私はその者たちを愛おしく思います。」「なぜだ?」「はい、死ぬということは、この苦しみの世界から安らぎの世界へ戻っていい ということだからです。私は解放されるのです。 私はその者たちに感謝するでしょう。そして、そのことを悟らせてくれたブッダさまに 感謝するでしょう。」「わかった! プルナカシャパよ! お前はスナーパラン国へ行くがいい。 お前がいるところは、どんな環境であろうともすべて天国だ。」まさに、「人生は心1つの置きどころ」という典型的な話です。当時のインドでは、カースト制度による差別、殺人、強盗、強奪など、相変わらず起こっているにもかかわらず、ブッダとその弟子たちは天国として生きたのです。がはははは…っ!しかし、多くの人はひとかどの人間になりたがります。何ででしょう?つまるところ、名誉や地位、お金を得て、多くの人々を服従させたいからです。インドのマスターOSHO曰く、「エゴが喜ぶのは、誰かを自分の配下に従えるとき、”私はあなたより上だ、あなたより偉い”と言えるときだけだ。 知性ある人は、他者を支配することには興味がない。 その人の第1の興味は自分自身を知ることだ。」がははは…っ!誰もが他者から認められることを望んでいます。というのも、他者から認められてはじめて自分は存在している価値があると教え込まれてきたからです。だから、他者から認められれば喜びが得られると誤解してしまったのです。他者から認められれば喜び、他者からけなされれば落ち込む。これでは他人の奴隷です。自分自身を知らないから、他人の評判、すなわち、他人のアンケートを通して自分を知ろうとしてしまうのです。あなたは他人の評判が気になるでしょ?わはははは…っ!他人から認められることにはあまり意味がありません。あなたの喜びは自分の創造的な時間を楽しむことにあるのです。OSHO曰く、「仕事をするのは自分が認められるためではなく、自分が創造的になることを楽しむためであるべきだ。 仕事そのものが喜びであるべきだ。 あなたの満足は仕事そのものにあるべきだ。 喜びとは何かを成し遂げることにあるのではない。 喜びとは、あなたがそれを望み、それをしている間、すべてを、全世界を忘れていたことにある。 それはあなたの全存在の唯一の焦点になっていた。 そこにあなたの至福と報酬がある。」がははははは…っ!多くの人は常に外側を見て判断します。「私が怒っているのは誰のせいか?」「私が不幸なのは誰のせいか?」「私が悲しんでいるのは誰のせいか?」「私が貧乏なのは誰のせいか?」しかし、全ての原因は自分の内側にあります。まず、自分の内側にある創造性を発揮してください。それは、絵や書、武道、料理、踊り、なんでも構いません。「オードーリーと踊りぃ~」(笑)がはははは…っ!自分に合ったもので自分の創造性を発揮してみてください。OSHO曰く、「どんな創造的な仕事も、内なる成長に役に立つ。」人生は1回限りであり、人の幸・不幸は同じです。だとしたら、自分にできることは、自分の内なる成長に役に立つことを今するだけです。「今」を体験することは、「過去」と「未来」を体験することになるのです。というのも、「今」に過去と未来が含有しているからです。創造的な人生を今日から歩みましょう!今日の話はこれで終わりです
2014年12月07日
みなさん、こんにちは!どうして私は、生まれて来たのだろう?人間は何のために生きているのだろう?誰もが一度は疑問に思ったことがある謎です。しかし、この疑問に答えてくれる人は、ほとんどいません。それもそのはずです。この疑問は、知識では得られないからです。この疑問の答えは、宇宙と一体化する(悟りを開く)ことによってのみ、得られるものなのです。わはははは…っ!では、人間の使命とは何なのでしょうか?悟人・中村天風先生は、人間の使命について、こう断言しています。「人間は、この世に病むために生まれてきたのでもなければ、また煩悶や苦労をするために生まれてきたのでもない。否、もっと重大な使命を遂行するために生まれてきたのである。その大使命とは何かというと、「宇宙原則に即応して、この世の中の進化と向上とを現実化することに努力する」ということである。すなわち、人間はこういう尊い大使命を遂行するために現象界に生まれてきたものなのである。」がはははは…っ!つまり、人間として生まれたあなたの使命は、世の中の進化と向上を現実化するためなのです。インドのマスター・OSHOは言っています。「かつて地上に現れたマスターたちは、自分が生まれる前よりもほんの少しばかり 世の中を良くして(向上させて)去っていった。」では、世の中の進化と向上を現実化するとは、どういうことでしょうか?この世界には、海・川・山などのように宇宙が創造した物と、家や車・飛行機などのような人間が創造した物しかありません。つまり、人間は、宇宙と共に、この世界を進化向上するための創造活動をする使命が与えられているのです。会社員は、仕事を通して創造活動をし、芸術家は作品を通して創造活動をし、スポーツ選手はプレーを通して創造活動をし、主婦は家事を通して創造活動をしています。「家事をするのがそんなにおかじ~か?」(笑)わはははは…っ!どんな人も、人間である以上、創造活動をしているのです。つまり、あなたの使命は、少しばかり自分の周囲を良くすることなのです。あなたの愛で家庭や職場をほんの少しでいいですから良くしてこの世を去ってください。