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「ほら、さくらが咲いているよ」ちがう、よ。あれは うめの花だ。すう、と指を伸ばす前に答える。あれは桜の花じゃない。だいいち、今朝のニュースで桜前線はまだ本州の端っこの方にしか届いていなかったじゃないか。うめとさくらの違いも分からないのかいと笑う。その違いは何であるかを明確に説明することなんて出来やしない。確か、梅のほうが桜よりも先に花をつけ、その色は紅梅と白梅があって。いま、先に見えるあの木に咲く花は濃いピンクであるからきっと紅梅なんだろうね。あれは、うめの、花だ。繰り返して言い聞かせる。「さくらに見えるよ」繰り返してそう言う。うめ さくら うめ さくら口の中で繰り返す。遠くに見える梅の木に花を見つけた。道ばたに立つ裸の木は、桜。あとひと月もしないうちに花をつけるよ。「ほんとう?」さあね。桜のことは詳しくない。でも、確か、桜の木にはたくさん毛虫がいるんだっけか。虫が苦手な人がさくらを見るのは少し危険なことかも知れない。毛虫がうねうねと身体をくねらせて地を這う姿を想像するのは、あまり気持ちの良いものじゃないけれど、きっと来月の今ごろはさくらを見ているんだろう。毛虫を気にしながら、道端に立つ木の下で。桜前線は中国地方あたりにありながら、東京はいまが満開。花見の予定は、無し。
2007.03.28
どうせあなたはすぐに忘れてしまうでしょうね、そう言われたことを今でもはっきりと憶えているというのに、何をすぐ忘れてしまうと言われたのかは思い出せない。そうやって忘れてしまったことを思い出せないままでいると、脳の細胞が少しずつ死んでしまうんだって。大丈夫、それを言われたことは憶えている。「ほんとうに、ちょっとしたことよ」タバコはやめたの、僕がタバコに火を点けて灰皿をアサミとのちょうど間に置くと彼女が言った。火を点けたばかりのタバコを灰皿に押し付けようと手を伸ばしたところで「煙、嫌じゃないから」そう言い、灰皿を僕の方に押しやった。「ちょっと、したことねぇ」「少なくとも」「うん?」「何かの記念日とか、誕生日とか、そういうものでは無いからね」だろうね。自分で言うのもなんだけれど、かなりその辺はマメにやってきた。どんなにベタな手法であろうと、僕は立派に恋人を勤め上げたつもりだったし、彼女を喜ばせたという自負もあった。誕生日に味なんか分かりもしないフレンチ・レストランを予約して、本当に小さなダイヤが付いた指輪を買い、クリスマスには食べきれない癖にホール・ケーキとシャンパン、それから僕にしてみればどうしてこんな値段がするのか分からないバッグを奮発した。1年目の記念日には取ったばかりの免許でレンタカーを借りて温泉街へ旅行もした。本当に嬉しいのは、喜ぶようなことはそういうことじゃない、そう思っていたところで正解を考えるでもなく誰も教えてくれる訳でもなかったから、「どうせあなたはすぐに忘れてしまうでしょうね」そう言った顔を見たときにどうしてか、後悔した。何かしてしまったことについてなら『反省』することも出来たのに、結局本当に心の底から嬉しいということをしてあげられてなかったんじゃないかという『後悔』をした。何かをしてしまったことより、何もしなかったことの方が取り返しがつかないんだって、たぶん、そのとき知って、それを強く感じたのはそれからひと月か、長くてもふた月後の話。2年目のアサミの誕生日には、何かをしてあげることさえ出来なかった。「正解、聞く?」その声で、僕が黙り込んでしまっていたことに気付く。いや、ごめん、思い出そうとしてたんじゃなくて、ぼーっとして。いちどタバコを取り出した後に、気付いてすぐに仕舞う。「いいのに、タバコ」ちょっと困ったように眉をひそめて言われると、逆に吸わないことが申し訳なく感じてタバコに火を点けた。まだ、正解はいいや。「正解を聞いたら、脳細胞が死んでしまうからな」「タバコ吸っても死ぬんだけどね」「え、そうなん」「うん、酸素がじゅうぶんにいかなくなるから、死ぬよ」「じゃあ、もうええか、聞いても」小さく手を挙げて、降参を表す。諦めが早いね、アサミが言って、諦めが良いんだ、と答える。「タバコ、吸ってる姿が好き、って言ったんだけどね」「ああ」「ちょっとしたこと、でしょ」「それなら、憶えてる」「言うまで、忘れてたでしょ」そういうちょっとした仕草とか、そう言えば「ちょっと細めたときの目」とか「伸ばしたときの指の形」っていう身体の一部分とか、彼女はそういうところを褒めてくれたり好きだって言ってくれたりした。指輪やバッグや、フレンチ・レストランのディナーじゃなかった、な。僕がアサミにしてあげれば良かったことは。どうせ僕は忘れてしまっていたのだから、どうせ僕はそのときに気付くことなんて出来なかっただろうし、例えいま時を戻したとしても同じように彼女にしてあげることが出来るのか、ちょっと自信が無いのが嫌だった。