それがあなたの使命です。周囲を少し良くできるのは、人間として生まれたあなただけなのです。どんな人も人間に生まれた以上、創造活動をしていますが、本当の創造活動をしている人は、ごく少数です。本当の創造活動とは、何だと思います?それは「自己実現」です。自己実現を成就することこそ、宇宙の進化と向上を現実化する道なのです。自己実現を成就するには、坐禅や瞑想などの修練が必要になります。(もっとも、最終的には、その修練を手放すことによって、自己実現が成就するのですが…)修練は、自己の中心を定める鍛練でもあるのです。しかし、修練は健康なときに必要とされるものです。実際、健康でないと、修練は出来ません。修練は健康なうちにやっておくべき人生の大仕事であり、人生最大の創造活動なのです。死がやって来た際、自分の人生を振り返った時、必ず、こう感じるはずです。「私はお金や地位、名誉のために生きていた。なんて無駄なことに人生を費やしてしまったんだ! 自己実現に費やした時間だけが本当に価値のある時間だった!」あなたの人生は、1回しかないのです。仮に来世で生まれて来たにせよ、今のあなたではないのです。つまり、人生は1回限りです。その人生を自己実現のために時間を費やす人は少ないようです。ほとんどの人は、お金を得ることに大半を過ごしています。「わかったカネ?」(笑)「ま~ね~!」(笑)がははははは…っ!しかし、自己実現に費やした時間こそ、宇宙の進化と向上を現実化する道であり、人間の使命なのです。それが、世の中をあなたが生まれる前よりも少しばかり良くしていくことになるのです。というのも、自己実現した人は、永遠に愛を放射するからです。その証拠に、イエス・キリストやブッダ、中村天風先生の教えは、今も現代人の心を救済しています。今の環境で今できることを精一杯やってください。あなたの愛で周囲をあなたの生まれる前よりも少し良くしてください。それが人間の使命なのですから!今日の話はこれで終わりです。
2014年10月20日
みなさん、こんにちは!この世界は、常に2つに分かれています。プラスとマイナス、男と女、生と死、右と左など、反対の存在が必ずあります。そして、ほとんどの人が、反対の存在を対立したものだと思っているようです。しかし、本当は、これらの両極は、対立しているのではなく、1つとして存在しているのです。つまり、1つのものが2つに分かれて存在しているのです。その証拠に、反対の極に惹きつけられますよね?多くの人がプラス思考に惹きつけられるのは、マイナス思考の極にいるからです。反対に、プラス思考の極にいる人は、マイナス感情を平気で出す人に惹きつけられます。しかし、マイナス思考は良くないという価値観を握っているので、マイナス思考の人と接すると、相手をとがめてしまいます。「私もマイナス感情を出さないで我慢しているのだから、あなたも我慢するべきだ」というわけです。そうでしょ!わはははは…っ!また、男は女に惹きつけられ、女は男に惹きつけられます。それは、これらの対極は、対立しているのではなく、1つとして存在しているからです。しかし、多くの人は、反対の極を別な存在だと思っています。別な存在だと思っていると対立が生じます。男と女が一緒になると喧嘩が多くなるのはそのためです。ははははっ!反対の極である男と女は互いに惹きつけ合いますから、一緒にいたくなります。しかし、一緒にいる時間が多くなると、今度は、自分の自由を考え、独りになりたがります。そして、独りになると、今度は寂しくなり、再び、一緒にいたくなります。一緒にいると独りに魅力を感じ、独りになると一緒にいることに魅力を感じます。経験あるでしょ?こうして、常に反対の極に惹かれるようになっているのです。わはははは…っ!反対の極に魅力を感じるのは、それらは別々な存在ではなく、1つの存在だからです。しかし、別々な存在だと勘違いしてしまうと、葛藤が生じます。「マスカット食べようかな? どうしようかな?」増す葛藤(笑)わはははは…っ!「加藤が葛藤」(笑)えっ、くどい?わはははは…っ!男は創造的エネルギーであり、女は受容的エネルギーです。このエネルギーがひとつになって初めて、真の創造活動が生まれるのです。どちらか一方では、真の創造活動は生まれないのです。OSHO曰く、「受け取ってくれる相手がいないと、男性の創造性は失われてしまう。その価値を認め、励ましてくれる人がいないからだ。女性は受け取り、励まし、男性が創造性を発揮するのを助けてくれる。一方、男性の創造性は女性の受容性を深めるのを助けてくれる。優れた創造の背後には、いつも霊感を与えてくれる女性の影が見え隠れする。男たちは偉大な創造家ではあったが、女性がいなければ、創造物はたちまち精彩を失いしぼんでしまう。」昔から、「功労の影に女性あり」と言われているのは、そのためです。反対の極は、ひとつの存在であり、完全に対等です。つまり、男性の方が女性よりも優れているわけではありません。完全に対等です。だから、男女差別など論外です。しかし、男と女は対等だからといって、力仕事を女性にやらせたりするのは違います。男女に差別はありませんが、男女の区別はあります。この男女の区別は、相手の存在を認めているからこそできる愛の行為なのです。わはははは…っ!「反対の存在を認める」ここから、ニュートラル思考が始まります。プラスがマイナスよりも優れているわけではありません。どちらも対等な存在です。だから、誰かを怒鳴ってしまったのなら、今度は反対の愛を与えればいいだけです。いつも自分を犠牲にして他人に奉仕している人は、今度は自分に奉仕をしてください。どちらか一方の極に味方することなく、その両方を認めてください。ヨガの聖者・パラマハンサ・ヨガナンダは言っています。「物事の1つの状態はとその反対の状態とは、ちょうど1枚の織物の裏と表のように1体なのです。肉体と心を別々のものと考える人も、この二元的相対の宇宙の明るい面、幸福な面、都合のよい面だけを真実として受け入れようとする人も、ともに、この夢の世界の迷妄の中で熟睡している人だちです。」多くの人は、プラス面だけを受け入れようとしていますが、それは世間に催眠をかけられたからです。「眠れる魂、目覚めよ!」と叫んでいる奥底の自分の声が聞こえませんか?聞こえない人は、心の垢が多く付着しています。そういう人は、まず、カタルシス(浄化)をしてください。そして、瞑想をしてください。「瞑想は、あなたを固定観念という牢獄から外へ連れ出す」ものです。OSHO曰く、「あなたは同じことを繰り返しながら、堂々めぐりし続ける。どこかでその連続性を破らなければならない。どんな瞑想法によっても為されうることはそれだけのことだ。もし、その連続性が破られたら、もしあなたが自分の過去とのつながりを切ったら、まさにその瞬間こそ爆発の瞬間だ。まさに、その瞬間、あなたは中心を得る」プラスに偏ることもなく、マイナスに偏ることもないニュートラル思考になるには、自分の中心を得ることです。知識では自分の中心は得られません。むしろ、知識は苦しみの原因になります。アダムとイブは、苦しみのない生活を送っていました。その楽園は、「エデンの園」と呼ばれていました。しかし、ある時、知識の木の実を食べた途端、エデンの園は楽園ではなく、苦しみの世界に変わりました。「イブがナイーブになった!」(笑)がはははは…っ!なぜ、知識の木の実を食べた途端、世界が変わってしまったのでしょう?一体、彼らに何が起きたのでしょう?OSHO曰く、「知識の木の実を食べた瞬間、マインドが創られたのだ。それが寓話の持つ意味だ。知識の木の実を食べることがマインドを創る。そして、一度マインドが存在すれば、楽園は失われる。自分のシステムからマインドを吐き出すことだ。いったん自分のシステムから知識やマインドを吐き出したてしまったら、突然、あなたは自分が楽園の中にいる事実に気づくだろう。」我々は、今、エデンの園にいます。知識によって、マインドが養われ、マインドによって「罪」の意識が養われました。動物には罪の意識がありません。動物は、ただ在るだけです。だから、動物の無邪気さに人々は癒されるのです。赤ん坊にも罪の意識はありません。だから、赤ん坊の無邪気さに癒されるのです。我々は、マインドによって、「こうあるべきだ」という理想が創り出され、ありのままの自分を受け容れられなくなりました。OSHO曰く、「いったん実現すべき理想を持てば、あなたは決して安心することはなく、決して満足しないだろう。不満は影のように理想に付随する。そして、自分に不満であればあるほど、理想に到達するのはますます不可能になる。」ありのままの自分を受け容れてください。誰かが憎い?まったくもって人間的です。誰かに怒っている?まったくもって人間的です。自分のプラス面とマイナス面の全てを受け容れれば、自己変容はひとりでに起こります。なぜなら、2つの極の対立がなくなり、自分の中心が定まるからです。自分の中心が定まっていない人のことを「自己不在」と言います。すなわち、自他のプラス、マイナスに翻弄されて、自分が居ない状態です。自分の中心を定めるには、知識では不可能です。あなたの心は、知識で一杯だからです。その知識を吐き出してください。そうすれば、自分の変化に驚くでしょう。しかし、自分の中心を定めるには技法が必要です。OSHO曰く、「もし、あなたがもっと深く到達したいのなら、何か別なものに依らなければならない。ヨガ、太極拳、タントラ、合気道などだ。高度な技法が必要だ。ヨガ、太極拳、合気道。何年にも渡る修練が必要だ。」今日の話はこれで終わりです。
2014年08月18日
みなさん、こんにちは!今日は難解と言われている中村天風先生の『真理行修誦句集』の「自己本来内省の悟」について、私の勝手な解釈の続きです。前回の内容は、難しくてよく分からなかったという方が多くいたようですね。しかし、根気よく何度も読み返していると、ふいに分かってきます。それが中村天風先生の『真理行修誦句集』なのです。では、前回からの続きです。多く言うまでもなく、宇宙霊なるものは絶対の実在である。空気から無限に氷を創ることが出来ます。氷は、空気の仮の姿なのです。氷という「固体」は、個別していますが、溶ければ元の空気に帰ります。例えば、氷が自分のことを個体だと思って、別の氷を攻撃したとします。しかし、溶けてみたら、相手は自分であったことを知り、泣いて歯ぎしりするのです。実際に在るのは、たった1つの空気という気体だったのです。それと同じで、実際に在るのは、宇宙霊という気体なのです。「実在」とは、実際に在るものという意味です。人間という肉体(個体)は、いつかは消える存在です。つまり、絶対の実在ではないのです。つまり、宇宙霊という気体こそ絶対の存在なのです。