吸いたくも無いのにもう一本タバコに火を点けた。精一杯アサミの前でカッコをつけたつもりで、でも残念なことにそれがカッコよく見えたかどうかを知ることは出来なかった。歳上の彼女に負けたって気持ちで一杯になったけれど、そもそも勝ち負け言ってる時点でダメな気がしないでもない。きっとアサミは勝ったなんて思っても居ない。次、会うときまでにちょっとはマシになっとるわ。口には出さずに煙と一緒に飲み込んだ。僕があの頃といまと比べて変わったのは、伝票を手に取るタイミングが自然になったことくらいだった。*****タバコを止めて2ヵ月になるけれど、脳細胞の数は減りつづけてる気はするし、酒の量と体重は増えた。
2007.03.27
休み時間が来ると同時に机の上に突っ伏して考えてることの半分が「どうやって自殺するか」だというツカサは、同年代の女の子より少し長めのスカートから伸びた足をプラプラさせながらステージに腰掛けていた。「残りの半分は?」ドラムスティックでビュンビュンと空気を切る音を聞きながらツカサの方を見ずに訊ねた。暗幕を抱えて慌ただしく走り回る後輩の視線を感じた気もしたけれど、そちらも見ないようにした。「どうやったら世界が滅びるか、ってこと」「ロックだねぇ」半分本気で半分冗談でそう言うと、彼女は僕を睨んだ。卒業式の直後にある軽音楽部のライブを明日に控えた視聴覚室は、仮設ステージ用に運ばれたビールケースと机の余りがまだ乱雑に放り出されていて、ミキサーから伸びたケーブルはむき出しのまま床に伸びている。ステージの上では音響チェックが始まっていて、ディストーションとクリーントーンのカッティングの音がギターアンプから交互に繰り返されていた。3年生が引退して2年生が主役になれるライブなんだってマナブは張り切っていたけれど、助っ人で入った僕にとっては半分はどうでも良かった。ツカサは最後までJUDY AND MARYを唄うことを拒んでいたから、たぶんもっとどうでもいいと思っていると思う。JUDY AND MARYの『クラシック』の歌詞を英語に翻訳して唄うことで、ツカサはやっとマナブとバンドを組むことを了承したらしい。さすがは元・優等生だと思った。中学生の時から彼女を知ってる人間はみんな口を揃えて「変わった」と言う。その中のひとりであるところの僕は、同じバンドメンバーにでもならない限り、たぶん彼女と口をきかないまま来年の3月を迎えた筈だった。元・優等生は高校入学後、少ししてからカート・コバーンを敬愛するようになったらしい。その頃の僕はNIRVANAはSmells Like Teen Spiritしか知らなかったし、彼女はそんなクラスメイトたちのことを知ろうとしなかった。視聴覚室の窓を覆う暗幕の隙間から外を見た。僕らの住んでいた山間の街ではこの時期には梅も花を咲かせない。誰がつけたのか"Spring Has Come!!"と銘打たれたライブの当日は、予報によると雪が降るらしい。春はまだ来ない。「なぁ、別にどうもしなくても世界なんてそのうち滅びるんじゃねぇ?」「そのうち、じゃなくて今すぐに滅びる方法」否定されることを分り切ってる質問をする。そうでもない限り、僕は彼女と会話する術を知らない。彼女は大人になって折合いをつけて窮屈になってしまうこの世界から自分が消えるか、世界のほうを消すかしないと我慢が出来ないんだろう。それくらい僕にだってわかってる。でも、そういう彼女になんて言うのが正解かは、僕は知らない。ドラムスティックをまた振り始める。本番は、明日だから。でも練習してないと不安だとか、緊張してる訳じゃない。バンドのメンバーであること以外、彼女とのつながりを見つけられないから僕はドラムスティックを手放せない。「まぁ、せめて明日のライブまでには滅んで欲しくないけどな」そう言ってステージの上に胡坐をかいて座る。ツカサの隣。その直後にツカサはステージから勢いよく飛び降りて、正面にあるビールケースの上に胡坐をかいて座った。「ん。そうだね。明日、だ」思いの外、ツカサは明日のライブが楽しみなのかもしれない。少し嬉しくなって、でも、そのライブが終わって一度きりのバンドも終わってしまったあとのことを考えると、少しがっかりもした。背中にバスドラのキックの音が響く。ドラムの音響チェックが始まった。後ろを振り向いてステージに並んだ機材やスピーカーを眺める。自分があそこにいてライブをやる姿は想像できなくても、ツカサがステージの真ん中に立って唄う姿は簡単に想像できた。振り返ってツカサを見ると彼女もステージの真ん中を見てた。そして胡坐をかいている足の隙間から、黒い下着が少し見えて「ロックだねぇ」と思った。"Spring Has Come!!"春はまだ少しあと。
2007.03.23
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