従って、その分派を直接収受せし人間の生命の本来は、また必然絶対であるべきである。氷の中には空気が宿っています。つまり、気体を宿していない固体はありえないのです。気体と固体は一体なのです。同じく、人間という個体には、「宇宙霊」という気体が宿っています。人間という個体は消えても、宇宙霊という気体は永遠です。つまり、人間の生命も絶対なのです。されば、その絶対なる人間の生命に、理由なくして何すれぞ、悲しみ苦しみ、或は恐れというが如き忌まわしきものが、妄りに襲いかかって来る筈がない。何故なれば、そうしたものは真理の上より厳格に論断すれば、何れも人間の心の中に生じる相対的仮相現象であるからである。どんなに、悲しみ苦しみ、怖れにさいなまれていても、真の自分である生命(霊)は、全く傷ついていないのです。生命というエネルギーは、常に平安であり、絶対の静寂であり、絶対の沈黙です。安定打坐で、あの静寂の境地を思い出せば納得できるはずです。どんなに悩みや苦しみ、悲しみ、怖れがあっても、安定打坐でブザーの音が途切れた瞬間、無心になり、その瞬間だけは、悩みや苦しみ、悲しみ、怖れは消え、あるのは静寂だけです。つまり、どんなに悲しみ苦しみ、怖れに襲われていても、真の自分である生命は、常に平安、常に静寂、常に沈黙なのです。悩みや苦しみ、悲しみ、怖れは、生命の道具である心の中にしか存在しないのです。つまり、相対的仮相現象なのです。「相対的」とは、絶対ではないことです。絶対ではないとは、「条件・基準」があって存在するものです。悩みや苦しみ、悲しみ、怖れは、生命が心という道具をまとっている期間にだけ存在するのです。「生命が心という道具をまとっている期間」という条件があって存在するものです。「仮相」とは、一次的な状態という意味です。つまり、相対的仮相現象とは、生命が心という道具をまとっている期間にだけ存在する一次的な状態という意味です。反対に絶対的現象とは、絶対に変化しない状態をいいます。つまり、常に平安、常に静寂、常に沈黙という状態です。だから、天風先生は、「たとえ身に病があっても心まで病ますな!たとえ運命に非なるものがあっても心まで悩ますな!」と言っているのです。真の自分である生命は、どんな状態が襲いかかって来ようとも、びくともしていないのだから、心を混乱する必要はないのです。「我は感覚(肉体)でもなければ、思考でもない。我は静寂(生命)なり」なのです。上江洲義秀先生も、「我、肉体にあらず、感情にあらず、五感にあらず、理性にあらず、我は生命なり」と言ってます。そもそも、相対的なるものは、絶対的なものに断然敵することの出来ないのが厳粛なる宇宙真理である。「相対的」とは、条件や基準があって存在する、という意味です。だから、もし条件や基準が変わってしまえば、事実も変わってしまうのです。ところが、絶対的とは、どんな条件でも決して変化しないのです。例えば、天動説と地動説。(これは津留晃一さんが講演でよく話すことです。)天動説とは、太陽が地球の周りを回っているという説です。地動説とは、地球が太陽の周りを回っているという説です。まったく正反対の説ですが、現在では地動説が正しいとされています。しかし、本当は、どちらも正しいのです。この2つの説は、単なる基準の違いなのです。天動説は、地球を基準にして立てられた説です。地球を静止して説明すると、確かに太陽が地球の周りを回っていることになります。が、実際は地球も動いています。地動説は、太陽を基準にして立てられた説です。太陽を静止して説明すると、確かに地球が太陽の周りを回っていることになります。が、実際は太陽も動いています。基準が変われば、事実も変わるのです。これが「相対的」ということなのです。あの天才学者・アインシュタインが、宇宙を研究する際に、絶対的な基準を探したのですが、見つかりませんでした。何かを証明するには、絶対的な基準がなければ不可能であることをアインシュタインは知っていたのです。宇宙での絶対的基準とは、静止しているものです。が、宇宙で静止しているものはなく、全てが動いていることが分かったのです。そして、アインシュタインは思ったのです。「なんだ! 全ての学説は絶対的ではなく相対的なのだ。自分で基準を設定し、それに基づいて証明しただけなのだ。もし、基準が変われば、その学説は事実ではなくなるのだ。」ゆえに、アインシュタインは、自分の学説を「相対性理論」と名付けたのです。身近な例でいえば、「運動は健康に良い」というのがあります。が、これも絶対的な事実ではありません。運動も「適度」を超えると肉体を痛めることになり、逆効果です。また、体調不良のときに、運動をすると病状が悪化します。つまり、「適度」、「健康時」という条件があって、はじめて「運動は健康に良い」のです。これが相対的な事実なのです。条件が変われば、異なった結論となるのです。しかし、絶対的なものは、どんな条件にも左右されません。ゆえに、「相対的なるものは、絶対的なものに断然敵することが出来ない」のです。今や吾は、いみじくも、この真理を悟り、同時に、この悟りを厳かに信念する。安定打坐で、「絶対不変の静寂」を体験すれば、真の自分である生命は、常に全くの無傷であることが信念できるはずです。従って、私の心は、如何なる場合にも、恒にその「霊」を思い、その「霊」を考え、ひたすらに「霊」を本位として、人生に活き、絶対的なる宇宙霊と同化する尊さを心がける。夏の暑い日(冬の寒い日)、「ああ~、暑い(寒い)、暑い(寒い)!」と感じたとき、一瞬目を閉じて、「静寂の境地」を味わうのです。すると、間もなく、「体は暑い(寒い)が、真の自分はびくともしていない」ことに気がつき、平気にいられるようになります。仕事で疲れて体がだるいとき、一瞬目を閉じて、「静寂の境地」を味わうのです。すると、間もなく、「体は疲れているが、真の自分はびくともしていない」ことに気がつき、平気にいられるようになります。「我は感覚(肉体)でもなければ、思考でもない。我は静寂(生命)なり。」なのです。この「静寂」を「霊」といい、「霊」とはエネルギーであり、生命です。イエス・キリストは、「私は生命である」といいました。イエスは、自分の本性が霊(生命というエネルギー)であることを体得していたので、十字架に貼り付けにされても、「助けてくれ~!」とは言いませんでした。「わが肉体を、霊に委ねます」と言ったのです。肉体は破壊できても、真の自分は不変不滅であることを体得していたのです。心が常に「霊」を思い、考え、不変不滅の霊こそ私である、と人生を生きられたら、どんな環境であろうとも「泰然自若」としていられるようになるのです。かるが故に、私の心の中には、最早一切の邪悪や弱さや卑しさを思考するというが如き消極的なるものは、何としても燃え上がることを許さない。「私は霊(生命)である」という自覚があるときは、消極的な思考は湧いてきません。肉体(感覚)と同化してしまうと、「暑い、寒い、痛い、眠い、だるい」といった感覚に支配されてしまいます。また、心(思考)と同化してしまうと、邪悪や弱さ、卑しさに支配されてしまいます。消極的な思考をストップさせるには、こうすればいいのです。「今から、自分の思考を観察しよう。どういう思いが湧いてくるか見張るぞ!」すると、しばらくの間、思考が止みます。そして、思考が湧いてきますが、そのとき思考と同化せず、思考を「観察する者」になっています。この「観察する者」こそ、絶対静寂の「霊」なのです。感覚も同じです。「今から感覚を感じてみよう」すると、感覚を感じている者と感覚を観察する者の2人が存在しているのがわかります。観察する者の立場にいるとき、思考や感覚と同化していませんから、消極的なるものに支配されないのです。そして、ただ積極的の思考のみを、暗夜を照らす炬火の如く、繚>乱として吾が心の中に輝かそう。私は、「感覚」でもなく、「思考」でもない。私は、不朽不滅の「霊(生命)」である、という自覚を強くすることを心がけるのです。そうすれば、親切、寛容、愛という積極的思考で、心の中が輝くのです。~『中村天風先生と和尚に学ぶ 人間の生き方』より↓~http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/8938今日の話はこれで終わりです!
2014年02月24日
みなさん、こんにちは!今日は難解と言われている中村天風先生の『真理行修誦句集』の「自己本来内省の悟」について、私の勝手な解釈をしてみたいと思います。この『真理行修誦句集』はホント、難解なんです。「難関って何回も言うな!」(笑)がははははは…っ!自己本来内省の悟 ~『真理行修誦句集』(中村天風)より~そもや人の生命の本来は、純一無雑なる「霊」という気体である。然も、その霊なる気体こそは、尊厳なるかな、宇宙創造根本主体でたる宇宙霊という先天の一気の直接分派である。多く言うまでもなく、宇宙霊なるものは絶対の実在である。従って、その分派を直接収受せし人間の生命の本来は、また必然絶対であるべきである。されば、その絶対なる人間の生命に、理由なくして何すれぞ、悲しみ苦しみ、或は恐れというが如き忌まわしきものが、妄りに襲いかかって来る筈がない。何故なれば、そうしたものは真理の上より厳格に論断すれば、何れも人間の心の中に生じる相対的仮相現象であるからである。そもそも、相対的なるものは、絶対的なものに断然敵することの出来ないのが厳粛なる宇宙真理である。今や吾は、いみじくも、この真理を悟り、同時に、この悟りを厳かに信念する。従って、私の心は、如何なる場合にも、恒にその「霊」を思い、その「霊」を考え、ひたすらに「霊」を本位として、人生に活き、絶対的なる宇宙霊と同化する尊さを心がける。かるが故に、私の心の中には、最早一切の邪悪や弱さや卑しさを思考するというが如き消極的なるものは、何としても燃え上がることを許さない。そして、ただ積極的の思考のみを、暗夜を照らす炬火の如く、繚乱として吾が心の中に輝かそう。どうです! 難解でしょ?この誦句に限らず、全てに当てはまることですが、天風先生の誦句の言葉を単なる知識にするだけでは、不十分です。誦句の言葉を瞑想して味わなければ、誦句に書かれている真の意味は理解できないでしょう。OSHOがよく語っていることですが、知識は、自分以外から与えられた情報であり、あくまでも人から教わったものです。瞑想で、その言葉の意味を実感したときにはじめて自分のものになるのです。ですから、天風先生は、誦句について語る時、皆に瞑想をさせていたのです。実感して体得したものは、もはや知識ではなく、知恵です。知恵は、外からの情報ではなく、内からの情報です。しかし、自我(エゴ)は知識を得ることに魅力を感じる癖があります。知識を得ると、それで満足してしまうのです。なぜなら、知らなかったことを知ることによって、自分が偉くなったように感じるからです。しかし、実際は何も知らないのです。哲学者ソクラテスは、「私くらい知識のある者はいない」と自他認めるほどの賢者でした。が、ソクラテスは気づいたのです。「ソクラテスは、またあそこに行ったの?」「そぉ、蔵です」(笑)わはははは…っ!話を戻します。「結局、私は何も知らなかったのだ。単なる知識だけだったのだ。自分が何者なのか? なぜ生まれてきたのか? 死んだらどうなるのか? 私は何も知らない。体験が伴っていない。しかし、私は自分が無知であることは知っている。他の学者は、相変わらず、自分は偉いと思っている。」これが、有名な「無知の知」です。知識を得ることに自我は満足してしまうのです。OSHOの本に、こういう話がありました。ドイツの哲学者フォン・コッヘンバッハ教授が夢を見たのです。一本道を歩いていると、途中で2本の道に分かれている所にたどり着きました。それぞれの道には扉がありました。そして、突然、2つの扉が開きました。1つは「天国への直通の道」と書かれており、もう1つは、「天国についての講演会」と書かれていました。教授は、ためらいもなく「天国についての講演会」と書かれた扉をくぐったのです。これが自我のやることです。天国を体験することよりも、天国についての知識を得ることに関心が向くのです。誦句に限っては、知識を得ることに重点を置くのではなく、実感することに重点を置くことが大切です。ですから、繰り返し誦句を瞑想に活用し、実感が湧くまで続けるしか方法はないのです。では、誦句の言葉に入りましょう。そもや人の生命の本来は、純一無雑なる「霊」という気体である。ほとんどの人は、自分のことを肉体だと思っています。肉体だと思っている証拠に、「暑い・寒い・痛い・疲れた・眠い」という感覚が生じたら、それと同化してしまいます。自分という全体が、そう感じていると思ってしまうのです。しかし、肉体は真の自分ではありません。肉体を火で燃やすとどうなります?火葬を見れば分かりますよね!火葬されると、残るのは骨と灰です。姿形はなくなります。さらに、高温で骨と灰を燃やし続けると、何も残りません。が、なくなったのではないのです。元の素粒子(質量)という塵に戻ったのです。これを「質量保存の法則」といいます。姿形はなくなっても、それを構成していた質量(素粒子)は同じままなのです。単に、形をとっているかいないかの違いです。つまり、肉体は塵が集まって出来たものです。肉体は塵の仮の姿なのです。ブッダ曰く、「肉体は、単に、塵(素粒子)が集積したものに過ぎない。」ブッダは、弟子の誰かが亡くなると、みんなを集合させて火葬をしました。その目的は、「死の瞑想」です。「瞑想する名僧」(笑)はははははっ!そして、ブッダは弟子たちに言います。「よく見るがいい。肉体は消えた。が、消えたのではない。肉体を構成していた塵に 戻っただけなのだ。このように、肉体は幻なのである。」ブッダにこういう話があります。ある男が、ブッダにつばを吐きかけました。ブッダの話の内容が、自分にグサリときたのです。自我(エゴ)は、自分の欠点を指摘されると怒るのです。この男もそうでした。「ブッダさまに、つばを吐くなんて!」お供のアーナンダは怒りました。「おい、貴様! ブッダさまに何てことをするのだ!」すると、ブッダが言いました。「アーナンダよ、やめなさい。この男は、自分の悪行を私に見抜かれて苦しんでいるのだ。喜びの状態で、私につばをかけたと思うか?苦しんでいるから、つばをかけたのだ。この男を憐れんでやりなさい。第一、 肉体はただの塵(素粒子)の集まりだ。死ねば元の塵に戻る。私を構成していた塵は、やがて、地上に積もる。人は、その上を歩くだろう。そして、つばを吐くだろう。だから、大したことはない。」それを聞いた男は、ブッダにひれ伏し、「ブッダさま、お許しください。私は、何てことをしてしまったのだ。こんな慈悲深い人につばをかけるとは…。」肉体に限らず、物質は全て塵(素粒子)から出来ています。肉体だけでは生きられないのです。その証拠に、死体には目があっても見えません。心臓があっても動きません。肉体を生かしているのは、「霊」なのです。「霊」が肉体に宿っているから、肉体を維持できるのです。肉体から「霊」が抜けたら、肉体は腐敗し始めます。肉体だけではなく、物質が、その形態を維持できるのは、「霊」が宿っているからです。鉱物、植物、動物、全てに「霊」は宿っているのです。では、「霊」とは何でしょう?「霊」というと、幽霊を連想してしまいます。が、「霊」とは「生命」の別名なのです。そして、「生命」の別名が、「エネルギー」なのです。つまり、霊=生命=エネルギーなのです。エネルギーは気体です。これが人の本来の姿です。「そもや人の生命の本来は、純一無雑なる「霊」という気体である」とは、そういう意味なのです。OSHO曰く、「あなたはエネルギーにほかならない。濃縮されたエネルギーだ。」肉体も心も、この物質世界を生きるために創られた「霊」の道具なのです。天風先生曰く、「身といい、心と称するものは、真我の生命(霊=エネルギー)が、現象の世界を活きゆくための一切方便を行わんがための生命の要具なれば、ただこれを巧に調整行使して、ひたすら、その性能の完全なる発現を促進せざるべからず」心も体も自分ではなく、「霊」という気体が私のなのです。あなたは気体の世界からやって来たなのです。「気体の世界に行きたい」(笑)はははははっ!OSHOも天風先生と同じことをいっています。「死において、何が起こるだろう? 突然、あなたは自分の肉体、マインド(心)を失っていく。自分自身だと信じているものすべてから離れるのを感じる。死において、あなたはこの事実に遭遇しなければならない。肉体が離れて行こうとしている。マインドがあなたから離れようとしている。あなたは、もうマインドの支配下にはない。」然も、その霊なる気体こそは、尊厳なるかな、宇宙創造根本主体でたる宇宙霊という先天の一気の直接分派である。「宇宙霊」とは、あまりなじみのない言葉だと思います。霊とは、エネルギー、あるいは生命のことですから、宇宙霊とは宇宙エネルギー、宇宙生命といも言います。これが宗教でいうところの「神」です。神というと、全てを取り仕切る人物のようなイメージがあると思います。本当は、姿形がない宇宙エネルギーが「神」なのです。宇宙エネルギーが万象万物を創り、万象万物に宇宙エネルギーが宿っています。つまり、神が万象万物を創り、万象万物に神が宿っています。ということは、自分は、「神」だったのです。現代の覚者・上江洲義秀先生は、言っています。「我は神なり、神は我なり、我と神とは一体なりという境地に至ってもらいたい。」宇宙霊は、この現象世界が誕生する前から気体として存在していました。「天に最初から存在していた気体」、それが「先天の一気」という意味です。宇宙エネルギーは気体です。気体には、個人的というものはなく、全体に遍満しているものです。気体は、自らを分割して、無限に固体を創ることが出来ます。例えば、空気の波動を下げると水という液体になり、さらに波動を下げると氷という固体になります。つまり、空気という気体からの直接分派が氷なのです。それと同じように、宇宙霊という気体の直接分派が人間という固体なのです。(続く)~『中村天風先生と和尚に学ぶ 人間の生き方』より↓~http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/8938
2014年02月04日
みなさん、こんにちは!どんな人も、「満たされていない」という思いを持っていると思います。なぜなら、どんな人も自分の思い通りにいかないことが必ずあるからです。「満たされた」と感じるのは、自分の願望が実現した時だけです。しかし、どんなに自分の願望が実現しても、満足は長続きしません。なぜなら、この世で永続するものはないからです。幸せはもちろん、苦しみも永続しません。次のことを覚えておいてください!「どんな状態も一時的な現象である」わはははは…っ!どんな状態も一次的な現象です。だから、満たされた状態は消え失せ、再び、「満たされていない」という思いがやって来て、あなたをモヤモヤさせます。すでに経験してますよね?人生は、満足と不満の繰り返しなのです。「あんたがたタフマンを飲んでも、あんたがた不満?」(笑)がはははは…っ!「満足と不満」実は、この繰り返しのリズムは、生まれる前に仕込まれたものなんです。「満たされた」という喜びを体験することによって、再び、その喜びを体験しようと創意工夫するのです。また、「満たされていない」と感じることによって、「このままではいけない。なんとかしよう!」という思いが湧いて来るのです。「このままではいけない」という思いによって、現状に満足せず、創意工夫をするのです。そうやって、人は進化するようになっているのです。つまり、満足と不満のリズムは、進化向上させるための起爆剤なのです。がはははは…っ!よく、「希望を持ちなさい」と言う人がいますが、希望を持つには不満がなくては不可能なのです。なぜなら、不満があるから「希望」を抱くことが出来るからです。知ってました?OSHO曰く、「希望とは、今ここに不満があるということだ。なぜ、あなたは、今ここに不満があるのだろう?それは過去に希望したからだ。あなたは、あまりにも不満があり、未来に何らかの希望を取り寄せる必要がある。希望を持つことで現在は、何とか耐えられる。」つまり、希望があるから不満があるのであり、不満があるから希望があるのです。不満がなくなれば、希望もなくなります。希望は、辛い現在を生き抜くための鎮痛剤です。しかし、不満がなかったら希望もなくなるのです。自分の希望が叶った時、喜びを体験出来るのは、不満があるからなのです。もちろん、逆に、満たされないという思いが湧いて来るのは、“こうなりたい”という希望があるからですが…。がはははは…っ!不満を抱くことは、良くないと思っていませんでしたか?それは偏った考えです。もちろん、ご存知のように、不満にはマイナス面があります。しかし、プラス面もあるのです。どんなことにも、プラス面とマイナス面の両方が均等にあるのです。だから、「不満を抱くことは良くない」という考えは、ニュートラルではありません。もし、不満がなかったら、進化向上もないのです。もし、不満がなかったら、「感謝」もなくなるのです。なぜなら、不満と感謝は同じエネルギーの表と裏の関係だからです。不満がなかったら、日常の会話から「ありがとう」の言葉もなくなるのです。今まで不満に消えてほしいと思っていませんでしたか?それならば、感謝にも消えてもらわなければならないのです。不満がなくなれば、感謝もなくなり、日常から感動もなくなるのです。「人生、無感動ではイカンどう!」(笑)がはははは…っ!どんなものにも、メリットとデメリットの両方があります。しかし、不満のデメリットだけが強調されているために、不満を悪とみなしてしまっているのです。本当は、どんな感情を抱いても、問題はないのです。ただ、ブッダが指摘するように、「偏る」と問題が生じるだけなのです。「偏り」これが苦しみの原因です。なぜなら、宇宙はバランスであり、調和だからです。だから、どちらかに偏ることは宇宙を敵にまわしたことになり、苦しむよになっているのです。つまり、苦しみとは、「あなたはバランスを崩していますよ!」との合図なのです。がはははは…っ!マイナスに偏っても苦しみますが、プラスに偏っても苦しむのです。だから、プラス感情である「感謝」に偏っても苦しくなります。というのも、感謝出来ないような事もムリヤリ感謝しようとするからです。そして、口では「ありがとう」と言いながらも、内心では不満を感じている自分を責め始めるのです。こう言われると、「感謝」は絶対的なものと教わってきた人には納得いかないと思いますが…。しかし、事実なので断言します。がはははは…っ!また、不満に偏っても当然、苦しみます。「このままではいけない」という段階の不満は、進化向上へと導いてくれますが、さらに「このままではいけない」という思いが発展すると、自己否定や自己嫌悪感になります。そんな状態で向上心など湧くはずがありません。そして、物事がうまく進まない自分を責め始めるのです。やがて、不満は怒りに変換し、イライラするようになります。そして、自暴自棄になり、爆発するのです。覚えておいて下さい。抑圧した感情は、最後は怒りに変換されてしまうのです。蓄積した感情は、いずれ怒りとなって爆発します。すると、周囲と不調和になり、孤立してしまうのです。そういう人いるでしょ?がはははは…っ!えっ、笑えない?ははははっ!人の苦しみの根源は、自分の思いが思い通りにならないことです。自分の願望が実現しない人の多くは、内側に蓄積したマイナス感情を放置しているからです。内側にマイナス感情が充満しているため、内側がマイナスに支配されています。だから、自分のプラスの思い(願望)にパワーがありません。内側がマイナスパワーに偏っているのです。内側が否定的感情で一杯の時に思考を使うと、思考はマイナスの方向に拡散していくことを覚えておいて下さい。内側が否定的な感情で一杯の時は、思考で解決しようとしても無駄です。自分の願望を達成したいのなら、内側を清めることです。すると、思いのパワーが調和され、本当の自分の願望が達成するように出来事が起きて来ます。願望には、エゴの願望と魂の願望があります。内側を清めれば、魂の願望が実現します。イエス・キリスト曰く、「内側を清めれば、外側は自動的に清まる」だから、内側を清めると、外側が変化して出来事が起きてきます。すると、「あっ、私はこれがやりたかったんだ!」と後から実感するのです。それは魂の願望だったのです。覚えておいて下さい。「出来事は起きてくるもの」なのです。がはははは…っ!内側を清める方法は、たくさんあります。例えば、絵を書くことは心を浄化するには最適です。というのも、絵を書くと、内側にあるものが自然と外側に表現されるからです。内側のエネルギーが外側に表現すれば、内側のエネルギーブロックは消えるのです。詩や絵、物書き、武道やダンスなど、自分に合う表現方法で内側を清めればいいのです。ダンス?「ヨルダンで夜ダンスしよう!」(笑)わはははは…っ!技法は人によって合う合わないがあります。だから、自分に合う行法に出会うまで、色々な技法を試して下さい。自分を救ってくれるのは、話ではなく行法です。いくら真理の話を聞いても救われません。中村天風先生が未だに多くの人を救っているのは、「心身統一法」という行法を教えてくれたからです。知識だけでは人は救われません。むしろ、知識を得れば得るほど頭が混乱します。だから、孔子は言ったのです。「こうしよう!」(笑)あっ、冗談です。がはははは…っ!孔子曰く、「知れば知るほど迷い、学べば学ぶほど苦しむ」知識を多くつけると、どれが正しい知識なのか迷い始めます。自分が信じていたことが、時々、「あれ、私の信じていたことは間違っていたのかもしれない」という疑問が湧いて来るのは、そのためです。経験あるでしょ?がはははは…っ!「知識を得ようとする人」から「技法を行ずる人」への時期がどんな人にもやって来きます。知識で混乱し始めた時が、その時期です。私は、ここ数年、まったく本を読まなくなりました。知識ではなく、行法に専念しているからです。がはははは…っ!しかし、技法を行っている人には、知識は役に立ちます。技法を行っている人には、理解は助けになります。知識だけで行法を行わない人には、知識は混乱の元です。「知行合一」という言葉の通り、知識と行法の両方が必要です。最後に、ヨガの聖者パラマハンサ・ヨガナンダの言葉を贈ります。「真理の書を読む時間をそのまま瞑想に当てれば、あなたは精神的にも霊的にも、もっともっと向上することができます。」がはははは…っ!今日の話はこれで終わりです!
2013年09月08日
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